改訂:31 August 2018

ゐつをのドイツ・オーストリアあれこれ


ゐつをチャンは大学は理学部物理学科を卒業しましたが,本当は文学部西洋史学科に行く選択もありました。加藤登紀子や吉永小百合は西洋史学科を卒業してます。ゐつをチャンは大学教養部時代第2外国語としてドイツ語を取りました。成績は1、2年生の2年間オール優でした。

1。ゐつをチャンが教わったドイツ語の先生

西脇征嘉:静岡大学講師(当時27歳)ドイツ語文法を教わる。テキストはNeue Deutsche Gramatik山川丈平著、西脇さんは東大修士卒、ドイツ文学者山下肇の弟子。「禁欲的エロス」の著作がある。出版祝賀会を先生の下宿で行い学生と飲んだ。私の結婚式にも来ていただいた。
喜多尾道冬:静岡大学講師(当時)、授業はあまり面白くなかった。背が高くて、かっこいい先生だったが。後に東京教育大学助教授、中央大学教授、音楽評論家としても知られる。「シューベルト」という著作がある。
藤代幸一:静岡大学講師(当時)。2年の時のテキストの「3つの宝」や「聖チェチーリエあるいは音楽の力(Die heilige Cäcilie oder die Gewalt der Musik、1810年)ークライスト著」が良かった。翌年(1967年)東京都立大に移られる。1932(昭和7)年生まれでまだ活躍中有らしい。
天野佳人:静岡大学人文学部教授。超面白くない講義だった。「ダニエラ」という教科書。
小泉淳二:茨城大学教授:社会人講座で2年くらい教わる。喜多尾道冬を知っているとのこと。

ゐつをチャンにはウイーン近郊(南南東100 km)のキルヒシュラーグKirchschlagという所に住むオーストリア人の友人がいます。先日(2014.6.26-27)彼の家を訪問しました。そして、昨年10月には、彼は水戸の私の家に来てくれました。彼にとって3回目の日本訪問です。

2。ドイツ語の歌



最近感動したオペラ−レハールの メリーウイドウーLippen schweigen唇は黙する

Lippen schweigen 's flüstern Geigen
Hab' mich lieb !
All' die Schnitte sagen bitte,
Hab' mich lieb !
Jeder Druck der Hände
deutlich mir's beschrieb
Er sagt klar, 'sist wahr, 'sist wahr
du hast mich lieb !


Lippen schweigen唇は黙する(YouTubeから)




3。ドイツ・オーストリアの歴史

1. 総説

     375     ゲルマン民族の大移動。

蒙古系フン民族ライン地区に侵入しゲルマン民族の大移動始まる。

     395     ローマ帝国が東西に分裂

テシオドス大帝が死に、テシオドス大帝の二子がローマ帝国を東西(西ローマ帝国(首都ミラノ)と東ローマ帝国(首都コンスタンチノープル))に分裂させる。

     476     西ローマ帝国滅亡
     486     フランク王国(メロビング朝)の成立。クローヴィスClovis1世が始祖
     751     フランク王国(カロリング朝)の成立。ぺパン3世が始祖
     768     ぺパン3世(小ピピンPipinn der Kurze)の息子(長子)カール(フランス語名シャルル・マニューCharlemagne)大帝即位

     800     カール大帝西ローマ帝国の復興を宣言して,戴冠。Sachsenを平定し、首都をAix-La-Chappele(現在のドイツのアーヘン)に遷都した。



トランプの絵柄に描かれたカール大帝。クラブ三葉の13Kingで棍棒wandsの杖を持ち農民を表している。クラブは季節では春を表す。
 
     842     ストラスブールの誓約書

ドイツ側のルイとフランス側のシャルル・マニューの孫たちのシャルルがルイの長兄のロテールに対抗して交わした誓約書で,独仏語の貴重な文献

     843     フランク王国,西、中,東の3国に分裂(ベルダン条約)

西フランクがフランス王国(シャルル1世)になり、中フランクはロタール王国(ロタール1世)で後にイタリアになった。東フランクが後のドイツ(神聖ローマ帝国(ルードビッヒ2世))になる。



