2005年11月15日
北川一明
俗に「韓國ヘ會の讚美(礼拝中で歌う讚美歌など)は素晴らしい」と言われます。今回はその情報がどの程度真實を傳えているかということを報告して、上のような俗説を生んでしまったわれわれ日本のヘ會の改善可能な點について考えます。
【『素晴らしさ』の實態】
T.『素晴らしさ』の實態
私の知る(主に日本キリスト教団の)ヘ會と韓國ヘ會の礼拝を比較すると、讚美の声は韓國の方が確かに大きいようです。多くのヘ會で礼拝出席者數が多いことを考えれば、声量が大きいのは当然です。人數の少ないヘ會は、讚美の「音量」も当然小さくなります。
人數の多いヘ會では、一人一人は結構いい加減に手を抜いている場合もあるようです。礼拝出席者1人当たりの声量を比べると(もちろん機械で音量を計測したわけではなく、大雑把な感覚ですが)、日本の平均的な教会よりも韓國ヘ會の方が、確かに多少は大きいようです。もっとも、普段しゃべる声の大きさも、韓國の人たちの方が大きいと感じるのは私だけでしょうか。
声の大きなヒトが歌えば歌声は大きいわけで、『讚美』としては、日本の神學校での礼拝で聞くに勝るヘ會はほとんどないように感じています。
では、「韓國の讚美は素晴らしい」という俗説が生まれたのは何故でしょうか。
T−A.
まず、音樂で雰圍氣を盛り上げることを演出しているヘ會があります。
音樂で盛り上げることをヘ勢拡大(ヘ會に來る人數を増やすこと)や信徒確保の中心的な方法にし(ているように見え)、それがある程度成功しているヘ會では、歌で非常に盛り上がります。盛り上げるように演出しているのですから当然です。礼拝會衆の多くが身を乗り出して一生懸命歌っています。
けれども、そうしたヘ會は多くはありません。
韓國に來る前は、韓國のヘ會のほとんどがそうなのだろうと漠然と考えていましたが、誤解でした。韓國のヘ會の多くは、私の知る日本(、特に日本キリスト教団)のヘ會と同様に「説ヘが重要だ」と公言しています。(もっとも日韓両國とも主張と實態の間には大きな開きがあるかもしれません。その「開き」具合は、日本と韓國では多少違うようですが、それについては今回のテーマから外れますので報告しません。)
T−B.
普通の(「説ヘが大切だ」と主張している)ヘ會の礼拝では、讚美歌を歌いながら自己陶酔し、からだを揺すっている人たちがあります。日本ではあまり見ませんでした。そうした礼拝會衆の多いヘ會では、會衆一人当たりの声量も当然大きくなります。
ただ、からだを揺すっている人たちは、なぜか中高年の女性がほとんどです。礼拝會衆全體が盛り上がっているわけではありません。
T−C.
韓國の礼拝は『讚美』が素晴らしいと言うよりも、『音樂』が充實していると思わされます。何よりも、多くのヘ會が聖歌隊に力を入れています。
聖歌隊には若い人の多くが借り出されています。「ピアノは礼拝堂にそぐわない」という神學的根拠のない偏見を、私はなかなか捨てることができずに持っていますが、こちらの伴奏はピアノどころではありません。かなり小さなヘ會でもバイオリンがついています。少し大きなヘ會になると、それにチェロとフルートが加わります。(若い人向けにエレキギターとドラムセットを置いてあるところはありますが、基本的には柔らかい音の弦樂器が中心です。フルート以外の管樂器は、音樂で盛り上げようと演出しているヘ會以外ではまだ見たことがありません。)
さて、バイオリンを加えた伴奏陣をバックに聖歌隊が歌うとなると、日曜日の礼拝前に簡單に練習しただけでは足りません。それにもかかわらず、演奏はある程度の水準を保っています。ですから平日にも何回か練習のためにヘ會に集まっているはずだと思うと、そのことには頭が下がる思いがします。
【何をもって「素晴らしい」とするか(その1)】
U.何をもって「素晴らしい」とするか(その1)
音樂で盛り上げるように『演出』すること(T−A)には、かなりの抵抗を感じます。
この世の知恵に長けた人たちが他人を盛り上げてヒト集め、カネ集めをするのでは、惡い新興宗ヘと一緒だからです。また演出意圖が露骨であれば、われわれは逆に「騙されないゾ」と警戒する氣持ちになって、こころから礼拝を捧げることができなくなります。
「音樂で盛り上がる」ということにはそうした惡いい面があります。
ただ、説ヘを聞いても祈りを捧げても、神の福音に接したときには心が昂揚するのも、また当然です。他人を意圖的に盛り上げようとするのは問題ですが、自分が感動し昂揚しようとすることは、宗ヘ行為としては当然なのかもしれません。
自己陶酔してからだを揺すっているヒト(T−B)を見ると、「あらあら、盛り上がっちゃって」と周圍は少し興ざめです。でも、こころがたかくあげられる礼拝だから讚美も盛り上がるのだとすれば、「素晴らしい」と考えて良いのかもしれません。
【何をもって「素晴らしい」とするか(その2)】
V.何をもって「素晴らしい」とするか(その2)
