裏!
中山道
太田宿
(中仙道もう一つの太田宿その2
始めた当初hは思いもしなかった量になったので新たなページにした。

少しの浮気の果てに
ここの処東海道五十三次画に浮気をしており太田の渡しについて更新できない。
それに関連して木曾街道六十九次図を見てみた。手元にある印刷物、インターネット上の画像を見たが、昨日近くの図書館で大判の画集を見た。
本物に近いと思われる美術書の色あいはそれらと異なっていた。

このシリーズ見方により非常に面白い、その中の一例を書こう。
太田宿の次は伏見、その次が御嵩 謡坂(うとうざか)村 の木賃宿風景、、その次の細久手宿図が朝の風景からして広重はこの木賃宿に泊まったはず。
太田の渡し図の対岸の竹藪は左に流れている、つまり西、又は北西の風であり、一連の流れ(東海道五十三次の謎に関連するので詳細は省く)から考え、描かれたのは晩秋から初冬。
日暮れの早い時期に謡坂(うとうざか)村で描くためには遅くとも四時前に到着しており、途中の伏見での時間を考えると太田宿は12時には通過していると思われる。
前日の宿は鵜沼辺り、これから判断し太田の渡し辺りへは午前10時頃の到着であろう。

広重画は18●●(自分の中ではほぼ確定)年の晩秋から初冬のある日の午前中に描かれた物で、広重が初めて試みた方法で描かれた物と考えられる。
その方法が広重画解析に於いて疑問に思った、あまりにも地形と合致した描写の方法、目視と微妙な食い違いがあるレンズを通した画像(勿論レンズによる歪みがあることは承知の上のことだが)の事も解決した。

その様なことでこの太田の渡し図は貴重な物であると何の権威の後ろ盾もない素人は勝手に推測する。

この木曾街道図中の人物には広重自身を紛れ込ましているいるような気がして成らない。
広重は律儀な職人であったのではと想像する、それ故木曾街道六十九次図が東海道五十三次図より人気がいまいちだったのではと考えru

.2007.7.2

関連 年代整理

前回書き込み直後、参考に最適なサイトへリンクすべく許可打診メールを送ったが回答がないので。文句が来るまでは勝手にリンクさせて貰うことにする。
ここです(クリック)
事柄の時間経過を纏めてみることにした

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木曽川の流れが変わる 寛政年間
広重生涯                                                          1858年没
英泉生涯
この間に祐泉寺東に新町開設                               →1845年(弘化2年)

川の瀬が変わったのは(1781〜1785)とされている。それにより祐泉寺東の渡しは上流に移った。
新町が完成されたのは寛政年間であり最長20年ほどの間に、埋め立てを含む宿整備が行われたこととなる。実際はもう少し短期間であったであろう。
新町開設については昭和59年発行 著者:高橋博 「中山道太田宿に生きた人々の系譜」 216頁による。
美濃加茂市史では寛政年間製作の絵図には新町の記載が無く弘化2年の絵図で初めて確認できるとされている。
余計なことではあるが我が家に関しては197頁である。

1833年 東海道五十三次図発行
1835年 英泉作 木曾街道六拾九次図発行
1838年 広重作 木曾街道六拾九次図発行
.2007.7.15

川の流れのよう
美濃加茂市市民公開GISより

今まで書いてきた旧木曽川が浸食のため岩盤に突き当たり流れが太田橋下で変わった。その流れを黄色のラインで表す。
水色斜線部分は現在確認できる河床の岩盤である。広重画の中で指摘した問題の土地痕と推測する。
可児側の渡しより約一町下の太田の渡しに着いたと言われている。その太田の渡し(下船場)は文化会館辺りである。
流れは急流であろうが流れに遠心力が考えられるならば太田の渡し舟は導かれる状況が生まれる。この図で分かるように難所とはいえ、非常に合理的に流れを利用したと考えることが出来る。
水色斜線地の可児側にある流れは、この写真で判断できる水深の深いところである。この部分が1814年に描かれたという古文書膝栗毛の絵にある二つの川の一つではないか推測する。
膝栗毛の古文書は中山道会館の古文書コーナーに展示されている。
裏中山道太田宿2006.4.23書き込み分で指摘したようにこれが旧飛騨川ではないかと思う。

1838年 広重作 木曾街道六拾九次図発行との関連が分かるように先回の年表にt着色した。
写真中の太田橋下に表示の水色←は流れが阻害され一種のダム湖的になっていたのかもしれない。ここの辺りは水流が絡み合い複雑な流れになっていたとも思われ、其れが難所と言われたのかもしれない。
只、木曽の桟、太田の渡し・・・と恐れられた渡しは祐泉寺下の渡しの頃のことなのか、この太田橋下の渡しのことなのかは知らない。
尚、裏中山道太田宿2006.10.29書き込みの消えた東山道について
現在では人一人が通れる道幅であるが古老の話では大正時代大八車が楽に通れる幅の道であった様だ
2007.7.29


新たな展開の前に
泥沼に入りかかっている太田の渡しについては、これが素人の限界である。
昔から見聞きしてきた太田の渡しについて持った素人の疑問から書き出したことで一段落しようと思っている、実は面白くなくなったというのが最大の理由である。
時々は戻ってきて拘ることになるとおもっている。

