「偉大なるホーエンツォレルン」


前書き
この書物は私エルンスト・ユンガーが書物を漁り人々の話を聞き書き上げたものであり、必ずしも真実が書いてあるとは限らない。
その為、真実を知りたい者はこの書物を読む事はあまりお奨めしない。しかしこの書物の内容が多少違っていようと、ホーエンツォレルン家の偉大さや我らゲルマン民族の偉大さは変りはしない。

「序章  建国」
プロイセン帝国は国際秩序が比較的安定期に建国した。初代皇帝陛下はフリードリッヒ皇帝陛下でありプロイセン帝国憲法を設定した。
帝国暦23年この頃まだ我が帝国は経済力及び海軍力が充分とは言えず経済が発展し尚且つ強固な海軍力を持つイングランド国、シエラレネオ共和国と国交を成立させた。
イングランド海軍将校を招き我が帝国海軍の増強に努め、領海の防衛に努めた。経済の面ではイングランド国、シエラレネオ共和国の援助により経済が発展した。

「第一章 アマルガント動乱」

帝国暦34年初代皇帝陛下は「他国と協調し、経済力及び軍事力の増強に努めるべし」と、パプア合衆国、アマルガント国などとも国交を開いた。
我が帝国は順調に国力を成長させていたが、帝国暦42年悪魔の病ペストにより我が帝国は大損害を受けた。この悪魔の病で我が帝国の為に力を尽くしたフリードリッヒ皇帝陛下が崩御した。
プロイセン国民はこの死を哀れみ嘆き悲しみ泣きじゃくった。初代皇帝陛下のご遺体はベルリン大聖堂にて安置された。帝国暦43年新たにフリードリッヒ皇帝陛下のご子息であらせられるフリードリッヒU世皇帝陛下が即位なされた。
皇帝陛下は帝国暦45年に常勝軍プロイセン騎兵隊を創設し、軍備力増強に努めた。この頃、国際同盟の常任理事国として甘い蜜を吸いその強固な軍事力と権力を盾に横暴極まりない外交政策を繰り返していたルフトバッフェ帝国はその矛先を友好国であるアマルガント国へ向けた。
この横暴極まりない国家の侵略行為対して自由を愛する国家らが衝突した。
帝国暦46年アマルガント動乱の始まりである。我が帝国は兵器熟練度向上の為と、この悪劣極まりないルフトバッフェ帝国を討伐するためアマルガント陣営にて参戦した。
我が帝国はルフトバッフェ帝国に対しプロイセン騎兵隊の派遣及び精密爆撃を開始した。アマルガント陣営が当初優勢であったが指揮系統の分裂またルフトバッフェ陣営の優れた戦術力により次第に劣勢に追い込まれていった。
皇帝陛下は「これ以上戦っても我が帝国の利益にならず国民にも被害が及ぶ可能性がある。また今停戦しても状況が敵陣営も厳しい状況にあるため条件なしの停戦または降伏になるだろう。しかし万が一国民に被害が及ぶ事を考え、あえて涙を呑み剣を置き敵に降る」
「しかし之は敗戦ではあるが完全な敗北ではない。時期をみてまた新たに剣を抜こうぞ」と側近などを説得しルフトバッフェ帝国に降伏した。皇帝陛下の狙いどうりに条件なしの降伏となり、また兵器熟練度も向上し実戦データが収集され結果的に我が帝国の利益になった。
しかし「騎士が敵に降るとは何事だ!」と国家情勢の分からない一部の下級騎士達の中から不満の声が上がり「打倒皇帝」などと叫ぶ逆賊集団も出始めた。この混乱に乗じてマルクスを中心とした社会主義者が発言力を高め国内は混乱した。

「第二章 内戦勃発」

帝国暦51年謀反人アルベルト・シュマイザーを中心とする逆賊集団はハンブルグを本拠地とし隣国の独逸統一連合帝国の皇帝を
プロイセンの皇帝とするがため反旗を翻した。逆賊集団はビスマルク将軍率いる「プロイセン騎兵隊」に由って鎮圧された。
しかし独逸統一連合帝国軍がこの混乱に応じドイツを統一せんがため、ハンブルグに出兵しハンブルグに駐屯していたプロイセン騎兵隊と交戦状態に陥った。(ハンブルグの戦い)戦いは長期化し、短期決戦を予定していた独逸統一連合帝国軍は食料が尽き撤退した。
独逸統一連合帝国外相ウルリッヒ・ベッカー特使は「一部の過激統一派の独断の攻撃であり我が帝国は一切の責任を負わない」と発言したため、ビスマルク将軍が「不極まりない領土侵攻をしたのにも関わらず責任を負わないとはどういう事か!武力行使に由ってこの問題を解決すべきだ!」と発言した。
フリードリッヒU世皇帝は「社会主義者の発言力が高まっている今、軽々しく武力を行使することはいい判断ではない」とし独逸統一連合帝国への武力行使は却下された。逆賊集団は壊滅し全て解決かのごとくに思われたがマルクスを中心とする社会主義者214名がベルリン大聖堂を占拠し皇帝批判、社会主義賛美など叫んだ。
之をプロイセン国家憲兵隊が取り囲み2日後鎮圧。マルクス他213名は全て逮捕され首謀者であるマルクスは絞首刑、他213名は思想改善収容所に送られた。

