| ■■ 酒井忠晴 経歴 ■■ |
[誕生]
昭和45年6月21日・埼玉県北葛飾郡三郷町(現・三郷市)で3200gで誕生
4人姉弟の末っ子で上は3人とも姉
[小学生]
幸房小学校2年生から父が監督を務める少年野球「幸房スターズ」に入部
最初はセカンド、すぐに投手になる
[中学生]
修徳学園中学の2年秋からショートでレギュラーに
[高校生]
修徳高校1年秋からショートでレギュラー
2年秋、チーム事情から投手に転向
3年夏、東東京大会決勝まで進むも、日大一高に敗れ甲子園の夢ならず
3年夏、東京選抜チームのエースとして日米親善高校野球大会に出場
[プロ入り]
1988年秋のドラフトで、優勝した中日ドラゴンズから5位指名。
1位今中慎二、2位大豊泰昭、3位山口幸司、6位清水雅治と当たり年。
[初出場]
1990年4月30日対広島東洋カープ(広島市民球場)
[初安打]
1990年4月30日対広島東洋カープ(広島市民球場)で畝投手から。
[守備固め]
年々出場機会は増えるものの出番は主に守備固め。
[初サヨナラ打]
1991年10月15日ダブルヘッダー2戦目、星野ドラゴンズ最終戦(対広島東洋カープ)。
4-4で迎えた9回裏、自らスクイズ失敗の後、片瀬投手からセンター前に弾き返してサヨナラ勝利。
しかし最終戦セレモニーや星野監督の挨拶のためヒーローインタビューは無し。
[高木守道]
1991年オフ、圧倒的有利から優勝を逃した星野政権が崩壊し、高木政権が発足。
後に「ダメ監督」の烙印を押されてしまう同氏だが、酒井さんにとっては運命の出会い。
同じ内野手出身の監督にその守備の素質を買われて出番が激増する。
[10・8]
1994年10月8日、中日−巨人最終戦(ナゴヤ)。勝った方が優勝という世紀の1戦だったが、全く出番なし。
[トレード]
1995年オフ、高木政権(途中休養)から星野第2次政権に移行したのを機に、高木派閥を一掃するために多くのトレードが成立。
酒井忠晴・仁村徹・山本保司←→前田幸長・平沼定晴・樋口一紀の3対3の大型トレードでロッテへ移籍。
また他にも前原博之(→西武)、清水雅治(→西武)といった高木政権時に活躍した選手は放出される。
[初お立ち台]
1998年4月29日、対オリックスブルーウェーブ(千葉マリン)。
5回1死1、2塁でフレーザー投手からレフトオーバーの決勝タイムリーツーベース。
プロ入り10年目で初のお立ち台に上がった。
[初ホームラン]
1998年4月30日、対オリックスブルーウェーブ(千葉マリン)。
0-1で迎えた5回裏1死2、3塁で星野投手のストレートをレフトスタンドへ逆転3ラン。
チームの首位を守る一打に2日連続のお立ち台。
[メジャー級]
冗談か本気か同僚のメジャーリーガー、フリオ・フランコが「連れて帰りたい守備」と発言。
この事件(?)をきっかけに良かれ悪かれ酒井さんは「メジャー級」と呼ばれることになる。
また同僚ブライアン・ウォーレンの代理人からもメジャーに誘われたという経歴あり。
年齢を考慮して断念。
[レギュラー]
1998年から打力を認められ徐々にスタメンに名を連ねるようになり、1999年には初芝のファーストコンバートもあり、
サードとしてレギュラーの座を勝ち取る。
2000年以降はセカンドとして主に9番を打ち、ショート小坂との二遊間は12球団一とも謳われ、
またバッティングでもしぶとさを見せ「恐怖の9番打者」と呼ばれた。
しかし9番という打順とチームの極度の貧打ぶりで1試合当たりの打席は3を超えず、わずかに規定打席には到達せず。
[初タイトル?]
1999年、失策数「17」で失策王のタイトルを獲得。
しかし当時は本職のセカンド、ショートではなく不慣れなサードでの出場がほとんどだったため、やむを得ない感が強い。
[16試合連続安打]
2001年6月2日対大阪近鉄バファローズ(秋田)〜6月24日対日本ハムファイターズ(千葉マリン)までの16試合。
ちなみに記録が途切れた6月25日にヒットを放っていれば23試合まで記録は伸びていた。
また6月の月間成績72打数29安打、打率.402、1本塁打で月間MVPも狙えたが、ローズ(大阪近鉄)が打率.356、14本塁打と、
とんでもない成績のため惜しくも逃す。
[初サヨナラホームラン]
2001年10月2日最終戦(対日本ハムファイターズ)。
5-5で迎えた延長11回裏の先頭打者。金村投手からライトスタンドへサヨナラホームラン。
初サヨナラヒットも最終戦。これもなにかの因果か?
