宮仕えの頃は新製品開発に携わっていた。
ユーザーの声で一番参考になったのはお褒めの言葉ではない、むしろそれらはマイナスを引き起こす不要のものであった。
容赦のない腹立たしい声が本当に貴重な意見であった。
色々なイベント報道で優等生的なコメントお聴くとき、年甲斐もなく腹立たしい想いをする。
本当は其の後ろでVサインでカメラに写ろうとしているガキ達が核心を突いたコメントをすると思う
○○だからつまらない等と
栃木県の壬生におもちゃの町という地名の土地があり、そこで出会った職人の一言が、太田の町に生まれ育った私に大きな影響を与えた。
それが太田の町を見つめ直すきっかけとなり、このホームページを作る大きな原因ともなっている
以下の文は2005年にある席で元市会議員の一人と話す機会があり、その時妙な考えに興味を示されじっくり聴きたいと申されたが其の機会が無く文書に纏めて送ったものと、他の市関係者に送ったものである。
言うだけならば誰でも出来る。それに沿って書いたつもりである。
親父に昔から言われていた事がある。この町では出過ぎたことは言うな、遣るなと
親父はすでに亡いが、未だに反抗しているようだ
2006.
○○ 社長
謹啓
先日、小松屋での「大八文庫」講座では声を掛けていただきありがとうございました。
過日お送りしました中山道に関する持論その後、感じたことを書き連ねます。
太田宿再整備関係者での開発に関する議論が多くあると聞く十中八九確かだと思う事がある。
太田宿の端から端までここ数年の間に仕事上ではなくプライベートで観光客の目線で歩いた(車ではない)方がいらっしゃるかということである、恐らくいらっしゃらないと思う。
自宅が坂祝にあり転居まで住んでいて今仕事場にしている桜新町まで曜日、時間を違え時折歩いてくる。
その度に太田宿は訪れる観光客に不親切な失礼な町であると感じている。
多分、町興しの最大の目的を隠しているからである。最終的には銭儲け、中山道の商店、
太田の町、美濃加茂市に一銭でも金を落としていって貰うこれが覆い隠され綺麗事だけで終わっている気がする。
ここ2年半でインターネットが大きく様変わりしてきている、その対応に関係部署は気付いておらず、膨大な観光予算を費やして行っているが僅か数10円でそれをうち消す情報が広まってきている、今後口コミというこの情報は益々増えてくる。只、この情報は僅かの時間的手間と僅か数10円で反転し市の観光案内に大きく貢献することにもできるのだが。
中山道会館が出来その後、観光バスなどで来る団体客と個人で訪れる客への対応は無意識に大きく変わってきているのでは。
基本的なことで観光客は太田宿へどのような交通手段出来ているのかの把握がされているのか疑問である。車中心での地域でありJRで来ている人のことには対応が出来ていない。これはインターネットに書き込まれている実際に太田宿を訪れた人の感想でもある。
個人で公共交通機関を利用して予備知識のない観光地に行ったとき何が必要なのかが分かるが、その様な経験が無い人たちが関係者の大半であると推測する。
その為まず改札を出た旅慣れた観光客は面食らっているようだ。市役所辺り本町郵便局あたりで太田駅を尋ねる人が非常に多い事が知られていない、勿論観光客に優しい駅を含む案内など皆無である。勿論JR以外でも同じであるが。
中山道の文化遺産を残そうが根底にある、然し美濃加茂市という商店の陳列棚には古道具、押しつけの商品、よく来たな勝手に見ていってくれと慇懃無礼な商店主そんな風景がダブって見える。
これは携わる人間が地元の男であるからであり、これを打破するのは女将さんしかいない。
●浅草の女将さん
昨今東京の浅草の女将さんの浅草再興、持てなしなどについて参考にしている街がある。
当地もその一つであったような記憶がある。
浅草の例は太田宿に全く当てはまるが根本が理解されてないようだ。
浅草には生粋の女将と嫁としてきた外来の女将の二種類があり、想像するに相当な摩擦があったはずである。
言い換えれば外来の人間とと生粋の浅草っこの摩擦である。主導権を握ったのは観光客地区の女将ではないかと想像する。
浅草は雷門から続く仲見世を中心とする観光客が寄りつく場所と、田舎者の観光客なんぞ相手にしませんここは浅草だからというような観光客には敷居の高い地域と大きく分かれています。簡単に解かるのは、仲見世通りとその通りの隅田川よりの建物の裏側通りの敷居の高さです。
生粋の浅草人は地元の誇り、自慢を観光客相手に示すことは出来てもそれは観光客にはは受け入れられることではなく衰退の一因になったはずである。
浅草寺は寺であるが柏手を拍つ人、拍っていいのか迷っている人が非常に多い。
この光景は生粋の者にとってはある種腹立たしい光景である。
大方の外来の女将さんは観光客として訪れ迷った側だと思う。それ故浅草を観光客と同じ視線で客観的に見、観光地としての必要な事が分かっていたと思う。
浅草寺で迷いあるいは柏手を拍ち恥をかいた経験が、毎朝本堂の前で立ち止まり一礼をしていく生粋の地元人と違うおもてなし方が根底にあるはず。
(浅草寺と大通りを隔てた所で業界のイベントがあり数日間界隈での滞在を十数年経験してきました。開場前の早朝浅草寺で開催中の無事を拝み、閉会後酔眼で深夜まで俳諧
の毎日で、現在も近くに行くときは時間を作って立ち寄ります。仲見世の商店の一部は
出入りが激しいようで品揃えが大きく変わっている事度々。)
この構図は太田宿の現状と同じであり、再興の起爆剤は客観的に見ることが出来る女将さん連中のはず。只闇雲には危険であり最初に一度太田に来たときの感覚に戻さなければ無意味な結果になるのは目に見えている。