「第三章 常任理事国就任」

帝国暦62年我が帝国は国際社会にさらに貢献すべく常任理事国に就任する。しかし大河内帝国を本社に置く「箱庭新報」や扶桑国の「箱庭タイムズ」に大批判を受けた。
皇帝陛下はこの侮辱極まりない報道機関を存在させている大河内帝国と扶桑国に武力を行使させこの報道機関を解散させる事を考えたが、
今現在の我が帝国の軍事力では到底敵うはずなく黙殺した。
就任と同時に隣国のバイエルン王国をベルリン宣言により属国と置く。当時バイエルン国王はルトウィクU世(28)であった。国王は自国の内政の一部のみ担当でき軍事、外交は全て我がプロイセン帝国の指揮下に入った。
バイエルン王国を属国に置いた事で我がプロイセン帝国主導によるドイツ統一にまた一歩近づた。また之によりザクセン王家が支配する独逸統一連合帝国との対立がさらに激化した。

「第四章 エーリッヒ丘事件」

帝国暦66年に独逸統一連合帝国軍がバイエルン王国に領土侵犯を犯した(エーリッヒ丘事件)。独逸統一連合帝国軍はバイエルン国境付近の丘(名無し丘)を陣取った。
之をビスマルク首相は王都ミュヘン駐屯軍副司令官エーリッヒ・ルーデンドルフ大佐に迎撃を命じた。
ルーデンドルフ大佐はすぐさまプロイセン帝国陸軍第08機甲師団とバイエルン第42歩兵連隊を指揮しバイエルン国境へ向かった。
名無し丘にて双方睨み合いになったが、2日後独逸統一連合帝国軍は撤退した。
独逸統一連合帝国ウルリッヒ・ベッカー特使は
「此度の事件は演習中だった軍がバイエルン国境に迷い込んでしまったものこのような事態になった事を誠に遺憾に思う」
と発表した。ビスマルク首相は「ふざけた威力偵察まがいの行動だ。このような国家を野晒しにしておくと必ずや我が帝国の不利益になりましょうぞ。
これを機会にドイツ統一を」とフリードリッヒU世皇帝陛下に訴えった。
皇帝陛下は「まだ我が帝国の軍備充分とは言えずバイエルン王国軍の軍備増強も始まったばかり、今はまだ時期ではない。時を待て」と独逸統一連合帝国との全面戦争を回避した。

「第五章 中東・アジア派兵」

帝国暦68年イングランド帝国はエスファハン王国へ宣戦布告した。プロイセン報道機関「Frankfurter Allgemeine」は交戦状態に陥っているエスファハン王国の現状を探るべくエスファハン王国へ潜入したところ、エスファハン王国軍が自国民を大量虐殺している場面が撮影された(テヘラン大虐殺事件)。 
この事件を重く見た皇帝陛下は邦人を救助するためペルシャ湾に戦艦グロースドイッチュラント他7隻を派遣した。
作戦展開中だった重巡洋艦アドミラル・ヒッパーがエスファハン王国空軍オーダクスD107に一連射攻撃を受け水兵4人と民間人5人が死亡した。
これに皇帝陛下は激怒し「残虐非道な行為を働くエスファハン王国軍から国民を解放し邦人を救出せよ」とプロイセン全軍に命令し同国へ宣戦布告した(エスファハン解放戦争)。宣戦布告と同時にアフヴァーズへ強行上陸(アフヴァーズ上陸作戦)し一気にホーラマパートまで進行し、王都エスファハンまで100kmに迫まり陥落も時間の問題となった。
しかし帝都ベルリンに電撃のニュースが入った。当時仮想敵国として想定していた大亜細亜帝国が大漢帝国の中華統一に対し「我こそが中華の覇を握らん」と宣戦布告したのだ(第一次中華戦争)。
続々と大亜細亜帝国に続けといわんばかりに大漢帝国へ宣戦布告する国々に囲まれ大漢帝国は四面楚歌の状態に陥った。
大亜細亜帝国が中華の覇を握った場合、我が帝国と大漢帝国を繋ぐシルクロード貿易が寸断され経済に多大なる被害が予想される。そのため皇帝陛下はエスファハン王国と停戦し大亜細亜帝国へ宣戦布告することを決意なされた。
外交官エルンスト・フォン・ヴァイツゼッカーの巧みな弁舌により有利な条件ですぐさま停戦する事が出来、大亜細亜帝国へ宣戦布告する事ができた。
大亜細亜帝国へ精密弾道弾攻撃を数回行った後、大漢帝国帝都長安に間近に迫っていた鐡扇国を殲滅すべく同国に精密弾道弾及び核攻撃を開始した。
鐡扇国軍は本国が壊滅状態に陥った事を知り浮き足立った。ヨーゼフ・ハルペ少将の指揮するプロイセン騎兵隊は鐡扇国軍に対し包囲作戦(六盤山包囲作戦)を展開し之を殲滅する事に成功した。之により鐡扇国軍は長安から遠ざかり国境付近へ敗走した。
やがて戦闘は膠着状態になり帝国暦69年、大漢帝国は大亜細亜陣営に対し停戦を提案、大亜細亜帝国は之を受託し中華統一戦争は終結した。

