三、消費構造の変化とは
消費者が変化した、とよくいわれます。モノが売れないのは需要が細分化したためだ、ともいわれています。
けれどもモノが売れなくなった原因は消費者にあると考えるのは、売る立場からの理論です。売り手側が「自分のおこなっていることは常に正しい。にもかかわらず売れないのは、消費者側に原因があるからだ」といっているわけです。
だから「細分化した」とか「多様化した」などと、自分のことはさておいて、いかに消費者が変化しているかを説明しようとします。
しかし、ほんとうにそうでしょうか。あなたは十年前、二十年まえの自分自身を振り返ってみて「ああ、自分はずいぶん多様化したなあ」と思われるでしょうか。昔は大衆だったのが、いまは小衆になったとお考えでしょうか。
けっしてそうではないと思います。個人はいつも個人ですし、自分の生活上の考え方がここ数年の間にそう簡単に変わるとはお思いにならないことでしょう。
「わたしは独身時代は洋服をたくさん買ったけど、いまは子供のものばかりだわ。考え方って変わるのよ」
という方もいらっしゃるかもしれません。でもそういう個々の生活の変化はなにもここ数年で始まったことではありません。百年前、二百年前のひとびとの生活にもあったことです。ここでいいたいのは、嗜好、好みに関する価値観が変わるかどうかということです。たとえば洋服を買うときに、
「最新の流行のものを、だれよりも早く着たい」
「ふだんはバーゲン品でいいから、一点だけはブランド物の最高級品がほしい」
「こだわるのは色。カラーコーディネイトできるように気に入った色が欲しい」
「安い物で十分。その分たくさん買って組み合わせを楽しみたい」
等々、ひとそれぞれがさまざまな考えかた、価値観によって選択をします。
この個人の持つ価値観というものは十年や二十年でそうそう変わるものではない、と思うのです。だから、消費者の好みが細分化した、個人の生活が多様化したということは、いかにもわかったようで、その実なにも説明できていない方便のように聞こえるのです。そもそも消費者ということば自体が、売る立場からの発想です。
家電メーカーのいう消費者とは冷蔵庫や洗濯機を使う主婦のことですし、自動車メーカーであれば運転免許証の保持者ということになります。化粧品メーカーでは化粧品人口という概念で消費者をとらえます。化粧品人口とは十六才から六〇才までの女性であり、それ以外のひとは対象になりません。
こうして「商品を消費するひとが消費者」という視点から市場を見たとき、そこにあるのは「数字」です。新車が年間七〇〇万台登録された、化粧品の市場は二兆円だ、といったぐあいです。このように市場を数字から見る視点は、メーカーが生産目標を決めたり、シェアを産出するために必要なことです。
しかし、この数字からは、その市場にいるひとびとの生活の様子が見えてきません。数字からは、商品がどのように買われ、どう使われているのかがわからないのです。
たとえば、ある町で一億円の化粧品の需要があったとします。一億円の化粧品が売れるわけですから「一億円の市場」です。ところが、その一億円の中身を覗くとクリームや口紅、シャンプーや育毛料などさまざまな商品が化粧品というくくりで含まれています。
そこで考えて頂きたいことは、小売店にとって口紅と育毛料を足していくらという数字にどんな意味があるかということです。買う人も、使用する目的もまったく異なる両者をひとくくりにして足してしまった数字なのです。小学校の算数のように「クレヨン三本とリンゴ二個を足したらいくつでしょう」式の計算をしているのです。
製造業であるならば、トータルで販売金額をとらえることは必要ですが、小売店にとってお客様の生活が見えないというのは致命傷です。
ひとびとはモノを消費するために生活をしているのではありません。生活するために消費をしているのです。ですからマーケティングでは消費者ということばは使わずに「生活者」というようによんでいます。
そして、ひとびとの生活というものは、ずいぶん昔から多様なものであったし、個性的なものであったはずです。けっして最近になって突然、多様化し始めたわけではないのです。
それではどうして生活者のニーズが変化してきたといわれるようになってきたのでしょうか。
戦後の日本経済の復興期、再建期の市場において主役は「メーカー」でした。市場は欠乏状況を呈し、モノさえあれば売れる時代でした。このような市場のなかで小売店は単に「モノとカネの交換場所」でした。おそらくサービスなどいう観念はなかったことでしょう。需要が供給を上回り、弱者である生活者はモノを買うときに好き嫌いなどという機会を与えられなかったのです。
それが高度成長期になると市場にモノがひととおりいきわたり、生活者も量的には満足するようになりました。そして、「よりよいモノ」を求めるようになってきました。市場の主役はメーカーから流通、つまり小売業に移り、生活者も自分の好みを商品の選択基準に反映できるようになりました。小売店に課せられた使命は、生活者が求めるモノを提供することであり、より機能的なもの、より高品質なものを、どこよりも安く売ることができれば売上は伸びたのです。
このころから小売店のサービスがいわれ始めました。しかし、生活者の求めるサービスはまだモノやカネの周辺にありました。ですから小売店がもっぱらおこなったサービスは「景品」や「割引」になったのです。こうして本来のことばの持つ意味とはちがった方向へサービスは進化していくことになりました。ひとつには「水と安全はタダ」という国民意識もあったのでしょう。形がなければサービスされたと思えず、また無形なものには金を払いたくない、といった意識がサービスをアレンジしてしまったのです。
さて現在は経済の成熟期といわれています。商店街やショッピッングセンターを歩くと店頭には実にさまざまな商品があふれかえり、まさに過飽和市場です。
こうしたなかで、ひとびとの生活を表現する手段はモノそのものからモノをどう使っていくかということに移ってきました。商品を買うにしてもその機能だけでなく、使うことによる意味的価値・付加価値を求めるようになっってきたのです。
たとえ値段が高くても自分の生活に合うもの、自分を表現するのにぴったりなものであるならばお金はいくらでも出す、また逆にどんなに安くて機能が優れているものでも自分の感性に合わなければ買わないというひとが増えてきました。
市場の主役は生活者となり、メーカーや流通よりも強い立場に立ったのです。
もともと多様であった生活を生活者が自由に表現することが可能になった時代であるといえるでしょう。
このような時代にあってサービスは本来のあるべき姿を求められ始めています。そしてそれだからこそ本当のサービスを提供する店が伸びる時代でもあります。
しかし、そのことに気付かずに、いまだに景品や割引がサービスであると思い込んでいる小売店が数多くあります。こうした店は見当はずれのサービスを続け、売れないのは消費者が変わったからだとぼやきながら、つぶれていくのです。