2005年6月7日
北川一明
ウソのようなとんでもない話しですが; 韓国語を「アヤ/オヨ/オヨ/ウイ」から教わって2ヶ月目で、礼拝説教をしました。(単語は辞書で調べましたが、文法などは2ヶ月教わった範囲のものしか使っていないところがエライと自画自賛せざるを得ません。)
そんなヒトに説教をさせるとんでもない教会があるワケではありません。親戚3家族の前で早天礼拝をした時の説教です。
さすがにペンテコステの時の使徒たち(使徒2:1-8)のようにはいきませんでしたが、それでも語られていたことは、一応キリスト教だったようです。
福音を伝えるのに語彙/文法/レトリックなどがどこまでどれだけ必要かについて色々考えさせられましたが、それはとっておきの別の機会に公開します(6月中旬以降)。
下は翻訳です。外國人がしたたどたどしい言葉遣いを表現するため、なるべく直訳にしました。原文は >>> こちら
【翻訳】;
聖書;
ヨハネ第一書 第1章8〜10節
説教;
韓國語での最初の説教は、嬉しいです。神さまとみなさんに感謝いたします。
今日は、きれいにされる喜びと罪を告白する喜びについてお話しいたします。
前の教会に、こんなおばあさんがいました。教会のために一生懸命働き、献金しました。その後に働くことができず、献金も たくさんはすることができなくなりました。
しかし以前にはたくさんしたので、教会の中では尊敬を受けることと考えました。
そのようなひとを、私たちは皆、好きではありません。
そのかたが「私は以前にたくさん働きました」と言う度に、教会の人々はみな嫌いました。
そのかたは教会員の前で「私は傲慢な罪人です」と告白しましたが、私たちは皆、それは偽善だと考えました。そのかたは嘘を言っていたのではなく、知っているキリスト教教理を言いました。自分が罪人であるという教理だけは知っていて、自分の本当の罪を知りませんでした。
それでも神さまはそんなひとを愛するようです。そのかたは、聖書を毎日読みました。
ある日、福音書を読んで、自分の罪のためにイエスさまが亡くなられたことが分かりました。突然分かりました。それは、よく知っている教理でしたが、その日、そのかたのこころで分かりました。
その日から、そのかたは変わりました。
神さまがこんな罪人を愛してくださると、そのかたは感謝し、教会員にもこんな私のために助けてくださるとありがたがりました。
こんなことから、私たち教会員たちも変わりました。そのかたを愛することが出来ました。
それでそのかたは仕合わせになりました。
けれども;
いつがいちばん仕合わせだったでしょうか?
自分の罪が分かった時でした。自分の罪が分かったために、その罪を告白して神さまに感謝した時でした。私たち、人々は自分の罪を告白した時に一番仕合わせです。
イエスさまは、このかたと共に私たちも愛して、このような礼拝に導いてくださいました。
この神の愛で、毎日罪の告白と感謝へ導かれたいと願います。
祈祷;
天にいらっしゃいます私たちの父、神さま、感謝を捧げます。
神さまはこの日を準備してくださり、この礼拝を捧げることが出来ました。
私たちを罪の告白と感謝へと導いてくださることを信じます。
変わることなく愛してください。
イエスさまのお名前によって祈祷をお捧げいたします。アーメン
報告#3おわり