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このホームページは2002年11月17日にオープンしました
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競輪は人が走るから魅力があると言われます。 豊橋競輪は存亡の危機にあります。しかし、50年以上に渡り、豊橋競輪を支えてきたのはファンと関係者です。これからも豊橋競輪の存続を願って止まない人ばかりです。そんな人達の今の思いをシリーズで取り上げてゆきます。
豊橋競輪で一番声援を受けるのはS級選手ではない
和田治恭選手は小さな大選手である。私が勝手に「競輪小さな選手友の会」副会長と命名したように小さい。もちろん会長は滋賀の出路仙一郎選手である。 しかし、小さいというのは当たらないかもしれない。あくまで、データとしての身長を基準に小さいといっているだけである。実際会ってみると小さいと感じ無い。むしろ他の選手と同じか、時には大きく感じることもある。それは、人間の器が大きいからだ。いつも自然体で人の話をよく聞いて親切だ。おまけに外見もウエイトトレーニングをしっかりしているのか上体もがっちりしている。 和田選手は酒を飲まない。飲まないけれど宴席ではコーラで酔うことができる。酒はなくても話は弾むし、おまけに飲み助どもの送迎までかってでていただける。
レースでも位置にはこだわらない。地元戦であっても、あえて番手を主張するわけでもなく3番手で、どこでもついてゆく。そして、直線で一気に番手選手を差してしまう。差し味は切れるのだ彼は。
S級落ちの片山弘城、マッチョ中武克雄の強力近畿ラインに奮戦及ばず届かなかったものの、和田選手への応援、声援の大きさは特別の決勝以上であった。バックスタンドでは8番車和田選手ピンク色の大きな旗を振り回している応援団もいる。誰しもがこれが和田選手、豊橋競輪最後の出走になると思った。 後で和田選手がしんみりと語ってくれた話では、当日、観覧席にはお母さん、奥様とお子様が観戦していたそうである。それも選手になって初めての競輪場での観戦だったといいます。よく聞き話ですが、選手の家族は競輪場には行けないそうですが、さすがに豊橋競輪最後の優勝戦になると思えば、切ないやりきれない気持ちを抱えながらも息子、夫の奮戦を願って、声に出なくても心の中で叫んでいたことでしょう。 開催が終わった11月24日の翌々日の26日、早川豊橋市長はこれもまた予想もしなかった中止撤回表明をしたのです。これでしばらくは豊橋競輪開催も続くことにはなりましたが、選手の気持ちの中では中止問題を契機として、今まで以上に一走一走に集中力を持って走るようになったようです。その後、和田選手は12月11日からの岐阜開催でも、初日二日目と二連勝。選手になってからもほとんど記憶のない連勝をもぎ取りました。そうなれば、ファンは黙ってはいません。豊橋からも二人のファンが岐阜まで和田選手の応援に駆けつけました。惜しくも優勝をもぎ取ることはできませんでしたが当日はS級島野選手より声援が大きかったのです。 和田選手の出走先には横断幕が必ず掲げられています。昔からの熱心なファンが開催毎に送り届けています。F2戦で横断幕が出る選手はそんなにいないと思いますが、豊橋では白井一機選手と並んで横断幕が出る選手です。キャッチフレーズは「たまにはきてね」。いや、もうこれからはいつでも入着して下さい。そしてファンの方は車券を買いに。新しいファンの方もどんどん競輪場に来て下さい。和田選手が皆様をお待ちしております。
和田選手は豊橋競輪場隣の桜ヶ丘高校自転車部出身だ。桜ヶ丘高校は金子貴志選手など多くの選手を排出している名門校だが、和田選手は必ずしも競輪選手を目指して自転車部に入部したわけではない。
そんな和田少年が自転車に乗る楽しみを覚え、その素質を示し始めたのは、今でも豊橋競輪場で毎年恒例の豊橋市民自転車競技大会に友達に誘われ出場した中学1年生の時であった。彼は1キロタイムトライアルで1分39秒の好タイムを記録した。そして、翌年は35秒、3年生になると20秒近い好タイムを出せるようになっていた。 機械好きの彼は、桜ヶ丘高校卒業後もストレートに競輪学校を目指したわけではない。確かにタイムも出てきて、選手を目指すチャンスはある、しかし、機械いじりをも好きだ。人生で選択の可能性を一つでも多く持ちたい。 彼は迷うことなく、卒業後は整備学校の教官か自動車整備で身を立てるつもりで、岐阜県の高山短大に入った。自動車の短大に入ったことは、自分の好きなことに打ち込んで、実に楽しい青春時代を過ごすことになった。そこでは自動車部に入部し、ダートでのタイムトライアルを趣味としたのだ。その時の趣味が発展し、今も続き、競輪の合間を見てはレーシングカートの試合に出てトップランクに付けることもある。
では自動車を学んだ彼は先ずはその道で飯を食ってゆくことを決意し、トヨタビスタに就職し地元豊橋に帰ってきた。毎日、整備の仕事に熱中し、仕事にもようやく慣れてきて、気持ちの余裕も生まれてきた頃も、アマチュアのクラブで自転車生活を続けていた。生まれもった自転車の素質は衰えたわけではないが今一つ伸び悩む。 そして、会社員としての生活にも疑問を持ちかけていた頃、とにかく自転車競技者として再び競輪選手に合格できるような自分に鍛え上げたいと意を決して退社。そこで初めて彼は人生の選択のチャンスの1つとして競輪学校挑戦を決意する。 退社直後、初めての競輪学校挑戦のタイムは1分12秒、あと一息だ。半年後の再挑戦では怪我明けで1分11秒。ここまで来たらあきらめるには悔しすぎる。練習では10秒のタイムを出しているのだ。
和田選手は昔からの仲間を大事にする、出身のアマチュア団体「天狗党」の早朝バンク練習には時々顔を出すし、月例のレースもできる限り出場している。新しく自転車を始めたい人が来ると厳しい冬の朝7時の時間にも拘わらず新人を暖かく出迎える。おまけに、少し使用しただけのウエアまでプレゼントしてしまう。そうまでされて、新人は自転車への熱意がより深まり和田選手のファンになってしまう。
平成15年元旦、和田選手の仲間達は毎年恒例の初詣暴走(おっと、ランだった)のため多米峠に集まった。年末の天気予報では初日の出は難しいと報道されていた。でも、少しの可能性を信じ、ある仲間は新聞の仕事を終えて、そのまま自転車で駆けつけてきた。今年も松井英幸選手の顔が見える。
このインタビューは小倉への参加を終え、休養が必要な日にお願いしました。
(平成15年2月5日掲載) |