薫の自己紹介

このHPは、自分の人生の記録及び長兄の日中戦争による戦死、
第2次大戦の記録として作りました。
時あたかも、日中問題、靖国問題は大きく、
ここに祭られる兄はどう思うでしょうか。

 またPCは不慣れです。疑問点はご指摘ください。



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長兄が戦地に赴くので、もう会えなくなる
かもしれないと写真を写す

薫の幼少の頃の写真

 生まれは「奥津町」だ。
泉小、久泉中、とでる。中学の先生が「成績がよいので町の「津山市」高校へやれ」という。
両親はすでに無く育てていた姉も相当困ったようだ。津山へは下宿しなければならんのだ。
村でも「いい家」の子のすることだった。3年で就職し、バイトもすると言うことで出た。
「町」へ出たかったのだろう。今想えば随分無茶なことで周りには迷惑をかけた。
 其の年津山高校が開校初めて定員割れとなり、津山商業に押し寄せた。どっちでも良いと思っていたら通った。
入試汚職も津山では初めてで「お前は43番で通っている」と従兄の刑事が教えてくれた。
二百五十人の内だからまあまあであった。

 下宿から寮に入った。
寮には、湯原、大原、上斎原、新庄、県北の「裕福」な家庭の子ばかりであった。
2年ごろから段々と勉強に実が入らなかったと反省する。
 卒業の29年度は未曾有の求職難であった。
親戚に市会議長がいたので、信用金庫1、大阪の商店2、を受けさせてくれたが駄目であった。
そんなら自分で何とかしようと思い「県警」を受けた。
「実力次第で警視にまで昇進」が気にいった。
しかしここも難所だった。30人採るのに 1000人が詰め掛けた。

3月に卒業し就職には失敗するしで、家に帰ってこの先如何したものかと悩んでいた 
3月20日山陽新聞に「県警」合格者が出た。津山地方で60人受け現役は4にん 
津山商からは21人受け合格は1人であった。
 警察学校では2番でとおした。7ヶ月目に入院し武道の点が下がり6番で出た。
管区警察では  鑑識専科で3番、捜査専科は 2番の優等であった。
中国5県より選抜されて広島での競争である。この時ほど嬉しかったことはない。
帰ったら県本部長賞与が待っていた。



森安家の長男、中国戦線に送られ戦死。

次兄は東京の専門学校「現大学」の助手まで行くが死す。
姉一人育ての親だ。津山市へとついで居る。
次の兄が家を継ぐ。町会議員を務め10年近くになる。
地元の為に奔走しているようだ。森安家の再興者と一族喜ぶ。

警察官となる。警察学校での1こま。
結婚す 絹田となる。岡山県警察官となる    
 絹田 薫 となる 『養子』に行ったのではない。
私が4男、妻が長女だったことによる。

病院は津山一でも子供が出来ん。私もおばあさんも困った。3日位で生まれた。

次は名前だ。s33・34頃『夕起子』(由かもしれん)という

「ラジオドラマ」の「ヒロイン」が居た。それにあやかろうと考えたが、

其の儘ではいけないので「由紀子」とすれば、「品」があるし、利口そうだ、

それに「紀」の字は「尊い」のだ。
予想どうり何でも賢く、みんなに可愛がってもらった。

交通に入る、パトカー任される、
1年後試験合格、任官、交通主任となる、
『交通安全母の会』設立に尽力す。
『母の会』は県下は元より近県にも広まる。 
第1次交通戦争とも言われた、
この時期 『交通安全に婦人の組織を動員せよと『大号令』 を掛けた『課長』 は1年で本部へ栄転、
推進役の私は4年も居ることとなる


母の会 の仕事を記念に警察界に『おさらば』した。
『此処まできて辞めるのは惜しい』と随分引きとめられたが辞めた。
何処へ勤めるから辞めるというのではない。
自ら始めた仕事其れは 『交通問題研究所』 であった。 

33歳であった。

そして『損害保険だいりぎょう』 及び『不動産業』 等であった。
事業は大体上手くいったが50歳にしてこんな厳しい運命が待ち受けているとは
其の日1987・9・15・ 吉備高原ゴルフ場、元上司、元警察署長の大塚さんらのお誘いである。

損保で3億を超えた代理店は全国的にも少ない s60年 達成 その2年後倒れる 挙績の多さが かえって問題となる

問題となるー刑事・民事と訴える。民事は保険会社が相手であり勝てないと言われたが勝った。5年かかった。


 ロイヤルクラ フ゛にいる事 10年 歓待 される




講師を委嘱され全国を回る。この頃が一番楽しかった。

会社からは優遇される、全国の代理店から頼りにされ交友を深めた。それが50歳にして倒れるとは・・


  

