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邦楽教育を考える

昔の書斎.jpg (27737 バイト)

これは明治時代後半の、事務机を再現したものですが、この時代にタイムスリップした積もりで、これから先の文章をお読みいただければ幸いです。(愛知県 南知多町立篠島小学校 資料室にて撮影)

ICO_308.GIF (156 バイト) 明治維新と音楽教育  時は江戸から明治へと移り、古いものは全て捨て去り、西欧から新しい文化を吸収し、早く先進国に追いつきたい、こんな時代の風潮の中、音楽教育も例外ではなかったようです。

 外国から教師を招聘したり、海外留学をさせて新しい学問を学ばせたりと、実にいろいろな試みがあったことは、教科書で学んだとおりです。音楽なる授業はなかったものの、「唱歌」という名前で、歌唱指導の時間があったのですが、じつは、これも定着までには、さまざまな試行錯誤があったようです。

 当時を考えてみるに、恐らく巷で歌われていた「童歌」はもとより、長唄、端唄と言った大人の唄はとても子供達には教えられません。そこで、外国特にスコットランドの曲に、日本語の歌詞を当てた、いわば和洋折衷の唄が、今でも私達に受け継がれてきています。(蛍の光、埴生の宿、故郷のそらetc)

 ところが、その頃に日本人の手による、純国産唱歌が試みられたのです。作詞を文学の先生たち、作曲を当時の洋楽に慣れ親しんだ諸先生。右下が、その教科書(明治35年 文部省検定済み 唱歌教科書巻T)の表紙です。中に収められているのは、20曲ですが、残念ながらいくら音楽好きのカズボウでも、知らない曲ばかりです。

教科書.jpg (14640 バイト)

 さて、こんなに苦労して作られた「和製唱歌」が、かくも簡単に忘れられてしまい、却って外国のメロディに即席の歌詞をあてがった歌のほうが、後々まで親しまれたのか。

 いろんな理由が挙げられるでしょうが、今まで馴染んだ日本のメロディを切り捨て、俄作りで学んだ洋楽の専門家(?)に、曲を作らせたことが、一つの原因ではないかと思います。どんな曲であれ、なにか唄う人の心を打つものがあれば、子から孫へと確実に歌い継がれてゆくものです。

 こうした、官製の御仕着せの唄よりも、海外からの音楽に面白い歌詞をつけた替え歌のほうが、何世代も生き残っています。例えば、「♪ たんたん たぬきの xxxxは、風もないのにブーラブラ」、これは恐れ多くも(?)、讃美歌が元唄です。

 要は、外国の形式ばかりに目を奪われていた、当時の音楽教育が、少しばかりお粗末であったことを物語るものだと言えます。

Cut_114.gif (5568 バイト)この和洋折衷の音楽に、日本古来のメロディを上手に取り入れた音楽家、代表的な所では滝廉太郎が挙げられます。日本語の持つ美しい韻が自然なメロディとなって、私達の前に提供されたのです。「荒城の月」の作曲に当たっては、自ら尺八を演奏していたのでは、と言う逸話も残っているようです。

 もう一つ、考えられることは、為政者によって歴史の事実が曲げられてしまうことと、よく似ていますが、日本が軍国主義の道をひたひた歩いて居た頃、この国策のために数多くの歌が作られてきました。そして、これらが教育の場に持ち込まれ、分別のつかない子供達に教えこまれていたこと。

 天皇制を中心とした明治時代ですから、勢いその傾向は顕著でした。処が、これらの歌は、第二次世界大戦を境に、一挙に価値観が変わってしまったことで、歌としての命が無くなってしまいました。とにかく、子供の時に、無条件で覚えて、その中には素晴らしい、思い出に残る曲があったとしても、周囲の状況を考えると、歌いたくても歌えない。

 そんな時代の流れに、強制的に命を絶たれた歌、それでも今になれば、不自然な時代のあったことも笑い話になって、懐かしさと一緒によみがえる。でも、少しばかり時間が遅すぎた。もし、自分の子供たちに自由に歌い聴かせて上げられれば、まだまだ生き残ったはずの歌もあっただろうに、、、、

 ともかく、邦楽教育を考えるに当たっては、唱歌や軍歌も、一つのエポックとして大切に考えなければならないと感じています。自分たちの父や母が子供のときに口ずさんだ歌、故あって自分たちには伝えられなかった、そして時代に波間に無残に埋もれてしまう歌。