「第六章 バビロン戦争

帝国暦72年オーブ首長国連邦から外交特使が派遣されてきた。最初はこの特使を歓迎し迎え入れていたが、
この特使は「近いうちに社会主義による世界革命を起こす」
「今のうちに皇帝を退位させよ」など挑発ともとれる発言を繰り返してきた。我が帝国はこのような国家を野晒しにはして置けず、
帝国暦73年同国に宣戦布告した(オーブ戦争)。
国力、軍事力も圧倒的であったのですぐにこの戦は我が帝国の勝利で終結した。
しかし宣戦布告を宣言した外交官ハインツ・バルクマンの怠慢により宣戦布告文章は簡素な物になってしまい各国の誤解を招いた。
ビスマルク首相はこの事実を重く見てバルクマンを解任した。しかし磐城国を中心とするバビロン同盟国(他にフレグランス共和国、バビロニア帝国)は
之を口実に我が帝国へ宣戦布告してきた(実際は磐城国の常任理事国就任を狙っての行動。しかし磐城国はろくに国際法も理解しておらず無能者が国を指導する有様だった)。
帝国74暦年バビロン戦争の始まりである。当初戦況は劣勢で多くの国民や将兵が敵の精密爆撃の犠牲になった。しかしジルベルシュトライフェン作戦成功を機に次第に劣勢を挽回していき各戦線を突破していった。帝国暦75年に磐城国首都陥落、同年にバビロン同盟国に対し降伏勧告、しかし反応なし。
帝国76暦年フレグランス共和国、バビロン帝国降伏。我が帝国は多大なる被害を出しながらこの戦に勝利した。

「第七章 国際連合の謀叛」

帝国暦80年大河内帝国が国際連合設立を宣言し国際同盟に対し謀叛を企てる。国際同盟加盟国内からも国際連合に加担し国際同盟に弓を引く国家が多数現れた。
我が帝国は之に対し帝国暦81年に国際連合国に攻撃を開始。空軍は大亜細亜帝国に対し精密爆撃、精密弾道弾及び核攻撃を開始し、同国を壊滅状態に追いやる。
陸軍は大河内帝国領内の伊勢海岸に強行上陸を決行(伊勢上陸作戦)、多数の犠牲者を出すも上陸に成功し同地を占領した。
しかし大河内帝国軍は獣の如く激しい攻撃を繰り返し、大河内帝国帝都富田林の進行作戦は遅滞した(富田林進行攻略作戦)。
帝国暦82年国際連合軍の激しい攻撃によりルフトバッフェ帝国が滅亡した。之を占めたとばかりにアスラン国が常任理事国就任を宣言する。しかしアスラン国は傀儡国家フィリッピン、メチコバールなどを多数保有しており国際法に違反している事は明白であった。
我が帝国は同国をならず者国家指定し同国を殲滅する。最初は優勢であった国際連合軍も多勢に無勢により徐々に各個撃破されていき
帝国暦84年大河内帝国政府全権代表 河野雄大の宣言により国際連合は解散した。

「第八章 ドイツ連邦設立」

帝国暦89年フリードリッヒU世皇帝陛下が病に倒れ崩御した。次期皇帝はご子息のヴィルヘルム皇子が即位した。ヴィルヘルム皇帝陛下は念願であるドイツ統一を目指しプロイセン帝国改めドイツ帝国と名乗り、属国であったバイエルン王国の自治権を完全剥奪しドイツ帝国の一部として組み込んだ。
之により独逸統一連合帝国との争いが激化し一触即発状態に陥った。互いにドイツ唯一の国家であることを譲らず近日中に全面衝突が予想された。二カ国の国境付近では砦や陣地が築かれ互いに睨み合いの状態になった。
しかし急速な軍事力の増強により両国共、資金が不足し全面衝突は不可能という結論に至った。
ビスマルク首相は「国力、軍事力の差があまりない今では全面衝突は避け、時期が来るまで時を待ち耐え忍ぶ事が大事だ。」と皇帝陛下に進言し、
更に「しかし国土が統一されていないという現状はあまり良いことだとは言えない。諸外国は未統一のドイツを虎視眈々と狙ってくるだろう。そこで内戦を収拾し、ドイツ全土を統一に導くためドイツ連邦を設立すべきだ。」と発言した。
皇帝陛下は之に賛同し、独逸統一連合帝国帝都ドレスデンへ打電、独逸統一連合帝国内は「長年の宿敵のプロイセンと和解する事など到底できぬ!」や「しかし今争えば双方ともに甚大なる被害を及ぼし諸外国の思惑どうりであるぞ。今はプロイセンと和解すべきでは」
と賛否両論であったが、ザクセン国王アウグストU世は「現状能力ではプロイセンを打破する事は出来ない。時を見て行動を起こせばよい」と帝国暦93年ドイツ連邦所属を承認し調印した。こうして独逸統一連合帝国はドイツ連邦ザクセン王国、我がドイツ帝国はドイツ連邦プロイセン帝国と再度国名を変更した。
ドイツ帝国領バイエルン州はまた王国としてお家再興されドイツ連邦バイエルン王国となった。