ベルダン条約(843年)以降のフランク王国
 
     962     神聖ローマ帝国成立(オットー大帝)

962年から1806年まで844年間続いた。962年オットー大帝はローマ皇帝の戴冠をうけた。神聖ローマ帝国das Heilige Römishche Reichは1806年のハプスブルグ家のフランツII世がナポレオンに屈するまで続いた。しかし、この神聖ローマ帝国についてフランス革命期の啓蒙思想家ヴォルテールは「神聖でもなければ、ローマ的でもなく、そもそも帝国ですらない」と述べている。また、歴史家ランケは彼の著書「近世史の諸候時代」や「世界史概観」の中では「神聖ローマ帝国」という言葉を一切使っていない。

     1024-1125  ザリア朝、コンラッド2世、ハインリッヒ3世の時代にブルグンド、ボヘミア、ハンガリー、イタリアを征服。


神聖ローマ帝国の年代ごとの領土(962-1806)。ドイツ最大の帝国ザリア朝期は1034年、ドイツ、ブルグンド、イタリアおよびボヘミア地方も含んでいる
 
     1054    ローマ教会東西に全く分裂
     1075~1122 僧職叙任権に関する争議
     1077    カノッサの屈辱ー教皇が国王を弾劾

 神聖ローマ帝国皇帝ハインリッヒIV世は全ドイツの司侯会議で教皇の廃位を宣言して、ローマ教皇に伝えたが、教皇グレゴリウスVII世は、これに激怒し、逆に皇帝の廃位を宣言し、皇帝が本来有していた聖職者の任免権を剥奪した。教皇からの破門という脅しに恐れをなしたハインリッヒIV世は、許しを乞う為に、イタリアのトスカーナ辺境伯の娘マチルダ(マティルデの父・トスカーナ侯ボニファチオはトスカーナからロンバルディア一帯を所有する大貴族で、彼女は兄姉を早くに失い一人娘だったため、1052年に父が亡くなった時、8歳で女相続人となった。)の所に赴き、雪の中を裸足で,帽子もかぶらず3日3晩カノッサ(フィレンツエの北西約130 km)に立ち尽くし教皇の許しを乞うた。この事件は国王の権力が教皇よりも下だったとされるもので、力関係が全く逆となった224年後に起こったアナーニの屈辱(国王が教皇を弾劾)と対比される。ハインリヒ4世は教皇がアウクスブルクでの会議に参加する前に贖罪するため、北イタリアへ向かった。そこで会議に向かう途中の教皇が、トスカーナ女伯マティルデの居城カノッサ城に滞在していることを知った。 1077年1月、突然現れたハインリヒ4世に教皇は戸惑い、捕縛を恐れて城から出ようとしなかった。ハインリヒ4世は武器をすべて置き、修道士の服装に身をつつんで城の前で教皇に赦しを求めた。教皇は破門を解く旨を伝え、ローマへ戻った。これから800年後プロシアの鉄血宰相ビスマルクはプロイセンとカトリック教会との争いで、帝国議会で「我々はカノッサには行かないだろう。」Wir werden nicht nach Canossa gehen. (フランス語では:Nous n'allons pas aller à Cannossa)と叫んで、カソリック勢力との譲歩を拒んだ。 ハインリヒ4世はドイツに戻ると直ちに反対派の諸侯を制圧し王権を確立した。その後、再び叙任権をめぐって両者は争うが、今度はハインリヒ4世が軍勢を率いてイタリアに乗り込みローマを囲んだ。教皇は辛くも包囲を脱出し、1085年にイタリア南部のサレルノで客死した。


マチルダに斡旋を依頼するハインリッヒ4世
 
     1122       ヴォルムス協約

叙任権闘争は、ドイツ南部のヴォルムスで叙任権は教皇にあることを定めた協約(ヴォルムス協約)が成立する1122年まで続いた。

     1250-1273        大空位時代

王権が不安定であった時代のことである。期間は1250年から1273年まで。この時期にドイツ王位を世襲する有力な家門がなく、帝国の直轄領は蚕食され、帝国の権利の多くが奪われたために、選帝侯など有力諸侯の影響力が極端に増した