駅前通りの悪夢、再び
駅前通りが整備される頃よその土地にいた。久しぶりに帰ってきて綺麗になった直後の駅前通りを通った時最初に感じた印象はこの商店街は死んだでした。
中山道再整備で町並みを再生していく計画とか。
第一号の宿の西端の店舗を見て駅前通りの二の前と感じ今も通るたびにそれを感じます。その後再整備されている店舗を見て益々その感が増してきました。
宿場再興のシンボルとも言うべき妻籠、馬籠宿へは時期を隔てて行った。最初は35年ほど前で木曽路がようやくブームになりかけた頃、二度目はそれから十年近く経ってから。
飛騨高山も同様最初は40年ほど前、二度目は6年ほど前。両観光地共に共通して言えることは歴史を感じさせる建物、通りの佇まいが、古そうな物に変わったことである。
そして大きく変わったことが一つある、観光地としてこれがなければプラスアルファーの人は呼べないだろうなということである。
そのプラスアルファーの要因が整備後の太田駅前を初めとする太田宿再生にそれが感じられない。
その要因は東京、大阪、浅草その他の元気の良い商店街に共通して言えることがある。
商店街再興のモデルケースとして有名な東京の烏山商店街は行ったことはないがその要因があって初めて出来たことである。
再開発後太田駅前通り商店街で残るのはオオミ屋とヨシダ靴屋かなと感じていた。それは開発前からの形態を保ち東京、大阪、浅草その他の元気の良い商店街と共通の物を持っているからである。
(余談ではあるが駅前商店街はインターネット上で非常に重大な過ちをしていた。現在閉鎖されているが二年ほど前まで「美濃加茂モール」というホームページが作られていた運営は商工会だったと記憶。この中に商店検索欄があり飲食品コーナーに丸圭書店、渡辺塗料店が表示され何年も修正されないままであった。誰もきめ細かなチェックもせず、只時流に合わせてインターネットに載せた物であると思った。然し見た人はこんないい加減な商店街は見向きもしないであろう。)
妻籠・馬籠宿は中仙道を感じるが太田宿が目指しているのは中山道である。
●その他に美濃加茂 昭和村の及ぼしている美濃加茂市への悪影響、勿論逆手にとって
太田宿をアピールする方法はある
●次の中太田宿に一番ぴったりの食べ物は
蕎麦、うどん、きしめん、焼きそば、冷や麦、そうめん、春雨、にゅう麺、冷麺。
この中に美濃加茂市太田宿だけが出来る食べ物、土産をでっち上げることが出来ます。
勿論観光客が納得する歴史的裏付け(一部は嘘も方便含む)も付け加えて。
●年間少なくとも3万人(宣伝をすれば何倍も)を太田宿に観光客を呼ぶ方法もある。
土産として来客数の少なくとも6割の人が500〜600円の饅頭を買っていく。
●今が一番いいそのタイミングで全く例がないようなユニークな「素人職人の街」としての町興しをして注目を集める方法が出来る。
●何年も先の宿整備ではなく、今の町並みを僅かな費用で観光客に良い印象を与える光景に変えることが出来る、必ずカメラを向けたくなるような。
それは観光客が訪れる休日に中山道を歩いて見ると嫌になるほどの殺風景さを特に感じる、打破のキーは永楽屋であり魚徳である。
この殺風景さとは異なるが久しぶりに休日夜8時前に8時前にです、太田橋より小学校前まで車で走った怖いぐらいの暗い町並みであった。(これは加茂署から深田までの国道21号も同様である)
●今一番大切なことは、口には出ていないが皆さん遣っても仕方がないが心の隅にあるはず。
僅かな期間しかいなかった人、亡くなった人の終焉の地しか目玉に出来ない現実の中、頭の切り替えをすればまだまだ出来ることはあると思う。
岡本一平を知らない→岡本太郎を知らない→太陽の塔を作った人は、→を←に思考を変えることが出来ればであり、明治、昭和は加速度を付けて遠ざかる事を認識する必要がある。
先日小松屋で催された「大八文庫」後、妙なことから→寅次郎→男はつらいよと調べていく中、映画「男はつらいよ」第1作についてこんな情報がありました。
【第1作で終わりだろうと思って「坪内」姓を出してしまったものの続編で「散歩」先生を出すとなったらやはり「坪内逍遥」のギャグから発したあの姓を変えるわけにはいかないですもんね。あ、ひょっとして柴又界隈は坪内姓がうじゃうじゃいたりして…。そんなわけないか(^^;)しかしまああの参道界隈だけで結構な数のマドンナが住んでたり働いてたりしていますよね。み〜んな知り合いだったりして。】
国民的映画の中で坪内逍遙をグ〜ンと身近にしてしまう楽しさ。こんな中にも一つの町興しのヒントがある。坪内大賞を山田洋次監督に授与、記念講演、ひいては男はつらいよ全作上映なんてやれば柴又の矢切の渡しと太田の渡しを強引にこじつける楽しさもあるはず。
今、非常に気になること二つ
●東京のその手の団体と交流のある友人から聞いた。
世界的に有名な反戦団体が米ソ冷戦が解消されてから、反戦活動の目標が無くなり活動を披瀝する機会が無くなって困っているという笑い話のような現実。
どこかの街の諸団体の事が頭をよぎった。
●市の観光課辺りの若手にはきっと新しい考えを持っている人が居るはず、先日の岡本一平の脾完成披露の写真を新聞で見たがこれが現実と改めて思った。
中山道を今動かしている関係者の平均年齢が高くなりすぎている。
そして有名な晩年訪れた時の記念写真の逍遙の地縛に捕らわれすぎている。
逍遙にも漱石の坊ちゃん時代があったように人間臭い時代があったはず、それが先日大八文庫で質問した滑稽新聞のことと、男はつらいよでギャグとして採り上げる程の何かがあったはず。