 少しばかり、話しが横道にそれますが、明治維新以来の教育の現場で用いられてきた歌の数々を、この際少しずつ調べて、まとめておきたいと思います。

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ICO_309.GIF (125 バイト) 邦楽側の問題 それでは、当時の音楽教育に何故邦楽は無視されたのでしょうか? 洋楽崇拝もさることながら、邦楽自体に問題がなかったのでしょうか。これには、音楽と芸と言う難しい問題が絡んできます。単に音楽を、文字通り音を楽しむものと言う考えでなしに、苦労して稽古して身につけるとしての考え方が根強くあったためでしょう。

 日本の伝統芸能を支えてきたのは、社中あるいは流派、会派といった、いわば世襲制によって維持されてきた団体でした。当然、その音楽理論なり、音譜などは門外に出すことは出来ず、きわめて閉鎖的、封建的なことは勿論、同じ楽器を扱う団体同士ですら、交流は考えられなかったようです。

 西洋から輸入された、音楽理論はオープンなものとして、誰かれなく共通の土台となりました。5線譜の知識を元に、どんな楽器にもチャレンジすることが出来ますし、本によって独学することも可能となったわけです。ところが、邦楽では社中に所属し、教育自体も、洋学のように万人に向けての教育方法の研究などなされておらず、口伝、秘伝、奥伝なるものにはばまれ、かなり敷居の高いものだったと思われます。

 例えば、記譜にしても、それこそ暗号みたいなものから、お経のようなものまで、千差万別で5線譜のように共通のものは、皆無でした。大正年間に入ってから、ようやく洋学の知識を取り入れて、三味線の記譜をタブ譜として表記する「文化譜」が、4世杵家彌七さんの努力で開発されました。

 三味線以外の楽器では、このような新しい試みは少なかったようで、今でも縦書きの数字譜が数多く出まわっています。

長唄楽譜.bmp (121106 バイト)

 現在でも使われている、彌之助譜(越後獅子)と、吉住小十郎著「長唄新稽古本}(松の緑)の一部です。

 5線譜を見なれた今の私達の目からすると、音譜と言われてもピン来ないかもしれません。

 それでも、このように一つの会派で、一定の理論の元に、共通の形式でいろいろな曲が表記されたのは、すごい進歩であると考えられます。

 他の楽器では、師匠から直接解説されなければ、本だけでは絶対解読不明なものもありますから、、、

 数字で音階を表す方法は、先ほどの唱歌の教科書でも取り入れられています。音の長さも、4分音譜が無表示、8分音譜が下線一本、16分音譜が下線2本と、これは日本独特かもしれません。

 次ぎに参考までに、現在三味線の音譜として広く使われている文化譜(3線譜)を、紹介します。

 楽器の演奏の楽譜は、実際にどのような指使いでどんな音程の音を出すか、つまり旋律そのものより、指がどんな運動をするか表す、タブ譜の方が判りやすいと言えます。それは、楽器を使って作曲したものは、必ず最適な指の運動があるからで、奏楽者はいわば、この音譜によって作曲者がどのような手の動きをしいたのかを知る唯一の情報源だからです。越後獅子.bmp (23638 バイト)

 三味線は、見ての通りギターのようなフレットがありませんから、左指の押さえる場所(ツボあるいは勘所)は演奏者の技術です。そして、人差し指がツボを探り当てる重要な役割をしますが、この人差し指の位置が決まれば、他の指は条件反射的に必要な音程分だけ開いて、次ぎの音に移動できます。

 ご覧頂いている3線譜は、下から太い弦、真中の弦、細い弦の順で、線上の数字は、押さえるポジションつまりツボの位置を表します。

 この項では、演奏についてはこれ以上深入りしませんが、このような記譜はその会派の特徴を表すものとして、脈々と続いています。現在でも、このような考えの元に、新しい流派を興す人が、またぞろ新しい記譜を考案して、その門下生に強要(?)しています。

 演奏する音も、指使いも全く同じなのに、何故記譜にばかりこだわるのでしょうか? もし、音楽性や表現力を大事にするのであれば、それを会派のIDとして掲げればいいと思いますが。とにかく、フシギなことが今でも行われている、みんなお山の大将で居たいのでしょう。

 これが、明治の時代ならば、どうですか、もっとすごいことになっていたわけですね。

Cut_340.gif (5530 バイト)整備が進んでいた部類に入る三味線ですらこんな状況では、多分文部省のお役人さん達でも、手がつけられなかったでしょう。日本人の音楽教育に、邦楽を取り入れてみたいと思っても、肝心の邦楽家達が、総論賛成各論反対どころか、門外不出。悔しいと言うより、悲しさの方が先に立ったのではないかと、想像されます。


最終更新日           15/05/05

 

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