桃太郎と隠れキリシタン
桃太郎の伝説は何時頃の発祥なのだろうか。
今の話のなったのは以外に新しく背景に軍国主義教育があるという説がある。
それ以前はもう少し艶っぽいものであったそうだ。
木曽川沿いに競馬で有名な笠松町がある。
我が家は屋号を「笠松屋」といい、6代近く前にこの地から移住した。
近年笠松町で隠れキリシタンンに関する資料が見つかり、信者がいたといわれている。
木曽川流域には笠松、愛知県扶桑町、可児市、御嵩町にも隠れキリシタン信仰の伝説がある。太田宿にもそのようなことがあり江戸時代取締りにより捕らえられた信者が名古屋まで送られたという記録がある。
御嵩町の近くに兼山と言う町がある。元々城下町である。犬山城の天守閣はこの町から移築したものといわれている。
城山の麓には可成(カジョウ)寺がありこの境内には森欄丸の墓がある。
その近くには明智という地名がありここは明智光秀の出身地といわれている。
隠れキリシタンは秀吉の頃以降のことで、それ以前の信長時代は禁止されていなかった。
秀吉の朝鮮出兵の頃、九州でキリスト教と領土の問題が発生それが因で秀吉の禁教が始まったといわれている。
木曽川に沿って下流から上流へと布教されていったと想像は出来る。
光秀の娘の細川がラシャがキリスト教の信者であったのも多少は影響があったと飛躍した考えを抱かせる。
昔より不思議に思っていることがある。
この木曽川流域に桃太郎伝説がある。
子供の頃から聞いていたのは、可児市のカヤバ工業の南辺りの可児川中に鬼が島があり(現在もあり)、坂祝町の酒倉は鬼の酒の貯蔵庫の在ったところ。同じく取り組みで鬼と取り組み、勝山は勝利をしたところ、桃太郎神社の対岸に宝積寺がある丁稚上げの話なのか真偽は知らないがよく出来た話である。
さらに川上には鬼岩という地名がある。
キリスト教布教は宣教師であり。
外国人である、その容姿は外国人などとは縁もない山国の人にとっては、全く別の生き物と思われたに違いない。さらに肉食など人間というより動物的に思われたのではないだろうか。
つまり、鬼である。
キリスト教禁止、それに伴う弾圧、桃太郎伝説は宣教師=鬼の征伐のひとつの策であったと飛躍した考えである。
今の桃太郎の定説話が軍国主義教育のひとつの策であったとすれば、明治以降の期間で完全に定着している。
それよりはるかに古い時代に作られた伝説が明治からの時間と比べ永いときの間に一つの説として定着しても何の不思議でもない。
外国人を鬼と称したのは僅か60数年前にもある「鬼畜米英」である。
春のぼや〜とした頭は、不思議な考えをもたらしてくれる。
桃太郎と隠れキリシタン
前述の後に話は大きく動いた。
桃太郎に関して調べてみた。netはまことに便利なもので、体を動かす事も無くして各地の事を瞬時に調べられることである。
桃太郎は近くの愛知県犬山を中心とした話と岡山県の話である。
今回調べたところ桃太郎の話は全国各地にあり、桃太郎神社も同様に数箇所あることを知った。
そして隠れキリシタンについても調べてみた。
それは非常に驚きの事実であった。
一つは桃太郎伝説のある地と奇妙な一致をしている事である。
先回の宣教師=鬼の征伐と言う仮説を裏付けるような事実である。
もうひとつは、隠れキリシタンの事実は主に天草地方のことであると思っていた。地元に全国的にも代表されるような事があったと言う事である。
界隈の隠れキリシタンのことを知ったのは偶然のことである。
太田町(美濃加茂市)より木曾川を挟んだ対岸に鳩吹山がある。二十歳の頃に其の山に登ったときの事だと思う。
麓の道沿いにクルスを刻んだ墓石が幾つも並んでいる光景に出くわした。
其の地とキリスト教を結びつける知識も無く一つの疑問としながらも忘れていた。
その後新聞でそれが隠れキリシタンと関係がある記事を読んだ。しかしやはりそのまま忘れ去っていた。
数年前まで犬山を拠点とする桃太郎伝説の鬼が島が何処にあるのか興味を持った。
古老等に尋ねようやくそれが予想外に近い木曽川の対岸可児市の可児川中に実在した。
