喜田貞吉著作集4歴史地理研究、平凡社、383頁、4600円、1982.8.20
 
大八州国新考
大八州国の一としての佐渡が島
わが建国史上の出雲と大和と熊野
本邦太古の交通
五畿内の弁
上代の武庫地方
鵯越と一の谷
三島地方古代
河内の古代
山城北部の条里を調査して太秦広隆寺の旧地に及ぶ
中国考
五泊考――五泊の制定は行基の事業にあらず――
穴門考
出雲宍道湖付近の変遷と渟田門の所在
讃岐壇の浦考
江戸の町割
石城・石背両国建置沿革考
石城・石背両国建置沿革追考
『常陸風土記』年代追考――郷と里との名称について――
陸奥海道駅家の廃置を論じて多賀城碑に及ぶ(石城・石背両国建置沿革考余論)
勿来の関の新検討
地名の話
地理学に関する余輩の見解
 
 
(5) 大八州国新考
 
      一 序  言
 
 太古伊奘諾・伊奘冉の二神天浮橋に立たして滄溟を探り、ここに※[石+殷]馭盧島《おのころじま》を得たまいてこれを国中の柱となし、始めてみあいましてわが国土を産生し給う。そのうち八個の大島まず産れたるによりてこれを大八州国という。これ古伝のひとしく言うところ。しかもその八島を数うるもの諸説指すところを異にして、そのいずれが果して最古の説であったかを明かにし得ぬ現状にある。これについては余輩かつて明治三十年中に『宗教』という雑誌上で、「古史管見九則」と題した中の一項としていささか叙述したことがあり、その後明治三十二年十月本誌を発行するに当り、その創刊号に「※[口+幼]々斎地理維談九則」中の一項として、さらにやや精しくこれを繰り返したことがあった。今ここに「大八州国新考」と題して掲げんとするところのものは、必ずしも今にしてはじめて新たに考えついたという訳ではなく、過去においてすでにその片鱗を発表し、またしばしば教壇において説述したものを、整理発表して同好各位の批判を請わんとするにほかならぬ。もしすでに他の研究者よりも同様の意見が発表せられているようなことがあ(6)らば、それは偶合として御容赦にあずかりたい。
 
      二 いわゆる大八州として数えられる島々
 
 いにしえ大八州として数えられたる島々に一定の説のなかったことは、すでに上に述べた通りであるが、その中について普通には『古事記』の伝うるところが最も大衆的のものとして、一般に取り扱われているようである。しかしながら、その『古事記』にしても実は異本その伝を異にするところがあり、さらにその以外において、同書伝うるところの最古の形として推考せしめるところのものもある。また『日本紀』にはその本文言うところのほかに、二神の国土産生のことに関して十種の異説を掲げて、その中にいわゆる大八州と指すところの島名を列挙したものが五種、その本文および『古事記』所伝の説を併せて都合七種、さらに『古事記』異本の説を別に数うれば、都合八個の異説が伝えられていることとなる。しかしてさらにこの以外にも実は『旧事本紀』に収むるところの二説があって、都合十種の異説が存在することとなるのである。
 ここにおいてさらに右の十種の異説について精査するに、中には産生の順序その他に少許の異同があるのみにして、だいたいとして同一起原と解すべきものもあり、ことに『旧事本紀』収むる第二説のごときは、各島についてその別名を記すところなど、明かに『古事記』の文を抄録収載したに相違ないと認められるのであるが、しかもその文またその大切なる箇所に異同があって、ために『古事記』の古い姿を、推測せしむるうえに貴重なる材料を提供し得るのである。
 今試みにその異同を見やすからしめるために左に諸書言うところを列記してみる。
一、『古事記』(古訓本)
(7)  (一)淡路之穂之狭別島すなわち淡路島、(二)伊予之二名島すなわち四国島(此の島は身一つにして面四つあり、面毎に名あり、伊予国を愛比売と謂ひ、讃岐国を飯依比古と謂ひ、粟国を大宜都比売と謂ひ、土左国を建依別と謂ふ)、(三)隠伎之三子島すなわち隠岐島(亦名《またのな》天之忍許呂別)、(四)筑紫島すなわち九州島(此の島も亦身一つにして面四つあり、面毎に名あり、筑紫国を白日別と謂ひ、豊国を豊曰別と謂ひ、肥国を建日向豊久士比泥別と謂ひ、熊會国を建曰別と謂ふ)、(五)伊伎島すなわち壱岐島(亦名天比登都柱)、(六)津島すなわち対馬島(亦名天之狭手依比売)、(七)佐度島すなわち佐渡島(亦名を闕く)、(八)大倭豊秋津島すなわち本州(亦名天御虚空豊秋津根別)。
 以上八島まず生るるによりて大八島国という。次に吉備児島(亦名建日万別)、小豆島(亦名大野手比売)、大島(亦名大多麻流別)、女島(亦名天一根)、知※[言+可]島(亦名天之忍男)、両児島(亦名天両屋)を生むとある。
 右古訓本は本居翁が名古屋真福寺本に拠られたものであるが、賀茂本その他のある異本には、右の筑紫島の条を、
 此の島亦身一つにして面四つあり、面毎に名あり、(一)筑紫国を白日別と謂ひ、(二)豊国を豊日別と謂ひ、(三)肥国を速日別と謂ひ、(四)日向国を豊久士比泥別と謂ひ、(五)熊曾国を建日別と謂ふ。
と書いてある。しかしこれは面四つありと言いながらその実五面を列挙して、そこに明かに矛盾がある。ここにおいて平田篤胤翁の『古史成文』には、本書の「面四つ」を「面五つ」と改めて、『古史伝』もそれによりて説明を下してあるのであるが、実はそれにも疑問がないではない。なんとなれば『古事記』の本文には、どの異本にも皆筑紫島の下に「此の島も亦身一つにして面四つあり」とあって、上の伊予之二名島の「面四つ」というに対照せしめた書き方になっていて、平田翁の考えられたごとく、後人の不注意からたまたま「五」の字を「四」と誤写したものと、そう無雑作には考え難いものなのである。
二、『日本紀』
(8) 次に『曰本紀』はまずその本文において、前引『古事記』とはよほど違った説を持っている。すなわち、
  先づ淡路州を以て胞《え》となし、(一)大日本豊秋津州、(二)伊予二名州、(三)筑紫州、(四)隠岐州と(五)佐度州とを双生、(六)越州《こしのしま》、(七)大州、(八)吉備子州を順々に生み給うとある。しかして壱岐島、対馬島、および処々の小島は、これ潮沫の凝りて成れるものとも、あるいは水沫の凝りて成れるものともいっているのである。
 このほかに『日本紀』には、前記のごとく国土産生について一書の異説十種を収め、そのうちいわゆる大八州と数えられる島名を掲げたものが五説で、中についてその一書の第七の説のみは、多少その産生の順序の違うことと、亦《また》の名を付記してなきこととを除きては、だいたい『古事記』の説と同様であるが、その以外の四説は『古事記』とはなはだしくその趣を異にしたもので、ことにそのうちの三つまでが、『紀』の本文と同じく越州を大八州の一として数えている点において注意が促されるのである。そのいうところの島名左の通りである。
 (一書の一) (一)大日本豊秋津州、(二)淡路州、(三)伊予二名州、(四)筑紫州、(五)隠岐三子州、(六)佐度州、(七)越州、(八)吉備子州を順次産生す。
 (一書の六) まず淡路州と淡州とを胞となして、(一)大日本豊秋津州、(二)伊予州、(三)筑紫州、(四)隠岐州と(五)佐度州を双生、(六)越州、(七)大州、(八)子州を順次産生す。 (一書の七) (一)淡路州、(二)大日本豊秋津州、(三)伊予二名州、(四)隠岐州、(五)佐度州、(六)筑紫州、(七)壱岐州、(八)対馬州を順次に産生す。
 (一書の八) ※[石+殷]馭盧島をもって胞となして、(一)淡路州、(二)大日本豊秋津州、(三)伊予二名州、(四)筑紫州、(五)吉備子州、(六)隠岐州と(七)佐度州とを變生、(八)越州を順次に産生す。
(9) (一書の九) 淡路島をもって胞となして、(一)大日本豊秋津州、(二)淡州、(三)伊予二名州、(四)隠岐三子州、(五)佐度州、(六)筑紫州、(七)吉備子州、(八)大州を順次に産生す。
とある。
 以上『曰本紀』本文ならびに一書の五種の説の中で、『古事記』の伝えと同一系統のものと認めらるる第七の説を除けば、他の四説がいずれも『古事記』の毫も言及せぬ、否、『古事記』のみならず、他の古伝にかつて見るところのない越州なるものを数えて、当然数えらるべく考えられるところの壱岐と対馬との二島国を除外し、またその三説までが隠岐と佐渡との二島国を變生したと伝えている点が注意される。
三、『旧事本紀』
 最後に『旧事本紀』所収の二個の説は、本書の性質上ともに他の古書の抄録として、おそらくこれを別途の異説と見るの価値なきものなるべく、けだしその第一説は『日本紀』一書の第七の説と同様に、大体としてもと『古事記』の伝うるところと同一系統に出ずるものと見るべく、ただその産生の順序を異にすることと、いわゆる大八州以外吉備の子島以下の六島産生のことを伝うる点において、『日本紀』よりも精しく、いっそう『古事記』に近いものと認められる。またその第二説は、産生の順序といい、またその各島について亦《また》の名をいえるところまで、すべて『古事記』と同一で、ただその筑紫島の四面以外に熊曾国を置き、佐渡島を除いた点に著しい差異を見るのである。しかしてそれはおそらく『古事記』の最も古い形を伝えたのではなかろうかと思われ、自分のいわゆる「大八州国新考」なるものも、実はその出発点をここに有するのであった。よって節を分って後に詳説することとする。
 
(10)       三 大八州として数えらるる諸島の審査
 
 以上大八州として数うるところの島々の異同はいかにして起ったか、今まずこれを見やすからしめんがために右の数多の古伝言うところの諸説を左に表示して、いささか審査を加えてみたい。
    大八州諸説一覧表(数字は産生の順序を示す)
       淡州    淡路   四国 九州   壱岐 対馬 隠岐   佐渡   本州  児島 大島 越州
『古事記』   |    一    二  四   五  六  三(注一) 七    八
『日本紀』本文 |    胞(注二)二  三   |  |  四(注三)−五(双生)一   八  七  六
同、一書の一  |    二    三  四   |  |  五  六  一 八  |   七
同、一書の六  胞(注四)胞    二  三   |  |  四(注三)−五(双生)一   八  七  六
同、一書の七  |    一    三  六   七  八  四     五    二
同、一書の八  |(注五)一    三  四   |  |  六(注三)−七(双生)二   五     八
同、一書の九  二(注六)胞    三  六   |  |  四     五    一   七  八
『旧事紀』の一 |    胞一(注七)二 三   四  五  六     七    八
同   二   |    一    二  四(注八)  六  七     三    |(注八)八
(合計)   (一)  (六)  (九) (九) (四) (四) (九) (八)(注九)(九) (五)(三)(四)
 (注一) 『古事記』に、四国と九州との間に隠岐を置くことは、地理上の順序に違う嫌いがある。これはおそらく『旧事本紀』第一説のごとく順序するのが古い形であったと思う。しかし明かに『古事記』の古文を大体においてそのまま取れりと思わる(11)る『旧事本紀』の第二説にも、その産生の順序は今の『古事記』と同様なれば、太安麻呂の執筆当初から、おそらく『古事記』はこの形であったものと思われる。また『日本紀』一書の第七の説も、大体において『古事記』や『旧事本紀』第一説の所伝と同じ系統のもので、ただ産生の順序を異にするのみであるから、これら同一系統の諸説を一つと見れば、大八州と数えらるる島々に関する諸説は、現在知り得るところ、『古事記』『日本紀』本文、およびその一書の一、六、八、九の六種となる訳であるが、その一書の説も実は本文の説と大体において系統を一にするものと見るべく、したがってこれを大別にすれば、『古事記』と『曰本紀』との両系統となる訳である。
(注二) 『曰本紀』本文に淡路州を胞となすといいてこれを別置し、以下八個の大島を数うるところを見れば、これは淡路島をもっていわゆる大八州の外に置いたものと見ねばならぬ。ことにその説明の文に、「意に快からざる所、故に之を名づけて淡路州といふ」とあることは、『旧事本紀』の第一説に、「先づ淡路州を産生して胞となす、意に快からざる所、故に、淡道州といふ、即ち吾恥《あはじ》と謂ふなり」とあると同一意義のものである。しかも『旧事本紀』にはこれを胞となすといいながら、一方には明かにこの島をもって大八州中の一島に数えていることを見れば、この『曰本紀』本文の説においても、当然淡路はいわゆる大八州から除外すべからざるものでなければならぬ。ここにおいてか隠岐と佐渡とを双生すというがごとき苦しき理由を付してこれを一つに数え、もって大八州の数に充たせたものかと思われる。果してしからば『日本紀』本文の説は、
 (一)淡路、(二)本州、(三)四国、(四)九州、(五)隠岐および佐渡双生、(六)越州、(七)大島、(八)児島
ということになる。この以外にも淡路をもって胞となすとするもの一書の六および九あり、合せて四説の多きに及ぶ。けだし本来阿波路の義なる国名を吾恥などと誤り解して、子の数に入れずとある淡州との間に紛淆を生ずるに至り、ことに隠岐と佐渡とを双生として一つに数うべきはずのものを後には二つに数うるに至った結果として、淡州と紛れて淡路を除外し、ために胞となすというに至りしものと思われる。なおこの双生のことについては後節に精しく説明する。
(注三) 『日本紀』には、本文以外一書の中の二つにまで、隠岐と佐渡とを双生すとの説を収めてある。これは(注二)にいえ(12)るごとく、強いて八島の数に合わさんがために、実際上二島なるものを一つに数えんとした結果と解する。しかるに一書の方の説では、双生せりという隠岐と佐渡とを二つに数えざれば八島の数に足らなくなる。これは双生説の起った本来の意義が忘れられた後の潤色であろう。なお次の注を見よ。
(注四) 『曰本紀』一書の六に、淡路州と淡州とを胞となすとあるは他の例とも違い、単に伝説としても二個の胞の存在を語ることは異例であるといわねばならぬ。けだしこの伝説のもとの形は、まず淡州をもって胞となし、淡路州以下を大八州と数えたものであったであろう。しかしてこの場合双生の隠岐と佐渡とはこれを一つに数うべきものであったが、後に本来の意義が忘れられて、これを二つに数うることとなったがために、普通見るごとく淡州のみを胞となすことのほかに、淡路をも八島の数から除外するの必要上、これをも胞に加えたものと解する。
(注五) 『日本紀』一書の八には珍しくも※[石+殷]馭盧島をもって胞となすとある。この島はその名のごとくおのずから凝《こ》りて成れるものとして、二尊により産生せられた他の島々とは別に扱われ、普通に胞となすものは淡州あるいは淡路州であるにかかわらず、ここに※[石+殷]馭盧島をもって胞となすとするものはけだし伝の紛淆より生じた結果であろう。
(注六) 『曰本紀』一書の九に淡州を大八州の一と数うることは他の例に見ぬところ。けだしもとは淡州をもって胞となし、淡路州は大八州の一に置かれたものであったであろうが、その淡路を吾恥と解し、わが意に充たずなどの説明を加えて大八州より除外し、これを胞となすとの説を生じたがために、その代りに淡州が置かれたものであろう。
(注七) 『旧事本紀』の第一説に、淡路を胞となすといいながら、しかも一方にはこれを大八州の一に数うることは矛盾たるを免れぬ。けだし両説を取り合せたものであろう。
(注八) 『旧事本紀』の第二説には、筑紫島の次に熊襲国を置いてそれを大八州の一に数え、しかもその下に「一云佐渡島」と割注してある。これについては後節に詳説する。
(注九) 『旧事本紀』第二説の熊襲国の割注なる佐渡島の名を計算に加うれば、この島もまた本州、四国、九州、隠岐とともに(13)大八州を数うる九説のすべてに収めらるることとなる。
 以上観察するごとく、いわゆる大八州として数えらるる島々に異同のはなはだ多きことは、もともと八島とは限らず多数の島名の中から、強いて八個の著名なる島嶼を選択せんとしたがためであり、それも時代により、また地理的知識の進歩に応じて、種々の変更を生ずるに至ったものであると解せらるる。以下節を逐うてそのしかるゆえんを説述することとする。
 
      四 大八州国の意義
 
 大八州国とは、わが国の古名の一として伝えられるところであった。しかしてそれは諾・冉二尊によりてまず八個の大島が産生せられたがために、然《し》か呼ばれたものであるとは、「記紀」古伝のひとしく言うところである。しかしながら、これについては当然種々の疑問がある。第一にその八島と指すところのものが、少くも現在伝えらるるところ大いに分って二つの系統に別れ、さらにこれを細別すれば、六説ないし九説の多きに及ぶというごとき、きわめてまちまちになっていることである。第二には『曰本紀』本文いうごとく、いわゆる大八州以外の諸島は、潮沫(あるいは水沫)の凝成するところとあって、わが国土の発生については、もともと産生凝成の両様の説の存在を示すこと、その他、八大島以外別に六島を選んでそれのみを産生とし、その以外を凝成とすること、産生に当ってある島を胞となすということ、隠岐と佐渡とのごとき遠く隔離されたる別個の島をもって、ことさらに双生とすること、いわゆる大八州の産生の順序、すなわち兄弟としての島の順序の各説はなはだしく区々たること等、等、数えあぐれは、そこに幾多の疑問が存するのである。
 案ずるにわが太古における国土発生に関する伝説としては、※[石+殷]馭盧島《おのころじま》の名の示すごとく、自然に凝成したりとなす(14)ものと、神霊の産生によるとなすものと、両系統の所伝のあったことには疑問がない。これはあるいはこれを語り伝うる民族の相違から起ったところの、別系統の説話として語られていたと解すべきものであろう。しかるにその両民族同化融合の結果として、本来両系統の説話が一つに結び付けられて、ある島々は諾・冉二尊の産生に係るもの、その他の島々は潮沫あるいは水沫の凝成によりて生じたものと、ここに総合的説話が成立したものであろうと思われる。
 しかしてその中にも主なる八大島を選びてこれを二尊の産生に係るものとなし、ために大八州国の名が起ったとか、あるいはその八大島まず生るるによりて、大八州国の名称が起ったとか説明することのごときは、まず第二次的の変化をなした結果であると解する。ともかくもその八大島が特に選択せられたことは、大八州なる語が本来八個の大島を意味するものであると解せられた結果であることに異議はなかろう。しかもこれを選択するに当りては、その最大なる本州、四国、九州の三島については問題はないとしても、その次に置かるべき五個の島々に至りては、その選択がはなはだ困難であり、ためにその指すところに種々の異説を生ずるに至ったのはけだしやむを得なかつたことであろう。
 もともと大八州なる名称は、決して八個の島という訳ではない。またこの名称の起った当時にありては、むろん八個の大島が特に指摘せられた訳でもなかったに相違ない。言うまでもなく「ヤ」とは多数を意味するの古語で、八咫鏡、八坂瓊曲玉を始めとして、八咫鳥、八尋殿、道路の八衢、物部の八十氏、八百万の神々等の場合の「八」いずれもこれである。素戔嗚尊の退治し給いしという八岐の大蛇は、頭が八つ、尾が八つあり、峰八尾、谷八谿に渉るほどの大きさであったといい、素尊これを斬って奇稲田姫を救い給い、これと婚し給うに当りては、八雲棚引いて八重垣を作ったという。いわゆる「八雲立つ出雲八重垣妻ごめに、八重垣作る其の八重垣を」である。「ヤ」の語の義もって見るべきである。元来「ヤ」の語が多数を意味することについては、これを「弥《いや》」の義に解せんとする古説がある。(15)しかるにこれに当つるに数字の「八」の字をもってしたがために、ついに八個の意味に解するようになったというのである。しかもこれについては余輩は、この古語の「ヤ」は本来数詞の「八」であったという説を持っている。わが日本語の数詞では、当初は八をもって最大限となしたものであったがために、自然その語が極大数の意を表わすこととなったというのである。しかしこれは事余談に渉るがために、他の発表の機会に譲りて今はただ驚かして置くのみに止める。ともかくも、もと大数を意味して用いられたはずの「ヤ」の語が、後に数の八個として解せられるに至ったという事実においては疑問はない。かの素尊のために救われた奇稲田姫が八乙女の末女であり、毎年八岐の大蛇のためにその七女まで取られて、最後にただ一人のみ残されていたと語ることのごときは、まさしくその八乙女の語を八人の女子と解した結果である。また景行天皇には皇子多く、八十御子ましましたと語られた。しかるにそのうち某某の三皇子は日嗣の御子として選ばれ給い、他の七十七皇子は諸国の別《わけ》として分封せられ給うたと語らるることのごときも、またまさにその多数を意味する八十御子の語をもって、具体的に数の八十皇子と解したがためであるにほかならぬ。いわゆる大八州の場合また同様で、当初は多数の島々より成れる国、すなわち群島国の義をもって呼ばれたのであったところのものを、強いて八個の島より成れる国と解し、しかも他の島々また除外し難いもの多きがために、『古事記』のごとく八島まず生れたがゆえに大八州国というとか、また『曰本紀』本文のごとく、八島のみ二尊の産生に係るがゆえにこれを大八州国というなどと説明し、その他の島々は後に生れたもの、潮沫または水沫の凝りて成れるものとして、その間発生上に区別を生ずるに至ったものであろう。
 ともかくも大八州国の名称は八個の島より起れるものとして、さてわが群島の中よりその八個の島を選ぶに当り、そのいずれを果してその選に当つべきかについては、時代によって相違があるべきはずである。すなわちその時代の思想および地理的知識の進歩等によりて、自然そこに異なるものが選ばるべきである。中について『古事記』の伝う(16)るところのものは、各島に亦《また》の名なるものを付記して、その表現がすこぶる古風を帯びたかの感があり、またその選ばれたるところがいずれもわが群島中の最も著名なものを網羅しているがために、普通にはこれをもって大八州産生の代表的説話として扱われているようではあるが、実はその島々が、本州、四国、九州の三大島以外は、いずれも一国あるいは一島として後に独自の地方行政庁を置かれたもののみに限られて、大八州としては最も整った形を有し、おそらく大八州に関する諸説中の最新のものであると考えられる。しかしてこれに比すれば『曰本紀』の諸説(一書の七なる『古事記』と同一系統のものを除いて)は、いっそう古い形を伝えたものであり、『日本紀』の編者太安麻呂が、さきに、みずから執筆した『古事記』の説を捨てて、特にこれを採用した理由が認められるのである。なおこれについてはさらに節を改めて後に論及することにする。
 
