まえおき
「どうせなら一番遠いところまで行ってみようか」
と、思ってしまった。思ってしまったが最後、やってみなくては収まりがつかない性分である。
1996年は仕事がありすぎた。生活費を賄うための仕事がいつしか惰性となってしまっていた。年の暮れ、ぼくは使うあてのない大金を手にして行き先を見失っていたのだった。
子供の頃から抱いていた疑問があった。教科書や地理の本によれば、地球は丸い、らしいのである。しかし、ぼくはそれを確認したことがない。
噂によれば、この日本から一番遠い、地球の裏側にも人が住んでいて、スペイン語を話している、らしい。しかも彼らは日本こそが地球の裏側だと思っている、らしい。季節は日本と正反対。世界地図上で位置を見ると、西経とか南緯とか見慣れぬ言葉が並んでいる。更に、時差がちょうど12時間だと言う。日本人が太陽を浴びて働いている時、彼らは星の下で眠っている、らしい。
そんな一つ一つの怪情報が、ぼくに確認作業を促すのだった。いったい、どっちが表でどっちが裏なんだろう?
「行ったれ」
と、思ってしまった。さっそく格安の最短ルートを探していると、沖縄でカヤックガイドをしている仲村さんがメキシコのツアーに誘ってきた。それも面白い。メキシコのバハカリフォルニアでカヤックを漕ぎ、寄り道した後で南米に飛ぶ。更に、今まで通勤用にしか使われなかった哀れなマウンテンバイクも持っていくことにする。唯一、この旅の立派な動機付けとして「南米最南端のフエゴ島を自転車で走ろう!」と決めた。最後は現地の人に自転車を譲ってしまう。愉快な想像がどんどん膨らんできた。
たちまちのうちに、そんな欲張り旅の構想が出来上がってしまった。さて、それにしてもスペイン語はどうしよう……。
・太平洋ひとっ飛び8時間半
……まだあまりピンとこないが、ここはメキシコ合衆国。バハカリフォルニア半島の中ほどに位置する小さな小さな町、『ロレト』だ。
とりたてて海が美しい、わけでもないし、とんでもなく暑い、わけでもない。でもやっぱり異常な強さの陽射しを浴び(サングラスなしでは歩けない)、茫漠とした砂漠の広がる風景を眺めていると、遅れ馳せながら改めて感じてしまう。
「外国に来ているんだなあ」と。
やっと落ち着いたこの街で、そろそろ日記を書き始めることにする。
97年2月12日、午後。成田での出国審査はびっくりするほど簡単に済んだ。自転車は折り畳んだ状態(輪行、という)で日通の空港カウンターまで送っておいたので、なんの苦労もなかった。余裕を持って入ったのも無駄となり、大韓航空のゲートでしばし待つことになる。
なに気なく隣を見ると、成田エキスプレスの車中で東京からずっと向かいに座っていた女の子が……。彼女もロスアンゼルス行きだったのか。さっそくの奇遇。ナニゴトか起こる予感、と思いたいところだが、気持ちの余裕がないので考えないように努める。
明らかにぼくの苦手なタイプ(リゾート風)の彼女には、更にケバイ仲間の女子が二人増えていたため、静かに無視してしまった。こちらは分かりやすい野球帽をかぶっているから、おそらく向こうもぼくの存在が気になっていただろう。
ところが、「関係ねいや」などと思っていたら、彼女たちとは飛行機の中で、アメリカのイミグレーションで、ロスアンゼルスの空港待合室でと、何度も顔を合わせることとなってしまった。最初に声をかけていたら面白い展開になったかもしれないが、相変わらずぼくは巡り合わせが悪い。まあどうでもいいか。
さて、14時55分頃予定通り離陸、となったらしい。らしい、と思うのは、なんと乗り込んだ直後から寝入ってしまい、目覚めた時には既に安定飛行に入っていたからだった。
「あれ、まだ飛んでないのか。ずいぶん遅れてるな。国際路線なんてこんなものか。うーん? でも心なしか揺れているような……」
