new裏!太田宿(その2)へ
裏!中山道太田宿(中仙道もう一つの太田宿改)
同級生の晃二が来て唐突に言った「伏見と鵜沼の途中に何故太田宿が必要だったのか。」
以前から疑問に思っていたことを同じく思っている者がいることを知った。
これは歴史家でもその方面の専門家でもない、単なる野次馬的人間で。50年以上この町に住む一人が記憶を頼りに勝手に綴る物語である。
気の向いた時にしか更新しない、専門家から見たら罵声を浴びせられる内容になると考えている。罵声、苦情是非欲しい臍曲がりには「結構な酒の肴」になる。
その日少し遅い滋賀県の多賀大社への初詣に行くため関ヶ原を通っていた。関ヶ原の古戦場はどの位の広さ?そんな疑問から話は始まる。
中仙道は関ヶ原の役の後、慶長六年正月内大臣源(徳川)家康により開設された東海道五十三次に続き慶長七年中仙道六十九次の街道として開設された。しかし慶長九年二月大久保長安が幕命により東海、東山、北陸の三街道に一里塚を築いたと歴史書に記載が在るように、未だ中仙道の名前はない。この時一里塚が築かれたと共に六十間を一町、三十六町を一里と定められた。中山道の正式名称を見るのは正徳六年まで待たなければならない。
太田宿が設置整備されたのは慶長九年(1604年)開設された東山道伏見→鵜沼宿間が慶安四年(1651年)太田宿→土田に変更されて以降のことであろう。現在の宿の街並みが出来るまでの街道は「臍曲がり中山道」で書いた道が其れであろうと思われる。明治末期に生まれた親父が其れを旧中山道と言っていたのは言い伝えがあったのだろうと推測する。
冒頭で触れた関ヶ原の古戦場、初詣から帰り地図で確認し、太田の地形と似ていることに気づいた。地図という平面的な物であるから判ったことである。一度両町を通る東海道線と高山本線を重ね合わせて見ると街道の抜け方、南の山と川との違いがあるが自然の障害物、平地の面積が驚くほど似ている事に気づかれるはず。美濃より三尺高く木曽川の河口より延びる尾張藩お囲い堤の終る先に徳川戦勝の地と酷似の地があれば軍事的に見ても重要な場所であったのでは無いかと素人考えをする。
時は下がり幕末の動乱期この宿では尾張藩によりあることが行われている。あることとは先の先としよう。
太田宿は関ヶ原の戦勝ノウハウをベースに軍事目的に整備された宿であり、徳川幕府にとって最重要な場所であったはずである。
2005.1.23
「東の枡形」
東の枡形は祐泉寺西の角に僅かな折れ曲がりで在る、しかし敵の侵略を防ぐ軍事目的の物にしては西の枡形と比較し何の役目も果たさない規模である。それでは東の枡形は無いのか。西の枡形に匹敵する枡形は存在した。寛政年間街道が祐泉寺より東に延長されるまで寺の東より川に降りたところが渡し場であった。宿はここで終わるが、臍曲がり中山道で書いたようにそれ以前の古道(旧中仙道)は現国道21号より祐泉寺に向かう筋の中程より西に折れる。中仙道が整備されるに伴い筋の中程から現在にように中仙道まで延長されたと考えることは不自然ではない。中仙道を西から来て直角に此の筋を北に曲がり飛騨街道に続く此の角が本来の東の枡形だと考えられる。
2005.1.30
「太田宿は坂の宿」
護岸堤防で川は宿から隔てられた。昭和58年の水害後護岸堤防が築かれるまで度々水害の被害を受け、水は街道の西より東に上ってきた。歩いていて気にならない位ではあるが西より東に上り坂である。しかも少し奇妙な坂である。
自分の推測を確かめるため市の担当部署より土地のレベルの数値を戴いた。推測通りであった。西の枡形より東の枡形と言われる祐泉寺西までは傾斜であり、脇本陣辺りより西に家並みを含み掘り割りのように徐々に街道が沈み込んでいるその差約2m90cm。枡形の南から北に向かうの長さ150m程の道も掘り割り状に1m60cm下りる傾斜である。自然の地形とは異なる人為的な作りを感じる。
此の坂の謎を解くキーは数十m離れて道に平行に在る古道にある。この古道は現在祐泉寺東より北に向かう筋より中山道にほぼ一定の距離である(一部消滅している部分もある、消えた古道の名で近々書き込む予定)。時期から云えば古道に平行に中山道は造られたのである。
何故?、話は飛ぶ。火縄銃の有効射程は80〜100mである、命中率は非常に低いものであったようだ。時折イベントで見るその反動の凄さを見れば納得できる。反動の大きさは第二次大戦中の銃でさえ凄まじいものである。現代の主力ライフルは5.56mmとエアーガンの弾より小さくその反動は驚くほど小さい。スコープなど補助器具を使用しないで肉眼の有効射程は徳川幕府初期とそれほど大きく変わっていない。つまり火縄銃の威力を発揮出来る距離で古道はある。火縄銃が主力であった当時であっても弓矢は主要な武器であったのではと想う。その有効距離は興味が無く知らないが京都三十三間堂の通し矢から想像しても古道、中山道間がそれに対応しているのではとも想う。古道は街道に向け撃ち下ろしの体勢を取れる高さにある。
枡形の角はは東西、南北よりの坂道が形成する蟻地獄の底である。街道からの視線を遮る家並みその裏の一段と高い茂み藪の中には鉄砲隊が息を潜めることができ、背後の古道は本陣に直結している。街道の坂道は戦のため人工的に作られたものである。勿論火器の問題だけでなく坂道ならば車に積んだ油に火を放ち転げ落としもできる。当時の大砲(大筒)は弾が破裂する物ではなく鉄球が転がり物を薙ぎ倒す方法であった。大阪城砲撃は700m位の所からされ有効射程は800m〜1qと言われているが大筒の性能は大きくばらつきがあったとも云われる。街道は550m程の直線の坂道此処にも不思議な影が感じられる。
2005.2.7

