旧大山道(登戸道)
(和泉多摩川駅南口から猪駒通り、駒井大通り)を歩く
この道は大山道(登戸道)と呼ばれた狛江の古い道だそうです。
狛江市のホームページ、語り継ぐむかしによれば、大山道は狛江市を東から南西に横切るもので、
江戸道、登戸道ともいわれたと言います。昭和十年代までは東京方面へ下肥を汲みに行く車で早暁からにぎわったそう
で、江戸〜世田谷〜喜多見〜岩戸一の橋(または駒井)〜和泉〜渡船場〜登戸を結ぶ道であったそうです。
大山道(登戸道)には二つのルートがあり、喜多見知行院の前で分かれ、一つは喜多見慶元寺前から砧浄水場の中を通り
現駒井大通り、現猪駒通りと進む道です。もう一つのルートは喜多見知行院の前から品川道と同じルートを岩戸一の橋迄辿
り、狛江三叉路付近で品川道と分かれ南西に向かうルートです。
渡船場は今の多摩水道橋と小田急線鉄橋の間にあったそうで、今でも多摩川土手から河原に下りる斜めの道が残されてい
ます。
「狛江の古い道」(狛江市教育委員会編)に、国立公文書館所蔵の文化二年(1805年)の「目黒筋御場絵図」から狛江周辺
部が掲載されています。最も太く記載されているのが「甲州街道」、次に太く記載されているのが、「滝坂道」と「稲毛道」です。
滝坂道は、甲州街道からキユーピーの工場を入り、和光堂の前を通り、上祖師谷神明神社手前で成城通りと出会い、駒大
グランドから祖師谷に抜ける道が滝坂道です。細い道ですが甲州街道に次ぐ主要道だったんですね。江戸から狛江(あるい
は狛江から江戸)に向かう人達は、稲毛道を利用するか、この滝坂道から、七曲りか大坂を経由して行き来していたと思わ
れます。滝坂道からのルートが鎌倉道(高井戸道)です。
稲毛道が狛江市を東から南西に横切る、大山道です。
(財)せたがやトラスト協会が発行がしている自然ウォッチング第4集に次のような記述があります。
世田谷区内の大山道が三軒茶屋を経て、世田谷新宿を過ぎる分かれ道から始まり、登戸に至る区間の道を「登戸道」と 呼びます。登戸道は俗称で、江戸時代の正式名称は「津久井往還」、別名「黒駒道」ともいわれていました。
登戸道の起点は、世田谷新宿の西端の用賀口(弦巻5-16)で、ここから世田谷通りに出て、一部は世田谷通りと離れなが
ら、国分寺崖線を畳屋坂で下り仙川を渡ります。更に南に進み世田谷通りを横断し、砧小学校の正門前を通り、世田谷通
りに戻って喜多見 6 丁目 19 番地先で左に折れます。
大蔵 3丁目 国立成育医療センター先の日大商学部前で旧道に入り坂を下ります。
写真右手が日大商学部。坂を下ると東宝撮影所ですが、かつてこの場所は新東宝撮影所(現国際放映)でした。
日本映画の黄金時代ここから、多摩川にかけて映画各社の撮影所がありました。
東宝砧、日活多摩川、大映多摩川、新東宝砧の各撮影所が集結していました。
松竹大船、東映大泉を除く全社全社の撮影所がこの地にありました。
下の写真2枚は昭和30年頃の映画全盛期のスナップ
(左)新東宝撮影所内試写室で映画化された作品を見る志賀直哉氏
(右)撮影所セット内で談笑する左中川信夫監督、中望月優子氏、右伊藤雄之助氏
坂を下り石井戸橋手前の祖師ヶ谷大蔵駅に向かう道との三叉路脇に元治二年(1865年)の庚申塔があります。
元は三叉路の分かれる辻にあったものだそうです。
世田谷通りから下ってくる坂を畳屋坂、祖師ヶ谷大蔵駅方向に登る坂を赤土坂と呼ぶそうです。
畳屋坂の由来は、坂の下に畳屋さんがあった事によると言います。
庚申塔には下のように刻まれています。
正面に 「庚申塔 のぼりと/大山道」
右側面に 「元治二乙丑二月吉日/右江戸道」
左側面に 「左□□□道」
石井戸橋を渡れば、右手は東宝撮影所です。
昔、撮影所内には、プールがあり、ゴジラなどの特撮シーンが撮影されていたと思います。