過程に於いて素人の目から又も2,3の思いつきの疑問が湧いた、この辺りを書き込んでいこうと思う。
太田宿を離れ中仙道自体へのナ〜ゼを含む疑問である。
そこまで行く前に身近な疑問に触れよう、素人にはとても解決できそうでもない事である。

近年、前回の図中に示す太田橋の下(黄色い線間)及び太田橋上の可児側にある埋没林である。
およそ2万年前の物であると言われる。太田橋の下の物についても同じ年代なのか知らない。
ここの埋没林(化石)は現水面より上であり、前図中黄色の流れに変わるまでは土砂に埋没していたと想像する。
可児側については現水面より下にある。素人考えでは現水面下より低い土地に樹木が育ち、土砂に埋まり化石になり、流れにより土砂が流され再び現れたとしか理解できない。
勿論富山湾、富士五湖の埋没林が水中で化石化しているのかは知らないが、水中でその様なことが起きるのかとも思っている。
仮に水没していたとしても海中や湖の中とは異なる川の中、浸食により痩せ細らない物なのか、それとも再び土砂から露出したのは2万年と比較して最近のことなのか興味津々であるが近づかないことにした。

今、あらためて永い年月の行動を繋げてみると滋賀県の多賀大社辺りから日本橋までの間を全て車、徒歩で通っていることに気が付いた。
千葉に単身赴任中の時は安中の西、富岡までがテリトリーであり、一時は埼玉県人に埼玉県の人間より裏道を知っている岐阜県人」と一目置かれていた頃、和田峠、軽井沢は夏の盛りにリュックを背負った旅であり、佐久市辺りはボンネットバスの取材で行った場所である。
首都圏より安中辺りへ行くときは時折何故こんなに遠くまで中山道は北上しなければならないんだ、和田峠では何故わざわざこんなに険しい道を通らなければならないんだと思ったりもした。
10年ほど前に一般道を太田より諏訪を経由して12時間かけて軽自動車で埼玉まで行ったことがある。下諏訪から和田峠までの道を知っているだけにその時は特に感じた。

数ヶ月前に木曾街道六拾九次画を調べている時に頭の中でその路線図がある構造物と重なった。
それを基に範囲を広げ調べてみると中山道は街道とは別の顔が浮かんできた。
其れは関ヶ原の役以上に家康が恐れたと思われる戦があり、幕府設立後その備えをし、その一環が中山道であったと推測した。
その目的からすれば中山道は東海道とは比較にならないほど重要な街道物であったはず。素人の考えはどのようにでも飛躍できる。
2007.8.12


和宮降嫁の裏側

黒船来航、桜田門外の変など世の中が焦臭くなって来だし和宮降嫁勅許が行われた時代に、この宿では新たな動きが始まった。

この書き込みの発端となった地形に関連することである。最初の方に書いた様に太田の地形が関ヶ原の地形に似ている事、そして子供の頃からこの地の者が擦り込まれてきた前述新たな動きのこと、和宮降嫁の際の二万五千人と言われる行列への素人の素朴な?が全ての始まりで延々書き連ねてきた基である。

和宮降嫁の際の二万五千人
臍曲がりはこの二万五千人の驚く規模からこの行列自体に隠されて何かがあるように感んじとった。
何の予備知識もないまま色々と空想しながら楽しんだ。歴史上の事実を積み重ねれば辻褄の合わないことは出てくると思うが、歴史学者でもないそんなところは笑い飛ばして欲しい。歴史の断片的事実を縫い合わせるよりも、出任せとも言える方法と想像という方法で断片を探り出していく方が遙かに面白いと思っているからである。

当初思いついたのは25000人、そりゃ軍隊じゃないの。
時勢から討幕の考えは生まれていたはずである。その場合東征軍の道は東海道、中仙道が当然考えられる。主要幹線の東海道の宿場、道路等の状況は詳しく把握できていたはず。中仙道はどうであろうか、当時としては参勤交代における加賀前田藩の2000〜2500人の行列が最大規模であったと思われる。
仮に25000人の半分を中仙道に振り向けたとしても前代未聞の規模であり、其れがどの様に受け入れられるのかは多分誰も分からなかったのでは。
降嫁に際しては幕府から2万人規模と言われる出迎え要員が派遣されたようである、その要員が帰路となる行列に組み込まれているのかは別にする。

25000人という規模が現実に則した数字なのか。
石高に対する派遣用兵は時代によって変わっているが、一万石当たり100人と仮定した場合、長州藩37万石、薩摩藩71万石、佐賀藩35万石 、土佐藩24万石その他諸々の西国大名分を合わせると考えられない数ではない。

又時期としては10月の後半に京都を出発。稲の刈り入れが終わった時期であり、農民の反発の一番少ない時期でもある。
和宮降嫁の大行列は、その後に仕掛けられる討幕に備えての公然とした軍事情報収集とその予行の部分が有ったように素人は思う。
道路状況については駕籠とはいえ高貴な方通るに伴い街道は整備されるのは今と同じ事であったはず、つまり最新の道路情報が的確に掴め、進軍に有利な状況が相手の力で出来たあろう。

