英泉と大垣
中山道太田の渡し図について書き連ねていく中、東海道五拾三次図について論争があることを知った。
これから書き連ねるのは裏中仙道太田宿と同様、素人が勝手に考え、推測、想像しての話である。
専門家でも何でもない者の書くことで、それについて反論、意見を求められても多いに困るという一種無責任な
話であることを最初に断っておきます。

木曾街道六十九次画には英泉と広重との共作である。
この共作には奇妙な部分がある。
現代とは社会構造の異なった時代故、今を持って考えれば疑問が生じても当然のことである。

基本的に英泉作は江戸に近い宿であるが、何故か遠く離れて鵜沼宿と河度宿の二枚の絵がある。
しかも鵜沼宿図は対岸の犬山から遠望した図である。
何故このような図が含まれているのか。

この絵は木曾街道図を興した時期とは異なっているのではないかと、その他の要因により考えた。
鵜沼宿図は中山道の通る美濃側より対岸の尾張側にわざわざ渡り描くほどの風景なのか疑問である。

英泉はこの街道図が興される前に何らかの目的を持ってこの地へ来ている。
それは少なくとも1832年以前のことである。
裏中仙道太田宿その2に唐突に年表を載せたのは実はこの記事のためである。

それでは何故犬山でありもう一枚が河渡なのか。
東海道を西に向かい宮より街道を外れ小牧街道を北にその道の突端に犬山がある。
対岸は中山道鵜沼宿、河渡は西の方である。

犬山の目の前の木曽川は今ではこれより先で大きく南に曲がり伊勢湾に到達する。
天正年間の大洪水でこの流れに変わる以前は犬山より西に直進長良川に合流していた。
現代でも断続的に残る当時の川筋跡は当時本流ではなくなったものの舟の運行はされていたと思う。
川筋変化以前上方(かみがた)へ送られる木曽の木材はこの流れを利用されており、そのルートは変化があったとは思えない。

徳川防御のお囲い堤の北端犬山より旅人が舟で容易に移動できたのかは分からないが英泉はここから舟で西進、河渡宿へ向かったと考える。
東海道を外れ中山道の宿に行かなければ成らない場所とは、目的とは。

広重画には代表作の東海道五十三次図がある。
保永堂という版元が東海道五十三次だけを企画したとは到底思えない。
仮にそうであるとしたら有能とは思えない版元である。
当然他の街道も視野に入れていたはず。その中で東海道と中山道は当然主要な題材であったはず。
有能な版元であればいかに経費を少なくして魅力ある商品を作るかと考えるのが一番のことである。
その様な中、仮に五十三次図が既に存在する事を知ったなら当然のことそれに注目するはずである。
又、それがどの様な物かを確かめるのはその様な仕事に携わる者の今も昔も変わらない基本である。

河渡宿より南西2里ほどの処に大垣はある。
大垣には藩医である江馬家があり英泉の目的の場所はここである。
2007.9.9

江戸で
その少し前江戸での話である。版元保永堂の主が英泉に頼み事をしている。
「すまないが美濃の大垣まで急ぎで行って来て呉れないかい」
「旦那!急にその様な遠方の大垣まで行かなきゃ成らない用って何ですかい」
「先日来お前さんに話した次の企てのことなんだが、お前さんも知っての通り江漢という者が居た。その男が描いた東海道の宿図が大垣にあると聞き先方に問い合わせをしていた処、色好い返事が来た。ついてはお前さんにその物を観てきて欲しい」
そして英泉は旅だった。
その途中に描いた物がその二枚ではないか。鵜沼宿の絵で一つ気にかかるのが天守閣が現在も残る特徴のある姿と異なっていることである。
昭和30年代前半までの犬山城はこの絵のように川側からのルートがあり太鼓橋もあった。子供の頃の遠足などは隣の犬山遊園(現在名鉄グランドホテル)と城見物はセットであり城へは川側より地面を整地して作った緩い坂道と地面を削って作った低い段の階段道を東より城を巻くくように南へ登った。