と思ったら飛んでいたのだった。こんな間抜けな海外脱出もあるだろうか。
そして更に一時間ちょっと経った頃、まだ16時を回ったくらいだというのに早々と機内食が配られ始めた。
「こんな時間になんで機内食なんだ?」
と思いながらも、目の前に出されるとついつい食べてしまうのが貧乏人の悲しい性である。メニューはビーフステーキ(といえば豪勢に聞こえるが、硬い)と、小さなパン。あと、あと、サラダだっけ、それに赤ワイン。他にも何かあったような気がするし、デザートにパイのようなものがあったようだが、忘れた、ようだ。
安っぽい大韓の機内は食事が終わるとさっさと照明が落とされてしまった。そこでぼくはやっと、早過ぎる夕食の意味が分かった。
つまりこうだ。14時55分発のこの飛行機は日本時間の24時30分ロスアンゼルス着なんだけど、現地USA時間では7時30分。つまり早朝。この時差ボケを少しでも解消する為に、早い夕食早い就寝で身体をダマシてしまおう、というわけなのである(うん、多分そうだ)。
ぼくはまんまとこの作戦にハマることにし、疲れていたせいもあるが、さっさと寝入ってしまった。
そうして到着前のUSA時間5時頃にはもう朝メシが出た。日本時間では……まだ22時じゃないか! と、思い出さない思い出さない。ダマされろダマされろ。
翌朝(じゃなくて当日の朝に日付は戻るんだな、これが)、6時30分に無事ロスアンゼルス国際空港に着いた。こんな早くに着いても向こうの係官がやってられないんだろう、しばらく待たされることになる。以前、台湾に渡った時の船もそうだった。
アメリカ合衆国の入国審査というのは、知人に聞いていたので「ちょっとヤッカイかな」と思っていた。まあ、要は態度が傲慢であるらしい。基本的には、怪しい奴は入れてやらないよ、という姿勢はどの国も同じなのだろう。
少し緊張して臨んだが、しかしぼくの入った時は日本人の観光団体(いわゆるみんなで行けば恐くない、の人々)がドッサリ入ったので、百戦錬磨の係官もウンザリしている様子だった。
なにしろその直前にトイレの「大」ルームに入った時のことだ。
「へーえ、なるほど足元丸見えだなあ」
なんて思いながらついでに入国の書類をチェックしていると、突然東北訛り風のオバちゃんがわめきながら入ってきたのだ。
「ああんれえ、ここ男用かね。いんや男も女も一緒だべかねえ。やんだねえもう!」
オバちゃんはぼくの隣に入り、なんとこちらのスペースにまで足を出してキバり始めた。さすがだ。
(おいおい、男女の区別くらい絵で分かるだろ)
と思ったが、多分オバちゃんなりに異国の異文化というものを意識して緊張してたんだろう。男女を表現した絵は目に入らず、英語の表示だけ見て「ああーこりゃわかんねえ!」てな感じか。
そんなわけでロスアンゼルスの空港は日本人だらけ。放送も日本語のものが頻繁に流れる。(これはなんだ、噂に聞くハワイ状態じゃないか)と思う。あとで人に聞いたところでは、ちょうどその時間に日本行きや日本からの飛行機が密集しているらしく、当然空港内は日本人であふれるらしい。ま、おかげで税関もノーチェック。自転車などの荷物は「TRANSIT(トランジット)」ということにしてすぐにまた預け直し、手ぶらでアメリカ初入国と相なった。
しばらく空港内を歩き回ってみるが、どうもソワソワとして落ち着かない。
「やっぱり外国だからなあ、緊張してんのかなー、ふふん」
なんて思ってみたりする。でも考えてみたら、俺というやつはどこへ行っても人が多ければウンザリして落ち着かないから、いつもと同じなのだった。東京でも札幌でも、人が多いのは好きじゃない。
とっととメキシコ行きのチェックインを済ませたくて、『アエロ・カリフォルニア』のカウンターに行く。しかし、スペイン語がサッパリ解らん。
「9時にまた来い」