「第九章 イタリア戦記」

帝国暦97年国家経営が成り立っておらず経済が破綻しており、国家元首が無能なサンマリノ共和国を救済すべくサンマリノへ駐屯し保護国と置く。
帝国暦98年サンマリノ国防軍を設立。帝国暦99年サンマリノ共和国のイタリア統一を支持し
パウル・ヒンデンブルグ大将とプロイセン帝国陸軍第52歩兵連隊、プロイセン帝国陸軍第07機甲師団を援軍として派遣する。
帝国暦101年サンマリノ共和国エミリア・ロマーニャを平定する。帝国暦102年ヒンデンブルグ軍がミラノに蔓延る逆賊軍を殲滅しロンバルディアを平定する。
同年サンマリノ軍とヴェネチア市軍が衝突、之にサンマリノ軍が勝利しヴェネトを平定する。帝国暦103年ヒンデンブルグ軍がピエモンテ、リグリア、アオスタを平定する。
帝国暦105年シンフォニア帝国がシチリア、サルデーニャ、カラブリアを併合し帝国暦107年にバジリカータ、プリーア、カンパーニャ、モリーゼ、アブルッツォ、ラッツイオを一挙に併合する。
之を危うく見たヒンデンブルグ将軍は同年にトスカーナに軍を進め平定する。
帝国暦108年にサンマリノ共和国はマルケに軍を進めるがアンコーナ市軍に敗れマルケ国境に押し戻される。
同年にシンフォニア帝国がラッツイオから軍をマルケに進めアンコーナ市軍を撃破、マルケを併合する。
帝国暦109年ヒンデンブルグ軍は突出したウンブリアを平定しシンフォニアとの決戦に備えた。我が帝国支援下のサンマリノ共和国がイタリア北部を平定し、
シンフォニア帝国はイタリア南部を制圧した。
帝国暦110年ルクセンブルクがベルギー王国、オランダ王国に兵を進め占領する。同年我が帝国へ奇襲攻撃をしかけ、国境付近の砦を突破する。
皇帝陛下は「祖国存亡の危機だ。イタリア派遣軍はすぐさま帰還し逆賊軍討伐に参加せよ」としヒンデンブルグ将軍に即時帰還命令を出した。
ヒンデンブルグ将軍はやむを得ずイタリア派遣軍をまとめドイツへ帰還した。
我が帝国軍が撤退した後のサンマリノ共和国は荒れるに荒れ、当時大統領ジュゼッペ・アルズィッリは政治を放棄し
帝国暦112年に国際法に違反しならず者国家に指定されてしまった。之によりシンフォニア帝国軍は北上しサンマリノ軍を駆逐し同年にイタリア全土を統一した(イタリア統一戦争)。

「第十章 ワイマール共和国成立」

帝国暦110年に我が帝国へ卑劣な奇襲攻撃を行ったルクセンブルクはハンブルクを陥落させ帝都ベルリンへ迫っていた。
帝都ベルリンはルクセンブルク空軍の猛烈な絨毯爆撃により交通網通信網は寸断され大混乱に陥っていた(ベルリンの惨劇)。
しかしグーデリアン中将を中心としたプロイセン騎兵隊がルクセンブルク軍に頑強に抵抗し帝都ベルリンへ一歩も入れなかった
やがて各国の援軍やイタリアから帰還したヒンデンブルク軍により帝都ベルリンを包囲していたルクセンブルク軍は殲滅され、
更にルーデンドルフ大佐が率いるプロイセン帝国軍第08機甲師団によりハンブルクが解放された。
我が帝国領内とバイエルン領内に侵入していたルクセンブルク軍を全て殲滅しオランダ、ベルギーを解放、ルクセンブルク国首都ルクセンブルクを陥落させルクセンブルク国民を解放した。
我が帝国はルクセンブルクの奇襲攻撃によって壊滅的な打撃を受けヴィルヘルム皇帝陛下、ビスマルク首相は両人とも帝都ベルリン攻防戦で戦死した。
ヴィルヘルム皇帝陛下のご子息はミュヘンの戦いで重症を負っており帝位継承が難しい状態であったため、ヒンデンブルク大将が臨時として大統領に就任し帝国暦112年ワイマール共和国を成立させた。
ルクセンブルクに対してはルクセンブルク元首シャルロット・ルクセンブルクを国家を誤った道へと進ませ国を壊滅へ追いやった悪女とし帝国暦113年ベルリンで処刑した。
我が帝国領内及びバイエルン領内で略奪及び暴行を行ったルクセンブルク兵9546名はルクセンブルク首都ルクセンブルクで銃殺、シャルロット・ルクセンブルクに賛同し協力的だった閣僚を国外追放した。

