或るスレッドに「核融合って夏休みの宿題みたいだね!」というのが載っていた。「明日出来る!いや来年、十年後、20年後、30年後、今世紀中!いや今世紀中は無理!!!」

核融合の歴史



1854 [安政元年] 太陽の熱源の重力ポテンシアルによる説明【独】[H. von Helmholtz]
(太陽の熱源は太陽が収縮することに依る重力ポテンシアルを熱エネルギーに解放することによる。)

1874 [明治7年]物質の第4の状態の発見【英】[W. Crooks]
(放電管内に物質の第4の状態がある,キャヴェンディッシュ研究所)

1905 [明治38年] 特殊相対性理論【独】[A. Eisnstein, Annalen der Phys. 17, 891(1905)]
(「物体の慣性は、それが内蔵するエネルギーに依存するか?」E=mc2の証明)

1905 [明治38年] 初の静電プローブ【独】[J. Stark et al., Annalen der Phys. 18, 212(1905)]
(放電管に於ける最初の静電プローブ)

1915 [大正4年] 一般相対性理論【独】[A. Eisnstein,ドイツ物理学会]
1920. 6. 3 [大正9年]水素からヘリウムへの核変換【英】[Eddington]
(水素からヘリウムへの核変換を星のエネルギー源として注目)

1923 [大正12年] E=mc2の実験的確認【英】[F.W. Aston, Isotopes. 18, 212(1923)]
(「こうして、我々は遂に太陽の熱を説明するのに十分なエネルギー源を得た。将来において科学者がこのエネルギーを利用出来る形で何らかの方法を発見するならば人類は科学小説の夢を遥かに越えて必要とする動力を手に入れることになろう。しかしながら、ひとたび解放されtエネルギーは全く制御不可能トなって、その強大な力によって、周囲の物室を全て爆発させると言う、微かな可能性も考慮い入れておくべきである。」(アストン))

1927 [昭和2年] プラズマの命名【米】[I. Langmuir]
(電離気体をプラズマと命名)

1928 [昭和3年] トンネル効果 【米】[G. Gamow & F.G. Houtermans, Z. Phys.52, 469 (1928)]
(トンネル効果を原子核に適用)

1929. 4 [昭和4年] 星のエネルギー源【米】[R.d'E. Atkinson & F.G. Houtermans, Z. Phys.54, 656 (1929)]
(星のエネルギー源の解明。「私達が論文を書き上げたその夜、私は美女と散歩に出かけた。暗くなってくると、星が次々と輝き始めた『きれいにひかっているじゃないの』と連れの女性が叫んだ。しかし私は胸を張って誇らしげに言った『僕は、昨日から、星がどうして光っているか知っているんだ』(Houtermans、彼はその後この美女と結婚した))

1929 [昭和4年]プラズマ振動【米】[L. Tonks & I. Langmuir, Phys. Rev. 33, 195 (1929)]
(プラズマ振動の論文)

1932 [昭和7年]重水素発見【米】[ハロルド・ユーリー]
(重水,水をあきれるほど蒸留する)

1934 [昭和9年]水素の核融合発見【英】 [マーク・オリファント/パウル・ハルテック]
(キャヴェンディシュ研究所,ラザフォード門下,濃縮した重水素を加速した重水素で叩く)

1935 [昭和10年]結合エネルギー【独】[C. F. von Weizacker]
(結合エネルギーについての半経験式)

1936 [昭和11年]質量がエネルギーとして解放される実験【英】[フランシス・アストン]
(水素をヘリウムに変換すると 1%の質量がエネルギーとして解放されると講演。E=mc2に言及,コップ一杯の水はクイーン・メリー号を全速力で大西洋を往復させることが出来る)

1936 [昭和11年]結合エネルギー【独】[H. A. Bethe]
(結合エネルギーについての半経験式)

1938 [昭和13年]ガモフ・テラ−の式【米】[G. Gamow & E. Teller]
(ガモフ・テラ−の式で星の核融合を示唆)

1939 [昭和14年]星のエネルギー源の解明【米】[ハンス・ベーテ]
(星のエネルギー生産機構の解明。炭素サイクル)

1942.12.2[昭和17年]シカゴ・パイル【米】[エンリコ・フェルミ]
(核分裂反応の連鎖反応成功)

1946[昭和21年]ランダウ減衰の理論 【ソ】[L. D. Landau、 J. Phys. (USSR)10, 45 (1946)]