一番活躍した頃の非聖人の逍遙が解ったにせよそれを理解できるのは、若手と女将さんしか居ないと感じる。
今のやり方が企業としてみた場合、時代の流れに背を向け伝統を守ろうとして若手の意見を評価することなく、次代の若手を育てられない状況とにている。
先日老舗について自分のブログにも書いた太田の老舗商店について。ある老舗で近所の人が新しい販売方法をしたらと軽く言ったところ、家は老舗だからそんなことは出来ないとえらく怒られたとか。
老舗とは伝統ある技術で時流にあったアレンジで変化していく物だし、その力があるのが老舗であると思う、その努力もしないで只昔ながらの伝統にしがみつくだけではそれは老舗ではなく死舗だと思うと悪態をついてしまいました。本音ですが。
色々と書きたいことはあるが文書にするには時間がかかり難しいのでこれ位で終わります。
文中、失礼な言い回し等ありますが、時間的なこともありご容赦ください。
敬白
出張先で住所を話するとき必ず「ライン下りの乗船場のあるところ」と付け加えて言っていた。
ある時栃木県壬生おもちゃの町の職人に何時もの様に言った。
東京の下町出身で各地の観光地を仲間と隊列を組み訪れるというこの職人、職人特有の本音で「ああ、ただ下るだけでつまらないところですね」。
以降出張先でその言葉を言うことはなくなった。25年ほど前のことである。
東京の出版社の人を乗せて21号を走るとき「ロマンチック街道って何ですか」と必ず訊かれる。説明に「何処がですか?」と返ってくる時は未だよい、無言で妙な笑い顔の時は最悪である。
日本ラインは生まれ育った者にとっては地元の誇りでもあった。
しかし外国など遙かに遠い場所で知るすべも限られた時代の中ではよかったが、ドイツのライン河に行くことは容易に出来、ここ2年ほどで急速に伸びてきたインターネットの中ではドイツのライン河似を打ち出せば出すほど外来にはマヤカシとしか映らないのが現状です。
鬼怒川下り、天竜、球磨川、嵐山などの川下りも昔はラインが付いていたが、今ではむしろラインを外しているはず。
犬山の鵜飼いが日本ラインの名前を外したことを岐阜新聞で知った、その時の日本ライン(木曽川)の括弧の注記付き表記に目を疑った。
何十年も前に命名されそれを巧みに利用してきた当時と同じく、これからの何十年に向かって新たな方法を提案すべき重要な時だと思っております。
捨ててこそ浮かぶ瀬も・・・命名当時より瀬は無くなった?
昨年8月に文化の森であった「中山道会議」を聴講させていただいたが期待はずれであった。現在各宿場で色々な催しをされ中山道を盛り上げることに努力されている事は知っていた。
聴講でオラが宿場の自慢で中山道69ポイントで69次ではないと感じた。
今、車社会の道の駅という新しい宿が全国で整備されている、中山道にしても旧街道近辺に拘らなければ非常に魅力ある街道になり、ひいては旧街道への観光客の動員も出来るはず。
例えば
●中山道、名刹の旅
各宿近辺には地元では有名な名刹が在るはず、それを繋ぐ
地元では街道筋なら祐泉寺になるが市単位で考えれば正眼寺まで入れられ るはず。
●食べて歩いて 中山道スイーツの旅
街道筋には今風の洒落たケーキ屋は無いはず、これも対象地域を広げれば 和菓子を含め在るはず、全くなければ作ればいい。
古ギャルというか女の古(こ、決して子ではない)と言うオバさん達や
若い本当の女の子など対象で展開できる。
●中山道 商人宿の旅
これを書いているとき中山道を走っていて「鈴木屋」が取り壊されている 最中だった。
低予算での旅にアピールできる。又、一般的な宿泊設備にはない趣があり 鄙びた風情を味合う旅が出来る
●中山道 桜紀行
字の通り、桜を紅葉、新緑色々変えることが出来る
●木曽路のダム巡り
木曽川水系には比較的車で簡単に行けるダムがあり其の最下流には川合の ダムがある。このダム湖には幸い太多線(最近地元の広告にも太田線の誤 記が多い、多分どこかの道路地図がそうなっているのだろう、全国放送の テレビ番組でもでも同じ誤記。)が通っている。
坂祝の勝山→関へ抜ける道の高山線跨線橋上から第3トンネルを狙う
撮影ポイントがマニアの穴場、古井のディーゼル基地もマニアにとっても 捨てがたい場所。
ダムを背景の太多線は多分あまり知られていない、SLが走れば絵になる が無理である。殆ど知られていない特急飛騨の車輌が朝、太多線を通り名 古屋へ回送されている。橋脚の間を走り抜ける風景、バックは春、桜。
●旬を喰らう 中山道の旅
中山道は山の幸、川の幸、湖の幸があり隠れた味を宿単一ではなく、街道 の宿全体で展開。
●のんびり行こう69次 夫婦旅
団塊の世代を対象に少し知的で夫婦だけで童心に帰れるような大人の旅を 提案、交通手段は色々ある。
なんて色々考えることが出来るはず。
沿線は交通網が整備されているにも関わらず観光客に宿場を繋ぐ方法の情報提供がなされていないように感じる。
単一の宿への観光客の呼び寄せは其処に強力な魅力ある物がなければ難しいが小さい魅力を交通網を使用し旅にすれば何倍も魅力を倍加させることは可能なはず。自分から旅を作り出すことなど出来ない今様の観光客には具体的な情報を提示しなければ動きはない。
前記の中山道会議に於いて感じたのだが、旧街道にあまりにも拘りすぎの感がある、太田宿も同様である。
遠方の観光客予備軍が目指す太田宿、美濃加茂市は彼らが観る地図ではほんの小さな点の中でしかない。つまり太田宿も美濃加茂市も全てが一緒。中山道の各宿ももう少し広い範囲で見れば非常に魅力のある中山道の旅を提案できる。