     1282       ハプスブルグ家のオーストリア支配の開始


ハプスブルグ家を象徴する双頭の鷲(西も東も統治するという意味が込められている)
 
     12-14世紀   ドイツ騎士団の最盛期
     13-18世紀   選帝侯Wahlfursten(fursten=first)の時代

フランク王国から分裂したドイツ王国は、古ゲルマンの慣習である選挙王制をとった。 とはいうものの、神聖ローマ帝国の皇帝となったオットー1世のザクセン朝から、ザリエリ朝、シュタウフェン朝と続く、いわゆる「三王朝時代」の被選挙権は、王の一族もしくは娘婿の家系に限定されたもので、実質上は世襲王制と大差なかった。 ところがシュタウフェン家の断絶で大空位時代になると、諸侯たちのさじ加減で傀儡の王が選出されるように なり、純粋選挙王制が定着した。ドイツ語ではKurfürstである(die Kur は選挙、der Fürstは諸侯)。 ドイツの王はイタリア王も兼ね、教皇の戴冠を受けて皇帝になる、というルールにより、諸侯が選ぶ王はつまりは皇帝でもあった。こうして皇帝を選ぶ諸侯を選帝侯とよぶ。選帝侯にはマインツ大司教、トリーア大司教、ケ ルン大司教の聖界諸侯と、(ライン・)プファルツ伯Pfarzgraf、ザクセン侯、ブランデンブルク辺境伯、ボヘミア王の俗界諸侯の7人いたので七選帝侯と呼ぶ。皇帝選挙には多数決原理を導入し、従わないものは 選帝侯位を剥奪し、分裂選挙を阻止した。 七選帝侯には大きな特権(最高裁判権、鉱山採掘権、貨幣鋳造権、関税徴収権など)が与えられ、その領地は非分割とされた。諸侯にはMarkgraf辺境伯, Landgraf方伯, Burggraf城伯の3つあった。伯爵grafは侯爵furstと男爵baronの間の地位。その他Herzog公爵、Erzbishop大司教、Boshop司教, Abt大修道院長の地位があった。

     1348       ヨーロッパにペスト大流行,プラハにドイツ最初の大学

当時の神聖ローマ帝国は東側は現在のチェコやオーストリア全域を含む広大な国境線を有していた。知り合いのドイツ人の研究者フックス博士がチェコ出身だと言っていたのがわかる。



ウエストファリア条約(1648年)以降の神聖ローマ帝国国境線-シャルル・マニューが遷都したのはアーヘンで、最古の大学はプラハに作られた
 
     1350-1500  リューベックを中心にハンザ同盟(都市)の繁栄 

     1356      金印勅書

対立王の出現で内戦が絶えない帝国の安定を図るため、 1356年に神聖ローマ皇帝カール4世が発布した帝国法。純粋選挙王 制を整備した。 文書の印章に黄金を用いたことが名前の由来。

     1414     コンスタンツの宗教会議
     1415     プラハ大学学長ヤン・フス火あぶりの刑
             ホーエンツオレン家のブランデンブルグ辺境伯Markgraf von Brandenburgの始め
     1419     第1次プラハ窓外投擲事件

フスはカトリック教会の改革を訴えたが、コンスタンツの宗教会議で異端とされた。しかし、彼の支持者が神聖ローマ皇帝ジギスムントに叛旗を翻してフス戦争は1436年まで続いた。フス戦争の発端がこの事件だった。プラハのカールスプラッツにある市庁舎で、市長を含む10人が17mの窓から落とされ,待ち受けていた群衆の暴行にあい殺されてしまった。これを第1次プラハ窓外投擲事件という。

     1445     グーテンベルグ活版印刷術を発明
     1517     ルターの宗教改革

95箇条の御誓文(95 Thesen)でキリスト者を批判。プロテスタント派の源となる。ウオムスの帝国議会で自説の撤回を拒否"hier steh' ich, ich kann nicht anders"当時のローマ教皇はレオ10世。神聖ローマ帝国皇帝はカール5世。