長い期間雑多なことで時間無く更新無し、その間に予告の消えた裏道は別の話題に目がいき一旦中止。宿の東端は当初祐泉寺の東までであった。別ページのへそ曲がり中山道に書いたように宿設置以前の街道は中山道と国道21号の中間にあり祐泉寺裏より北に延びる筋を其処より北に折れ国道21号に接する処で東に折れる。何故此処で北に折れ東に折れいたのか?。この旧街道の道筋は木曽川の流れに沿っていたように推測する、太田小学校付近から川岸に下り、鵜沼のうとう峠に至るまでの道筋は川岸に沿っているのでこの推測はあまり間違いではないと思う。平地と川に向かう斜面の境界がこの辺りにあり、境界は祐泉寺東端辺りより川の流れに沿うように急激に北へ切れ込んでいたと考えられる。その為宿は当初祐泉寺北までであったのではと推測する。太田宿は埋め立て地、長い前降りはこのためである。脇本陣の西50m程の処から東にかけて中山道の川側の家並みの裏には石垣が続いていた。護岸工事で消えたライン街道から積み上げられた石垣と街道の中間である。平地を確保するような石積みである。仮に埋め立てとした場合その土は?。仮説(この書き込み全てがそうであるが)現在の文化の森横の太郎洞は昔は現材の面積の4分の1程だったと言われている。その面積は旧街道より川側の太田宿の面積をカバーできる規模である。勿論面積だけの単純な比較で容量ではない。旧街道付近よりなだらかに下る斜面に石積みをして土砂を埋めて宿用の平地を作ったのではないか。当時の川の水位が現在よりどの程度高かったのか分からないが、現ライン公園が高砂場と言われていたように厚く堆積した砂、その西に続いていた水辺から祐泉寺が見えないぐらい堆積した石河原は全て川の底であったと考えると宿と川の距離関係は今より遙かに近く戦にとって退路をたつには有効な物であったと推測する。今渡のダムの下流、可児側の岸壁はある位置より下は白っぽくなっている色の境界線が上流に発電用ダムが造られる以前の位置かと勝手に思っている。祐泉寺の東が当初の渡し場の位置とされている、旧街道の道筋から考えると太田橋より深田に至る範囲でこの位置が一番川幅が広かったはず、つまり素人考えではこの辺りが一番流速が穏やかでありその為此処に渡しが設けられたのではと考える。
二カ所の太田の渡し
広重の描く太田宿の図、描かれたのはどの辺りなのか
現在の文化会館辺りと言われているが少し釈然としないところがある。画の右手(川下)川に向かって大きく張り出している部分が、その地点では存在しない風景である。絵で見る限り入り江風である。ホームセンターの出来るまで存在した渡船場後では対岸可児市土田(ドタ)側に護岸工事の頃まであった川下まで続く高くのびた竹林は右手奧の山の姿を遮っていたはず。絵では水辺まで急な坂を下りる感じである。
一つの仮説で現在の国道のレベルではないかと考えてみた。昭和30年代頃のこの辺りの風景を思い出し其処に水を満たしてみると広重の絵の様と符合してきた。昨年末ホームセンターに寄った序でに国道端まで歩いて改めてみてみた、残念ながら建物が建ち並び山の姿は完全に見ることが出来なかったが。感覚的には太田橋の北側美濃太田駅より太田橋に通じる道と国道21号の交わるポイント辺りと思う。位置関係を国土地理院の1/25000地図http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?city=21211上で見るとやはり太田橋北詰め辺りになる。国道を車で西に走るときその風景に出合うはず。
対岸からの渡河は前述太田側の文化会館辺りに着いたと言われている、仮に此処に乗船場があった場合遙か下の対岸に着くはず。
つまり太田の渡し場は対岸への乗船場と対岸からの到着場が異なった場所にあった。
その説で考えると江戸、善光寺への道標の位置等もすんなり理解できるように思う。
この文は今年の正月に下書きをした、しかし対岸への渡し場がこの位置なのかに拘りがありホームページに載せなかった。
今日の明け方、夢心地の中突然在ることが浮かんだ、半分寝ながらの中それに沿って頭の中でシュミレーションすると何故かが分かった。そして前述地図には痕跡を読みとることが出来た
2006.1.14
後ろ向きの雑用で時間をとられ更新が全く出来ない状況、数行づつでもこまめに書き込もうと思っている、図書館で「ダイエット」に関する本の前に佇む家内にその前に「物事を持続出来る」ノウハウ本を探せと悪態を叩けない立場だが、無視。
夢の中の思いつきとは
時折新聞紙上を飾る飛騨、木曽川の合流辺りの写真、川は同一面で合流しているこれが落とし穴であった。今渡のダム湖であるため当然のことであるが何の疑問も持って居なかった。二つの川の水面高が一緒の訳がない、この単純なことが夢の中の思いつきであった、床の中で想像が膨らみ明け方まで眠れないことになった。どちらの川面が高いのかは分からない、素人の考えでは水威が強いのは多分木曽川、それならば木曽川の流れが飛騨川の流れに押し流されるはずがない。つまり木曽川の流れが合流点で今のように急激な角度で蛇行するはずがない。不確かな記憶で両川の流れを鳥の目で想像し朝を待って地図で思いつきの正しい痕跡を確認した。
木曽川の合流点より上流の川筋をダム関係を無視して延長するとかなり自然なかたちで
古井川の地形に繋がり、そして太田橋のすぐ下流まで続きほぼ直角で可児側に折れる。
ここで新たな疑問が出てくることになる。一つは何故急激な蛇行が起きているのか?一つ子供の頃より不思議に思っていた昭和の半ばまで存在した太田宿の下の高砂場と石の河原の規模である。
又、この蛇行が永年頭の片隅にこびり着いている太田宿の不思議が一気に解決出来そうである。
2006.4.12
ここ数日疑問に思っていたことが一気に解決した
