自己分析、理解の必要性
よく自分の失敗等に苛立つ者があるが、それは自己分析、理解の不足があればあるほど理不尽な苛立ちの度合いは強まると考える。つまり、初めから「できる、できそうな事」、「できない、できなそうな事」をはっきりと自分の能力と照らし合わせ知っておく事ができれば、自分の失敗等において、やりどころのない苛立ちに襲われる必要はないのだ。これは別に「できなそうな事はやらない」というような後向きな姿勢を支援しているのではない。
もちろん、まったく初めてやる見当もつかないような分野については上手く行くか行かないかは未知数であろうが、ある程度自分が踏み込んでいる分野(勉強、部活、趣味、習い事、仕事等々)で、自己分析のできる精神を持っていれば、ある程度自分の可不可の範囲はわかり始めているはずである。それに置いて、自己分析もできず、自己理解もないままに無謀な目標を持って、失敗しては劣等感に浸るような事を繰り返すのは至極非生産的なのだ。
自己分析と自己理解ができていれば、失敗から得るのは劣等感ではない。失敗から次に自分がどうすればいいかを見出す事ができる。それができず、無謀な目標に関して失敗した場合は「失敗した」という事実にしか目が行かず、漠然と「自分にはできない」という劣等感に沈む羽目になる。無謀な目標を掲げるのは、自分がまだそれを目標にできるほどの位置に立っていない状態である事に気づいていないからである。
自己の分析、理解が足りていないと、その時々に劣等感に浸る事になるだけでなく、次回に向けての肥やしも得る事ができないため、同じ失敗を繰り返す事になる。ここに本当の恐ろしさがある。
知人の言葉で、「なるほど」と納得した言葉があるのだが、「自信は結果を産み、結果は自信を強化する」という言葉だ。これは自信がなければ良い結果は生めず、自信は良い結果によってどんどん強化されていく、という言葉だが裏を返せば、それは悪い結果によってどんどん弱体していき得るという事にもなるのだ。
自己分析、自己理解の不足は無謀な目標を本人に掲げさせ、それに失敗し、それを繰り返し、悪い結果を生む火種に十分なり得る。そうなればもう自己分析も自己理解もする余裕も生まれないだろうし、自信もへったくれもない。そうならないためには常に自分と向き合い、何よりも自分というものを知ろうとする必要がある。
「できない、できなそうな事」に関しては、それについて足りない部分を分析、理解してどうしたら届くかを知らなければならないのだ。それを埋め、「できる」と信じて試みれば、よしんば失敗しても劣等感に浸ることも少なく、それを新たな尺度に次への肥やしを見出し、積み重ねる事もできるだろう。これが結果として「敵を知り己を知れば百戦して危うからず」という事になるのだと思う。