甘え
よく、人間は心配させたり嫉妬させたりする事で相手の気持ちを確認する。それは、そこで心配されたり嫉妬されたり、あるいは気にも留められなかったりする事で相手の中での自分の価値を相手から引っ張り出す行為だと俺は思う。
「甘え」によって他人の中の自分の価値を引っ張り出した人間は自分の価値を測る事ができ、その価値が高かれ低かれどちらかである事が明白になり精神的にある種の安定を得るが、相手は試されている気がしたり本当に心配で気が気でなかったりする。この場合、相手の精神を食って自分の精神を安定させているという事にはならないだろうか。俺はこれを「甘え」だと考え、良くない事だと考えている。当然、「甘え」が全ての場面に置いて悪い事であると述べているわけではない事を始めに書いておく。
第一に、これは相手に負荷をかける事はもちろん、このやり方は下手をすれば自分が確信を得る代償に、相手に不信感を抱かせる可能性すら内包している。これは円滑な関係を維持しようとした時においては、極めて本末転倒である。
相手の中での自分の価値なんて引っ張り出したところで、価値が低かったとして自分を演じてまで価値を上げても根本的に無意味だろう。高かったとして今まで通りの自分を続ければいいだけの事であるし、結局価値を知ったところで可能になる事などそうないのだ。相手に不信感を募らせるだけで、利点は微少もない。ならば、始めから自分を出して相手にとってその価値が高い低いは言わば向き不向きなのだ、価値が低ければそれはそれで仕方ないだろう。そこは諦めも必要なのだと考える。万人に高い評価を得るなど不可能なのであるから。
第二に、「甘え」によって相手の中での自分の価値を引っ張り出そうとする人間は、精神的に不満や不安定な状態なのであるから、相手の評価を言葉そのままに鵜呑みする可能性を多く持っているという部分だ。これは相手が本当に自分を思って心配したり同情したりしてくれているのではなく、その時だけの取り繕いの言葉であった場合に、甘えた人間は相手の中での自分の価値を測り違える自体を招く。そして、この一時の取り繕いは「この人は自分を気に留めてくれる」という測り違えを甘えた側に学習させる。
そうなれば甘えた人間は事ある毎に精神を食いにくるだろうし、甘えられる人間は本当に気遣ってなどいない。これはこれでその時、円滑に関係が運んでいれば問題ないのかもしれないが、いくら本当に気遣っていないとは言え、そのような相手に度々甘えに来られるのは天使でもない限り鬱陶しくなるだろう。鬱陶しくなるほど甘えさせた時にはすでに、甘えた人間はこちらに依存し切っている可能性がある。そして、鬱陶しくなったからもう甘えさせまいとした時の甘えた人間の受ける衝撃は、最初から甘えられなかった時よりも大きいだろう。最初から最後まで甘えさせる気がないなら一時の同情も気遣いも、最後には残酷へと姿を変える。
繰り返すが「甘え」自体が悪いと述べているわけではない。最初から最後まで甘え、甘えさせる心構えであるのなら問題はない。甘えさせる側は一時的な哀れみから同情してはならないし、甘える側も一時的な甘えであれば自分と向き合い自分で消化しなければならないのではないだろうか。普段から一時的な甘えで人に甘えていては人に依存しなければ精神一つ安定させられない脆弱な人間になってしまうし、一時の同情で甘えさせれば相手をそういった人間に育ててしまうのではないだろうか。