英泉は長良川の鵜飼いを実際に観ている。

他の街道図の構成の流れと異にしているのは、編集方針の固まる前の旅で描かれた物であるからである。
2007.9.14

東海道五十三次画への決断
東海道53次図は保永堂の企画である、その中に広重の考えは殆ど入っていないはず。
それであるから後世まで名作と言われて、他の街道図よりも人気がある。
此が広重の考えの基に作られた物で在れば全く売れなかっただろう。
保永堂の主は元々が質屋である、それにより他の版元とは世の中を見る目が違っていたのではないだろうか。
庶民が本当に喜ぶ面に対する見方が異なっていたと想う。

素人の見立ては従来と異なる感覚の構想を企画しそれを具体化する為に当時無名に近い広重を起用したである。

既に実績を作っている絵描きに他人が全く異なる感覚の物を描かせることは至難の業である。
プロであるから他人の要望に合う物は描けるが、持ち味は微妙に殺される場合が多い。
それならばどうするか、自分の考えにあった絵描きを捜すか、少々荒っぽいが金の力を借りるかである。
新人ならば画料についても有利であり、多少の無理、無茶も版元という客の立場からすれば押しつけることもできる。
此が保永堂が採ったであろう方法であると考える。
以前の職で私自身やってきた方法でもある。

木曾街道図と比べ東海道図は何処か面白さがあり、遊びがあるように感じている。
美術品でもなく所詮今で言うポスターと同じ、その中にいかに面白さ楽しさを仕掛け次作に期待を持たせるかに苦心をしたのではと想う。
この感覚が何処か江漢と一脈通じていたようにも思う。

英泉は江漢の図を見た。
普通に考えるに画をみるだけの目的で遠路はるばる旅するはずもなく、保永堂の企画への協力を仰いだとしても不思議ではなく、その物の貸し出しを願い出たかもしれない。

当時としてどの様な価値のある物なのか知る由もないが協力は得たとしても現代と全く異なる旅故、その様な大切な物を一介の旅人に託し移動される事など考えられない。
模写の了解を取り付けたのではないだろうか。

英泉の報告を受け保永堂は東海道と木曾街道絵図の企画の実行を決断した。
2007.9.20

広重京へ旅立つ
英泉の報告を受け保永堂は東海道と木曾街道絵図の企画の実行を決断した。
当時画を描く目的だけで道中手形が入手できたのか素人には分からないが、そこに幕府より朝廷に馬を献上する[御馬進献の使]成る行事があり、それの随行員を募っていることを知れば一介の絵描きとはいえ、江戸の下級武士で火消同心の子と言う素性の知れた広重に白羽の矢を立てても不思議ではない。
到着地解散で帰りの道中手形の保証があり、手当が支給されるとあれば願ってもないことである。
腕はあるが無名の広重を派遣する。鬼編集長、鬼社長が駆け出しの記者にごり押しするのは今も昔も変わらない宮仕えの世界でもある。

随行員の資格がどの様な資格を必要としたのかは知らないが、兎に角広重は一員となった。天保3年(1832年)秋のことである。
単なる一人足と同じであっただろう、他の世界では名前など知られていない者の宿泊は下級の宿で今では何の痕跡もないと思う。

その様な環境で道中に画を描く余裕もないであろうが、もし広重が好奇心旺盛ならその途中で見たこと風景など宿や休憩時にメモることは出来たはずである。

道中人間はまだしも馬にとって浜名湖の一里の渡しは甚だ負担であったはず。
その様なこともあり街道のほぼ中間二川宿で一日の休養が馬のため取られるのが常であったとしても納得は出来る。
広重はその日、二川宿の写生をした。

旅は続く、この旅で一番興味を引くのは七里の渡しをどの様にして無事馬を渡したのかである。
そんなことの謎解きは他の人に任せる事にしよう。
兎にも角にも一行は京都に入り無事お役ご免に成る、到着時間にもよるが京都の取材はしたはずである。
街道図の終点の今を見させずとって返しをさせるのは考えられない。
三条大橋を描いた広重は京を後にした。

