初春のやわらかな光が窓の外の満開の桜の花弁をほんわりと輝かせていた。
 紫苑は窓際に肘をついて、その桜をぼんやりと眺めていた。ふいに、校庭の方から生徒たちがふざけ合う声がして、そちらに目を向ければ、紫苑と同じ卒業証書も入った黒筒をもった男子生徒たちがそれを剣に見立ててちゃんばらごっこをしていた。その様子にすこしだけ笑って、また桜に視線を戻す。
 クラスメイトはとっくに帰ってしまった。がらんとした教室で、紫苑は先ほど歌った「仰げば尊し」を思い出していた。
 有数の進学校らしく生真面目に歌い上げられた「仰げば尊し」。しかし、泣いているものは少なかった。すこしでもいい大学へと進学することを第一とするこの高校では学校生活なんて二の次で、だからほとんどの生徒が高校自体に愛着なんてないのかもしれない。
 紫苑だってこの高校に愛着があるかと聞かれれば、「どちらかといえば」くらいの答えしかできない。けれども、「仰げば尊し」を歌いながら、沸き上がってきた涙を必死で堪えたのも事実だった。
 このとき、紫苑の脳裏をよぎったのは、特別な行事でもなんでもない普通の日常。彼と過ごした日常だった。

 おもえば いと疾し この歳月
いまこそ わかれめ いざさらば


卒 業


「紫苑、」
 後ろから声が掛けられた。少女らしいやわらかな、けれども彼女の気性を思わせるような、どことなく凛とした声音。振り返れば、立っていたのは昔からの幼なじみだった。
「やあ、沙布。もう帰ったのかと思った。どうしたの?」
 ゆったりとした紫苑の物言いに、沙布はわざとらしくため息をついた。
「どうしたの、じゃないわよ。一緒に帰ろうと思って探したのに、ちっとも見当たらないんだから。見つけた自分を褒めたいわよ」
「え、ごめん」
「もう、いいわよ。それよりも一緒に帰らない?」
 沙布の問いに、紫苑はゆっくりと首を振った。
「悪いけど、もう少し残っていく」
「なにか用事でもあるの」
「……どうなんだろう」
 紫苑の返事はひどく曖昧だった。しかし、沙布には思い当たる節があるようで、その返事に少し悲しそうに眉根を寄せ、目を伏せた。
「沙布?」
 紫苑が不思議に思って覗き込もうとすると、沙布はそれから逃げるようにすっと顔を上げた。そして、にこりと笑った。その笑顔はいつも通りだった。ただ少女の手だけは沙布の緊張と決意を表すようにぎゅっと握りしめられていた。
「嘘なの。」
「え、」
「一緒に帰るために探していたなんて嘘なの。……私、紫苑にどうしても伝えたいことがあって、紫苑を探してた」
 紫苑は目を瞬かせた。
「僕に、伝えたいこと?」
 何も思い当たらないといった紫苑の顔。それをほんの少し憎らしく思いながら、沙布ははっきりと言った。この人には言わなきゃ、伝わらないから。
「紫苑、あなたのことが好きなの。出会ったときからずっと」
 沙布は続けた。紫苑に口を挟む暇をすこしも与えないように、すこし早口で。紫苑の言葉なんて大方予想がついている。少しでも紫苑の言葉を聞いたら、気持ちをすべて伝える前に言葉の出口がなくなってしまいそうだった。
「あなたをずっと見てた。あなただけをずっと見てた。毎日、頭のなかが紫苑でいっぱいで、なんにも考えられなくなるくらい、私の中は紫苑だけだった」
 駄目、駄目、唇が、声が震えてしまう。
 空白ができてしまう。その間にきっと紫苑は言うわ。
 言わないで、お願い。
 しかし、沙布のちいさな願いも虚しく、紫苑は申し訳なさそうに顔を歪め、口を開いた。
「沙布、本当にごめん。今まで全然気がつかなかった。僕は、君を親友みたいに思っていたから……」
 沙布は、一気に深い暗闇に突き落とされた心地を覚えた。涙がでそうになる。それでも沙布は口元を噛み締めて、微笑み続けた。
「うん、わかってた」
「……ごめん」
「いいの、私がそれでも伝えたかっただけだから。答えはノーでしょ? だって、」
 ただでさえ、この場で泣き崩れてしまいそうなほど辛いのに、自分は本当に馬鹿だと沙布は思った。失恋しただけじゃなく、さらにライバルだった男に塩まで送るなんて、自分は本当に馬鹿だ。これも紫苑のため。自分に言い聞かせながら、ゆっくりと口にする。
「紫苑は、ネズミのことが好きだもんね」
 紫苑は驚いた顔で沙布を見つめた。沙布は相変わらず微笑んでいて、そこにからかいの色は一切なかった。
「なぁに、そんなに驚いた顔しちゃって。見てればすぐにわかるわよ」
 私がどれだけ紫苑を見たと思っているの。その言葉は紫苑を困らせるだけだとわかっていたから、沙布は自分のなかで思うだけに留めた。
「……ネズミ、明日からパリに行っちゃうんでしょ。私みたいにきちんと伝えないと、絶対に後悔する。紫苑もわかっているから、帰らずにここにいるんじゃないの?」
「でも、」
「でも、じゃない。……ほら、早く」
 沙布の手が優しく紫苑の手を引いた。もちろん自分の方へではない、教室の出口に向かって、紫苑を促すように手を引いた。
 紫苑は引かれるままにゆっくりと数歩歩いたあと、立ち止まって沙布を見た。
「……ありがとう、沙布。君がいてくれてよかった」
「どういたしまして」
 沙布に軽く笑いかけ、そしてそのまま教室の外へと走り出した。
 教室にひとり残された沙布は、先ほど紫苑の手にふれた自分の手をぎゅっと握りしめた。まだ紫苑の体温が残っている気がした。
「……ついに、言っちゃったな」
 ぽつりと呟いた声はがらんどうの教室では、妙に寂しく聞こえた。
 結果は言うまえからわかっていた。この3年間、沙布が紫苑しか見ていなかったように、紫苑もネズミしか見ていなかった。奇跡が起きないかぎり、沙布の恋は叶いっこなかった。
 でも、それでも伝えたかった。
 終わってしまった寂しさと悲しい気持ちはあるけれど、後悔はまったくない。
 だから、今は。
 大きく息を吐き出してずっと張っていた緊張の糸を緩めると、沙布の目からぽろぽろと大粒の涙がこぼれた。
「……っ、うっ……」
 今は思い切り泣いてしまおう。明日、笑えるように。