その様な行列が諏訪から甲府を抜け江戸へショートカットされなかったのか。
実際の東征が東海道、中仙道、対長岡藩に代表される北国街道の三街道であり、それから考えると和田峠、軽井沢経由の本来の中仙道経由の必要性も考えられる。

又、補給路についても薩摩、佐賀、長州、京都→小浜は日本海々路に接しており陸路よりも遙かに有利である。10月から11月初めにかけての日本海の荒れ模様がどの程度なのかは知らないが、南風から北風に変わる間であり穏やかであったりすると非常に綿密に寝られた策略であったようにも思われる。
素人だから出来るであろうこの考え、如何がでしょう。

補給路についても薩摩、佐賀、長州、この項は先回書いた中仙道の本来の目的と大きな関連がある。其れはいつかの機会に。
2007.8.19

中山道は万里の長城
本州の街道路線図(宿の表記の無い、線だけの図)をボケーと見ていた。
中仙道が或る構造物とダブって見えた。
何故か中国の万里の長城である。
お囲い堤北端より続く険しい山道は自然の地形を利用した日本版万里長城ではなかったのか。
それで考えると下諏訪から和田峠、碓氷峠の大回りコースも何となく納得できる。

このような奇想天外な思いつきも、面白いと自画自賛。別で進めている東海道53次絵と大垣の関係も奇想天外の思いつきで展開していく。
かって誰も思いつかなかった宿図の中の隠された事実を解く。
無責任な素人的発想だから展開できることであると思っている(それでも多少の裏付けは確認している)

家康に大きな影響を与えたのは長篠の合戦ではなかっただろうか。
鉄砲の出現で根本的に変化をした戦い方、その背後にある外国の脅威。

中山道を長城とみた時、それは徳川家臣でもない対外様大名への備えでもある。
それだけであろうか?。大大名の外様の配置を見てみると江戸より遠く海岸沿いが大半である。
外様大名の矛先は江戸へだけではない、反対を向ければ海、つまり外国である。
外様大名は防人でもある。

元寇の歴史からしても重要な拠点は九州である、外様の配置も偶然とは言えそれである。
国内だけの備えならばこれほど強固な備えが必要であっただろうか。
江戸から諏訪にいたる甲州街道を主とする街道は長城でもある中山道への補給路と見ると
木曽より碓氷峠に至る山岳路への補給路として絶妙な位置に接続しているように思う。
2007.9.29

狼煙台
この記事は3月の始めに別に持っているブログに書き込んだ物である(http://anagura.gifulog.com/)

太田宿より木曾川を挟んだ対岸に鳩吹山がある。
私たちは天神山と呼んでいる山でもある。
木曾街道69次図太田宿図に描かれている山でもある。

この山に三回登ったことがある。
初めて登った小学校6年の遠足の日にちはわかる。
その日八丈島で金環食が見られた日であり、50年ほど前のことである。

二度目は20代前半のことで、このときは尾根道を犬山の桃太郎神社あたりまで歩いた。
天神山の最高点の少し下、眼下に太田宿を見下ろすところに人が寝転がるに丁度よい大きさの平たい石が在る。
この石の上に立ち太田宿方面を眺めると太田盆地が一望にでき非常に気持ちのよい気分になる。

この石が何なのか、妙な疑問が湧いたのは昨年末のことである。
太田宿一帯が関が原と地形的、面積規模的によく似た地形であり、関が原役後の戦略地であったのではと素人と推量で他のホームページで書いている。
http://anagura.gifulog.com/

そのようなことから素人の無責任な考えが浮かんだ。
当時の通信手段は、である。
徳川は武田軍の知恵、技を大切にしたと聞いている。
ならば当然武田の通信網である狼煙を基礎とした通信網があっても不思議ではない。

鳩吹山→犬山城への通信は?
太田宿図に描かれた鳩吹山の右肩部分に見える峰は、背後の山であり現在ではこの山頂を愛知と岐阜の県境が通り、犬山城までの山で最高峰である。
ここに中継の狼煙場があれば難なく通信ができる。

先日太田宿で開催された大八文庫は「信長美濃を攻める」であり、その中で小牧山が少し話題として出た。

その時、鳩吹山→犬山城ルート以外のルートが浮かんだ。
武田軍が甲州、信州等に築いた狼煙台間は4km程のようだ。
以前テレビ番組で人間の目で何キロ先の狼煙が見えるか実験していた。
中国で現地人での実験であった。そのときは30kmほど離れてと記憶している。
日本人スタッフは双眼鏡でようやく確認できる距離であった。
砂漠地帯で湿気のない、間に遮るものの無い山頂間であった。

司馬遼太郎の著書の中にモンゴルの草原で地平線の彼方の人馬を現地人が識別して一節がある。

地平線はどれ位の彼方であろうか。
意外なことであるが4km強の距離である。

小牧山は標高約86m、麓は標高約20mその差は約66mである。
単純計算であるが山が地平線に隠れる距離は約29km先である。

図の内側の円は小牧山を中心に半径10キロメートルで外側が20km円である。
地平線の29kmはその地の標高で若干短くも、長くもなるが、小牧山を狼煙場にすれば瞬時に濃尾平野一帯をカバーする通信拠点になったはずである。
念のため途中に中継の狼煙場があれば確実である。