     1524     ドイツ農民戦争
     1609     ケプラーの惑星の運動の3法則
     1618     30年戦争der Dreissigjahrige Krieg(宗教戦争)
             第2次プラハ窓外投擲事件

敬虔なカトリック教徒であるハプスブルグ家のフェルデイナンドII世はボヘミア王に選出された際に、信教の自由を約束したが、選挙が終わると、約束を保古してプロテスタント教徒を国の官職から遠ざけた。憤慨したプラハの200人のプロテスタント教徒が、プラハ城に押し掛け、王の側近の伯爵graf達3人を窓から突き落とした。これを第2次プラハ窓外投擲事件と言う。スペインと結んだオーストリアのカトリック教徒の反宗教改革政策に対するベーメンの反乱に端を発し、旧教徒対新教徒の争いにスウェーデン,フランスその他の諸国の利害が絡み、主としてドイツを戦場として30年間戦われた。このためドイツは全く荒廃し、人口が60%にまで減少した(当時の人口で、1800万人が1000万人に減少)この30年戦争でドイツの近代化は200年遅れたと言われる。

     1620     ビーラー・ホラの戦い(プラハ近郊で白山の戦いSchlacht am Weissen Berg)

その後、ボヘミアのプロテスタント貴族は、1618年にハプスブルグ家のフェルヂュナンドを廃位して、選帝候フリードリッヒ5世を、新しいボヘミア王に選出した。これに怒ったフェルヂュナンドは、神聖ローマ皇帝に即位して、ボヘミア制圧に乗り出した。これがビーラー・ホラの戦いで、カトリック側の大勝利に終わった。その後、フェルヂュナンドはプロテスタントの蜂起の首謀者に容赦のない処罰を行った。カトリック軍の傭兵隊長として、ヴァレンシュタインWallensteinが活躍した。

     1648     ウエストファリア条約(30年戦争の終結)

ドイツのウェストファリア地方にあるミュンスターとオスナブリュックという2つの都市で講和会議が開かれたため、こう呼ばる。 この講和条約の主な内容は:

・アウグスブルクの宗教和議の確認
・カルヴァン派の承認
・スイス、オランダの独立承認
・フランスがアルザスとロレーヌ地方を獲得
・スウェーデンが西ポンメルン獲得
・ドイツ諸邦の各主権が確立

この結果

・全盛を誇ったハプスブルク家が後退し、代わりにフランスのブルボン朝が台頭するきっかけとなった。
・カルヴァン派が承認されたことで、新教の立場が確立した。
・ドイツ諸侯の領邦主権が確立したことで、ドイツは300以上の領邦に事実上解体された。(神聖ローマ帝国は名目的には1806年まで存続する。)
・ドイツは戦争と傭兵による略奪によって国土が荒廃し、人口が激減、その後の農業や商工業の発展が阻害され近代化が遅れる。
・ウェストファリア条約締結の際、ヨーロッパ各国が「主権国家」として参加したため、その後の国際関係やヨーロッパの主権国家体制が確立した。哲学者ヘーゲル(1770-1831)は「ドイツ憲法論」の中で「振り返れば、ウェストファリア条約はドイツの死亡宣告書であり、ドイツは国家たることを止めた」と述べた。ヘーゲルはまた、「歴史哲学」中で、「ドイツを国家でなくしたのは、諸候が自由を吹聴し、教皇のバックアップが無かったためである」と述べている。しかし、文豪ゲーテはドイツの中世を振り返り、教皇と国王の両方国家を生き抜き、神聖ローマ帝国の消滅を経験したが、多数の都市文化の存在を讃え、多元的文化を有したドイツを褒めている。