大津を過ぎた辺りで宿泊している様だ。
その為京都で旅の疲れを癒し翌日各所を見学し夕方大津辺りに着いたのか、それともお役ご免が早い時で三条大橋を描いた後大津へ向かったのか、推測でも分からないことである。出来れば前者であって欲しい。
2007.9.23

太田の渡し絵の?
木曾街道図は広重の旅日記でもある。大津から美江寺、加納から御嵩謡峠までの図は空の描写で時間経過が分かる。
垂井の雨中の大名行列その次の赤坂の雨上がりの風景への距離的と時間的経過はまさにそれを表している。

余所の記述では当時の旅が一日25qほどらしい、小学生の頃歴史で習った40q程の早足であったと言うことと比べ意外に感じる距離である。
途中で絵としての格好な場所を探し描いて移動の場合それは普通よりハードな旅であっただろう。
前述空や他の描写画から判断し時には35qほどの行程を行っている日もあるようだ。

石部の宿は東海道53次研究家の大半はここで広重が東海道を引き返す説である。
しかし大垣への用が無く、仮に東海道を実際に描いたにせよ同じ道を引き返させるほど世の中甘くないはず、現代と比べおいそれと旅に出かけられたのかなどと考えるとき。
立場の弱い広重としては「帰りは中山道の宿図を描いてこい」などといわれても断ることは出来なかったはず。
また往路は東海道、復路は中山道が一般的な京都行きとの説もあるようだ。

広重は草津追分けより中山道に向かう。
途中東海道の石部宿がさして遠くないことを知っている広重は石部の宿もこの時描いている。
その後高宮辺りで泊まり翌日柏原の先で泊まる。

この先広重は妙な行動をする。
目的地が大垣ならば垂井宿で中山道から分かれ直行出来るが中仙道を美江寺まで向かっている。これは柏原辺りを出立した場合直行すれば日の高いときに到着する、その為赤坂辺りの街道を描き夕方美江寺に着いたのではないだろうか。

木曾街道絵には広重自身が描き混まれているような気がする。美江寺の道を尋ねる素振りの人物は広重自身であり、大垣への道を尋ねている風景と推測する。
ここで広重の木曾街道図は一段落している。

広重は大垣の江馬家で何日もかけて江漢図を模写したのではないか。それにより江漢画風を習得した。
江馬家が大垣藩々医であり杉田玄白など有名な蘭学者とも親交があり、写鏡に関する知識、資料もあったと思われその技術も習得していたと推測できる。
又、立ち去り時に広重は写鏡自体も手に入れた可能性も考えられる。

何故江馬家に江漢の描く東海道53次絵があるのか、その謎解きは素人には難しいことである。
しかし素人とは素人なりに妙な事を発見する事もある。もしこの事を他でご覧になれば、この記事のパクリであることは確かなはず。

此まで江漢と表記してきたのはこの為である。
江漢は司馬江漢という、素人はこれを遊んだ漢江馬司、偶然であろうか名前の中に江馬がある。
勿論江漢は本名ではない、生涯の中でいくつも持つ名の一つである、名前の由来など今では分かることはないが遊び心で見てみると実に妙であり、江馬家と江漢図があったという説への飛躍も感じ取れる。
蘭学者でもある江漢は江馬家において五十三次絵を描いた、又は纏めた。

大垣から鵜沼まで約35km途中で加納で写生をしておれば鵜沼宿辺りが泊まりの宿である。
鵜沼より太田宿はおよそ15km4時間程の距離である。ここで太田宿の先、謡峠の木賃宿図に注目してみよう晩秋又は初冬の季節でありここをその日の泊まりの宿としたとき、次の細久手宿の絵が山仕事に向かう朝と思われる風景でありここでの泊まりは間違いのないことであろう。

