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ふ ら り と
ふと真夜中に目を覚ましてしまったとき、なにをするでもなくじっと外の音に耳を澄ませればいつも不思議な鳴き声が聞こえていた。ぶぉー、ぶぉー、と空気をふるわせるような低音で大きくもなく聞き覚えもないのにどこか懐かしいその鳴き声。一太郎はそれを聞く度に、なにが鳴いているのだろう、どこから鳴いているのだろう、と声の主に思いを馳せた。そしていつか主を捜して真夜中の江戸の町へ繰り出して見たいとも思っていた。しかし、寝起きの体がひどく重いので今まで実行した事はなかったけど。 今日も、昼間に体調が悪く寝込んだせいで、真夜中に目を覚ましてしまった。もう一度寝直そうとまぶたを閉じれば、いつものように「あの」鳴き声が聞こえてきた。ぶぉー、ぶぉー。 (ああ、あの声の元を探しに行きたいなぁ・・・) 一太郎は2週間ほど外に出ていなかった。ここのところ体調が優れないのと日中暑くて体に触るというので出してもらえなかったのだ。まだまだ涼しいのに、今からこんな風では真夏はどうなってしまうのだろう。思い出して一太郎はため息をついた。 しばらく動いていないせいで体がくすぐったいような気がする。 庭、くらいならいいよね。そう判断した一太郎は縁側まで出るべく、そっと布団から体を起こした。 すると、どうだろう。日頃が嘘みたいに体が軽い。最近の分の体力が有り余っているのかも知れなかった。縁側まで起き出してもまだまだ歩けそう、否、歩きたい。縁側からお月様を眺めてどうしたものかと思い悩んでいると、また遠くからあの鳴き声がした。途端、一太郎の心に決心が頭をもたげた。 (・・・朝までに帰ればいいし、あの鳴き声を探しに行ってみよう。夜歩きくらいなんだ。あたしは子どもじゃないんだし!) こんなに体が軽い事なんて今までになかったし、これからもないかもしれない。大げさだがこれが一世一代の好機かもしれないのだ。 決めてしまえば一太郎の行動は早かった。布団の横にある羽織を着こんで、なるべく音を立てないように離れから抜け出した。そのまま朝を待つばかりの江戸の町へと繰り出す。ためらいは一太郎自身がびっくりするくらいなかった。 吉原ははるか遠く、大店ばかりが並ぶこの地区の深夜未明はまったく人通りがなく、静かなものだった。ただ「あの」鳴き声だけが響く。 見慣れない町の姿にしばし見入っていた一太郎はハッとしたように鳴き声の聞こえる方へと振り返った。あの声の主を捜すのだった。声はどうやら丑寅の方角から聞こえてくるようである。声の大きさからして離れにいたときよりは近づいている気がする。一太郎はさらに近づくべく、橋を渡った。 橋は割合大きなもので、昼間みたときには番人がいたのだが今日はいなかった。家に帰っているのだな、と世間知らずの一太郎はそう結論づけた。 橋を渡りきった後にもう一度耳を澄ます。ぶぉー、ぶぉー。やっぱり丑寅の方角。大店と大店の間の小さな道に入って、声の方へどんどんと近づいてゆく。すると細い道が2本に分かれているではないか。 (ううん、どうしようか・・・) 一本はまっすぐに出る道で先にはまた大きな橋が見えた。もう一つは薄暗くてよく見えない道だ。一太郎としては少しだけ怖いので先が見えるほうがいいのだが。悩んでいるとまた鳴き声が聞こえた。どうやら薄暗い方の道から聞こえるようで。 (ええい・・・!) 一太郎は勇気を振り絞って、そちらの道に入り込んだ。 道は端から見るよりも暗く、入りこんでも先がまったくみえない。ただ足下に引っかかるようなものがなかったのが幸いといえるだろうか。先ほどよりは近づいたと思えるものの、いまだ遠く感じる声に導かれるようにして暗闇の中を手探りで必死に進む。 ほんの四半時ほど歩いただろうか。やっと道の先に光が見えた。嬉しくって一太郎の歩幅は思わず大股になる。 細く、薄暗い道から抜ければひんやりと冷たい空気が一太郎の鼻っ面をついた。なんだろう、ここは。涼しいけれど涼しすぎる。怪訝に思った一太郎の目の前に広がった景色は・・・一太郎ごときが四半時でたどり着けるとは思えないほど、見慣れぬ景色だった。 足下にはびっしりと絨毯のように苔が敷き詰められ、それは階段状になっている石段の遙か上へと続く。石段を囲むのは瑞々しい黄緑の葉を持った樹木ではなく、どこか暗い雰囲気の深緑色の樹木。横に連なる樹木の先は霧に消されてしまっていてわからなかった。そして石段の上からは一太郎が探し求めていた声が、ここまでおいでと誘うように大きく響いていた。 多く見積もっても二刻ほどしか歩いていないのに随分なところまできたものだ。 神々しい目の前の景色に見とれながら、どこか他人事のような事を考えた。ここでも危機感などという類の感情はまったく沸かない。なんだかそういった器官が眠ってしまっているような気がした。 ただやたら遠くに来てしまったという感慨から、長崎屋に帰らなくてはと焦りのようなものが生まれた。夜が明けるうちに帰らなくてはまたみんなに何を言われてしまうか・・・。そこまで考えて一太郎ははたと違和感にやっと気が付いた。 (あ、れ・・・もう夜が明けていてもおかしくないのに、なんでまだ出たときと変わらないのだろう・・・ ? ) 急に目の前が真っ暗になったと思ったら、今度は眩しいくらいに明るくなった。どうやら目を覚ましたらしい。ぱっちりと目を開けた一太郎は、目の前の光景にすぐに反応を返す事ができなかった。 「・・・みんな、どうしたんだい?」 離れに居座る妖たちが寝ている一太郎を取り囲んで心配そうに覗き込んでいたのだ。一太郎の第一声を聞くなり、安心したらしくいつもどおり騒ぎ始めた。しかし皆の目には涙が浮かんでいる。 「どうしたじゃありませんよ、なにをやっても若だんなが目を覚まさないからあたし達は不安で不安で・・・!」 「ぎゃわわ、よかったぁ!」 数匹の鳴家たちが涙とおまけに鼻水まで垂らして一太郎にしがみついてきた。それがあんまりくすぐったくて一太郎は小さく笑った。 (おかしいとは思ったんだ。あたしが布団を抜け出して、あまつさえ離れまで抜け出したのに、誰も起き出さないんだもの・・・つまりは、) そこまで考えて、一太郎はやっと実感が沸いたのか恐怖に背筋を凍らせた。 少し離れたところから、屏風のぞきの声が聞こえた。 「まったく心配かけるんじゃないよ・・・」 声がいつもと違う。鼻がつまっているような不明瞭な声だ。 「・・・屏風のぞき?」 屏風のぞきは一太郎に背を向けてしまっていて、呼びかけてもこちらを向こうとしない。不思議に思った一太郎が数度呼びかけてやっと渋々振り返ってくれた。 その顔は鼻の頭が真っ赤になっていて、目にはわずかに涙が残っていた。 (屏風のぞきは水が苦手なのに、涙はどうなんだろうねぇ) 一太郎は的はずれな事を考えながらも、その胸が嬉しさでいっぱいに染まるのを感じた。ああ、やっぱりここがいい。 |