と、言っているようだ。それで9時にまた行く。するとやっぱり話が通じない。
「10時にまた来い」
と、言っているらしい(ん、どういうことだ?)。
そして10時にまた行くと、まだ話はよく解らん。どうにか聞き取ったところでは、
「我々アエロカリフォルニアの搭乗ゲートはまだ決まらないので慌てず騒がず落ち着いて待て」
ということらしい。
その後しばらくして、
「101ゲートに決まったからさっさとそこへ行け」
と言われた(ような気がした)ので、ダッシュでそこを目指す。入国が厳しいと言われるアメリカも、出国は意外にゆるゆるだった。
ところが、ゲート前で待っていても何も進展しない。時間だけが迫る。(おっ、これはさっそくトラブルか?)と少しドキドキしてきた。
11時10分の出発時刻に間もなくなった頃、
「ロレト行きの搭乗ゲートが変更になった。108ゲートだ。とっととそこへ行け!」
というようなアナウンスが入った。これは完璧に内容が分かったのではなく、緊張していたので直感で分かったのだ。で、そこへ走った。他の客も小走りだ。でもそこで待っていた係員はいたってのんびり、いわゆるラテンの人。
出発時刻を軽く過ぎた頃、何人かの名を呼び出す。その中に「ケンヒ・イシモーロ」と聞こえたのでカウンターへ行く(スペイン語ではJがハ行になるらしい)。いやはや、どうやら乗れそうである。
何やかやの末、バスに乗って飛行機までしばらく走り、やっと、という感じでアエロ・カリフォルニアの機内に乗り込めた時は、正直ホッとした。
離陸の安心によってまたまた寝てしまう。機内食(日本時間で今夜三度目!)が配られている気配があったけど、食欲がないのと面倒臭いのとでそのまま寝ていた。
やがて眼下に見えてきたバハ・カリフォルニア半島は確かに砂漠の大地だった。
なんでこんなところに人が住んでるんだ? というようなところにロレトの町はあり、それも最初は
「あっ、家が何軒かあるぞ。おっ、ここに着陸する気か? マジかよ」
なんてことを思っている間に、「砂漠の真中飛行場」……に到着したのだった。まるで冗談みたいだ。
しかし冗談みたいな展開はまだ続く。ロレトの空港は一応、国際空港だと聞いていた。アメリカ〜メキシコだから当たり前だ。ところがそこはコンクリートの壁にカヤを葺いた、という程度の建物で、窓っぽい大穴はあるが窓はない。風もぴゅうぴゅう吹き抜け、書類はバラバラと飛ぶ。
ぼくは寝ていて入国カードに何も書いていなかったのだが、直前に慌てて名前、年齢、JAPAN、もう一つJAPAN、くらいをサッと書いて提出した。すると係のオッサンは
「フン、メンドクセーナ」
というような感じで残りを適当に書き込み(!)、ハンコをダン、ダダン! と叩きまくってパスした。恐ろしくイージーだ。
荷物は吹き抜けの大穴から投げ入れられた。それを持って出口へ行くと、そこが一応税関ということらしかった。何せ小学校の教室ぐらいのスペースに入国手続きのすべてが収まっているのである。
出口にはオモチャみたいな緑と赤の信号機があった。ぼくはこのシステムを知っていたので笑えなかった。アルゼンチンもそうらしいが、このオモチャ信号機は入国する人が一人ずつ信号のボタンを押し、ランダムにどちらかが点灯するようにできている。そこで運悪く赤が点いた人だけ調べられる、というロシアンルーレット税関なのだった。
前の二人は緑、緑。果たして俺は……やはり赤が出る。こ、これはまずい。自転車なんていう面倒な荷物を持っているだけに、急速に不安にかられる。ゲートの向こうを見やると、今回のシーカヤックツアーを企てた『沖縄カヤックセンター』の仲村さんが立っているのに。
しかしそこの係員もやはりイージーなメキシカンだった。彼は
「フン、赤かよ。メンドクセーナ」
とでもいうように輪行袋のジッパーを20センチほど開け、中をちらり覗いて二秒のち、「行け」と手で合図した。なんなんだこれは。
