kata ton kalesanta uma" agion kai autoi agioi en pash anastrofh genhqhte,
dioti gegraptai agioi esesqe oti egw agio".











説教論【隠喩論(断片2)】
説教における例話に関する一考察
〜礼拝説教とは例話である(ただし例話がすべて説教なのではない)〜
2005年5月20日
北川一明
T.礼拝説教とは例話である
A.
もう二年も前のことになりますが、ある説教勉強会のインターネット討論で、説教における「例話」が話題になったことがあります。その時、「例話」と言っても修辞学上いろいろな整理の仕方があることを知りました。
例話は《メタファ/イラストレーション》に二分することもできますし、《アナロジー(○○は、○○のようなもの)/インスタンス(たとえば……)/メタファ》の三分類もありました。
「礼拝説教は、そもそも高尚なものであるから、低俗な例話などは説教に用いるべきでない」という考え方に反発を感じていた私は、2年前当時、「同じ例話でもメタファなら高尚だから良いだろう」と思っていました。
B.
今は、まず「(自分のやる)説教は高尚なものである」という考え方が、そもそも傲慢だと思います。
説教は、「神の言葉」として聞くべきものですから、「神の言葉」を「高尚」と呼ぶならば、高尚です。でもそれは説教を作る側が言うことじゃぁありません。
どんなに低俗に見える卑近な例話だって、どんなに高尚に見える難しい理屈だって、どちらも作る時には「自分の言葉」で作るのですから「土の器」に過ぎません。それを聞く時には、卑近な例話であろうが小難しい屁理屈であろうが、どちらであっても尊いものとして聞くべきです。
そうは言っても「作る側」は「いかに神の栄光を汚すこと少なく作るか」に配慮すべきです。ですから自分のやっている「例話作業」や「難しい理屈作業」について、無自覚で良いものでもありません。例話というものを、説教論の一部として整理できるものならば、整理した方が良いでしょう。ここで、それを試みました。
C.
もう一つ、二年前は《メタファ/イラストレーション》二分類であれ、《アナロジー/インスタンス/メタファ》三分類であれ、とにかくメタファが大切である気がしていました。
「神」という人間理性を超えた存在を語るには、理性の言葉だけでは語り切れません。どうしても宗教の言葉にはメタファが必要になります。それに比べてメタファ以外の他の比喩は、人間の言葉で語り得ることを他の言葉に言い換えたに過ぎないからです。
説教が「神の言葉」であるのならば、理性的に意図する以上の何事かが伝達されているはずです(その逆は必ずしも真ではありませんが)。
「メタファ」は、そもそも言葉では伝達できない何事かをメタファで伝達しようと、最初から発話者によって意図されています。ところが「イラストレーション」「アナロジー」「インスタンス」は、発話者が「オレが分かってることを、お前らにも教えてやろう」という意図で語られることが多いです。
そのために、メタファは神を伝える素晴らしい道具であるけれども、他の比喩は人間の工夫に過ぎない……と、宗教界ではメタファ以外は評価されなかったのでしょうか。私も同様に考えていました。
D.
しかし私は過去のこうした短絡を、今は少々恥じております。
上で考えた通り、説教とは説教者が理性的に意図した以上の何事かが伝わらなければ、説教ではないと思います。メタファは、発話者の意図を超えて豊かなイメージを伝えるのに有効な方法です。
それでも、「メタファ」が本当にメタファとして機能するのは、発話者が理性的に意図する以上の何物かが伝わった時です。発話者が理性的に意図し得る範囲のことならば、それは人間理性を超えた神を語ってはいません。発話者のアイデアの範囲のことを語っているのですから、それがどんなに「高尚」であっても、ただの人間の言葉です。
しかし理性的に意図する以上の何事かが伝達されるのは、「イラストレーション」であれ「アナロジー」であれ「インスタンス」であれ、「メタファ」と同じだと気付いたのです。
E.
発話者の意図がどうであれ、比喩は、いかなる比喩であっても必ず発話者が意図した以外のことまでが伝わっています。
「イラストレーション」でも、他の「イラストレート」の仕方があるにもかかわらず、その話しの中で一個の「イラストレート」を選んでしまったことで、聴衆は説教者が意図する以外の何事かをイメージします。
同じことが「アナロジー」「インスタンス」にも言えます。
比喩が「高尚」かそうでないかは、選んだ比喩が修辞学上いかなる分類に属するかに寄るのではありません。選んだ比喩が発話者の意図を超えていかに多くの、しかし発話者の意図と無関係ではない適切なイメージを紡ぎ出すか……ということで、比喩が「高尚」か「低俗」かが判定されるべきです。
F.
さらに説教が「神の言葉」かそうでないかは、「高尚」かどうかとも関係がありません。
説教が神の言葉であるかどうかは、説教者の意図を超えて福音が聴衆のこころに受肉しているかに寄って、説教のつもりで語っているものが本当に説教かどうかが決まるのでしょう。
それでも説教者の意図と、その意図による比喩は大切です。
説教が「神の言葉」になるためには、発話者の意図を超えていなくてはなりません。しかし発話者の意図を超えて伝えられる「神」が、発話者の意図と全く関係が無いのであれば、世に説教者は不要です。神はいかなることを通してでもご自身を証しすることはあるとしても、説教者の説教を用いることを望んでおられる面があると信じるから、アタシ等は説教をしているのです。
説教者が意図することが福音的に正しくて、その意図を超えてはいるけれども、その意図と深く関係する適切なイメージが伝達された時、それは「良い説教」なのだと思います。
G.