謡峠3時頃の到着と仮定した場合、太田宿間はおよそ3時間ほどの距離、間は伏見、御嵩宿。
途中の伏見は今で言うなら画の中にある遅い昼食時である。
鵜沼からの時間を考えると広重は午前9時頃には太田の渡しに着いている。太陽の低い時期であるが写鏡を使うのには絶好の時間でもある。

ここで広重は初めて写鏡を使ったのではないか。
裏中山道太田宿に於いてこの絵を解析したとき、あまりにも実風景と付合しており、その方法が理解できなかったがこの方法があることを知り十分に納得することが出来た。

ただ写鏡についての疑問がある。昔の二眼レフを知っている方なら分かるが二眼の下のレンズ部分を省略した物と考えて欲しい。レンズからの入射光は45度傾けて取り付けられた鏡で上方に反射し天面に取り付けられてた磨りガラスに像を写す構造である。
このように当時としては高度な物を旅に持ち歩ける物なのか、時には不安定な場所、急な突風で取扱中に飛ばされる危険性もある屋外で遣うことには大きな疑問を持つ。
天面のガラスは大正時代の一般的な窓ガラスを見ても平滑な物ではなく、それを平滑な物とするには大変な労力が必要で、つまりそれだけ高価な物であったはずである。
ガラスと和紙を介してどの程度の像を望めるのか写鏡使用には甚だ疑問でもある。

しかし方法がないでもない、その技術が当時既にあったと思うが針穴写真機なら条件を満たすことが出来る。
これならばレンズなど不要である、又ガラスの代わりに直接和紙を焦点に置けばかなり鮮明な像を和紙に写すことは可能である。
かって和紙の代わりに製図用のトレッシングペーパーを使い針穴写真機を作り、その鮮明さは確認している。
この方法ならば、簡単な構造であり、形態に便利な構造にすることも容易なことである。
その原理は雨戸の節を介して障子に像を結ぶ様を見る事があった日本人は写鏡以前にその様な物を考案していても何ら不思議ではない。
針穴の前板と和紙を止める後半とを黒い布で覆えば携帯にも楽な物ができたはず。

この渡し図は他の絵と比べ少し不思議なことがある。
よく分析してみると地形の基本部品は非常に大まかであること、つまり細部の描き込みが必要のない構成になっている。
家屋など全くない。それでは実際の風景はこのようであったのか、この絵の左側は一番手前の松のバックは暈かした感じに省略されている、対岸には渡しの構造物などがあっても不思議ではないが、それらは省略されている。
これはその辺りから川岸は切り立った崖状に急激な変化をしており、後述時間帯ならば濃い影になっている部分である。つまり絵としては強い暗部が来て絵としては纏まりがつか無いことと、なれぬ写鏡では細部が判別できない暗さであったと考える。

この絵中対岸の竹藪が左に流されている、これは北西の風が吹いている証で、晩秋から初冬にかけての絵と考える。
この絵はこの場で着色されたのかは甚だ疑問である。
対岸の山は太田宿側からは逆光になり何時も青く見える山で、この地に生まれて以来緑や茶系の山肌は見たことがないほどの山である。
普通の広重画の中にある青いべた色の表現でもあって良く、時により広重が見逃すことはないであろう非常に魅力のある色の山でもある。
それを廃してでも山ひだを表現しているのは写鏡を実験的に使ったのかもしれない。

順光で山襞まで分かるのは太陽が山の側面方向から上がり低い角度である夏至を大分過ぎた頃であれば絵のような色と山容は眺められる可能性はある。
つまり晩秋もしくは初冬の晴れ、乾燥した少し風のある日の出より約2〜3時間後の午前中である。
2007.10.8


53次関宿絵と仙女香に迫る

八朔御馬進献の儀と言う行事が旧暦八月に行われ、それに随行した広重が帰路大垣に立ち寄りそこにどれぐらいの日数滞在できたのか。
太田の渡し図が晩秋から初冬に描かれた物ならば少なくとも1ヶ月は可能であったはず。
屋外で写鏡を使った場合、刻々と移動する像に描写の用紙を絶えず合わせ無くては成らず、長時間では完成までにその基準、像の大きさなどは微妙に変化し通常の消点感覚など含め奇妙な構図になったのではと、前回分に追加する。