      五 国土産生の意義に関する解釈
 
 太古われらの祖先がこの島国に足跡を印して後、その脚下に踏むところの国土の発生についていかに考えたであろうか。最初に生じた※[石+殷]馭盧島ははじめ諾・冉の二尊が天の浮橋に立たして、天の瓊矛をもって滄溟を探り給うたさい、その矛尖から垂れ落ちた滴りがおのずから凝り固まって出来た島であるという。名義のオノコロはけだし「自凝」の義である。しからば潮沫または水沫が凝って自然に生じたと言わるる島々も、当然自凝島たるべきはずである。しかもその中につき特に最初の※[石+殷]馭盧島のみが、国の御柱として、二尊御結婚のさいの行事の説話に取り入れられ、特殊のものとして扱われていることは、島嶼産生伝説と結び付けられた後の形態であろうと思われる。島嶼の発生が自然の凝成によるとの思想は、荒浪の打ち寄する海岸において、いわゆる潮沫の固まりて波間に浮薄する状態を見たものの、容易に思い及ぶところであったであろう。余輩しばしば冬季日本海岸を旅行して、強風のさい泡沫の大きな固ま(17)りが波上に浮び、あるいは風に吹き上げられて砂州の上に堆積し、あるいは海岸の樹木の枝にまでかかれる状を見て、古代人がさる考えを起したに無理はないと思うたことであった。
 しかるに一方にはまたこの島々が、他のあらゆる生物と同じく、祖神の産ませ給いしものとなす思想があり、その両思想が総合せられて重なる島々は二尊の産生に成り、他の島々は自然の凝成になるとの調和伝説を生ずる。またその重なる島々というが中にも、特にある八島のみが選ばれて、いわゆる大八州なる古語に適合せしめたものであることは、前節においてすでに説き及んだところである。しかしてその産生の意義については、従来すでに種々の合理的説明が下されている。曰く、二尊島々を生み給うとは、順次これを発見し、これを経営し給うたことをいったのであると。また曰く、島を生み給うとは島その物を生むとの謂ではなく、『古事記』の亦《また》の名の示すごとく、それぞれその島の主とます神々を生み給うとの義であると。しかしながら、これらはいずれも神話を解するに強いて人事をもってせんとするもので、神話解釈上妥当なる説明とはいい難い。よしや『古事記』の説はそれをもって説明し得たりとするも、『曰本紀』の諸説においてはこれをいかにせんとするか。要するに神話は神話としてただそのままに受取るべく、強いて然《し》かく合理的説明を下すの必要もなかるべきである。ただその産生の順序と、その選ばれたる島名とについては、そこにある意味の存在が考えられるのである。
 
      六 『古事記』所伝大八州説の考察
 
 まずこれを『古事記』所伝の説話について見る。そのいわゆる大八州として数えらるるところは、前記のごとくまず第一に淡路を置き、次に四国、隠岐、九州、壱岐、対馬、佐渡、本州と順序して、これをその産み給うところとなし、次に吉備の児島、小豆島、大島、姫島、知※[言+可]島、両児島《ふたごのしま》の六島を選びて、大八州の次に産み給うところとなして(18)いるのである。すなわちその特に大八州として選ばれたところの島々は、本州、四国、九州の三国の特大島はもちろんとして、その以外の五島いずれも後に一国あるいは一島として、独立の地方行政庁が置かれたところのすべてを網羅しているのである。この以外にも一島として建てられたものに、おそらく天武天皇の御代に設置せられたる多禰島《たねがしま》庁があり、天長元年にこれを廃するまでの間は、壱岐、対馬とともに西海道は九国三島と呼ばれたものであった。しかしこの島はもちろん新置のものとして、大八州の選定に入れられざりしは当然のことである。その以外の吉備の児島以下の六島は、わが群島国の中でも比較的大なるものであり、中にも児島および大島のごときは、『日本紀』の本文およびその一書の伝には大八州の中に数えられているにかかわらず、これらはいずれも一地方行政庁の所管とならざりしがゆえに、後に生み給うところとして『古事記』の説では大八州外に置かれたのであろう。しからばここに淡路、隠岐、佐渡、壱岐、対馬の五島のみが、行政上一国あるいは一島として認められるに至った年代はいつであったか。今にしてこれを明かにすべき史料はないが、しかし常識上おそらく大化改新のさい、もしくはその久しからざる後であったと思われる。しかして特にそれらのみが大八州として選ばれたこの『古事記』の伝説は、またおそらくそれ以後の思想をもって潤色整理せられたものとして見るべきものであろう。あるいはこれを逆にして、これらの諸島は古く大八州の中として数えられたほどの由緒ある島々であったがために、大化改新後も特にこれらを一国一島として、独立の行政庁の所管に置くに至ったのであると解することも可能であろう。しかし『日本紀』の本文およびその一書の三つまでが壱岐と対馬とを除外し、またその本文および一書の二つが淡路をまでも除外したことから考うれば、然《し》か解することは必ずしも妥当とは思われぬ。
 なおいわゆる大八州として選ばれた島々産生の順序について、淡路、四国の次に隠岐を置き、次に九州、壱岐、対馬、佐渡と順序して、最後に本州を生み給えりとする『古事記』の所説について、本居翁はその四国と九州との間に(19)飛び離れて隠岐の夾まれたることを疑われ、『旧事本紀』第一説のごとく、淡路、四国、九州、壱岐、対馬、隠岐、佐渡、本州と順序するをしかるべしといっておられる。また『日本紀』の諸説には多く本州を最初に置いていることにより、平田翁はその『古史成文』において、まず淡路島をもって胞となし、次に四国、九州、壱岐、対馬、隠岐、佐渡、本州と、これを地理的廻遊の順序に改めておられるのである。しかしこれもまた必ずしも然《し》かく厳格に、地理的の順序に拘泥する必要はなかろうと思う。『日本紀』所収の諸種の古伝、また必ずしも地理的順序に従わず、また『旧事本紀』の第二説も、『古事記』と同じく隠岐島を四国と九州との間に置くところを見れば、おそらく『古事記』は当初より今の順序になっていたことであろう。しかしてこの点においてはむしろ『旧事本紀』第一説の方が、もと『古事記』と同一系統の説によりながらも、ことさらにその順序を合理的に改めたものであると解せられるのである。なお『古事記』の大八州説については、その熊曾国の点に重大な疑問が遺されているが、これは佐渡の問題と関聯して別に説明することにする。
 
      七 『日本紀』所伝大八州説の考察
 
 次に『日本紀』所伝の諸説は、『古事記』と同一系統と認められる前記一書の七の説を除いては、いずれも壱岐と対馬とを除外し、また多くは淡路を胞として八島の外に置き、その代りに吉備の子州、大州、および他にほとんど所見なき越州《こしのしま》なるものを加えて、いわゆる八島の数に足しているのである。ここに大島とは、従来の諸説いずれもこれを周防の大島のことと解している。すなわち吉備の児島とともに瀬戸内海において東西相対する二大島が選ばれたのである。『日本紀』の諸説が、朝鮮との間に介在して古来いっそう著名なるべき壱岐、対馬の二島国を捨てて、内海のこの二大島を選べることは一見不可解の感なき能わぬ。しかしながら、これには沿革上二つの理由が考えられる。(20)その一は、元来この二島はもと具体的にそれを指すものがあったのではなく、なお『曰本紀』一書の六に単に「大州、子州」と並べ記したがごとく、当初はただ大小の島々というぐらいの軽き意味をもって、二尊産生の島々中の特に名を呼ばれた以外の諸島を網羅して漠然と語り伝えたに過ぎなかったところのものを、後に強いて八島を選ぶに当りて、吉備と周防とにこれを求めてその数に加えたものではなかろうかと思わるることである。また今一つは、当初わが島々の名を列挙した古語の中には、『日本紀』一書にその名の見ゆる韓郷《からくに》の島の名のごときも、当然数えられたりしものなるべく、したがってここに交通するうえに最も重要に、また歴史上著名であったはずの壱岐、対馬が除外せらるるはずはなかるべきであるが、しかも斉明天皇の御代に新羅離畔してより後は、世人韓土に関することを言うを好まず、自然韓郷の島が捨てられたとともに、壱岐、対馬よりもかえって大島、児島の方が選ばるるに至ったであろうということ、これである。
 次に越州《こしのしま》とは、『古事記』に異民族の国として熊曾の名が数えられていると同様に、当初はただ漠然とこれも異民族なる越人《こしびと》所住の国を数えたものであったと思われる。したがってこれもはじめは具体的にそれと指すべき島はなく、皇威の発展と地理的知識の進歩とによりて、時とともに移動すべき性質のものであり、時としては佐渡が島がそれと指摘せられた場合もあろう。谷川士清はその『日本書紀通證』において、「越州疑ふらくは今の毛人島歟」と言っている。これも阿倍比羅夫遠征以後は、その存在が都人士の口に膾炙するに至ったであろうがゆえに、『曰本紀』の編者はそれを意識して大八州中に加えたかも知れぬ。
 右諸島のほか『古事記』には、小豆島、女島《ひめじま》、知※[言+可]島、両児島《ふたごじま》の名が、吉備の児島および大島とともに、いわゆる大八州産生後に二尊の生み給える六島として数えられている。その小豆島が今の讃岐のそれであり、女島が今の豊後の姫島であり、また知※[言+可]島が今の肥前の五島、すなわち古えの値嘉島を指したものであることに論はないが、両児島(21)なるものに至っては、その指すところが明かでない。けだし当初わが群島国の島々を数うるに当って、大島、小島、越人の島などと、あらゆる島々を列挙し、その中に両児島の名も呼ばれたものであったであろう。しかしてこの意味からいえばかの女島《ひめじま》のごときも、当初は女護島ぐらいの意味をもって呼ばれたものが、後に豊後海上の一島として指定せらるるに至ったものであったと思われる。かくて後に大八州の語の「八」の数字に囚われて、その中から強いて主要なる島々を選ぶの必要を生ずるに当り、各その見るところによって種々の異説を生ずる。中にはそのいずれをも割愛しかねた九島を選択して、強いてこれを八島の数に充てんとしたために、隠岐と佐渡とを双生すとの説をまで生ずるに至った。なおこのことは節を改めてさらに詳しく説き及ぶことにする。
 
      八 日向国と熊襲国とに関する疑問
 
 大八州国に関する諸問題の中について、余輩の最も興味ありとするものは熊襲国と佐渡島とに関するそれである。
 まず熊襲国については、第二節に引用せる『古事記』の文にこれを筑紫四面の一として数えているのである。しかしながらまたその異本には、もしこれを一面として数うればその実筑紫五面となりて、上に「亦面有四」ということに明白なる矛盾を呈するというがごとき不都合を生ずる場合もある。しかしてさらにその『古事記』の文を抄録したと認められる『旧事本紀』の第二説には、上文略記するごとく熊襲国を筑紫四面の外に置きてこれを大八州中の一となし、その代りに佐渡を大八州から除いてここに三様の異りたる伝説が存在することとなるのである。その『旧事本紀』の全文、
  先生2大八州1、兄(トス)。生2淡路州1。謂2淡道之穂之狭別1。次伊予二名島(ト)謂。此島者身一而有2面四1。毎v面有v名。伊予国謂2愛【上】比売1。【西南角】讃岐国謂2飯依比古1。【西北角】阿波国謂2大宜都比売1。【東北角】土佐国謂2速依別1。【東南角】次隠岐之三子島謂2天(22)之忍許呂別1。次筑紫島謂。身一而有2面四1。毎v面有v名。筑紫国謂2白日別1。豊国謂2豊日別1。肥国謂2速日別1。日向国謂2豊久士比泥別1。次熊襲国謂2建日別1。【一云佐渡島】次伊岐島謂2天比登都柱1。次津島謂2天之狭手依比売1。次大倭豊秋津島謂2天御虚空豊秋津根別1。次生2六小島1。兄2吉備児島1、謂2建日方別1。次小豆島謂2大野手【上】比売1。次大島謂2大多麻【上】別1。次女島謂2天一根1。次血鹿島謂2天之忍男1。次両児島謂2天両屋1。
 惣産生大八州、次六小島、合十四箇島。其処処小島。皆是水沫潮凝而成者也。
とある。この文右の熊襲と佐渡とに関して現存『古事記』と著しい相違があるが、しかしその以外においてはただ少許の文字の異同があるのみにて、大体としてそれが『古事記』の文を抄録したものであることは、本書の性質上からも明かに認められるのである。しかのみならず現に『古事記』の異本には、筑紫四面の記事中肥の国のほかに日向の国を置けることこの『旧事本紀』の文と同じく、ただこの『旧事本紀』にほ熊襲国の上に「次」の一字を置いてこれを筑紫四面の外とすることと、『古事記』には佐渡を置く点とにおいて、両書間その趣を異にするに過ぎぬものもあって、いっそうその認識を深からしめるものがあるのである。
 『古事記』異本のこの重大なる異同については、本居翁はもっぱら真福寺本によりて、熊曾国を筑紫四面の一となし日向国を除くの説を採られたことは上述したところであるが、それについて翁は、『古事記伝』において左のごとく説明せられている。
  肥国と云より十三字、今真福寺本及一本に依れり。此処旧印本及延佳本又一本などには、肥国謂2速目別1、日向国謂2垂久士比泥別1と作《ア》り。されど如此《カク》ては、上に有2面四1云々とある数に合(ハ)ざれば、
  若(シ)如此《カク》日向国あるときは、必有2面五1とあるべき事なり。抑記中神たちの数を都《スベ》言《イヘ》るなどにも、其数の違へるに似たる事はこれかれ例もあれども、此処は指を屈《ヲリ》て計ふるまでもあらず。五(ツ)なることまぎるべくもあらざれば、然違ふべきことにあらず。(23)又此記はもと彼阿礼が口に誦し語をうつせるものなれば、物の数などは具《ツブサ》に空《ソラ》にはうかべがたくて、誦違《ヨミタガヘ》もありけむを、安万侶朝臣はた其語を重みし守(リ)て、私には正し改められざりしにやとも思へども、若(シ)然《サ》もあらむには其由を註にもしるさるべきに、然もあらず、又後に写し誤れる物とも見えず、古本のまゝと見ゆるをや。
 日向国のなき方ぞ古本《フルキマキ》なるべき。然るに右の如く日向国の加はりたる本《マキ》は、旧事紀に依て後人のさかしらに改めたる物とこそ思はるれ。
 旧事紀に右の如くあるなり。其は此記を取て記すとて、日向のなきを疑ひて、かの「日向日」とある亦(ノ)名を其《ソレ》として、下の「日(ノ)」字を「国」に改め、其下に「謂(ノ)」字を補ひて、「豊久士比泥別」を其日向国の亦(ノ)名とし、又然為るときは肥(ノ)因の亦(ノ)名「建(ノ)」一字になりて足(ラ)ざる故に、次の熊曾(ノ)国の亦(ノ)名に効ひて「日別(ノ)」二字を加へ、又さては熊曾のと全(ク)同じき故に、「建」を「速」に 改めつるものなり。凡そ彼(ノ)書はかくさまのさかしらいと多し。されど上の有2面四1とあるには心づかで、其《ソレ》をば改めずて、偽(リ)の顕れたるぞをかしき。然るを後人此旧事紀のさかしらなることを得暁らで、日向(ノ)国のあるを宜なりとして、遂に此記をさへに然改めつる、其(ノ)本《マキ》の世に流布《ホドコ》れるなりけり。但し「速(ノ)」字は旧事紀旧印本には「建」と作《カケ》れば、此字は此記の古本のまゝに取れりしを、さては熊曾(ノ)国の亦(ノ)名と同じき故に、後人の「速」に改めつるにもあらんか。書紀(ノ)口決、又元々集などに「晝日別」とあるも、「晝」は「建」と字形似たれば、其を誤れりと見えたり。若(シ)くは此記の古本、此字はもとより「速」なりしを、後に「建」とは誤れるにもやあらむ。若(シ)然らば「速日向」とは、早き朝日に向ふ意なるべし。日向(ノ)国に速日峯と云もありと云へり。
 抑日向(ノ)国の此に入らざることば、上(ツ)代に其地はなほ肥(ノ)国と熊曾(ノ)国との内にありて、未(ダ)別に一国には立ざりしなどの伝(ヘ)なるべし。
というのである。なお日向の国については、もとその北半分は肥の国の中で、南半分ほ熊襲の国に属したのが、後に(24)日向の名が熊襲の国の上に及んで「神代紀」に日向(ノ)襲といい、和銅二年日向の肝坏、贈於、大隅、哈※[衣+羅]、の四郡を割いて大隅国を置くということになったと説明しておられるのである。
 本居翁のこの説には賛同者多く、故文学博士佐藤誠実翁のごときも、『播磨風土記』に日向(ノ)肥人朝戸君の名あることによりて、「肥と日向とを分ちて云ふは後の事なるべし。速日向は全体にて肥をほめて云ふ枕詞の意なり。さればこゝに有面四とあるぞ正しき。異本旧事紀によりて肥国と日向国とを分けたるは非なり」といっておられる。
 しかしながら余輩の考究するところによれば、本居翁の見解はむしろその本末を顛倒せるにはあらじかと思われる。これを地理の実際から観ても、東面せる日向国と、西面せる肥国とは、その間に交通きわめて困難な脊梁山脈を夾んで、とうてい古代人の頭に一面として映ずべき形勢ではない。また佐藤翁の日向(ノ)肥人の説も、いわゆる肥人をもって肥の国の人とのみ狭く解するがゆえにこそさる見解も生ずるので、肥人実はクマビトにして、文化階程による民族的称呼と解すべく、奈良朝ごろには薩隅人にも肥人部姓のものがあり、必ずしも肥国人と限るべき必要はないのであった。筑紫島すなわち九州島をいくつかの面に分つに当って、肥と日向とを一つにするということは地理上とうてい許さるべくもないのである。
 またこれをその亦(ノ)名について観る。本居翁の古訓本は肥と日向とを一つとして、「肥国謂2建日向豊久士比泥別1」となすところの真福寺本に拠っておられるが、古本には多く「肥国謂2速日別1、日向国謂2豊久士比泥別1」とある。古訓本の言うところ「建日向豊久士比泥別」は、『古事記』所伝の他の島々の亦(ノ)名がいずれも簡単にして、その最も長々として本州の別名なる「天御虚空豊秋津根別」というものにありても、実はその「天」も、「御虚空」も、「豊」も、ともに美称、敬称で、これを除けば単に「秋津根別」というに過ぎず、その他のものも皆それに相当するほどの短きもののみなるにかかわらず、ひとり肥国の別名のみはあまりにも長々しくして、他の例と不釣合なるのみならず、その(25)「建日向」の三字はとうてい美称、敬称の類とも見難くして、その語の形からも二つの名の複合と見るぺきものとなるのである。ことにその豊久士比泥別の名は、「豊」の美称と、男子の号たる「別」とを除けば、単にクシヒネとなり、日向の高千穂の※[木+患]触《くしぶる》の峯というそのクシブルと同語であると解せられ、日向の別称として適当なものなのである。良行者と奈行者とは古え往々にして相通ずる。ツルガ(敦賀)の古名がツヌガ(角鹿)であり、イナニ(稲荷)と書いてイナリと訓み、伊藤博文公の出生地の東荷がツカリである類これである。クシヒネがクシヒレであり、クシプルであることそのゆえなしとは言えぬ。思うにこれはもと古版本『古事記』にあるごとくに、肥国と日向国との二つであったところのものが、本居翁言わるるところとは正反対に、「肥国謂速日別、日向国謂豊久士比泥別」の文の中に「日別日向」と「日」字が上下に重なっているがために、誤って上の「日別」の二字を脱落また「国謂」の二字が上下に重なっているがために下の二字を除き、「速」を「建」と誤り、「日向」の下に「日」を補って、すべてを肥の国の一国のこととなしたものと思われる。かく誤るについてもそこにしかるべき理由はあった。それはもと熊襲国が、『旧事本紀』のごとく筑紫四面の外にありて、これを大八州の一と数え、その代りに佐渡島がなかったものと想像すれば、容易に通ずべきものなのである。すなわち『古事記』所伝のもとの大八州には佐渡島がなく、その代りに熊襲国を筑紫四面の外に置いてその一に当てたのであったというのである。しかるに後にいわゆる熊襲国が事実上筑紫島すなわち九州島の一部であるとの地理的知識の普及と、および佐渡島の名が人口に膾炙せらるるに至りて、当然これを大八州の一に加うべしとするの思想とから、熊襲国を筑紫四面の中に加えて、その代りに佐渡島を補うの必要を生じ、しかもかくては筑紫五面となって、「此島亦身一而有面四」の語に合わなくなるがゆえに、たまたま起った誤写あるいは誤脱を機会に、ついにかの真福寺本のごとく、肥国と日向国とを一つにした異本を生じたものと思われる。されば古板本のごとく、上に「亦有面四」とありながら、その実五面を列挙するの誤りなるは勿論ながら、それは本居翁の(26)いわるるごとく、肥と日向とを二つに分ったがために生じた矛盾ではなくて、もと筑紫以外に置かれた熊襲国を、後に筑紫の中に加えた結果であった。したがってこれを平田翁の『古史成文』のごとく、「身一而面有五」と改めたところでもとの形に復すべきものではない。この点において『旧事本紀』は正しく古い形を伝えたものなのである。なるほど熊襲を一国となすことは、これを地理上から観ればもちろん正確ではない。しかし地理不案内な古代人の頭に映じたところ、単に西の国に熊襲なる異民族のあることのみを知って、これを一島に見做したことば不思議ではない。それはなお東北に越人の存在を知りて、『日本紀』の本文およびその一書の三つまでが、佐渡の次に、越州を置いたと同様である。平田翁の『古史伝』には上田百樹の考というものを引いて、越州とはその実佐渡島のことなりといえるは、もちろん従い難く、さりとてこれを『書紀通証』のごとく毛人島すなわち北海道のこととなさんは、後の地理的知識を古えに及ぼすの嫌いがある。けだしここに越州とは、もと漠然越人の国を島と見倣して然《し》かと呼んだものであったであろう。『日本紀』の一書に、かの朝鮮のことを韓郷《からくに》の島と呼んだ例も考え合されるのである。
 さて熊襲国がもと筑紫四面以外の一国として置かれたとして、これをいわゆる大八州の一島と数えたとすれば、その最初の形はなお越人の国を越州といったと同様に、熊襲島とあったのであろう。しかもそれを後の地理的知識から筑紫島の一部であることを知って、筑紫の四面をそれぞれに国といっているのに紛れてまず『旧事本紀』のごとく「次熊襲国」と誤写し、次には今の『古事記』のごとくその「次」の字をも脱して、ついに明かに筑紫島の一面なるかのごとき形となり、しかもそれにては五面となるべきはずのところを、肥国と日向国とを合せて一つとなし、もって四面の数に合せたというのが今の古訓『古事記』などの体裁である。ところで熊襲国が筑紫島の中となった結果として、大八州の数に一島の不足を生ずる。ここにおいてか今の『古事記』には、『日本紀』の所伝のままに佐渡州が選ばれて八島の数に足すことになったと思われる。しかしてそれを欠く『旧事本紀』の記事の方が、古い『古事記』(27)の形をそのままに保存したと思われるのである。『旧事本紀』はその序文にあるごとくこれを推古天皇朝編纂の国史となさんには明かに偽書となすべきではあるが、しかもその古書を抄録するところよく後の誤写、誤脱を訂正すべき場合があり、あるいは後に散逸したものが幸いにこの書によって保存せらるるというような場合もあって、すこぶる尊重すべきものなのである。
 
