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平成21年 1月 8日(木)  表紙へ  昨日に戻る

本朝・伊勢のひと橘南谿が天明二年(1782)から三年にかけて西国漫遊の旅に出でた。漫遊というたが、彼の言うところでは「医道修行」のためであった。

この間の見聞を記したのが名高い「西遊記」である。(なお、天明四年より東国漫遊(医道修行)の旅に出ており、この間の見聞を記した「東遊記」とともに「東西遊記」と合わせ称されることが多い)

この「西遊記」にいうに、

南谿が霧島山に至ったとき、

当時霧島山に独りの仙人有り、その名を雲居官蔵(うんご・かんぞう)といふ。

この雲居官蔵@はもと武士で、そのころの名を平瀬甚兵衛というたそうだが、いささかの不平のことがあったとみえて官と禄を捨てて山中に消えてしまい、その後数十年の間消息が知れなかった。ようやく霧島山に住んでいるそうだということを親族に報せる者があり、甥の得能武右衛門という人が霧島山に尋ね入り、数日訪ね歩いてようように見つけ出すことができた。

尋ね当てた叔父・甚兵衛の様子は、

其の形、木の葉の衣に、髪髯おのずからに生い茂り、人の如くには見えず。

というありさま。

武右衛門言葉をかけるにはじめはその声の聞こえざるが如く返事をしなかったが、武右衛門が人里にお戻りになられてはどうかと勧めるに及んで、

――自分はすでに名を改めており、雲居官蔵という者である。遠くからさえひとに見られるのは我が道(みち)の妨げなり。今後はいかなることありとも尋ね来ることなかれ。

と言うて、山中を鳥か何かのように飛び去ってしまった。

爾来、百三十年という。

山中にてたまにひとに見ゆることありといえども、言葉を交わすということは全くない。しかし、その山中を走るように歩く姿は健やかで、以前より年をとったとも若返ったともわからぬ。時に仰ぐような高いところを飛んでいるのを見ることもある。

・・・そうである。

また、肥後の国球磨郡人吉の城下より十里ばかりの奥に、多良木という地があり、ここに吉村専兵衛Aという百姓があった。このひと、年六十ばかりのころ、家業不如意となり、深山の奥に入っていった。

その後、毎年、

冬に至れば里に出て綿入れを一ツづつもらへり。春になり、暖気を得れば、脱ぎ捨てて裸体に成り・・・

という暮らしぶりで、里に出たときにある者が聞いたところ、飲べものは木の実ばかりであるとのことであった。

南谿は球磨に至って(天明三年のことである)ひとに聞いたところでは、山に入って既に四十数年になり、齢は百を大きく過ぎているはずで、この十年ぐらいは里には出て来なくなっていたが、これは術が進んで冬になっても裸体でいられるようになったからであって、今も山中で飛ぶがごとくに歩いている姿をよく見かけるのだ、ということであった。

南谿曰く、

九州に此の二仙人有り。

しかし、山陰山陽の

中国辺(あたり)にてはたえて無き事也。

一方、

京都白川の山中には白幽先生Bありし。

このひとは現在(天明年間)、若狭の山中に移動しているとのことであるが、いずれにせよ西国にはこの三人がいるのであり、

広き天下には種々の異人も多かりき。

ということである。

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以上、橘南谿「東西遊記」より。

この本おもしろい。南谿は伊勢・久居のひとで、本名は宮川春暉、字は恵風という。橘はヨメさんの方の姓で、号して南谿のほか、梅仙ともいう。代々久居の藤堂氏(これは津の藤堂藩の支藩である)に仕えていたが、彼は父が少年時代に卒した後、京都に出て医術を学んだ。ベストセラーとなった「東西遊記」のほか奇話怪談を記した「北窻瑣談」があるが、その他の著書の多くは医術書なので読んでもわかりそうにありません。ただし「解屍運刀法」というのは一度読んでみたいような気もする。

ちなみに、江戸時代の後期のころの人口を三千万人と置きますと、当時、西日本だけで上記@〜Bの三人の仙人がいたわけですから、東日本を合わせると六人いたと推測することができると思います。現在の日本の人口が一億二千万人ですから、・・・おお。我が国には現在、六人の四倍で、二十四人の仙人がいるはず、ということになる。子供にも明らかな計算である。

 

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