今回の隠れキリシタンについての調べの中で、キリシタン弾圧に伴い濃尾崩れと言われることがあった事を知った。
弾圧の中でも有名な濃尾崩れの発端が可児市の塩と言う集落で、私が見たクルスの墓石のある集落でもある。
鬼が島は其の集落にある。
其の地の摘発で捕らえられた信者は名古屋、笠松(岐阜県)や現可児市内の数箇所の切り込み地といわれる処刑場で処刑された。
地元の中仙道太田宿でも摘発があった。
記録に残る件は塩の住人と姻戚関係にあった旧家の人達で名古屋で処刑された。其の他に多くの信者が居たといわれている。
桃太郎伝説で鬼が島について伝えられている事に、鬼が島は煮えたぎった硫黄の臭いが漂っているとの言い回しがある。
キリシタンの拷問については様々な方法があったようだ。
其の中の一つに「雲仙責め」と言う方法がある。
煮えたぎった硫黄を浴びせかける残虐な方法である。其の他にも硫黄を使った方法があったようだ。
雲仙は長崎県であり、この地方でそれが行われたのだろうか一つの疑問がある。
江戸時代、火薬は幕府の管理下に置かれた重要物資であった。当然それに必要な硫黄も厳重な管理化の物質であったはず。
三河の岡崎辺りは手筒花火など花火産業の盛んなところである。それは徳川の地であり幕府の管理化の火薬の生産地であった事によるようだ。
濃尾崩れが尾張藩の管理下であり、木曽路界隈で硫黄は採掘されていた。
そこは地理的に岡崎に近い場所でもある。硫黄は容易に入手できたはず。
鬼が島は当時信者、宣教師の拷問、処刑場であったのではないだろうか。
隠れキリシタンは鉱山と密接な関係があるようだ。
隠れキリシタンの痕跡がある近辺には昭和時代まで色々な鉱物が採掘されていた有名な鉱山がある。
笠松、塩、御嵩、中津川、駒ヶ根、塩尻、甲府
隠れキリシタン伝説と桃太郎伝説の地である。考えてみるとこのルートは武田の本拠地に通じるルートでもある。キリシタン禁止令が出る以前、江戸が中心になる以前ならば当然のこと金は西に流れたはずである
それでは何故(隠れ)キリシタンと鉱山が関係しているのだろうか。
それはインカ帝国のときもそうであったように、当時の西洋が金塊を求めて侵略をしていた面がある。
彼らは決して日本を目指してきたのではない、彼らはマルコポーロの東方見聞録の黄金の国ジパングを目指してきたのだ。
織田信長は宣教師を優遇した。そして西洋に目を向けていた。
国内において信長の元、キリスト教は恐らく急速に浸透していったと思われる。
キリスト教についても少なからぬ影響を受けていたのではないか。
。


隠れキリシタンで有名な所と桃太郎伝説のある所を図にしてみた。
ここが全てではない。例えば沖永良部島にもその伝説がある。
中津川の桃太郎伝説と鉱山の関係は、近くの阿智町の辺りには小規模な鉱山がいくつか在ったようだ。
数人規模で昔、金の採掘をしていたという話も残っているようだ。昔といっても明治以降のことのようだ。
そのように明治以降の事さえ曖昧になっているのが現実のようである。桃太郎伝説と消えたかも知れない鉱山と、もっと密接な関係があったかもしれない。
沖縄諸島では金の採掘は行われていなかったといわれている。
しかし金山に関連する地名などが残っているようであり、金の採掘が行われていたような昔話もあるようだ。
沖永良部島は西郷隆盛の例のように薩摩藩の流刑地でもあり、藩は違うが佐渡金山、甲府金山などのように
罪人の流刑地でもある。
そのようなことから見ても何らかの物があったのではとも考えられる。
この記事をまとめている時に素人の目は飛躍した。
森蘭丸の兼山と明智光秀の明智は同郷といっていいほど距離にして僅かな距離のところである。
勿論歳はかけ離れているが、本能寺では蘭丸は信長と共に討ち死にをしている。
もし、光秀に蘭丸が通じていたとすれば、一つの新たな話が出来上がるはずである。
西郷隆盛は勝海舟と異なり外国との接点が無かったといわれる。、
本当にそうであったのだろうか。沖永良部島に金鉱があったとすれば、他の地の桃太郎伝説と同じく外国との接点があったと推測できる。