小さな点へ集まった観光客をさらに小さな街道跡に誘えばよいことである。
最近特に家屋が取り壊され宿の跡の感が増してきている街は銭金遣って来る観光客には失望しか与えずリピーターなど決して望めない。
街道筋の整備、再開発も素人目で見ても長期が必要、それならば太田宿の範囲を市全体として考え、銭金遣って来る客に街道筋以外の処で満足させながら街道筋を整備するという素人考えの方法もあるのでは。
地域の活性化はきれい事であり、本音は地域の銭儲けであるはず。
ならば本音で考えることも必要では、地元の偉人、伝統を第一義に内側から打ち出しても、誘致しようとする観光客は娯楽で来る、表現は悪いが知的に低レベルな状態で来る人が大半である。
お札の肖像や一度は聞いたこと、読んだことのある文学者なら人は楽しむことが出来るが残念ながら坪内逍遙ではあまりにも小難しすぎる。地元が徹底的に茶化す事が出来ればギャップが大きいだけに面白いことが出来る方法が色々ある。
日本の各地にイベント型地域再開発が盛んであるが、戦後最大のヒットであるテレビをテーマーにした町興しはあまり聞いたことがない、古くは木枯らし門次郎や最近の作者の出身地での作者の手掛けた番組やキャラクターを中心の
所はあるが。テレビ全般についての取り上げは聞いたことはない。
どこかにテレビは低レベルの物との先入観がある。
ワースト番組を中心のテーマで考える事も決して悪いことではないと思う。お行儀のよい昭和村に対抗ガキの感覚で楽しめる裏昭和村の展開をする、其処ではカッチン玉やパンコであり釘差しでありチャンバラである。もし当時現役のの同窓会が訪れれば、その頃の腕が鳴り大いに盛り上がりするはず。
江戸時代の太田宿、明治の偉人、しかし今ネット上などで太田を訪れた人の感想などをみるに、当時は未だ無かった造り酒屋風景、祐泉寺裏の魚徳の看板に意外な人気が在る事を知るに面白いやり方は色々とあると思う。
NHKがもう一度見たい番組と言う企画を行っている、20年ほど前に30分番組で伊深の正眼寺を採り上げた内容の濃い番組を放映した。
再放送されれば市の観光地としてのPRに成るはず。
海津町の郷土資料館では6年ほど前にはNHKの昔の番組である新日本紀行?の昔の輪中地帯の生活を撮った映像を流しており非常に興味をひいた。
思いついたテーマでチラシコピーを作ってみました(添付資料参照下さい)。あの小難しそうな逍遙先生も切り方次第で少し身近に成ると想います。バックの写真はご自由に想像して下さい
ゴジラ映画祭
この企画は美濃加茂市を国内はもとより海外にも存在を示し、其処から人を呼ぶことが出来る。
何故、美濃加茂市で? 関連は?在りません、必要なのはこじつけです
その1、ゴジラ映画の誕生は昭和29年、つまり美濃加茂市と同年です。
太田では前進座で上映、当時は子供の映画館への出入りを学校から禁 止されていなかった。
その2、中山道52?番目の宿、人が笑うようなこじつけの52ラ(ゴにラ)、 注目されるから笑われる
その3、映像技術的には素人で技術的な可否は分からないが、美濃加茂市はギ ネスに申請できる規模のスクリーンが在る(作れる)。
この3点を基本にでっち上げる。
ゴジラ映画は50数本在りシリーズは完結した。
数本を上映する処はあるがシリーズ全部を上映する事は考えつかないはず。
上映場所は学校講堂など上映可能なところ複数。1カ所当たり数本として3日間位で全シリーズを見て回るようにする
各会場をシャトルバスで結ぶ
来場者用宿泊施設としてテントを設営できる場所を提供
鈴鹿の8耐的
ゴジラフアンは国内は元より海外にも多くのフアンがおり彼らのネット利用で宣伝費は抑えることが出来る。
又、全シリーズが観られる状況は前代未聞のもので、開催を夏休み前半とかに設定、早い時期に情報をマスコミに流すことによりTV等の報道機関を利用し同じく低予算で宣伝を行うことが出来る可能性がある。
JR、観光業者を巻き込める。数日間の滞在型であるから宿泊、銭湯、コンビニ、飲食等々各職種への効果も大きい。
もう一つの思い付き
太田宿は盆地である、その中心付近にアルカイダなど心配する必要のないツインタワーがあり川面がある。鳩吹山、郷部山、巾上、古井の天狗山からレーザー光線を照射。ツインタワー(本町のマンション+御代桜の蒸留等)の壁面利用。郷部山からは幸い木曽川の流れ方向に沿い照射できる。それで何をする、出来るかは分からないが、何か面白いことが潜んでいそう
青春18切符という普通列車ならば24時間数千円でJR路線乗り放題の乗車券がある。これを利用すれば非常に安価に魅力ある旅に出来る。
東京から高山まで片道3000円程で行けるこの切符で東京深夜0時前、美濃太田8寺前着、高山方面へ乗り換えの若い客が夏場意外と多い。
美濃太田7時頃発大阪昼前着、大阪5時頃発美濃太田夜11時頃
着、強行軍ながら吉本を観て飯食って5人で行って一人当たり3000円弱の交通費。
古ギャルの奥様方ワイワイ、ぎゃあぎゃあ、行き当たりばったりの途中下車でおいしい物を探しながらの旅もできるこの切符のメリットを利用し中山道を歩かせることも可能。
前述名刹の旅は四国88カ所より身近な方法を提供する。中山道は日本の人口の1割の首都圏から直接出かけ終点が各宗派の本山がある京都、何も見逃す手はない。
団塊の世代がリタイヤするタイミングを狙ってやれば定着すると思う。この時は四国88カ所は親父達で一杯になるはず(残念なことであるがこの世代の自殺者は増えると思う)。
長嶋が登場した時
神様と言われた男の姿が消へ