ぼくは笑いながらメキシコ入国を果たした。仲村さんも笑っていた。
嬉しくて、ホッとしたけど、ここからが「話が違ーう!」展開となるのだった。
(もう夜も遅いので続きは明日書くことにする。ISLA〈島〉CORONADO、つまりコロナード島のキャンプにて)
心は既に南米大陸を向いている、つもり
・貴族なシーカヤックツアー
さて、「話が違ーう」とはどういうことか。それはこうだ。
まず着いた途端、
「とりあえずタクシーに乗って」
と言われた。地元にお金を落とさないとうまくやっていけないので、仲村さんたちの車で送り迎えするのはマズイ、とのことだった。更にタクシーでホテルに着くと、
「今日と明日はここに泊まってね」ときた。
「え? 一緒にキャンプできるっていう話だったのに」
そう言うと、「テントを張っていいのはカヤックガイドだけ」とホテル側に決められてしまったんだという。つまり、ツアー中のホテル代(三泊分)もツアー料金として徴収され、早く来てしまった分の二泊分も別に自分で払ってね、という事態になってしまっていたのだ。
「なんてこった!」
ぼくはツアー前はもちろん、ツアー中のホテル代さえもキャンプで浮かそうと思っていたから、かなりがっくりきた。キャンプできると聞いたから他の人より早く入ったのに。
それならば当然ツアー代金も高いんだろうな、と恐れた通り、現地参加でも1000ドル(約13万円)とのことだった。
全財産で2300ドルしかないのに、ここで1000ドル+ホテル代うんぬん……などを払っていたら、日本円にして16万くらいしか残らない。16万で二ヵ月か……。おいおい大丈夫かよ、アルゼンチンのチケットは変更できない(いわゆるFIX)っていうのに。南米に渡って、二ヵ月経つ前に金が途切れたら、出発日までどうやって食いつなごう。カードもないのに。
その夜は不安と疲れでクラクラして過ごした。
2月13日。
驚くことに、時差ボケはまったくなかった。変則時差だらけの仕事に慣れていたせいなのか、朝は朝、で全然違和感がない。不思議な身体だ。しかし、昼も夜もよく寝た。時差ボケではなく、風邪を日本から連れてきたからだった。それでも一日のんびりしていると、身体はなんとか回復してきた。
(ここへ来てとりあえず憶えたスペイン語)
オラー(こんちわー)、ブエノスディアース(おはよー)、クアントエス?(これなんぼ?)。
公衆トイレにて……DAMAS(女性用)、CABALLIERO(男性用)。
単純だがこれはかなり重要だ。日本みたいに男女を絵で分けていないからだ。最初に間違えかけたので、「ダマスにダマされるな」と憶える。ちなみに、ここのトイレは紙を流さず、備え付けのごみ箱に入れる決まりだそうだ。空気がとても乾燥してるので臭わないというが……。
2月14日はツアーの参加者が来る日だった。すでに一回目のツアーから参加している海老名さんはここのヌシと化しており、その他今日来る人が三名。そのうち二人はぼくもよく知っている沖縄カヤックセンターの常連さん。海外経験のないらしいその二人と、もう一人はなんと聴覚障害者ということで、無事到着したかに見えた彼らの土産話は、このぼくでさえ
「あっはっはっはっは」
と大笑いしてしまったほどのドタバタ珍道中振りだったらしい。
金に余裕がないと分かって、なるべく自炊をして節約したかったのだが、その晩はやっぱりみんなで食いにいこうよーというノリになり、ちょっと高そうだけどここにしようかーとなり、メニューを見て、うわー高ーい、でもしょうがないかーというノリに巻き込まれてしまった。金を使いたくないこの時に一食千円以上もかけるなんて、と憤る。あくまでこの先の南米がメインであるぼくは、常に不満たらたらだった。