      九 佐渡島に関する疑問
 
 『旧事本紀』収むるところが『古事記』の古い形であり、それには熊曾を大八州の一として数えて、佐渡島を除いてあったとすれば、後にその佐渡がいかにして『古事記』に加えられたであろうか。
 案ずるに、大八州として選ばれた島々の数は「記紀」『旧事本紀』の九説を通じてすべて十三。そのうち各説に通じてその名の現われたものほ本州、四国、九州および隠岐の四島のみである。このほかに淡路もまたあるいは大八州の一として、あるいはこれを産生するための胞として、すべての説にその名が織り込まれ、しかして佐渡は実にこれにつぐものとして、右の『旧事本紀』第二説以外の八説にはことごとくその名が見えているのである。かくて次に吉備の児島をいうもの五説、壱岐、対馬、越州が各四説という順序になっているのである。その本州、四国、九州の三大島が、最も重きをなすものとしてすべての説に収められた事実は論なく、次に淡路島がその名のごとく阿波路の島であり、本州特にその中ツ国と呼ばれた上方地方より四国に渡るに必ず経由すべき島として、また隠岐島がすでに因幡の白兎の神話にも織り込まれ、古く開けたはずの出雲地方から日本海を航行する上に必要なる島として、ともにその名の人口に膾炙せらるることも十分認められるところであるが、佐渡島がそれにつぐものとして、朝鮮交通上必要であり、後には独立の地方行政庁が設置せられたほどの壱岐、対馬などよりも重きをなしていたであろうとは、すこぶ(28)る奇態な現象であるといわねばならぬ。けだしこれにはある隠れたる事実がひそんでいるのであった。
 案ずるに、佐渡はもと夷狄の島として知られ、比較的後の時代までも蝦夷の住処として放置せられていたのであった。ひとり佐渡のみならず、実はその対岸なる越後の地も、いわゆる越人《こしぴと》、すなわち越蝦夷《こしのえみし》の住所として久しく残されていたのであった。孝徳天皇の大化改新のさいにおいてまでも、今の新潟市の中なる沼垂地方に柵を築いて蝦夷に備え、ここに進出の内地人を保護する必要が認められたほどで、岩船の柵の築かれたのも同じ時代であったが、この方はさらにその後約五十年を経た文武天皇の御代に至ってまで、これを修築して警備にあつるの必要が認められたのであった。なおさらにその国府付近にも夷守《ひなもり》を置いて山間夷族の襲撃に備えたことは、ここに夷守郷の存在から知られ、同国古志郡の名もけだしいわゆる越人の久しく遺留した地方として得た名であったと解せられ、信濃境に近い魚沼郡の山間にほ、後世までもケットの名をもって、毛人《けぴと》すなわち蝦夷の遺※[蘖の木が子]の存在が語られたほどだった。降って平安朝も遷都以来約九十年を経過したほどの元慶四年に至ってまで、「東に夷狄の厄あり、北に海外の賊を伺ふ」との理由のもとに、越後には史生一員を省いて新たに弩師一員を置き、もって不慮に備うるの必要があったのである。否、ひとり越後のみならず、その西隣なる越中にありてすらおそらくその国府設置のさいにおいて、特に城塞をもってこれを擁護するの必要があったらしく、その布師《ふし》郷に設置せられた国府の地を今に伏木と称することは、けだし布師城《ふしき》の義であったと解せられるのである。なお越後の国府の地が頚城《くびき》郡と呼ばるることも、やはりその国府擁護の城塞から得た名であったかと思われるのである。
 かく本州の一部として陸続きなる越後にあってすら、右いうごときの状態であってみれば、その海中遠く離れて存在する佐渡島が、また久しく蝦夷の国として放置せられたであろうことば容易に想像せられ得るところでなければならぬ。佐渡の名が始めて国史に現われたのは天平十五年のことで、この年佐渡を越後に合すと『続日本紀』に見えて(29)いる。しからばこの島がその以前すでに一国を成していたことは明かで、おそらく大化改新のさいに一地方行政庁の管下に置かれたもので、けだし夷地開発の政策上より、特に一国となして夷族懐柔に任じたことであったであろう。されば天平十五年にいったん越後に合併したとはいえ、統治上やはり不便が多かったとみえて、その後わずかに九年を経て天平勝宝四年に至り、再び分置して尓後永く変更するところがないのである。しかしながら、この島における国家の教化は容易に一般民衆の間に徹底しなかったと見えて、その後約百三十年を経た元慶四年、すなわち対岸の越後に弩師を置いたと同じ年をもって、この国にもまた弩師一員を置き、もって国内の静謐に任ずることになった。その設置の理由として国府の言上の文に曰く、「此の国は夷狄の地として、人心強暴、やゝもすれば礼義を忘れ、常に殺傷を好む」とある。当時の状態もって見るべきであろう。
 佐渡の地位すでにかくのごとくであったとすれば、それがわが太古において、壱岐、対馬などよりも以上に深くわが民衆の脳裏に印象せられて、いわゆる大八州の一として数えられたであろうと想像せんことは、少くも自然の順序ではない。果せるかな大八州の一としての佐渡の関係には一種他と状態を異にするところがあり、おそらく後に至って新たに加えられたものであろうと推察せしめる種々の条件がそこに存在するのである。すなわち、
 第一に『古事記』に佐渡島に限って亦(ノ)名がなきこと。
 第二に『旧事本紀』第二説にその名を漏らせること。
 第三に『日本紀』にはそれが隠岐島と隻生したりといわるること。
がそれである。
 『古事記』には佐渡島を除く以外のいわゆる大八州の島々、およびその後に産生せりと言わるる吉備の児島以下の六島にまで、それぞれ亦(ノ)名と称して別名を記してあるが、ただひとり佐渡にのみそれがない。それは伝写のさいの誤脱(30)と解すればそれまでのことではあるが、しかし『古事記』のどの異本にもそれのなきところを見れば、その由来はすこぶる久しく、けだし当初の『古事記』にはおそらく熊曾国を大八州の一に数えて佐渡を欠くこと、なお『旧事本紀』の第二説のごときものであったと解するを妥当とする。しかるに後に佐渡が重要視せられて、一国と立てられるようになったについて、一方にはまた熊曾国が筑紫島の一部であるとの知識の普及により、それを筑紫諸面の中に加うるとともに、佐渡のなきを誤脱として別にこれを補うに至ったものであろう。しかもそのこれを補うに際してはもとより善意に終始して、平田翁の『古史成文』のごとく、もと筑紫四面とあるものを五面と改むるほどの技巧もなく、また当初より佐渡には別名がなかったがために、これを創作して他と足並を揃えしめるというほどの悪意もなく、ついに古版本見るところのごとき『古事記』を成すに至ったものであったと解せられるのである。
 この見地からすれば『旧事本紀』に熊曾国を筑紫四面の外に置きて他の総ての諸説がひとしく認むる佐渡島を漏らしたことは、いまだ『古事記』が佐渡を補わざる以前にこれを抄録したためであるが、しかも後人その佐渡のなきを不審とし、他の諸説の熊襲の代りにこれを収むるを見て、熊襲国の下に「一云佐渡島」と注したものと解せられる。これはもちろん熊襲国のことを一に佐渡島というと説明した訳ではなく、一説には熊襲の代りに大八州の一つを佐渡島といっているとのことを註記したにほかならぬ。されば本居翁が『古事記伝』に、
  旧事紀は此記に佐渡(ノ)島に亦(ノ)名の無(キ)を疑ひ、又熊曾(ノ)国と云は後の九国に無き名なれば此《コレ》を佐渡のことかとも思(ヒ)て、おしあてに一《アルヒハ》云2佐渡島1と云るなれば、例の妄《ミダ》り言《ゴト》なるをや。
といっておられることは説いて不十分であるといわねばならぬ。しかるに『釈日本紀』にも「熊襲」の下に、「旧事本紀曰、熊襲国謂建日別、一云佐渡島」とあって、いかにも熊襲のことを一に佐渡島ともいったかのごとくに見え、ために佐渡は昔熊襲民族の国であったとの説をなすものすら生ずるに至った。
(31) 次に『日本紀』の諸説が隠岐と佐渡とを双生すと伝えていることのごときも、佐渡を後に大八州の一として加うるの必要上から起ったものと解せられるのである。元来隠岐と佐渡とは同じ日本海中の島ながらも、地理的には距離遠く相隔りて、これを双生などと称すべき形勢ではない。平田翁はその『古史伝』に、
  神代紀に「双生億伎州与佐渡州」とあるは、億伎国を三(ツ)子に生給ひしを、億伎と佐渡と両児に生給ひしと伝へ誤れるなり。其故は、億伎と佐渡とは方位大いに隔れるを以て弁ふべし。然れども如此|混《マガヒ》つる故にまた次に越(ノ)州を別に生給ひしとも伝へたり。古伝には往々かゝる混雑《マガヒ》のあることなり。然れど其伝への誤りに依て、佐渡州を越州と云へりし事も明かに知られたりと言へり。
と述べておられるが、これまたもって十分なる説明とは言えぬ。
 按ずるに、『日本紀』の本文には、まず淡路州を胞として本州、四国、九州、隠岐佐渡双生、越州、大州、吉備子州を順次生み給うとなし、それを大八州と数えているのである。しかしかくてはその数九となりて大八州の名に副わなくなるがゆえに、隠岐と佐渡とを双生として一つに数え、もってその数に合わせたものであったと考える。その双生ということは、『古事記』の伝うるところの両児島《ふたごのしま》の名から思いついたところであろう。当初いまだ八島を選ぶに至らぬ以前、すなわち大八州の名が正しく群島国の義に解せられて、必ずしも八大島をこれに当つるを要とせざりし時代においては、わが島々の名を列挙するに当って、まずその主なるものを数え上げた末に、その以外のものを引っくるめて、漠然と大島、小島、姫島、双子島などと呼ぷ例であったであろうことはすでにこれを観察した。しかるに後にこれを八大島と数うるを必要とするようになりて、いつしかそれらを実在の島々に引きあてて、大島は周防に、小島は吉備に、また姫島は豊後にと、それぞれ瀬戸内海航行上に知られた著しき島々にその名が固定し、また佐渡はいわゆる国中《くになか》の平地をもって南北の二つの山地を接続せる島として、遠くこれを望む時はあたかも同じ形の二つの島(32)が相並べる状を呈しているがゆえに、それをいわゆる両児島に当つるの説を生じたことかと思う。しかもまた一方には佐渡の名人口に膾炙して捨て難く、さりとてこれを別に大八州中に加えては九大島となるがゆえに、平田翁の言わるるごとく隠岐の三ツ子の島ということから思いつきて、隠岐と佐渡とを双子に生むというような説も起り、ついには両者を一つにして、まず淡州を胞として淡路、本州、四国、九州、隠岐佐渡双生、越州、大州、吉備子州と順々に産生すとの説をなし、もって大八州の数に合わせたものかと解せられるのである。しかもかくかけ離れた隠岐と佐渡とを一つに数うることが、いかにも不条理なるがゆえに、いつしかこれを別々に数え、その代りに淡路を胞として大八州の数から除外するところの、『日本紀』本文いうがごとき説をも生じ、あるいはその一書の六のごとく、一方には依然淡州を胞とすというところの旧説をも保存して、淡州と淡路州とをともに胞とすとするの説ともなり、あるいはまた一書の八のいうごとく、わが古伝説上由緒の深い淡路はこれを除外することなく、その代りに大島を除き、※[石+殷]馭盧島をもって胞とすとの異説をも生じたのであろうと思われる。いずれにしてもかく双生などという珍説をなすに至ったゆえんのものは、従来大八州と数えた島々のほかに新たに佐渡を加うるの必要上から殊更に言い出されたものと解せられるのである。
 
      一〇 越州に関する考察
 
 『古事記』の説にしても、また『日本紀』の諸説にしても、佐渡の名は後にこの島が著しくなるに及んで、始めて加えらるるに至ったものであろうとの余輩の仮定説は、久しく夷狄の島として認められたはずのこの島が、古く大八州として数えられるはずはなかるべきであるとの見地から出立したものであった。しかし夷狄の島なりとて必ずしも上代人の思想に漏らさるべきではない。すでに西の国には熊襲が現に数えられているのである。しかしてその西方なる(33)熊襲に対して、東方に越人の島として越州の名が歌われていたのであった。
 越州の名は『日本紀』にのみ見えて、他の古書に一も見るところがない。『古事記』の説は比較的後の代に整理せられたものとして、主要なる三大島のほかは当時一国あるいは一島として行政庁の設置せられた五島をのみこれに収めたのであった。けだし地理的知識の普及によりて、当時いわゆる越の地が離れ島ならぬ実際が明かになったがために、いわゆる大八州の中からはもちろん、後の産生の六島からも除かれたのであろう。
 当時越州の名をもって呼ばれたところのものが、漠然と越人の住む国を指したものであったであろうことはすでに述べた通りである。しかしてこれを島ということは、鬼が島、小人島、女護の島などいう場合の島と同様で、シナ古代人の筆になれるものの中にも、かかる異数の島々の存在がしばしば描出せられてあるのを見る。しかるに後世地理的知識の進歩に伴って、鬼が島が青が島に、女護の島が八丈島に指定せらるるに至ったと同様に、具体的にそれと指す島が要求せられて来る。本来越の国の名はすでに神代の説話にも見え、降って斉明天皇の御代には、越国司阿倍比羅夫の遠征のこともあって、すこぶる人口に膾炙したものであった。しかもその指す範囲はいわゆる越人所住の地理の明かになるに随って拡張せられるはずで、比羅夫のころの越の国は漠然と後の北陸道地方から、出羽、津軽、北海道にまで及んだものであった。現に北海道に越度島《こしのわたりしま》の名が呼ばれていたのである。されば当時にありては、あるいは北海道の地がいわゆる越州として意識せられ、『日本紀』編者によって採録せられたのであったかも知れぬ。あるいは『古史伝』いうごとく、佐渡をもってこれにあてた説もあったかも知れぬ。しかし『日本紀』に越州をいえる四つの説が、いずれも佐渡の次にこれを序することを観れば、その地が佐渡よりもいっそう奥地にあるものとして考えられていたことが察知せられるのである。
 
(34)        一一 結  語
 
 以上長々しくも大八州について各方面から観察を試みた。しかもその所説すこぶる多岐複雑に渉るがゆえに、以下簡単にその要を摘録してみる。
 わが上代人はわが群島国を呼ぶにオオヤシマグニの名をもってした。オオは美称で、ヤシマほ多数の島の義である。しかしてその発生に関しては、自然凝成説と、神霊産生説との両様があった。またその島々の名としては、特にその名が歌わるる著名なるもののほかに、大島、小島、姫島、双子島などの名称が総括的に呼ばれ、また一方には異民族の住所についてもそれを島嶼と見なして、韓郷の島、越州、熊襲島(国)などの名が呼ばれた。しかしてそれらの島々には往々にして亦《また》の名としてそれぞれ神名が呼ばれたのであった。かくて時代が下り、地理的知識が進むにつれて、当初総括的に呼ばれた島名にも往々にして具体的に島嶼が指定せられ、また一方にはいわゆるオオヤシマの語を解するに八大島の義をもってするに及んで、従来呼称せられた島名の中から主要なる八島が選ばれた。しかもその選択せらるるところが一様でなく、また時代によっても変更を生ずる。凝成説と産生説との間にも調和が成立して、いわゆる大八州なる八大島のみが産生により、あるいは八大島以外六個の著名なる島々のみが産生により、その他の島々は凝成によりて発生したと説く。その産生に係る八大島として選ばるるところについても、本州、四国、九州の主要なる三島以外には、淡路、隠岐の二島と、異民族の島としての越州が主として数えられた。このさい朝鮮交通の要衝にある壱岐、対馬のごときは、むしろ第二次的凝成の島として認められ、また上代に関係の少かった後の種子島、夜久島のごとき、比較的大きな島嶼も毫も顧みられるところがなかった。これはおそらく『日本紀』本文の説の古い形であったと考えられる。
(35) しかるにおそらく大化改新に際して、淡路、隠岐の二国とともに、壱岐、対馬がまた各島庁支配のもとに置かるるに及んで、これらをも大八州中に加えんとするの説が起った。『古事記』の伝うるところけだしこれで、しかもその当初にはいまだ佐渡がなく、熊襲は筑紫四面の外に置かれたのであった。これがおそらく『古事記』の古い姿であったと思われる。ここに西の熊襲の国を加えて、東の越人の国なる越州の加わらなかったことは、わが国史上熊襲の関係は古く、越人すなわち蝦夷の関係は比較的新しかったがためであろう。したがって後までも久しく夷狄の島と呼ばれたほどの佐渡が島が、その選に漏れたのは当然であった。
 しかしながら、かくのごとき状態は長く続かなかった。夷族馴服の政策上佐渡がまた一国として数えらるるに及んでは、ついにこれを除外することが出来なくなった。ここにおいて『日本紀』の説ではこれを隠岐と双生という形をもって大八州の中に加え、また『古事記』の説では、熊襲が筑紫島の一部であるとの地理的知識からこれをその中に収むるとともに、別に佐渡を加えたものであったと思われる。しかも佐渡には古伝に亦《また》の名がなかったがために、ついに『古事記』には他の例と異にしてこの島にのみ亦《また》の名がなく、また一方熊曾を筑紫に加うれば四面の数に合わなくなるがために、ついに肥国と日向国とを一つにするという説をも生ずるに至ったのであろう。
 以上が余輩のいわゆる「大八|州新《〔ママ〕》考」なるものである。その言うところもちろん想像説の範囲を出でず、また事々しく新考と称すべきほどのものでないかも知れぬが、ともかくもわが上代人が、わが国土の発生に関していかなる思想を懐いておったか、またその思想が時代の下るに従い、地理的知識の進歩に伴って、いかに変化しいかに発展したかを窺うに足ると思う。かの韓郷《からくに》の島の語が『日本紀』に収められながらも、それが一も大八州の中に数えられておらぬことは、斉明天皇の御代における新羅の離畔以来、邦人韓土との交渉を言うを好まず、少くも西北に対してほ退嬰の方針を執り、その代りに東北の夷地に対して大いに進捗発展の政策を持した時代の記録として、けだしやむを得(36)ないところであった。この点において『曰本紀』の所説が多く越州を大八州の一に数え、『古事記』の執筆者なる太安麻呂がみずからその『古事記』所伝の説を捨て、韓土に交渉深き壱岐、対馬を除外した説を『曰本紀』の本文に採用したことは、誠に時代の思想を現したものであるといわねばならぬ。今や皇威は大いに海外に進展していわゆる韓郷の島はわが国に併合せられて千数百年前の旧態に復し、また西南に向っては大八州伝説がかつて顧みざりし南島を越えて清国より台湾島の割譲を受け、今やわが国は東洋平和の維持者たるの地位を世界に確認せしむるに至った。余輩この現状についてさらに大八州伝説の古えを回顧し、感慨無量なるものなき能わぬ。   (昭和二・一二・九)
 
 
(37) 大八州国の一としての佐渡が島
 
      一 序  言
 
 昭和三年の夏佐渡に渡って同好の方々のお世話になり、各地の遺蹟・遺物・土俗を探ってから、早くもまる八年半を経過した。その後再遊を期しながらもついその機会を得ず、当時お世話になった方々とも自然疎遠がちになって、その消息をも伺わないで空しく歳月を経過したことだった。そのうちに咋昭和十年必死の大患に罹り、幸いに名医の神技によって一命だけは取り止め得たとは言うものの、もはや再遊の希望も絶えて、廃残の老躯を温泉に漬しつつ、ともかくも更生第二年の新春をこの山中で迎えようとしているのである。ところへたまたま青柳君から『佐渡研究』という雑誌を送られて、久しぶりに久恋の佐渡の消息を知ることを得た。なんというなつかしさであろう。それによると、あの節お世話になった同好の方々の中で、惜しい川上喚濤君が物故せられたとあって、それはいかにも物淋しく感ぜられるところであるが、その他の諸君はたいてい健在の御様子で心強い。相変らず提携して郷土の研究を進めていられることと思う。それについて青柳君は、このさい佐渡曽遊の私の回顧を『佐渡研究』誌上に書いてほし(38)いと言われる。しかしそんなものを今さら持ち出したところで、どうで私以上に土地の実地に精しい研究者諸君の御参考にもなるまい。むしろウンと飛びはなれたところで、多年抱懐の管見を披瀝して諸賢の御高見を承って見たいと思う。
 それは例の曾遊のさいのこと、新穂の清水寺でお世話になって宮崎和上所蔵の書類を借覧しているうちに、郷土の誰かの筆で、佐渡の原住民は熊襲だったというようなことを書いたもののあるのを見て、ちょっと驚かされたことから思いついた問題なのだ。
 
       二 佐渡はもと夷狄の地
 
 佐渡はもと「夷狄の地」ということは、つとに元慶の太政官符にも見えるところで、その原住民が昔の日本民族から見て、異民族であったということには何人も問題はあるまい。しかしそれはなにも佐渡に限った訳ではない。ただ佐渡においてほ、それがズント遠い古代のことのみではなく、平安朝も百年近くを下った時代まで、なおこれがために人心強暴で、ために弩師を置く必要が認められたほどだったというところが他と変っているのである。その官符はいう。
  太政官符
   応(キ)v置(ク)2弩師一員(ヲ)1事
 右得(ルニ)2佐渡国(ノ)解(ヲ)1※[人偏+稱の旁](ク)、此(ノ)国(ハ)本|夷狄《エビス》之地、人心強暴、動(モスレバ)忘(レ)2礼義(ヲ)1、常(ニ)好(ム)2殺傷(ヲ)1。望(ミ)請(フラクハ)准(ジテ)2出雲隠岐等(ノ)国(ニ)1、置(カン)2弩師一員(ヲ)1。謹(ンデ)請(フ)2宮裁(ヲ)1者。正三位行中納言兼民部卿藤原朝臣冬緒宣(ス)。奉(ズルニ)v勅(ヲ)依(レ)v請(ニ)。
   元慶四年八月七日
(39)というのである。元慶四年は今から千五十余年前の陽成天皇の御代のことである。
 この官符の言うところによると、佐渡は元慶当時なお現に「夷狄《えびす》の地」と言われたのであった。したがってそれが普通の日本民族の島になったのは、それよりもはるか後の時代だったといわねばならぬ。これはあたかも文治五年源頼朝奥羽平定後の処分に際して、出羽・陸奥においては夷《えぞ》の国なりとの理由のもとに、特別の施政を認めたと同様の次第であったと思われる。それもそのはずで、対岸の本土の越後の国も、わが古代史上久しく「越《こし》の蝦夷《えぞ》」の国として取り遺されていたのだった。大化改新後になってまで、今の新潟市沼垂あたり、および下越の岩船あたりは、まだ要塞を築いて蝦夷に備えるの必要があるほどだったのだ。したがってそれから遠く海洋中に隔離せられて、四十九里もの荒浪の上を渡らねばならなかったと言われたこの佐渡が島が、「夷狄《えびす》の地」として遺されていたに不思議はないはずだ。今もその東海岸には、「夷」、西海岸にほ「狄」と、文字は変れど同じエビスの名を伝えているのは、最後までもここに先住民が遺っていたことを語るものであろう。
 