先回の書き込み以前より考えていたことであるが、1.木曽川と飛騨川とこの地ではどちらが古いのか?2.地形から考えると飛騨川が古くなければ素人的に辻褄が合わない、その場合木曽川は?3.渡しが祐泉寺下より太田橋下流へ移った明年間(1781〜1785)原因の川の瀬の変化は?飛騨川又は飛騨川の痕跡がが影響していたのでは?それならば太田宿の下辺りには二つの流れもしくは跡が在ったのでは?。
昨日4月15日に開館した中山道会館へ行って来た、仕事場より5分ほどの所であるが、開館直後の混雑を避けて落ち着いたであろうと思って。目的の一つに昨年夏に話があった本陣の復元模型を観ることであった。その作業は当方の事情で断り余所でやることになったと聞いていたので研究目的であった。残念ながらそれは実現されていなかったようである。このホームページの本陣復元予想図は断る以前に自主的に考え描いたものである。それはさておき会館内の広重描く太田の渡し図を観て二つの川らしきを発見、それまでは小さいモノクロの印刷物しか見ておらず気づくことがなかった。一番奥に細い流れその手前に河原らしき物そして本流である。この絵の中で渡船の舳先の方向が気になるところだが一応無視しよう。その後奥の古文書コーナーの1814年に描かれたという膝栗毛の絵には正に二つの川が描かれていることを見た。広重は1797〜1848年の人であり仮に30歳で訪れていれば膝栗毛から13年ほどは川の状況は変わっていない。
1.については一昨日夜、数日消えた古木曽川(素人の勝手な説である)
を地図の上で木曽川の上流から下流へ辿りそれらしき所を見つけた。これについては現在では別の用途の物になっておりそれ以前の状態を確認する必要があり、時間を見つけて確認しようと思っている。それが自説通りならば一気に話はまたまた妙な方向に展開する。その夜の数時間前に最近妙に気になる店が中山道に開店した、思い切って行って来た。中山道の東の方に女性向きの手作り小物を販売している「花まる」という店である。そこの主が滅法日本史に詳しくついつい長話になってしまった。
2006.4.23
あまりにも面白い展開になりだしたので中断
言う事とやることは全く違い少しずつでも更新すると言いながら全く更新できず。
このもう一つの太田宿は中断することにした。理由は下書き段階で非常に面白い展開になり、太田の渡し、太田宿に関連する昔からの逸話や疑問に思っていたことが物の見事に解決出来ることに気づいたからである。
今までに聴いたこと、文献で見たことのない視点から素人が勝手に解釈したことが、興味ある人にはパクリに値する貴重なヒントになるはずのため狭量の自分としてはその様なことはおもしろくないのであり、それが理由であります。
言えることは
この渡しのある宿の名はは日本史に後々まで残ったかも知れないという事実(法螺吹き素人が言うことですが)
2006.7.1
カンロク山 2006.10.4
美しい国づくり 昼間のことである「オイ!お前日本に住めなくなっるんだって」。晩酌のまわし(方言、用意)がしてなかった。
急遽カンロク山について書くことにした。多分こんな事を書くのは他にはいないであろう、酒に酔わず自論に酔う。
太田の渡しの側(現在の文化センター)付近をかんろく山と呼んでいた。未だその表記漢字は聞いたこともなく昔から気に掛かっていたことでもある。
最近全く別の処で知った事がこの疑問を解いてくれた。
貫禄は貫陸が変化したもので陸はロクとも読み高く頂上が平らなことの意味があると知った。
それではカンは冠雪などのように山の頂上を表す冠、つまり冠陸山ではないかと推測する。
もしそうであるならば、木曽川太田の渡し、新町以東の疑問に思っていたことが全て不自然もなく解決する様に感じている。
本陣の位置
太田宿の本陣は東の枡形から西の枡形のほぼ中央にある。そして半円に取り囲む河岸段丘の中心でもある。
河岸段丘の上の縁には道がある(古来からの道かは定かではない)本陣からその距離約1q弱。
大阪冬の陣で天守閣に打ち込まれた直径9pの玉は約700mの距離から放たれたと言われて居る。その大砲の有効射程距離約1000m。
2006.10.22
消えた東山道
臍曲がり中山道にも書いたが国道21号と美濃太田駅前通りとの交差点より東に伸びる国道21号より一本南(川側)の小道が旧中山道とも東山道とも言われている、細かいことは止そう、どちらの名称でもいい。
太田本町郵便局北に接し東に伸びる小道はそこから数百メートル行き右に折れ現在の中山道に出る。
太田宿設置当時は祐泉寺より東に宿は無く、渡しも祐泉寺下でありここで右に折れる必要はない。
この界隈の住宅地図を見ていて奇妙なことに気付いた、国道21号と中山道にそれぞれに沿って家並みがある。道に沿い上から見て矩形の家屋が普通の日本の家並である。二つの道に挟まれたエリアにはそれとそぐわない家屋が点在する。
家屋を結んでみた(拡大図中赤線参照)、道が浮かんできた。
国道21号と中山道に挟まれた三角形のエリアの頂点は国道21号と中山道及び飛騨街道の交差点で、ここより西に向かう国道21号は東の道筋よりわずかに北に折れ曲がる、国道21号と反対方向に折れ曲がったのが中山道である。
この交差点より東の21号の道筋を三角エリアに延ばしてみる(拡大図赤紫線)。道幅の端に引いたのは元々あった道が北側に拡張されたとの推測である。その線は浮き上がった道筋と自然な形で結ぶことが出来る。
ここが消えた東山道である、と素人は推測する。
その道筋は冠陸山を造りだし、初期の太田の渡しが祐泉寺下にあり、太田宿が祐泉寺東までであった大きな鍵のように感じられる。