レストランでメシを食い、ホテルに帰ってでかいベッドで眠る。なんなんだこれは。こんなことをしに外国に来たわけじゃないぞ。
翌2月15日。
気を取り直したんだか直ってないんだかとりあえずカヤックツアーへの出発となった。
ホテルのプールサイドでブレックファストをいただきながら、キャンプツーリングの準備をするというのも妙なもの。しかもカヤックその他の装備類は、ホテルの雇われメキシコ人たちがすべて用意して運んでくれる。そうでもして金を落とすための理由付けが必要らしいが、どうにも気持ち悪い。こういう遊びは「自分のことは自分で」が基本中の基本なのに。
「なんなんだこれは!」がまたしても静かに炸裂。
納得いかないまま出発となる。
海に漕ぎ出せば気も晴れるだろう、と思ったら、せいぜい北海道の石狩湾より少しマシなくらいの海水で、またしても……。
でもまあ、海はやっぱりいい。嫌なことなんかすべて忘れさせてくれる。
突然、オアシスのような入り江が現れた
今回、タンデム艇の前に座ってくれるのは東京の桐澤さんだ。ぼくは既に昨年5月の沖縄・慶良間ツアーで知り合っている。明るくサッパリしていて、沖縄のカヤックセンター周辺の人たちからも人気のある看護婦さんである。彼女は沖縄のツアーにしょっちゅう行っているらしいが、海外はこれが初めてということで、出発前はエラく緊張していたそうだ。
初日から向かい風がキツかった。かなり吹いていた。いや、実際めげそうになった。ロレトを出てすぐにロレロレとなる(失敬)。何故こんな逆風をついて北上するのか。北、南のどちらに行っても良いという話だったのに……。
これは仲村さんたちが前回のツアーで南へ行ったから、ということらしい。それだけの理由でこんな風に向かって漕がすなんて、、と再び不満たらたら。すっかり愚痴っぽくなっている。
ひいひい言いながら漕いで、結局目的の島(コロナード島)には渡れず、へんぴな海岸でのキャンプとなってしまった。
あらためて海だけを見れば、やはりそこはまさしく日本海の風景と同じ。しかし後ろの風景だけが違う。そこはサボテンの大地。見事なまでに大胆な枝ぶりのものから、ずどんと太い一本モノまで様々なタイプがそこいら中に屹立している。
そんな中を、みんなで散歩に出掛けた。でかいサボテンがあればそこで記念撮影。何かの廃墟のような怪しい建物を探検したり、浜でイルカの骨を拾ったりと、子供のような時間を過ごす。
こんな砂漠と海の境界でキャンプするにあたって、以前からちょっとした疑問があった。一本の木も見当らないサボテンの大地。そこに果たして焚き木はあるのか? 流木はあるのか? しかしあるんですねこれが。
何故なのかどこからやってくるのか分からないが、細い潅木のカラカラ流木がそこそこある。量は少ないが、調理には充分だ。
早い夕食の後、夜はセルベッサ(ビール)やビーノ(ワイン)をぐびぐび飲りつつ、長い焚火の宴となる。
聴覚障害、というより全く何も音が聞こえないのだという小笠原さんは、若く見えるが34才。ぼくもびっくりしたけど、こちらが31才だと言ったら向こうはもっとびっくりしていた。よくあることだ。
当初みんなは、彼がほんの少しくらいは聞こえているのだと思って大きな声で話し掛けていた。そうすることで話は通じるから、全然疑いもしなかった。しかしよくよく聞いてみると、音は全く感じていないのだそうだ。これはつまり、大声で喋ると自然に口をハキハキと開けるので、彼も「読唇術」を使い易い、というだけのことだったのだ。
彼は彼で、聴覚障害者独特の声と喋り方(あの「あぐあぐあ」という感じの発声)でゆっくり答えを返す。このやりとりは実に楽しく、そして手間の掛かるものだったが、全員の一致した見解としては
「聴覚障害だけなら海外のカヤックツアーだって普通に参加できる」
というものになった。