      三 佐渡を熊襲なりという説
 
 佐渡が夷狄の地であったというたからとて、そのいわゆる夷狄が大昔にかの九州地方に蟠居していたといわるる熊襲族のことであったろうとは、あまりにも突飛だ。熊襲は遠く景行天皇の御代や、また仲哀天皇の御代において、反乱をおこして皇軍の征討を煩わした九州地方の異民族であった。しかしてそれは明かに蝦夷とは違ったものであったことが、種々の点から考証せられているのである。しかるに佐渡の対岸なる越後地方の原住民ほ、いわゆる「越の蝦夷《えぞ》」であった。しからば現に越後と同じ系統の石器時代の遺物・遺蹟をとどめているこの佐渡の原住民たるいわゆる「夷狄《えびす》」は、当然蝦夷の族であったに相違ないのである。しかもそれを熊襲だなどと、そんな突飛なことがどうして(40)言い出されたものだろう。
 火元はこうだ。『旧事本紀』に大八州国の島々の名を並べて、その熊襲国の割注に、「一云佐渡島」とあることから起ったものだった。鎌倉時代に卜部兼方の著になる『釈日本紀』にもこの文に基づいて、
  熊襲。旧事本紀(ニ)曰(ク)、熊襲(ノ)国(ヲ)謂(フ)2建日別(ト)1。一(ニ)云(フ)2佐渡島(ト)1。
と説明してあるのである。そこで文字通りにこの文を見るならば、熊襲国のことを一に佐渡島といったかのごとくにも解せられ、したがって佐渡の原住民は熊襲であったとの説の起るにもいちおうは無理のないことといわねばならぬ。しかしこれはその文の読み方がよくないので、『旧事本紀』の割注は、熊襲のことを一に佐渡島というとの意味のものではなくて、この書には大八州の一として熊襲国の名を列し、佐渡の名を脱していることから、一説には熊襲の代りに、佐渡島を加えているというぐらいの意味で加えた私注なのである。「一云」という文字は、『日本紀』にもその割注に多く使用せられたところで、「一書に曰く」、あるいは「一説に曰く」という意味から、いつもそれによって異説を述べているのである。
 
      四 いわゆる大八州の意義とその島々
 
 わが国のことを古え大八州《おおやしま》といった。それほ伊弉諾・伊弉冉の二神が国土を産みますに当りて、まず八大島が生まれたによって然《し》かいうと説明せられているのである。しかも旧説その八大島と指すところがまちまちで、『古事記』『日本紀』『旧事本紀』の伝うるところ一定していない。これはもともと「オオヤシマ」という名称が、もちろん八個の島という訳ではなく、その「ヤ」はもと多数を意味する語で、けだし群島国というぐらいの意味をもって呼ばれたのであったのを、後人その原意を忘れて、強いて八大島をこれに付会せんとしたことから起ったものであるに相違な(41)い。
 しかしながら、ともかくもその選に当った八個の大島は、少くもその選ばれた当時において、世人の口に膾炙したところの著名なものであったに相違ない。古書の伝うるところその説九。すなわち『古事記』に一、『日本紀』に六、『旧事本紀』に二で、中には同系統のものと思われるものも多いが、ともかくもその九種の大八州の選に入った島々について、その票数の多いものからこれを列挙してみると、
 大倭豊秋津島(本州) 九説
 伊予之二名島(四国) 九説
 筑紫島(九州) 九説
 隠岐之三子島(あるいは単に隠岐州) 九説
 佐渡島 八説(ただし『旧事本紀』に一説として収めたものを数うれば九説となる)
 淡路島 六説
 吉備児島《きぴのこじま》(あるいは単に子州) 五説
 壱岐島 四説
 対馬島 四説
 越 州《こしのしま》 四説
 大 州 三説
 熊襲国 一説(ただし『旧事本紀』の説の根原と認められる『古事記』にはこれを筑紫島の中に置く)
 淡 州《あわしま》 一説
(42)となる。これを今日の選挙法からいえば、吉備の児島まではその当選確実で、次に同点の壱岐、対馬、越の三島中から、その年長者が当選の栄を得るという訳なのである。中について本州、四国、九州の三大島が、その首位を占むべきことは地理上当然の次第であり、隠岐の島また古く因幡の白兎の説話にも織り込まれたほどで、早く開けたるべき出雲と朝鮮との交通の衝にも当りて、それが最高点の仲間入りをなすに不思議はないが、遠く東北に僻在して、しかも平安朝ごろまでもなお夷狄の地とまでいわれたこの佐渡島が、淡路や壱岐、対馬などを凌駕して、遥かに高点を占むることは、いかにも奇態な現象でなければならぬ。
 今日普通に大八州として数えられるところの島々は、『古事記』の説に従って、本州、四国、九州の三大島と、淡路、壱岐、対馬、隠岐、佐渡の五島国とを挙ぐる例になっている。その淡路以下の五島は、おそらく大化改新のさいに独立の行政区として、特に地方庁の設置を見たほどのものであったから、古くから著名なる島々としてその選に入ったに無理もないと思われるが、しかもその『古事記』の執筆者なる太安麻呂が、それよりもわずか八年の後に編纂した『日本紀』においてその説を捨て、これを本文に採らなかったことからこれを観ても、これはむしろ最も新しい説であると思われる。けだし『古事記』の説は、淡路以下の五島が独立の行政区として、特に選ばれた後の所産であろう。しかしそれにしても当初の『古事記』には、おそらくこの佐渡島は数えられていなかったものらしく思われる理由がある。
 また『日本紀』の諸説にことごとく佐渡が収められているということについても、それはおそらく後から加えられたのではなかろうかと思われる理由があるのである。
 
      五 『古事記』に伝うるところの佐渡島
 
(43) 『古事記』にはいわゆる大八州と数うる八島、およびその後に生れたと言わるる六島について、佐渡以外のものにはそれぞれ亦名《またのな》として別名を併せ掲げる例になっているにかかわらず、ひとり佐渡にのみはそれを欠いているのである。これはどうしたことであろう。旧説ではこれをもって、古く伝写のさいの脱落であろうと解しているが、しかし『古事記』のどの異本にもそれがなく、ことに『古事記』の古本から抄録したに相違ないはずの『旧事本紀』の文には、別名のみか佐渡そのものの名までが除かれて、その代りに熊襲国が大八州の一に数えられ、その熊襲国の名の下に、「一云佐渡島」との割注を加えてあるのである。今まず左に『古事記』の異本と、『旧事本紀』とから、大八州産成に関する文の一部を抄録して、便宜上これを対照してみる。
  (古版本『古事記』)
  (上略)次生(ム)2伊予之二名島(ヲ)1。此島者身一而有(リ)2面四1。毎(ニ)v面有(リ)v名。故《カレ》伊予(ノ)国(ヲ)謂(ヒ)2愛比売《エヒメト》1、讃岐(ノ)国(ヲ)謂2飯依比古《イヒヨリヒコト》1、粟(ノ)国(ヲ)謂(ヒ)2大宜都比売《オホゲツヒメト》1、土佐(ノ)国(ヲ)謂2建依別《タケヨリワケト》1。次(ニ)生(ム)2隠伎之|三子島《ミツゴノシマヲ》1。亦(ノ)名(ヲ)謂(フ)2天忍許呂別《アメノオシコロワケト》1。次(ニ)生(ム)2筑紫(ノ)島(ヲ)1。此(ノ)島(モ)亦身一両有(リ)2面四1、毎(ニ)v面有(リ)v名。故《カレ》筑紫(ノ)国(ヲ)謂(ヒ)2白日別《シラヒワケト》1、豊(ノ)国(ヲ)謂(ヒ)2豊日別《トヨヒワケト》1、肥(ノ)国(ヲ)謂(ヒ)2速日別《ハヤヒワケト》1、日向(ノ)国(ヲ)謂(ヒ)2豊久士比泥別《トヨクジヒネワケト》1、熊曾(ノ)国(ヲ)謂(フ)2建日別《タケヒワケト》1。次生(ム)2伊伎(ノ)島(ヲ)1。亦(ノ)名(ヲ)謂(フ)2天比登都柱《アメノヒトツパシラト》1。次(ニ)生(ム)2津島(ヲ)1。亦(ノ)名(ヲ)謂(フ)2天之佐手依比売《アメノサテコリヒメト》1。次(ニ)生(ム)2佐渡(ノ)島(ヲ)1。次(ニ)生(ム)2大倭豊秋津島《オホヤマトトヨアキツシマヲ》1。亦(ノ)名(ヲ)謂(フ)2天御虚空豊秋津根別《アメミソラトヨアキツネワケト》1。(下略)
 右の文、筑紫島を伊予之二名島に対比して、「此島亦身一而有2面四1」と言いながら、その実筑紫、豊、肥、日向、熊曾の五ケ国の名を列挙してあるところに、それ自身の矛盾が認められる。そこで、平田篤胤翁はその『古史成文』において、これを無雑作に「面有v五」と改訂しておられるが、しかし本文に「亦」とあって、四国島の四面なるに対して筑紫島も亦との文字が用いられ、また早く『古事記』から抄録したに相違ない『旧事本紀』の文にも同じく「有2面四1」とあれば、そうたやすく文字の誤りとして改訂すべきではない。
(44) (古訓本『古事記』)
 (上略)次生(ム)2筑紫(ノ)島(ヲ)1。此(ノ)島(モ)亦身一而有(リ)2面四1。毎(ニ)v面有(リ)v名。故筑紫(ノ)国(ヲ)謂(ヒ)2白日別(ト)1、豊(ノ)国(ヲ)謂(ヒ)2豊日別(ト)1、肥(ノ)国(ヲ)謂(ヒ)2建日向日豊久士比泥別(ト)1、熊曾(ノ)国(ヲ)謂(フ)2建曰別(ト)1。(下略)
これは本居宣長翁が名古屋真福寺所有の異本によって、その古訓『古事記』に記述せられたところである。すなわち日向の国を肥の国中に収めたので、これならばなるほど面四つありということには相当するが、しかしこれには確かに無理がある。
 まず第一に、いかに古代人が地理の実際に疎かったとはいえ、その間に久しく人跡未到とまで言われた脊梁山脈を夾んで、西の方天草灘に臨める肥の国と、東の方太平洋に向える日向の国とを一つにして、筑紫島四面の一に数えたということは、地理上到底あり得べからざることである。のみならず、肥の国の別名と言わるる「建日向日豊久士比泥別」の名がいかにも長たらしく、その名の中心と見るべきものが二つ重なった形になって、他の諸島の亦《また》の名の簡単なるものとは著しくその趣を異にしているのである。けだしこれはやはり古版本言うごとく、もとは肥と日向とは別々であったと見るを至当とする。ことに『古事記』から抄録したはずの『旧事本紀』には、明かに筑紫、豊、肥、日向の四国をもって筑紫四面と数え、熊襲国はその以外に置いてあるところを見ると、本居翁古訓本の拠られた真福寺本は、この点においては確かに誤りをなしたものであるといわねばならぬ。
 (『旧事本紀』)
 (上略)次(ヲ)筑紫島(ト)謂(フ)。身一而有(リ)2面四1。毎(ニ)v面有(リ)v名。筑紫(ノ)国(ヲ)謂(ヒ)2白日別(ト)1、豊(ノ)国(ヲ)謂(ヒ)2豊日別(ト)1、肥(ノ)国(ヲ)謂(ヒ)2速日別(ト)1、日向(ノ)国(ヲ)謂(フ)2豊久士比泥別(ト)1。次熊襲(ノ)国(ヲ)謂(フ)2二建日別(ト)1。一云佐渡島(以下『古事記』の文と同様にして、ただ「次生2佐渡島1」の五字を欠く)。
(45) これは本書の性質上明かに『古事記』の文を取ったに相違ないものであるが、しかもその記するところ、現存「古事記』のいずれの本とも相違して、熊襲の国を大八州の一に加え、その代りに佐渡を除いているのである。
 元来『旧事本紀』なるものは、その序文言うごとくこれを推古天皇朝著作の国史とすれば明かに偽書ではあるが、もとはさる悪意ある偽作物ではなく、篤志の者が単に古書の文をかれこれ抄録編纂して置いたものであったと思われる。したがってその中に重複したところもあれば、また前後矛盾したところもある。しかるを後人それに加筆し、ことに蘇我馬子名義の序文をまで偽作添付して、これを推古天皇朝の国史に付会したものであると解する。しかもその抄録はおそらく平安朝初期を下らず、したがってその後散逸して世に失われた古書の逸文が、幸いにこの書によりて保存せられたもの多く、また後に生じた古書の伝写の誤謬や脱漏が、この書によりて訂正せらるる場合もまた少くない。現に右に引ける大八州に関する部分のごときほ、明かにこれによりて今の『古事記』を訂正し得るのである。当初の『古事記』には大八州の中に佐渡を加えず、その代りに熊襲をもって一島と数え、筑紫の島は古版本『古事記』言うごとく、筑紫、豊、肥、日向をもってその四面となしたものであったに相違ない。しかもその熊襲を島と言わずして、筑紫の四面以外に置きながら、これを国と称したことについては一考を要するものがある。けだし『日本紀』に熊襲征伐の事蹟が詳記せられて、それが筑紫の島の一部であり、別に一島をなすにあらざる事実が一般に知らるるに及んで、その筑紫、豊、肥、日向をそれぞれ国と称することに紛れて、不注意にもその「島」を「国」と改めたものであろう。あるいは『古事記』の方が先で、『旧事本紀』の方がこれに倣ったのかも知れぬ。また『古事記』の方でも、もと同じ理由から「熊曾島」とあったものを「熊曾国」と改め、その上の「次」の一字を除いて、不用意にもこれを筑紫四面の中に加えたものかと思われる。勿論それは悪意による改竄ではなかったがために、これを加うれば当然筑紫五面とあるべきにもかかわらず、「亦有2面四1」の原文に訂正を加えなかった。しかもかく熊曾国を筑紫の(46)島の中に加えたがために、当然大八州に一島を欠くの結果を生じ、また一方では東北に対する国家の進展と、地理的知識の進歩とから佐渡が重要視せられて、『日本紀』の諸説いずれもこれを加えるようになったがために、ついには『古事記』にもまたこれを加えて、これによって熊曾のために生じた欠を補ったことと思われる。しかもこれは本来『古事記』にはなかった島なるがゆえに、その亦の名の伝えがなく、さりとてその補訂者にはこれを偽造創作して体裁を整えるほどの悪意もなくして、ついに古版本『古事記』に見るごとき矛盾不自然のものとなったと解せられる。また佐渡の加わらぬ以前の『古事記』の文に拠ったはずの『旧事本紀』の方では、その佐渡の名なきを怪しんで、「一云2佐渡島1」の五字を注記し、一説には熊襲の代りに佐渡を加えてあるとの注意をなしたのであったに相違ない。現存『古事記』および『旧事本紀』において、現に熊曾(熊襲)国とあるところのものが、もとは「島」であったであろうとの右の説は、地理上からはかなり奇態なる感をもって迎えられるかも知れぬ。しかしながら、『日本紀』所伝の大八州の一つに「越州《こしのしま》」なるものの加われることを思えば、あえて不思議はなかるべきである。『日本紀』編纂当時の地理的知識からは、あるいはいわゆる越州をもって今の北海道のことなりと意識して執筆したかも知れぬ。その以前においてはあるいはこれを佐渡のことと解していたかも知れぬ。しかし当初この名が用いられたさいの考えでは、単に異民族なる越人《こしぴと》、すなわち越蝦夷《こしのえぞ》の住処というぐらいの漠然たる意味をもって、それがもともと島国のことであるがために、なお鬼が島や女護の島の名が語られると同様に、漠然と越の島といったのであったかと思われる。それと同様に、西方なる異民族熊襲の住処も当初は漠然と熊襲の島といったのが、後にこれも西南における国家の進展と、地理的知識の進歩とから、それが明かに九州島の一部であることが知らるるに及んで、他の筑紫四面の国名に紛れて、ついに熊襲国と改められたことであろうと思われる。さればここにもし『古事記』の最も古い形を推測してみるならば、それは大八州としての熊襲島を筑紫四面の外に数え、その代りに佐渡島が加わっていなかったものであったと言(47)ってみたい。元慶のごろまでもなお「夷狄の地」と言われたほどのこの佐渡島が、古く大八州の一として数えられたであろうとのことは、地理的知識の普及上から見てもきわめて不自然であるといわねばならぬ。
 
      六 『日本紀』の隠岐・佐渡双生説
 
 『古事記』所伝の大八州にはもと佐波の名が加わっていなかったとすれば、しからば『日本紀』の諸説ことごとくこれを加えているのはこれいかにという問題が当然起らねばならぬ。しかしこれもよく本書の記事を玩味すれば、後に佐渡が著名になったがために、強いて大八州の数に加えられたものであるとの形迹が立派に認められるのである。まず『日本紀』の本文に曰く、
 (上略)先(ヅ)以(テ)2淡路州(ヲ)1為(ス)v胞(ト)。意(ニ)所v不(ル)v快(カラ)。故《カレ》名(ケテ)v之(ヲ)曰(フ)2淡路州(ト)1。廼《スナハチ》生(ム)2大日本豊秋津州(ヲ)1。次(ニ)生(ム)2伊予二名州(ヲ)1。次(ニ)生(ム)2筑紫州(ヲ)1。次(ニ)双2生(ス)隠岐州(ト)与(ヲ)2佐渡州1。世人或(ハ)有(ル)2双生1者《ハ》象(ル)v此(ニ)也。次(ニ)生(ム)2越州《コシノシマヲ》1。次(ニ)生(ム)2大州《オホシマヲ》1。次(ニ)生(ム)2吉備(ノ)子州(ヲ)1。由(テ)v是(ニ)始(テ)起(ル)2大八州之号1焉。(下略)
右に数うるところ淡路、本州、四国、九州、隠岐、佐渡、越州、大島(周防)、吉備児島の九。
 しかもそれを強いて八島の数に合わさんがために、隠岐と佐渡とを双生すということに付会したことと思う。『日本紀』一書の説にも、二つまでこの双生説を取っているのである。もっとも一書の方の説は、これを双生とはいいながらも、その列挙した島の数は八個で、それをそのまま大八州と数うるに差支えはないのである。しからば何がゆえにこの遠く離れた隠岐と佐渡とを、ことさらに双生などという必要があったのであろう。按ずるに、隠岐島は島後の大島のほかに、島前の中の島と、西の島の二島とが比較的著しいので、古えこれを隠岐の三ツ子の島といった。しかも大八州産生伝説においては、その三ツ子を引っくるめて一島に数えているのである。しからば隠岐と佐渡とを双子(48)に生んだという場合においては、やはりこれを合せて一島に数うべきはずである。けだし従来大八州として数えていた島々のほかに、別に佐渡を加うるの必要を生じたに当って、それを隠岐と双生ということに取りなし、両者を合せて強いて一島の数に当てたものであったと思われる。しかもそれがあまりに不自然なるがために、もと大八州の一であった淡路島をもって意《こころ》に快からざる島としてこれを胞ということに付会し、佐渡を加えてもなお八島の数に合うように改めたものであったに相違ない。
 言うまでもなく淡路島の名義は阿波路である。なお常陸がヒダすなわち夷《ひな》の国なる奥州への通路に当るがゆえに、夷路《ひだぢ》の名をもって呼ばれたと同様に、阿波への通路に当る島であるがゆえに阿波路と呼ばれたのであるに相違ない。しかしてその島名は古く神話にも著しく織り込まれて、決して心に快からざる島などとして大八州から除外さるべきはずのものではないのである。しかるに『日本紀』がこれをもって不快の義に解したということは、『旧事本紀』に、「先産2生(シテ)淡路州(ヲ)1為(ス)v胞(ト)。意(ニ)所v不(ル)v快(カラ)。故曰(フ)2淡道州(ト)1。即(チ)謂(フ)2吾恥《アハジ》1也」とあると同様の付会で、勿論取るに足らぬものであり、随ってこれを胞として大八州から除外することは、けだし第二次的のものでなければならぬ。しかもかかる付会をあえてしながらも、また特にこれを胞となすといいながらも、なお淡路をもって大八州の一に加えているのである。しからばこの『日本紀』本文の説も、もとはこの島を大八州の一に加え、佐渡と隠岐とはこれを双生として、強いて大八州の数に足したものであったに相違ない。しかして淡路島を除外するに至ったのは、さらにその後における伝説の変化である。かくて『日本紀』一書の第六の説のごとく、淡州と淡路州とを胞となすとしてこれを大八州外に除き、双生の佐渡と隠岐とをそれぞれ別々に八島の中に数うるの説を生じ、あるいは同書第八の説のごとく、※[石+殷]馭盧島《おのころじま》を胞となすなどといいながら、隠岐と佐渡とを双生として、強いて一島に数うるの説をも生ずるに至ったのであろう。
 