     1679     ウイーンにペスト流行12万人死亡

     1683     オスマントルコ軍によるウイーン包囲戦

オスマン軍はオーストリアの首都にして神聖ローマ皇帝の居城であるウィーンを大軍をもって攻撃したが、拙速な作戦により包囲戦を長期化させ、最後は反オスマン帝国を掲げて結集した中央ヨーロッパ諸国連合軍によって包囲を打ち破られるという惨憺たる敗北に終わった。ウインーナコーヒーはウィーン市民が潰走したオスマン軍の陣営から打ち捨てられたコーヒー豆を見つけ、1686年にウィーンでカフェ「青いボトルの下の家(英語版)」(ドイツ語: Hof zur Blauen Flasche)を開いたのが始まり:Der turkische Kaffe hat Wien erobent, obwohl den Turken die Eroberung Wiens nicht gelungen ist.(トルコはウイーンの略奪は成功しなかったが、トルコのコーヒーはウイーンを征服した-"Wien von gestern und heute" aus Harold von Hofes-1974刊より)

     1701     プロシア王国成立
     1713     プロイセン王フリードリヒ・ウイヘルム1世(大王の父)即位

     1718     バッハが辺境伯Markgraf にブランデンブルグ協奏曲を献上

1718年にヨハン・セバスチアン・バッハがプロイセン王フリードリヒ・ウイヘルム1世の叔父であるブランデンブルグ辺境伯Markgraf von Brandenburgクリスチアン・ルードヴッヒ殿下にブランデンブルグ協奏曲Die sechs Brandenburgishchen Konzerteを献上した。ブランデンブルク辺境伯は、神聖ローマ帝国の貴族で、選帝侯のひとり。ドイツの北東部を領地とした。その領地は現在のブランデンブルク州の大部分とベルリン、およびポーランドの一部に相当する。ブランデンブルク辺境伯の所領はブランデンブルク辺境伯領(Mark Brandenburg)とよばれる。辺境において勢力を徐々に拡大し、神聖ローマ帝国崩壊後のドイツ統一の主役となった。

     1740     フリードリッヒII世(大王)のプロイセン国王der preissische Konig Friedrich zweit即位

フリードリッヒII世は多くのドイツ人にとってドイツ的美徳を備えた手本だった。芸術を奨励して、飢饉に備えてジャガイモKartoffelの栽培も奨励した啓蒙君主Aufklarung Monarchだった。

     1740-1748  オーストリア継承戦争Östereichisher erbforgekrieg

別名Schlesische Kriegとも言う。神聖ローマ皇帝カール6世が亡くなると、国事勅令に依って娘のマリア・テレジアが領土を相続したが、近隣諸国がこれに反対して,プロイセンはシェレジョンSchlesische地方に侵入して戦争は始まった。フランスもプロイセンと同盟を結び,オーストリアは国家存亡の窮地に陥る。マリア・テレジアはハンガリーの大貴族を頼り、ミュンヘンを占拠する。そしてマリア・テレジアはボヘミア王に即位。家督相続が承認される。アーヘンの和約で終結。
 
     1745-1747  フリードリッヒII世ポツダムにサンスーシ宮殿を建設

サンスーシsans souciはフランス語で、憂いなし(ドイツ語ではohne Sorgen)という意味。大王のライバル女帝マリアテレジアMaria Theresiaのシェーンブルグ宮殿Schloss Schonbrunnとほぼ同じ時代の建造で黄色い色調は共通。マリアテレジアの子息は16人。インスブルックでの国際会議でのexcursionで女性ガイドに私は"Is the father of these children the same person ?"と訊ねた。すると、彼女は即座に"yes"と答えてくれた。「オーストリアよ汝は結婚せよ」というフレーズを思い出した。この時代、日本の江戸時代の十一代将軍である徳川家斉は16人の側室で子供の数は53人もいたという。母親は殆ど側室。

     1756  モーツアルトWolfgang Amadeus Mozart生まれる。

     1767-1795  ドイツ文化の興隆(疾風怒涛)

