柔軟性

時の運 track06  俺が思う人間にとって大事なモノの一つである「柔軟性」について考えてみた。まず最初に、俺の考える柔軟性とは、一定の概念に囚われ過ぎず、かつ自分の意思をしっかり持っている事であり、自分の能力の限界成長幅の範囲でもある。この柔軟性が、生きる上で俺はとても重要なものであると考え、今回考えてみようと思うに至った。

 まず、「柔軟性がない」とはどういう事なのか。当然、言葉そのままの意であれば、考えが固く融通性がないか、周囲に合わせる能力が欠けている事になるだろう。具体的に言えば、極端に自分の正義を過信していたり、他は自分にとって優しく易しくあるべき等という考えから来るものであると俺は思う。実利実害の伴う事柄であればその思考は必要になる場合もあるが、元から他との利害のやりとりを求めていなかったり、人間関係に置いては、単に「柔軟性がない」のだと俺は考える。

 人格等といったものさえ、時には周囲から評価をされる。これは至極当然のことだ。例としては、よくいじめ等の問題に置いて、いじめる側が完全悪と見られがちだが、俺は違うと思う。確かにいじめのほとんどは無意味で稚拙なものが多いし、決して誉められる行為ではない。だが、かと言って被害者側が完璧に甘やかされていいわけでもないと俺は考えている。
いじめられる側にもいじめる側の目に止まる部分があったのだ。つまり、それが自己の至らない点であったり、「相手に寄っては適合しないだけ」の自己の不変的特徴だったのだろう。不変的特徴であれば、それは何を言われても「その相手には合わないだけ」と流して良いものであるし、それを欠点と見ない人間が必ず存在する。コンプレックスを感じている特徴に関しては流すのは難しいところではあるが、不可能ではない。要は考え方である。可変的な至らない点であれば、それこそ他に原因を求める場面ではない。自分を活かし切れば克服できるのだ。

 個人の能力等が必要になる場面においても、「理解されない」「評価されない」「認められない」という類の不満をよく耳にするが、これも俺は自己の柔軟性を活かしきれていない結果でしかないと考えている。例えば、競争の激しいスポーツのレギュラー争奪や、学力における試験、何にでもある事だ。
「自分はこんなに頑張っているのに、試合などで使ってもらえない。試験に合格しない。努力が評価されない。」
これらは全て、評価した周囲が完全な原因ではない。自分の何かが至らなかっただけなのである。他に対し、「何においても自分に合わせる努力をして欲しい」と無意識に考えてしまっていると、無意識であるが故に柔軟性を得るのは困難になるか、自己中心的な人格になる。自己の成長幅を使い切った時、初めて他の欠点を公に突く事が出来るとは思うが、人間が自分に完璧に厳しくなれる事はないという点から、自己の柔軟性や成長幅を使い切るという事は有り得ない。

 「柔軟性がある」という事については、ほぼ上述したところで解る気もするが、簡単な事である。自分に起こった不利な評価、不利な理解、不当な扱い等は自分にも必ず原因があり、自分の原因だけを考えるようにすれば、自分の至らなかった点を潰す目途を持つことができ、自分を使いこなし、高められる。同時にそれは、自分に自信を持ち、自分を好きになれるという事にもなると俺は思う。人間は心がけ一つで上にも下にも意外と簡単に変われる柔軟なものである。
簡単に変われるが、自分を見失って苦しむほど無理に変えてしまっては意味がないし、周囲に自己を正しく認知させられないので、柔軟にしてしまってはいけない部分や譲れない部分もある程度必要だという事を付け足しておく。


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