中国へ


 

交通安全母の会で 山野署長。交通安全母の会で山野署長には随分お世話になった。
勇退されてからオカセンの工場長をしておられて私は交通関係の嘱託の仕事をした。
元上司の藤岡 勇氏に請われて県タクシー協会の指導課長もした。
当新田病院の顧問もした。残念だが院長が「飛行機事故」によりなくなられた.
当時元署長の加藤さんが「調査事務所」に居られ教えてもらった。
その他7・8社の顧問や嘱託をした。 この成功が警察界を去ることに成る、

其れだけの自信を、自身にうえつけたのだ。

 

警友会の役も勤める


 

義父は勲4等です。義父の遺品をHPに載せていたところ東京の日本音声の長島さんというひとが
「写真を使わせてください」と電話してきた。満州事変当時の「国際連盟と関東軍」は重要といわれる。
私にも重要な事は解っていたので「どうぞ使ってください、家にあっても使うことはできませんから」
おくると借用書までおくってきた。
「昭和史」の「写真集」を「平凡社」から2005・4月までに出し1部贈呈するといわれる、楽しみである。
戦後中国から引揚げて来られた、大尉でした。



 

ライオンズで声を出す s61年の336b地区で 広報誌最優秀 で喜びその10ヶ月後倒れる 
今から思えば楽しい奉仕であった。其の年の会長「吉田」さんには公私とも世話になった。
昭和四十年頃、国道2号の渋滞についてNHKのインタビューを受け「対談」した。
倉敷商振連の役員をされていた吉田さん、倉敷警察、交通課から私、当時の国2の混雑は想像を絶したものだった。
それから3年位してバイパスが一部開通した。
(津山の方の知人や親戚から テレビに出るようになった と褒めてくれた)




 

藤井代議士と


 長女と次女の子。早いものでそのこがもう学校に上がるようになった。

「倒れた、経緯、こうだ」
 ここを
クリックして下さい。





☆ 父  農協へ勤め 金融担当 農業も
☆ 母  香我美難波家より来る 優しい人だった

☆  長兄  シナ事変で戦死 子供の私を可愛がってくれたらしい
☆  次兄  勉強の為 東京へ進むも病死
☆  姉   津山市に嫁ぐ 私を学校へ出して呉れた大恩人
☆  三兄  家を継ぐ地元で信望あり 町会議員を10年勤める 一家再興の功労者

私の警察に於ける仕事は刑事関係が多く管区の{捜査専科}も(鑑識)も出た。然し何時のまにやら交通に入った 交通安全母の会 を作る事になった。署長は婦人会の参加を強く求め、課長は私に命じたのである。後年、板谷警部が警察庁から 賞 を受賞の新聞が出たとき(君にはすまんなあ)と言ってこられたが私は「おめでとう

御座います。私は退職しているのですから。」と祝福した。 事業は順調に滑り出し38歳で会社設立し、社長となった。


薫の主張

(1)俳句 と川柳

無事祈る、お方は近く、イラク路へ。」  
「百坪の、庭に色なす、彼岸花。」  
「赤点点、庭に色なす、彼岸花。」

(2)薫の趣味は囲碁( 2段倒れてから初段で打っている)とカラオケだ。
「三越」の開店一周年に2日がかりでカラオケ大会があり、最後まで残り「奨励賞」をもらった。
「北島三郎」さんのものが好きだ。唄は「人生」そのままだ。

あれほど努力していた警察官、何故自分から辞職したのか 理由は 

此処を クリック してください。




「峠 橋 年輪」好きな唄で「テルサ」などでうたった。詩も唄も好きだ。


(3)作詞
風雲の巻き  徳川家康


戦乱続く この世から
戦の種を 無くすには
俺がやらねば 誰がやる
それっ馬を引け それっ急げ
今が機だ 今の機を逃すな


長き人質 苦悩の日々
誰が助けて 呉れようか
人は苦しみに 耐えてこそ
生きる希望が 湧いてくる
でっかい夢も 見えて来る


葵の紋の 旗のもと
不平不満は誰もある ここが我慢のさせどころ 
多くの武将 引き連れて
目指すは 天下統一だ
人々望む 泰平の世だ

 