日本中が騒然となった
美濃の禅寺の静寂の中座禅を組む
川上の姿があった
そして、神様は現役を去った
美濃の静寂の中で、さあ新たなスタート
(団塊の世代の定年退職者向け)
風と戯れた男達はいい顔をしている、
風が作った顔である
タンデムの後ろが
ポニーテールからメットからのぞく白い物に変わった
美濃路の風の中走ってみませんか
風は、共に歩んだ世間の風の作った顔にはた
到底及ばないが
(団塊の世代を中心に高年齢層がバイクに熱中し出した)
ダムに死闘を征した物語は無い
電力に命をかけた男と女優の恋物語はある
木曽川水系ダムの旅
車で帰郷した
橋の中程で「あの町です」と言った
「こじんまりしたいい町だね」
親父ほど歳の離れた知人は呟いた
その晩酌み交わした故郷の地酒は旨かった。
「和宮と言うお姫様がいたんだ!」
黙って妻と目を合わせた
もうすぐ嫁ぎ行く娘の姿と遙か昔のお姫様を想い
ダブらせていた
文庫本を一つ持ち中山道の旅に出た
本の名は藤村の”初恋”
途中の街で逍遙を知った
to be to be.・・・・・を
とべとべと言い、クラス全体爆笑の中
心配顔で見つめる瞳を見たことを
思い出した
深夜初めての駅に下りた
タクシーに宿の紹介を乞うた
「お客さん知らない土地で宿を探すなら、
駅に向かって右に行きな、必ずあるから」
歳のいった運転手が教えてくれた
着いた言葉通りの処の宿は、時代に取り残された風情の商人宿であった
マニアルの笑顔ではなく、永い時の中から出てくる女将の笑顔に
妙な心地よさを感じ
次の旅に出た
街道を一本隔てた小道を案内した
「あっ!、子供の頃の田舎の風景そのまま」
故郷を離れすっかり都会の空気に馴染んだ友
鮮やかな緑の風景と
セピア色の風景が見えているんだろう
昭和の面影が残る街
(東京の出版社のカメラマンが必ず引きこもれる場所、御代桜裏からサガミへ抜ける道)
2007.9.24追記
日本人は何故か京都に憧れる。
中山道は日本の人口の1割の人間の居る所から発し京都に至る。
全国全ての街が観光地として頑張っている状況は多分日本開闢以来初のことであるはず、その様な中で各宿が単一で観光客を集めることは容易なことではない。
太田宿を訪れた人の中にはは実に様々な方法で東京から京都まで踏破している人達がいる。
何ヶ月も区切りながら踏破した人、小さい子供をベビーカーに乗せ歩いて踏破した家族(この家族のhpでの太田宿の紹介は秀逸である。太田宿の分かりやすい地図と各見所の通過時間まで表示されている)
現代では色々な交通機関があり、それぞれのライフスタイルにあった交通機関の選択も容易である。
小さな魅力の宿へ立ち寄りながら京都へ向かわせる、現代版69次をアピールする方法はメディアも注目するはず。つまり広告宣伝費は安くできるはず。
中山道現代版sugorokuとでも言いましょうか
近年東京浅草の女将さんが町興しで注目を集めている。マスコミ等の報道ではおもてなしが主題のようである。
それが参考となるのはある程度町興しが出来てからのことである。
浅草再興までの経過が太田宿の町興しに多いに参考となるのではと考える、そこには規模こそ違え同じ様な構造である。
浅草は雷門より続く仲見世が観光客の寄りつく場所である。
しかし店舗のほんの一本裏通りには観光客には敷居の高い店が並ぶ通りがある。
そこには「田舎者は・・・なんて」と言う雰囲気が厳然としてある。
浅草は生粋の江戸っ子意識の浅草、観光客向きの浅草、単に浅草が奇妙に同居している町でもある。
浅草再興に活躍したのは表現は悪いが他の土地から嫁いで来た外来種の女将さんが主導権を握っていたはずである。
生粋の江戸っ子感覚の女将さんはむしろ障害になったのではないかと考える。
その様に考えるのは、20年ほど前まで10数年浅草寺の本堂より道を隔てた処で毎秋数日間イベント行っていた。早朝から夜(酔眼が多い)の浅草寺界隈を見ていたことからである。
早朝の本堂前を通る浅草の人達は必ず一礼をしていく。
昼間、実に面白い光景が本堂で繰り広げられる、時折柏手が聞こえるのである。
旅行の中学生など柏手を打ちかけている光景をよく見る「お寺さんだから柏手はいらないよ」なんて何度も教えたことがある。
勿論一番最初に行ったときは思わず柏手、寸前に気が付いたなどという人を笑えないことがあった。
ほんの一例であるが、この光景を見て浅草の人はどの様に見るのか、独断と偏見で考える。
生粋の浅草人→「てやんで〜田舎者が寺と神社の区別もつけね〜・・・」
外来種の女将→「私たちもそうだった!ここではこうするの・・・」
50%は合っていると思う。
この違いが浅草再興で葛藤があったと想像する一因である。
外来として訪れる観光客と同じ視線でモテナシを出来る外来種の女将さん連中が主導権を握ったのではと思うのは長々と書いたこのようなことからである。
太田宿はどうであろうか?。
前述したような全く同じ構造が存在する。
坪内逍遙を例にとってみよう。
太田で育った人間には郷土の偉人であるるが幼少期太田で育った話、その後は晩年の虚空像様での写真でその間の東京時代の事は全く知らない。
代表的な出版物の名は知っているが読んだことはないのが普通ではないか。
映画「男はつらいよ」の第1作(NHKテレビ時代かもしれない)で散歩先生と言う人物が登場する、これは坪内逍遙をパロッた人物である。
太田の人間があまり知らない東京時代の逍遙は、有名な結婚時のエピソード含め色々身近に感じられる人であったのではないかと考える。
だから東京時代の逍遙のエピソードを知ることが出来る山田洋次監督がパロディーにする事が出来たのではと考える。