「第十一章 新皇帝即位と悪の枢軸討伐戦」

帝国暦120年ヴィルヘルム皇帝陛下ご子息ヴィルヘルムU世の怪我が完治しヒンデンブルク臨時大統領承認の下、皇帝に即位する。
即位後、中央主権を再度高める為首相大統領の両権限を持つ大総統府を設置。初代大総統にハインツ・ヴィルヘルム・グーデリアン中将を任命する。
帝国暦122年6/12エスファハン王国王都エスファハンでクーデター発生、エスファハン国王カリーム・ハーンが側近のアーガー・モハンマドに殺害される。
6/29アーガー・モハンマドが自らエスファハン国王に即位し7/14に重要役職を自分の親族で固め強権政治を開始する。
8/12前国王カリーム・ハーンの一族をマシャドにて虐殺、8/21ケルマーンの反体制派を細菌兵器を使用し虐殺する、
9/24反体制派を取り締まるため秘密警察サバックを設立、10/21テヘランで国民大規模デモ行進が発生するが、エスファハン王国軍によって武力鎮圧される(血の10/21事件)。
我が帝国は独裁的な政治で国民を苦しめるアーガー・モハンマドを国際的危険人物と認定し帝国暦123年4/23エスファハン王国へ宣戦布告し
同年5/12アフヴァーズ陥落、5/21バンダル・アッパーズ陥落、6/12シラーズ陥落、7/12ホーラマバード陥落、エスファハン王国軍の士気は低く敵前逃亡する兵士が続出し戦況は我が帝国軍が有利であった。
8/10我が帝国の降下猟兵隊によりテヘラン陥落、9/10同隊によりハメダン陥落、9/21イングランド軍の王都エスファハン突入、10/5エスファハン王国ヤズドに遷都、10/10旧都エスファハン陥落、10/15エスファハン王国に対し無条件降伏を勧告するが黙殺される、10/21ケルマンシャー守備軍が降伏、10/24タブリーズに篭城していたエスファハン王国軍大佐レザー・ハーンの降伏、同日アルダビール無血開城、11/24我が帝国軍のヤズド突入によりエスファハン国王アーガー・モハンマドを捕らえる事に成功した。
12/4アーガー・モハンマドの降伏受託によりによりエスファハン王国が無条件降伏する。帝国暦124年2/1旧王国軍大佐レザー・ハーンがイラン暫定政府を樹立させテヘランを首都と置く。イラン暫定政府はアーガー・モハンマドの処刑を決定6/1に刑が施行された。8/7のベルリン協定によりイラン暫定政府が安定するまで我が帝国軍がイラン国民の安全及び国土の防衛を保障するため軍を駐留させる事になった。

「第十二章 共産主義政権討伐」

帝国暦127年大漢帝国では曹操皇帝の崩御後、司馬一族の乱により大漢帝国の絶大な権力は薄れ国力は衰退し共産主義勢力が着々と力を蓄えていた。帝国暦129年陳独秀を中心とする「大東亜人民解放軍」が大漢帝国帝都長安を陥落させその勢力を拡大させていった。大漢帝国軍はすぐさま帝都長安奪還に乗り出し大軍を差し向けたが士気は低く、日の出の勢いの大東亜人民解放軍に各個撃破され再編成が不可能なほどに追いやられた。翌年洛陽を陥落させた大東亜人民解放軍は大漢帝国軍残党に対し総攻撃を開始した。
帝国暦130年7/25南京に篭城する大漢帝国最後の皇帝曹丕は最後の突撃を遂行し散っていっき大漢帝国は滅亡した。南京に入城した大東亜人民解放軍総司令官陳独秀は8/1に南京を首都と置く大東亜共産国の成立を宣言した。我が帝国は崩壊したシルクロード貿易による損失が大きく多くの失業者を抱えてしまった。またシルクロードから大東亜共産国が我が帝国の武装共産組織に対し資金武器の援助をしテロを秘密裏に支援した。我が帝国は之に対し国民の安全と財産を守るため自衛権を行使し帝国暦133年4/12同国へ宣戦布告した。
4/29我が帝国はイングランド連合帝国信託統治領香港へシュペー提督の指揮するドイツ東洋艦隊の派遣を決定、香港から高高度爆撃機を飛ばし南京へ爆撃を開始した。6/12香港へ到達した東洋艦隊はトンキン湾にて大東亜艦隊と接触し戦闘を開始した。旧式戦艦の寄せ集めであった大東亜艦隊が最新鋭の戦艦が配備されている東洋艦隊に勝てるはずもなくトンキン湾の藻屑と化していった。トンキン湾海戦に勝利した我が帝国軍は上海へ上陸し南京を一挙に占領した。
「首都を占領された我が軍にに士気は無く戦闘継続は不可能」と判断した大東亜共産軍大将段祺瑞は遷都先武漢でクーデターを遂行し陳独秀と主だった共産党幹部を殺害した。之により共産主義政権は崩壊、段祺瑞を大統領とする大東亜共和国が成立した。8/12段祺瑞は我が帝国の提示した降伏文章に調印し大東亜共和国は降伏した。

