≪大台湾帝国臣民学校高等部国史教科書[上]≫
【注意書き】
この教科書は大台湾帝国政府公認の国定教科書であり、この教科書に我国の歴史(戦史)の全てが集約されています。なお、この教科書では先史時代は取り扱いません。
【前書き】
この教科書では東亜細亜の東端にある我国が如何にして世界屈指の強国に登り詰めたかを記すと共に、前半では古代、中世の先人の功績、我国の興亡。後半では、諸外国との関係、富国強兵そして世界大戦に至るまでを記します。(特に戦史を扱います)台湾暦は外国の暦や箱庭暦と必ずしも一致しません。
【群雄割拠】
我が島はかつて大陸系民族の紊族の紊王国によって支配されていたが、同国の燐王による圧政や搾取に反対した先住民は宗教家の嬰撰高の下に集まり大規模な叛乱を起こした。反乱軍は味方を判別するために、腕に青い布を巻いたので青腕の乱と言われた。反乱軍の勢いは留まる事を知らず、破竹の勢いで島全土に広まった。しかし反乱軍は仲間内で争いを起こし、次第に勢力は弱まり半年で自然消滅した。之により最早紊王国に島を支配する力が無いことが発覚し、全土で豪族が力を伸ばす原因となった。
群雄は互いに争いを繰り返し、紊王国はその争いの中に巻き込まれ次第に勢力を衰退させ、ついに台湾暦紀元前5年に北部の群雄赫援に滅ぼされた。
【被支配者から支配者へ】
50余あった群雄は分裂、併合を繰り返しやがて3つの勢力の下に集まった。(台湾、蘭嶼、高雄)中でも最有力であった※赫援は他の2国より優位に立つ為に、台湾暦紀元元年に王位に就いて国号を「台湾」とした。赫援は自ら軍を率いて苗栗の戦い(8年)、雲林の戦い(13年)で蘭嶼王国を度々破り同国を滅亡させ、26年に高雄王国の首都を陥れ、念願の全土統一に成功した。之に伴い王は自らの称号を「皇帝」国号を「台湾帝国」(前台湾帝国)と改め中央集権制を敷いた。
※台湾帝国建国の英雄。台北生まれ。幼少の頃から武芸に優れ兵学を好んだという。当時台湾島を統治していた紊王国の圧政に苦しみ27の時台北にて一族を纏め挙兵。三峡の戦いで紊国10万の大軍を僅か6千の軍で潰走せしめ紊国を滅亡に追いやる。その後、隣国の神聖基隆王国を併せると破竹の勢いで南下。僅か5年で王位に登り南台湾を支配していた高雄王国、西台湾を支配していた蘭嶼王国と共に覇を唱えるに至る。大王40の時蘭嶼王国が20万の大軍で押し寄せるも苗栗にて迎撃、徹底した兵糧攻めで蘭嶼軍を苦しめ旗下の勇将劉玄らの活躍により敵総大将耶薫を討ち取り辛くも勝利。(苗栗の戦い)大王45の時遂に蘭嶼征討軍を挙げ自ら総指揮を執り雲林にて敵を大いに破り、蘭嶼王国を滅亡させる。その後数度に渡る高雄王国の派遣軍を悉く退け、58の時、将軍壺酪・劉津・韓鎖・遠布伊ら4将を4路より高雄王国に派遣。都・知本を陥れ遂に念願の台湾統一を実現するに至る。之を機に大王は自らの称号を皇帝と改め疲弊した国力の回復に力を注ぎ、強力な中央集権制を敷いた。諡は太祖・武帝。
【南朝の役】
大陸南部を統一した「南朝」が突如台湾に攻め寄せてきた(72年)。当初朝廷はこの事態を理解できず、南部一帯を征服されてしまった。住民の激しい抵抗に遭った南朝軍は台湾人を各地で殺害し、その数は7万に上った。(南朝大虐殺)この報を聞いた前将軍倶威は独断で兵を動かし住民の支援もあって南朝軍を大陸に押し戻すことに成功したこれらの一連の騒動を南朝の役という。
【二帝時代】