岡崎を経由すれば東への通信も容易であったに違いない。

これは何も徳川時代のことだけではなく、それ以前の織田の加治田(現、富加町)攻め、堂洞(現、美濃加茂市)攻めにおいても使われた手法ではないかと素人の勝手な推測、放談である。
鳩吹山→背後の山→小牧山→清洲への通信網である。

現代の通信事情からすれば比較にならない事であり、こんなことに興味を示す
者は本当に変わり者であろうと思う。
あまり聞いたことは無い事であり、狼煙場跡探しも面白いのではと思っている。

自分で探したら、ダンナよしやしょうや、浮気性はすでにほか事に目が行っておりやすから


(作年更新出来ずにいた、ネタは数点在り下書きをしていたが入退院などで最終まとめが出来なかった。
その間に流石10年経たw95ベースの98seでは支障をきたすようになり、そこへ光通信を導入では勿体無いほどの環境になった。その為遂にXPに換えた。
vistaは98のデーターを移せないと言うことと、信頼性の問題からであった。
98seのデーターはXPでは使えないとの家電店の説明であったが、そんなことはなどとへそを曲げた。

一か八かでメーカー運営の通販ショップからダイレクトで買った。
98の8GBを完全に使いこなしていなかったので最低の80GBで十分であった。
本体のみ価格は52000円。

98seのソフトを流用、データーをそのまま移した。
多少相性の問題があるが素人の作業には全く問題がなかった。
今回もハードディスクの分割などと初期トラブルはマニュアルを参照しながら自分でやった。

文章は一太郎を使っていたが取引関係がワード、エクセル主流のため、silkyで変換していたが面倒なのでワード、エクセルに宗旨替えした。

問題はその間に起きた
98からXPへの移行、一太郎からの変更途中で中山道関係の下書き原稿が行方不明になってしまった。
大筋は記憶にあるがまとまった量であったため、再度の纏めが大変で足踏み状態である。
少しずつ再構築しようと思っている。

■広重の太田渡し絵の写生地点、改訂版
■木曾街道六十九次絵と英泉の行動
■広重は太田へ来ていない
などが下書きである。)
2009.3.22

木曾街道六十九次絵と英泉の行動
東海道五十三次図や木曾街道六十九次図は浮世絵の範疇に入らないと聞いたことがある。
そんな専門的なことではなく、浮世絵という言葉以外知らない素人的視点で書く。

昭和の頃、イレブンPMと双璧をなしていたトゥナイトという深夜TV番組があった。
ある日の番組で山本晋也という映画監督が浅草の街中で浮世絵の刷しか、彫しかは忘れたが、重要無形文化財の職人にインタビューをしていた。

その中で葛飾北斎の富嶽六十三景の通称波裏の富士といわれる『神奈川沖浪裏図』についての話題があった。

それより以前にその図についての大学教授の新説を新聞で読んだことがある。
説は『図の構図からあの場所からは富士は見えない』であった。
職人の話していたのはその説についてのことと推測できた。

おおよそ次のようなことであった「監督、お偉い先生があそこからは富士が見えね〜とおっしゃってらっしゃるが、見えるはずがね〜。」「当時は富士山信仰というものが流行っていて何処でもいいからとにかく富士山を入れりゃ売れたんです。」実に明解な言葉であった。

昨年中仙道太田宿で開催された大八講座で日本浮世絵博物館館長の酒井雁高氏の講演を聴いた。その中で木曾街道六十九次の話題に触れられ、英泉は江戸から来て塩尻あたりまで来たようだと話された。オヤとおもったが英泉の行動の一つ一つまでは浮世絵全般からすれば必要ないことなんであろうと思った。

英泉には塩尻より南、木曽路の「馬籠驛 峠遠望之図」がある。
英泉にはそれより西の鵜沼、河渡の2枚の絵があるがこれは全く別の時期に描かれたものではないかと思う。

それでは英泉は何処へ行ったのであろうか。
これからが素人の勝手な推測である。
英泉は馬籠辺りより秋葉山に行った。

浜松より北に位置する秋葉山は火伏せの神で、秋葉様と信仰されている本宮のあるところである。
江戸には綱吉の時代より秋葉信仰が定着したといわれている。
江戸という新興地とも言える場所に秋葉信仰というものが定着したというのも、秋葉本宮が徳川由来の地でもある遠州にあることでも頷けることでもある。

又、明治の初め神田一帯での大火の焼け跡に、防火祈願の神社が創建された。
今、アキバと呼ばれている秋葉原である。

英泉と秋葉様との接点はあるのか。
英泉の代表作に「秋葉常夜燈」がある。

馬籠より秋葉山を経て遠州に抜けた。
素人には不思議ではない。

逆の遠州より馬籠に抜けたのかもしれないが知ったことではない
2009.4.19


大井戸の渡し 何故

このド素人の説の半分ほどは、従来の説の全てを覆すのかもしれない。
もしそうであったなら痛快である。

太田宿と可児市にかけては、承久の乱の大井戸の戦いで有名なところである。
大井戸は可児市土田であるのが一般的な事である。

木曽川と言う名称は何時の頃からなのだろうか。私の知っている知識では、古くは最近知った『信長公記』の中の記載である。

大井戸と言う地名について、何かすっきりしない物を長く感じていた。

今回も明け方の床の中、井の字に拘る考えが浮んだ。
それは岐阜に改名になる前は「井ノ口」であった事を思いついたのである。
そこで、井の付く地名をを探した、それは簡単に探す事ができた。
恵那市は元々「大井町」であった。