花と散る時 男は見たい 生きた証の 足跡を 一歩一歩を 大地に刻み 
天を目指して 登りたい 峠という名の 一生を。

橋  

この世には 縁という字で結ばれて 夫婦で築く橋がある 幸せの春はいつでも 
足踏みだけど  二人でいたわり かばいあい 死ぬまで寄り添う 橋がある。

年輪  

雪の重さを 撥ね退けながら 背伸びしたかろ 枝も葉も 山に若葉の春がくりゃ
よくぞ耐えたと笑う風 苦労年輪 木は育つ。


(4)「思えば妻の仕事は多い」

思えば妻の仕事は多い、私は巡回に、捜査に、取り締まりにと出る事が多かった。特に柔道の練習や試合となると1日がかりでした。S35年 三井、三池の争議には大阪府警をはじめ西日本は全部でした。あの時は「本署に出ている」と言って絶対に口蓋禁止でした。
 留守中、道案内や、電話録取、一斉指令の録取、等あり、警察学校に入れば30日留守でした。囲碁の練習も其の頃からで、よく超役場の課長に教えてもらいました。「駐在所は役場に居るで」といわれたものです、それも仕事に生かそうと思ったのです2段の免状を貰っています。
10 留守と言えば、村1番の厄介者で前科13犯のaaが文句を言いに来たのを妻が裁いてくれて「若いがしっかりしとる」とおもったものです。
11春になり移動の時期になった。私は内勤含みで署所在地へ帰ることになった。多くの町の人や、妻は喜んでくれた。荷物も全部してくれた、5,6人送ってきてくれた。官舎も、内勤者と同じ処であった。同じ付き合いもせねばならずマージャンも覚えた。
12署長からの端緒
  捜査の端緒と言うのは「重要」で懸命に努力して掴むものである、其れを幹部を経て署長へ報告するものである。 移動後しばらくして署長さんが「家のほうへ来い」と言われる。初めての事なのでびっくりしておそるおそるうかがうと 署長どの曰く「湯郷温泉では人身売買や管理売春が行われそれに暴力関係者の影がチラチラする」と言うもので「君は日本原から来たのでかおが知られんから」と内偵を命じられた.署長も来て間が無いのにこの洞察力には恐れ入った。こうして始まったs38年の湯郷温泉の管理売春等の大事件であった。来る日も来るひも芸者の調べは続き、このとき初めて[けんばん]という用語も覚えた。署を挙げての大事件になり、昇任した手のtj警部補は喜んだ。以後今まで湯郷温泉でそんな事件は無い。署長は私の報告書の「捜査の端緒」を見て苦笑いだったでしょう 署長が「端緒」とは書けないから・・・・・・

13しばらくして晴れて「内勤」となる。其の年s39年度「巡査部長昇任試験」に合格した。新聞に大きく出た。日本原の人たちは我がことのように
(5)「ある新聞の時評に」

ある新聞の時評に「戦後日本あり方熟慮を」を書かれた。その中で《戦艦大和の最後》があげられ「ある学徒兵が 自分は日本人の目を覚ます為に死ぬ と言った。この言葉の中に戦後日本の生き方を考える鍵があると思う。」と記された。 以下 略します要するに 「日本人はあれだけの犠牲を蒙りながら」判っていないのである。

(6)戦争に対する意見
昭和の戦争は何故起こり、どの様に終結したか
昭和7年2月の『血盟団』事件により『井上蔵相』らを、
同年5月15日『話せば判る』『問答無用』により、有名な5・15では総理他の者を 
続いて11年には、2・26 事件により政府 要人多くをこれらは心ある政治家 学者の口を封じ 軍政へと 突き進む事となった。
戦争の進み方によって何回も 停戦 の機会はあった「サイパン」 の陥落等である。
其の度に「大本営」のやり方、言い方、には情けないものを感じる。
そして 広島 長崎 へ原子爆弾 投下までやめなかった
ある新聞の時評に「戦後日本あり方熟慮を」を書かれた。
その中で《戦艦大和の最後》があげられ「ある学徒兵が 自分は日本人の目を覚ます為に死ぬ と言った。
この言葉の中に戦後日本の生き方を考える鍵があると思う。」と記された。 
以下 略します  
要するに 「日本人はあれだけの犠牲を蒙りながら」判っていないのである。

戦争中の貴重な写真が有りますのでいて下さい。こちらからどうぞ!

