*けんじ*の事故から10年 そして 【はたちのけんじ】OPENから7年

 事故に遭ったとき、けんじは17歳だった。高校二年生だった。将来に夢をはせ、未来に限りない可能性を秘めていた。

 年末にけんじは事故に遭い、わたしはけんじの病室で正月を過ごした。 病室に響く、警告音。脈拍は0が表示されたり、170が表示されたり。血圧は常に170を超え、200を突破した瞬間もあった。
10年経ってもあのときの驚きと悲しみは色あせることなく思い出せる。

 病室から外の景色を見ると、けんじの病室の窓からは桜の木が見えた。「けんじは桜の季節をむかえられるのか...」「桜が咲くまでこの病室に居るのか」などと考えていたことを今でも鮮明に思い出せる。
けんじは梅雨の季節をむかえるまで、その病院にいた。心無い医師の言葉、看護師の言葉・態度にけんじの家族が傷つけられたことも少なくはなかった。
 年が明け、阪神大震災の映像、地下鉄サリン事件の映像、いずれもけんじの病室で見た。「世の中には思わぬ苦しみに襲われる人がこんなに居るんだね」という言葉も叔母(けんじの母)を慰める言葉にはならなかった。単にわたし自身をなんとか納得させようとする言葉に過ぎなかった。しかし、けんじの事故があったため、わたし自身は阪神大震災・サリン事件どちらも「他人ごと」ではなく、「自分の責に負わざることで苦しめられ、闘う仲間」と勝手な親近感のようなものを抱いていた。

 今年は阪神大震災から10年。同じく地下鉄サリン事件から10年ということで、「その日」にはTVは当時を振り返る番組が多く放映されることと思われる。当事者にとって、10年はきっと「あっ」という間の時間であったと思われる。わたし自身、あの事故から10年という月日が経過しているにもかかわらず、記憶も思いも薄れることなく残っている。、あのときのことを再び書こうとすると、やはり涙が流れる。けんじが事故に遭った当時から、ホームページを立ち上げる方法は知っていたが実現できなかった。悲しみのあまり、事故のことを書くことができなかったからだ。3年経っても、悲しみは癒えなかった。だが、加害者側の人間たち(一番は、社長)の仕打ち、新聞の取り上げ方の偏り、加害者は出席することもなく、被害者だけが毎回毎回悲しい事故を語らなければならない裁判、あまりにも被害者側にばかり負担が発生する理不尽さをどこかに訴えなければいられなかった。それが、事故から3年経ってサイトを立ち上げた原動力であった。
 つたない文章であるにもかかわらず、賛同してくれた被害者仲間の方々、そして被害者の気持ちを理解してくれた一般の方々、加害者としての意見を下さった方々、多くの方からの励ましを得て、ここまで続けることができた。
 事故から3年目にホームページをオープンした。上記の思いからだった。同じ思いをしている人々に情報を提供したい..という目的もあった。なかなか情報を収集できず、体験談中心となっているが、それでも同じ境遇になってしまった人が、これからどういった手続きが待っているのか、どんな心持で臨むものなのかなど、多少はお役に立てた情報もあるようだ。

 ここ最近は更新が滞りがちであるとはいえ、それでも「はたちのけんじ」をここまで続けることができた。けんじの事故から10年という節目のとしてもあり、提供する情報を厚くすることができれば...と考えている。