木曽川は秀吉の時代に洪水で今の流れに変わった。
それ以前は川島町辺りより西に向かい墨俣の上流で長良川に合流する。
もし、それ以前は更に上流で合流していたなら、これについては後述する。

大という字の意味は、大老、大臣、大奥など上位を表す面がある。
又、吉野川の瀞峡は奥を大瀞と称していたはず、このように一番奥を示す事もあるようだ。

そうであるならば大井は、井の一番奥のことであるはず。
それでは何故大井が一番奥なのであろう。当時の交通、生活圏では
木曽川の最奥がそこであってもなんら不思議でもない。
当時の街道(東山道)はその奥の中津川から木曽川と分かれ御坂峠を越えていた。

大井戸の不思議な事は地名でありながら三文字である事だ。

713年、朝廷より地名は漢字二文字にするべく定められた。
つまり大井戸の三文字は異例なのである。
ちなみに三文字の中津川はそれ以前は二文字の地名であったのかは知らない。
仮に古くからの地名であったとしても、二文字の大井より新しい地名である。
つまり大井が一番奥の証でもある。

伊豆半島の西海岸に戸田という地名がある「へた」と読む。
戸の字は「へ」とも読む。

大井戸の渡しを「大井への渡し」と解釈すれば、全てが納得いく解釈ができる。
今と異なり漢字の当て字的用法はごく当たり前の時代である。


素人の勝手な飛躍解釈も結びである。

前述木曽川と長良川の合流点がもっと上なら。
井ノ口は「井」の河口。
奥の大井
大井への渡し

もし木曽川が古の頃「井川」と呼ばれていたなら。

素人の考えも満更でもないであろうと、自画自賛である
2009/8/9



信長公記と飛騨、木曾川
飛騨川と木曽川は太田橋の上流にある、川合ダムの上流で合流している。

それより下流は木曽川であり、飛騨川の名称は無くなる。

前からのこだわりは、広重画の太田の渡し図中に描かれている、中州の向こうの流れである。

この流れは、中山道膝栗毛本(太田宿中山道会館に展示)にも描かれている。

中山道関連の膝栗毛本は下記のように複数出版されており、中山道会館の展示物がどの物かは知らない。

それらは1812年から1822年に出されている。

1812(文化9年):『木曾街道 続膝栗毛 三編 上下』

1813(文化10年):『木蘇街道 続膝栗毛 四編 上下』

1814(文化11年):『木曾街道 続膝栗毛 五編 上下』

1815(文化12年):『木曾街道 続膝栗毛 六編 上下』

1816(文化13年):『岐曾続膝栗毛 七編 上下』

1821(文政4年):『続膝栗毛 十一編 上下』

1822(文政5年):『続膝栗毛 十二編 上中下』

太田の渡し絵を含む木曾街道六拾九次図は次のように出されている。

1835年 英泉作 木曾街道六拾九次図発行
1838年 広重作 木曾街道六拾九次図発行

つまり、広重画以前よりこの流れは存在していることである。

 

元々飛騨川があり、そこに木曽川が合流した。

木曽川は現合流地点より西進、祐泉寺下の渡しになる、広重画の太田の渡し以前の私である。

さらに西進し加茂川との合流点より下、坂祝町の一色川原に通じていたのでは。

木曽川は現在の流れより一段高いところを流れていたはず。それは一色川原が現川面より一段高いところにある。

一色川原は現在流れは無い、ある時期に現在の流れに変わっている。ある時期は記録に残っているが、何処でその年号を見たのか思い出すことは出来ない。

 

岩盤に当たり現在の流れに変わったのではないか。

これは、祐泉寺下への流れが、広重画の位置へ流れが変わったことと、同じ現象だとおもう。

 

一色地点で木曽川が新たな流れを作ったとは思われない。

現在でもそうであるが、広重画の中州の向こうの流れ位置辺りは水深が深いようである。

空中写真では一段と濃い色の部分が下流まで続いている。

これが元々の飛騨川であるのでは。流れが変化している木曽川に対し飛騨川は一定の長柄であったのでは。

それは一色まで続き可児川と合流して下流に流れていた。そこへ木曽川が合流したと指摘に考える。

飛騨川は木曽川との合流で消えたのではと思っていた。

 

再考するきっかけになったのは、昨年太田宿で開かれた大八講座で扶桑町の歴史研究   氏の「信長美濃を攻める」の時戴いた資料に『信長公記』の抜粋記事見つけたからである。

 

『信長公記』は昔から知っているが、読んだことはない。

今回、興味が湧き一部分だけ斜め読みし、木曽川と飛騨川に関する部分のみ抜粋してみた。

その記事を転載する。

 

『信長公記』には木曽川、飛騨川と表記されている(原文は知らない)。この表記が原文と同じなのかは知らない。しかし長良川は次の文のような現在と異なる中、木曾、飛騨は

現在と同じのため、当時から変わってないものと思う

 

山城道三討死の事

四月廿日辰の剋、戌亥へ向つて新九郎義龍人数を出だし侯。道三も鶴山をおり

下り、奈加良川端まで人数を出だされ侯。一番合戦に竹腰道塵、六百計り真丸に

なつて、中の渡りを打ち越え、山城道三の幡元へ切りかゝり、

 