南朝の役を鎮圧した倶威は西部台湾で朝廷の再三の帰還命令を無視して土着した。80年、朝廷は之に対し倶威の将軍位を剥奪し、新たに前将軍に権得聯蓮を任命し討伐に向かわせが、南朝の支援を得た倶威軍は強く、権得聯蓮率いる朝廷軍は退却を余儀なくされた。(倶威の乱)85年、南朝の支援の下で倶威は帝位に就き国号を「蘭嶼」(後蘭嶼)とした。之を二帝時代という。
【苗栗会戦】
後蘭嶼の台頭を恐れた朝廷は極秘裏に南朝に特使を派遣し武漢で南朝高官と密談し、膨湖諸島の割譲を条件に朝廷側への参戦を約束させた。(武漢会談)
207年、朝廷は権得聯蓮の孫の権得覇を征西将軍に任命し蘭嶼討伐に向かわせた。朝廷軍と蘭嶼・南朝連合軍は苗栗で激突し、当初連合軍が優勢であったが、南朝軍の寝返りなどで蘭嶼軍は大敗を喫した。(苗栗会戦)之により約160年間続いた蘭嶼は滅亡することとなる。しかし、この戦争により多くの犠牲が生じ、朝廷への不満は高まった。
南朝はこの戦争で膨湖諸島を得ただけでなく、西部台湾に影響力を持つようになった。
【封建制度の確立】
形だけの統一を果たした朝廷であったが、国力の衰退は著しかった。全土を統括できなくなった朝廷(分帝)は、一族や有力家臣に国土の一部(属地)を功績に応じて分け与えた。(封建制度)(223年)之により皇帝中心の強力な中央集権、郡県制から家臣(諸侯)中心の地方分権、封建制度が確立した。之より、朝廷は衰退の一途を辿る事となる。
【建安の乱】
229年、分帝は崩御した。しかし分帝は後継者指名をしておらず、それによって長子の赫良と第3子の赫玄は帝位をめぐって戦争を起こした。これを当時の元号を用いて建安の乱という。之により全土の諸侯は長子陣営と3子陣営とに分かれて争いを繰り返した。3子陣営は南朝を味方に取り込み基隆で長子陣営を破り(基隆の戦い)231年に帝位に就いた。
【内乱の2世紀】
基隆の戦いで勝利した諸侯の領土は朝廷のそれよりも巨大なものとなっており、最早諸侯は朝廷の意のままに動かなくなっていた。570年、遂に諸侯は反朝廷連合を結成し都の台北に進軍を開始した。朝廷はなす術も無く降伏しここ赫王朝の歴史に幕が降りた。
目的を果たした諸侯は各々の本拠に戻り争いを繰り広げ、それに南朝に取って代わった大陸王朝凌をも巻き込み、その終息までには2世紀を要した。(内乱の2世紀)この内乱は圧倒的な国力をもつ大陸王朝の支配下となることでようやく落ち着いた。
【凌の暴政】
台湾島を支配下に組み込んだ凌は島民を強制的に大陸に移住させ(台湾人強制連行)民族衣装の着用を禁じ、台湾文字を奪い(民族否定)、15歳以上の男子は死に兵として用いられ(強制徴収)、女子は軍の性の捌け口としてもちられた。(従軍慰安婦)これらの事件は凌の暴政といい、台湾民族の怨みとして今日でもその痕跡が色濃く残っている。
【帝国の再興】
約300年続いた凌による植民地支配に反対した島民は旧台湾帝国の皇族であった赫泰を奉り上げて反乱を起こした。凌の政治的腐敗もあって1月足らずで西部台湾の一部地域を除く全土を統一し、赫泰は902年、帝位(高祖・大武帝)に就いた。
【国土回復運動】
帝位に就いた大武帝は残された国土を回復すべく軍を起こし西部台湾に軍を進めた。その事を知った同地の住民は一斉蜂起し凌の台湾太守を殺害し凌の勢力は大陸へ押しやられた。(国土回復運動)ここに全土が再統一されたのである。(後台湾帝国)
【富国強兵】
全土の再統一に成功した108年後、(1100年)世界情勢の変化を察知した首相李天伯は富国強兵を推し進めた。その内容は【近代軍備の充実、産業への大量投資】であり、世界の強国と比肩できる国力の保有が目的であった。この政策は成功し、産業は飛躍的に向上した。(産業革命)しかし、この改革は急を要したため婦女や幼児も仕事に駆り出された。
