想像図 その2
想像図 その1

中山道太田宿本陣予想図
                              



この図は私が想像、考証し書き起こした私的な物です。
著作権については放棄しておりませんので、無断流用、仕様は行わないで下さい。


中山道会館用の幻の本陣模型構想があった。
私共に依頼があったが色々な問題があり、最終的に実現することはなかった。
業者の先走りで零細の当方としては日程に1ヶ月以上の穴があき多大な被害を被ることになったが、最終的に降りることにした。其の間には馬鹿な恫喝などもあったが、かっての仕事上の経験から10年は色々とごねながら遊ばさせて貰うことはることは出来たが、地元の事とて洒落にも成らないので馬鹿な事はやめることにした。
其の事実だけは記録しておく。

上の想像図は初めて公表する次の書類からの抜粋である


表紙
裏表紙

特に大手の企業と取り引きする際、知的な権利について明確にしておかなければ後々不利益を被ることが多々ある。
かって模型メーカーに勤めていた時、その様な問題に関しても担当していた。当時は時間的に弁理士に依頼する時間が無く自分で意匠登録、実用新案の申請、著作権の管理はやっていた。勿論素人に毛が生えたレベルの物であったが、既成事実を作ることは出来た。

その為、万が一に備え、市の関係部署と業者を含む打ち合わせ以前に公的な機関に登録した物である。

其の発注事実に関しての記録の一部は次の通りである。


それはそれとしてジオラマ模型検討に伴い、本陣間取り図を調べてみた。

本陣図(元図) 美濃加茂市発行 美濃加茂市史 通史編 507頁より

ご覧のように元図に対し随分とシンプルな表示になっている。
ある関係部署の担当者に元図より省かれている部分について尋ねたことがある。
分からないところは分からないでそのままにしてある、いい稼業だと思った。
長く分からないところをあらゆる方法を使って調べ上げることが仕事であり、そこに他より有利に立てると言う稼業をやって来た者には嫌な言葉であった。
それは泥沼に入り込む事に点火されたようなものであるからである。
そして泥沼に入り込むこととなった。

本陣図には実に面白い記述が沢山ある。それらを仔細に調べると興味ある事実を発見することになる。
又、市史では分からないこの家屋の人の動線も本陣図からはある程度理解できる。

本陣図の中にはこの表示が各所にある。
市史の中では細い矩形で表示されている。
これについての解釈が分かれた。
私は便所であると主張したが、学芸員氏は玄関横に不浄な物が在るはずがないと言う見解で何か分からないと言う回答であった。
便所と主張したのは、現代でも昔でも不浄な所には違いないが、昭和時代でも農業に糞尿は貴重な肥料であり、当時の回収方法では道路に面した場所にくみ取り口がなければ成らないからである。江戸の長屋の糞尿は百姓に売られ、それは大家の実入りになったと言われている。
本陣図の左下拡大 左図矢印部分の表示(90度回転してある)

今回気づいたことであるが、矢印の部分中央の太線の矩形は後から書き込まれたもので、かすかに隠と推測できる文字がある。
これは他の部分の表示も同じで多分「雪隠」の表示ではないかと思う。
只なぜ雪隠が枡形で書き直されているのか疑問がわく。
雪隠とは上方の言い方であり、江戸では後架(こうか)とか手水場(ちょうずば)と言われていた。
現在ではJISなどの建築記号が設定されているが、ある時に徳川スタンダードとも言う表記が設定されたなんて事も推測できる。
本陣図の便所表記から当時一般的には小便器が無かったのではと考えさせられる事がある。それは次回に触れよう。
2009.1.3

本陣図元図(部分拡大図) 左図矢印部拡大

本陣の中心部上段の間部分である。
其の南東の角(矢印部)に便所の記号がある。
中央の図が拡大図である、記号の形状が分かりにくいため右図で表す。
前記の市史間取り図ではこの部分が二つの矩形で表されているが、元図では片方が三角である。
昭和の中頃まで木製の小便器は未だ使用されていた。其の形状は三枚の板を上面から見て三角に組んだ物や四枚の板を矩形に組んだ物があった。一般的には三角が多かったように記憶する。
それから判断するにこれは小便器であろう。
この記号はこの本陣図にはこの部分だけで確認できる。その事から先回触れた「当時一般的には小便器が無かったのでは」との疑問点である。昭和の中頃でも農家では地面に埋められた瓶に直接小便をする形の便所があった。実際に昭和の後に県内で使用した経験がある。一般的というのは一般的な武士階級を含み庶民生活中のことである。
2009.1.4

片矢印横の「次ノ間 八畳」が正読出来る向きでは両矢印矩形内の記号は「水」と読めない。
両矢印下の太い矩形は先日書いた便所記号である。

「次の間」用の便所には手洗い水場が設けられているのである
本陣図 左図矢印部拡大

この本陣図には三形態の便所がある。
一つは一番最初の書き込みの形態の物、一つは先日の書き込みのいわゆる大名用の便所である。
もう一つはそれを表す記号的な物が市史図では削除されている。その為市史を見た限り三形態は分からない。

本陣図の其の部分を拡大すると(上表、左図矢印部拡大)両矢印で示す記号的な物がある。
多分これが何を示すのかの解釈が出来なかったではとの推測である、
この記号的な物が実は私にとっては重要な物である。

四角い枡形の中の記号は「水」の文字であると解釈した。
本陣図の書き込み文字は図の天地左右は無視して書かれており、図を回転させながらあらゆる方向から見る必要がある。
此はこの図が本陣の改修に伴い後々書き込み、修正された事によると思う。
問題の「枡に水」の表記は他の部分の筆圧と異なって繊細な線である。