@ 大柿の城へ後巻の事

霜月上旬、大柿の城近と取り寄せ、斎藤山城道三攻め寄するの由、注進切々

なり。其の儀においては、打ち立つべきの由にて、

霜月十七日、織田備後守殿後巻として、又、憑み勢をさせられ、木曾川・飛騨

川の大河、舟渡しをこさせられ、美濃国へ御乱入、竹が鼻放火侯て、あかなべ口

へ御働き侯て、所に姻を揚げられ侯間、道三仰天致し、虎口を甘げ、井の口居

(大垣攻めにおいては、清洲より木曽川、飛騨川を渡っている)

 

A 山城道三と信長御参会の事

一、四月下旬の事に侯。斎藤山城道三、富田の寺内正徳寺まで罷り出づべく侯

間、織田上総介殿も是れまで御出で侯はゞ、祝着たるべく侯。対面ありたきの趣、

申し越し侯。此の子細は、此の比、上総介を偏執侯て、聟殿は大だわけにて侯と、

道三前にて口々に申し侯ひき。左様に人々申し侯時は、たわけにてはなく侯よと、

山城連々申し侯ひき。見参侯て、善悪を見侯はん為と聞こへ侯。上総介公、御用

捨なく御請けなされ、木曾川・飛騨川、大河の舟渡し打ち越え、御出で侯。富田

と申す所は、在家七百間もこれある富貴の所なり。大坂より代坊主を入れ置き、

(川島より下流で木曾、飛騨川を渡っている)

 

B もりべ合戦の事

一、五月十三日、木曾川・飛騨川の大河舟渡し、三つこさせられ、西美濃へ御

働き、其の日は、かち村に御陣取り、翌日十四日、雨降り侯と雖も、御敵、洲の

股より長井甲斐守・日比野下野守大将として、森辺口へ人数を出だし侯。信長天

の与ふる所の由御諚侯て、にれまたの川を越え、かけ向はせられ、合戦に取りむ

すび、鑓を打合はせ、数刻相戦ひ、鑓下にて長井甲斐守・日比野下野を初めとし

(一夜城で有名な墨俣(洲の股)の南に森部という地名あり、そこのことか。

長良川のすぐ西である。木曾川・飛騨川の大河舟渡し、三つこさせられ)

 

C 加治田の城、御身方に参る事

一、さる程に、美濃国御敵城宇留摩の城・猿ばみの城とて、押し並べニケ所、

犬山の川向ひにこれあり。是れより五里奥に山中、北美濃の内、加治田と云ふ所

に佐藤紀伊守、子息右近右衛門と云ひて、父子これあり。或る時、崖良沢を使と

して差し越し、上総介信長公へ偏に憑み入るの由、丹羽五郎左衛門を以て言上侯。

内々国の内に荷担の者御所望におぼしめす折節の事なれば、御祝着斜ならず。先、

兵粮調へ候て、蔵に入れ置き候へと御諚候て、黄金五十枚、岸良沢に渡し遣はさ

れ候。

 

 

D 濃州伊木山へ御上の事

一、飛騨川を打ち越え、美濃国へ御乱入。御敵城宇留摩の域主大沢次郎左衛門、

ならびに、猿ぱみの城主多治見とて、両城は飛騨川へ付きて、犬山の川向ひ押し

並べて持ち続けこれあり。十町十五町隔て、伊木山とて高山あり。此の山へ取り

上り、御要害丈夫にこしらへ、両城を見下し、信長御居陣侯ひしなり。うるまの

城ちかぢかと御在陣侯間、越訴とも拘へ難く存知、渡し進上候なり。

一、猿ばみの城、飛騨川へ付きて、高山なり。大ぽて山とて、生茂りたる

り。或る時、大ぼて山へ丹羽五郎左衛門先懸にて攻めのぼり、御人数を上げられ、

水の手を御取り侯て、上下より攻められ、即時につまり、降参、退散なり。

堂洞の取出攻めらるゝのこと

一、              猿ぽみより三里奥に、加治田の城とてこれあり。城主は佐藤紀伊守・子息

 

(伊木山は犬山城の対岸、宇留摩は鵜沼であろう。猿ばみの城は坂祝町勝山)

 

E 稲葉山御取り侯事

一、四月上句、木曾川の大河を打ち越え、美濃国加賀見野に御人数立てられ、

御敵、井口より、龍興人数罷出で、新加納の村を拘え、人数を備へ侯。其の間、

節所にて馬の懸引きならざる間、其の日、御帰陣侯ひしなり。

(加賀見野は各務ヶ原の事であろう)

 