素人は無責任であり、専門知識など持ち合わせていないし、泥沼は嫌いである(気付いたときは泥沼中が多いが)
東海道53次絵にしても木曾街道絵にしても当時は今で言えば売れてナンボのポスターなどと同じ類の物と思っている。
勿論興味のない者にとってはそれはゴミであるが好き者には堪えられないコレクションアイテムでもある。我が家には何故かその様な類の物が一杯である。

江漢図の関宿図の本陣にある仙女香の掛け札が江漢図の真偽に大変な影響を与えているようだ。
素人はそれ以前の事に疑問を持った。関について何の知識がない。
何故この宿絵は本陣なのか?本陣以外描く物がなかったのか?そんなに有名な本陣なのか?

江漢図を基にしたと言われている広重画は坂本屋仙女香と変化している。
仙女香は江戸坂本屋成る人物が創りだし当時有名な歌舞伎役者が俳号を仙女と称しており、それを看板にしたのが根拠らしい。
実に変なことである。仙女という言葉は昔からある言葉、新たに作った物ならば単に仙女香でよいはず。
それをわざわざ坂本屋と唱ったのは従来からある仙女香との差別化を図った物で、すなわち羊羹の○○屋、○明堂のカステラ、○○院八ッ橋などと同じ類の物で、坂本屋仙女香もその類であろう。
新たに開発され世の中に認知された商品の、その人気に載り類似の物を大資本による宣伝とで駆逐し、最初の商品のことなど記録にも残らず忘れ去られることなど今でも掃いて捨てるほど在る。まして現代のように特許等で守られることのない時代のことである。

本陣にこのような化粧品の類の掛け札などあり得ないとの論争もある。
それは時を経て江漢の思うつぼに填っている事に他ならない。
江漢も何らかの宣伝効果を狙った意図がある。
それならば、一番有り得ない処に在ることが一番効果がある、これが花街風景の中に在れば当然過ぎて見逃され何の宣伝効果もない。
又、全体の中に小さく描かれた文字に人は興味を示し、描かれている内容に注視する。
時には虫眼鏡を持ち出しても読もうとする。

宣伝でないにしても、江漢の遊びで在るとも言える。

このような隠しを見つけることに人は興味を示す。かってプラモデルの箱画でこのような手法を使ったことがあり、客の反応は非常に面白いものであった。
江漢図を見たとき同じ手法ではと考えたのである。

この絵を見ていて、本陣というお上の象徴でもあるところに全く関係のない掛け札。
時々起きる何の脈絡もない思いつきがこの時も起こった。臍曲がりのご政道を皮肉る意図があったかもしれない。
そして在る出来事が浮かんだ、それについて少し調べてみた。

広辞苑によれば仙女とは西王母。『西王母→周の穆王が西に巡狩して崑崙に遊び、西王母に会い帰るのを忘れたという』

正徳4年(1714)1月に起き処罰者1300人に及ぶ江島生島事件は起こった。
江戸城大奥の御年寄江島が前将軍家宣の墓参りの帰り山村座にて生島新五郎の芝居を見、芝居の後の宴会に夢中になり大奥の門限に遅れてしまい。大奥七ツ口の前で通せ、通さぬの押し問答になり、その後大奥ばかりか江戸城を揺るがす大事件になった件である。

江戸城(本陣)の入り口(関)で大奥の御年寄(周の穆王)が墓参りをして(西に巡狩して)芝居の後の宴会に(崑崙に)遊び、生島新五郎(西王母)に会い帰るのを忘れ通せ、通さぬの押し問答になった。
江漢が関宿に本陣を描いたのはこのためである。