極端な見方であるが娯楽感覚の観光客に今では文学と言う一般人に馴染みの薄い感覚でおもてなししても敷居が高すぎるのでは。
この辺りの感覚を壊せるのは外来種の女将さんだと思う。
これは太田の渡しについても同様である。敷居の高い部分を否定するわけではない、その部分が確立されていなければ低い部分の下支えなど出来ないから。
坪内逍遙「誰、それ?」、太田の渡し「何?、それ」、太田宿?。
この地へ嫁いできた当初は大半の女将さんはその様なレベルであったのではと想う。
今必要なのはこの感覚の延長線上で楽しさを提供する事が無ければ観光客に楽しんでいただける宿にはなりえないはず。
太田宿は人の居ない宿
ここ数年近所に用があるときは裏通りや小道を選びながら極力歩くことにしている。
近所でありながら数十年ぶりに通る道、初めて歩く小道には意外な発見がある。
今、自宅は坂祝にあり仕事場である太田本町まで時折色々なルートで歩いてくる。
シノドから深田神社、堤防、虚空蔵様、中山道ルートは春夏秋、冬欠、休日、ウイークデーと歩いた。
観光客の多い休日は特に宿の町並みはウイークデーと比較して殺風景で寂しい。
車ではなく観光客と同じ歩調、目線で宿を歩いた上での議論が欠けているように思う。
高山は40年、妻籠・馬籠は35年程前に行った。
いずれも観光地として本格的に開発される前であった。
妻籠は10年程高山へは30年近く経て再訪した。
いずれも大きく変わったのは、
1.比較にならないほど多くなった観光客、
2.古い建物が古そうに変わった
3.土産物屋中心の町になった
もう一つは土産物屋での会話が中心であるが、人と人とのふれあいが何倍にも増えた。素朴な地の人とのふれあいとは大きくかけ離れているが、観光客にとっては地の人である。
太田の宿を車ではなく観光客と同じ歩調、視線で歩くとき人の気配が感じられない。
これは以前別の所で感じた経験がある、太田駅前通り再開発時のことである。
当時他の土地に住んでいて久しぶりに再開発直後の駅前通りを歩いてこの町は死んだ!と思った。
只、大美屋と吉田靴屋は残るかなと感じていた。
大半がひやかしの出来ない店構えになってしまったからである。(前記二店は今でも入り口は解放されている。)
最近中山道を歩き新しくなる建物、通りを見てその当時の情景とダブって見える。
○○と言う店があるここは以前ガラス戸で店舗内が見え、店内に人は居ないが人の気配を感じられた。
新しくなった店舗は町並みの景観にはよいが一つ見えないバリアが出来て人の気配が感じられなくなった。
昨年中山道会館宵祭りの日の六時頃中山道を歩いた。中島美容院から小さな子が二人佐々木本屋に走り本屋のカウンターに人の姿、たった其れだけのことであったが、何かほっとするものを感じ、街が生きている感じがした。
東京、大阪など特に下町などまだまだ活発な商店街は何処も人が居り、店の人とお客の距離がない。
そこは昨今多い「ごめん下さい」からではなく、「いらっしゃいませ」が始まりである。
駅前通りに於いても、中山道に於いてもいらっしゃいませが全く感じられない。
勿論いらっしゃいませは言葉だけのことではない。
身銭を切って来る観光客は観光人ではなく客なのである、客をもてなすのは当然のことである。
インターネットと太田宿
今、美濃加茂市及び太田宿観光広報に携わっている人員は何人ぐらい居るのだろうか、?100人未満?。多分全く把握されていないはず。
私共は7年程前にホームページを立ち上げた。当時はホームページを持っている組織は珍しく出版社からホームページ特集本への掲載承諾願いが来るような状況であった。
5年ほど前のインターネット利用状況が周辺市町村と比較して美濃加茂市だけがぽっかりと空白であった(現在でもその傾向は残っている)。
インターネットに関して非常に遅れた地域である。その為に太田宿を取り巻く環境に大きな変化が出てきていることに気付かれていない面がある。
5年ほど前と3年ほど前でインターネットの環境は劇的に変わった。
前述観光広報従事者は日々増えており、何百人単位以上にになっているはずであるが気付かれていないと思っている。
この増加傾向は一般的な商品開発の面から見ると非常に注目すべき事である。
その観光従事者は無償の人達である。しかし現状はその多くが美濃加茂市にとってはマイナス方向に向いている。従事者とは太田を訪れインターネットに書き込む人達のことである。
インターネット上で確認する限り、美濃加茂市は接客などで非常に評判の悪いところである。
美濃加茂市自体の話ではなく昭和村への来場者の感想である。
これを昭和村のことと無視するのかどの様に考えるのか興味があることである。
他の地方から来る多くの客はその運営母体など関係なく、美濃加茂市にあり美濃加茂昭和村と市は付いていないとはいえ美濃加茂市の観光施設の認識が大半である。
ここの悪い接客対応のインターネットへの書き込みが目立つ。
怖さはこの体験による書き込みがそのまま残り、多くの人に情報として植え付けられるのである。
日本ラインが駄目になった訳。
昨年全国の川下り情報サイトを見ていて、日本ライン下りのサイトが削除されており非常に残念な思いをした。
随分昔に大型の舟が導入され陸送のトラック上の其れを初めて見たとき、これ川下りを駄目にするんじゃないかと感じた。
当時は何故かが分からなかったが、ぼんやりと客の楽しみが無くなるなを思った記憶がある。
コストの問題等からであろうが壬生の職人の只下るだけに成った、
客は何を求めてきていたのか?