1640年のイギリスの清教徒革命と18世紀から盛んとなった産業革命、それにドイツの文学はフランス革命にも多大な影響を与えた。特にドイツは音楽にバッハ、文学にゲーテ、シラー,歴史にランケなどの天才が輩出して、イタリアのルネサンスにも比すべき文化時代を現出していた。一切の因習と不自然を排し文学界に清新の気を入れようとするもので、クリンガーはこれをシュトルム・ウント・ドランクSturm und Drang(疾風怒濤)と呼んだ。古典主義や啓蒙主義に異議を唱え、理性に対する感情の優越を主張し、後のロマン主義へとつながっていった。代表的な作品として、ゲーテの史劇『ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』(1773年)や小説『若きウェルテルの悩み』(1774年)、シラーの戯曲『群盗』(1781年)や悲劇『たくらみと恋』(1784年)など。クラシック音楽では中期のハイドンの名が挙げられる。

     1772     第1次ポーランド分割

     1783     モーツアルトピアノソナタ11番第3楽章「トルコ行進曲」K331。オスマントルコのウイーン侵攻から100年

     1791     モーツアルトWolfgang Amadeus Mozart亡くなる。35歳。

     1802     ナポレオンによる神聖ローマ帝国消滅
     1809     チロル開放闘争Tiroler Freiheitkampf

ナポレオンの軍事介入にアンドレス・フォーファーをリーダーとするチロルの農民軍が奮戦、仲間フランツ・ラッフルFranz Rafflの裏切りverraterischに逢いフォーファーは非業の死を遂げる。「裏切りの」という形容詞にrafflerischという言葉がある。

     1814/15    ウイーン会議Wiener Kongress

フランス革命とナポレオンによって変革された国際秩序を革命前の状態に戻す。ドイツ連邦Deutscher Bundが結成され、議長国はオーストリア。これはウイーン体制、別名オーストリアの宰相の名前をとってメッテルニヒ体制とも呼ばれる。

     1848    三月革命

この年の2月、パリで政治的自由を求める革命が勃発して,フランスに第2共和制が誕生。このフランスの2月革命の衝撃がヨーロッパ中に広がり、ウイーンでは市民、学生、労働者のデモが軍と衝突、この結果メッテルニヒは亡命して、ウイーン体制が崩壊。プロイセン王フリードリヒ・ウイルヘルム4世は国民議会を招集してドイツ統一についての話し合いが始まる,一方イタリア、ハンガリー、ボヘミアでは民族運動が激化する。

     1861     日独交流元年
     1862     ビスマルクがプロイセン宰相(鉄血宰相,帝国宰相Reichskanzlerと呼ばれる)に就任
     1863     日本・プロイセン修好通商条約締結Vertrage zwischen Preuszen und Japan

     1867     オーストリア・ハンガリー君主国(帝国) Österreichisch-Ungarische (Kaiserliche und kömnigliche) Monarchieの成立
     1869     日本・墺(オーストリア)修好通商航海条約締結Vertrage zwischen Österreich und Japan
     1870-71   普仏戦争(プロイセン・フランス戦争)

ビスマルクは1866年の普墺戦争に勝ってドイツの希望を蘇らせた。ナポレオン3世の政策とビスマルクは悉く対立して,両国はスペイン王位継承という小さな問題を契機として,戦端を開いた。ドイツの備えは万全だったのに対して、急ごしらえのフランスは、貧弱でナポレオン3世はセダンで捕虜になった。ベルサイユ宮殿でウイリヘルムはドイツ皇帝に高らかに即位を宣言した。フランスはアルザス・ロレーヌを失った。プロイセン軍に包囲されたパリ市民は共和制を宣言したのが、次のパリ・コンミューンである。フランスの第2帝政はここに終止符を打った.

     1879     Albert EinsteinがウルムUlmで生まれる
     1886     バイエルン国王ルードビッヒ2世(Der Marchenkönig、メルヘン王)精神錯乱で退位させられノイシュバンシュタイン城に拘束。近くの湖で入水、享年40歳。森鴎外がドイツ滞在中で、彼の日記にこの事を書いている(「うたかたの記」)。6月13日夕方7時だったという。

     1918     オーストリア・ハンガリー帝国が崩壊し、オーストリア第1共和国の誕生

     1938     ナチス・ドイツの侵攻によりオーストリア第1共和国の終焉

                     


ドイツ・オーストリアの歴史1




ドイツ・オーストリアの歴史2 


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