つまりストーリーがありこの絵柄ができたのである。

明治時代以降にこの出来事が芝居などに取り上げられるようになったと言われるほど話題は続いていた出来事である。
江戸時代の庶民の間では忘れ去られることはなく、坂本屋仙女香の宣伝媒体として保永堂が見逃すはずがない。
又、一連の絵の販売は江戸市中だけであったはず、その絵に隠されたお上に対する反骨は洒落の分かる江戸庶民には密かな喝采を浴びたものと思う。
これは広重、保永堂が考え付き実現できるような問題ではないと考える。

近日これを超える謎解きに迫る(構想は出来上がっているが掲載する時期は不明である)
2007.10.10


蒲原宿に何故か雪は降る

太田の渡し、その後に架かった太田橋の場所は太田町ではない、現在美濃加茂市内の町名変更で本郷町になっているが、変更前及び美濃加茂市誕生時の合併前も古井(こび)町であった。外国から見て東京というのはどの範囲までであろうか。成田辺りまで含まれるのか、国内の東京より離れた地域の人の感覚は浦安も東京であるのではと思う。勿論千葉県の浦安という地名を知っているわけではなく東京ディズニーランドからである。

蒲原と由比間は驚くほど近い。
東海道53次絵の顧客範囲は大半が江戸市中であるはず。今とは交通機関、情報網が全く違う当時としては外国から東京を見たり、地方から見る東京の範囲とあまり変わらなかったのではないか。
その場合、蒲原にある由比なのか由比のなかにある蒲原なのか感覚的にどちらであったのだろう。本陣が在る由比が一般的に蒲原より知られていたのではないだろうか。話はその前提で進める。
雪の蒲原は江漢の巧妙な策が入っている。
北海道の詳細が知られていなかった当時としては、静岡県は日本で一番最初に雪が降る県の一つである。
しかし蒲原辺りは全く雪に縁のない地域のはずである。その様な場所を何故雪景色にしたのか。
江漢の本当の意図は由比にある。つまり「蒲原はまさに雪」これを前述話の前提で考えると「由比は正に雪」。
驚きであろう「由比正雪」があぶり出されるのである。

江漢は先回記した関宿と江島生島事件と同じく江戸時代の一大事を洒落にしているのである。
由井正雪の変についての詳細は知らないが、恐らくその処置の仕方に密かにご政道に対する批判があったのではないか。
それでは何故由比では無く蒲原なのか、ダイレクトで判るような方法では人は喜ばない、一呼吸置いて、な〜る程位が一番共感される、いわゆる物知りと言われる層辺りたりには特にである。
その事実は絵と共に口伝てで残され保永堂の知ることとなったかも知れない

もし仮にであるが江漢図の一番手前の家が正雪生家を表しているとすれば面白い事である。
由井正雪生家は由比本陣前に現在もある。正雪の変の背景に朝廷が絡んでいたと言う説もある。いずれにしても江島生島事件とは比べ物にならない程の事件であり、広重、保永堂が企てることは出来ないことであろう。
その為保永堂は逃げを打った。
「保永堂  その方売りし蒲原図は先の由井正雪変に関し、ご政道をを批判する物と心得るが」
「滅相もないお奉行様」
「何故雪には縁のない蒲原が雪景色じゃ」
「お奉行さま駿河の国は富士の高嶺の如く、日の本で一番初めに雪が降るところでございます」
「しかし幾ら何でも蒲原に雪とは嘘も甚だしい」
「滅相もございません、これは本当の雪の蒲原の風景でございます。越後の蒲原平野という所で本物の蒲原の雪風景でございます。街道で一番雪に縁が無く同じ地名の所に絵のなかで雪を降らす洒落でございます」
「これはひょっとしてあの北斎の北越奇談では」
「いや!流石にお奉行様お目が高い」
なんて事もあったのではと素人の話は飛躍する。
「旦那、この関と蒲原の絵は大ぴらには言えませんが、実はこれこれ、しかじかの裏話があるんです」江戸の店先でこんな販売がされていたのかも知れない。
口伝えの噂は今も昔も出元が不明のまま急速に広まるのである。それが江戸っ子の関心あることならば特にである。