つまり用便後の手洗い水であり、建築当初から在る物ではなく後になって設けられた物であろう。

それでは何故この部分だけに此があるのか。
現代の生活形態では判断できるはずもない。

今では用便後の始末はトイレットペーパーやウオシュレットが一般的である。
しかし当時は紙自体が貴重な物であり、位の高い人でしか使えなかったようである。
一般的には縄が張ってありそれに跨いで拭いたと言われている。地方の田舎では昭和初期にもこの形態が残っていたとも言われている。
飛騨高山の合掌作りの便所の説明では紙の代わりに朴葉を使用していたと記してあった記憶がある。
ロールになったトイレットペーパーがこの界隈で一般的になったのは昭和40年代に入ってからであり、昭和30年代はB5位の大きさの落とし紙とか便所紙と言われた物で、時折新聞紙を揉んで使用したものである。

想像するに二つ目に書いたいわゆる大名クラスが、自ら尻ふきという後始末をしたのだろうか。
最初に書いた庶民風の便所の使用者は、もし縄的な物を使用していたなら手を汚すことはないはず。

後始末に紙などを使用でき、自ら後始末をする地位の人用の便所なら、近くに手洗い水があって当然な事である。
事実この便所のある場所は、大名用の部屋に隣接した処である。

このようなことからこの本陣には、三形態の便所があったと推測するのである。

図の中で片矢印で示す記号も市史図では省略されている。
煩雑になるから省略されているのか理由は分からないが、関係者に聴いた範囲では何を表しているのか分からないと言う答であった。

本陣図ではこの記号は非常に重要な物である。
此は襖や障子を表していると判断した。現代の建築図では此によく似た記号が開き扉の表記に使用されている。

図に示した部屋は八畳まである。
其の記号を半畳の幅の襖と考え畳を敷いてみると、ぴたり八畳を敷くことが出来る。
此をその他の部屋でやってみると同じくぴったりと収まる。

此で本陣の間取りの形態及び大まかな動線が判るのである。

次回は判読できずに市史図で省かれている文字の解読と、たった一本の重要な線が省かれていることに触れてみよう。
此は前述襖、障子記号と忠臣蔵がヒントで判った。
2009.1.10

前にも触れたように本陣元図は後から書き込みがあったり、文字の向きが不規則であったりする。
勿論墨の濃淡の違いも見受けられる。

この図は本陣の建物が建設されその後、模様替えされた時の改修図であるのではないか。
只、この改修図は現存する本陣の門、それの昔の写真と比較しても合致しない部分がある。
それらのことから本陣は少なくとも数度の改修がされたと推測する。
あくまでも素人の勝手な推測である。

そのように改修図として仔細に観てみると実に面白いことが浮かび上がってくる。

市史図では省かれているこの文字の解読をしてみた。
幸いなことに古文書の文字などに知識がない。
知識があればあらぬ姿の其の手の本の楽しみ方が又一段と楽しいものとなっていたはず。
それはそれとして、古文書解析の世界の手法とは異なるであろう方法を遣うことがよういである。


図−1

図−2

図−1に示した緑色矢印部分の線は他の部分と比較し実に妙な線である。
他の部分と比較し雑な書き方である。
特に緑色矢印で示した線は、他の大半の部分が垂直、水平共にしっかりと書いてあるが、それらの線に対し平行ではない。
図面屋でもある私にとっては同一人物の手になる物とは理解できない。
此は後に性格の異なる別人の手による物のはず。
つまりこの部分は改修された後の図である。
それでは改修前はどのようであったのだろうか。

緑色矢印分の部屋は一部欠けたような部屋である、これを不自然ではない状態に書き直したのが図−2  である。
結果としてこの部屋は元々ごく普通の四畳半であった。
図−1中の濃いピンク線部分の古文字は「四畳半」である。
其の横にある部屋の文字は此又市史では省かれている。

赤矢印の部分は隣接の部屋の間取りから作図するとこの部屋は一畳半である。解読さず市史で省かれている古文字は「一畳半」のはずである。

それでは一畳半の小部屋は何のための物なのか。
ここには建物内部に面して入り口や開口部がなく、外に面した二枚の入り口の戸があるのみである。

考えを飛躍させている時に思いついたのが「時は元禄14年12月14日・・・」赤穂浪士の吉良邸討ち入りであった。
吉良上野介は炭小屋に隠れていた。

この本陣図を見ると当時当然あるはずの燃料倉庫である炭置き場と思われる物が見あたらない。
この部屋が炭置き場ではないだろうか。

それでは四畳半、炭部屋(炭置き場)に隣接する市史図で物置と称されている部屋を観てみよう。
元図である図−1では戸の位置が明記されている。
これからすると其の位置は通りから入ったすぐの「土間」(この文字は他と比べ表記が天地逆)と建物内部に面した処である。
此は大名道中に必要な道具、用具置き場であろう。

それらのことから市史図に省かれている一本の重要な線に目を向けよう。
図−1に示す青矢印部の線は、書き間違いでも、意味をなしていない線ではない。
外塀と建物に挟まれたこの空間の奥には通用門とでも言う入り口がある(冒頭の市史図中、方位記号右下の3文字[木戸門])。

前述の手洗いのある便所の汲み取りや炭部屋に用のある者が通る空間でもある。
(外)壁の高さは推測ではあるが、普通に考えられる高さからするとこの空間は建物と塀の間で、他からは完全な死角になるはず。
そのような死角の空間と大名が到着する玄関前の空間(土間)が警備上からしても仕切られないはずがない。
この一本の線は此処に塀などがあった事を示す非常に重要な線である。
2009.1.24

トップページに戻る

1