カンロク山(冠陸山)がこの太田宿設置の訳を考えるに非常に重要なポイントであり、推測ながら冠陸がわかってからその後の太田の渡しが太田橋下に移った事、和宮輿入れ含む幕末の太田宿で起こったことが分かってきた。勿論ド素人の勝手な推測であり、勝手な事象の結び付けである。


左図中 赤紫矩形部分を拡大した図が右(地図は美濃加茂市市民公開GISより)
2006.10.29
古い木曽川を探す
太田の渡しを考えるとき木曽川と飛騨川の関係を考える必要がある。
2006.4.12書き込み分で触れた素人の仮説の古い木曽川は何処にあったのか、長野県境より下流に地図の上で辿ってみた。
長いこと全くそれらしい所は発見できなかったが、ある日漠然と見ていた地図でそれらしき所を発見した。
飛騨川との合流点より上流、可児市上恵土付近でほぼ直角に大きく蛇行する。素人の推測はまことに都合良く、地形、考古学的など全く無視してただ平面的だけで無責任に出来る。
その素人的な推測は蛇行前の流れを延長すると或る所にすんなりと繋がる。愛知用水であり、そのポイントは兼山取水口より地下を通って地表に出るところである。
木曽川と川幅がまるで異なるが、この付近の木曽川は河合のダム湖であり、その影響のない上流ぶでの幅と比べると大きな差はない。もちろん水深は無視であるが。
愛知用水が昔からの水路を利用したのか分からない。可児市の関連部署に問い合わせしたが古いことで分からないとのこと。
当時の地図を調べれば分かるのであろうが生業としてやっているのではなくそんな暇もない。
市街地を通った愛知用水はカヤバ工業の工場裏近辺で再び地下に潜る。地図の上ではこの辺りは河川跡の形跡があり可児川に合流していたと解釈しても違和感がないように思える。
次のアドレスは国土地理院の地図閲覧サービスのページです。ご参考に。
http://watchizu.gsi.go.jp/
2006.11.19
椋の大木
川合で飛騨川と交差した木曽川は右岸を浸食しながら西進祐泉寺東辺りでほぼ直角に南に蛇行していたのではないかと推測する。その川岸沿いに道が出来それが国道21号より一本南で、
太田本町郵便局の北を通り中央公民館前を南に折れ、祐泉寺裏へ通じる道の中程で西に折れ音羽湯の裏を通るの東山道と言われている道筋である。
中央公民館前より祐泉寺裏に通じる道の南正面には護岸工事の際切り倒された椋の大木があった。その枝振りは道から見える空一面を覆い尽くすほどの巨大さであった。当時樹齢が400年
ほどと言われていた。400年前は太田宿が設置された頃で、宿の東端で太田の渡しがここにあった頃である。その樹は現在の堤防下の道路から北に5m〜10m足らずの処で現在の中山道の
レベルより2m程下の石垣の間より生えていた。勿論昨今流行のど根性大根の類ではなく明治期に作らせた石垣のせいである。
この樹から考えるに400年前はこの2mほど下が当時の地形であると想像が出来る。
この樹から東山道が西に折れ曲がる辺りまでは95m程で、2mほど下の樹の根本と結ぶと8度弱の傾斜になる。昭和30年代未だ中山道の面影を残していた小学校から深田にかけての木曽
川畔の地形の様でもある。この樹から南は想像するに急な斜面であり、樹は崖的形状の斜面に生えていた様である。
この崖的斜面は東(川上)に続くが此より下の川岸と全く異なる様相となる。そして高砂場と高河原との境界線が絡んでくる。宿が当初祐泉寺東までであったのは、それより東は一段と低い川筋
の跡であり、宿設置以前の中山道は平坦ではない傾斜地であったと想像する。
2007.1.2
消えた道
年明け早々の誕生日、赤いちゃんちゃんこはいささか抵抗があるピンク程度にするか。しかし日本の日常の中から桃色という表現が消えて随分永い。消えた一因には日活ロマンポルノがあると思う。
昨年は「青いハンカチ」が話題になり、年明けは「黄色いハンカチ」の夕張の成人祭が話題になった。団塊の世代の俺達に似合うのはロマンポルノ以前、日活全盛期に流行った「赤いハンカチ」しかな
いであろう。
と、年明け早々馬鹿なことを考えている。
この記事は仕事中例えばペーパー掛けなどしながら頭の中で思いつくまま構成している。昨日のこと毎日表を通る町内の老人を見て気付いた。この界隈の町内の境が一カ所普通と異なっっており、駅
前通りの国道21号より南辺りには消えた道があるのではと。
以前から気になっていた旧山の上街道への疑問が払拭できそうである。これらから祐泉寺の東にあったといわれる現文化会館辺りへ移る前の太田の渡しの位置がもう少し正確に分かるのではと考えられる。
2007.1.16
旧木曽川 勝手考
寛政年間までの太田宿は祐泉寺東までで、それより東は新町といいその頃以降に開設された。
それでは何故宿は祐泉寺東で終わり其処に太田の渡しがあったのか。それを解く鍵は中仙道開設以前にあった東山道といわれる道にある。
2006.10.29の消えた東山道に書いたように現在の国道21号よりほぼ家一軒置いた南側の小道がそれであり、太田本町郵便局のところで国道21号と一緒になり次のT字路を南に折れ21号と祐泉寺の中間あたりで西に折れる道である。
この西に折れるまでの道筋が鍵である。太田宿を離れ岩屋観音を経てうとう峠に至るまでのように街道は川に沿ってあるのが一般的である。その事から想像して当時川はこの辺りで大きく入り込んでいたはずである。
それではこの辺りの地形はどの様になっていたか推測してみた。
子供の頃から昭和58年洪水以前の記憶が頼りである。
図1参照
祐泉寺境内には58年洪水による護岸堤防工事で切り倒された椋の大木があった。切り倒される時樹齢は約400年といわれていた、中仙道開設頃の樹である。
その辺りの地形断面は大まかに描いて図2のようである。
山之上街道付近の断面も同じようなものであったと想う。(H線中仙道開設以前?)