1950[昭和25年]超高温ガスのト−ラス磁場閉じ込めの構想【露】[サハロフ・タム]
(超高温ガスの磁場閉じ込めの構想)

1950. 4.18 [昭和25年]ソ連の核融合情報がロスアラモスへ届く【米】
(ソ連抑留から開放されたオーストリアの科学者からの情報,自宅軟禁状態のピョートル・カピッツァが強力な磁場で重水素を圧縮する実験を行っている,圧縮して点火のアイディア)

1951  [昭和26年]Sherwood計画 【米】[米原子力委員会]

1951 [昭和26年]ステラレータ−の提案。ステラレータstellarratorとは星の機械という意味。【米】[L. Spitzer Jr.]

1951.2.16 [昭和26年]核融合反応実験成功と発表【アルゼンチン】[ぺラン大統領]
(ドイツ系物理学者Richterがヒュメル島で核融合反応実験と発表。)

1952[昭和27年]超高温がスの磁場閉じ込めの実験【ソ】[サハロフ・タム・クルチャトフ]
(ピンチプラズマで10-6秒、100 eV)

1952.11. 1[昭和27年]水爆基礎実験成功。水爆は正確には「重水素爆弾」で、核分裂のエネルギーでプラズマを加熱して核融合を爆発的に起こす。【米】[リチャード・ガーウィン]他
(エニウェトック環礁,「マイク・ショット」,10.4MT,広島原爆の 700倍,液体重水素,大型冷却装置付き,65トン,エルゲラブ島消失,先端にトリチウムを含むプルトニウムの点火コア,液体重水素用ステンレス製デュワー瓶,熱反射のために内面を金箔で張られたウランタンパー,鉛の内張りに銅釘で止められたプラズマ発生源としてのポリエチレン層,92個の起爆装置と爆薬レンズなしのプライマリー原爆,テラーはカリフォルニア大の地震計により実験成功の瞬間を知りロスアラモスへ打電『男子誕生』,新元素発見 99番:アインシュタイニウム,100番:フェルミウム)

1954. 3. 1[昭和29年]ビキニ環礁 【米】 乾燥水爆の実験成功
(「ブラヴォー・ショット」,15MT,重水素化リチウム,予想外の威力,リチウム7の核融合反応を見落していた,爆撃機への搭載が可能となる,ビキニ環礁では計 67回の核実験を実施,第五福竜丸事件,160Km東方,死の灰,久保山愛吉さん被ばく死亡)

1955 [昭和30年][バーバ]【印】
(第1回原子力平和利用国際会議、ジュネーブ「人類は20年以内に核融合を得るだろう」と演説)

1955.11.22[昭和30年]ソ連が水爆実験に成功。セミパラチンスクでのソ連の水爆は 第2のアイデア(ギンズブルグ、 超流動で2003年ノーベル物理学賞) に基づくものだった: これは、T(トリチウム)の代わりにリチウムを使ったもので,次の反応で。

D2+Li6 -> He4+T3+n1(3億度)

  この反応は3重水素(T)が効率的に出来る。 ソ連の水爆は 第3のアイデアと言われるコンピューターで精密に 計算したものだった。ソ連のコンピューターの最初の用途は水爆の計算だった  ベスム6, BESM(高速電子計算機という意味のロシア語)セミパラチンスクは 現カザフスタン(CIA諸国:ロシアの独立国家共同体)の都市である。この時(1955.11.26,) 「我が国の科学者は,少量の核材料を使って,その爆発力が通常の火薬の 百万トンに等しい爆発を起こすことに成功した」とフルシチョフは演説した。 (3000m上空で爆発,Tu-16 爆撃機より投下,1.6MT,放射線爆縮型)【ソ】

1956[昭和32年]トカマクの前身TMP(tproid v magnitnom pole)作られる。

1957[昭和32年]ローソン条件の導出【英】[ローソン]

1957. 5.15 [昭和32年] 水爆実験成功【英】(クリスマス島)

1958 [昭和33年]ZETA計画【英】[Nature 181, 217(1958)]

1958 [昭和33年][L. A. Artsimovich]【ソ】
(第2回原子力平和利用国際会議、ジュネーブ「Somethibg that must be called a display of idea」と演説)