日本本土と離れており、幕府の目からは外れていたとしても別に違和感の無いことである。そこが薩摩藩にとって長崎の出島と同じく、外国との交易の隠れ地であったと推測すると、そこに流された西郷は外国の知識を得ていたと考えられることも出来る。
それは薩長同盟の際、外国(人)との接点があった坂本竜馬と通じるものがあったのでは。
キリスト教禁教は明治6年まで続く。木戸孝允によるキリスト教徒への処分は徳川幕府時代以上の残虐さであったようだ。
その間における西郷隆盛、坂本竜馬、木戸孝允、小松帯刀の人間模様を考えると興味ある事実が出てくるような感もする。しかしこれ以上の泥沼へは入り込まないことにする。
以下は未だ下書きである
村上水軍
桃太郎伝説、キリシタン、鉱山が密接な関係であるとしたなら、その分布は時の権力者の中枢の地を取り巻いている。
それは権力者から見れば、関が原以降の大まかな外様大名の配置と同じである。
そこには敵対勢力に変ずる勢力でもある。
鉱山=軍資金をバックにしたそれらの勢力と外国勢力が結びついたならば、日本自体が危うい状態に陥居たはずである。
徳川幕府が鎖国政策を執ったのもキリスト教を先達とした西洋諸国の日本侵略を避けるためも大きな要因であるはずである。
備前岡山、小豆島、讃岐高松、伊予など瀬戸内海沿岸に桃太郎伝説があるという事実。
宣教師などキリスト教布教者はふきょうおと交易で当然海上を主たる移動手段としていたはずである。
それならば当然のことながら海上航行の安全保障の問題が発生する。
当時瀬戸内では村上水軍等が制海権を握っていたはずであり、当然のことながら水軍と何らかの接点があったはず。
その関係が密接ならば、高山右近など禁教により大名が追放されたほどであり、村上水軍もそれなりの影響を受けていたのではないかとの疑問が湧いた。
(村上水軍は三派があるがここでは来島村上水軍を主とする。)
やはり接点はあり、それは水軍の滅亡に至る事実である。
宣教師は時の権力者秀吉より交易などに伴う航行、の許可状を貰い受けている。
しかしその後村上水軍に接触、水軍に対し航行安全保障を願い出ている。
それは権力者よりも、水軍の制海権が強い表れでもないか。
又、水軍と組む事による航行の自由さは日本侵略の重要な要素ではなかったのでは。
その後、秀吉の伴天連追放令、海賊禁止令により海賊から撤退することになる。
徳川幕府に引き継がれた禁教政策、幕府による瀬戸内の制海権の掌握などの後、豊後の玖珠に転封される。これによって完全に海とは縁が切れることとなった。
この記事を纏めるこの時点では、豊後玖珠については知らず、又それ以上調べる事もしなかった。
しかし、意外なところで意外な事でその地について調べる事となった。
それは桃太郎伝説を調べている最中、大分県に桃太郎の銅像があることを知った。
そこが玖珠町であった。
以下は玖珠町商工会のホームページからの抜粋である
日本一桃太郎の銅像
桃太郎の銅像(町指定有形文化財)
北九州小倉の到津遊園に、久留島武彦の提唱により桃太郎の銅像が建てられた。昭和十三年(1938)のことで、以来毎年春に桃太郎祭りが行われ、子ども達に大人気を博していた。
しかし、戦争の激化により昭和十九年(1944)、中断せざるを得なくなった。折から軍事物資として金属回収が強化され、この桃太郎像も供出を迫られたが、阿南園長の苦心によって密かに守られ、難を逃れることができた。
昭和二十五年(1950)到津遊園の好意によって森町に寄贈され、童話碑を仰ぐように建っている。
このホームページに出会った時点では未だ村上水軍の事に気づいていなかった。
久留島武彦を見たとき久留島→来島海峡が頭の中に浮んだ。
もしやは当たった。
玖珠町は森藩の在ったところで、氏は14代当主であり「日本のアンデルセン」と称されていた人であるということである。
森藩は瀬戸内より転封により出来た藩である。
尚、久留島姓は来島より改名されたものである。
2009.8.2