そのような流れがあったのか。悪ガキの頃川は遊び場であった、そこで不思議に思っていたことがある二つあった。 図3で示すように高砂場という広い砂原と山のような石川原との境は
はっきりとした境界であった一つがそれで、もう一つがA点の場所だけが石垣が無く土のままであったっ事である、つまりこの辺りまでは丘陵があったと考えられる。そこを基点に高砂場迄を川幅としたときそんなに違和感のない事が想像できる。山之上街道が新町開設後現在の国道21号(東山道)より南に延長されたのかはさておき、新町開設以前は現在も残る東山道と之交差点より斜面を川に下ったものと想われ、そこに渡船場があっても何ら不思議ではない。中仙道開設時祐泉寺の東の斜面を降りたところに渡船場があったと言われている。昭和の中程まであった太田宿と坂祝間の加茂川の旧橋跡までは急な斜面をかなりの距離斜めに下っていた、それからして中仙道より斜面を北へ下ったものと推測する。その道と山之上街道からの道の交点が太田の渡しであり、それは川の折れ曲がるポイントとも符合するように感じる。2007.3.11
| 図1 | 図2 図1アからイの断面 |



図3
隠された太田宿の目的
前項図2で示したH線的地形は太田宿の西のはずれより加茂川迄続いていたと想像する。「太田宿は坂の宿」の項で書いたように太田宿は埋め立て地(造成地)との根拠の一つである。それでは当時として大工事と思われる工事はどの様にして行われたのか、築城の技術をもってすれば容易であり、環境もそのようであった思う。
この宿は川に面して石垣が多い宿の東端より下流の脇本陣の西、中濃大橋が出来るまであった渡し辺りまで続いていた。祐泉寺の石垣は明治期に作られたもので大半は新しいものであると思う。太田公民館の北辺りには中山道より家一軒分ほど川側に数段の石垣があり興味をひくものである。
石垣用の石は目の前で調達できる、それでは土は?今まで書いてきた中に鍵がある。
一枚の写真がある美濃加茂市発行の災害誌より借用(未だ無断)、今渡の発電所より下流を撮ったものである。
大阪城築城により水路が発達したと言われるように当時は工事には船が重要であった。写真中の水色は旧木曽川(あくまで素人の勝手な解釈である)であり、その先の折れ曲がった辺りが前項の部分である。
カンロク山を削って船で運べば至極簡単なことである。祐泉寺東端で揚げる労力は、現在のその地点の水面より遙かに高いところに水面があり実際の引き揚げ高さは以外に少なかったと想像する。
その水位は少なくともA点よりも高かった。又A点の標高が太田の渡しの歴史に非常に大きな影響を与えていると感じている。
これが太田宿が造成された宿で、隠された本来の目的に添って計画的に作られた宿であったと感じる。
カンロク山からの土採取は太田宿造成の為だけではなく、カンロク山自体を低くする必要性があった。それはカンロク山から宿を眺めるとき隠された本来の目的が想像できる。本来の目的は幕末の動乱期まで続き、その頃この宿で行われたあることに結びついてゆく。
本来ならばそれに関する資料等があっても不思議ではないが、敗軍の立場では真っ先に消されることでもある。

2007.3.25
いよいよ太田の渡し
船のことなど知識がない、まして繰船技術のことなど知る由もない。
中濃大橋が出来るまで中山道会館の西の十字路を川に下りたところに渡し場があった。
対岸までワイヤーが張られ滑車が取り付けられていた。滑車と渡し船とはワイヤーで繋がれており、川の流れと櫓での繰船で渡っていた。
祐泉寺の東に在った江戸初期の渡しはどの様に渡っていたのか素人の素朴な疑問である。
しかも川合から坂祝に至る川筋で約150mと一番広い場所である。それでは水深はどの程度であったのだろうか、一つのことを知った。下流坂祝の勝山に猿啄城があった、この城攻めの状況を記した「武功夜話」にこの辺りの川幅約5間とある、水深は分からない。現在のその辺りの地形から考えてもその水量を150mの川幅に置き換えると、素人考えでは歩いて渡れるのではである。
太田の渡しについて考え始めた動機の一番大きなものに先にも書いたように江戸の昔、急流といわれた川をどの様にして渡っていたのかと言う疑問であった。それを想像するうちに次第に想像の範囲が広がってきたのが実情である。
そのような中、地形図を眺めていた妙な地形に気づいた下図のAの所である。その一部だけが周りと不自然に入り込んでいる。ここは川岸で昔からの地形のはずである。
ここと太田側のすべり石あたりを結んだ赤線をさらに内側まで延ばした青線と高砂場と石川原との境界に引いた線が右の赤、青線である。それは見事に可児側の入り組んだ地形の幅と合致する、つまりこれが川幅である。
そしてA部の地形に沿って青線を太田側に引き先に設定した川幅をその右に引くと太田側の川岸の地形と合致する。図の寺の位置表記は間違いで実際はもっと右にあり、表記位置は脇本陣の裏あたりである。
可児側の凹地形は木曽川の流れが突き当たり浸食された物と推測する。
つまりこれが太田宿設置の頃の川本流の流れである。これならば猿啄城辺りの川の状態と釣り合いがとれる。渡しについては本流の流れに乗ればいとも簡単に対岸に渡ることが出来る。当然のことで太田側の乗船場と下船場は異なって居る。
注目すべきは下船場が本陣と斜向かいにある脇本陣の裏あたりであることで、それは有事の際尾張側から本陣、脇本陣に直接向かうことが出来ることである。
太田宿の本陣、脇本陣の位置は川の流れに沿って決定されたとも考えられる。
(前々回の図1では旧木曽川について今回の本流については触れて居らず、図中では昭和30年代まであった内川にもを元にしている、当時も本流より弱い流れがここに在れば、下船場より乗船場への船の回送は非常に楽であったはずである)
もしこの川幅でその先の下流まで続いて居れば、京都三十三間堂の通し矢でも分かるように遠的でも60m程度の弓矢の時代の大井戸の戦い跡も、今の川幅では成り立たないが何となく納得できてくる。
2007.4.7
陣地としてのカンロク山
紺色ラインで囲ったカンロク山は水色線の旧木曽川によって太田宿と分断されている、つまり木曽川が城郭の堀の役目である。
そしてこの地点が太田宿、特に本陣枠本陣を一望できる絶好のポイントでもある。
赤い●は大筒を仮定、紫の扇形は大阪城天守閣砲撃に使われた射程約800mの大筒での射程範囲を示す。
当時の大筒は弾自体が破裂する物ではなく、金属の塊の玉で建物を破壊もしくは焼いた玉を打ち込む方式であった
いくら小さな砲といえども金属の塊、容易に尾張側(可児側)よりここに運び込むことはなんぎなことであるとおもわれるが、地図では切れているが川合の火だが輪との合流点より
上流で船に載せれば流れにより苦もなくここに揚げることが可能である。