「第十三章 セントヴィンセント王国戦」

帝国暦133年5/1セントヴィンセント王国(以下聖王国)は我が帝国の大東亜共産国討伐を「領土欲に駆られたを侵略行為である」と激しく非難した。大東亜共産国討伐は世界の共産化を防ぐための大義の有る戦であり、侵略行為では無い事は世界各国が了承していた。帝国暦134年3/1聖王国が我が帝国と国交断絶を表明、5/1に大使館を撤収させた。
帝国暦135年6/21聖王国旅客機B767−300ERが我が帝国の許可なく領空を通過、我が帝国空軍は領空侵犯として領空退去命令を7回行っが応答はなく我が帝国空軍は止むを得なくこの機を撃墜した。
主権国家には自国領空を侵犯をした機を撃墜する権利があるにも関わらず聖王国は之に対して激しく非難し「謝罪がなければ武力行使も持さない」と恐喝紛いの行為をしてきた。我が帝国は当然之を拒否、聖王国は帝国暦136年4/5我が帝国へ宣戦布告した。宣戦布告と同時に我が帝国領内に多数潜入していた聖王国諜報部員がテロ工作を繰り返し、我が帝国へ深刻な打撃を加えた。聖王国諜報部員は大変優れており証拠が残らず国際法違反に適用されなかったが、之に反発した多数の国家が我が帝国へ多数の援軍を派遣し戦況は次第に我が帝国が盛り返してきた。
我が帝国は帝国暦137年8/1に聖王国王都キングスタウンへの爆撃を開始し、聖王国領グレナディーン諸島に上陸を決行した。王都キングスタウン爆撃は聖王国の優れた防空設備により期待した結果は得られなかった。しかしグレナディーン諸島上陸作戦は成功しグレナダを占領をした。グレナダから一挙に北上し辛くもグレナディーン諸島全域を占領する事が出来残りは聖王国本国のみとなった。しかし聖王国は攻撃の手を緩めることなく属国バイエルン王国へ精密弾道弾及び核攻撃を集中した。
帝国暦138年5/10キングスタウンへ我が帝国属国共にに1時間に及ぶ精密弾道弾及び核攻撃を遂行、5/11キングスタウンへアトミックソルジャーを上陸させキングスタウンを占領した。5/21聖王国の無条件降伏により戦闘は終了した。