1958 [昭和33年]モスクワのLIPAN研究所(現クルチャトフ研究所)で最初のトカマクであるT-1(R=62.5 cm, a=24 cm, B=1T)稼働(サハロフとタムのアイデアをI.N.Golovin, L.A.Artsimovich, N.A. Yavlinskijが実験)

1961[昭和36年]名古屋大学プラズマ研究所設立【日】[伏見康治所長]

1961[昭和36年]制御核融合研究に関する第1回IAEA国際会議【露】[L. A. Artsimovich]
(Salzburg、『全ての主婦はテータピンチを!』, "We are to be left behind in purgatory" (M.N. Rosenbluth), 極小磁場はMHD的に安定(M.S. Ioffe))

1963[昭和38年][M.S. Ioffe]【ソ】
ミラー磁場における極小磁場のプラズマ実験 (所謂ヨッフェ バー)

1965[昭和40年]制御核融合研究に関する第2回IAEA国際会議 【ソ】[L. A. Artsimovich]
(Culham, 平均極小磁場とトカマクの全貌(Artsimovich)を発表、ランダウ減衰の実験的検証(J.H. Malmberg &C.B. Wharton))

1965[昭和40年][大河]【日】
在米の大河千弘がトロイダルマルチポール磁場によるプラズマ閉じ込め実験

1967. 6.17 [昭和42年] 水爆実験成功【中】
(ロプノール実験場)

1968. 8.24[昭和43年]水爆実験成功【仏】
(ファンガタウ環礁)

1976.7.29[昭和51]筑波で第16回プラズマ若手夏の学校
校長の挨拶でバーバ博士の演説から20年以上立ってしまったがまだ核融合は実現していないと発言

人類学的核融合原理(「ゐつを」のポエム)

核分裂の歴史

バーバ博士の演説から60年

バーバ博士が「核融合を人類が手にするのは20年後」と演説したのは1955年のジュネーブでの第2回原子力の平和利用国際会議だった。それから60年後の2015年の3月27日フランスのアルプス上空でドイツ機が墜落したが、バーバ博士も演説から11年後の1966年1月24日インドのポンペイ発ニューヨーク行きのエア・インド機が、経由地のスイス・ジュネーブ(Geneva)に向かう途中、モンブラン(Mont Blanc)山中で墜落し、乗員乗客全員が死亡し, 乗客117人と共に犠牲になった。管制塔から高度を維持するように指令を受け、高度5791mまで下降したが,標高4810mのモンブランに激突してしまった。事故の原因は、事故機に2個設置されていたVOR (超短波全方向式無線標識)の1個が故障していたのを知った機長が自機の位置を確かめようとして管制官に「我々はモンブランの横を通過したと思う」と報告した。それを聞いたジュネーブの管制官は「貴機はモンブランまで5マイルある」(つまり機の5マイル先にモンブランがある)と訂正して通告したが、内容が曖昧だった為機長は「モンブランの横から5マイル離れている」と判断してそのまま山頂に衝突したものと推測される。真冬なので遺体の収容は出来なかったという。ドイツ機が鬱病を患った副操縦士が意識的に高度を30mまで下げて しまって激突したのと似ている。バーバ博士はインドの物理学者で英国ケンブリッジ大学に留学してP.A.Diracの教えを受けている。2012年に、 その墜落現場そばで、山岳救助隊員らがインド政府の外交行嚢(がいこうこうのう、外交通信文書を運搬する専用袋)を発見。モンブラン山麓の町シャモニー(Chamonix)で、歴史的な外交文書袋は無事に地元警察から在パリ(Paris)インド大使館の2等書記官へと手渡された。 墜落で死亡した乗客の中に英ケンブリッジ大学(University of Cambridge)卒で「インドにおける核推進の父」と称された物理学者ホミ・ジェハンギール・バーバー(Homi Jehangir Bhabha)氏が含まれていたことから、インドと敵対関係にあったパキスタンや米中央情報局(CIA)が事故に関与したなど、事故をめぐってさまざまな陰謀説がこれまでささやかれていた。冷戦時代のインドは、当時のソ連と密接な同盟関係にあった。

上の写真はプリンストンのアインシュタインの自宅近くを歩く、アインシュタイン、湯川秀樹、ウイーラー(ブラックホールの名付け親)、バーバ博士。この写真は1953年5月に撮られたものである。(「アインシュタインの生涯」、東京図書、1965年から引用)