四、いつの時代でも生活者は個性的

生活者は生活に基づいて購買行動を行います。そしてこの生活というものはいつの時代でもどんな時でも個性的であり多様化したものです。モノが少ない時代でも、メーカーや流通が強い時代でも、生活者はよりよいサービスや、個性の表現手段を常に求めているのです。

すこし以前にモスクワに出店したマクドナルドの人気ぶりがニュースになりました。テレビを見ていて、物資の不足している旧ソビエトでしたから、ハンバーガーひとつ買うのにもあんなに並ぶのでは大変だなあ、と思ったものでした。

ところが、そのハンバーガーがけっして安くないのです。いやむしろ他の食料品に比べたら非常に高価なのです。それに加えて当時のソ連の経済は国民所得が二桁マイナス成長という危機に直面していました。戦後最大の危機といわれた九〇年でも国民総生産で前年比二パーセント減、国民所得で四パーセント減でしたから、大変に深刻な事態でした。不足する物資とインフレに、国民の生活は大変に苦しいものであったろうと思います。

そのなかにあって高価な外食産業がなぜはやるのでしょうか。単に食料が少ないからという理由だけではないようです。

特権階級のひとびとが利用しているのでしょうか。それともモスクワには新し物好きのひとが多いのでしょうか。

この疑問を私は従姉妹に聞く機会がありました。彼女は子供のころからバレエを習い、国内外で活躍しています。ソ連のボリショイバレエ団の方と国際結婚し、現在モスクワと日本の二重生活をしています。

彼女に私は質問してみました。

「モスクワにマクドナルドができたでしょう。大変に値段が高いそうだけど、なぜみんな 食べにいくのかなあ」

すると彼女はすぐにこう答えました。

「それはね、ハンバーガーを買ったとき、ありがとうございました、って言ってもらえるからなの。ソ連のお店で買い物しても、ありがとうっていわれることないから」

私は、なるほど、と思いました。現在でも旧ソ連の経済状態は、メーカーや流通が主役であった日本の戦後の経済復興期に近いものがあります。そのような状況にあっても、ひとはモノだけでなくサービスをも求めるのです。

もうひとつ、こんどは日本の話です。江戸時代に井原西鶴(一六四二〜一六九三)という俳人がいました。彼は軽口狂句を得意とし「矢数俳諧」に才能を発揮しました。これは京都三十三間堂の通し矢の作法にならったもので、一日一夜にいかに多くの句を詠むか、という記録競争のことです。貞亨元年に二三、五〇〇句独吟という記録があります。

彼はその後小説家となり多くの浮世草紙を残しました。そのなかでも元禄時代に書かれた「日本永代蔵」は、町人階級の経済生活を主題として取り上げたもので、出世致富または失敗貧窮の説話三〇章を六巻にまとめたものです。

日本永代蔵が書かれた当時の江戸は、八百八町に一〇〇万人が住む経済の中心地でしたが、家康の開府から約一〇〇年経ち、公共投資である町や江戸城の建設工事も一段落し、経済伸長が停滞しはじめた頃でした。

そのような時代にあって、多くの競合店に打ち勝って繁昌し続けた「越後屋」の話が第一巻に書かれています。

その一部を紹介します。

近代、江戸は戦争もなく静かで、松は変わらず常盤橋、本町の呉服所は京都の支店で、紋付鑑(大名・旗本の名簿)に表される様に番頭や手代がそれぞれに、お得意先の御屋敷へ出入りし、共に稼ぎに励みあっています。商売に油断なく、ことばも巧みで、知恵もあり、計算に強く、銀の含有量の少ない悪貨をつかまされることもありません。利徳には生き牛の目を抜くようにすばやく、虎の門を夜中に通って、千里歩くのも奉公とばかり、早朝には星を仰いで、秤竿に精魂を打ち込み、明け暮れにお得意先の御機嫌をとったものでしたが、最近は以前と様子がちがってきました。

相変わらず繁栄している武蔵野ですが、すみずみまで、同業者が立ち廻っていて、ぼろ儲けなど全くできません。

御祝言の時や、盆暮れに店員や出入りの者に衣料を与える衣配りの折りには、将軍家や大名屋敷の庶務担当者に取り入って、一儲けできたものでした。

しかし最近は諸商人の入札制になり、少しの利潤を目当てに競合が激しくなってきました。その結果、懐は苦しくなって、見栄でお屋敷の御用を努めているありさまです。

その上、売掛金の代金もここ数年払って貰えず、京都の本店から借りている借金の利息も稼げなくなってきました。資金繰りにも詰まっているのですが、拡張した店舗を閉店するわけにもいかずに、だんだんとじり貧になっていくのでした。