【琉球との戦争】
1127年、台湾国籍の漁船が台風で琉球国に漂流し琉球政府指導の下で船員が虐殺されるという事件が起こった。(宜野座事件)政府は之を理由に琉球に宣戦布告、琉球艦隊を東シナ海上にて破り(東シナ海海戦)琉球本土以南の島々を占領することに成功した。しかし、琉球支配を目論む「中国」、日本帝国が之に猛抗議し、同島からの撤退を余儀なくされた。(日中干渉)これら一連の武力衝突を第一次台琉戦争という。
この戦争で台湾は琉球から賠償金7億斤(7億円)の賠償金を勝ち取った。
国民は琉球からの領土の割譲を導き出せなかった政府を「弱腰政府」「売国政府」等と批判し、保守過激派によって各地で暴動が起こった。(割譲騒動)
【対琉関係の緊張化】
戦争に敗れたはずの琉球王国は自らを戦勝国と称し台湾に謝罪と賠償を求めてきた。しかしながら、このような要求に応じることができず、国民の間にも「琉球討つべし」との声が高まり、会戦は避けられないものとなりつつあった。
政府は日本、中国の支援下にある琉球との戦争を避けるべく再三に渡って琉球と交渉をしたが琉球は強固な姿勢を崩さず特使からは「会戦已む無し」との打電が送られた。
又、政府は琉球との交渉を進める中で「中国」支配を目論む英国、日本の植民地化を切望する露国と交渉し支援を約束させ戦争に備えた。
【第二次台琉戦争】
1148年、琉球艦隊が帝国海軍所属で台湾領海を哨戒中の駆逐艦南速を沈没させたことから戦端が開かれた。(台湾近海奇襲攻撃)この宣戦布告無き攻撃は国民の士気を向上させ志願兵が続出することに繋がった。 政府は琉球政府に抗議すると共に英・露に日中近海への艦隊派遣を要請し、日中の参戦を妨げ、英・露の援助で製作した最新鋭戦艦浬遠を含む第一艦隊を差し向け、西表島沖で琉球艦隊を破った。(西表島沖海戦)制海権を得た帝国軍は琉球首都である首里を占領して琉球の領有を宣言した。(1151)(首里宣言)
之に伴い国号を台湾及び琉球連合帝国(前台湾及び琉球連合帝国)と改めることが国会で可決され、翌1152年に国際同盟への加盟を宣言した。
【国際社会での地盤固め】
国際同盟に加盟した我国は文化的に深い繋がりがある竜神騎士国と同盟を締結し(台竜同盟)人口的先進国アマルガント国・ダンバートンオークス国と友好不可侵条約(三国平和友好不可侵条約)を締結して国際社会での地盤を固めると共に防衛力の強化を図った。
【台南戦争】
南極大陸国は我国の観光案内に記載されていた「尖閣諸島は我国の領土です。」という言葉に抗議し、我国の尖閣諸島を侵略する為に、1156年に突如我国に宣戦を布告をした。(台南戦争)我国は貪欲な南極大陸国の大艦隊を迎撃すべく駆逐艦を主力とする第3艦隊を派遣し、両艦隊はレイテ沖で衝突、(レイテ沖海戦)戦艦を主力とする敵艦隊に苦戦を強いられるが、南極大陸国は交戦協定を無視した為、ならず者国家として世界から非難され、国際同盟は同国への軍事行動を許可したため多数の国家から制裁を受け滅亡。尖閣諸島の防衛に成功するとともに、同諸島の領有の正当性を世界に知らしめる事となった。
さらに南極大陸国の同盟国であったアステカ帝国から賠償金が送られ、国庫が充実した。
【不可侵狩り】
当時の世界には条約に「不可侵」をつけるのが流行していた。我国もその限りではなかったのだ。
