「仏教インド再興」を夢想したブータンの野望の跡? アンバリ・ファラカタ
旧ブータン領
現在のブータンやファラカタ地図 PDFファイル
ブータンといえばヒマラヤの麓にあるチベット仏教の王国。鎖国体制を敷いていて、外国人観光客の入国は年に3000人足らずに制限しており、グローバル化の流れに抗して伝統文化を守るためにけなげに頑張っている小国のイメージがあるが、国民に「ゴ」という江戸時代の着物のような民族衣装の着用を法律で義務付ける一方で、英語を第一公用語にして学校教育も英語で行っているため若者たちは自国語(ゾンカ語)の読み書きができなくなっているとか。近年では南部に住むネパール系住民への抑圧が続いて12万人もの難民を出し、「民族浄化だ」と非難されたりもしている謎の国です。
さて、そのブータンには近年までAmbari Falakattaという飛び地がインド領内にあったという。しかしその場所やいつからいつまで存在したのか等はまったくの謎。海外の飛び地系サイトを見ても「未確認」だの「詳細不詳」となっている。
ところで最近、インドではヒンズー教至上主義のインド人民党が政権を握り、「イギリス植民地時代の地名を、インド本来の地名に戻す」とボンベイはムンバイに、マドラスはチェンナイに、カルカッタはコルカタに変えられましたが、じゃあファラカッタも実はファラカタなのでは・・・と改めて調べてみたところ、ブータン国境に近い西ベンガル州にAmbari Falakataという駅が存在することがわかった。Ambari Falakata駅があるのはファラカタという町で、アンバリはその近くの町。で、ファラカタ周辺の少し古い地図を見てみると、ファラカタの町の外れにブータミーグバート(Bhutmigbat)なる地名が・・・。
アンバリ・ファラカタ駅はブータン国境から約60kmの場所にあり、ブータンへの玄関口のような駅だ。他にもブータン国境ギリギリまで鉄道が何本か走っているが、それらはいずれも狭軌のローカル線で、インド国鉄の幹線とはレールの幅が違うので列車が直通できない。コルカタなどインドの主要都市から列車が直接やって来れる路線では、アンバリ・ファラカタ駅が最寄り駅ということになる。
じゃあ、アンバリ・ファラカタはブータンへの玄関口にあたる場所だからブータンの飛び地ができたのかといえば、そうではない。ファラカタに鉄道が開通したのはわりと最近のことで、戦後インドが独立した際に、イスラム教徒が多かった東ベンガル州はパキスタンの一部(東パキスタン、現在はバングラデシュ)として分離独立したので、自国領だけを通って東のアッサム地方への路線を確保するために、新たに建設されたものだ。
今でこそヒマラマの小国のブータンだが、17世紀から18世紀にかけてはドゥアールと呼ばれる南の平野部へたびたび侵攻して、クチビハール王国からアンバリ・ファラカタ一帯を奪ったり、アッサム北部を支配したりした。
1955年のファラカタ周辺の地図(クリックすると拡大します)1900年にラサに滞在した河口慧海によれば、当時のチベット人の間ではインドで仏教が衰退してしまったことを憂い、いつの日か救世主が現れてチベットからインドへ攻め入り、お釈迦様の故郷で仏教を再興することを夢想していたとか。ブータンはダライ・ラマが率いる新教(ゲルク派)にチベットを追われた旧教(ドゥクパ・カギュ派)の法王が1616年に建国した国だが、「チベットはダライに奪われたが、それならインド解放だ!」と張り切っていたのかも知れない。
その後、18世紀になると新たに進出してきたイギリスと衝突。クチビハール王国は1773年に、アッサムは1826年にイギリスの支配下に入ったが、ドゥアールをめぐっても1864年にイギリスとブータンの戦争になった(ドゥアール戦争)。敗北したブータンは翌年、年間5万ルピーの補助金を受け取ることと引き換えに、ドゥアール地方の支配権を放棄したが、この時アンバリ・ファラカタの飛び地だけは残されたようだ。
インドとブータンは1960年代前半に正式に国境を画定したが、アンバリ・ファラカタの飛び地はこの時に消滅したものと思われます。ドゥアール戦争の時にブータンは東南部のデワンギリ周辺83平方kmをイギリスに割譲したが、インドは1951年にこれをブータンへ返還した。ひょっとして飛び地はデワンギリと交換でブータンが正式に領有権を放棄したのかも知れない。
「ブータミーグバート」なる地名は現在ではどうなっているんでしょうね?イスラム国家を作ったパキスタンが新しい首都イスラマバードを建設したように、ブータンはインドに仏教国家を作った暁にはブータミーグバートを首都にするつもりだったのかも・・・・なわけないか。
★これもインドにあったブータンの飛び地?:「ブータンハウス」
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チベットへの玄関口にあたるインドの町がカリンポン。ここにブータンハウス(ブータン屋敷)という建物があって、そこはブータン領の飛び地だったとか・・・。
カリンポンはイギリスがブータンから奪った土地だった。カリンポンはもともとシッキムの一部だったが、18世紀にブータンが征服し、ドゥアール戦争によって1865年にイギリスが獲得した。その際にイギリスがブータンに土地を提供して建てさせたのがブータンハウスだ。
ブータンはイギリスの保護国になり、外交権がなくなったから、国外に大使館などは開設しておらず、唯一の対外窓口がカリンポンのブータンハウスだった(ただし、カルカッタやチベットに貿易事務所は置いていた)。大使館なら外交特権はあっても、その国の領土にはならないのだが、ブータンハウスは大使館ではなかったので、外交特権はない。カリンポンは英領インド直轄のダージリン州(後に西ベンガル州)になったが、ブータンハウスには大使館並みの特権を与えるために、ブータン領ということにしたらしい。もっとも当時のイギリスにとっては、直轄州であろうが保護国領であろうが、イギリスの支配下にあったことには変わりなかった。