とにかく割に合わない、江戸の店を残しても何百貫目の損がでてしまう、まだ足元が明るいうちに商売替えでもしようかと、みんなが考え始めました。

ところが、そんなときでも商いの道はあるものです。

三井八郎右衛門という男が、昔の小判の名前にもある駿河町というところに、間口九間奥行き四十間の、長屋作りの新店を出しました。すべて現金売買、掛け売り無し、と定めて、四十人以上の従業員を使いこなし、一人一品目の担当制を敷きました。

例えば、金欄類が一人、郡内絹類が一人、羽二重が一人、沙綾類が一人、紅類が一人、麻袴類が一人、毛織類が一人といった具合に各人が手わけをして、ビロードを一寸四方、緞子を毛抜袋にする程、竜門の袖べり片方だけなどと、お客様の欲しいものを必要なだけ自由に販売しました。

とくに、急に召しかかえられることになった侍の熨斗目(目見得以上の武士の礼服)、急ぎの羽織などは、その使いの者をを待たせて、数十人の常雇職人が立ち並び、即座に仕立ててこれを渡したのでした。

こうして家業は栄え、毎日、金子百五十兩の商売をするようになりました。

この店のご主人を見ると、目も鼻も手足もあって、他の人と変わった所はなにもありません。ところが商売に関しては賢く、大商人の手本となるような人です。

商品を入れる引き出しは全て「いろは」順に分類され、唐の国や朝廷の絹布をはじめ、年代物の絹、阿弥陀のよだれかけ、達磨大師の敷布団等々、品揃えがたくさんあり、ないというものがないくらいです。

また商品の全てが帳簿に記録されているのもよいことです。

(以上、筆者の口語訳)

越後屋は現在の三越デパートの前身です。一六七一年に三井高利が京都と江戸に呉服店を開き、西陣の織屋に前貸金を渡す問屋支配の形態で仕入れた絹類を、江戸で販売しました。従来呉服屋の販売方法は、ここに書かれているように、武家屋敷相手に掛け売りをするものでした。ところが景気が後退するにつれて、競合と不良債権に経営が悪化する店が増えてきました。そのなかにあって越後屋は、現金売買による町人相手の販売に主眼をおいたのです。

さて、ここで注目したいのは今から三〇〇年以上も前に、生活者のニーズの多様性、個性化に着目し、お客様ひとりひとり合ったサービスを提供する小売店が存在した、ということです。

それはまず部門ごとに専任者を決め、責任の所在を明らかにするとともに、よりきめの細かい接客応対を図りました。さらにお客様の多様なニーズに合わせ、必要な分量だけを切り売りしました。急ぎのお客様には仕立てのクイックサービスも行ったのです。

「いろは」による品番で、少量多品種の在庫管理もしっかりしており、西鶴をして「ないという物なし」と言わしめたのです。

そのほかのサービスとしては貸しガサを用意してにわか雨のときにはお客様にカサを貸すということも行っていました。これには店名が大きく書かれており、大変な宣伝になったようです。町民たちはこのカサをひとつのファッションとして雨がやんでもさして歩きました。

江戸中を
越後屋にして
虹がふき   柳 樽

こうして越後屋は開店十五年目にして年商五万四千両、三十年後には十万両に達する売上を記録したのです。

いかがでしょうか。生活者の個性化、ニーズの多様化はいまさら取り立てて騒ぐことではないということが、おわかり頂けたでしょうか。また、自分の店がはやらないのはひとびとの生活が多様化したから、と責任逃れをすることは見当ちがいであることがご理解頂けたでしょうか。

江戸時代から、いや、きっともっとずっと前から、ひとびとの生活にはいろいろなライフスタイルがあったに違いありません。

そしてどんな時代にあっても、ひとびとは自分たちの求めるものを満たしてくれる店に集まるものなのです。

たとえ、戦争や不況などの外的要因で、一時的に生活の個性化が抑圧されたとしても、生活者は自分のライフスタイルを探す喜びを常に忘れることはないのです。