超素人の超アバウトな見方である。水色ラインの上の黄色っぽいラインが国道21号その下側の中山道に囲まれたエリアとカンロク山のエリアが大きさ的にあまり違わないことである。カンロク山上を平均に削り採って太田宿造成に使うには十分な量であり、カンロク山は平坦で前線陣地として太田宿設置当時は好都合な場所であったはず。
それと共に前回書いた可児側より脇本陣裏に直行できる流れにも注目したい

2007.4.30
北緯35度26分24秒 東経137度01分50秒 広重に会える
間一髪とでも言う出来事であった
先日フリーペーパー誌のかにさんクラブで紹介があった太田宿に関しては、この臍曲がり中山道が他の太田宿関係のホームページよりも身近な切り口ということで、編集部が興味を持ち話を聴きに来た。編集に関しては当方のホームページが基となっている部分がある。音羽湯とかヒロシ洋服屋などこのホームページにしか載っていない。
その中で広重の太田の渡し絵は現在ある文化会館辺りではなく、ホームセンターコーナン辺りと話して置いたように記されている。
昨夜のことである、太田の地図を見ていて重要な痕跡が在ることに気付いた。
その後地図を精査していく過程でほぼピンポイントで押さえられる痕跡を発見した。
タイトルのポイントがそこである。
5月6日でコーナンは閉店になり以降その屋上駐車場へは立ち入りが出来なくなるであろうと思われる、その為今日写真を撮りに行ってきた、まさ間一髪であった
少し前までその写真と広重の絵の地形の関係を地図上で検討してみた。非常に面白いことが検討の地図上に浮かび上がってきた。今の観光説明書き直して貰おうじゃないかといえる内容のものである。
世の中連休なれど我が家は関係なし、内容のページアップは先のことになる。
2007.5.4
広重画 位置 検証(それほど大袈裟なものではない) その1
1月16日の消えた道が中途半端で終わっているこれについて書こう。
市役所設置以前ここには東の万尺寺 に隣接して西へ地方事務所(後、県事務所に改称
)、土木出張所、保健所があった、昭和30年代の事である。それらが何時設置されたのかは知らないが、現在中町公園は昭和12年当時建設された警察であり、保健所もが昭和13年当時建設開始されたことから同じ頃であろう、(蘇陽会会報誌 ふるさとより 昭和12年6月15日、昭和13年6月12日発行分参照 home頁に入り口あり)
その関係でこの界隈の古い道は消えた。
交通の要衝から街道は延びる。
この宿の神社、墓地は街道と密接な位置関係にあるようだ。
渡しが交通の要衝ならそこから街道は存在したはずの仮定からこの話は始まる。
万尺寺境内を横切り山之上街道より始まる細い道がある(現在は市役所との境界でとぎれている図中グリーンライン)。
市役所の西、太田病院前を通り蔵の内墓地を通り若宮八幡宮を通り関市に抜ける街道がある(図中紫ライン)。
この二つが分断されたものと頭の中で想像していたが、何気なく地図を見ていて永く疑問に思っていたことが解決した。
国道21号と駅前通りの交差点南西の家並みは国道に対し斜めで三角帯を形成している、この不自然な家並みが永く持っていた疑問である。
地図の上でこの家並みに沿って西に延長すると市役所西の道に素直に結ぶことが出来る。(図中紫ライン)
つまり、この三角地帯でこの街道と山之上街道(紺色ライン)、本町郵便局北の東山道といわれる道が交差する。
ここが太田宿開設当初かそれ以前からの渡し位置である証でもあると考える。
それならばその後渡し場が移った太田橋西界隈にも同じ事が言えるのではと地図を調べた。 続く

2007.5.11
広重画 位置 検証(それほど大袈裟なものではない) その2
一つの道がある井の上の観音堂を通り西の国道41号を越した畑中に現在の地図では消えた北に折れ河岸段丘を上る道がある、上がった処に祠があるようだ。道は前平公園の西のお賀茂様(県主神社)を通り関市へ抜ける。(赤ライン)
観音堂より東に向かい木沢病院の建物間を通る道である。病院の東でへの字状に折れ曲がるが、この界隈も近年大幅に変わっており昔の道は消えている。
図a部地点に道があるこれが昔の道の感がする。
東に進み住宅地内で途切れるが●ポイントに不自然ではなく結ぶことが出来るはずである。
この太田橋付近から始まる道と山之上街道が交差する北には太田七社の一つ松尾神社がある、現在は小さな社ではあるがこの道から神社参道が在っても何の不思議ではない。
又、国道41号と旧越美南線(現長良川鉄道)の交差する東北には八坂神社がある。
この神社は41号が現在の路線に新設されそれまでとは様相が異なっている。神社林は旧越美南線に沿って今より大きな規模で東に林が延びていた。
この神社の特筆することは、他の神社が社殿が神社の法則通り南を向いているが、この神社だけが知る限りの昔より東に向いていることである。
想像ではあるが越美南線工事によりそれまで南に向いていたものが改変されたのではと想う。街道から参道が始まっても他の神社の規模から推測しても何の不思議でもない(この鉄道工事では敷設路線に引っかかる墓地も蔵の内の墓地に移されている)。
このように神社と密接な位置関係のあるこの道は古い道であるはず。
太田橋西、国道21号の南の旧道とそれに通じる川に向かう小道(青→部)が先回書いた驚きの発見である。
この東西にのびる道が本町郵便局北に通じる東山道であるのでは。
すなわち数本の道が交差するb点、ここが後々書く祐泉寺東より移った可児側への渡し場であり広重が描いた場所でもある。
交差ポイントより延びる点線のc道は断続的に残っている古い道らしきを繋いだものである

美濃加茂市市民公開GISより
尚、現在掲載されている地図はb部当たりの道は確認できるが、現状この辺りは大幅な工事で様相が変わっている。更新地図ではこの道は消滅している可能性がある。
美濃加茂市市民公開GISで検索するとnet上で確認できる。
次回はいよいよ誰も試みたことのない広重画の検証(結果はこの絵非常に風景に忠実であり、その為興味在る事実が隠されている)
2007.5.14
広重画 位置 検証(それほど大袈裟なものではない) その3
太田橋西、国道21号の南の旧道とそれに通じる川に向かう小道が先回書いた驚きの発見である。
この東西にのびる道が本町郵便局北に通じる東山道であるのでは。
すなわち数本の道が交差するここが可児側への渡し場であり広重が描いた場所でもある。
前回書いたc道の右の少し広い道は山之上に通じ又、祐泉寺東の渡しより延びる山之上街道とも合流する。渡し移動と共に同じ方面に向かう街道もここから発進していることからもここに渡しがあっても何ら不思議ではない。
この地点を広重の描く太田の渡し地点と仮定する(地図の太田橋北詰めの赤い点)。地図の赤い点と赤線が鳩吹山山頂を結ぶ線、青線がそれより2キロほど離れた山頂を結ぶ線である。広重画の右端の二つの山である。