発話者の意図を超えながら、発話者の意図とは関係のある適切なイメージを聴衆の心に受肉させることを、説教者は意図しなければいけません。そこで説教では、前に言った意味での「高尚な」比喩が語られなければならないのです。
したがって、説教には例話がなくてはなりません。
例話のない説教などというものは存在しません。神が語られているのならば、説教者が理性の言葉で伝達し得る以上のことが語られているからです。
それでも、同じように「福音を伝達したい」と願って語っても、例話が説教になる場合と
U.例話がすべて説教になるワケではない
もっとも、例話を語れば説教になるワケではありません。そのことを、うちの奥さんが超尊敬する韓國の牧師さんの説教を聞いた時に痛感しました。
A.
「韓國の牧師の説教が、日本の牧師の説教よりもずっと良いから韓國ではキリスト教が盛んなのか」と思ってこちらに来ました。
私の今の暫定的な結論は、韓國では「説教自体が良いのではなく、説教が聞かれるべき聞かれかたで聞かれる環境が整っている」ということです。
(もちろん説教勉強会で聞かれるような聞かれ方ではありません。ですから、神学校での授業の中で聞かれるような説教の聞かれ方は、聴衆がいかに注意深くあろうとも、またいかに福音理解の適切さに関心があろうとも、礼拝説教としての聴き方であるはずがありません。)
韓國では、説教が正しく聞かれる場合が多いと思っています。その結果、能力としてはアタシだって負けていないのに、韓國の説教者はずっと良い説教をしている……などということが起こり得るのです。
説教が聞かれるべき聞かれかたで正しく聞かれていたら、そうでない環境にいるよりも、ずっと説教者が正しく訓練されるからです。(もっとも、逆に説教者が腐敗堕落する可能性もありますが……。)
B.
上のことは別の機会にもう少し韓國の説教を聞いた後で述べます。ここでは、うちの奥さんが尊敬する牧師の具体事例を紹介します。
1.事例1
つい十数年前まで、栄養の良いもの、味の良いものをもとめいた。今は「健康のため」と言って金持ちほどわざわざ昔の質素なものを求めてそれを喜ぶ。むかし、破けている服を着ていることは恥で、いかに綺麗なものを着るかを考えていた。今の若者は、わざわざジーパンを破ってはく。
かつて命をかけて追い求めるべきと思っていた生活が、命をかけるべきものではなかったことに気付かされる。
2.事例2
こころにキリストが居ないまま善いことをしようとしても、本当に善いものにはならない。それは教会の中でも同じである。適切な例ではないかもしれないが、キリストの内在は、自動車にたとえればエンジン・オイルのようなものである。ガソリンが十分であってもエンジン・オイルが劣化していれば車は故障する。
C.
説教の中でではなく例話の要約を載せても良く分からないでしょうから、詳しいことは書きません。
事例1は「インスタンス」、事例2は「アナロジー」で、どちらも「メタファ」ではありません。聞いた時の印象は、事例1が多くのことを考えさせられたのに比べ、事例2は説教を台無しにしているように感じられました。
その理由を; 初めは事例2が「説教者が聴衆に偉そうに教示しようとしているからだ」と思っていました。それに比べて事例1は説教者が聴衆と同じ場所で考えています。
しかし今は、「説教者の立ち位置」は原因ではなく結果であるような気がします。
事例1でアタマの中に豊かなイメージが湧き出たのは、「かつて命をかけて追い求めるべきと思っていた生活が、命をかけるべきものではなかったことに気付かされる」という部分からです。ジーパンの話しや粗食の話しなどは「卑近」で「低俗」で代替可能な生活例に過ぎません。
それでもジーパンや粗食の話しが「命をかけて追い求める」というテーマを具体的かつリヤルなものにすることを支えています。
D.
説教者が例話を持ち出したことには、説教者なりの意図があります。その意図は事例1でも事例2でも実現しています。事例2は否定的なイメージ(キリストなしの善行)を伝えるために「キリスト」という「みだりに唱えてはならない名前」を「エンジン・オイル」に喩えてしまっています。それがいけないことだとも思いますが、それも原因ではなく結果である気がします。
最初に挙げた説教勉強会を指導している神学者は、説教中の「例話」を「例証」とよぶことがあるそうですが、事例1は「例証」になっているけれども事例2は、(この説教の場合には)「例証」にはなっていなかったように思います。それは具体事例が悪かったからではありません。説教者がそもそも「例証」を意図していないように思えるのです。
繰り返し述べている通り、比喩は発話者の意図の範囲に留まる場合は良い比喩ではあり得ません。しかし、例証は(意図して出来ることではないにしても)、説教者の意図といつも深く関わっているように思うのです。
この「意図」がわれわれ説教者の存在意義であるとともに、説教者を高慢な教祖にしてしまう最大の罪にもなり得るものでもあると思います。
簡単に整理することの出来ない「説教とは何か」という大きな問題と関連しますので、今はこれ以上詳述できません。今回のレポートはここまでとします。













