いつか見る月に




「月……ねえ」
そうため息混じりに呟いたのは時を重ねた屏風の付喪神で、一太郎はふと目を開ける。
見ればいつのまにやら屏風覗きが一太郎の文机の前に座り机の上の本を見下ろしていた。ぼんやりと机の上に何を乗せていたのだろうかと思う。確か乗っているのは他の土地のことについて書かれた紀行本で、滅多に外に出られずもちろん旅行など許してもらえない一太郎は随分と夜が更けるまで読みこんでしまったのだった。
その中にひとつ、ある橋から見える月は絶景だと評している頁があった気がした。
「………屏風覗きかい?」
「おや、起こしてしまった」
すまないね、とくすりと闇の中で声がする。半分夢の中にいる一太郎はぼんやりと目を開いているのか閉じているのかわからないような薄闇で身を起こした。
「ちょっと待っておいでな。今明かりをあげるから」
ふっと文机の横にゆらめく青い炎が灯る。「そういえばそろそろ返してやらないとねえ」と手の中の淡い燐光を弄びながら屏風覗きが視線をまた本に落とした。
「屏風覗きや、お前はその本に描かれたところにいったことがあるのかい?」
「ちょいと若だんな、私は紙だよ。そんな海の真ん中なんていったら湿気でとけてしまうよ」
機嫌がいいのか屏風覗きは笑う。
「そうじゃなくてもね。そりゃあ私はただの屏風だけども、いつだって部屋の中に置かれてるわけじゃあないんだよ」
そう、たとえば夜中に持ち出されたりとかね。冗談交じりに言ってみれば一太郎は大層驚いた顔をしたのでまた笑った。
「そのときの話をしてあげようか」
屏風のぞきはもともと崩して座っていた格好からまた足を組み替えた。一太郎はその申し出に目をキラキラさせながら頷く。
屏風のぞきにとっては今日に至るまでのたわいもない出来事だったが、それで少しでも一太郎を喜ばせられるならば自分の長い生も捨てたもんじゃないと思える。まるで愛し子を見るような真綿のような思い。
屏風のぞきは少し芝居がかかったような口調でそのときのことを一太郎に語り始めた。
「その時は驚いたもんさ。なにしろ船で運ばれそうになっていたんだからね。船の上に置かれて足下の揺れる感覚に、もうだめだと思ったねぇ。そのまま無事にはこばれれば、まぁ持ち主にはお気の毒だけれども、万々歳。しかしいつ船が傾くかわかったもんじゃない。途中で雨が降ってもお終いだ。
その時のどうしようもない心持ちと言ったらなかった。」
「・・・それで?お前はそのまま遠くへ運ばれて行ったの?」
一太郎は身を乗り出した。思わず布団の中から出そうになるのを、屏風のぞきは手の動きだけで押しとどめさせて続けた。
「だったら、今ここにいるもんかえ。岸から船が離れる瞬間に岡っ引きが駆けつけて、不届きものをとっちめたのさ。・・・しかし、あの時ほど、自分が消えてしまうかも知れないと不安になった事はなかったねぇ・・・」
話してみて初めて、それが完全な過去になっていることに気がついた。
ほんの数十年前は、いつ同じ事が起こるだろうかと震えていた時期もあったというのに。
それも、当然か。
屏風のぞきはぐるりと離れから長崎屋を見渡して思った。頑丈な門に、さらに取り囲むように妖たちに守られているこの長崎屋に盗人なんぞ、入り込めるはずがない。
そのときふいに、屏風のぞきの頭にある考えが浮かんだ。
自分の昔感じたあれは・・・。

急に口を噤んだ屏風のぞきは数瞬一太郎を見つめ、なにかを伝えようと口を開いたが、思いとどまったようで、気まずそうにすっと一太郎から視線を外した。
いくら屏風のぞきでも言って良い事と悪い事の判別くらいはつく。まったく、考えなしに話そうとするものじゃない。生まれたときからずっと見てきたのだ。どれほど苦しい事があったかも知っている。
しかし一太郎は屏風のぞきの態度からなんとなく言いたい事を理解していた。
きっと、こう言いかけたのだ。

お前さんにも、覚えのある感覚だろう?

(屏風のぞきって意外に優しいんだよねぇ・・・)
それは、ひどい病に冒されてもうだめかもしれないと諦めかけたとき。天井の染みも見舞客も、目で見えるものがまったく判別がつかなくて、火照ったような意識しか感じられないとき、強く感じる。
世界には自分一人で、そのたったひとつの存在の輪郭もぼやけて危うい気がしていた。たしかなものが分からない。自分がたしかなのかもわからない。
一太郎はこちらを向き直った屏風のぞきに微笑みかけた。それで、一太郎が理解した事が分かったようで。後悔するようなため息をひとつついて、優しい声でいった。
「人生とはまるで博打のようだ。なにが起こるかわかるもんじゃあ、ない」
「そうだね」
「だけどね。若だんな、」
屏風のぞきは目を細めた。ああ、よくぞここまで大きくなった。
「悪い事があったって、次にはびっくりするような良い事だってくるし、ここぞというときには救いが現れるんだ。人生なんざ、こんなもんだよ」
一太郎は今までに何度も死にかけている。けれど、そのたびになんとか生き残っているのも事実。初めての危機には、お祖母さまが助けてくれた。その次には、お祖父さまが仁吉と佐助を。その次もその次もなんだかんだで乗り越えているのだ。
案外、ずっとこんなものなのかもしれない。
「そうだね、こんなもの、なのかも」
「そうさね、お前さんよりずっとずっと長生きしてるあたしが言うんだ。間違いはないさ!」
大げさに両肩を上げてみせて、おどけた調子で屏風のぞきが言った。
それがおかしくて、一太郎はクスクス笑いをこぼす。それがうつった屏風のぞきも一緒になってクスクス笑った。
「ずっと側にいるものだからあまり実感が沸かなかったけど、今日の話を聞いて、屏風のぞきが長生きしてるって、やっと実感できたよ」
「今更かい?薄情だねぇ。あたしが付喪神になるまで100年ちょっと、それからしばらく経つ。いろいろ思い出もあるけれど、今が一番楽しいね」
珍しく素直な屏風のぞきに一太郎は目を大きく見開いた。いつもがいつもだけにこんな調子だと喜びより驚きのが先に来てしまう。でも、同時に胸が熱くなるのも確かだ。
「・・・嬉しい事、言ってくれるね」
「ああ、だから若だんなにはうんと生きてもらわにゃ。生きてりゃ、そのうちこの本にのっている月だって見に行けるかも知れないよ」
それまでも、その先も、ずっと近くにいてあげるよ。

今、天井で輝いているのは満月までにはあと少しだけ足りない月。いつも長崎屋の離れから見ているこの月も、今日はいつもにもまして美しく見えた。
紀行文にのっている月に負けないくらい、穏やかで綺麗だ。
今はきっとこれで十分で、楽しみはあとにとっておこうと一太郎は思った。