(3)昭和史 著者様
昭和史抜粋のページ  
  昭和の戦争はなぜ起きたのでしょうか。
 多くの国民を悲しませ、苦しめ、家を焼き、親族の誰かを死亡させている、
アノ戦争は・・・・・
私は「昭和史」を読み、8・15以後、義父の遺品の中から注目すべき写真を見つけ出しました。
(義父は陸軍大尉、従って私の妻は満州からの引揚者 艱難辛苦す 
私の兄は s17年中国で戦死。叔父も中国へ行く。)

「昭和史」 

「昭和史」 著者 半藤一利氏 発行 平凡社 によれば太平洋戦争による死者は次のとおりです。
 ガダルカナル島で戦死8200人、餓死または
    病死1万1000にん、
 あっツトウで戦死2547人、捕虜29人、ということはほぼ全滅です。
 ニューギニアで病死も含む戦死15万7000人、
 タラワ島で戦死4690人、捕虜90人、
 マキンも玉砕で戦死690人、捕虜90人、
 ヶゼリン島も玉砕で戦死3472人、捕虜250人、
    島で戦死1万8400人、捕虜1250人、
 サイパン島で戦死約3万人、市民の死亡1万人、捕虜900人。
島だけでなく、陸上でもたくさんの人が死んでいます。
インパール作戦で戦死3万500人、傷ついた人あるいは病気で倒れた人4万2000人、
印パール作戦 の1つとしてビルマの東、中国本土で戦われたらもう も玉砕で戦死2万9000人、生存者一人――無事脱出した。以上のように、日本人はあらゆるところで空しい死を遂げていったのです。戦争が終わってしばらくは、日本人の死者合計260万人といわれていましたが、最近の調査では310万人を数えるとされています。
 そして特攻作戦によって若い命を散らしていった人たちは海軍2632人 陸軍1983人 合計4615人 これだけの死者が20年の昭和史の結論なのです。


最後に薫にとって戦争が不幸のはじまりなのである。

(7)薫語録のページを作りました。

薫語録のページへはこちらからどうぞ!

娘に記念に残してほしいといわれて作りました。

   私の大切なあの歌
 昭和30年3月岡山県警察官に採用され県警察学校に入校した。30人の採用に対し900人が詰め掛け、当時の就職難の社会を反映した。
 訓練は、法学、一般教養、教練、柔剣道、体育、と息つく暇も無い。全寮制で、9時点呼、10時消灯、で色々の規則があった。
 『少し動作の遅いもの』には担当教官から叱責が飛んだ。こんな時、人気のあった『守安教官が、当時流行していた春日八郎の、雨降る街角、の歌詞に擬えて  つらいだろうが やぼなことをいうでない きみもぼくも 同期じゃないか
 と歌って拍手を浴びたのです。以来仲間では苦しい時には口ずさんで無事に卒業しました。出てからも難問に当たるたびにこの歌は自分の心の歌としている。辛い修行にも耐えていかねばならないもう一つの理由は  『大変な競争を勝ち抜いてきた自信と、家族、高校への説明』から逃げることは出来なかったのである。
 更に教官から『君達は大勢の中から選ばれて許されてきたのだ、しっかりやってくれ』と言われると愈愈前に進むしかなかった。
 第一線に出てからも優秀な人が多く警視以上に18人昇進した。
 (私は16年で依願辞職し事業経営す)他の人も県警の重要ポストについた。共に勉強し、共に走り回った者は何時までも忘れないものである。
 春日八郎は名曲を次々ヒットさせた。『別れの一本杉』もそうだ。
この歌は、東京へ出た若者と郷里へ居る恋人との想いであるが、東京でなくても何処にでもある、これが当時の人の『心』を打ったのであろう。私の場合は津山から岡山である。三年後、『別れの一本杉』が世に出た。大勢の人がこれを支持し、空前のヒットとなった。同じ境遇や想いを抱いているのであろう。カラオケ店では必ず歌う。
 歌の本やカラオケから消えてゆくヒット曲もあるが50年経っても『この歌』はある。作曲の船村 徹氏は第一人者として自他共に認められる大先生である。この二曲は私にとって忘れられない大切な歌である。

拝啓 いつもご厄介になっています。お変わりありませんか。
 解決がながびく事件が起こると『誰か見た人は居ないかなあ』と心にしながら居ます。
 さて1月24日タクシーに乗る機会があり運転手さんに『氏名、元警察官』であることを名乗った上で『最近犯人があがらず警察も困るねえ、 処でこれだけ良い無線がついていると、直ぐに協力してもらえるね』と言ってきいてみると「其れはいいことですが事件を見たり、聴いたりしたら警察へ云うことは私ら運転手は全く聞いたことがありませんし、会社が聞き流しているとも思えません」 と言う返事でした。
 私は辞職後暫くの間『岡山県タクシー協会』へ指導課長として勤めました。そんな事もあって協力関係は「どうかな」と思い尋ねたのです。
 私は若い頃パトカー勤務もしました。タクシーはにも無線があり有力です。
 今日は衆議院に公安委員長や警察庁から出られ、犯罪の検挙率等の説明がありました。 犯罪の検挙に「国民の協力」が必要なのは云うまでもありません。 特に力を持った業界の協力こそ大きいと思います。


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