広重画を見てみよう。
この絵は不思議なことに絵の中央(左右方向)に視線を置くと何故か落ち着かない。
一番落ち着くのが手前の山と右側の二人の人物を結んだ線上が一番落ち着く(B線から発する3本線の左の線)。この延長線上に広重の目があったに違いない。又、地平線つまり視線の高さが高く、左の人物は明らかに上から見ている(黄色いx印辺りが視線では)。カメラにしても絵にしても風景を対象にする場合対象物より少し離れた場所にポジションを置く,それからすると街道が交わる少し離れたところから描いているはずである。
絵では切れている川を大まかに右に延長、カンロク山の裾の川岸を同様に延長、グレーの線である、これが川全体と仮定。
広重位置と仮定したポイントと鳩吹山(手前の山)を結んだ線(3本中左の線)は、カンロク山先端(A線と松との交点)よりO点間の三分の一より先を通る。
地図の1上で赤い●がカンロク山の先端水色線が記憶の中の河原(木曽川水流跡)、紫線はそこを結ぶ線。赤い線は線は絵とあまり違わない状態でカンロク山を通る。
濃いグレーの線は鳩吹山とカンロク山先端と結んだ線で絵中のA線である。つまりこれより西側に広重は居たはず。
3本の線の右側の線は地図上の紺色線である。
ここで驚くべき事を発見、現在文化会館辺りが広重画が描かれたところと定説になっている。しかし絵から見る高度が足らないし描き込まれている風景がそこでは不自然である、そう思ったのが絵の描かれた地点を探る発端でもあった。
文化会館辺りで検証のため撮影していた時、その直前に撮影してきたホームセンターコーナン(5月6日で閉店)屋上と同一線上に在るのではと想ったが、図を見て貰うと分かるがその通りであった。広重画中3本線の真ん中の線が文化会館上を通る線である。広重画が文化会館辺りとされている誤解の基が同一線上に在ったことである。
もう一つ普段の生活の中では気にもしていなかった事を今回地図を見ていた改めて気付いた。
拡大地図中興味在る地名がある。島町である美濃加茂市の町名再編で付けられた町名であるが何の根拠でこの名が付けられたのか。昔の字名がそうであったの在ろうと推測する。
この界隈は島であった、つまり昔々ここを川が流れていた証ではないか。
広重画にはまだ謎が秘められている。次回は写真での位置検証


地図1
拡大図
2007.5.16
広重画 位置 検証(それほど大袈裟なものではない) 最終章
ア
イ
ウ
エ
オ
カ
キ
ク

美濃加茂市市民公開GISより
ア→クまでが5月4日に撮影した物、下の航空写真中の文字が撮影した場所、赤丸が前回の拡大図中の赤丸位置。
(尚、ア、オ写真中四角い壁上の建物が文化会館である)
航空写真は5月6日に閉店したホームセンターコウナン建設前の状態。撮影はコウナン屋上駐車場である。
キ写真は堤防上、クは文化会館そばの堤防上。
広重画とウ、オ写真が非常に近い、文化会館での写真クでは左の峰とその横の峰の間隔が開きすぎている。
この峰は右側が急斜面で落ちており広重画もその様になっている
写真一番右の峰は前回地図上の紺色線の山である、真ん中の峰は左右二つの峰の少し南、わずかに右の峯側に寄った峰で、標高多370mほどである。
又、愛知、岐阜の県境が山頂を通っている。
結論として航空写真赤丸のすぐ上を通る旧道(東山道)の上辺りが広重が描いた場所と断定する。
先に書いた経緯度地点は広重はいなかったはず、ゴメンです
2007.5.22
次への前に
先回の記事は少し急ぎすぎた感がある。分かってはいたがコーナンの閉店、かにさんくらぶという地域限定の情報誌に纏わる笑えない話などが在ったためである。笑えない話は特定個人に関わる事であるから触れない。
急ぎすぎた件は旧木曽川から広重画の流れにに変わったことに触れていないことである。この変化について暫く書き込みを続ける予定である。
先日、この記事を読んで戴いている岐阜市のFさんから今渡の関西電力発電所が出来る前の地図を戴いた(お名前をみて一家で大変驚いた、それは秘密として)。
それと共に昭和58年のこの界隈の洪水に伴う(余談であるがこの日三宅島が噴火した、先年名古屋市北部の新川氾濫時も偶然にも三宅島は噴火している
)護岸工事の空中写真を閲覧することを知った。これらの中には非常に興味在ることが隠されている。
広重画が実風景を非常に忠実に写し取っていることは今までの書き込み通りである。それから考えると一カ所に重要な描写がある。
カンロク山先端と対岸の間に土地が描き込まれていることである。この土地を中心に渡しの話は進む、はず。
本業があわたただしくなってきたので何時のことになるかは判らない、ビールでも飲んで
気長に待って欲しい。銘柄は字は異なるがキリンが酔い。
2007.6.1
航空写真という鳥の目
この記事は本業の仕事中に鑢をかけながらとかペーパーをかけながら記憶を基に想像しながら構築している。此のためにわざわざ動いたのはコーナンでの撮影だけである。
何故その様な方法を採ったのかは至極簡単な理由からであった。銭にならないことに貴重な時間を費やすことはないである。その為、無責任な遊び感覚を基本としている。
何年か前に、とある処の、とある学芸員の方と話す機会があった。専門家ってのは視野が狭いものだとその時も思った,仕事柄いろんな分野のその様な方と接することがあり度々経験することでもあったからである。
長くプラモデルの商品企画部門に籍を置いていた、小さい規模の会社で商品企画から製品化宣伝、広報まで全てが仕事の範囲であった。お陰様で今それが器用貧乏という事で役立っている。
本業として作っている照準器は全く現物を見ることなく本の写真から作った。判っている寸法は一つだけで写真で判らない部分は想像で作った。
完成後現物を視る機会があり照合したがほぼ同じであった。(興味ある方はhttp://blogs.yahoo.co.jp/kasamazya 照準器開発裏話)
大手と違い自動車メーカーとパイプをもって居らず新車開発は小さなスクープ写真から寸法を割り出すなんて馬鹿な事もやっていた
このときの自慢はホイール寸法を推測そこから割り出し新車発表時判ったホイールベース寸法で誤差2.5mmまで絞り込んだことである、
それらの経験から分からない時はなりきることで判ってくる事であった。照準器の時もその設計者の癖を知り自分が設計したらどうするかと。
中山道に於いても、東山道を歩く旅人の自分が居て、太田の渡し辺りでウロウロと写生場所を探している自分を置いていた。
時折、旅人の感覚で太田宿を歩き、新製品開発の目線で視ると町興しの意外な盲点が見えてくる。
5年ほど前から自分なりに小さな町興しをやっている資金は1円ほど、最初は名詞位の貼り紙一枚、その後インターネットも利用、今では大分知れ渡り集客している。
