+++愛の逃避行4+++
イエメンの古都ザビードは、9世紀にアッバース朝の提督の一人であるムハマンド・イブン・ジャードによって建国されたジャード朝の首都だった街である。
820年にマサドラ(イスラムの神学校)が作られて以来、学問分野が発達して街全体が大学のようになった場所だ。
ロスマリネはオーギュストと一緒に古い大学の構内を歩きながら、美しい装飾が施されたイスラム建築を眺めたり、同年代の学生たちの様子を眺めたりしていた。
彼らは日に5度のアッラーへの礼拝を欠かさない。日も昇らない時刻から街中にコーランの朗誦が響き、モスクに集った人々がメッカにあるカーバ神殿に向かって集団で跪拝を行うのだ。初めて跪拝を見たときには二人で面食らった。
イエメンはイギリスの植民地のひとつであり、現地人とはいえ学問の徒でもある彼らは英語にも堪能である。オーギュストは大学の蔵書室で高名な教授に古い貴重な文献や図録を見せてもらいながら、その説明にひとつひとつ耳を傾けていた。ロスマリネもその傍らで美しい写本を眺めた。
しかし、そこへすらりと長身の軍人が現れた時、蔵書室にいた学生達はいっせいに緊張した。
「すみません。Mr.コクトーでいらっしゃいますか?」
彼は流麗な英語でイギリス政府の関係者だと名乗った。上官からの手紙と書類を携えていた。
オーギュストはその書類と手紙を一読すると、書類にいくつかのサインを入れた。
そして軍人に書類を預け返すと、ロスマリネに使いを頼んだ。
「実は…この国の機関に拘束されてしまった知り合いがいてね、その身元を私が保証したんだが、これから君に私の代理として身柄を引き取りに行って欲しいんだよ」
「僕でいいんですか?」
「話はついている。君は彼に付いて行くだけでいい。用事が済んだらその知人と一緒に船に戻っておいてくれ。私も夜には戻るようにする。すまないが、私はまだ、ここで聞きたいことがあってね…」
「わかりました。お仕事を続けてください」
ものわかりのいい笑顔を見せて、ロスマリネは件の軍人と一緒に大学の建物を後にした。
拘束された知人についてはオーギュストに説明を求めなくても、同行の軍人に聞けばすむと考えていたが、ロスマリネのあては外れた。
「私は上官からの言伝をオーギュスト・コクトー様にお知らせしただけで、詳しくは存じ上げませんが、保護された方はフランスの貴族だと聞いております」
「そうですか」
軍人の答えはあやふやなものだった。フランスの貴族…オーギュストがコクトーの名を使っているところをみると商売上の取引がある人物なのかも知れない。
軍人に連れて行かれたところは現地の軍事施設のような場所だった。軍は土地の警備を兼ねている。不審者が収容されているのだろう。
ロスマリネは見事なイスラム装飾のある美しい応接室に通された。そこには品の良さそうな金髪碧眼のイギリス人の将校が待っていた。
「ようこそムッシュ・ロスマリネ。オーギュスト・コクトー様からお話はうかがっております。この度は、さぞ、ご心配をなさったことでしょう。でも大丈夫です。ロスマリネ様の御友人の方はこちらで大事に保護させていただいております」
「心配…御友人って? 自分はコクトー氏から突然の依頼で代理としてこちらへ参っただけで、実は、保護されている方のお名前すら聞いてはいないのですが」
「しかし、コクトー氏からはロスマリネ様の御学友の方だとうかがっておりますが?」
名前も知らない香具師を迎えに来て、いきなり御学友…?
「あの…とにかく保護している人物の名前を教えていただけませんか?」
「ジュール・ド・フェリィ氏です」
「え…?」
ロスマリネはジュールを連れて、早々に軍の施設を後にした。
当然の事ながら、そこには再会して嬉しいとか、懐かしいとかいう感情はなかった。
「なんでこんなところにいるんだ?」
ジュールは持ち物の中から例の記事を取り出して見せた。
「なんだよ、こんなものを見て…いちいち僕を追っかけてくるのか?」
「君の写真も面白いんだけど、問題はそこじゃない、ここだ…」
それは数人の人物が写っている小さな写真だった。
「オーギュスト…?」
ロスマリネは写真を見てびっくりした。
「こんな画像で、あいつだとよくわかったな…」
ジュールは苦笑いして喋り始めた。
「気がついたら学校を飛び出してた…」
「はぁ?」
「とりあえずマルセイユ港からフランスを出た。父の知り合いに頼んで地中海をイスタンブール、次は陸路でクウェート、そこからまた海路でマスカットに行けば、君たちに追いつくと思ったんだ」
「…」
「だけど、イスタンブールについたとたん、妙な連中に捕まって、ここに連れて来られたんだ。最初はわけがわからなくて、人身売買かと思ったが、犯罪に巻き込まれたにしては、待遇が良かった。途中でコクトー商会の名前が出たりして、オーギュストが絡んでいることにはうっすら気がついたけど…」
「確かに、僕はオーギュストの使いで君を引き取りに来たけれど、彼は僕の前では君の事をおくびにも出さなかったが…」
「君も知らなかったのか? 彼らしいな」
「だね…」
ジュールの動向を黙認して、ここまで連れてきたオーギュストもオーギュストだが、それ以上にロスマリネはジュールにも呆れていた。船に戻る道すがら、矢継ぎ早にジュールに詰問し始めた。
「君が学校をやめたら、彼の援助も打ち切られると思うんだが、母親はどうするつもりだ?」
「君には悪いけど、君の父上が何とかしてくれるさ…二人はもとのさやに収って、幸せってことだ」
「…」
ロスマリネにも父とジュールの母の事はわかっていた。ジュールには彼のプライドがあったのだろうが、母親の方は貴族としてのプライドを捨ててでも、恋人と恋人であり続ける道を選んでしまっていた。
「あの二人はそれでいいとしても、君はどうする? 進学、就職、家の再建…将来的には結婚もあるだろし、オーギュスト無しでは前途多難だろう」
「自分でなんとかするさ…と、言いたいところだが、結局オーギュスト以外のパトロンを探せばいいだけだ」
「簡単にパトロンって言うけど、半年前まで僕にこき使われていた事をもう忘れたのか?」
「その分、要領が良くなったから」
「それはどうかなぁ…船に戻ったら君はまたオーギュストや僕の厄介にならなきゃならない」
ロスマリネが意地悪く笑って見せた。ジュールもそれは覚悟していた。
「わかってる。それより…」
「何?」
「君はなんでオーギュストと一緒にいられるんだ?」
「…話せば長くなるし…うまく言えない」
「ジルベールの件は忘れたのか?」
「結局、彼はセルジュと逃げ出して幸せなのだから、今更オーギュストを恨むべきじゃないんだよ」
「寝る相手が変わっただけだと…? 結果的にはそうなのかも知れないが、オーギュストが危険であることは君にもわかってるはずだ…」
「こんなところでそういう話は止めてくれ…今の僕は、君が考えてる以上にオーギュストとは上手くやってる」
「…」
「人は変わるものだ」
ロスマリネはジュールに向かって幸せそうな笑顔を作って見せた。
オーギュストを怖れて僕に助けを求めた…あの頃の君のままでいて欲しかった。
変えたのは…オーギュスト
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