現在のゆかり幼稚園の先の東宝所有の野原(現在の日曜大工センターの川向こう)で「七人の侍」の小屋の焼き討ちシーン
がオープンセットで撮影されたと記憶しています。この日砧周辺の住宅街に降灰がありましたが誰も文句を付けなかった。
昭和29年頃の事です。何しろ住宅地のど真ん中の空き地でセットの小屋を本当に燃やしちゃったんですから、のどかでおお
らかな時代でしたね。
ちなみに、プールの崖上の住宅地には石原裕次郎邸があり(現在の石原邸ではありません)、庭にプールがありました。
水音がうるさいと、住民から苦情が出たりしたものです。小樽の石原裕次郎記念館に展示されているガルウイングのベンツ
のスポーツカーはこの家の地下にある車庫に入っていました。隣は水之江瀧子(松竹歌劇団の大スターで当時は日活のプロ
デューサー)邸でした。成城の駅に向かって作家の野上弥生子邸、横溝正史邸などがありました。
昭和20年代の映画スターはタクシーも普及していない、もちろん自家用車も珍しい頃ですから、大スターでも撮影所に小田
急線の成城、祖師谷の駅から徒歩で通っていました。だから成城に住んだのかもしれませんね。
すっかり長くなってしまいましたので映画人昔話はここをクリックして興味のある方は続きをお読みください。
喜多見大橋を渡ってガソリンスタンドを右に曲がると内田橋で六郷用水(次大夫堀)に出ます。
喜多見大橋か内田橋から入れます。世田谷区の公園です。古民家等見応えのある施設です。
内田橋の先で、水道道路と交叉し直進すると左に宝寿院があります。
馬頭観音(世田谷区喜多見五丁目22)
写真上の右斜め下に向かう道(次大夫堀公園の裏門を通る道)の左手の低いコンクリート塀を切って馬頭観音が保存されて
います。「狛江の古い道」(狛江市教育委員会編)の大山道の項に、『台石に「左のぼり□」「右リ□ち□/八王□」などの文字
がかろうじて調査時には読めたが、現在は下部が埋没している。ここから右に中道を通っていく道もあったのである』(原文
のまま)の記述があります。
宝寿院を過ぎて突き当りを右に行くと、又水道道路と交叉し、知行院の前に出ます。
突き当りを左に行くのが品川道(いかだ道)です。
登戸道 の道しるべ
これは、世田谷区喜多見の知行院の前にある道しるべ。登戸道(大山道)と品川道(いかだ道)の四ツ辻。
駒井(現駒井大通り、現猪駒通り)ルート
知行院
道しるべに従って門前を真っ直ぐに進むと、すぐ水道道路を渡り、直ぐに右折、再度水道道路を横切ります。
道は左に曲がり突き当たると須賀神社に出ます
「湯花神事」という行事があり、世田谷区の指定無形民俗文化財となっている。
須賀神社の裏手にあります。
古墳時代中期(5世紀末〜6世紀初頭)の円墳。
須賀神社前を道なりに右へ向かい、突き当りを右折した所にあります。
古墳時代後期7世紀の砧地域の有力な族長墓と考えられる円墳。
調査は昭和34年と昭和55年に行われ、石室内から圭頭太刀、直刀、刀子、鉄鏃、耳環、玉類、土師器、須恵器が
出土している。
須賀神社前を道なりに右へ向かい、突き当りを左折すると慶元寺前に出ます。
隣接した慶元寺幼稚園迄が世田谷区喜多見 4 丁目 。
慶元寺は江戸時代の武家・喜多見氏の菩提寺。現在の皇居の辺りを治めていた江戸氏が、室町時代の中ごろ太田道灌
によって追はれ、隠れ住んだのが木田見(今の喜多見)であり、江戸氏の名前も変え「喜多見氏」と名乗るようになったと言
はれています。
慶元寺門前の植込みに二基の道標があります。
この道標は現在の砧浄水場の中の大山道の辻にあった物で、砧浄水場建設により、道が無くなった為ここに移設されたの
だそうです。
一基は、安政二年(1855年)に建てられたもので、登戸の渡しから大山道を来た時大山道と品川道(いかだ道)との分岐点
を示し、六阿弥陀参りの道しるべにもなっています。正面には下のように刻まれており、左側面には玉川六阿弥陀の案内が