仕事柄長い間、芸術家と言われる分野ではない商業イラストレーターの何人もと付き合ってきた。その過程で何時も驚くことが広い知識を持ち合わせている方がいなかったことである。別にそれが悪いと言うことではない、彼らの大半は依頼主の要望に応える絵を描くのが仕事であって、専門的な考証をする事は殆どない、それをやって居れば採算など取れないからである。又、専門誌ででもなければ、細かな部分の考証など必要のないことである。

販売対象が江戸市中と限定された範囲であれば、販売数の多いのは江戸近辺と駿河、三河、京都の絵であったはず。つまり江戸へ移った人達が多くの顧客である。京都については有名な所を配し、橋脚の基がどの様な物であったかは知らないが、昔居た頃は石ではなかったと客が言えば木のままで、それが一巡したら広重が見た石製の絵に修正新版として売れば商売として良いことである。
昭和の終わり頃でも著作権、版権など曖昧なところがあり、絵のバックなど何処かで見たようなと言う物がよくあった。
当時有名な漫画家の犯人逮捕のカットはその少し前に海外で起きた疑惑の事件の容疑者が逮捕連行される有名な写真そのままであったりした。わずか20数年前でその様なことであり、まして江戸時代であれば・・・・。

昭和の終わり当時こんな事があった。当時韓国ではコピーなどは普通であった。日本から発注された物を製作するすぐ横で同時進行でコピーが作られたり、コピーの技術の高さをセールスポイントとしていた、その何十年か前の日本の姿でもあったが。
江戸時代は一部流用、オールーコピーなどは普通の時代であったのだろう。それが当世流行の鑑定団の成り立つ一翼を担って居るとも言える。

江漢図をすべて見たわけではない、他の絵にも密かに隠された遊びがあるかも知れない。

広重の東海道53次絵が人気が出たのは著作権のないおおらかな時代のなかでの遊びがあったからこそであり、保永堂の庶民の喜ぶつぼを知っていた企画力であったともおもえる。

重ねて言う、これは素人の浅い知識で勝手に推測、遊びのなかで書き連ねたことである。
いい加減なことを書くなと無視される物と思っている。
世の中には色々な人がある、腹を立てられる人もいるが無視して欲しい。

所詮、売れてナンボの浮世絵と思っている故

2007.10.12

new

年の初めに
本業に手間取り更新がままならないままであった。正月の酒もそろそろ抜けた書くか、である。
が、これまで書いてきた事の大半を忘れており話をどの様に結びつけていくかが至難である、どは言えあまり気にする性格でもなし。

英泉の鵜沼、合河宿図は木曽街道以東の図とは描かれた時期が違うと勝手に推測した。
それでは英泉はそのまま江戸に引き返したのだろうか、それともそのまま西進したのだろうか。

馬込より十曲峠を通って遠州に出たのではないかと考える。途中に秋葉神社の本宮があり英泉にとっては非常に興味深い場所でもある。
そのように推測すると何となく広重と英泉の場所割りが納得できる。

話は変わる
かってプラモデルの開発部門に籍を置いていた。そこで25年以上経った今でも売れ続けているシリーズを開発した。
往年の名車をモデル化したその箱絵にストーリー性を持たせるという従来にない手法を採った。
ストーリーの主役になる人物が書き込まれた原画に妙な人物が一人入っていたことがある。イラストレーター氏の自画像であった。
面白いと言うことでそのまま商品化した。
そのような経験から木曾街道図には広重自身が描き込まれているのではないかと思いついた。
そして2007.10.8太田の渡し絵の?でも触れたように宿図の中にそれらしき人物を発見した。
赤坂の橋上の人物であり美江寺の人物である。美江寺の道を訊ねる男の顔は所々で見る顔でもある。
何処の宿絵かはゲーム感覚でお探しください。
2008.1.4



無断転載、使用を禁止します

top頁へ戻る