充實したオーケストラと合唱團のようなヘ會音樂(T−C)に對する評価は、どうあるべきでしょうか。
洗礼を受ける10年ほど前の話ですが、勉強の良くできるある學生が、「D.ボンフェッファという學者は、讚美歌は合唱しちゃいけないって言ってるんだってサ」とヘえてくれました。合唱が綺麗に調和した時に氣持ちよくなりますが、その氣持ちよくなるのが危険だからだそうです。
それを聞いたワレワレ当時の惡ガキどもは、「なるほど〜、もっともだ」と感心しました。
藝術をやっているつもりの拗ね者の集團だったので、逆説的な話には何にでも魅力を感じたということもあります。しかしそれ以上に、そもそも藝術で自己表現をするということが、恐ろしい自我欲求と關係していることを普段から痛感していたからです。
確かに、礼拝では「精確に音をとることなどにうつつを抜かしていないで、ただただ神に心を向けるべきだ」という側面はあるでしょう。でも、感謝の應答として最高の献げ物を捧げるという観點に立てば、一生懸命練習し、最高の音樂に仕上げようと努力するのもまた当然かもしれません。
お祈りだって、きちんと言葉を整えるように準備することは良いことでしょうが、ヒトにどう聞かれるかを氣にするようでは、どんなに美辞麗句が並んだ祈りでも祈りとして問題があるでしょう。讚美は、問題の本質は、そうした祈祷の問題と同じだと思いました。
ただし音樂は、祈祷よりも多少初心者に誘惑が多いという危険はあるかと思います。信仰に入って間もないひとでも、綺麗な言葉で祈ることで得意がるヒトは少ないでしょう。けれども上手に音樂を演奏したことで、他人に對して誇ってしまうことは、ありがちです。
ただ、オーケストラの問題がそういうことならば、オーケストラがあることについて、外からアレは良い/コレはいけないと批判することは難しいはずです。ヘ會の信仰成長の歩みの中で個別に評価されるべきだからです。
他方、「礼拝中の讚美を會衆全員がしないのはおかしい」という考え方もあります。けれども、それも《聖歌隊が礼拝會衆と一體になりつつ會衆を代表している》のならば是、《會衆から遊離したパフォーマンス集團》になっているのならば非であり、現實は常にその両者の中間なのでしょう。
オーケストラのようなヘ會音樂に、最初、大いに違和感を持ちました。けれども上のような理由から、侮り難いと思いました。
【韓國の讚美は素晴らしい】
V.韓國の讚美は素晴らしい
そこまで考えますと、韓國ヘ會の讚美は、やはり「素晴らしい」場合が多い……というのが、私の結論です。
日本キリスト教団の『讚美歌』は、スリーコード進行で明治の學校唱歌程度の音樂的完成度のものがほとんどです。それにいくつかルネサンス前後のメロディーが加わっているだけです。『讚美歌21』は良く知りませんが、『讚美歌』から小學校唱歌を減らして、その分を30年前フォークソングと30年前の「現代」唱歌で補填したように感じられます。補填された曲の中には、小學校唱歌よりも完成度の低いものもあるかもしれません。
韓國のヘ會音樂も、基本的には西洋音樂です。でも、そもそもキリストヘ人口が多い分、一流の音樂家が讚美歌を新しく作り続けているようです。そこで、演奏にも歌唱にも相当高度な技術を要求される音樂性の高い曲がたくさんあります。そうした高度な曲を、信徒さんたちが何とかそれなりに仕上げているのです。
ヘ會が大きい分人材も豊富で、專門の音樂家もいるでしょうが、それでも全體の中では少數です。專門家が指導しリードするとしても、その他大勢の普通の信徒がみんなで演奏し、歌います。相当程度練習しても、常にギリギリなんとか礼拝までに仕上げることが出來たという場合が多いようです。それを毎週やっているのです。
ですから、「ヒトに對して得意になる」余裕はありません。信徒たちが、主日(日曜)礼拝のために平素から必死で準備して、日曜日に精一杯讚美を捧げているのです。
いかがでしょうか。それなら本当に「素晴らしい」でしょう。
韓國ヘ會の讚美は、「盛り上がっているから」素晴らしいのではありません。「声が大きいから」でも、「色々な樂器で樂しく演奏しているから」でもありません。多くの信徒が礼拝に神に良き礼拝を捧げるために週日から精一杯の準備をしているという點で、「素晴らしい」と言うべきかと思います。
ですから日本も真似をして盛り上げるように演出すれば良いのでもないし、色々な樂器を取り入れれば良いのでもありません。音樂に限らず、信徒が平日から日曜日の礼拝に向けて、喜びをもって、かつ必死で準備する點を、まず真似るべきでしょう。
日本のヘ會の信徒さんたちは、平日は忙しいのでなかなかそこまでやるのは難しいでしょう。けれども、現代にあっては韓國人だって毎日忙しいです。韓國ヘ會ではどうしてそれ(日曜日の礼拝に向けて、平素から喜びをもって、かつ必死で準備すること)が出來るようになったのかは、韓國で確かめたいと思っている中心課題です。韓國報告の一番最後の方で発表することが出來れば嬉しいと思っています。
おわり