「第十四章 台湾帝国主義の台頭と悪の枢軸討伐」

帝国暦145年大台湾帝国はアジア支配を目論みそれを助長するために太平洋連邦を結成した。

[オーストラリア戦線]
大台湾帝国は東南アジア支配の前線基地としてオーストラリアへ目を向けた。オーストラリア連邦首相ジョン・ウィンストン・ハワードは加盟を拒否していたが帝国暦148年8/1インドネシア系移民の陸軍大佐アルジ=カルタウイナタのクーデターにより失脚した。アルジ=カルタウイナタ大佐はオーストアリア連邦政府幹部をアジア系移民、原住民に占めさせ自らが首相に就任しは反対勢力を次々と粛清し独裁政治を開始した。
アルジ=カルタウイナタ政権は強力な後ろ盾とアジア系民族の繁栄のために帝国暦149年4/23太平洋連邦へ加盟した。しかし当時オーストラリアは欧州系民族が51%アジア系民族が45%原住民族6%と半分が欧州系民族で占められておりアジア民族単独繁栄を合言葉にする太平洋連邦の加盟を当然賛同できるはずがなかった。アルジ=カルタウイナタ内閣は之を徹底的に弾圧し抵抗する者は虐殺した。我が帝国は欧州系民族を弾圧し独裁体制を布くアルジ=カルタウイナタ政権をオーストラリア政府と容認する事が出来ず帝国暦150年3/8同国へ宣戦布告した。
帝国暦150年4/2我が帝国陸軍はバース港へ上陸し同地を占領、バース港から東洋艦隊を出港させ首都キャンベラへ艦砲射撃を開始した。5/1に首都キャンベラへ精密弾道弾及び核攻撃を開始し同地に壊滅的打撃を負わせることに成功、この攻撃によりアルジ=カルタウイナタは死亡し、アルジ=カルタウイナタ政権は崩壊した。ケアンズへ幽閉されていたジョン・ウィンストン・ハワードが我が帝国軍の手によって救い出され再び政権を握りオーストラリアは平穏な時を取り戻した。
[インド内乱]
帝国暦154年我が帝国はインドに存在するマダカ国をインド唯一の国家と認めて統一のためにヴィルヘルムV世皇太子殿下を総指揮官とする援軍を派遣し友好関係を築いた。当時マダカ国国王ビンビサーとヴィルヘルムU世皇帝陛下の仲睦まじく両国は親密な友好関係にありビンビサー国王は大台湾帝国の傀儡である太平洋連邦の侵略を危惧しドイツ連邦の加盟を考慮していた。しかし卑劣なる大台湾帝国はこの状況をよく思わず国王側近のダイバを抱え込み謀叛の心を抱かせた。ダイバは国王に太平洋連邦からの防衛のため傭兵を雇うように進言し傭兵管理を全て自分に任せろと発言した。
ビンビサー国王は側近であるダイバを信頼していたため之を許可した。ダイバは卑劣なる大台湾帝国と共謀し大台湾帝国から傭兵と称して赫士琳を総指揮官とする義勇軍を借り受け、ヴィルヘルムV世皇太子とビンビサー国王がインド統一のために逆賊を討伐中に立ち寄ったカイバル峠で帝国暦156年3/14謀叛を起こした(カイバル峠の謀叛)。赫士琳の指揮する大台湾義勇軍は勇猛果敢で我が帝国軍は徐々に押されていったが、辛くも無事同地を撤退する事が出来た。同年4/12反乱軍はビンビサー国王居城のカピラ城を陥落させビンビサー国王を殺害した。
しかし4/29ヴィルヘルムV世皇太子殿下とビンビサー国王の息子シッダ太子の連合軍がカピラ城を陥落させ謀反人ダイバを捕らえる事に成功した。大台湾義勇軍はダイバが捕らえられた事を知るとコルカタに駐留していた台湾義勇軍は竜神騎士国国境へ撤退していった。反乱軍鎮圧後シッダ太子は謀反人ダイバを処刑し5/12マダカ国王として即位した。シッダ国王は国内が疲弊している事を理由にドイツ連邦加盟を見送り中立を宣言した。
[赤道ギニア討伐]
帝国暦158年種子島国がドイツ連邦へ加盟、陸軍ルーデンドルフ大佐以下2万の将兵は東洋艦隊と共に種子島へ出航した。之により大台湾帝国の橋頭堡ができあがりドイツ連邦全軍の将兵の士気は高揚した。しかし愚かな指導者マシアス・ンゲマが君臨する赤道ギニア国は之を「ナチズム行為であり、侵略である」と根拠のない発言を繰り返し我が帝国を中傷した。また外交官3名を殺害したなどと虚言を吐き我が帝国の国際社会に対する威信を落としいれようとした。我が帝国及びドイツ連邦種子島帝国はこの様な虚言を撒き散らす国家を許しては置けず帝国暦159年1/4に宣戦布告した。
4/12に首都マラボへの精密爆撃を開始し首都マラボを壊滅させた。赤道ギニア軍の士気は低く我が帝国軍は次々と戦線を突破し8/12に首都マラボへ到達したが、首都マラボを防衛するマシアス親衛隊の熟練度及び士気は高く市街戦は地獄の絵図と化した。しかし10/12マシアス・ンゲマをマラボ郊外にて捕獲する事に成功し戦争は終結した。戦後統治をドイツ連邦種子島帝国へ任せ我が帝国軍は祖国ドイツへと帰還した。
[朝鮮戦争]
帝国暦165年7/4太平洋連邦大韓帝国に駐留する大台湾帝国軍が38度線を突破し朝鮮民主主義人民共和国(以下北朝鮮)へ突如侵攻を開始した。我が帝国は之を太平洋連邦の朝鮮支配を目的とする侵略行為と激しく非難し、別体制の北朝鮮に対し援軍を派遣する事を決定した。別体制の北朝鮮への援軍派遣に反対の声が多数上がったが、朝鮮半島を大台湾帝国から解放する為に援軍派遣を強行した。我が帝国はドイツ連邦大東亜共和国領青島から北朝鮮領南浦へ上陸し戦線に参加した。しかし既に北朝鮮首都平壌は包囲されており戦況は劣勢であった。
我が帝国は戦況挽回のために帝国暦166年4/10に仁川へ上陸を開始した(仁川上陸作戦)。この作戦の成功により大韓帝国首都ソウルを陥落させる事ができ卑劣な大台湾帝国の傀儡政権の首相であった李承晩を失脚させる事に成功した。後任は朴正熈が首相に就任し北朝鮮からの撤兵を決定した。しかし卑劣な大台湾帝国は撤兵中の大韓帝国軍の一部を外人部隊として大台湾帝国軍へ編入させ祖国の地を踏ませる事なく台湾へ移送させた。大韓帝国は之に反発し釜山に駐留していた太平洋連邦艦隊に6/24に攻撃を加え一部の大韓帝国軍を救出させる事に成功した(釜山救出事件)。
帝国暦167年2/8に北朝鮮首都平壌を大台湾帝国に占領されてしまったが、軍部高官の呉振宇大将の救出に成功し南浦へ同年4/12に臨時政権を発足させた。しかし大台湾帝国は旧首都平壌で8/10平壌宣言をし北朝鮮民族へ精神的従属を強要させ平壌に延亨黙を首相とする傀儡平壌政府を成立させた。北朝鮮は傀儡平壌政府と南浦政府との内戦状態に陥り激しい戦闘が続いた(朝鮮紛争)。帝国暦168年グーデリアン大総統閣下は「これ以上の朝鮮半島紛争への介入はアジア諸国への不信感を招きかねず、遺憾ながら同地から撤退させざる終えない」とし同年8/4に朝鮮半島から完全撤退した。
この撤退により南浦政府は士気が低下し傀儡平壌政府軍に徐々に押されていった。そして帝国暦170年9/28傀儡平壌政府軍の南浦突入により事実上南浦政府は崩壊し朝鮮紛争は終結した。