そもそもぼくらだって外国語がてんでなっておらず、ジェスチャーで済ますことが大半である。もちろん彼のジェスチャーには年季が入っているから分かりやすいし、海の上でも、声より手の合図が通じやすかったりする。誘った仲村さんにも少しの不安はあったらしいが、まるで杞憂であった。
我々は特に気も遣わず、たまに話が盛り上がってもいちいち通訳(というか手振り)をせずに過ごした。ボランティア的な世話役が介在しないことで、かえってお互いの気分をリラックスさせているような気もした。
ぼくは彼と遊びながら、なんとなく手話も憶えていった。今まで何度となく興味を持ちながら実行に移せなかったけど、実際にそれでしかコミュニケーションできない人がいれば、必要からどんどん憶えられるようだ。
教えてくれるのは、もちろん満足に喋れない彼だけ。そしてぼくたちは、強いてペンやノートを使わなかった。これから先重要になるはずのスペイン語よりも、ぼくはどうやらこちらの学習に熱中してしまっていた。
いつまでも寝ようとしない小笠原さんに、
「焚火は好きですか?」
と手話で聞いてみた。焚火は単純に火を表現すればよいらしく、手のひらを広げて指をひらひら上に上げればそれで炎だ。「好き」はあご髭をさするような動作。
「焚火を見ていると、ぼうっとして、吸い込まれるようで、だんだん眠くなる」
と彼は言いながら、しかしいつまでも寝なかった。
やはりこれなのだ、とぼくは強く思った。以前に取材させてもらった、障害者を大勢「招いて」の「イベント」に致命的に欠けていると感じたもの……。
理想はやはり、ごく普通のこんなツアーに当たり前に参加できる受け皿があればいい。仲村さんが主催した去年の障害者慶良間ツアーに小笠原さんが参加したことで、仲村さんは彼の障害の程度、ツアー中の留意点を把握できた。つまり、そうした器さえあればあとはなんの問題もないのだ。
小笠原さんはコンピューターのプログラミングを生業とするれっきとした社会人で、当たり前に給料を稼いで当たり前の休みをとり、このツアーに参加した。背中に甘えの見えない人だから、逆にぼくたちも構えることなくずけずけと質問できる。
彼は耳が聞こえないことでの失敗談を、面白おかしく語ってくれた。
例えば、音に対しては全く反応できないから、朝起きるための目覚まし時計が使えない。それで一時期はタイマーと「大人のオモチャ」をつないで目覚ましにするという荒業を使った。ブルブルと震えるアレ、バイブレーターを枕に仕込んだのである。しかしそういった振動モノはすぐに身体が慣れてしまい、やがてまた起きられなくなってしまうそうだ。かくして、今も彼の朝寝坊問題は解決できずにいる。
あるいは、時に聞こえないことで得をすることもあるらしい。友人が泊まりにきた時に初めて知ったことだが、彼の隣の部屋から幽霊とおぼしき声が度々聞こえるのだという。
「ぼくは何も聞こえないから気にならないんですよ」
とあっさり流してしまうのがおかしい。訪れた友人たちは皆、深夜にパニックを起こすというが、彼は部屋を引っ越す気もなさそうだ。
そんな風に楽しい語らいの夜は更けた。
国際的タキビストの仲間入りを果たす
翌日は快晴の夜明けを迎えた(いやいや、実は毎日快晴なのである。バハは一年に七日くらいしか雨が降らない「太陽の半島」なのだそうだ)。
今回の参加者は、ぼくを含めた五人全員がごつい一眼レフカメラを持参しており、現地ガイドを務めるサンディエゴ在住の大渡さんを驚かせていた。そんなわけだから、美しい夜明けなどが始まるとテントの外が騒々しくなり、アマチュアカメラマンたちがこぞって激写を開始する。ちょっと不気味な光景である。
暑くなる前に、そして北風の吹きだす前にと、早めに出発する。本日は目の前の島、イスラ・コロナード(ISLAはスペイン語で島のこと。ISLANDの棒読みと思えばいい)へ渡って遊ぶだけ。
