村岡が滞在したアルザス(Alsace,ドイツ語ではElsass(エルザス
))地方はアルザス・ロレーヌAlsace-Lorraineと呼ばれ、長年神聖ローマ帝国傘下のロートリンゲン公国の支配下にあった。1736年にフランツ・シュテファン公がオーストリア・ハプスブルク家(神聖ローマ皇帝家)のマリア・テレジアの婿に決定すると、フランスがこの地域が実質オーストリア領となることになるこの結婚に反対した。話し合いの結果、領土交換が行われて同公国は解体されてフランス領に編入された。
1871年、プロイセン王国が普仏戦争(1870~1871)でフランスを破って、プロイセン王国は「ドイツ帝国」の成立を宣言して、「ドイツ帝国」はフランスとの講和条件としてアルザス・ロレーヌを国土の一部とした。この時の様子を、アルフォンス・ドーデが小説「最後の授業La dernié re classe-Ré cit d'un pettit alsacien」*で取り上げ、この地でフランス語が2度と話せられなくなるのを、悔やんでいる。しかし、この地方は元々ドイツ語圏であり、フランス語がそれほど話されているわけではなかった。普仏戦争に従軍したフランス人作者のドーデの願望が出たとする見方が強い。私の私淑する物理学者Hans Arbrecht Betheがここ、アルザス・ロレーヌで1906年7月2日に生まれている。また、密林の聖者Albert Schweitzerもアルザスの生まれである。SchweitzerはStrassburgの神学部の先生になってから特別に医学部に入り、医師となってアフリカに赴いたとう。
*アメル先生は生徒と教室に集まった大人たちに向かって、自分が授業をするのはこれが最後だと言う。普仏戦争でフランスが負けたため、アルザスはプロイセン王国(ドイツ帝国)領エルザスになって、ドイツ語しか教えてはいけないことになり、アメル先生もこの学校を辞めなければならない。これがフランス語の最後の授業だと語り、生徒も大人も授業に熱心に耳を傾けた。やがて終業の終わる時が来て、アメル先生は「ある民族が奴隸となっても、その国語を保っている限りはその牢獄の鍵を握っているようなものだから」とフランス語の優秀さを生徒に語り、黒板に「Viva La France !」(フランス万歳 !)と書いて最後の授業を終えるのだった。
1919年、ドイツが第一次世界大戦で敗れると、今度はフランスが講和条件としてアルザス・ロレーヌの領有を要求して認められた。教育制度はフランス式になされ、アルザス語の使用が禁止されフランス語が公用語とされた。またストラスブール大学に多くの研究者と教育予算があてられ、1929年にマルク・ブロックとリュシアン・フェーヴルの二人の教授により社会史のアナール学派が生まれた。1930年頃、自治を求める運動が活発化した。
1940年にナチス・ドイツが第二次世界大戦で再びフランスを破って、首都パリを占領すると、再度アルザス・ロレーヌを自国に編入した。だが、1944年にドイツに抵抗を続けていた自由フランスがパリを奪還して新政府を樹立すると、この地域からドイツ軍を追って再びアルザス・ロレーヌを領有して現行の国境となった。
EUはその主要機関である欧州議会(Parlement europ?en)の本部をEC時代の1979年に、中心都市ストラスブールに置いた。また、欧州審議会(欧州評議会、欧州会議とも訳される。Council of Europe)はそれ以前の1949年に、そして欧州人権裁判所は1959年にストラスブールに置いている。
フランスとドイツとの国境地帯にあり、フランスおよびドイツそれぞれの国から見れば地理的には周辺であるのにもかかわらず、欧州の「中心」地域になっている。欧州統合を推進するフランスとドイツの中間点にあり、なおかつ欧州の中心ということは歴史をふりかえれば非常に象徴的なことである。