刻まれています。
もう一基は丸山教本院への道標です。正面には下のように刻まれています。丸山教は明治六年(1873年)に開かれ、登戸
に本院のある宗教で、多数の信者を集めていたと言います。この道標には年号が入っていませんが、明治十八年以降の物
のようです。
ちなみに玉川六阿弥陀は狛江の古い道(狛江市教育委員会編)によれば、安政二年につくられたのだそうで、六ヶ寺は
第一番 竜安寺 (川崎市多摩区宿河原)
第二番 慶元寺 (世田谷区喜多見)
第三番 光伝寺 (世田谷区喜多見) 宝寿院光伝寺
第四番 行善寺 (世田谷区瀬田)
第五番 養福寺 (川崎市高津区新作)
第六番 泉福寺 (川崎市宮前区馬絹)
慶元寺幼稚園前を真直ぐ行くと岩戸八幡神社と明静院があります。
岩戸村の鎮守様
狛江の鎮守様 ( 旧六ヶ村にそれぞれ鎮守様があります )
伊豆美神社 - 和泉
小足立八幡神社 - 小足立子ノ権現三島神社 - 覚東
岩戸八幡神社 - 岩戸
白幡菅原神社 - 猪方
日枝神社 - 駒井
明静院
念仏供養を目的として造られた地蔵尊で狛江市で最古のものだそうです。貞亨 4 年 (1,687 年)の造立。
大山道(登戸道)は、慶元寺幼稚園前を左折、すぐに岩戸川緑地公園が右手に見えます。
真直ぐ進み「こまえ苑」の前で水道道路を渡り、ほどなく、砧浄水場に突き当たります。
大山道(登戸道)は砧浄水場の中を通り、ガソリンスタンドの所から駒井大通りを進み
北向き地蔵の四つ辻に出ます
秋元酒店「籠屋」
北向き地蔵の手前にある秋元酒店「籠屋」さんは東京でも屈指の名店です。明治三十五年創業で昭和の始めまでは竹細
工の製作をされていたのが、屋号の由来との事。古くからのお店だけに店前の行灯看板に青山道、武州駒井の文字も見ら
れます。駒井の皆さんがこの道を青山道と呼び習わしていた事からこの文字を選んだそうです。日本酒、焼酎の取り揃え銘
柄では、料飲店のプロもうなる品揃えで有名です。紹介された雑誌等は大変な数に上ります。
〆張鶴が標準小売価格でほぼ全種類買えるお店はここ以外には殆んど無い筈です。
私は密かに清酒の日本一美味しいのは〆張鶴と思っていますから。もちろん、云万円出せば美味しい酒はあるでしょうが?
狛江で行くならこんな店でご紹介しています
狛江六小南交差点(駒井の登戸道の四つ辻)に北向きに安置された地蔵尊が祀られています。
お地蔵様の向いている北に向かうと六小を通り、京王ストア横の交差点で水道道路と交差します。
京王ストア裏に駒井の鎮守様日枝神社があります。
日枝神社
狛江の鎮守様 ( 旧六ヶ村にそれぞれ鎮守様があります )
伊豆美神社 - 和泉
小足立八幡神社 - 小足立子ノ権現三島神社 - 覚東
岩戸八幡神社 - 岩戸
白幡菅原神社 - 猪方
日枝神社 - 駒井
北向き地蔵の四つ辻を直進すると、駒井西の交差点に出ます。交差点を右に猪駒通りを和泉多摩川駅に向かいます。
猪方交番
猪方交番を多摩川よりに一本入った道に
南部地域センター
狛江市シルバー人材センター
和泉園
猪方交番先の右側にある、花(鉢植え)、園芸資材、切り花(生花)、熱帯魚の販売・リースのお店
中和泉3丁目品川道を左に入った所にあるお店の支店。
樹木の枝葉リサイクルチップ事業に取り組んでいる会社です。
中和泉3丁目本店では、肥料として利用出来る樹枝葉を粉砕したチップを無料で頂けます。
和泉園さんのホームページ http://www.d1.dion.ne.jp/~izumien/top.html
猪駒通りは突き当たりとなります。左に曲がると多摩川に出ます。
多摩川の手前には
タマエスティ国際学生会館
外国人留学生の為の民間運営による、学生寮
河原橋橋狭石
タマエスティ国際学生会館横にある用水路に架かっていた橋の名残り。フェンスの後に用水路跡が残っています。
猪方用水から分水した用水路でしょうか?