「第十五章 ドイツ統一」

帝国暦170年我が帝國とザクセン王国との関係は日に日に悪化していった。皇帝陛下は平和的なドイツ統一を願っていたのにもかかわらず、ザクセン王国は皇帝陛下の派遣した平和の使者を幾たびも追い返すという蛮行を行った。皇帝陛下は之に遂に激怒しザクセン王国を滅し武力によるドイツ統一を決意なされた。皇帝陛下はヨーゼフ・ハルペ大将を総司令官とした第38機甲師団と第32歩兵連隊をザクセン領リーザに送り込み之を制圧させた。またライプツィヒにヴァルター・クルト・ネーリング大将の指揮する別働隊を派遣し之を包囲させた。
ザクセン軍の士気は低く、作戦は順調に進んでいきザクセン王都ドレスデン陥落も時間の問題と思われた。しかしザクセンの名将ハンス・フォン・ゼークト大将は士気の低下したザクセン軍に喝を入れ、戦闘継続を可能にしドレスデンの防備を固めた。我が帝國軍のドレスデン攻撃は熾烈を極めたが、ハンス・フォン・ゼークト少将の巧みな戦術により、幾たびも避けられた。業を煮やした皇帝陛下はドレスデンに絨毯爆撃(ドレスデン爆撃)を命じ、之を実行させた。その為、ドレスデン住民に多大なる被害が出たがザクセン軍の士気はハンス・フォン・ゼークト大将の巧みな弁舌でも上げる事が出来ないほど低下した。
同年5/1に属国バイエルン王国に出兵を命じ、プラウエン、ツヴィカウを制圧させた。また当時同盟国であったバルト=ポーランド連合帝國、ポルトガル連合帝國に打電し航空隊の援軍を要請した。8/2我が帝國空軍とバルト=ポーランド空軍、ポルトガル空軍は共同作戦を開始し、疲弊していたドレスデンを更に攻撃した。ザクセン国内では穏健派、強硬派の二つに分かれ同じザクセン人同士いがみ合っていた。皇帝陛下は穏健派のザクセン貴族を買収し、ザクセン国王に忠誠拒否を実行させた。その為、ザクセン国内では更に対立が激化、戦争継続は不可能な状況へと追い込まれた。
愚かなザクセン国王フリードリヒ・ザクセン・アウグストU世は戦争継続を断行し、ザクセン国民の心を苦しみに満たさせた。しかし息子のヨハン・ザクセンは父の戦争継続に反対し穏健派の家臣達を集め、10/2にドレスデン王宮で父であるザクセン国王を殺害し、自らがザクセン国王として即位した。ヨハン・ザクセンはヴィルヘルムU世陛下とベルリンで会談し、無条件降伏を受託した。此れにより長年続いたドイツ分立は終わり、我がプロイセン帝國を中心とするドイツ帝國が誕生した。


著者の一言

この書物は皇族お抱え文学者グリム兄弟のプロイセン帝國戦記を源として書かれた物である。また余談であるが、弟のヴィルヘルム・グリムはヴィルヘルム皇帝陛下の皇女の愛人関係にあったとされ、戦記を書くにあたっての費用はそこからとされている。
ホーエンツォレルン一族はドイツの皇帝として君臨して以来、世界各地へ進出している。それは世界の全ての民族の繁栄と解放の為な訳であって侵略という言葉はヴィルヘルムU世陛下から髭がなくなるくらい合わないものである。
我らゲルマン民族は非常に優秀な民族であり、世界の民族を指導し教育し導かなければならない。それが我らゲルマン民族の役目であり義務なのである。
我らの祖国ドイツの永遠の繁栄を。我らの父ホーエンツォレルンの永遠の繁栄を。ドイツチュラントユーバアレース!!