F 二、八月朔日、美濃三人衆稲葉伊予守、氏家卜全、安東伊賀守申し合せ侯て、

信長公へ御身方に参ずべく侯間、人質を御請取り侯へと、申し越し侯。然る間、

村井民部丞・島田所之助人質を請取りに西美濃へさし遣はされ、未だ人質も参ら

ず侯に、俄かに御人数出だされ、井口山のつゞき瑞龍寺山へ懸け上られ侯。是れ

は如何に。敵か味方かと申すところに、早、町に火をかけ、即時に生か城になさ

れ侯。其の日、以外に風吹き侯。翌日御普請くぱり仰せ付けられ、四方鹿垣結ひ

まはし、取り籠めをかせられ侯。左侯ところへ美濃三人衆も参り、肝をひやし、

御礼申し上げられ侯。信長は何事もケ様に物軽に御沙汰をなされ侯な

一、八月十五日、色々降参侯て飛騨川のつゞきにて侯間、舟にて川内長島へ、

龍興退散。さて、美濃国一篇に仰せ付けられ、尾張国小真木山より、濃州稲葉山

へ御越しなり。井口と申すを、今度改めて、岐阜と名付けさせられ、明く

(川内長島は木曽川河口の長島町であろう)

 

@     から・・・清洲から竹鼻(羽島)を経て大垣へ飛騨川、木曽川を渡っている

A     から・・・川島より下流で木曾、飛騨川を渡っている、現代で普通に考えると笠松辺りではないか。

B     から・・・飛騨川、木曽川、長良川を渡っている

C     から・・・犬山より対岸伊木山に飛騨川を渡っている。又、坂祝町勝山にある猿ばみ城は飛騨川そばにある。

D     から・・・川島町辺りとした場合、木曽川を渡っている

E     から・・・飛騨川の続きにての表記。

 

以上のことから坂祝辺りでは木曽川と称す現代と異なり、飛騨川と称しており、その下流鵜沼辺りも同様飛騨川である。

当時は川島町辺りで木曽川は今と異なり、西進し墨俣の上流で長良川と合流している。

つまり、太田宿より下流のこの地で木曽川の称が復活しているのである。

ここでDでは飛騨川を渡らず、木曽川だけを渡った表記になっている。川筋としては一本であるが、その後分かれる川筋の木曽川側の規模が大きく分岐点手前から木曽川の称になっているのでは。

その後飛騨川というか、飛騨川のつづきと称される流れが伊勢湾まで続いたのではないか。

 

織田信長時代以降の天正年間に、大洪水により墨俣近くに流れていた木曽川が今の流れになった。

いくら大洪水とはいえ、全く何もないところに流れが変わるものなのか、素人考えでは疑問であり、何らかの流れがあったのではと想っていた。

その疑問が払拭されたような気分である。

 

広重画の中州の向こうの流れはやはり飛騨川だったのでは。

2009.9.20

NEW
旧川跡を見る

持病治療中のみであり、体力向上のため木曾川堤防上を時折歩いている。
随分川が水量減で痩せた。其の為か川底の様子が以前より目視できるようになった。
以外に気づいていなかった事を知り、又一段と面白みが増している。
以前仮説で書いた一件がある(タイトル部分クリック、このページへの戻りはプラウザの『戻り』をクリックしてください)。
国土交通省の航空写真を基に川跡を見てみることにする。
撮影はしょうわ50年、つまり昭和58年の洪水前の物である。
画像は色補正をしてある。


A線は中濃大橋開通まで在った渡し Bは現在中山道会館  Cは祐泉寺

祐泉寺部分を拡大
祐泉寺の文字の下、紫線の内側が旧の木曽川跡であろう。
左の黄色線は川底の浅い部分、右の黄色線の内側に微かに
川底に段差が在るように見える。
範囲を左右に拡大した。
黄色線は旧川跡、赤線は川底の浅い部分端
紫線は今回気づいた川跡。
堤防工事前、昭和40年代半ばまであった内川と呼んでいた所である。黄色線の跡よりも古い跡なのかもしれない。
左の紫線の左端辺りが現天皇陛下が皇太子時代に川下りをされた際特設された乗舟用桟橋の場所である。
その上方白い枡形部分が公園で
南西の角にその記念碑があった。
祐泉寺の所の堤防上で10月下旬に撮った。
対岸が可児市で航空写真と上下逆の関係である。
川の中程が上欄画像の赤線部分である。
昭和40年代頃半ば頃までこの辺りまで川石の川原であった。

2009.11..3


年の初めに

昨年末は少し面白い事が 起こった。
二日続けてラジオ関係である。一つは岐阜ラジオの飛び込み生インタビュー,一つは東海ラジオのリスナーの投稿話題。

仕事場は県内外で有名な平川宝くじ屋の駐車場から売り場までの間にある。この通りを億万長者コウホへの道と勝手に称している。

この通りに面して一脚の椅子を置いている、白く塗装して背もたれに『シル婆―シート』、座面に『どっこい処』と書き込んである。宝くじの客がこの妙な椅子を見て、座っていった様子を投稿し、それが放送されたのである。その番組は何時も聴いているもので早速、それは私が作った物だと作った訳も書き添えFAX送信、そして放送された。

作ったのは数年前のことで、いつも何人ものお年寄りが歩いて通り、途中で立ち止ったままで一休みをしている光景を良く見たからである。作って通りに面して出した頃、残念であるがらその様なお年寄りの姿が無くなった。書き込んだ文字は勿論洒落である。

太田宿に一番欠けているのは「人の気配」である。それがお年寄りであってもいい、人の気配が必要だ。
何処の家でも不要になった椅子の一脚ぐらいある。下らない親父ギャグであっても真似て、町のそこらに増えると面白いと密かに思っている。100%こんな下らない事を受け入れる気質の無い町である事は分かっているが。それが増え、注目されればお年寄りに優しい「どっこい処」の街に成る事もできるのに。勿論投稿の人はこの町の人ではない。