1167年に突如常任理事国のルフトバッフェ帝国が「不可侵条約は仮想敵国同士が締結するものであり、仲良し条約に付けるべきではない。」として※不可侵条約締結国各国に宣戦布告。(不可侵狩り)それに対し不可侵条約陣営は一斉蜂起し戦乱は世界に広がった。不可侵陣営には我国の友好国が多数参戦しており、国民の反ルフト感情が高まった。しかし、我国は不可侵条約を締結していながら、先の戦争での国力の回復が不十分であるために参戦を見送り、国力の回復に努めた。これが後の常任理事国就任への礎となった。
※我国はルフトバッフェ帝国が不可侵陣営と交戦している最中に三国平和友好不可侵条約を三国友好条約と改めている
【HBK】
ルフトバッフェ帝国の攻撃を恐れた政府は当時日の出の勢いで勢力を拡大させていたHBKへの加盟を申請した。盟主である東北人民共和国はこれを快く承認。かくてルフトバッフェ帝国からの攻撃を避けることに成功したのである。
HBKは当初順調に勢力を伸ばしていたが、東北人民共和国は配下の国を利用してテロ工作などを行い、他国を攻撃するように命令を下して理事国を攻撃し国際同盟を乗っ取ろうとしたために信用を失い加盟国等から攻撃を受け、史上最悪のテロ集団であったHBKは消滅した。我国もこの一連の行動に疑問を感じ、国民からHBKを脱退せよとの声が溢れ、1173年に同集団を脱退。そして同国に宣戦布告しHBKの討伐の一翼を担った。(HBKの乱)
【我国の台頭】
政府は全く連絡の取れない竜神騎士国との同盟を破棄(1176)して、新たにオーストリア帝国・朝鮮民主主義人民共和国と同盟(新箱庭安全保障条約機構)を締結(1179)して外敵からの脅威に備え、竜神騎士国等4ヶ国と台湾南部の高雄で友好条約を締結した。(高雄条約)之により我国は世界有数の軍事大国となり、西洋列強からも一目置かれる存在となった。
【植民地解放戦争】
西欧列強はそれぞれに植民地を保有していた。その中でもイスパニア王国は群を抜く広さの植民地を保有しており、植民地下の住民は奴隷以下の扱いをされていた。それに心を痛めた永孝帝は之を開放せんが為に内閣総理大臣張遠玉に要請し、之に同調した張は閣僚の反対を押し切り会戦を決断。1182年7月20日に同国へ宣戦布告。ここに途方も無い義の戦争が始まった。(植民地解放戦争)会戦当初は圧倒的は軍事力(会戦当初の軍事力は台:イ=1:10であった。)を有するイスパニア王国軍に劣勢であったが、(帝国海軍は地中海海戦、ジブラルタル海戦、フォークランド沖海戦で大敗を喫した)イスパニア王国の専横を快く思わない国々が次々と参戦し、1182年9月に反イスパニア連合が成立した。また、イスパニア側にも次々と参戦国が現れ戦争は世界規模となった。
戦線は数ヶ月間に渡り膠着所応対であったが、イスパニア艦隊が以前から我国が参戦を要請していた神聖専守防衛連邦永世中立国の旅客船に誤射・沈没させたことから、参戦を表明。戦局は一変した。
之を機に政府は全艦隊を再びイスパニア王国へ派遣し、その途上で※川中大将率いる第1艦隊が世界最強のイスパニア艦隊、ゼネバス艦隊(マーシャル海戦)を破った。
各国の攻撃に晒されたイスパニア王国は無条件降伏、翌日に我国は勝利宣言をした。(1183年2月25日) 同国の滅亡により空席となっていた理事国の地位に我国が就任し、(1183年2月27日)ここに世界を巻き込んだ植民地解放戦争は終わりを告げた。しかし、この勝利にはホワイトファング国などの犠牲があった事を忘れてはいけない。また、この戦争は我国の理事国就任のための戦争だとして抗議する国民もいた。
