あなたに




広い廊下に軽やかに駆ける少女の足音が響いた。目的の部屋は一番奥にある。軽く息を整えながら、髑髏は両手いっぱいに抱きかかえた花束を落ちないように慎重に片手に移しかえて、空いた方の手で目の前の重厚なドアをノックした。
「入って、」
室内から、すこし間を置いて、澄んだ声が返ってきた。その声の持ち主は部屋に入った髑髏を目に留めるなり、花のように顔を綻ばせた。
「髑髏、いらっしゃい。そのたくさんのお花はどうしたの」
「街を歩いていたら見つけたの。とても綺麗だったから、ボスにあげたいと思って」
「俺に?」
「迷惑じゃ……ない?」
「まさか!」
そう言って、綱吉はマホガニーの机から立ち上がって、髑髏の華奢な腕にはいかにも重そうだった花束を受け取った。腕の中でいちど花束をくるりと回して眺めた後、顔を埋めて香りを楽しむ。
「本当に綺麗。ありがとう」
髑髏の顔を見てにっこりと笑った綱吉の顔つきはなんだか見慣れたものと違って見える。目の色が違うせいなのかしら、髑髏は思う。綱吉の右目は赤く瞳に漢数字の六が刻まれていた。
髑髏がじっと見つめているのに気が付いたらしい、綱吉はそっと右目に触れた。
「ボス、目の調子はどう?」
「なにも支障はないよ。はじめから俺のだったみたいだ……骸のものなのにね、」
「……骸様もきっと望んでいるんだと思う。ボスとこれからを一緒に生きていくことを」
「そうかな。……そうだと、いいな」
あいつは最後までちっとも素直じゃなかったから。そう言って、綱吉は儚く微笑んだ。危うく潤みかけた涙腺がが熱を持つ。骸の忘れ形見はしっかりと綱吉の中に息づいていた。髑髏も胸に熱いものがこみ上げてくるのを感じた。
「花を花瓶に入れなきゃね。……獄寺くん、」
暗くなりかけた空気を一掃するように、綱吉が声を上げた。骸の喪失から多少の時間は経ていたが、まだまだ傷は深かった。
いつもなら、具体的に何を言わずとも察してくれる右腕だった。しかし、綱吉の声に獄寺は動こうとしない。
「……獄寺くん?」
綱吉は不審そうな声で尋ねる。だが、獄寺は定位置の机の横に立ちつくしたままで、綱吉と目を合わせようともしない。ぎゅっと唇を噛みしめて、ひどく辛そうな顔をしていた。そして一言呟く。
「動きたくありません」
「え、」
想定外の言葉に綱吉は驚いた声をあげた。しかし、なにか得心がいったようで、悲しそうに微笑んだ。綱吉には思い当たる理由がひとつあった。

「俺が明日にはボスじゃなくなっちゃうから、もう言うことを聞きたくないのかな」

獄寺が好きな自分はやはりボスの自分だったのかも知れない。十数年ばかりたくさんの時間を過ごして、純粋に綱吉自身を慕ってくれていると嬉しく思っていたのだが。獄寺の望んでいたボスをやめて去っていく、綱吉は裏切り者だ。
(そう、思われてもしょうがないか……)
綱吉の自嘲混じりのため息を遮るように、獄寺の声が響いた。
「違います!」
そう言って綱吉のほうを向いた獄寺の顔はぐしゃぐしゃで、泣くのを必死で堪えている子どもみたいだった。
「たとえあなたがボスの座を降りてしまったとしても、俺が忠誠を誓うのは貴方だけだから。どんな事になっても俺が貴方のことを蔑ろにすることはありえないと断言できます。ただ……」
「ただ?」
「ただ、反抗だけはさせてください。俺は……今回の辞任の理由に納得がいきません! どうして……どうして骸なんかのためだけに貴方がボスを辞める必要があるんですかッ! 骸だけのために……、」
ここまで言って獄寺は唇を噛んだ。悔し涙を堪えるためだ。だから、次の一言は呟くように小さな声だった。
「貴方を心から慕っている奴らはここにもたくさんいるのに、それを全て捨ててまで骸ひとりを選ぶんですか……」
そう言って俯いてしまった獄寺を見て、綱吉の胸がちくんと痛む。それでも綱吉の意志は固く、情ではゆるがない強さを持っていた。赤い右目をその体に移植したときから、一生を捧げる覚悟を決めたのだ。
「ごめんね。」
そう呟き、俯いた獄寺を包み込むように抱きしめることが、綱吉が獄寺にしてやれる精一杯だった。これ以上、彼のためにしてやれることはたったひとつしかなく、優しい嘘も残酷なだけだった。
綱吉は獄寺を抱きしめたまま、ただ謝り続けた。そんな主の声に押し殺していた涙が溢れてきて、獄寺は声を押し殺して泣いた。涙には諦めと嫉妬、そして羨望が混じっていた。



獄寺はしばらく泣いた後、部屋を出て行った。部屋には髑髏と綱吉が残された。
髑髏は照明に照らされたきらりと光るものを綱吉の目元に見つけた。獄寺を抱きしめている間、綱吉は一度も涙を零さなかった。ずっと堪えていた。自身が泣かないことが、獄寺への最後の優しさだったのだろうと思う。
「ボス、本当にありがとう」
全てを置いていくことは、本当に仲間を大切に思っていた綱吉にはとても辛いことだったと容易に想像が付く。それでも、骸のために選んでくれた。
「……髑髏、さっき君が持ってきてくれた花をここに運んでくれない?」
「うん」
花は花瓶に生ける暇がなかったため、花束のままだった。それを綱吉は抱え込み、右目でじっくりと眺めた。
「この目に……綺麗なものをたくさん見せてあげなきゃ。ね?」
「……うん」
綱吉は赤い右目を瞼の上から愛おしげに撫でた。
「もう骸には醜いものは見せちゃいけない。人と人とが争ったり、どこかで血が流れている光景をこの目に焼き付けたくないんだ。もっと世界は美しいんだと、優しいんだとあいつに教えたかった。でも、あいつは気づく前に居なくなってしまったから。……だからせめて、俺と一緒にたくさん綺麗なものと優しいものをみよう。そんな世界をこの目で見て、全てを愛して一緒に去りたい」

髑髏は綱吉に言うべきか悩んだ。最期、骸はきっと世界をそんなに醜いものだと思っていなかったと。もう憎んではいなかったと。
(世界には、ボスがいたから……)
骸が亡くなる直前に呟いた言葉は、すぐに空気に溶け込んでしまって聞き取れなかったけれど、骸はとても優しげな表情をしていた。だからきっと綱吉に向けての言葉を囁いたのだと思う。
(骸様はボスのことを好きだった、って伝えた方がいいかしら?)
髑髏は少しだけ悩んで、すぐにその考えを捨てた。骸は伝えることをしなかった。骸がしなかったことを髑髏がするのは余計なお節介というものだ。
それに骸は今、とても幸せだろうから。
「……髑髏? どうして泣いてるの、」
赤と茶色の瞳が心配そうに髑髏の顔を覗き込んだ。
「なんでもないの、ちょっと塵が目に入っただけ。それよりボス、早く行かないとみんなが待ちくたびれちゃうよ。もうすぐチェーナの時間でしょう」
「う、うん! そうだね」
綱吉は思い出したように時計を見て、慌てて準備を始めた。




→やさしいせかいに