同じく通りに面してカエルを売っている。最初は一個100円の2センチほどのカエルの置物からはじめた。勿論宝くじ客目当てのあやかり商売である。今では品数も10を越えるほどになった。
来るたびに新作を楽しみに買っていくリピーターも出来るまでになった。

何よりも嬉しいのは、クスッと笑って笑顔で帰っていってもらえる事である。買っていってもらえればなおさらの事であるが。
必死になって笑いのネタを仕込んではいる。
太田宿で唯一笑って帰ってもらえる場所であると自負している。

昨年は体力を取り戻す為、木曽川堤をよく歩いた祐泉寺から中濃大橋か反対に文化会館までである。最近の川の姿の変化は、60年近く見るうちでも短期間で起こっているようだ。中濃大橋から下流の川筋は今まで見たことの無い姿である。只、水量の減少なのかそれによる露出した川底は川合のダムが出来る前の地形図、更に昔の地形を想像できるように感じている。

昨年記事更新はあまり出来ていない。理由のひとつに幾つもの点としてあった疑問が線として結びつきだしたからである。
一つは、太田の渡し図の描かれた場所の再検討。又図の手前に描かれている松、石が何時頃まであったのか、可児側の消えた木曽川痕などなどである。

渡し図の描かれた場所はPCで解析し、ほぼピンポイントで特定したが、その時からもうひとつのポイントを見つけていた。
コンピューターに対する基本的な考え方を持っている。コンピューターはは馬鹿であると言う事である。
全国の地形を網羅しているソフトといっても、PC(パソコン)で処理できるほどの物で、地方の一地域の地形をピンポイントで正確に割り出せるはずが無いということである。

全く違う視点から考えると図の中の松、石が何時の頃まで存在した可能性があるか、その場所は何処かが浮かび上がってきたのである。

何年もかけ書き連ねてきた物をもう一度纏めなおそうかとも考えているが、出来そうも無い。

更新用に撮りためた画像も何100枚になってきているし出来そうも無い

2010.1.4


幻の木曽川

考古学や地質学などなどその道の専門家では思いつかない話を書こう。

木曽川は兼山を通り大きく湾曲して飛騨川と合流する。

この湾曲が以前から不自然に感じていた。そして湾曲の始まりポイントからそして湾曲の始まりポイントからスムーズな川筋を想像した。

そして愛知用水は川筋の跡を利用したのではないかとの、推測に至った事は以前に書いた。

それについて可児の関係機関に尋ねたが、昔のことで分からないという現実であった。

 

昨年のこと、以前岐阜市のF氏より戴いた昭和11年発行の5万分の1の地図を見ていた。

初めて可児市側を見ていて築いた事があった。数箇所に池又は沼の表示があることだ。

もしかして川が寸断された跡ではないか。其の池の形状に沿って線を引いてみた。

図の紫線上の赤い矢印のところが池又は沼地。紫線がそれをつないだ推定川筋である。

紫線の終わり(左下)の紫→部が可児川との合流点(鬼が島の場所)、そして其の左の赤い→部が

土田城跡である

国土交通省の空中写真アーカイブの中に愛知用水が分かるものがあった。それが画像の物である。

二つを比較し愛知用水が川筋跡を利用した事は確かだと思う。

つまりこれが旧木曽川であったと思う。

兼山には東美濃の拠点として戦国時代より城があった。その後関が原の役の後に取り壊し、用材は犬山城に利用された。

墨俣の一夜城築城では川筋者が活躍したと言われている。織田家へは土田一族から嫁いでいる人が居る「土田御前」である。それらからしても墨俣に関して活躍したのは土田の一族であったとしても何の不思議でもない。

其の一族の居城が旧木曽川が一望に見渡せる山頂にある。

それから考えても兼山城から土田城までが木曽川本流であったと思う。

 

それでは何故木曽川は兼山を過ぎ大きく曲がっているのだろうか。

天正年間の大洪水で、それまで西進し墨俣近くで長良川と合流していた川筋が、現在のように下流の川島町あたりで大きく南への流れに変わった。

それにより尾張と美濃の境界が変わり、尾張の領地が減少したと言われている。

それはさておき、その様な大洪水の再発に対する対策が採られてもなんら不思議でもない。

 

濃尾平野の奥、西からの軍を袋のねずみに出来る地形で、胃袋のように上下が絞られた川の姿のある地形、それが太田盆地であったならば。

 

川を大きく湾曲する事により障害とし勢いを落とし、そして太田宿下を遊水地代わりにしたとも思われる。

もしそうであるならば、歴史上で度重なる大水害に遭った太田宿は、其の役目を果たしているのかも、癪に障るが。

徳川幕府の全国統一により兼山城の存在意味が薄れ、飛騨、木曽川を一つにする事により水運等の管理も一元化でき、、太田に代官所を置く事もあり兼山城の存在意味も無くなったのでは。

 

大きく湾曲した部分は約2km、大阪城築城からすれば大したことではないはず。

もし支流跡であったなら容易な事であっただろう。

(今朝の夢物語である)

2010.1.24



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