旅人の目からすると料理のし甲斐のある宿でもあるがこの宿には「逍遙の呪縛」があり「渡しの呪縛」があるようにみえる。
話を戻そう、いろんな分野の処、ネット社会になってからそれは簡単に出来るようになった。
今回中山道と全く関係のない飛行機関係のHPで国土交通省の航空写真閲覧サイト、ウェーブマッピングシスムを知った
(http://w3land.mlit.go.jp/WebGIS2/WH_WebGIS_np.html)。
試しに太田の部分を視て驚いた、先回触れた件である。その写真は昭和50年代前半で昭和58年の洪水前つまり護岸工事(洪水以前に護岸工事の計画があり一部工事が進められていた、写真の美濃太田駅より駅前通りを川に突き当たった辺り一部広くなっている護岸道路部分が工事進行中の処。洪水後一気に嵩上げになった記憶)前の写真でこの界隈の風景が大きく変わる前の貴重な写真である。
その中、前述一部工事進行中辺りに現在の流れに直行するように南北に延びる川跡らしき部分がくっきりと見て取れる。
自分の背丈の視線では全く知ることもなかった川の痕跡が残っていたことに非常に驚き、感激し、想像通りであったことに少し自慢である。
旧木曽川が広重画の太田橋下に変わったのは岩盤に突き当たったからと思う。この川は一つのパターンを持っているようで、同じ様なことがこの下流2qほどの所にある坂祝町の一色に見ることが出来る。
先回触れたカンロク山の先の土地の痕跡は現在も確認出来る。この事実と近年有名になった埋没林を素人の目から見ると意外な展開になってくる。
2007.6.10
広重画の山を地図利用のソフトより解析
忙しい最中いけない大人のおもちゃとも言うべきソフトを手にいれた。お陰で今夜は此にてのお遊びに没頭



左 北緯35度26分24.30秒 東経137度01分58.46秒 標高70m 太田橋交差点東南旧道付近
中 北緯35度26分15.74秒 東経137度01分31.46秒 標高59m 文化会館下
右 北緯35度26分17.62秒 東経137度01分31.88秒 標高63m 文化会館西道路
レンズ47mm/各地点より撮影方位285.08度/仰角0度
手前の峰の一番奥の峰(グレー)へのつながり方、一番手前の峰と後ろの峰の最高点との関係を比較下さい
微妙な違いがある、尚高い峰二つの位置関係は下の峰との関連を無視すれば、可児側の今渡発電所西付近が一番、絵の構図と近い
2007.6.15
このソフト非常に面白い
昨日の画像が28mmレンズを使用したので今日50mmレンズに近いレンズの画像に差し替えた
2007.6.16
話は意外な方向へ
素人が勝手に推測し勝手に書き込んだ事が真実のようであり、それと太田の渡し図が東海道53次画の最大の謎として議論されていることがいとも簡単に解けてしまった。
近々それをまとめることにする。これを公表すればその世界では大変な話題になることは間違いないことである。と、少し自慢しよう。
広重画の太田の渡しのカンロク山の先の土地は現在航空写真等で判る水面下の浅瀬と重なる。(前述美濃加茂市市民公開GISの画像が一番判る)
当時の水位はどの位なのか、現在の水位は文化会館下の岸辺りの標高が59m位である
太田橋辺りが69m程でありその中間としても現水面より5m程高く、そこより幾ばくか出た部分(仮に0.5mとする根拠はない)水面下1m(根拠はない)とした場合少なくとも当時より6.5m浸食されたこととなる。
前述F氏から戴いた1936年(昭和11年5月発行)地図にはその姿は記載されて無い。
広重画がいつ描かれたのは1832年秋から遅くとも1833年春である。根拠は後日の書き込みとする。
それから推定しておよそ100年の間での浸食である。
それから考えられることは本流は今の川幅と比較して非常に狭く、その分
流れは早いものの実際に横断する距離は非常に狭いと考えられる。
勿論実際は可児側より件の中州縁沿いに進み、川を横切る。
この画像でお気づきのことと思う、太田橋下の川跡を可児側に延長すると浸食された跡があり、そして入射角、反射角のごとく太田側へ反転するかの跡が確認できることを。これはここに渡しが移る前、祐泉寺下の渡しの頃の形態と同じである。これが乗船太田→可児、下船の可児→太田の渡し場が二個所在ったと推測する根拠である。
カンロク山の川側を回り二個所を結ぶ道は、近年まであり(国土交通省のウエブマップシステム画像でも確認できる)昭和11年地図にも記載されている。
宿東端にあった江戸への道標もこの道を通れば下船場を通りさらに先の可児側(江戸)への乗船場であっても何ら不思議ではない。
2007.6.17
new
記事削除
大人のおもちゃ的ソフトの魅力は大きくつ、ついついのめり込んでしまった。奥様に内緒で・・・・などではないので安心でもある。もっとも我が家では「又やっている、本当にしょうがない」で終わるからよいが。
しかし検証には若干問題もある、山容は実風景目視の像と若干異なる気がする。ソフト操作中コーナンでの撮影時と少し違うなと感じていたので先日太田橋辺りを通った時、運転しながら確認した感じは目視の方が近かった。
ソフト上で山容だけを見ると対岸の可児の渡し跡からの姿が近いようにも思える。只、全体の構図では辻褄が合わない部分が多い。
今日、これまでの書き込みを一部削除した。先日中山道関係をnetで検索中東海道五十三次の気になるページへ跳んだのが運の尽き。
53次の謎に出会ってしまった。そのことについては先に触れたが、素人が推測するに53次の製作に関する謎を解くカギがどの様に考えても、53次に関係のない岐阜に在るからである。
それに関連して太田の渡し画も非常に大きな意味を持っている。この絵は翌々見てみると他の宿図と比較して構図が意外に簡単な構成である、それが先日来持っている実風景をそのまま写し取った様な構図はどの様にして描いたのかと言うことと相まって、この絵の重要性が高まってくると考えている。
削除した部分は素人が勝手に推測した事がそれを解くカギになり兼ねなく、地元の知名度を上げることに成るかもしれないことを他国の人に取られる事もないという、度量の小さい人間として対処した。勿論どの世界も権威の後ろ盾のない素人の考えなど評価されないのが日本であるから、そんなことは心配することはないとも思っている。
研究家、学者などとの立場でなく、今回は出版物の姑息な編集者(版元)の立場に自分を置き換えて考えてみた。ここで役立っているのが東京の出版社の編集長辺りから酒の席で聞く裏話である。
この件はほぼ90%程基本構想が頭の中でまとまっているが、色々なことで現時点では発表しない。
2007.6.20
http://infinitys.exblog.jp/2863251#2863251_1
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