【海外領土の獲得】
理事国に就任した我国は自国の防衛の為に海外領土の獲得を考え、無政府状態であった、越南地方・海南島・比律賓地方の北部を獲得して(1184年)、之を大越連邦王国として統治した。各地方の住民は我が軍の進駐を歓迎し、我国もそれに応える為に善政を敷いた。だが、これを侵略行為だとした一部の国民が、5月10日に外務省などを襲撃し、外務大臣吉岡秀仁が殺害された。(5・10事件)
さらに政府は鎖国政策を執る大日本帝国を開国させる為に房総半島沖で軍事演習を慣行し、使者を送り開国を迫ったが、使者が論破され日本の開国を断念した。(房総半島事件)
【アマルガント動乱】
1193年、ルフトバッフェ帝国がアマルガント国に大儀のない戦争を仕掛けた。世界各国は之に猛抗議し、世界の大半が同国に宣戦布告した。我国も長年からの反ルフト感情が最高潮に達し、※副総理田好慶司などの慎重派の意見もあったが、軍部の暴走もあって参戦を余儀なくされた。
精強を誇るルフトバッフェ軍は各国の軍を次々と撃破した。亜細亜最強を自負する帝国海軍も敵の策に嵌り壊滅的打撃を蒙った。
各国が降伏する中、我国は国土が焦土と化すまで戦ったが、遂に1195年8月8日無条件降伏を受諾し、台湾及び琉球連合帝国は歴史から姿を消した。
※川中孝昭
日本族。基隆生まれ。台南(南極大陸国)戦争の時、第3艦隊司令官として南極海軍を奇策を以って破り大功を挙げ、大将に昇進。その後ならず者国家掃討戦に度々参加し台湾海軍の精強さを世界に知らしめた。 植民地解放戦争では台湾海軍総司令官として参戦。世界最強と恐れられていたイスパニア王国連合艦隊やゼネバス帝国海軍に壊滅的打撃を与え、連合国勝利に大きく貢献する。アマルガント動乱では、台湾・大越連合艦隊総司令官として参戦するが敵将の策に嵌り軍を8方に分け各個撃破させるという大失態を犯し台湾及び琉球連合帝国・大越連邦王国滅亡の1要因を造る。連合艦隊壊滅後は友好国で中立国であった大漢帝国に寄航。傷の療養中に台湾滅亡の報を受け自刃しようと試みるが、大漢謀臣・荀ケに阻止・説得される。やがて荀ケの推挙により丞相曹操に取り立てられ海軍筆頭大将となり、仇敵ルフトを虎視眈々と狙う。
※田好慶司
日本族と台湾族の混血。日本国:大阪生まれの帰化人。旧台湾外相の吉岡秀仁の右腕として活躍。台南戦争の際には血気盛んな武官を抑え居留守戦法を進言。的中させ尖閣諸島防衛に大いに貢献する。ルフトバッフェ帝国の「不可侵狩り」の際も当時の国策であった不戦中立主義を重視し、アマルガント国などと共に不参戦する事を進言。不可侵条約連合とルフトバッフェ帝国の激闘を尻目に富国強兵政策を実行し、後の常任理事国就任の礎を築く。
急進派組織のクーデター未遂事件の際には朝鮮民主主義人民共和国に極秘任務で訪問中であった為事無きを得るが、上司吉岡秀仁が殺害されるという悲劇に遭う。吉岡死亡後は高雄王李徴や首相張遠玉の下で活躍する。植民地解放戦争では、各国にに秘密裏に赴き、参戦を約束させ、連合国勝利を決定的なものとする。 アマルガント動乱では「時期尚早である。貴殿等は敵を過小評価し過ぎである。友好国各国と緻密な連携を計った上で参戦するべきだ。」と進言するが退けられる。台湾敗戦後、首相張遠玉は「あの時田好の策を採用していればこんな事にはならなかった。」と嘆いたという。台湾滅亡後は曹操に才能を買われ一時副丞相になるが、その徹底した不戦主義を嫌われ僅か9ヶ月で副丞相の任を解かれる。