(49)      七 結  語
 
 大八州として数えられる島々の中に佐渡島の加えられたことは、その形式の上からして何としても不自然たるを免れぬ。まず『古事記』には他の島々についてことごとく亦の名を伝え、特に四国と九州とについては、その中の各国にまでそれぞれ別名が語られているにかかわらず、ひとり佐渡についてのみそれを欠いている。これは『古事記』のどの異本にも同様で、よほど古い時代からそうであったに相違ない。次にその『古事記』の文を抄録したはずの『旧事本紀』には全然佐渡島の名を脱し、その代りに熊襲国の下に、「一云2佐渡島1」と割注が加えられているのである。この割注は後の人の加うるところか、あるいは『古事記』からこの文を抄録したものの私注か、いずれにしても熊襲を一国と数えて佐渡を除いたのが、『古事記』の古い形であったものと考えられる。さらに『日本紀』に至っては、その本文および一書の説の二つにまで佐渡をもって隠岐と双生したものとして、きわめて不自然なる説を述べているのである。これもおそらく後に佐渡を加うるの必要上、隠岐の三ツ子の嶋ということから思いついて、かかる不自然なる形式のもとにこれを一つに数えたのであると考えられる。佐渡は久しく先住民なる蝦夷の住処として取り残され、遠い古代においてこれを大八州の一と数えたであろうとは思われぬ。古伝説では蝦夷の国をもって、漠然と越の島の名の下にこれを大八州伝説に織り込んだものであった。しかしてそれで十分であったのである。しかるに地理的知識が進歩して、「夷狄の地」たる佐渡島の存在が邦人に熟知せらるるに及んでは、いわゆる越州の名をもって、それに引き当てた時代もあったであろう。降って北海道の存在が熟知せらるるに及んでは、おそらく『日本紀』の編者のごとき、それを越州なりとの意識のもとに筆を下したことでもあろう。しかるに一方「夷狄の地」ながらもこの佐渡島の重要視せらるるに及んでは、とうていこれをいわゆる大八州から除外することが許されなくなる。ここにおいてか(50)種々の形式のもとに、強いてそれが大八州の中に加えらるることとなる。大八州国の一として佐渡島は、けだしかくのごときの順序を踏んだものであったと考えられる。その佐渡をもって一に熊襲というとなす説のごときは、全く『旧事本紀』の私注の誤解に基づくものであるにほかならぬ。
 かく解することによりて、佐渡島開発の年代の案外降った時代のものであったことも思考せられる。さればとてもちろんそれが元慶のころまでも、事実夷狄の島として放置せられていたのではない。内地人の移住、内地文化の侵入はすでに大化以前からあって、そこに幾多の横口式古墳も遺されているのである。その重要さが国家に認められて特に一国として建置せらるるに至ったことも、おそらく大化改新当時、もしくはそれから遠からざる時代のことであったであろう。天平年間一度それを越後に合併してみても、間もなく復旧せられて、佐渡は永く一国としての地位が認められた。この点においてこの国は淡路および隠岐とともに、壱岐や対馬が久しく「島」として、島庁支配の下に置かれたものに比して、一層の重要さが認められたことを示している。『日本紀』の大八州に関する説がたいてい壱岐、対馬の両島を除外しながら、淡路および隠岐とともにこの佐渡をその中に加えているもこれがためであったと思われる。元慶の「太政官符」にこれを「夷狄の地」といったのは、なお文治の鎌倉幕府の制度に、出羽陸奥の両国を「夷の国」といったと同様で、そのころまでも事実上佐渡が夷狄のみの住処であったという訳ではない。その「人心強暴にして動もすれば礼儀を忘れ、常に殺傷を好む」といわれたことは、当時弩師設置の許可を得んがために、ことさらにこれを強調したものなるにほかならぬ。久しく夷の地として遺された東国地方の民衆が、その風俗素朴勇敢にして国家の干城たるに適し、遠く九州海岸の防人として、また中衛府の舎人として、「額に矢は立つとも背には矢は受けじと云ひて一つ心に君を守り奉る」ところの東人の栄誉を有した事情が思い合わされる。     (昭和一一・一二・一八、秋保温泉客舎にて)
 
(51)(付記)本編を本誌に寄せてから早くも満二ケ年を経過した。その間案じられた私の病気もどうやら根治したらしく、近く更生第四年を迎えんとしていることをこの機会に佐渡の旧知の方々に御披露したい。(昭和一三・一二・六、校正に際して)
 
 
(52) わが建国史上の出雲と大和と熊野
 
      一 緒  言
 
 わが古伝説上出雲の神として知られた神々の事蹟は、そのいうごとく出雲地方のことに関して多く語り伝えられ、したがってこの系統に属すると認められる民族に、出雲民族という名称までが唱え出されて、今日ではほとんど学界においても誰あやしまぬほどにまでも耳慣れて来ているのである。しかしながら、これを考古学上の研究の結果に鑑み、これを古伝説の整理に漏れてたまたま伝わったと認められる幾多の断片的異伝に徴し、さらにこれをわが日本民族成立の次第に合せ考うるに、必ずしも然《し》かく簡単に断定する能わざる事情が多々存在しているのである。
 ゎが建国の起原を語る天孫降臨の事蹟について、従来学者の最も難解とするところは、天神の使者が幾たびも出雲に降って大国主神に旨を伝え、わざわざその国を譲らしめ奉ったとあるにかかわらず、その後天孫は何がゆえにその出雲に降り給わず、また大国主神がその国を譲り奉るについて、「皇御孫命の静まりまさん大倭の国と申して、己命の和魂を八咫鏡に取りつけて、倭大物主櫛※[瓦+肆の左]玉命と名を称へて大御和の神奈備にまさせ、云々」(全文後に引く)と、(53)「出雲国造神賀詞」にあるごとく、大和は天孫の鎮まりますべき国と予定されていたものとして伝えられている地であったにもかかわらず、天孫はその大和にも降り給わずして、大八州国の統治には不便にして、神武天皇をして東征の必要を感ぜしめ奉ったような、そんな僻遠の日向に降り給うたかという点にある。これについては「記紀」等の古伝説の研究において、根本から立て直しをせねばならぬような場合もあるべく、これまでにも斯道学者の発表せられたものかなり多くの数に上っているが、余輩またその研究の一部分として、いわゆる出雲の神々が、果して出雲地方の神として認めらるべきものであるか、あるいは広くこの国土の代表的国津神として見るべきものであるか、これを断片的に保存された雑多の古伝説の上から研究して、いささかこれを考古学的調査の結果と対照し、もってわが日本民族成立の由来を明かにするうえに資するところあらしめたいと思う。
 
       二 いわゆる出雲の神々と根の国
 
 普通にいわゆる出雲の神が、出雲杵築大社の祭神たる大国主神を始めとして、これに関係深い神々の称であることは言うまでもない。大国主神一に大己貴神(大汝)と申し、奈良朝の著述たる「大宝令」の「古記」には、この神に対して特に「出雲大汝神」とあって、わざわざ「出雲」の二字をこれに冠してあるほどにも、古くから然《し》かく世に認められたところであった。次にその親神とます素戔嗚尊についてもまた出雲地方に関して多くの事蹟が語り伝えられ、大国主神の杵築大社に対して、熊野大社として出雲国府に近く祭られ給うたのであった。またさらにその親神とます伊弉諾、伊弉冉二柱の神についても、彦神とます伊弉諾尊の方は、神功《かんごと》終えてこれを高天原に報命し給いて後、日の少宮《わかみや》に留ります(『日本紀』一説)とも、淡海の多賀にます(『古事記』説)とも、あるいは幽宮を淡路之州に構《つく》りて、寂然として長く隠ります(『日本紀』本文説)ともあるが、姫神とます伊弉冉尊の方は、神避りまして根の国に入り給う(54)とあり、しかもその根の国は、出雲の伊賦夜坂から交通すべき所であると伝えられ(『出雲風土記』には出雲郡名脳磯の西なる岩窟より通ずとある)、またその御子神たる素戔嗚尊は、その母の国なる根の国へ赴き給う途中において、出雲の簸川上に八岐大蛇を退治せられたと伝えられるなど、かたがたいわゆる根の国と出雲とは、その関係はなはだ濃厚であるのみならず、さらに『古事記』の伝うるところによれば、根の国に入り給うたはずの伊弉冉尊は、出雲国と伯伎国との堺なる比婆の山に葬り奉ったともあって、この神また出雲系の神として認められたものといわねばならぬ。ことに出雲に伝えられた口碑を多く集録せる『出雲風土記』には、この神の時に、古志国人をして、出雲神門郡なる日淵川の池の堤を築かしめたなどの伝もあり、この神が特に出雲に縁故深くおわした神として語られたところに疑いはない。
 さらに遡って高皇産霊、神皇産霊二柱の神について、高皇産霊神は疑いもなく高天原の神として、天孫降臨についても、また神武天皇東征についても、しばしば関係してあらわれ給うにかかわらず、神皇産霊神の方は、『古事記』に、大国主神に関係してあらわれ給い、また『出雲風土記』には、この神に関する伝説が出雲に関して少からず収められているのである。また出雲国造家に因縁のはなはだ深い大庭《おおば》の神魂《かもし》神社のごとき、後世にはその祭神について伊弉冉尊にますなどの説もあるようではあるが、これはその文字の示すごとく、疑いもなく祭神神皇産霊尊(文字には神魂とも書く)にますはずであり、そのカモシという社名も、もちろんカミムスビの省転であるにほかならぬのである。されば高皇産霊・神皇産霊と相対してあらわれませる二柱の神は、『古事記』にはともに高天原になりました独り神として、隠身にますとあるにかかわらず、一は高天原に天神として止まり、一は出雲の神としてあらわれましたものと伝えられたことが知られるのである。
 さればこれを通じて観る時は、出雲の神としては神皇産霊神から、伊弉諾尊、素戔嗚尊、大国主神と相つづいて、(55)その素戔嗚尊および大国主神の御子神たちを数うべきものであらねばならぬ。しかしてこれに対して、高皇産霊神、伊弉諾尊、天照大神は、ともに高天原なるいわゆる天津神の代表的神明にまし、天照大神の直系にます御子孫の神々は、いわゆる天孫として崇められ給うのである。かくて出雲の神の系統に属する民族を出雲民族といい、天津神の系統に属する民族を天孫民族と称する例になっているのである。
 しかるに一方では、出雲の神として認められる神皇産霊神は、高皇産霊神と高天原において並びます神であるとして伝えられ、伊弉冉尊は伊弉諾尊と御夫婦の関係にまし、素戔嗚尊は天照大神と御姉弟の関係にますというがごとく、すこぶる前説を裏切るごとき古伝説が認められているのである。この矛盾は果していかに解せらるべきものであろうか。
 つらつらわが日本民族成立の由来を考うるに、天孫降臨以前すでにわが国土には多数の民衆が棲息し、そこに統一なき多数の小国が存在したのであった。しかして天孫はその国を安国と平らけく治ろしめせとの天神の使命を奉じて、高天原から降臨し給うたのであったと伝えられている。さればその先住土着の民衆に対しては、常に徳をもって導き、恩をもって誘い、つとめてこれを懐柔して天孫民族に同化融合せしめ、もって幸福なる大国家をなし、自他の福利を増進せしめるにあった。かの大国主神の国譲りのごときは、これを今日の言葉をもっていわば、大国主神はその統治権を天孫に委ね奉ったもので、天孫はその国家を併合し給うたものであったにほかならぬ。しかしてこれはわが大日本帝国発展の途上における、先住民の国家併合の代表的説話であって、代々の皇威の伸張は、畢竟これと類似の事項を繰り返したものであるにほかならぬ。かくのごとくにしてわが日本民族は天津神の後裔たる天孫民族と、国津神の後裔たる先住民族とが、相寄り相結んで同化融合の実を挙げた結果として、成立するに至ったものであったと解せられる。国津神の代表者ともいうべき大国主神が、天津神たる高皇産霊神の女三穂津姫を妃とし給い、天孫瓊々杵尊以(56)下神代三代間、いずれも山神、海神等、国津神の女より妃を選び給い、神武天皇以後、また国津神の代表者たる大物主神(大国主神の和魂)、事代主神等の女を選びて皇后となし給うたと伝えらるるごとく、血の上においても天津神と国津神とは、互いに相融合したことを示しているのである。
 この天津神と国津神との関係については、特に大国主神と御穂津姫との関係のごとき異例もないではないが、多くの場合において天津神は夫たり、父たり、国津神は妻たり、母たるの関係にあることは注意を要する。しかしてその国津神の代表者ともいうべき出雲の神々が(神皇産霊神は所伝簡単にして徴すべきものなければしばらく措き)、根の国に入り給うたといわるる伊弉冉尊、同じく母の国として根の国に就くべく定められ給うた素戔嗚尊、ならびにその素戔嗚尊の御子神たちであるということ、またその根の国は、出雲の某地から往復すべき国であったと伝えられていること、なお言わば、根の国に入り給うたはずの伊弉冉尊を、出雲と伯伎の境なる比婆の山に葬り奉つたということから考うれば、時としては出雲地方そのものが、これただちに根の国であると考えられていたらしいことなどによって、出雲の神々はすなわち根の国系統の神であると解してしかるべきものであるといわねばならぬ。すなわちわが日本民族の祖先は、高天原の神々と、根の国の神々とが、相寄って父母夫婦の関係を結び、そこに始めて成立したものであるといわねばならぬこととなる。
 ここにおいてか始めて上述の矛盾がほぼ解釈せられる感がある。伊弉諾尊と伊弉冉尊とは、御夫婦の御間柄にましましながらも、後にはいわゆる絶妻の誓を建てて、一は高天原に、あるいは淡路または淡海に、一は根の国にと立ち別れて鎮まりましたと伝えられているのである。また天照大神と素戔嗚尊とは、御姉弟の御間柄にましましながらも、これまた後には武装して相戦うの勢を示し、一はそのまま高天原に留まり給い、一は根の国に逐いやられ給うたと伝えられているのである。これらはともに、いったん高天原と根の国とに分れても、もとは同じ流れの神々であり、そ(57)の末がまた相合して一つものたる日本民族をなした関係を示した伝説であって、必ずしもそこに矛盾があると見る必要はなかるべきである。ことに伊弉諾、伊弉冉二神の細事に至っては、ただに一切の青人草のみならず、国土山川をまでも産み成し給える神として、結局は人類一原の理想をあらわしたものであれば、もちろんこれによって人種民族の関係を論ずべきではない。その一原から分れ出でた人類が、あるいは高天原系統のものともなり、根の国系統のものともなったはずであってみれば、わが民族論の上からは、そこまで遡るべきものではなく、したがってまずこれを大きく分って、高天原系統の天孫民族と、根の国系統なる出雲民族とを、代表的の二大民族と見てしかるべきものであると考えられる。
 
       三 根の国系統の神々と熊野地方
 
 いわゆる根の国系統の神々が、出雲地方に深き因縁を有し給うものとして語られたことは、今さら言うまでもなき次第ながら、一方にはまたこれらの神々が、紀伊国熊野地方に関係して語られていることはすこぶる興味ある事項であらねばならぬ。
 第一に伊弉冉尊は、火神軻遇突智を生み給うことによって、火傷して神避り給いきと伝えられ、出雲と伯伎の堺なる比婆の山に登り奉ると『古事記』にあるものは、この神が出雲の神として認めらるる点において、まさにしかるべきところであるが、しかもそれを『曰本紀』の一書には、紀伊国熊野の有馬村に葬り奉るとあり、土俗この神の魂を祭るに、花の時に花をもって祭り、また鼓吹幡旗をもって歌舞して祭るとも伝えられて、今にその遺跡は花の窟とて熊野に遺っているのである。すなわち伊弉冉尊の陵は、『古事記』と『日本紀』とによって、出雲と熊野と双方に語り伝えられているのである。
(58) 次に素戔嗚尊は、根の国に赴き給う途中に出雲を過ぎり給い、簸の川上に八岐大蛇を退治して奇稲田姫の難を救い給い、出雲の清《すが》の地に宮を造ってその奇稲田姫と婚し、大己貴神を生み給うて後、ついに根の国に就き給うとある。しかるにこの神一に熊野大神とも、また熊野加武呂乃命とも申し、出雲の熊野大社に祭られ給うのであるが、しかもその御名の熊野ということは、ただちに母神の鎮まります紀伊の熊野を連想せしめるではないか。『延喜式』に紀伊牟宴郡熊野坐神社とある。この社の祭押については種々の説もあるが、おそらく素戔嗚尊を祭り奉ったものであろう。ことにこの神の御子神たる、五十猛命、大屋津姫命、抓津姫命の三神は、韓郷の島より樹種を渡して周ねく大八州国に播き殖え給い、最後に紀伊国に鎮まりますと伝えられ、中にも五十猛命は、『日本紀』に、有功の神として紀伊国にますところの大神これなりともあり、『延喜式』には、同国名草郡に伊太祁曾神社、大屋都比売神社、都麻都比売神社と列挙してあるのである。なおそのほかに同郡伊達神社とあるのは、同じく五十猛命を祭ったものであり、在田郡須佐神社とあるのは、おそらくその親神とます素戔嗚尊を祭ったものであろうと解せられ、かたがた紀伊と熊野大神たる素戔嗚尊との縁故の濃厚なことを示している。しかもまた一方に、この五十猛命は出雲において、韓国伊大※[氏/一]神社として、六産までも『延喜式』に数えられているのである。
 次に大国主神についても、『古事記』に、この神の八十神たちのために苦しめられ給う時に、御祖神《みおやのかみ》これを救いて、木の国(紀伊国)の大屋毘古神の御所《みもと》に速遣《いそがしや》り給うたとの伝えがある。すなわち一方に出雲に関して多くこの神の伝説が語られながら、一方にはやはり紀伊に関係ある神として、語り伝えられているのである。ここに大屋毘古神とは、『日本紀』に見える大屋津姫命のことの異伝であろう。またその大国主神を助けて、同心戮力国土の経営に従事せりと伝えらるる少彦名神は、神功《かんごと》終えて熊野の御碕より常世郷に入り給うとも、また淡島に至って粟茎に上り、弾かれて常世郷に至り給うとも『日本紀』にある。しかしてこの淡島は、『伯耆風土記』に粟島とあり、今は伯耆の夜見半(59)島の中になっているが、もとは出雲中海の口にあった島で、やはり出雲地方のこととして語られたものと解すぺく、しかも一方にそれが熊野の御碕のこととして伝えられたことは、これまた出雲と熊野との両方に、同一の伝説が保存せられた一例として見るべきものであろうと思われる。
 出雲と、熊野と、地理上全く隔絶したこの両地方において、同じ神々に関する伝説が別々に保存されていたということは、いかに解釈すべきものであろうか。これは次に大国主神と大和との関係を観察した後において、さらに立返って考究するを便宜とする。
 
      四 大国主神と大和
 
 「記紀」の伝うるところによれば、大国主神の根拠地は確かに出雲地方であった。よしやその名のごとく大国の主とまして、勢力の及ぶ範囲は広く他の地方に及んでいたとしても、その根拠地が出雲地方であったと伝えられていたことは疑いない。天神の使者経津主、武甕槌の二神が、大国主神に国譲りの交渉をなした場所は、まさに出雲の五十狭田《いさた》の小汀《おばま》であったと伝えられ、この時大国主神の子事代主神は、やはり同じ出雲の三穂之碕で魚を釣って業としておられたと言われているのである。かくて大国主神は天神の命のままに国を譲り奉って後に、百不足八十隈《ももたらずやそくま》に隠れましたとも、また天日隅宮に隠れましたともある。
 しかるに『延喜式』所収、「出雲国造神賀詞」には、前にちょっとその文句の一部分を引いておいたように、大国主神ならびにその御子神たちの御魂が、大和各所の神奈備に鎮まりますことを語っている。すなわち、
  大穴持命の申し給はく、皇御孫の命静まりまさん大倭国と申して、己命の和魂を八咫鏡に取りつけて、倭大物主櫛※[瓦+肆の左]玉命と名を称《たた》へて、大御和の神奈備に坐《ま》させ、己命の御子阿遅須伎高孫根の命の和魂を葛木の鴨の神奈備に坐(60)させ、事代主命の御魂を宇奈提(「の神奈備」の四字脱けたり)に坐ませ、賀夜奈流美命の御魂を飛鳥の神奈備に坐させて、皇孫命の近き守の神と貢《たてまつ》り置きて、八百丹築宮《やほにきづきのみや》に静まりましき。
とあるのである。延喜式内に、城上郡大神大物主神社、葛上郡高鴨阿治須岐詑彦根命神社、高市郡加夜奈留美命神社、同飛鳥坐神社とあるのがこれに当る。このほかにも大和には葛上郡大穴持神社、吉野郡大名持神社、葛上郡鴨都味波八重事代主命神社、高市郡高市御県坐鴨事代主神社などがあり、山辺郡出雲建雄神社という名も式内に見えて、出雲系統の神が少からず各地に祭られているのである。もっともこの和魂を大和諸所の神奈備に坐させたという国造家の説は、すでに大国主神の肉体が出雲に鎮まり給うたということを認める以上、出雲国造家の伝えとしては、その肉体とは離れた別のものとして、この神の指図のままに大和に鎮まったということに解せねばならなかったものとは思われるが、『古事記』には、これとは反対に、まずこの神の魂があらわれて大国主神に命じ、倭の青垣の東山の上にわれを斎きまつらば、ともにこの国を作り成してんと仰せられたとあり、また、その神は御諸山の上にます神なりといい、さらに『日本紀』は、この神をもって大国主神の幸魂《さきみたま》奇魂《くしみたま》なりとも見えている。しかしそのいずれの説にしても、大国主神の御魂が大和の御諸山にまつられて、大物主神と崇められ給うたという点においては同一で、この神の大和に因縁深きことを示しているのである。
 このほかにも大国主神または車代主神が畿内地方にましましたとの古伝は、古書に少からず伝えられているのである。神武天皇大和平野を平げ給いて後、広く華冑を求めて正妃を選び給うたさいにおいて、その選に当った媛踏鞴五十鈴媛《ひめたたらいすずひめ》命は、事代主神が八尋の熊鰐となって、三島溝※[木+厥]耳《みぞくいみみ》神の女玉櫛媛の許に通いて生みませる御児だと『日本紀』にある。さらに『古事記』には、これをもって美和の大物主神が三島|湟咋《みぞくい》の女勢夜陀多良比売に婚して生みませる御子となし、その名も富登多多良伊須須岐比売命、または比売多多良伊須気余理比売とあって、例の丹塗の矢伝説を述(61)べ、七乙女とともに大和の高佐士野を行くところを、天皇のために見そめられ給うたとのローマンスを伝えているのであるが、いずれにしても神武天皇の皇后が出雲系統の神の御出であって、初めから大和にましましたお方であったという点においては一つである。次に綏靖天皇の皇后五十鈴依媛命も、同じ事代主神の少女にますと『日本紀』にあり、安寧天皇の皇后渟名底仲媛命も、また事代主神の孫鴨王の女なりと同書にある。これらは皆ともに、もとから大和にましたお方々であったに相違ない。さらにまた三輪の大物主神は、小蛇となって崇神天皇の皇女倭迹々日百襲姫命の許に通い給うたという、例の三輪山伝説を『日本紀』にとどめている。『古事記』にはこれを陶津耳命の女活玉依毘売のこととして述べてあるが、いずれにしてもまたこの神が、大和地方に活躍せられたと伝えた点においては同一である。またこれを出雲の神として見る例の古伝においても、やはりこの神と大和とその問にある関係の有ったことを伝えている。もし出雲を大国主神の本拠と見るならば、大和はその別宮の地であったぐらいに考えられていたらしいのである。それは『古事記』にこの神が嫡后須勢理毘売命の嫉妬を恐れて、出雲から倭の国に上り給うたことを語っているのによって知られる。
 また崇神天皇は、祖宗以来宮中に祭り奉った天照大神と、倭大国魂神とを、新たに皇女に託して別々に祭らしめ給うたとあるが、この倭大国魂神は、一に倭の大神とも申し、その託宣に、「大初の時|期《ちぎ》りて曰く、天照大神は悉く天原を治らしめ、皇御孫命は専ら葦原中国の八十魂神を治め、我々親ら大地官《おおとこつかさ》を治む」とある神で、この国土の魂として、天照大神とともに相並べて祭り奉りたものであった。しかしてこの神は、三輪の大物主神が大国主神の和魂にまし、幸魂奇現にますに対して、大国主神の荒魂にますと言われている。『日本紀』に、大国主神のまたの名を大物主神とも、国作大己貴神とも、また大国玉神、顕《うつし》国玉神などとも申すとあって、この神は一に国土の魂の神として崇敬せられているのである。しからばすなわち大国主神は、ひとり出雲地方の神であるばかりでなく、実に倭の大神にま(62)しますのであった。されば代々の天皇が、天照大神とこの神とを並べて宮中に祭り給うたゆえんのものは、神武天皇以来御三代間、天照大神の御裔としての天皇、大国主神の御裔としての皇后が、上にならびましましたと同じように、天津神の代表者として天照大神、国津神の代表者としてこの倭大国魂神を、並べ祭り奉ったものであったと解すべく、大国主神が、一方では出雲の神として認められるとともに、一方では大和の国土の神として認められたことを語れるものといわねばならぬ。かくてこそ始めてこの神ならびにその御子神たちの御魂をもって、皇御孫命の近き守り神として、大和各所の神奈備にまさせたという理由も解せらるべきである。出雲の神としての大国主神は、その実大和の神にましましたのであった。
 これを考古学上の調査の結果に見るに、近畿地方には弥生式土器系統の石器時代遺蹟が濃厚に保存されている。しかしてそれに交って縄紋土器系統の石器時代遺蹟が、少数ながら存在し、しかしてこの両遺蹟の関係は、他の地方において見ると同様に、前者が後者を征服併合した様子を示すものである。これをわが古伝説に考えるに、『古事記』には、大国主神ほ生大刀《いくたち》、生弓矢《いくゆみや》をもって、己れを苦しめたる庶兄弟八十神を、坂の御尾ごとに追い伏せ、河の瀬ごとに追い撥いて、始めて国を作り給うたとあり、また『出雲風土記』には、この神越の八国を平げ給うたともある。コシはすなわち北越地方の土着人にその名の遣ったコシ人で、ここに越の八国を平ぐるとは、そのコシ人の多くの国を平定したとの謂であろう。しかしてそのコシの名は、少彦名神を一にクシの神といい、今も千島アイヌをクシという、そのクシと同一語原のもので、それは歴史時代に北越奥羽地方の蝦夷として知られ、今日北海道にアイヌと呼ばれている毛人らと、同一の系統に属する民族であり、石器時代に縄紋土器を各地に遺した民族であると察せられるのである。かくてそのコシ人たる縄紋式土器を使った民族の多くの国、すなわち越の八国を平定したといわれる大国主神は、実に近畿地方において濃厚に存する弥生式石器時代遺蹟をとどめた先住土着の国津神の代表者と申すべき神で、(61)いったんコシ人らを平定していわゆる大国の主となり、さらにそれを天孫に譲り奉ったと伝えられているのである。
 もちろんこの弥生式土器の遺蹟は、ひとり近畿地方のみならず、出雲その他西部地方に多く存在するもので、これを遺した民族は、天孫降臨以前において、すでに石器時代からこの国土に棲息し、ひとり近畿地方のみならず、他の地方においても同じ経過をとって、漸次先住の縄紋土器系統の民族を併合同化したものであった。しかしてその代表者ともいうべき大国主神が、一方に出雲の神として語り伝えられているにかかわらず、その実大和地方にも多くの遺蹟を遺し、皇御孫の命の鎮まりまさん間として、ここに一族の神々の御魂をとどめたということについても、その古伝説の含蓄する真相が、髣髴として諒解さるべきものであろうと思われる。
 しからばこれを特に出雲の神として伝うるに至った理由いかん。節を改めてこれを観察してみたい。
 
