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信仰論考

【キリスト教でなければいけないのか】  

多神教社会の中でのキリスト教

2008年4月15日
北川一明




 明治学院の牧師になって、教会外のフツーの人たちと接する機会が増えました。その結果、教会でのこれまでのやり方、考え方では、クリスチャンは独りよがりで傲慢で勘違いしたヒトだと思われていたに違いないことに気付かされ赤面しています。
 明治学院はキリスト教主義学校として「キリスト教による人格教育」をうたっています。そこでキリスト教をもっと伝えるべきだ、伝えたいと、多くの教職員が願っています。
 しかし教会のこれまでのやり方に慣れているいわゆる「シンコー深い」クリスチャン教職員と、大多数の教職員の「もっとキリスト教を」は、同じ「もっと」でも中身が全然違います。
 シンコー深い人たちは、「キリスト教でなければ駄目だ」と言うのです。するとクリスチャンでない教職員たちは、「もっとキリスト教を」と言わなくなり、そっぽを向き始めます。


 そんなシンコー深い人たちの熱心に少々閉口していた時、未信者で福沢諭吉系のガッコーで学んだかたから、次のような主旨のメールをいただきました。曰く;
 ……どうして白か黒かを明確に求めるのでしょうか。……
 ……キリストを知らずに一生を終えた人、
   他の宗教に幸せを感じている人達等に対し、
   何を求めるのでしょうか。……


以下は、その返答です


ひとがキリスト教を信じるのは
クリスチャンがキリスト教の良さを宣伝、主張した時ではないでしょう
キリスト教など何か特定の宗教とは関係なく
人間を縛っている諸々の苦しみから解放される生き方を
誰かが伝えて
それが本当に相手を解放し救うもので
それを伝えたひとがクリスチャンで
その伝えられた生き方がキリスト教の生き方だった時に
相手はキリスト教を信じるようになるのでしょう

そういう意味では
(つまり信仰者としての自分の生き方ということでは)
他の宗教と比較してキリスト教が良いとか悪いとかは
主張する気はありませんし
「信じなさい」と強要する気もありません
(強要された信じるヒトもいないけど……)

ただ
キリスト教神学としてなら
なぜひとを苦しみから救う生き方ができるのか
ということについて
「キリスト教の良さ」を常に考えています
より自覚的に苦しみから解放された生き方が出来るように
またひとにそれを伝えることが出来るように
と思ってです

そして神学的に言えば
ひとを縛っている究極の苦しみは
罪と死の苦しみであり
キリストはそこからの解放を実現したと信じるのが
キリスト教信仰です

そうすると結果的に
私自身の信仰としては
他宗教ではなくキリスト教であると言わざるを得ませんし
キリスト教は素晴らしい!!
と言わないではいられません

だからと言って
他宗教はダメだとかドーシヨーも無いなどとは
別に言おうとは思いません

他宗教を批判するのはどういう場合かと言えば
何を信じているかではなく
カルトなどの反社会性についてです
または
神学論争で論理的におかしいと思う時です

同じキリスト教でも
プロテスタントで長老主義の私は
カトリック信者のかたたちの信仰を尊重し
カトリック信仰は素晴らしいとさえ思っていますが
神学の面では
ローマ教皇は無謬だということについては断固反対して
カトリックは絶対にダメだと考えていますし
そう主張します

絶対にダメだというのは
「その部分が神学的には絶対にダメだ(と私は信じている)」という意味であって
カトリックのかたに対して
「あんだはダメだ」と言っているのではありません

それと、上で
> 「信じなさい」と強要する気もありません
と書きましたが
愛する大切なヒトに対しては
人間を縛っている苦しみから解放された
仕合わせな生き方をしてほしいという思いから
「信じてほしい」とは願います

相手が自分より仕合わせそうだったら
そんなこと願えません






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