●日本ラインの始まりの頃
渡航など夢のまた夢の時代、地質学者、新聞の記事を上手に料理した知恵者が居たはず。本当の功労者であるが其れについて知る由もない。
ドイツライン河の事など知る情報もない時代、川の景観を眺めライン河とはと想像を掻き立てることは客としては大きな楽しみであったはず。
●海外渡航自由化以降
容易に海外旅行が出来る環境になり本物のライン河で川下りが出来る時代、本物志向がトレンドの時代に逆に日本ラインは殊更ライン河似を打ち出すように動いた。
●インターネット時代
インターネットは瞬時に目的の場所に行くことが出来る、ネット環境によりリアルタイムでその場所を覗くことも可能である。
ネット以前の情報媒体は編集という人為的なフィルターを通していたが、ネットは時としてそのフィルターが無くライン河との相違を容易に知ることが出来る時代になった。
ここ数年のブログ中心のインターネットの普及は著しい、その多くは以外にも観光体験、観光地紹介等観光に関するものが多い。
ラインについて
現代では若い人のラインの意味の認識度はどの程度だろうか興味のあることです。
この地の者にとってはライン=ライン河であるが、車社会ではラインは観光地などの自動車道などが一般的でライン河を連想することは非常に難しい。
何年か前に目を疑うような新聞記事を見た、しかも地元紙でもある岐阜新聞においてである。
日本ライン鵜飼いを(木曽川)鵜飼いに名称変更の記事中、日本ライン(木曽川)と書かれていた。注釈をつけなければいけない状況なんだと。
○鬼怒川ライン下り、天竜川ライン下り、木津川ライン下りとラインの名前を捩った川下りも存在する。
これらのライン下りと日本ライン下りと決定的に違うのは、
日本ラインはライン河を範とし、その他の地域は日本ラインが盛況な頃の船外機ではなく船頭の繰船する小舟で飛沫を被り急流を下り、絣のもんぺ姿のガイドの説明を聞きながらのスタイルであった当時の日本ラインを範としている。
つまりその川、その川の本物の日本の川下り(ライン下り)なのである。
その事を踏まえての事でなければ地元の意識と観光客との意識に大きなずれを生じ中途半端なものになってしまう。もう一度外部からの視線で見直す必要があるのかもしれない。
其れは誇りや何もかもをうち砕く必要がある困難さも含んでいると思う。
東京デズニーランド以降
TDKが開設頃から劇的に日本人の水に対する感覚が変わってきた。
出来てからかなり経ってから行ったTDKでは経験しなかったが、その後訪れたロスアンジェルスのユニバーサルスタジオで驚いた経験をした。
フルオープンのトロッコで沼地を見物するコースで足下に鞄を置いていた。水面が上昇して来たがここまでは来るまいと思っていた、足下まで水が来て慌てて鞄を揚げたことがあった。19年近く前の当時の日本ではその様なことがあれば即抗議の対象であったに違いない、しかし其れは非常に面白かった。
TDK開設当初はその様なアトラクションはなく、後になり水濡れアトラクションが作られた記憶がある。その辺りは日本人とアメリカ人との水遊びに対するズレがあり日本人の感覚の変化を考慮したとも思われる。
観光が余所行きとか旅行用の服装からレジャーになりTシャツ感覚などの軽装に変わった。
観光客は景観よりも紺のしぶきに岩かげ縫うって・・・の如くしぶきに濡れるか濡れないかのスリルが楽しかったのではないであろうか。
その楽しみが大量輸送の大型船では無くなり単に下るだけですからの評価になったとも考えられる。つまり初めての飛行機で窓際ではなく窓から下界を見ることが出来るか
左右の人に挟まれて只運ばれるのかの楽しさの違いである。
日本ラインをモデルにしたのであろうと思われる各地のライン下り、川遊覧ではそれらが残っている事は皮肉である。
太田宿の位置関係の変化
太田宿に関して決定的な変化が起きている。中濃大橋南詰めから東への道路整備、国道41号バイパス開通により中仙道に平行する国道21号の交通量は激減している。
其れまで太田宿は交通関係から見ると市の中心であった。しかし環状線美濃加茂ICが運用され出したこれからは市の一番端に位置することになる。名古屋方面からの場合も名古屋方面→太田宿ではなく名古屋方面→昭和村→太田宿である。
このことを明確に意識しなくては成らないことだ。
中仙道へ本当に人を集めることが出来ないのであろうか
今、この宿の一番弱点はどこかに物事をやっても本当に成功するのか、人が来るのであろうか、やっても無駄なのではとのマイナスの意識が見え隠れする。其れは表面には出ていないが必ずあるはずである。
現在の活動の中心は相当に高い年齢層のはず、つまり街の凋落を見ている世代である。
一昨年であった、在る若い人が立ち寄り色々と話って行って下さった。
何処の方か分からなかったがお帰りになった後に服装から市の観光課の若い方と知った。
そのいきさつ、具体的な話は省くとして、中仙道関係の会合の帰りであった様だ。
若い人の感覚は新鮮であり、加齢衆とは確実に感覚の開きがある。
若い人は凋落の様は見て居らず凋落した今が始まりである。これからの観光客と同じ目線の若い人の意見考えがもっと、もっと反映されれば従来の遺産に頼る方向とは異なる観光の柱が出来ていくと思う。
全く新しい発想ならば、年間何万にもの人を中仙道に集める方法はある。
●一つは、200万円ほどの像製作の投資、中仙道のある施設への設置、他県の或る市と手を組むことで年間数万を訪れさせることは出来る。最低20年は其れを維持できる。
そこで600円程度の土産の饅頭を販売すればそこそこの売り上げになるはずである。
●一つは、未だ日本では類を見ない方法で町興しが出来る。頭の中に「素人職人の街」と称している方法であるが、ここ1,2年で何らかのかたちを出せば各経済誌、その手の番組は注目する方法である。宿という環境であればあるほどアピールできる。
プロの職人では駄目である。
最近岐阜の湊町界隈の開発に関係している建築関係の方と知り合いこのアイデアに興味を示されているが、太田宿で要らないと言われたら話すと言うことにしている。が、ここでは話す機会も無く、理解できそうもないようである。
●現在行われているおん祭のモデル選出方法をミシェラン方式などを採り入れれば市内の女性達の注目を集めることは間違いない、特に高校生辺りに反響を呼ぶ事も可能である。寧ろその辺りへの携帯電話メールを利用した仕掛けが大きな起爆剤になる。
●逍遙、一平をショウヨウ、イッペイで考えれば、テレビでも注目されるイベントを企画できる要素を太田宿は持っている。
先日小松屋で大八文庫が宮沢賢治をテーマに開催した。主宰者の古藤さんが中学の同窓の関係でインターネット関係で協力している。その時の感想を話しましたが太田宿にも通じることです。
