ネオ・ジオン通信社英傑列伝No.1 「山本五十六」
山本五十六(1884年〜1943年)最終階級元帥(戦死後)、日本海軍史上の英雄の一人。新潟県長岡市出身、旧姓高野、父は元長岡藩士高野貞吉の第7子として生まれる。
大東亜戦争開戦時、連合艦隊司令長官として真珠湾攻撃、ミッドウェイ海戦、ガダルカナル争奪戦、ソロモン海戦などを総指揮した。山本がその英雄たるゆえんは、勇猛果敢な軍人魂にあるのではなく、むしろ状況分析能力と判断能力を決定的に欠いた軍中枢部にあって、常に合理的思考を持ち続けたことにあるだろう。
米国駐在武官時代、列強の海軍力や国力を祖国と比較しその多大な相違点をまざまざと実感した彼は、その後の彼の列強に対する見識を養うことになった。折りしも航空機という空の主役が登場し、第一次大戦で活躍の一端を担うようになった。山本は日本海軍内で早くから航空機の実用性と、その潜在能力を高く評価していた。空母「赤城」3代目艦長、航空本部技術部長、航空戦隊司令官、航空本部長などを歴任した彼には航空機が新しい戦争の主役に写ったのだろう。彼がこの頃培った見識と教養はその後の山本の戦術に大きな影響を及ぼすことになる。日米の緊張時には海軍良識派の一人として、米内光政、井上成美とともに開戦回避に奔走したがかなわず、海軍中枢部を追われ、逆に連合艦隊司令長官に就任し米国との戦争にあたるとういう役に回ることになる。戦前近衛首相が山本を訪れ、来るべき日米戦争に対しての見解を問われると「それは是非やれと云われれば初め半歳か一年の間は随分暴れて御覧に入れる。然しながら二年三年となれば全く確信は持てぬ。三国条約が出来たのは致方ないが、かくなりし上は日米戦争を回避するよう極力御努力願ひたい」と語っている。日本と米国の生産力の違いは目に見えて明らかだった。米国は日本に比べ、建艦能力で4倍半、航空機生産力で6倍、鉄鋼生産力で10倍という比較にならない力の差が歴然と存在した。
開戦を回避できなかった山本は、強敵米国を相手にしては、電撃的な奇襲先制攻撃を連続させる以外勝利の見込みなしとし、明治以来の海軍の伝統的戦法である決戦思想である艦隊決戦を否定。「真珠湾奇襲攻撃」を立案、実施した。その結果米国太平洋艦隊は一時、行動不能になり、日本軍の南進と南方資源を確保させるという驚異的な戦果を挙げる。しかし、次に立案した「ミッドウェイ作戦」は目標が複雑で、また暗号を米国に解読され完全に裏をかかれその結果、日本機動部隊は大敗。以後は日本は太平洋における主導権を徐々に失っていく。
ミッドウェイの敗戦から立ち直らない海軍を率いて、ソロモン海戦、い号作戦と指揮を執り、一時ニミッツを「本当に勝てるのだろうか?」とさえ言わしめたが、結局はこの戦争の主導権は米国が握っていた。そして、い号作戦終了後の1943年4月18日。ガダルカナル方面を視察に出た山本は、ブーゲンビル島上空で米軍の待ち伏せに会い、戦死。享年59歳だった。
ミッドウェイの敗戦。これによって彼の戦略や、人材活用、指揮能力に疑問を投げかかる声が少なくない。しかし、それだけで彼の評価を下げるのは不本意である。確かに真珠湾攻撃の際のような明確な目標を欠き、複雑化したのは大きな汚点でこれが失敗の原因を作ったとしても過言ではない。しかし開戦時、山本以上の連合艦隊司令長官がいたとは到底思えない。海軍史上最も名を馳せた提督でありながら、最も悲運の提督であったと言える。山本五十六大将について後年、上官だった鈴木貫太郎元総理(元海軍大将)が後にこう語っている。「元帥は多年航空方面の各級要職につき、航空部隊の建設教育に熱血をそそぎたるはもちろん、海上作戦に航空機を最大限に活用して、速戦即決を期し、すみやかに勝利を得るの途を考究し、常に新戦法を胸中に蔵して、極度に艦隊を訓練し、もってこれが実施の時期を待ちたるものの如し、これけだし古来名将の用兵と軸を一にするものなり」