途中、海の真中でイルカと出会う。少しずつ、この海にも親近感が湧いてくる。
島に着いて最初に上陸したのは、全員が思わず「えっ、ウソ?」とつぶやいたほどの楽園のような入り江。日本で言えば、佐渡からいきなり慶良間へ漕ぎ着いたような印象である。なんでこんなサボテンだらけのところに白砂のビーチがあるんだろう? ……分からん。
とりあえずここに荷物を降ろし、昼食の用意だけして遊びにいく。この島の地形は、小さな山だけの「真ん丸島」に、先ほどの入り江を含む細い半島をくっつけた、言わばエイのような形をしている。その山の頂上(コロナード峰と命名)をアッサリ極めてこようという目論みを企てたのである。まずは山のふもとのビーチに移動して昼食とする。
期待のメニューは「ブリトー」。タコスとの厳密な違いがよく分からないが、これぞメキシコ、ってなサルサ(ソース)と辛〜いハラペーニョがめったくそに美味い。これは気に入った。
さて、昼食後に勇んで歩き始めた我々「インスタント登山隊」だったが、噴火の跡ではないかと思われるゴロゴロ岩が続いて歩行は困難を極め、早々に小笠原さんと仲村さんが脱落した。ちなみに大渡さんは最初から棄権していた。なにしろ、ぼく以外はみんなパドリングシューズなのである。
ちっとばかり山ヤの端くれだと自負したぼくは先頭を切り、様々にルートを作りながら進んだ。「どこを歩いてもいいけど、どこを歩いても等しく辛い」というような、とても登り甲斐のある斜面が続いた。それは最後の砂と火山灰の急斜面でピークを迎え、まさに「三歩進んで二歩下がる」の状態でずりずり滑りながら、やっとの思いで頂上に立った。
ん〜……この妙な充実感と阿呆らしさ。おそらく日本人初登頂だろうが、みんなしかし放心状態である。脱水状態でもあった。こんな太陽の国で、水も持たずに激しい運動をするなんてどうかしている。ビールを求めてさっさと下り始める。
帰りは別ルートを試みたが、かえって失敗に終わったようだ。上手くいかんなあ、と思いつつ、この汗がビールをより美味くするのだ、と無理に納得して歩く。
カヤックを置いた浜に着き、へろへろながらも漕ぎ出していくと、(なんだかスポーツしてるなあ)という気になった。トライアスロンか、「ファイト、一発!」みたいだ。荷物を残したキャンプ地に改めて上陸するやいなや、ビールをがぶ飲みする。身体がスポンジのようになっていた。もうすでに、夕方になっていた。
テントで日記を書き綴り、この夜も、月と星と焚火の宴で穏やかに更けていった。美しい夜だった。
イスラ・コロナード峰(命名)のアタック中
・たかがクジラ、されども鯨
2月17日(もちろん現地時間)。
鏡のように凪いだ海を、ロレト目指して漕ぎ戻る。ウトウトするくらい静かな海。途中、何度もカヤックを寄せ合っては休んだ。まだまだ遊んでいたかったが、ロレトには昼頃着いてしまい、カヤックツアーはあっけなく終わってしまった。
自分の荷物だけホテルに運び込むと、カヤックや道具の水洗い、後片付けは又してもメキシカンたちがやってくれてしまう。
俺たちは貴族なのか?
なんだか、段々自分が情けなくなってきた。こんなのは旅とは言えない。早くアルゼンチンに行きたい、と思う。
昼食は『カフェ・オーレ』という食堂(フランス語のカフェオレではなく、「O・rei!」のオーレ)にみんなで行き、タコス・デ・ペスカード(魚のフライ入りタコス)を食べた。これがまたなんまら美味くて、大皿に三つも乗って豆も付いて(定食には必ず豆が付く。日本の漬物感覚のようだ)たったの22ペソ。
でもこれは決して安くなく、他にはスパゲティ山盛り食って18ペソという店もあったから、料金的には普通なんだろう。ちなみにレートは1ドルが大体7.5ペソ。1ドル120円で計算すると、1ペソが約16円となる。22ペソなら352円か。あれ、普通かな?
