+++愛の逃避行2+++
新学期、ジュールは総監に就任した。
それなりに周囲からの祝福はもらえたが、それらはただの儀礼上の事柄に過ぎず、
たいして嬉しくもなかった。
あれほど「ロスマリネの位置」を望んでいた自分が…これはなんともいえない皮肉な気分だった。
フェリィ新総監はなかなか好評だった。
前総監の影役として実務的な経験は積んでいるし、貧乏貴族で根が苦労人なだけに、
高圧的だったロスマリネとは違って「とっつきやすいイメージ」を生徒たちに与えていたからだ。
彼はそのイメージを裏切らなかった。ジュールの手にかかれば総監のお仕事など、
たわいない子供のママゴト遊びみたいなものだ。
セルジュとジルベールの駆け落ち事件の件では、オーギュスト・ボウからはいろいろ指示されていた。
彼は学院の生徒達があの二人を早々に忘れる事を望んでいた。
※駆け落ち事件について、生徒間でのあやふやな噂はしないこと。
※駆け落ち事件について、根拠のない風説を流すものは厳罰に処する。
ジュールが生徒に厳守させた掟は以上の二つだった。
さすがに事件からふた月も経つと、そんな「昔の話」に興味を示す生徒はほとんどなくなった。
一部のセルジュの支持者だけが、未練がましく消息を知りたがっているようではあるが、、、
いまさら彼らに何が出来るというのだろう?
ジュールは、まるで隠居した老人のような気分で目の前の世界を眺めていた…。
それは確かに現実でありながら、自分にはほとんど関係のない出来事の羅列に過ぎなかった…。
ほんとうに大事なものは、自分の手から飛び去ってしまったのだ。
気がつくと…ジュールは「彼」が暮らしていた部屋で、「彼」が座っていた椅子に腰掛けながら、
「彼」の幻を追っていた。
…彼が学院を支配している姿は、美しかった。それがたとえどんなに歪んだ支配だったにしても…
ジュールは総監室を愛していた。
寝室のサイドテーブルの上に「シオン・ノーレ」が置かれていた。
ロスマリネがオーギュストへの忠誠の証としたあの忌々しい香水である。
かつてのジュールは、ロスマリネ以上にその香水を憎んでいたといっても過言ではなかった。
しかし、今は違った。彼は夜毎に香水の瓶を開けて…その香りに酔っていたからだ。
その甘い香水の香りは、ベットの上に「アリオーナ」を見せた。
夜毎、ジュールはその「恋人」を抱いた…。
やがて、朝がやって来た。
くだらない子供達が騒ぎ立てる馬鹿げた空間に、彼はぽつんと立っていた。
「みんな居なくなればいいのに…」心のどこかでは彼はいつもそう考えていた。
ジュールは淡々と雑務をこなしながらなんとか生きていた。
総監の椅子に座っている理由は「愛する母のため」であった。
しかし、アリオーナの父親と愛人関係にあった母は息子のせいで恋人に気兼ねをするようになっていた。
母は本当にロスマリネ氏を愛していたのだ。
息子のバカなプライドのせいで、ロスマリネ氏の息子を貶め、
長年の恋人と息子との板ばさみとなってしまった彼女の気苦労を、ジュールは推し測る事はできなかった…。
「みんな、不幸にしてしまった…」ジュールは笑った。
「誰も、こんな事を望んでいなかった。母上もアリオーナも、自分も…」
自分に残された道は、いまや死ぬ事くらいだとしか感じられなかった。
しかし、、、彼のそんな陰鬱な状態を吹っ飛ばす事態が、突然起こった。
「見て、ここ…ロスマリネが写ってるよ!」誰かが大声を出した。
それは社交界向けの新聞だった…上流階級のお坊ちゃん達がよくまわし読みしているものだ。
ジュールはロスマリネの名を耳にして心臓が止まりそうな気持ちになった。
新聞はやがてジュールのもとに持ち込まれた。
「ほら、ここ!」
誰かが指差した先には、見覚えのある懐かしい姿が写っていた…。
ジュールは持ち主からその新聞を譲って貰った。
部屋に戻ると、ロスマリネの写真と記事のページを何時間も眺めていた。
ロスマリネが世界一周の旅に出ていることは知っていた。写真はその旅先で撮られたものだった。
記事の方は観光地の紹介に過ぎなかったが…。
モノクロのアリオーナが、幸せそうに生き生きと笑っていた。相変わらずの華やかさで、煌いていた。
カメラマンが彼を被写体に選んだ気持ちがよく分かった…。
「…僕が居なくても、君の世界はちゃんと周ってたんだ…」
何時間も自分自身を呪いながら、ジュールはただひとりで総監室に取り残されていた。
彼はうつろな穴倉である寝室へ入った。シオン・ノーレが彼を誘惑する。
しかし、今夜の「彼」はアリオーナではなかった…。
彼はベットから抜け出ると、もう一度、例の新聞を手に取ってアリオーナの写真を眺めた。
すると先は気づかなかったが、同じ記事の別の写真にはもうひとり、見知った人物が写っているのに気がついた。
「オーギュスト…!」
それはロスマリネの写真に比べると小さく地味で、しかも、背景の人物の一人として写っているだけだった。
それで見過ごしてしまっていたのである。
「なんで、アイツが…?」
この時、ジュールの胸の中で…何かが弾けた…。
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