ブータンハウスを管理していたのはブータン政府かと思えば、そうではなく、隣接するハ地方の大名だったドルジ家で、ドルジ家の冬の別荘としても使われていた。ドルジ家は国王のワンチュック家に匹敵する実力を持ち、国王と姻戚関係を結んだり、首相を務めていた。しかしドルジ首相は1964年に暗殺されて権力から失墜。現在ではブータン政府はニューデリーに大使館を置き、ブータンハウスの役目は終わっている。
★日本人の学者が「発見」したブータンの首都
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現在ブータンの首都はティンプーだが、かつての首都はプナカにあった。1960年代まで、ブータンと密接な関わりを持っていたはずのイギリスを含めて、世界地図ではブータンの首都は「プナカ」と記されていた。しかし1958年に京大の植物学者・中尾佐助氏が単身ブータンへ探検に行き、プナカを訪れたところ、そこは人気のない古城を抱いた「死の谷」のような場所だったという。
――いまはプナカの地は悪疫のはびこる谷間、だれも住まない谷だ。古城のまわりには家のかげもなく、それらのくずれ去った跡らしい塚が散在するだけ(中尾佐助 『秘境ブータン』 毎日新聞社 1959)そして中尾氏はティンプーで王宮を発見し、ブータンの首都が移転していたことを世界的に明らかにした。もっとも新首都のティンプーも当初はこんな様子の場所だったようだ。――ブータンにおける都邑は次のとおりであるが、これらはいずれもいわゆる都市の形態をなしていない。ティンプウ:王宮の所在地であり首都と言うべき所であるが、平屋建の家、竹ゴザの仮小屋、露天商店街といったものがあるのみである。(『ブータン事情』 外務省アジア局南西アジア課 1961)外国人に「発見」されるまで、首都が移転したことを世界各国に知らせなかったというのもヘンな話だが、ブータンはイギリス、後にインドの保護国で、当時は外交権はなく国連にも加盟していなかった。国交を結んだ国がないから、大使館や領事館を置いた国も存在しなかった。どこの国とも付き合いがなかったのだから、「首都が移転しましたよ」とわざわざ知らせる必要もなかったということだろう。それに当時のブータンは鎖国政策に加えて、車が通れる道はなく、空港もなかったから、訪れる外国人はほとんどおらず、中尾氏も王家の人たちと一緒にインドから歩いてゆき、ヒルの大群に襲われながらようやくたどり着いたほど(※)。※1958年にインドのネール首相がブータンを訪問した時、ブータン政府内で「馬に乗ってティンブーへ来てもらうか、駕籠に乗って来てもらうか」が問題となり、峠道が悪路すぎて馬では無理だと特製の駕籠が作られたが、「ネール首相は人夫があえぎながら担ぐ駕籠に乗る人ではない」と使われず、結局ロバに乗ってやって来たとか。バロとティンプーに首都マーク(下線)がある1970年代初めの地図ブータンは20世紀初めまで、チベットのように転生で受け継がれるチベット仏教の法王が支配する政教一致の国だった。チベット仏教にもいろいろ宗派があって、ダライ・ラマがゲルク派の法王なのに対して、ブータンのシャプドゥンはドゥクパ・カギュ派の法王だ。その法王のいた首都がプナカだった。
しかしブータンではやがて各地を支配する領主が戦国大名のように群雄割拠するようになり、1907年に東部ブータンのトンサ地方の領主だったワンチュック家が、イギリスの後押しを得て国王に即位して、君主制国家に移行した。そして当初は自らの領地にあったブムタン谷の山の上のジャガ・ゾンの砦を王宮としたが(※)、その後は国王が変わるたびに王宮が移転して、二代目国王は平野部のオンディシリンに王宮を移し、1952年に即位した第三代国王が王宮を建てた場所がティンプーだった。かつての日本で、天皇が変わるたびに藤原京とか飛鳥京とか都を移していたのと似たようなノリだ。
※初代国王がブータンの政治の中心地だった西部から遠く離れた山奥を首都にしたのは、王制に不満を持つ既存の政治勢力からの攻撃や暗殺を防ぎ、中央集権化を進めるためだった。しかも当時のブータン人には夏と冬で住まいを移動する習慣があり、王宮はパロにもあって国王は冬の間はこちらで過ごした。さらに各地の大名もまだ力を持っていて、首相を務めていたドルジ家はハの大名だったが、冬は国外(カリンポン)の「ブータンハウス」で過ごしていた。そんな状態だったので、「首都を捜してようやく見つけた」というのも、無理からぬこと。その後第三代国王の下で、各地の大名は権力を失って中央集権化が進み、72年に即位した第四代国王は都を他へ移さなかったので、現在ではブータンの首都はティンプーで定着している。まぁでも、首都を捜したら見つかっただけブータンはまだマシな方で、世の中には「首都をいくら捜しても見つからない国」というのもある。例えば台湾の首都は、台湾中いくら探し回っても発見できない仕組みだ。なにしろ台湾政府(中華民国)の公式の首都は、南京ですからね(※)。北朝鮮の首都も現在では名実共に平壌ですが、1972年までは憲法で「首都はソウル」と決められていました。
※1980年代末から90年代初めにかけて、台湾で民主化や言論の自由化が進んだ時、台湾独立派が台北で創刊した新聞は『首都早報』だった(早報は朝刊の意味)。台北で「首都」と名の付く新聞を出すこと自体に、政治的アピールが象徴されていた。