和泉多摩川地区センター
を利用した多摩川緑地公園の前にあり、公衆トイレがあります。
建物内以外のグランド利用者にも開放されています。
和泉多摩川地区センターには、会議室、和室があります。また、葬儀にも利用出来ます。
開館時間 午前9:00から午後9:30
毎月第2・4火曜日と年末年始休み
和泉多摩川地区センターの左手奥に
川田旅館
狛江市内唯一の旅館です。
多摩川の河川敷には
多摩川緑地公園
子供達が自由に遊べる自由ひろば、グランドなどの設備があります。
登録団体による貸切使用のみで、貸切使用するためには、事前に5名以上のグループで団体登録をする必要があります。
渡船場
最後の渡船場は今の多摩水道橋と小田急線鉄橋の間にあったそうで、今でも多摩川土手から河原に下りる斜めの道が残
されています。対岸の登戸にも同じように貸しボート屋さんがあります。
岩戸一の橋(狛江三叉路経由)ルート
一方、岩戸一の橋を通る大山道(登戸道)は
品川道と同じ道を進み石橋供養塔の四辻を過ぎて狛江三叉路の辺りで北に向かう品川道と分かれます
品川道 (いかだ道) の道しるべ
世田谷区ではいかだ道と表記しています。
これは、世田谷区喜多見の知行院の前にある道しるべ。登戸道との四ツ辻。
道しるべに従って直進、直ぐ先を右折。しばらく進み、左折します。左折すると長い直線道路が、しばらく続きます。
氷川神社の側を通り、道なりに進むと念仏車にたどり着きます。
キタミクリーンファーム
途中右側に、キタミクリーンファームという、世田谷区の水耕栽培施設があります。
世田谷区の知的障害者就労支援ネットワークの一環として運営されている知的障害者通所授産施設です。
念仏車とは念仏を唱えながら廻すものであり、一回廻す毎にお経を一巻読んだと同じ功徳があるとされ、念仏の功徳をより
効率良く広めるものとして造立されたと考えられています。この念仏車には石造四角柱の上部に六角形の車輪が取り付けら
れており、各面に六字名号の各字が刻まれています。
品川道 (いかだ道) の道しるべ
世田谷区ではいかだ道と表記しています。
これは、世田谷区喜多見の念仏車の脇にある道しるべ。
念仏車の脇にある道しるべをまっすぐに行くと、滝下橋緑道の脇から、二の橋交差点にぶつかり世田谷通りに出ます。
世田谷通りに出る手前に大きなケヤキの樹があります。
慶岸寺の境内には、塩地蔵と呼ばれる地蔵尊があります。狛江市のホームページ、語り継ぐむかしによれば、子育てや安
産の守り仏として遠方からお参りにくる人が、かつては見られたと言う話です。
お礼に塩を供えるので、塩の山が見られたそうです。
元は世田谷通りの二の橋近くにあったと言います。
多摩地方で最も古いと言われる庚申塔が慶岸寺の墓地入口にあります。寛文 2 年 (1,662 年)のものだそうです。
一の橋交差点から、野川迄、世田谷通りに沿って、六郷用水が流れていました。正式には 六郷用水と呼びますが、次大
夫堀 と呼ばれてきました。一の橋、二の橋は今では交差点の名前に残るのみですが、かつて実際に橋がかかっていまし
た。今の滝下橋緑道がその跡だと思います。
滝下橋緑道、にごりや酒店の辺りにひっそりと建っているのが、滝下橋石柱と思われます。
次大夫堀は、今から 約400年 前の江戸時代のはじめに徳川家康の家臣、小泉次大夫吉次 の指揮監督によって造られ
た農業用水です。
現在の福祉会館通り水神社ところに多摩川からの取入口があり、福祉会館通りからいちょう通りへと続き、岩戸で野川を
合流し、大田区六郷方面の水田をうるおすのが最大の目的であったと言われています。
福祉会館通りを流れる六郷用水に架かっていた今では交差点の名前に残るのみの、田中橋石柱とエコルマホール前に架
かっていた駄倉橋石柱が旧所在地の近くに残されています。
世田谷区喜多見には、次大夫堀公園があります。
世田谷通りに出る手前に大きなケヤキの樹があります。
滝下橋緑道の向かい側のお店
喜多見美登利寿司
最近では少なくなってしまった職人さんの握る本格派。2 階 には座敷もあります。結構お客さんが並んでます。