      五 大国主神と出雲地方
 
 出雲は中国山脈の北背にあって、ほぼ山陰道の中央部地方を占めている。しかしながら交通不便の時代にあっては、山陽地方の文化とは比較的交渉少く、近畿の文化は山陰道を東より、九州文化は西より漸次侵入して来たものであったことが、山陰地方の古墳その他考古学的研究の上からも、ほぼ推測されるのである。したがってその地は山陰道の中部にあっても、文化普及の上からは、終点といってもよい位置を占めているのである。したがって言語の上においても、この地方には古語の伝わっているものが比較的多く、ことにその方言の発音において、音の保存することと、韻のことに多きこと等、北越、出羽方面に近似したものがあり、人をしてこれらの地方と交通上特別の関係があったのではなかろうかとの説をなさしめたことすらあったほどである。しかしながら、これは両地の上に直接関係があったというよりも、両者がともに文化普及の終点たることにおいて相一致しているがためで、僻陬の地に古代の音韻が(64)多く保存されるという道理から解すべきものであろう。さればかくのごとき形勢の地方であったがために、自然ここには古代において、比較的後までも有力なる国家が保存されていたのであった。『古事記』によれば、景行天皇の御代において倭建命九州に熊會建《くまそたける》を誅し給い、さらにその御帰途ここに出雲建《いずもたける》をも誅し給うたことを伝えているのである。言うまでもなくタケルとは武勇者の義で、この熊曾出雲の両タケルを誅し給うたことは、大和朝廷の武勇者にます日本式尊が、熊襲の巨魁たる熊曾建と、出雲の巨魁なる出雲建とを、ともに平定し給うたことを語れるものであるにほかならぬ。けだし当時大和と、熊襲と、出雲と、三方において各有力者が鼎足の勢をなしていたのであったが、結局他の両者は大和朝廷の御稜威に服するに至ったものだと解すべきであろう。この出雲建誅伐の説話は、『日本紀』においてはこれを崇神天皇の御代のこととなし、天皇が出雲の神宝を見給わんと思召され、これを献納せしめ給わんとて使者を遣わし給うたさいに、たまたまその神宝を主《つかさ》どれる出雲国造家の当主出雲振根は、筑紫に旅行して不在であったので、その弟が兄の意志をもたださず、命のままにこれを奉ったがために、振根怒ってその弟を殺し、天皇さらに吉備武彦と武渟川別とを遣わして、振根を誅し給うたということになっている。いずれにしても他の地方が皇威に馴服した後までも、出雲には引続き有力なる国家が保存されていたことを語るものであるにほかならぬ。しかしてこの国家はすなわち出雲国造家の起原をなすもので、この家、天孫天穂日命の後と称するも、その間は畢竟大国主神の国家の延長である。されば「記紀」の古伝説には、大国主神出雲の五十狭田の小汀においてその国を天孫に奉ることを承諾し、退いて天日隅宮に隠れましたとのことを語っているにかかわらず、出雲地方における伝説には、他の地方はこれを天孫に捧げ奉っても、出雲のみは依然自己の所領として、遺されたものであったことを語っているのである。『出雲風土記』意宇郡母理郷の条に、
  所造天下大神大穴持命、越の八国を平げ賜ひて、還ります時に、長江山に来りまして、詔りたまはく、我が造り(65)まして命《し》らす国は、皇孫命平らけきと知らしめせと奉り、たゞ八雲立出雲国は、我が静まりまさん国、青垣山廻り賜ひて、玉珍《たま》置き賜ひて守ると詔りたまひき。故に文理《もり》といふ(神亀三年字を母理と改む)。
とあるのがこれである。すなわち出雲国造所領の国は、もと大国主神の領せし国の中より、ことさらに保留しておいたもので、それが出雲国造家に伝承せられ、一時は出雲建とも呼ばれて、大和、熊襲と鼎立するほどの勢いを有していたのであった。しかしてその出雲建または出雲振根誅伐の伝説は、その国が崇神天皇もしくは景行天皇の御代において、いよいよ大和朝廷に併合せられたことを語ったものと解せられるのである。これをかく見るのも、もちろん見解の相違として解すべく、大和朝廷からこれを見れば、出雲もまた当然天孫に奉られた国のうちの一部で、ただその旧領主の国造たることを認め給うたというに過ぎないことであったであろうが、国造家の身からこれを見れば、出雲のみは自家の所領として取り遺したものだということに解したものであったであろう。これを後の例をもって喩うれば、豊臣秀吉の四国平定において、ただ土佐一国のみを長曾我部の所領として、他の占領地を没収し、また九州平定において、薩隅日三州の地方のみの所領を島津氏に許して、他の地方を没収したという場合に似たものであったであろう。しかしながら、ともかくも事実上出雲地方においては、それが出雲振根であるにしても、また出雲建であるにしても、その地方に占拠して皇命に反抗するほどの有力者があって、比較的後の世までもそれが保存されていたことは明かにこれを認め得るのである。
 ここにおいてか始めて大国主神、その他いわゆる根の国系統の神々に関する伝説が、多く出雲地方のことに関して伝えられた理由が首肯されよう。けだし出雲は実にこの民族が、いまだ十分天孫民族に同化融合せられずして、最後までその民族的独立を保持し得た地方であったのである。したがってその祖神に関する伝説が、多くこの地方のこととして語られたのは当然の成り行きであったのである。かくてついにはその民族に名づくるに、出雲民族の名をもっ(66)てせらるるほどにまで、著名なものとなったのではあるけれども、いわゆる出雲民族の名は単に最後まで、取り遺された出雲国家の民衆のみについて呼ばるべきもので、いわゆる出雲の神必ずしも出雲地方のみの神ではなく、いわゆる出雲民族と同一系統の民族は、石器時代には弥生式土器を使った民族として、広く各地に分布したものであり、しかしてその大国主神ほ、これらの国津神の代表者として語り伝えられ、その国譲りの伝説は、わが祖宗がこれらの国津神の国家を順次併合して、もって大日本帝国の大をなすに至ったことの代表的説話と見るべきものと解すべきであろう。
 
      六 出雲の神々と熊野
 
 出雲のみが古伝説上の大国主神の国ではなく、実はその一部が最後まで保存された地方たるに過ぎないものであったということに関しては、一方にいわゆる出雲の神々の伝説が、遠く離れた熊野地方においてもまた語られているという事実から、間接にこれを裏書きすることが出来る。
 熊野は近畿地方の南隅にあって、これを代々の天皇のお膝元たる大和平野から見れば、距離においてあえて遠しと言うほどにはあらざるも、しかもその地は吉野の山岳地帯によって隔絶せられた僻地として、その交通はほとんど全く杜絶せられ、ために久しく化外の地として取り遺されていたのであった。かの吉野川上の国※[木+巣]人すらが、「峯峻しく、谷深く、道路狭く※[山+獻]しきが故に、京に遠からずと雖も本より朝来すること希なり」と『日本紀』にあるほどで、応神天皇の御代まではほとんど大和平野に出でたこともなく、その後も永く異俗として山間に取り遺されているのであった。また吉野山地から東西に続いた紀伊の日高郡、伊勢の飯高(一に氷高ともあり、もとヒダカと訓むべきもの)郡のごときは、その名までがヒダカすなわち夷人《ひなひと》住居の地なることを示しているほどである。さればこれらよ(67)りもさらに南に距れる熊野地方のごときは、おそらく国郡制定のころにおいて、事実上なおいまだいずれの郡の統治にも属せざる地方として、ほとんど放任されていたものであったに相違ない。後世はかの広漠たる範囲を牟婁の一郡中に包含したこととなっているが、しかも牟婁郡はもと郡の西北部なる今の田辺町地方の称で、広く熊野地方をまでもこれに籠めたものではなかったと解せられる。けだしムロとは、もと海岸の岩窟内に温泉《いでゆ》があり、それを牟漏《むろ》(室)の温湯《いでゆ》と呼んだことから起った名であった。したがって当初の牟婁郡は、この田辺町地方を統治すべく置かれたもので、これよりも奥はただ漫然その郡の属地として放置せられたこと、なお出羽、津軽、渡島などの夷地が、漫然越後の一部として認められていたごときものであったに相違ない。そのこれを熊野と称するのも、九州地方に古代夷人雑類の一として肥人《くまぴと》と呼ばれた異俗があり、またクマ(隈)を名とする地が九州各地にはなはだ多く伝えられていると同じく、ここもまた僻隅の意味におけるクマの野の義であったと解せられる。大国主神、国を天孫に譲り奉って後百足らず八十隈に隠れ給うたと『日本紀』にあるその「隈」である。容易に開墾され得べき平地の住民が比較的早く日本民族に融合して、その民族的独立を失いたる後までも、僻隅のクマに住めるものは同化機会を捕え得ずして、永く異俗として取遺され、あるいは競争場裡に劣敗した者が、好地を優秀民族に譲りて、退いて僻隅のクマに居を卜し、ここにクマ人の称が起るのである。大国主神の隠れ給うた八十隈なるものも、出雲の国が文化普及の終点として、比較的後までもその民族的独立を保持し、いわゆるクマ人の程度にいたことを語れるものと解してよい。しかしてその熊野地方において、八十隈なる出雲地方に遣れると同じ神話の保存されているということは、いわゆる国津神が大和地方をまず皇孫尊に譲り奉り、その地の住民早く日本民族に同化融合し、これより皇威の漸次遠方に及んだ後までも、この文化普及の両終点なる熊野と出雲とにおいては、久しくその民族が保存せられ、ここに別々に祖先に関する伝説を語り伝えたことであったであろうと解せられる。しかもその熊野においては、出雲におけるがごとき有力なる(68)国家を維持することが出来なかったがために、その祖先に関する伝説も、わずかに断片的に保存されたに過ぎず、一般的には主としてこれを出雲地方のこととして伝えらるるに至ったものであろう。
 
      七 結  語
 
 「記紀」の伝うる古伝説は、必ずしも太古の形そのままのものではない。かの『古事記』の序において、「諸家の賚《も》たる所の帝紀及び本辞、すでに正実に違ひ、多く虚偽を加ふ」とあるものは、天武天皇の御代における実際を語ったものであるが、しかもこれはすでにその以前のある時代において、――おそらくは聖徳太子の国史編纂のさいにおいて――伝来の雑多の古伝説を統一整理せられた後の情況であったと解せられる。しかるにもかかわらず、なお伝説区々たるものが多かったがために、天武天皇これを憂い給いて、さらにこれを統一整理し給わんと志し給うたのが、すなわち『古事記』編纂の濫觴であったのである。かくて天皇の御意のままに、十分統一整理されたはずの『古事記』の中においても、なおたまたま取り遺された異伝が少からず雑っている。かの景行天皇の数多き皇妃の一人に、皇子倭建命の曾孫、すなわち天皇には玄孫に当れる迦具漏比売命が数えられているがごときは、その著しき破綻の一例である。さればさらにその後に編纂された『日本紀』において、『古事記』とは異りたる伝説の少からず保存せらるるに毫も不思議はない。したがって出雲の神々に関する伝説の、熊野地方に少からず保存せらるるものがあっても、またあえて怪しむに足らないであろう。ことに「記紀」のごとき朝廷における編纂書以外、『出雲風土記』あるいは「出雲国造神賀詞」等、出雲地方に伝うるところを語れるものにおいて、さらにそれらとは伝を異にするものがあってもまた不思議はない。大和が皇御孫命の鎮まりまさん国として定められていたというがごとき、出雲が大国主神の静まりまさん国として保留されたというがごとき、いずれもその著しいものである。しかしてさらにそれを裏書きす(69)べきほどのものが、また『延喜式』の「祝詞」に伝わっているのである。かの「大祓詞」に、
 我皇衝孫命は、豊葦原の水穂の国を安国と平けく知ろしめせと事依ざし奉りき。かく依ざし奉りし国中に荒振る神どもをば、神問はしに問はし賜ひ、神掃ひに掃ひ賜ひて、語問ひし磐根樹立草の垣葉をも語止めて、天の磐座放ち、天の八重雲を伊頭の千別《ちわ》きに千別きて、天降し依ざし奉りき。かく依ざし奉りし四方の国中と、大倭日高見の国を安国と定め奉りて、云々。
とあるのは、あるいは天孫の降臨を、ただちに大倭に向つて行われたもののごとく伝えたものらしく解してよいのであるかも知れぬ。もちろんこれは日向における天孫降臨説を否定した証拠とするには足らぬまでも、神武天皇の大和平野御平定の事実をもって、天神の依ざしのままに豊葦原の瑞穂の国を安国と平けく治ろしめさるることの手始めとして、語り伝えたものであるといってもよいほどの古語である。しかしてそれは「出雲国造神賀詞」に、大和をもって皇御孫命の鎮まりまさん国として、ここに出雲の神たちの御魂を坐せて、皇御孫命の近き守り神に備え奉ったということと相対照すべきものなのである。また『伊勢風土記』によれば、神武天皇の御東征のさいに当って、伊勢国に国津神伊勢都比古というものあり、天皇天日別命をつかわして帰順を勧告し給うたが、伊勢都比古あえて皇命を奉せず、すなわち兵をもってこれを討ち、伊勢都比古その敵し難きを知って、神風を起して信濃国に去ったとある。その経路がいかにも天孫降臨に関して語られた建御名方神の説話に似ているので、旧説あるいは伊勢都彦をもって建御名方神と同一視するものすらあるほどである。思うにかくのごときのことは、皇威の発展に伴って古く各地に起った事実であったに相違なく、したがって各地に類似の語り伝えがあったもので、中につきその出雲におけるものはこれを天孫降臨に関して語られ、伊勢におけるものは神武天皇東征に関して語られたというの相違があるに過ぎないものである。神武天皇の日向に起って、遠く大和に移り給うたという説話のごときも、大きくこれを見れば、また一種の天(70)孫降臨とも解すべく、その日向における神代三世の説話は、祖国たる高天原より、皇御孫尊の鎮まりますべく予定された大和に降り給う途中の事蹟と見るも、また必ずしも不可なりとはいえないのである。
 天神の子のこの国に降り拾うたということは、これを古伝説の上のみより見るも、ひとり日向における天孫降臨のみではなかったはずである。出雲国造の祖天穂日命が出雲に降ったその説話も、一の天孫降臨である。物部氏の祖饒速日命の大和に降ったというのも、また一の天孫降臨である。またその以外において、古伝にその由来を見るところなき天神の後と称する諸氏の、少からず後世に存するを見れば、他にも天孫降臨というべきほどのものが少からずあったことは否定し難い。同一民族の同一地方に向って移動するもの、必ずしも一度限りならざるべきは、傍例はなはだ多くこれを示している。わがこの国土においても、太古すでに天神の後と称せらるる国家が少からず存在し、先住民の多くの国家と入れまじって、そこにいまだこれを統一するほどのものがなく、各自堺を分って相争うの状態にあったことであろう。さればかの天忍穂耳等が天浮橋に立たしてこれを見そなわして、「豊葦原の千秋長五百秋の水穂の国は、いたくさやぎてありけり」と仰せられたという説話のごときは、けだしその喧擾の真相を示すものであったに相違ない。しかしてこれを統一し、これを安国と乎けく治ろしめすべき天神の使命を奉じて、日向の高千穂峯に降臨し給うたのが、すなわちわが皇室の御先祖とます天孫瓊々杵尊であって、神武天皇はその天神の使命のままに、まずもって四方の国中として大倭日高見の国を安国と定め給い、ここに万世一系の皇基を確立し給うたというのが、「記紀」の伝うる古伝説の大綱であらねはならぬ。しかもその使命を全うするについては、他の諸国を併合してここに鞏固なる国家を建設せねばならぬ。ここにおいてか大国主神の国譲りが語られ、伊勢都彦の国避りが語られたのである。その以外これに類した説話の各地に多かったであろうことはいうまでもない。しかしてそれが天孫降臨に関して語られ、また神武天皇東征に関して語られるとも、畢竟はわが皇祖皇宗が、いわゆる荒振神たちの群小国家併合の(71)事蹟を述べたにほかならぬ。したがってその伝説は各地において、また各家について、もちろん区々なるものが多かったであろうが、それがある時代に統一整理せられて、大体に「記紀」の伝うるごとき形となって保存され、それに加わらなかったものはいつしか消滅してしまったものと解せられる。しかもなおその多くの古伝の中には、その整理の手から漏れて、たまたま保存せられ、幸いにしてその片鱗を表わすものがまた少くないのである。出雲と、大和と、熊野との関係のごときその一例である。すなわちここにいささかこれに関する管見を吐露して、わが建国史の研究に関する一斑を示すことにした。もしそれ一般建国史に関する余輩の見解は他日の機会において別に述べることとする。
 
(72) 本邦太古の交通
 
      一 緒  言
 
 人類は一所に定住して、孤立の生活を営むものにあらず。必ず他と交通して有無を交換し、生計上または娯楽上、しばしば各地に旅行するを常とす。されば、人類すでに生存する以上、その地方には必ず交通行われたり。もちろん野蛮未開の時代にありては、文明国におけるがごとき進歩したる交通要具なく、道路またきわめて不完全なるべきも、当時の住民は身体強健、意志鞏固にして、痛苦に堪え、冒峻を厭わず、榛莽を開き、刑棘を分ち、峻嶮なる坂路あえて辞するなく、猛獣の危難必ずしも畏れず、よく遠隔の地に往来したり。人智ようやく進むに及びて、従来足をもって踏み平《な》らしたるに過ぎざりし径路も、人工を加えて次第にこれを坦にし、家畜を使役して労力を省くことを工夫し、河川には橋梁を架し、舟筏を具え、ますます交通用具を改良して、ついには人力よく天然を征服する今日の盛況に達するに至れり。今これを古文に考え、遺物・遺蹟に徴して、その本邦太古の状態を観察せんとす。
 