でもビールの6本パックが20ペソだったり(1本なんと53円!)、米(もちろんインディカ米である)の1キロが6.3ペソ、つまり約100円と格安だったりする。ただ生活していくだけなら負担は小さい。
その後、日本への電話も試みる。15時30分ということは、日本時間は16時間足して31時30分。つまり日付は翌日で、時刻は朝の7時30分ということになる。いくら考えても、この時差というヤツは馴染めない。どうにも納得がいかない。
注目の電話代は、50ペソ(800円)のカードを買って、たったの2分で使い切った。
か、悲しい。高過ぎる。日本にいる相棒(嫁候補)ともっと話したかったのだが、今や贅沢はできない経済状況になっている。これからは一日平均(移動費も含めて)3000円も使えないのだから、アルゼンチンに行ってもあまり電話などできないだろう。
己れの貧困危機を思い知らされ、夜はキッチリ自炊をした。ハラペーニョをたっぷりと入れ、現地メキシコ料理よりも辛い(!)と思われる物凄いものを作って、鼻水を垂らしながら食らう。皆さんは街のレストランへ出掛けていった。
翌2月18日は、ツアーのオプションである「ホエールウオッチング」に参加することになっていた。
ぼくは憂欝だった。カヤックで鯨を見るならいざ知らず、エンジンボートで追い掛け回しても楽しい訳がない。しかしキャンセルはできないと言うし、料金ももったいないし、楽しみにしてきたという他の参加者をシラケさせるのもよろしくない。
で、深く考えずに話のタネとして乗っかってみるか、とカメラも持たずに出発した(なんの運命か、これが結果的に長旅を控えた自分を助けることになる)。
車(もちろんタクシー)は埃っぽいダート道をぶっ飛ばし、約二時間で目的地のマグダレナ・ベイに着いた。簡単な移動のようでも、バハ半島を横断して太平洋側に出たのだから大したロングドライブである。
この小さな入り江は「コククジラ」が団体で押し寄せ、子育てに勤しむことで知られるらしい。以前からホエールウオッチングの本場として人気があり、三年前まではカヤックによる接近もできたのだという。それが今では商売のエンジンボート以外は禁止されている。ホテルの事情といい、このバハという地域はすっかり観光ズレしていて悲しくなる。
ガイド(ボートの船頭)によれば、
「ボートのエンジン音には慣れているからいいが、カヤックで近付くとかえって鯨が驚く」
などと言う。タワケたことを言うではないか。
北海道でも、人間の乱獲によって勝手に希少種にしてしまったタンチョウへの影響を取り上げて、
「カヌーも決して自然に優しくはない」
などと訳知り顔で(しかも大きなディーゼル自動車をブンブン乗り回しながら)宣っている人々がいる。あれと一緒だ。
「そうじゃないだろ!」
とやはりぼくは一人で憤る。
それでも、鯨の赤ん坊と母親が戯れる光景を見ているうちに心が洗われ、つまらないことはどうでもよくなってきた。カメラを持っていなかったため、じっくりと見ることができたのもよかった。
ある一頭の若い鯨が、ボートの近くを付いてきていた。少しやんちゃな雰囲気を持っていて、ぼくは彼が気に入ったのでしばらく声を掛けていた。手を振ったり、挑発するような仕草を始めたところで、彼は深く潜っていった。どうしたんだろう、と覗き込んだ時、事件は起こったのだった。
ボートのわずか数メートル前の水面が突然割れ、彼は垂直にその姿を現した。勢いをつけて立ち上がった彼の胴体は、ほとんど水上に飛び出してしまったのだ。
「やばい、こっちに倒れてくる」
そう思った次の瞬間、彼は巧みに水中へ身体を戻しながら、ぼくに目掛けて膨大な水の固まりを跳ね飛ばしてくれたのだった。
そんなふうに感じた、のではない。ヤツは明らかにぼくを狙っていた。立ち上がった瞬間、ピシッと目が合ったのだ。イタズラっぽい目だった。
目の前が見えなくなり、しばらくは何が起こったのか理解できなかった。揺れる船の上で、「転覆するのか?」とだけ思った。頭への衝撃がかなり強烈で、脳しんとうのように頭はクラクラしていた。それは相当な水量だったらしく、ボートの中にはたっぷりと海水が溜まっていた。
「イヤッホーッ!」
衝動的に、ぼくはガイドに握手を求め、やったあ、やったあ、と歓喜していた。久し振りに何もかも忘れるくらい、ハイな気分にさせてくれた。
ありがとう鯨君! 素直にそう思いながら振り返ると、そこにはずぶ濡れの一眼レフカメラを構えた皆さんが、呆然と佇んでいた。
「あっ」
時すでに遅し。小笠原さんのミノルタα(20万近くする最高機種)は完全にやられた。海老名さんのキャノンEOSも作動せず、他の人たちもくまなく水を被っていて、被害は相当なものだった。
無邪気に喜び続けているのはカメラを置いてきたぼくだけ。申し訳ないようだが、でもそんな損害には替えられない貴重な体験をしたのだからいいではないか、と他人事のように思う(他人事だ)。
メキシコに来てからずっと気分が重かったけれど、これでどうにか、この国からスッキリと離れられそうな気がしてきた。
あまりの近さにこれしか写らなかった、という桐澤さんの写真
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