毎月一回出前のサービスデイがあるようですから、一度頼んでみては如何ですか。近くに同じようなお店がありますので、
間違えないでください。
狛江で行くならこんな店でご紹介しています
一の橋の交差点に立つ文政六年(1823年)の石橋供養塔
東六郷/江戸道・西登戸/府中道・南家村道・北ほりの内/高井戸道 と道しるべが刻まれています。
品川道と大山道 (登戸道) は念仏車の所から同じ道を進み石橋供養塔の四辻を過ぎて狛江三叉路の辺りで北に向かう
品川道と分かれ南に向かい和泉と猪方の境を通る古い道を進んだようです。
泉龍寺弁財天池の湧き水は、清水川として和泉・猪方・岩戸の境界点から、深い堀割を流れて猪方の天神 ( 菅原神社 )
下に流れて(今のニ中通りがこれにあたる)いたそうですが、大山道の本道はこの川に架かる二ツ橋を渡って登戸に向か
ったと言われています。
南家村道は村への道、岩戸地域センターの前を抜けて突き当たり、右に曲がれば直ぐ先で左に曲がる三小通りに出ます。
猪方方面に向かう道です。左に曲がれば一中通りを岩戸八幡神社方向に進み慶元寺幼稚園の前で大山道に通じます。
北ほりの内高井戸道は岩戸交番を入り井伊出森稲荷の前を通りさくらや酒店の所で小田急線高架を渡り、電研東通りか
ら、真直ぐ行けば覚東のいなげや前に出ます。谷戸酒店の前を左に曲がれば、三島保育園・狛江五小・千手院前を通り、
御台橋に抜けます。どちらの道も、鎌倉道(高井戸道)に出られます。
伊井出森稲荷
多摩川下流の地域には大名領は少なく,彦根藩井伊家世田谷領が唯一のものだったそうです。井伊家は徳川幕府の譜代
大名の筆頭で,幕閣の中枢にあり関東で下野国佐野領と武蔵国世田谷領を飛地として支配していました。寛永十年(1633
年)に多摩郡岩戸村、猪方村、和泉村(狛江市)など15村を所領とした世田谷領が成立したと言います。
井伊掃部頭(かもんのかみ)ゆかりの稲荷と伝えられる伊井出森稲荷は明治中期から大正の始め頃迄、、「岩戸の稲荷さ
ま」とか「稲荷さま」と呼ばれて、遠くからも信者を集めて賑わったといいます。
稲荷の社前に据えられた新しいキツネの石像の後にあるキツネの石像は、四谷の布袋屋呉服店が、明治四十二年に奉納
したもので遠くからも信者を集めていた事をうかがわせます。
(左)向かって左のキツネ、台石正面に布袋屋呉服店 (右)向かって右のキツネ、台石正面に東京・四谷
新一の橋の交差点のちょい先のお店
狸小路
ラーメンのお店。皮から手造りの大ぶりの餃子が売り物。
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さて、新一の橋を過ぎて狛江の三叉路で大山道は北に向かう品川道と分かれ南に向かいます。
鮮魚の泉家さんに沿って左に曲がります。
泉家さんは大正の始め頃に一膳飯屋として賑わい、銀行町の発展により、飲屋となり、最盛時には二子や調布から芸者衆
を呼ぶ宴会もあったとの事。今でも仕出しに往時の名残りを留めています。
この辺りが「狛江銀座」と言われ、明治大正の頃、銀行町とも呼ばれ大変賑わった所だそうです。昭和二年に小田急線が開
通して、次第に盛り場としての賑やかさは失われたようですが、明治の終わりから大正時代にかけては、狛江最大の繁華街
だったと言います。
そばの「高麗家」さん、肉の「鳥政」さんなども銀行町の時代から続く老舗のお店です。
道なりにしばらく行くと、二ツ橋で清水川(岩戸川)跡を渡り、坂を登ります。橋はありませんが、二つの流れを思わせる道が、
世田谷通りから、ここまでの区間に残っています。
この地点は、二つの用水が並行して流れていたのだそうで、下の写真右の狛江銀座よりを谷田部稲荷を水源とする用水が
流れ、左側を泉龍寺弁財天池を水源とする用水(清水川)が流れていたのだそうです。
下の図は、田中橋児童遊園前の次大夫堀と田中橋の説明板です。
地元の皆さんのお話からはこちらの水路図の方が分かりやすく正確に示されているようです。