[初の規定打席]
まだ実現されず。
[再びトレード]
2002年オフ、ロバート・ローズ入団の煽りを受けて波留敏夫(中日ドラゴンズ)とのトレードが成立。
古巣の中日ドラゴンズに8年ぶりの復帰。
[故障]
パワーアップを図るために積極的に取り入れた筋トレの影響か、マリーンズでレギュラーの座を掴んだがゆえに
人工芝による負担が蓄積されたか、下半身の故障が多くなる。
また2003年には右ひじを故障し初めての手術を経験することに。
[戦力外]
2005年オフに事実上の戦力外通告。
[トライアウト]
現役続行を目指し、自身初のトライアウトに参加。
守備などでアピールし、新球団東北楽天ゴールデンイーグルスの田尾監督の目に留まり入団が決定。
名目上は無償トレードだが実質はテスト入団。
| ■■ 年度別短評 ■■ |
1989年(プロ野球ai特別号・選手名鑑)
62年春の都大会、夏の東東京大会で準優勝。
高校時代はエースとして鳴らしたが、中日はバッティングのセンスを買って内野手として指名。
目標、ライバルは1年年上の立浪。下半身を強化すれば将来は一軍主力も可能。
1990年(プロ野球ai増刊・選手名鑑)
高校時代はエースだったが、プロに入って内野手にコンバート。
目標、ライバルは立浪だが、下半身の鍛錬やグラブさばきなど、まだまだ練習が必要。
1991年(プロ野球ai増刊・選手名鑑)
グラブさばきは立浪以上との声も。今年は守備要員として出場機会が増えそう。
非力な打力が課題。
1992年(プロ野球ai増刊・選手名鑑)
グラブさばきは立浪以上といわれる。
守備固めでの出場が多いが、もっとバッティングに磨きをかければ、
出場機会も守備だけでなく打席でもグッと増える。
1993年(プロ野球ai増刊・選手名鑑)
堅実な守りと打撃の成長で、昨年は大きく定位置に近づいた。
今年は結婚を機にもう一歩飛躍、正遊撃手の座にチャレンジする。
1994年(日刊スポーツグラフ・選手名鑑)
堅実な守備が売り物だが、もう一つアピール点が欲しい。待望の長男も誕生した。
機動力を身につけて売り込みだ。
1995年(日刊スポーツグラフ・選手名鑑)
鉄壁の守備が評価され年俸も大幅アップ。これに打撃力が加われば定位置どりも間違いなし。
守備要員からは卒業だ。
1996年(日刊スポーツグラフ・選手名鑑)
守りの野球を目指すロッテには欠かせない存在。
大事な試合終盤での貴重な守備がためとしての出場が増えそうだ。
1997年(日刊スポーツグラフ・選手名鑑)
ロッテには欠かせない守りのスペシャリスト。
だが、そのイメージを変えるためにも今年は打でのアピールを狙う。
1998年(日刊スポーツグラフ・選手名鑑)
ロッテに欠かせない守りのスペシャリスト。
だが、そのイメージを変えるためにも、今年は打でアピールする。
1999年(日刊スポーツグラフ・選手名鑑)
鉄壁の守りを見せるスペシャリスト。レギュラー獲得のためには打撃力アップが不可欠。
2000年(日刊スポーツグラフ・選手名鑑)
出来高払い契約で、勝ち試合で起用された際のポイント増を勝ち取った。
2001年(日刊スポーツグラフ・選手名鑑)
守備のかなめは今季も健在。華麗なグラブさばきで簡単に捕っているように見せる職人。
2002年(日刊スポーツグラフ・選手名鑑)
昨季は攻守ともに最高の成績を残し二塁の座を確保。守備のかなめとしてチームをまとめる。
2003年(日刊スポーツグラフ・選手名鑑)
8年ぶりの古巣復帰。抜群の守備力を武器にスーパーサブとしての働きを期待。
2004年(日刊スポーツグラフ・選手名鑑)
右ひじ手術など昨季は故障に苦しんだ。スーパーサブとして貴重な戦力だけに1年を通して1軍でプレーしたい。
2005年(日刊スポーツグラフ・選手名鑑)
中日を自由契約となったが、守備力は折り紙つき。計算できる野手として、スーパーサブ的な役割を求められそう。
2006年(日刊スポーツグラフ・選手名鑑)
戦力外から復活。内野の要として、打線ではつなぎ役として不振のチームを支えた。天下一品のグラブさばきは若手の見本。