(73)      二 わが石器時代と交通
 
 太古わが大八州国に住せし人民が、なお石器時代の状態にありしさい、彼らはいかなる範囲の交通を開きたりしか、もとより記録の伝うるところなく、的確なる事実得て知り難きも、これを遺物・遺蹟に徴するに、その範囲の意外に広かりしを感ぜしむるものあり。
 石器時代の住民がいかなる種族なりしかについては、諸説いまだ一定せず。その中において、比較的に中部以東に多く繁延し、従来普通にコロボックルの名をもって知られたりしものが、今日北海道にアイヌとして存するものと同一系統に属すべきことは、ほとんど疑いを容れざれども、彼らの遺物とは著しく性質を異にする赭色土器(通称弥生式)を使用せし他の種族のごときは、あるいはこれをもって天孫族の祖先なりとし、あるいはこれをもって隼人系のものならんとし、あるいはこれらとも異なりたる、ある他の種族と想像せんとし、容易に学説の一定を見ざるなり。彼らは、アイヌ系の人民が比較的多く東部地方に蕃息したりしに対して、西部地方に多くその遺蹟をとどめたり。よりて余は便宜上、かりに前者を東部系石器時代住民と称し、後者を西部系石器時代住民と名づくべし。その西部系のものは、東部系のものの遺物・遺蹟が、往々西部地方にも発見せらるると同じく、また太平洋および日本海沿岸等において、往々その遺物の発見せらるることにより、彼らの分布が、必ずしもわが西部地方にのみ局限されざりしを知る。余輩の不十分なる材料より臆測せるところによれば、彼らはおそらくはもと海岸島嶼住民にして、古書に白水郎《あま》・安曇部《あずみべ》・海部《あまべ》等の称をもって知られたりし種族と同一系統に属するもののごとし。その根源はもちろん西部にあるべきも、広く海岸地方に沿いて、各地に蔓延せしものなり。彼らは不完全なる小舟に棹して、よく荒き海を航す。催馬楽の風俗歌に、
(74) 伊勢人は賎《あや》しきものをや。などてえば(何故と言えばの義)小舟に乗りて荒き海を漕ぐや、荒き海を漕ぐや。
とあるは、伊勢の海浜に住せし後代の海人《あま》の動作を詠みしもののごとし。かくのごとくにして彼らは、思いのほかなる遠隔の地と、海によりて交通せしことありしを認めらる。古伝説に海北道中宇佐島の名あり。宇佐島は識者解して于山国すなわち今の鬱陵島となす。鬱陵島は実にわが国より、海北すなわち朝鮮に航する道中の中継場なり。隠岐に海士郡あり、古え海部の民これにおる。今も隠岐の漁民扁舟に乗じて鬱陵島に航し、あえて恐れず。けだし古代海部の状態を語るものなり。太古九州および中国北岸の海人等が、海を航して朝鮮に交通せし状察すべし。しかしてかくのごときの現象は、これを南島方面についても想像するを得べく、直接もしくは間接に、太古の住民とシナ人らとの間に、物資の交換の行われたりし事情また察すべし。
 西部系のものが遠隔の地に交通したりしと同一の現象を、余輩はまた東部系の石器時代住民の上に想像するを得べし。徳川時代にアイヌが樺太を通じて山丹地方と交通し、遠くシナ・ロシア等の産物を将来せしことは顕著の事実なり。彼らは虫の巣と称する硝子玉、蝦夷錦と称する織物等を大陸より輸入せり。しかして転々してその品は往々邦人の手に帰せり。彼らはまた遠き古代において内地人とも交通し、物資の交換の行われし範囲の思いのほかに遠方に及びし事実あり。明治四十四年のころ、北見網走郡において、わが古代の蕨手刀一口を発見せしことあり、現品は札幌博物館に蔵す。これを伝来せしアイヌは、あるいはすでに石器時代の状態より脱せしものなりしかも知れず。しかれども、徳川時代に至りても北海道内部のアイヌ等が、なお石器を使用せしことは疑いを容れざるがために、その蕨手刀を輸入せし時代の北見地方は、たとい石器時代にあらずとするも、これを距る遠からざりし程度のものたるべく、しかしてこの事実は、移してもって内地における石器時代の状態を語るものなりというを得べし。
 内地における石器時代の遺蹟中より発見せらるるものの中に、普通の石器・土器のほか、とうてい彼ら自身の製作(75)し得ざる物品の往々にして存するあり。中にも硬玉製の玉類のごときは、その最も著しきものなりとす。
 由来硬玉の原料のわが国に産せざるは、現今に至りてなお学界に認めらるるところ。したがって、わが上代の古墳より多く発見せらるる硬玉製曲玉のごとき、その製作はよしや邦人の手に成りたりと仮定するも、その原料は直接・間接に大陸より輸入せられたるものなるを疑わず。しかして石器時代遺蹟より発見せらるる玉類の中には、古墳より発見さるる曲玉と、形態において、製作において、ほとんど区別なきまでに類似したるものあり。銅駝坊所蔵発見地未詳長さ約一寸八分の翡翠曲玉のごときは、全く古墳発見物と区別なき程度のものとす。こは発見地未詳というだけに、あるいは古墳物の誤認せられたるにあらずやと疑う者なきにあらざるも、近く余の見たる三河の好古家故大林意備翁が、付近の稲荷山貝塚より白身発掘せられたる長約一寸五分のもののごときは、とうていこの疑いを容るるを許さざるなり。この品はやや扁平にして、普通の古墳品と多少形態を異にす。このほか異形の曲玉・丸玉に至りては、実例はなはだ多く、余もまたその一個を蔵す。中にも銅駝坊および江見水蔭氏の蔵する、扁平なる石斧に穴を穿ちたるがごとき形のものは、他にも類例ありて、ほとんどシナ古代の玉類中に発見せらるるものと類似せり。高橋健自君は『人類学雑誌』(第三十一巻第一号)に「石器時代の勾玉に就て」論ぜられ、「今日でも横浜あたりに、我々の好尚には歿交渉で、全然西洋人向に調製された物品があることを思へば、此の問題もやがて解決すべく、彼の勾玉は、大和民族が先住民向きに殊更製作したものなり」と考えられたれども、余はさらにこれよりも遠隔の地に、その関係を求むるを至当と考う。余はむしろ反対に、大和民族愛用の曲玉は、その起原を石器時代の住民に有するにあらざるかを疑うものなり。もとより単なる空想にあらず、その説の基づくところ、多少の根拠を有するも、今これを説かんは論旨あまりに枝葉に走るの虞《おそれ》あるがゆえに、こは他日機を見て別に発表すべし。
 ともかくもわが石器時代住民のある者が、直接もしくは間接に、シナ人と交通せし事実は、これを認めざるべから(76)ず。たとい右の玉器が、大和民族の手を経たりとするも、またその多数が大和民族の手に成れりとするも、そのある物がシナに起原を有したりしを疑わず。また彼らの中の玉器製造者が、他の民族より優良なる製作器具を得てこれを使用したりしことも想像せざるべからざるなり。
 石斧・石鏃等の材料中にも、その発見の地方においてかつて産出せざるもの少からず。また九州および日本海方面の地方には、朝鮮・満洲もしくは台湾等において普通に発見せらるる磨製石器の、存する場所多し。これらの発見地と原料の産地その他の関係とを広く調査して、これを一覧表に製し、あるいは地図上に表わさんには、彼らの交通・接触の範囲を知る上に、利益|尠《すくな》きにあらざるべきも、今はその暇なきを憾むのみ。
 これを要するに、わが石器時代の住民が、内地各所に往来し、また直接・間接に海外の地方にも交通せし事実は、これを傍例に徴し、これを遺物・遺蹟に考えて、ほぼ推知するを得べし。ただしその地理上具体的の説明は、これを将来の調査に俟たざるべからず。
 
      三 わが古伝説と交通
 
 わが古伝説の語るところ、主として天孫種族と出雲民族との上に係る。このほか天孫降臨以前の民族としては、山祇《やまつみ》・綿積《わたづみ》等一部先住民の起原を説明する少許の説話と、天孫降臨後の事蹟としては、隼人族の出自を示せる説話、および海神宮往来の事蹟を説くあるのみ。しかしてその説くところ、学問上必ずしも太古の史実とし見る能わず。中には地名より付会したる後出の俗伝もあるべく、後世の知識をもって前代を説明せるものまたこれあるべし。要はその伝説を記録に上したる時代の人士が、いかなることを信じ、いかなることを語りしかを知るを得るに過ぎざるなり。
 されどつまびらかにその語るところを調査しなば、中には朧気ながらにも、太古の状態を髣髴せしむるものなきに(77)あらず。伊弉冉尊が火神を生めることによりて崩じ給うや、去りて根の国に入る。伊弉諾尊これを慕いてその国に至り、屍体腐爛の状に怖れ、帰りて黄泉津平坂《よもつひらさか》を塞ぐに千引の岩をもってす。これより根の国との交通絶えたりという。これ根国系に属する出雲民族と、高天原系に属する天孫種族との衝突の蹟を伝うるとともに、その出雲民族の祖国が根の国にして、太古彼此の間に交通のありしことを信じたるものにあらずや。根の国に交通するには、前記黄泉津平坂よりす。出雲の伊賦夜坂《いふやざか》これなりという。出雲意宇郡(今八束郡の中)に揖夜《いや》村あり。けだしこの地方に伝説を存せしものか。『出雲風土記』には、「出雲郡宇賀郷|脳磯《なづきのいそ》の西方に窟戸あり、……窟内穴あり人入るを得ず、深浅を知らず。夢に此の磯窟の辺に至らば、必ず死す。故に俗人古より今に至るまで号して黄泉《よみ》の坂といふ。黄泉《よみ》の穴なり」とあり。出雲の神現界を天孫に譲りてみずから幽界を掌りきと伝え、ついにその祖国たる根の国をもって死後の国と混同するに至りしなり。
 素戔嗚尊大八州国にありて所行暴戻なりしがために、根の国に逐わる。すなわち天に上りて高天原に天照大神に謁し、別離を告ぐ。高天原は天孫種族の祖国なり。天孫饒速日命および瓊々杵尊が、随従の諸神を率いてこの祖国を発し、わが大八州国に降臨したまいしことは、建国史上著しき事蹟なり。高天原がいずれの方面にありとするも、ともかく天孫の祖国として太古大八州国との間に交通ありしことは、これを認め得べし。天孫降臨とはけだし民族の大挙移住なり。
 素戔嗚尊高天原を逐われて根の国に赴くや、途出雲を経て簸川上《ひのかわかみ》に八岐大蛇《やまたのおろち》を退治し給い、後|韓国《からくに》に入る。その子|五十猛神《いたけるのかみ》は、延喜式に韓国伊太※[氏/一]神《からくにのいたてのかみ》とあり。大屋姫神・抓津姫《つまつひめ》神と共に、木種を韓国より渡して、周ねく大八州国に植え付け、後に紀伊に鎮まれりという。根の国と韓との関係もって見るべく、韓土とわが邦との交通また察すべし。
 素戔嗚尊高天原にありて天照大神と誓約の間に三女神生ず、筑紫宗像君等の祭る所なり。一説宇佐島に降り、今海(78)北道中にあり、筑紫の水沼君等の祭る神なりともあり。海北が韓土なる事は、『宋書』所収倭王武の国書というものにも見ゆ。宗像君・水沼君等は、九州北部にありて、おそらくは海北との交通を掌りしものならんか。
 少彦名命が大己貴神に同心協力して国土を経営し、功成りて後伯耆の粟島より常世国《とこよのくに》に去る。一説に紀伊熊野よりすという。常世は常夜《とこよ》なり。日出国たるわが国に対して西方なる日没国を暮《くれ》の国と称す。普通「呉」の字を当て、シナを指す。しかして常夜とは、この「暮」よりもさらに遠き国の義なり。後に神武天皇の皇子三毛入野命浪の穂を蹈んで常世国に入り、垂仁天皇の時、田道間守《たじまもり》勅を奉じてまた常世国に使す。『日本紀』に田道間守の言を記して曰く、「遠く絶域に往き、万里浪を蹈んで遥かに弱水を渡る。是の常世国は則ち神仙の秘区、俗の臻る所にあらず。是を以て往来の間、自ら十年を経ぬ。豈に独り峻瀾を凌いで、また本土に向はんことを期せんや」と。常世に対する古人の思想見るべきなり。
 彦火火出見尊その兄火闌降命と山海の幸《さち》を争いて、海神国に至り給う。近時の学者あるいは解して九州の一部なりという。しかも古伝説の意味は遠く海を渡りて彼方の国たることを示す。神武天皇熊野の海中にて風浪の厄に遭い給うや、皇兄稲飯命嘆じて曰く、「吾が祖は則ち天神、母は則ち海神なり、如何で我を陸に厄《たしな》め、復我を海に厄《たしな》むるや」と、言い訖《おわ》りて剣を抜きて海に入る。『古事記』にほこれを妣国《ははくに》として、海原《うなはら》に入るとなす。『新撰姓氏録』に新良貴《しらぎ》氏あり、新羅国王の後にして、実に稲飯命の後裔なりと称す。ここにおいて史家あるいは海原をもって韓土に擬す。これまた一説なり。
 以上は古伝説中、事の海外交通に関するものなるが、内地各所間の交通に関しても、伝うるところまた少からず。中にも出雲と越《こし》、出雲と紀伊、出雲と諏訪の関係のごとき、最も著しとなす。八千矛神《やちほこのかみ》なる大国主が、打ち見る島の崎々、かき見る磯の崎落ちず、弱草の妻を持たせながら、なお遠々しくも越の国に賢女《さかしめ》をありと聞かして、沼河比売《ぬなかわひめ》(79)の許によばいたりしことを始めとして、『出雲風土記』には、伊弉冉尊が越人《こしぴと》をして出雲の日淵川の堤を作らしめたまいしことを記し、もってその古志《こし》郷の名を説明したるあり。また、かの素戔嗚尊が簸の川上に高志《こし》の八岐の大蛇を退治し給いしことも、越人の巨魁の襲来を討滅せし事蹟を伝えたるのと解すべきに似たり。
 出雲と紀伊との関係に至りては、出雲の神が少からず紀伊に鎮座することのほか、出雲地方に伝うると同様の遺蹟が、また紀伊において伝えらるることによりて察せらる。紀伊に熊野ありて、出雲に熊野神社あり。伊弉冉尊の陵は出雲地方にては比婆の山にありとし、紀伊にては熊野の有馬村にありとす。また少彦名命の常世に向って出立せし地は、出雲地方にてほ伯耆夜見が浜の粟島なりとし、紀伊にては熊野の御崎なりとす。この類多し。これらともに「記紀」の伝うる古伝なり。もって両者の関係するところ由来古きを見るべし。
 出雲の神の遺蹟はただに紀伊のみならず、大和地方にも多く伝えらる。大国主神の幸魂《さきみたま》が、大三輪の神として大和の御諸山《みもろやま》に鎮座し、その御子神達がまた大和各所の神奈備《かんなび》に鎮まりて、天孫を守り奉ると伝うる類これなり。
 同じ出雲の神たる建御名方神が、建甕槌神と争い、逃れて信濃の諏訪に走り、ついにここに鎮座せしことも、神初代史上著明の事蹟なりとす。
 人の代となりて神武天皇が、兵を率いて遠く日向より大和に遷り給えることも、わが日本《やまと》朝廷の起原を説明する一古伝説として解すべし。近時の学説あるいはこの東遷を認めず、わが天孫種族はさらに遠き古代より、畿内地方に定住するものなりとし、あるいは、彼らは石器時代の状態にありしさいより、本邦各地に住したりきとなすものもありといえども、九州において特に日向方面の古墳墓が、他の地方のそれよりも、比較的畿内地方の古墳墓に類似する点よりこれを観るも、もって両者の関係の特に深きを察するに足るべく、この伝説必ずしも否認するに及ばざるがごとし。
(80) 神武天皇の代、天富命が、阿波の忌部《いんべ》を率いて房総半島に植民せしことは、『古語拾遺』これを伝う。よしやその神武天皇の御代ということ信ずべからずとするも、香取・鹿島の両神宮が中臣氏によりて古く東国に鎮座することと相俟って、天孫種族が古く東国を拓殖せし古伝説は、これを認むるを得べし。
 これを要するに、出雲民族は山陰地方より近畿地方に蕃殖し、おそらくは北越より信濃地方にまで及び、天孫種族は九州より遠く東国にまでその範囲を拡め、太古すでにその間に交通の行われしは勿論、遠く南島を経ておそらくは南シナ地方に、また西北には海を航していわゆる海北に、交通せしもののごとし。しかしてその海外との交通につきては、漢史に見ゆる倭人の記事、ならびに古秦人の渡来および繁延に関する研究によりて、またこれを明かにすべし。その倭人に関する余の研究は、雑誌『歴史地理』に連載中なり。また古秦人渡来に関する管見は、銅鐸の研究に基づき、天孫種族がいまだ多く近畿地方に蕃息せざりし前において、漢土の文明を伝え、畿内を中心としてその四近の地方に広まりたりきとの考説にして、これまた近く発表の予定なり。これらのこと、今ここにこれを併せ論ぜんは、あまりに散漫に渉るの虞あるが故に、すべて別途の発表に譲り、今はこれに及ばざるべし。
 要するに、古伝説の示せる太古の交通は、漠として捕捉し難きところ多く、学問上よりこれを証明せんには、人類学・考古学の調査の結果に藉り、古代民族の分布・移住と、遺物・遺蹟の特質等とを比較研究したる上ならざるべからず。しかれども、これらのこと、今日の学界にては、学説いまだ一定の域に達せず、目下調査進行中の状態にあれば、しばらく臆断を避け、「記紀」等古書の記するところを抄録して、ほぼ古人の信ぜしところを抄記するに止めたり。
 
 
(83) 五畿内の弁
 
 むかし馬鹿な下人があって、主人から九年母《くねんぼ》の進物の使を命ぜられた。途中でフット出して見ると、いかにも甘美《うま》そうな柑橘が九つある。なるほど九つあるから九年母だなと合点して、そのうちの一つを喰ってしまった。さて先方へ行って、八年母を進上致しますといったがために、途中の悪事が露顕に及んだという滑稽話がある。それに似た滑稽が、堂々たるわが古代行政家の施政の上にもあるから面白い。
 孝徳天皇大化の改新に際して、まず畿内の境域を定められた。東は名墾《なばり》(伊賀)の横河から、南は紀伊の兄山《せやま》から、西は赤石《あかし》(播磨)の櫛淵から、北は近江の狭々波《ささなみ》の合坂山《おうさかやま》から、この四境以内の地をもって畿内の国とするとのことであった。「畿内」訓じて「ウチツクニ」という。「畿」は字書に「疆也」とも、「限也」とも、「門内也」とも、「門限也」ともあって、「サカイ」とか、「カギリ」とかいう義である。シナにおいては、古代帝国の直轄領を帝都の四近千里に置き、これを王畿といった。『周礼』に、「職方氏、弁2九服之邦国1、方千里曰2王畿1。」とも、顔延の詩に、「脱v巾千里外、結v綬登2王畿1。」ともある。王畿のほかに、甸・侯・綏・要・荒の五服がある。各五百里、もって諸侯を封ずる。周には九服という。また九畿ともいう。すなわち侯・甸・男・采・衛・蛮・夷・鎮・藩の九つで、『周礼』に、(84)「大司馬、以2九畿之籍1、施2邦国之政1。」とある。しからば「畿」の字に帝王領の意義はない。単に「畿内」といっただけでは、なんの幾だかわからない。そこで四方の境界を提示して、その内を畿内といい、それが王畿であることを示したものと解せねばならぬ。天武天皇|新城《にいき》に都を造り給わんとし、設計すでに成つたが事故あって中止した。『日本紀』にこれを記して、「限内田薗者、不v問2公私1皆不v耕。悉荒。遂不v都矣。」とある。この限内は、帝都の四至と定めた限内の義で、孝徳天皇四方の境を定めて、その以内を畿内と呼ばれたのと全然同義である。
 しからば「畿内」はすなわち「四畿内」である。四畿の用例シナの古代にも多い。『周礼』に、「野廬氏掌d達2国道路1至c于四畿u。」とも、蔡※[災の火を邑]公橋碑の文に、「敷2教四畿1旋統2京宇1」ともある。わが国でも四畿内の用例は往々見えている。『日本紀』に、持統天皇六年四月、「四畿内の百姓の荷丁となる者に、今年の調役を除く」とも、同年閏五月、「詔して京師及び四畿内をして金光明経を講説せしむ」とも、六月「大夫・謁者を遺して、四畿内に詣りて雨を請はしむ」とも、九月「班田大夫等を四畿内に遣はす」ともある。いずれも畿内の義だ。
 しかし普通には、単にこれを畿内といっている。大化元年に「畿内及び諸国等」、同二年に「凡そ畿内より始めて四方の国に及び」、天武天皇五年九月に「京及び畿内」、十年正月に「畿内及び諸国」、十三年二月に「広瀬王等を畿内に遣はし」、持統天皇五年十月にも「畿内及び諸国」などとあって、その例枚挙にいとまがない。あるいは京師と並称して「京畿」ともある。持統天皇十一年六月「詔して経を京畿の諸寺に読ましむ」などあるのはこれだ。これらの「畿内」あるいは「畿」が四畿内の義であることは、勿論である。
 畿内をウチツクニと読んだのは、「神武紀」に大和平野のことを「中州《うちつくに》」とあるのと同様で、大化にはそれを拡張し、シナの王畿の文字を借りたに過ぎなかろう。
 畿内は大きな行政上の一区画として、七道に対するものである。ゆえに『続日本紀』には、和銅六年五月条の「詔」(85)には、「畿内七道諸国の郡郷の名には好字を着けよ」とある。その中に国の数が五つあつたがゆえに、養老五年三月条には、「左右南京及び畿内五国、並びに今歳の調を免ず」ともある。
 しかるに、偶然にももと四畿内には、国の数が四つであった。すなわち大倭《やまと》・河内・摂津・山背の四ケ国である。しかるに霊亀二年三月に、珍努宮《ちぬのみや》に供するために、河内国和泉・曰根の両郡を割き、さらに翌月に至って、大鳥郡とも合せて和泉監《いずみげん》を置いた。「監」とは、離宮のために設けた特別の行政区画で、その租税をもって離宮の費用に供したものである。吉野離宮のために大和の吉野・宇智二郡を割いて芳野監を置いたのも、おそらくこのころのことと思われる。しかし和泉監と芳野監とは、同じく離宮のための監であっても、やや扱いが違っていたようで、『続日本紀』には、和泉監の顛末は詳しく出ているが、芳野監の方はいっこう見えない。のみならず、和泉監は実は国と同様に扱われていたらしい。養老五年ごろのものと思われる国郡郷里の記事(南都東南院所伝律書残篇引)には、芳野監にはその下に「芳野国」と註し、和泉の方はただちに国と書いてある。あるいはこのころ「国」といっていたのかも知れぬ。そこで前引養老五年三月の「勅」には、「左右両京及び畿内五国、並びに今歳の調を免ず」とある。畿内に五国あるの義で、正しい用い方といわねばならぬ。
 ところが、芳野監はいつのころにか廃せられ、和泉監も天平十二年にいったん廃して河内に併したが、天平宝字元年に至って、再び和泉の国を置き、畿内はこの以後常に五ケ国あることとなった。かくて天平神護二年九月には、五畿内巡察使の名が見えている。この後五畿内七道、あるいは略して五畿七道の称呼は、常に用いられる例になった。畿内が五つある訳でもなく、五畿の内の国というにも当らぬけれども、四国あった時に四畿内と呼ばれたものが、五国になったので五畿内と呼ぶに至ったに、あながち無理はない。
 八年母の馬鹿な下人のみ、必ずしも笑われまい。
 