清水川の水源は泉龍寺の弁財天池とやや右下の池、谷田部稲荷の池になっています。
世田谷通り南の二つ橋で合流し岩戸川として東に向かう流れと、二中通りを白幡菅原神社に向かう流れとに分かれていま
す。さらに、白幡菅原神社の手前で東方向に分水しています。
二中通りと水道道路の交差点付近のお宅で伺ったお話では、水道道路の北側を川が流れていたと言います。
白幡菅原神社の前には共同洗い場があって、近所の皆さんが洗い物をしていたそうです。
水道道路の南二中側は道路があったものの野道でリヤカーがやっと行き違える道幅しかなく、二中の辺りは一面の田圃が
拡がっていたのだそうです。
右手は今も畑の残る細い道になります。
庚申塔 (猪方一丁目)
猪方 1−6三叉路の角に文政九年(1826年)に建てられた庚申塔があります。
東江戸青山道、西大山道、南野道と刻まれています。
南の道(南野道)を進むと狛江バッティングセンターの横で三小通りに突き当たり、北向き地蔵があります。
西大山道を真直ぐ進むと十幹森稲荷の所で現在の世田谷通りにぶつかります。
大山道は猪方 1−1の三叉路を左に進み、水道道路を渡り斜め右に入って行くと、信号機のある十字路に出ます。信号を
渡って左に白壁の塀が目立つ家があります。
この家の右向かい側の角に、文化三年(1806年)の石橋供養塔があります。江東橋の石橋供養塔です。猪方用水に架か
っていたんですね。
水道道路を渡り斜め右に入って直ぐの道を左に曲がると、庚申塔 (猪方三丁目)に出ます。
庚申塔の手前、前原塚古墳の横手には地蔵尊が鉄柵に囲まれてあります。
この辺りで、鎌倉道(登戸道)と合流したようです。
左折して坂を下り左に向かうと猪駒通り方面の信号機のある交差点となり、すぐ先が多摩川の堤防です。
渡船場
最後の渡船場は今の多摩水道橋と小田急線鉄橋の間にあったそうで、今でも多摩川土手から河原に下りる斜めの道が残
されています。対岸の登戸にも同じように貸しボート屋さんがあります。
猪方 1−6の角の庚申塔を左に曲がる南の道(南野道)を進むと三小通りに突き当たり、猪方一丁目の北向き地蔵の辺り
に出ます。狛江の中道と呼ばれる通りです。
猪方一丁目の北向き地蔵
巡礼供養塔 (猪方二丁目)
地蔵尊をさらに右に進み、水道道路を隔てて南に下ると年不詳の巡礼供養塔があります。
東江戸道 南のぼりと道 と彫られています。
左(東江戸道)に曲がると菅原神社の前に出て二中通りにぶつかります。
南(南のぼりと道)に下ると猪方交番とスーパーダンの中間で猪駒通り(大山道、登戸道)に突き当たります。
白幡菅原神社
狛江の鎮守様 ( 旧六ヶ村にそれぞれ鎮守様があります )
伊豆美神社 - 和泉
小足立八幡神社 - 小足立子ノ権現三島神社 - 覚東
岩戸八幡神社 - 岩戸
白幡菅原神社 - 猪方
日枝神社 - 駒井
二中通りと水道道路の交差点付近のお宅で伺ったお話では、水道道路の北側を川が流れていたと言います。
白幡菅原神社の前には共同洗い場があって、近所の皆さんが洗い物をしていたそうです。
水道道路の南二中側は道路があったものの野道でリヤカーがやっと行き違える道幅しかなく、二中の辺りは一面の田圃が
拡がっていたのだそうです。
白幡菅原神社の前の共同洗い場の石が二中の校歌の歌碑の石段として今も残されています。
庚申塔 (猪方三丁目)
猪方二丁目の庚申塔のちょっと手前を右に曲がる「狛江の中道」には今でも畑の真っ只中の四辻に庚申塔があります。
地蔵台石(猪方三丁目)
この庚申塔の辻を北に向かうと直ぐの所に、先に記した地蔵尊があります。
お地蔵様は新しそうな気もしますが右横に置かれた地蔵台石は寛政九年(1797年)のもので、次のように刻まれています。
南大山道 北 □ 道
この庚申塔の斜め右の畑の奥に前原塚古墳があります。
前原塚古墳
道路よりの畑は毎年美味しそうな枝豆が作られています。
この庚申塔の左手には猪方前原樹林地があります
猪方前原樹林地
真直ぐ進むと玉泉寺の前に出ます。
和泉多摩川駅南口前のお寺