宮沢賢治と言うことで参加人数が多いと予想しておりましたが反していつもより少なかった。
日常の生活の中で宮沢賢治は時間的含め想像以上に遠い存在で在るのでは。
其れでは賢治をもっと身近に引き寄せる方法はないのか?実はあるのです。
其れは漫画の世界で文学の世界が一番嫌う一番遠い処に。
銀河鉄道999→銀河鉄道の夜→宮沢賢治、この感覚で遣らないと今の人は掴みきれない。
これが古藤さんへの回答です。太田宿ではどうであろうか
岡本一平を料理してみよう
岡本一平→岡本太郎 又は岡本一平→政治風刺漫画これぐらいだと思う。
若い感覚のスパイスを入れてみよう
岡本一平→政治風刺漫画→漫画→コミック→アキバ系→若い層
いろんな展開の窓口が出来るはず、数年後美濃加茂市が注目される芽も考えられるはず。
逍遙を料理してみよう
坪内逍遙→文学者
下世話なスパイスを入れてみよう
坪内逍遙→坪内ミキ子→座頭市→勝新太郎→中村玉緒→映画→男はつらいよ→お散歩先生。
男はつらいよ全編上映企画、それに合わせてその後のマドンナと山田洋次の対談、マドンナと川下りなどという事も企画出来る。
座頭市については「ど盲ら」のせりふでテレビ上映が出来ない。この辺りをクリアーすれば非常に面白い企画にも成るはず。
その感覚で考えるとまだまだ色々と料理の出来るところである。
今は▲の頂点(マニアの世界の範疇)で展開しているのが現状で、この世界のやっかいなのが下の世界を受け入れない事である。
その世界が嫌う下世話な世界へアプローチすることで▲の裾を広げることが出来るのです。この世界が多くの観光客予備軍のはずだと思っております。
▼にしてみると単なる記号であるが伸び伸びとした展開が感じられるはず。
下世話の世界で考えれば例えば何処もやったことのない様な映画祭であり何処もやったことのない唄のイベントであったり。これは日本人全てが知っている有数の企業を巻き込むことが出来る可能性を秘めている
前述市役所の若い人等に話しておりますが
携帯電話の普及で写真撮影が今までの世の中で一番身近になり、しかも10年前には考えることもできなかった、リアルタイムで他所へ転送できる時代(おもちゃ的に楽しめる要素が強くなってきた)に太田宿を訪れた観光客が記念写真を楽しんで撮れる場所はない。
何処の観光地にでもある顔の部分だけくりぬいた写真撮影用の看板を置く感覚がないと
人など来ないよと。
例えば虚空蔵様での逍遙夫妻、脇本陣をバックにした和宮などあるはず。それらを凌駕する最強のアイテムはあります。冗談抜きで正直な話美濃加茂市長の等身大の絵の横に弥次喜多でも良い、鳥追いでも良い顔をくりぬいた看板これが一番のはず、宮崎県庁ほどではないが。
別にその様な物である必要はないが、勘違いされている観光地での落書きなどの旅の恥は・・・的ではなく。いい大人が近所の目など気にせずに恥をかきながらも楽しめる場所がない宿である。
旅というのはその場を去れば終わりではない。後々笑って思い出を語れるかが一番重要である。勿論感動も含まれるが、それらがリピーターを増やす大切な要因であることは間違いないはず。
小さな町興し
6年ほど前から小さな町興しを行っている。
万尺寺の稲荷と祐泉寺の太田稲荷と平川宝くじとの噂をご存じでしょうか。
二つの稲荷を結ぶ中間に平川がありお稲荷さんを詣ると良いという噂です。
この噂の出何処は私です。
よく当たる宝くじ売場には因縁話が付きものです。
平川が何故当たるのか考えていて両稲荷の位置が洪水後移動、それによって売場が稲荷の線上になっていることに気付いた(デッチアゲ)。
売り出し期間中の多くの人出を中仙道に引けないものかと考えていたので、これを利用することにした。通りに面して設置してある陳列ケースの処に名刺ほどの大きさの紙に「うわさ」と称して貼って置いた。つまり此処だけの話というように貴方だけに教えます的に。
それはわざわざその貼り紙を確認しに来る人、交通整理のガードマンに場所を訪ねる人が回を重ねる内に広がってきた。勿論インターネットにも流すことはした。
その後向かいのまつば菓子舗の奥さんに、50年ほど前に先代が太田名物お宝饅頭で売っていたから、宝くじに便乗して作って売ったらと話しその後商品化になった。
小腹の空いた太田稲荷にお参りに来た人に向けの軽食はマックドではなく稲荷寿司が一番でパックに入れて太田稲荷寿司とでっち上げ売ったらなどと丁度魚武へ働きに行っている従姉に話したことがある。
それがきっかけなのか魚武が独自に考えたのかはそんなことは関係ないがその少し後に商品化中仙道会館で売り出した。
お宝饅頭はそれを目的としたテレビ取材や情報誌の取材も度々である。
両稲荷に関する宣伝費は僅かな紙切れ代位で後は口コミである。
自分の成果を言っているのではない、僅かなアイデアで出来ることはこの宿にも美濃加茂市にも多くある、それをどの様に育てていくかである。
平川という一私企業へ来る客と受け止めるのか、美濃加茂市へ宝くじを買いに来た客と受け止めるのか、あれだけの人を中仙道や駅前通りへ引くことを何故考えられないのか不思議である。
美濃加茂市の観光案内パンフレットがシティホテルにある。件の市職員にスペースは確保してやるから家の前に置いたらホテルより効果あるよとは言ってあげた。
お宝饅頭については太田宿に来た50がらみの父親とその家族に、この町の土産は何ですかと訊ねられた、思いつく物が何もなく「特にないです」と返事をするしかなかったこのような体験も入っている
唐突ですがうどん、きしめん、焼きそば、ラーメンの中で太田宿の土産として作り出すのに最適な物はどれでしょうか?
太田宿、美濃加茂市だけの特産が出来るのです。その由来も歴史の裏付けを基にした誠しなやかな物と作り上げることが出来ます(頭の中では具体的な構想は出来上がっている)。
削除してしまった文書はこの数倍のことを書いておりましたが、残念ながら現在思いだし再度纏める時間が無く尻切れトンボの状態で終わります。
「臍曲がり中仙道太田宿」の本来の目的は公的な部署では書けない部分を下世話なレベルで紹介していこうとが主眼でした。最終的にはマニアックな部分に入り込んでしまい、初期の目的に戻す方向を探っているところです。
又、絵のないポスターなど妙な頁ばかり作っておりますが、太田宿を一つの商品として考えその方向性の鍵を散りばめております。
残念ながら太田宿関係者はインターネットを操作できる世代ではなさそう、又あまりの馬鹿げた構想のため全く理解できないと思っている。
しかし若い層には理解できるようである。
今は住まいを坂祝にしておりますが、江戸時代より桜町界隈に居た家系には中仙道のDNAがしっかり刻まれており、少しでも良くなって欲しいと思っております。
2008.4.20
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