↓油を売るのは得意だそうじゃが・・・。

 

平成21年 1月 7日(水)  表紙へ  昨日に戻る

北宋のことでござる。

康粛公・陳堯之さまは弓射の術にかけては

当世無双(当世にならぶもの無し)

といわれた名人であり、公ご自身もそのことを大変誇りに思っておられた。

ある日、公がご自宅の庭(「家圃」)で片肌脱いで弓を引き絞り的を射ておったところ、

有売油翁釈擔而立、睨之。

売油翁、担(にな)えるを釈(と)きて立ち、これを睨む有り。

油売りのじじいが一人、担っていた売り物の油を置いて、(庭の外に)立ってじっと見ているのである。

公ははじめ気にせず弓射を続けていたのであったが、じじいは

久而不去、見其発矢十中八九、但微頷之。

久しくして去らず、その矢を発して十に八九を中するを見るも、ただ微かにこれに頷くのみ。

いつまでもそこを去らず、公が発する矢が十回に八回〜九回も的に当たるのを見ても(感心せず)、少し頷くだけであった。

公、このじじいが気になってきた。

ついに、じじいに、

汝亦知射乎。吾射不亦精乎。

汝また射を知るか。吾が射、また精ならざるか。

おまえも、弓射のことを知っているのかね。(少し頷くだけだというのは)わしの弓射は大したことない、というのかね。

と声をかけたのであった。

するとじじいは言うた。

無他。但手熟耳。

他なし。ただ手熟するのみならん。

特にどうということはござらんが、手馴れておられるだけじゃなあ、と思って見ており申した。

「なんじゃと?」

公はかちんと来たのであった。

「おまえは、わしの弓射を軽んずるのか。ではおまえが射てみるがよい」

と詰め寄ると、翁、笑って曰く、

「あいや、わしは弓射をこととする者ではござらぬが、

以我酌油知之。

我が油を酌むを以てこれを知らん。

わしの油を移し替える技を見てくだされば、わしの言うたことがおわかりいただけると思いますぞ。」

そして、

取一葫蘆置於地、以銭覆其口、徐以杓酌油瀝之、自銭孔入、而銭不湿。

一葫蘆を取りて地に置き、銭を以てその口を覆い、徐(おもむ)ろに杓を以て油を酌みてこれに瀝(したた)らすに、銭の孔より入りて、而かも銭湿れず。

(小分け用の容器である)ひょうたんを一つ取り出して地面に置いて、また銭を一枚取り出して、これをひょうたんの口に蓋のように置いた(ただし、銭には銭刺しにするための穴が開いていますから、銭が蓋のように置かれもその穴の部分だけは開いています)

じじいは次に、おもむろにヒシャクを手にして荷担ぎ用の桶から売り物の油を酌み出し、このヒシャクをかざして、高いところから油を滴らせた。この油、一条の線のようになって銭の穴に吸い込まれるように滴り、すうっとひょうたんの中に入って行くのである。

注ぎ終えた後で銭を見るが、銭には少しも油がついていない。

これは山城・山崎を本拠とした本朝中世の油売りたちも得意とした銭通しの術である。「国盗○物語」の中で若いころの斎藤道三が油売りの行商をしていた際、

「もし一滴でも銭に油がついたら無料にする」

という口上で「とうとうたらりとうたらり」と自ら囃しながらこれを行っていたので、ご存知の方も多かろう(←当HPの読者自体が2人なので絶対数が多いわけではないのですが)

じじいは銭を取り上げて、油がついていないのを公によく見せた上で、

曰、我亦無他、惟手熟爾。

曰く、我もまた他無く、これ手熟するのみ。

言うた。

「わしもまた特にどうということはござらんが、手馴れておるだけでござる」

公、これを聞き、大いに笑って打ち解けた。

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・・・ということである。

これは、北宋の文章家・政治家、あるいは経世家とか「名臣」というべきかも知れませんが、名高い文忠公・欧陽修(字・永叔)「帰田録」に書いてあった。ついでですので、欧陽永叔の著書の中から一節ご紹介しておきましょう。(「周易童子問」

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童子曰く、

「先生、易(益卦・象伝)に曰く、

君子以見善則遷、有過則改。

君子は以て善を見ればすなわち遷(うつ)り、過ちあればすなわち改む。

立派なお方は、より善い方を見つければそちらに移るし、過誤があれば改める。

と。これはどういう意味なのでちょうか」

わしは答えて言う、

湯、孔子、聖人也。皆有過矣。君子与衆人同者、不免乎有過也。其異乎衆人者、過而能改也。

湯・孔子は聖人なり。みな過ち有るなり。君子の衆人と同じものは、過ちあるを免れざるなり。その衆人に異なれるものは、過ちてよく改むるなり。

「殷帝国の初代の王である成湯王、春秋の大賢者・孔子。この方々は聖人である。この方々も過ちを仕出かすことがあったのである。立派なひとは、凡人と同様に過ちを仕出かすものなのじゃ。立派なひとは凡人と違うて過ちに気づけば改めることができるのじゃ。」

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この、童子が質問して「わし」が答える、という著述の「型」はたいへん便利ですね。

ところで上述の油売りの翁、なぜ弓射を見ていたのか。すべて計算づくで陳堯之に近づくためにやったのではないか、とか考えさせられてしまうのは、わたしがひねくれたゲンダイ人のせいであろうか。ゲンダイ人がみんなひねくれているわけではないこと考えると、チュウゴクの史書・筆記小説を読んでいるせいで人格歪んだのかも知れませぬ。それにしても今週はまだまだ長い。

ちなみに仙人の数のこと(一昨日参照)ですが、もう夜が遅くなってしまったのでまた明日にします。

 

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