(86)  上代の武庫地方
 
     一 緒  言
 
 私は吉例によりまして、一番古いところを担任致しました。次は引続き三浦博士の「兵庫港の研究」から、だんだんと各講師が専門の研究を披瀝せられて、この神戸・兵庫より、瀬戸内海を主とせる歴史地理を講了せられる次第であります。
 まずもってお断り致しておきたいのは、私は例年日本歴史地理学会の夏期講演会に出まして、いつも古代のことを担当しているがために、特にお話し致しにくい事情のあることです。中世以後になりますと、各地それぞれに特別の史実が豊富で、その土地土地にかなったお話をなすにも、いっこう苦しまないのでありますが、古代のこととなると材料が乏しい。その乏しい材料によって、古代の事情を明かにしようとしまする場合には、勢いどの地方にも共通のことが多く出て来る。だいたい子供はどの子供でも、挙動なり気質なりが似ているように、世の中のことも上古の簡易素樸の時代のことは、互いに似通ったことが多い。したがって一昨年述べたことを、昨年繰り返し、昨年述べたこ(87)とを本年また繰り返すというような場合が少くないのは、とうてい避け難いのであります。もとより場所が変れば聴衆が変る。変った聴衆に聞いて戴くのならば、何度同じことを繰り返してもよいのでありますが、不幸にしてわが日本歴史地理学会には、熱心な会員が多い。夏期講演会には「常連」という側の人が少くない。現に本年で八回出席したなどいう方が、この席にも前の方に控えておられる。そういう方を見るといかにもお話がしにくいのであります。ことに例年の講演集を御覧になられたお方も、少くないことと存じますから、いっそうお話が致しにくいのであります。そこで私もなるべく注意を致して、重複を避け、同じような事柄についても、なるべく新しい研究によって、前とはいくらかずつでも進歩改善したところを御清聴に達したいと思います。どうか、そんなことなら疾くに承知だなどと、聞かぬ前からお見くびりなく、暫時御辛抱のほどを願っておきます。
 
      二 武庫の名義とその範囲、ならびに武庫
 
 さて、演題の武庫地方とは、一と口に申さば大阪湾の北海岸一帯の地方のつもりであります。古えの郡名で申すと、武庫・菟原・八部《やたべ》の三郡、今日ではその八部郡の中から神戸市が独立し、次第に発展して菟原郡の西部地方をも含んでおりますが、その外部では、菟原・八部の二郡の名が廃せられて、武庫一郡になっております。それで武庫の名が復旧せられた訳であります。
 武庫の名義については古来種々の説があります。普通には「武庫」という文字によって、神功皇后御征韓凱旋の後、武具を武庫山に埋められたので、それで武庫というのだという風に解していた。これは武蔵の名義を解して、日本武尊東夷御征伐のお帰りに、兵器を秩父の山中に蔵められたので、武蔵というと解した流義で、もとより採るに足りませぬ。しかしこの説も由来ずいぶん古いもので、すでにその趣が鎌倉時代末の『元亨釈書』にも見えております。石(88)清水八幡宮の『宮寺縁事抄』広田社条の裏書に、
  武庫山者神功皇后打2新羅1之時、三万八千人武士物具置v之也。併武士ハ成v神、在2西宮1云々。
また、
   摂津国武庫山ハ神功皇后異国ヲ討紗時、三万八千荒神ノ武兵ヲ置給山也。仍※[人偏+稱の旁]《イフ》2武庫山1。其三万八千荒神ハ、御2西宮1。是別殿下上北面神祇伯所2談申1也。
とある。この前説は武士と武具とを置いたといい、後説は武具を埋めたとは言わず、武兵を置いたために武庫というとなっております。いずれにしてもこれを神功皇后に付会したのは一で、皇后の御事蹟が、この地方の古代では一番有名でありますから、それで持って行ったものと見えます。この裏書がいつのころの書き入れか、いわゆる殿下の上北面の神祇伯が何人かは不明でありますが、ともかく古くは、このような解釈が行われておったことが明かであります。
 しかしながら、「武庫」とはもとより「ムコ」の音を表わすべく仮り用いた漢字で、決してその文字に意味があるのではありませぬ。『日本紀』には、「務古水門《むこのみなと》」とも書いてあります。「武庫」の文字は同書応神天皇の条に見えておりますが、もちろん「務古」とあるのと同じことです。その意味は「向う」すなわち対岸で、古代瀬戸内海航行の船の出発地として、最も有名な、かつ最も繁昌な難波の津から見て、向うの水門の義であったかと思われます。これはすでに加茂真淵大人も注意せられたことで、武庫に鎮座まします広田大神の御名を『日本紀』に向津媛命《むかつひめのみこと》と申し、また同書の引用せる一書には、向※[櫃の旁]男聞襲大歴五御魂速狭騰尊《むかひつのおききそおおふいつのみたまはやさのぼりのみこと》ともある。その「向津」または「向※[櫃の旁]《むかひつ》」は、畢竟「武庫津《むこつ》」で、「ムコの」ということと解せられましょう。
 武庫の名は後に『和名抄』武庫郡武庫郷としてあらわれ、武庫御厨《むこのみくりや》・武庫庄《むこのしよう》などの名が見えている。今武庫川の東(89)に武庫村大字東武庫・西武庫とてあるのがそれで、古え武庫郡衙の所在地であったがために、その名がこの地にとどまったのでありましょう。武庫川という名も、その武庫の地を流れているから得たのです。しかしながら、これあるがためにこの地のみが古えの武庫の中心であったという訳ではありませぬ。古の武庫の主要部は、時代によって変ってもおりましょうが、少くも奈良朝以後では、その中心はむしろ今の兵庫地方でありましょう。これを大和田の泊といいました。古えに「務古の水門」「武庫の泊」などいい、あるいは「大輪田の泊」などというも、畢竟は同一帯の碇泊地の名です。兵庫の川を湊川というのも、つまりは武庫の湊に注いでいたから得た名です。弥奈刀《みなと》川の名は、すでに天平九年の『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』にも見えております。これはその湊が特に有名であったがために、単に「湊」といっても通っていたと見えます。
 なお言わば「兵庫」という名も、畢竟武庫というと同一で、これを「武庫」と漢字で書くがために、武具の庫すなわち兵庫ということに変ったのでありましょう。
 しかしながら、太古以来の武庫が必ずしも常に今の兵庫であったとは申されぬ。西宮の津門《つと》は、古えの武庫郡|津門郷《つとのごう》の地で、あるいは武庫の津の門戸の名を伝えたものでもありましょう。中世菟原・八部が別の郡となって、この東部の地方にのみ武庫郡の名が遣ったのも、参照とすべきであります。応神天皇は難波の大隅宮に離宮を有せられた。この天皇の三十八年において、先年伊豆から貢した枯野《かれの》という官船がもはや朽ちて使用に堪えなくなったので、その快走の功を後に伝えんがために、その船材を薪として、五百籠の塩を焼き、その塩を諸国に賜わって、その代りとして新たに船を造って奉らしめた。かくて諸国から一時に五百の船を貢し、ことごとくこの武庫水門に集っておったとある。ただに諸国の貢船のみならず、新羅の調使の船もこの時この武庫の津に碇泊しておりました。けだし当時の武庫湊は、難波の外港ともいうべき形勢であったと察せられます。果してしからばその武庫の湊なるものは、古代交通(90)不便の世において、兵庫のような離れた土地であっては、難波の外港としてあまりに遠くはありますまいか。のみならず、この時新羅の船の失火より、群集碇泊せる五百の責船が焼けてしまったので、新羅王は謝罪のためにと、船大工を送って船を造らしめた。その船大工はこれ猪名部《いなべ》らの始祖だとある。猪名部はすなわち河辺郡|為奈《いな》郷にその名を留めたもので、今の稲野村地方がそれであります。その猪名野に武庫の津の船大工がいて、ためにこの伝説が遺ったものとすれば、これまた当時の武庫が兵庫であっては、あまりに遠きに過ぐる感がありましょう。兵庫がこの武庫の湊に代ったのは、おそらく難波の津がそれ自身よい港となって、もはや付近に外港を要せず、直接ここへ船舶が出入するようになり、三韓の客館もここに設けられるというようになった後のことと思われます。行基菩薩の定めたという五泊は、難波の川尻から始まって、大輪田泊すなわち兵庫までが一日ほど、大輪田から播州魚住泊までが一日ほど、魚住から同じく播州の韓泊《からどまり》までが一日ほど、韓泊からこれも播州の※[木+聖]生泊《むろうのとまり》すなわち室津までが一日ほどということであった。かく難波から一日ほどの兵庫が要港となってみれば、その中間の港は自然価値を減ずる訳で、かくして武庫水門は、ついに兵庫すなわち大輪田泊に移ったものであろうと察せられるのであります。
 
      三 武庫の三大社ならびに住吉神社鎮座の由来 付 夢野の故事
 
 武庫の名が神功皇后の故事に付会せられているほどにも、皇后はこの地方に深い関係を持っておられます。武庫地方の事蹟の始めて史上に見えているのは、実に神功皇后征韓の事歴に関してであります。この時広田・生田《いくだ》・長田《ながた》三大社の神、ならびに住吉の三神が現われて、皇后の御軍を護り給い、凱旋の後、この地に祭られ給うに至ったのであります。
 三神出現の事情は、『日本紀』に精しく見えております。皇后の新羅を征し給わんとする時、まず筑紫に大三輪社(91)を立てて、刀《たち》・矛《ほこ》を奉られた。大三輪はすなわち大和の三輪神社の神で、わが朝地主神たる大国主神の和魂《にぎみたま》であります。この神は広矛をもって荒振神たちを平げ、ついに大国の主となられた武勇勝れた神でありますから、まずこれをお祭りになったことと見えます。ところが、別に神が現われて、わが和魂は皇后の御身にそいて寿命を守らん、荒魂《あらみたま》は先鋒となって、軍船を導かんと仰せられた。この時皇后すでに御懐胎でありましたが、凱旋の後筑紫で、皇子すなわち後の応神天皇を御誕生になり、その皇子を奉じて都にお帰りになろうとせられました。ところが仲哀天皇の二皇子、すなわち応神天皇には腹変りの兄様なる※[鹿/弭]坂《かごさか》王と忍熊《おしくま》王とが、これを途中に要撃しようとする。この二皇子は、仲哀天皇熊襲御親征以来、都にあって留守をしておられましたが、このたび皇后が新たに皇子をお生みになって、群臣を随えてお帰りになるのでありますから、必ずこの幼主を立てるに相違ない、さすればわれらは、兄をもって弟に従わなければならぬ次第である、それはいかにも忍び難いということから、この挙に出でられたのであります。しかるに、二王が菟餓野《とがの》で祈狩を《うけいがり》せられた時に、赤い猪が出て来て、※[鹿/弭]坂王を噛み殺した。祈狩とは、神に祈って目的の成否を卜わんとするの狩で、もし事成らんには良獣を獲せしめ給えと願った訳であったが、そのことが天意に合せず、成績はなはだよろしくなかったのであります。そこで忍熊王は住吉に退き、皇后は御船に乗じたまま、ただちに難波に向われました。
 話がちょっと脇道に這入りますが、ここでちょっと菟餓野のことについて説明を加えたい。『摂津風土記』雄伴《おとも》郡夢野の条に、刀我野《とがの》の鹿の話がある。雄伴郡はすなわち後の八部《やたべ》郡で、夢野は今の神戸市内|会下山《えげさん》の北の夢野でありましょう。天平十九年の『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』に、「雄伴郡宇治郷宇奈五岳壱地、東限2弥奈刀川1、(湊川)南限2加須加多池1、西限2凡河内寺山1、北限2伊米野1」とある伊米野がすなわちそれで、宇治郷は、今に神戸市内に宇治野町・宇治川などと名に残っております。昔は夢野の辺までも、この宇治郷のうちであったと見えます。その雄伴(92)郡を八部郡と改めたのは、おそらくは淳和天皇の御諱「大伴」を避けたためでありましょう。八部はすなわち八田部で、『古事記』に、仁徳天皇その皇后八田若郎女《やたのわきいらつめ》に御子がなかったので、御名代《みなしろ》として八田部を定めたとある、その八田部の部民のいた所でありましょう。さて『風土記』の雄伴郡夢野の条に見える鹿の話はこうです。
  父老相伝へていふ。昔、刀我野に牡鹿あり、其の婦《つま》の牝鹿此の野に居り、妾の牡鹿は淡路国に居る。牡鹿婦の処に宿し、明旦其の婦に語りて云はく、今夜の夢に吾が背に霜ふり草|生《お》へり、此の夢は何の祥ぞやと。其の婦夫の復妾の所に向はんことを悪み、詐りて之を相して曰く、背に草を生ずるは、矢背上を射るの祥なり、又霜のふれるは、塩を肉に塗るの祥なり。汝淡路島に渡らば、忽ち船人に遇ひ射られて死せん。謹みて往く勿れと。其の牡鹿感恋に堪へず、淡路島に渡る。忽ち海中に行く船に遇ひて、終に射られて死す。故に此の野を名づけて夢野といふ。俗諺に云ふ。「刀我野に立てる真牡鹿《まをしか》も、夢あはせのまにまに」と。
 これはもちろん夢野という地名から起った俗伝でありましょうが、この話が少しく形を変えて、『日本紀』の仁徳天皇の条にも出ております。天皇が皇后八田皇女(八田若郎女とあるに同じ)とともに高台にましまして、七月の暑を避け給う時、夜な夜な菟餓野《とがの》から鹿の鳴き声が聞こえる。その声|蓼亮《さやか》にして悲しとある。天皇すなわち皇后とともに、憐れとおもほして、お聞きになるに慣れておられたが、月末になってその鳴声が聞こえなくなった。不審に思召されたところが、それは猪名《いな》の県《あがた》の佐伯部《さえきべ》が殺して天皇の御贄《みにえ》として奉ったのであった。天皇その佐伯部の心なき業を恨み、おもほして、これを皇后に近く置くを好み給わず、遠く安芸の渟田《ぬた》にお遷しになったとある。この菟餓野は、天皇が高台から鹿の鳴声をお聞きになったほどの近所で、天皇の高津宮が今の大阪城の付近であることから、その菟餓野もおそらく市内天満の辺だとの旧説であります。しかしながら、天皇が高台において、皇后八田皇女と御一所においでになったことから考えますと、あるいはそのお宮は高津宮ではなくて、皇后の御名代の地たるこの八部(93)郡に天皇の別宮があって、天皇はそのお宮にましまし、そのお宮の付近なるこの夢野において起った出来事を、かく語り伝えたのであったかと思われます。果してしからば、天皇の鹿をお聞きになった高台は、会下山あたりにあったのでありましょうか。それについて『日本紀』には、また鹿の夢合せの話を記してあります。昔ある人が菟餓に往いて野中に宿った。ところが、二疋の鹿がその近所に臥ていた。夜明けに近いころになって、牡鹿が牝鹿に言うには、われ今夜白い霜が多く降って身を覆うた夢を見たが、これは何の前兆であろうと。その時牝答えていうに、汝出でて行かば必ず人のために射られて死ぬであろう。白い塩をその身に塗られるのは、霜の白い夢に合うのであると。果していまだ夜の明けきらぬうちに、猟人のために殺された。そこで時の人の諺に、「鳴く牡鹿も夢合せのままに」と言うたとある。つまり『風土記』のと同じ起原の話で、いずれにしても菟餓野は今の神戸市内の夢野のことであります。
 余談思いのほかに長くなりましたが、その菟餓野すなわち夢野において、※[鹿/弭]坂王は赤猪のために殺され、忍熊王は住吉に退いて皇后の御帰途を待ち受けられた。皇后は忍熊王らの御帰途を防ぐことを聞こしめして、これを避けて武庫に御上陸することなく、御船のままでただちに難波に赴かれようとせられた。ところがどうしたことか、御船が動かない。すなわち務古の水門にお帰りになって、これを卜わしめられた。この住吉は御影の付近なる菟原の住吉かとも解せられますが、それでは難波へ向つた御船が動かなくなり、そのため武庫地方に諸神をお祭りするに至ったゆえんがわからなくなる。のみならず、そのお引き返しになった務古水門の地が、菟原住吉よりは西なる兵庫あたりでなければならぬことになる。またその住吉に住吉三神を祭り、さらにその東の広田の地に、天照大神を祭ったことの地理上の説明にも、無理が出来る。されば忍熊王の退いて屯したという住吉は、菟原の住吉ではなくて、後の難波の住吉でありましょう。この住吉に住吉三神を祭つたのも、当時ここが難波の要津であったからです。そこに忍熊王が控えておられたがために、神が皇后の御船を止めて、ただちに難波なる敵地に到られるを、予防せられたことと解せられ(94)ます。この時天照大神|誨《おし》えて仰せられるには、わが荒魂をば皇后に近づくべからず、まさに御心の広田の国におらしむべしと。すなわち山背根子《やましろねこ》の女葉山媛をしてこれを祭らしめた。これすなわち広田神社であります。次に稚日女尊《わかひるめのみこと》は、我は活《いく》田の長峡国におらんと欲すと仰せられた。よって海上五十狭茅《うなかみのいさち》をしてこれを祭らしめた。これすなわち生田神社であります。さらに事代主神は、われを御心の長田国に祭れと仰せられた。すなわち葉山媛の妹長媛をして祭らしめた。これすなわち長田神社であります。また表筒男《うわつつのお》・中筒男《なかつつのお》・底間男《そこつつのお》の三神は、わが和魂をば大津渟中倉之長峡《おおつのぬなかくらのながお》におらしめ、よって往来の船を見んと仰せられた。これはいわゆる菟原住吉で、御影の北なる住吉神社がそれであります。これらの神々は、皇后御征韓の前に現れて御軍《みいくさ》を守られたのでありまして、それで凱旋の後、ここにお祭りしたのでありましょう。
 広田の天照大神の御事ほ申すまでもありません。生田の稚日女尊は高天原において、斎服殿《いみはだどの》に神の御服を織っておられた時、素戔嗚尊が斑駒《ぶちごま》を逆剥にして投げ入れられたので、驚いて機から堕ちて神退《かんざ》ったとある神様です。この神様は『旧事本紀』には、天照大神の御妹神だとありますが、それにしても、何故に特にこのさい現れ給うたかの理由は、凡慮の解しかぬるところであります。長田の事代主神は大国主神の御子として、やはり武勇勝れた神様でありますから、征韓役の守護をなされたに不思議はありません。住吉の神は海路を守り給う神として、これも遠征の御守り神たる、もっともの次第でありましょう。つまり天津神の代表たる天照大神とその妹神たる稚日女尊、国津神の代表たる事代主神、海路を守る海の神が、これでお揃いになった訳です。
 この住吉神社は、普通に菟原住吉《うばらすみよし》あるいは茨住吉《うばらすみよし》として知られ、大阪の南の住吉と区別しております。大阪の南の住吉神社は、すなわち難波の住吉で、おそらく難波の津に新たに祭られた神で、難波が重要となりたる後、盛大となったが、もとの鎮座はやはりこの菟原の方でありましよう。難波の住吉社の方の伝えでは、神功皇后の御時に鎮座し(95)た、いわゆる渟中倉之長峡《ぬなかくらのながお》の地をもって、今の社地のようにいい、菟原が本元であることを認めておらぬようでありますが、実は仁徳天皇以後の社でありましょう。その社の祀官津守氏の名も、この菟原郡に古く津守郷のあることに考え合し、また神功皇后がさきに長門の豊浦に住吉神を勧請せられた時にも、この津守氏の祖|田裳見宿禰《たもみのすくね》という人が、これに関係していることを見ますると、住吉社と津守氏とは本来付き物で、その津守氏の本拠はこの菟原郡であって、後世までその津守氏を祀官とする難波の住吉も、もとはこの菟原から移ったとか、分れたとかいうべきでありましょう。しかるにその後難波の津がますます盛大になり、難波の地がしばしば帝都ともなった結果、この住吉のみひとり著名になった。かくて『延喜式』にはこの社のみが名神大社と崇められ、二十二社中の第十五番目にも列して、特別の尊敬を受けるようになりましたが、これに反して菟原の本住吉の方は、『延喜式』にも列せられないようなことになってしまいました。これはこの社鎮座の由来上、また武庫地方の沿革上、遺憾と申さねばならぬことであります。
 
      四 石器時代の武庫地方
 
 記録に伝わっている武庫地方の事歴は、上述の神功皇后関係のことが初見でありますが、武庫地方に住民あり、歴史あるは、もとよりこれが初めではありませぬ。古くすでに石器時代において、この地方に少からぬ住民のあったことは、各地にその時代の遺物、遺蹟が発見せられるので明かです。石器時代とは、文字では石の器を使用した時代ということでありますが、実は石製利器、すなわち石の矢の根とか、石の庖刀とか、石の槍とか剣とかを、使用したということに限られております。金属利用の知識が出来て、その供給が十分になれば、何も好んで不自由らしく、石製の刃物を使用する必要はありませぬ。かくて石器時代から金属器時代に移るのであります。しかしながら、石器時代と金属器時代とは、全く別々のもので、両者無関係だという訳ではありませぬ。時としてほ、石器使用の未開民族が、(96)金属器使用の文明民族に襲撃せられて、あるいは絶滅し、あるいは駆逐せられるという場合もないではありませぬが、多くの場合では、漸次金属の知識が普及し、その供給が十分になり、石器時代当時の人民が、そのまま居据りで、あるいは優等民族の文化を享得し、あるいはこれと雑居して、金属器時代に移るのが常であります。されど金属の刀剣や、斧や矢が輸入せられあるいは製作せられたからとて、当時原料が少くて、その品が貴重なさいには、有力なる者のみがこれを手に入れ、一般人民はやむを得ず、依然として石製品の使用に満足せねばならぬ時代が、久しく続いたに相違ありませぬ。これを石器金属器並用時代とも申しましょうか。推古天皇時代の琉球はまさにその状態でありました。鉄の刀剣はあっても、その材料が少いので、人民は角や木でこれが不足を補い、農民は石の鍬をもって耕作したと『隋書』に見えております。わが国でも、当時はほぼそんなものであったでありましょう。鋭利なる鉄の刀剣や、槍の供給が十分な後の時代にさえ、百姓一揆が竹槍を使用したことも思い合されるでありましょう。
 しからばこの武庫地方の石器時代、降っては並用時代の状態はどうであったでありましょう。西宮町から精道村北に上って甲《かぶと》山付近には、この時代の遺跡がはなはだ多く存在し、種々の石器や、その時代の土器の破片が発見されております。しかしこれは、同地方の西宮史談会というのがあって、同地の吉井太郎氏や、田沢金吾氏などが熱心に捜索した結果として、特にこの地方に多く発見せられたもので、当時の人民の住居の地が、必ずしもこの地方のみと限った訳ではありませぬ。神戸の山の手地方、夢野その他にも、当時の遺跡は少からず認められている。これも神戸の史談会員、ことに福原潜次郎氏の丹誠の結果世に知られたので、実は武庫地方一帯の丘陵・山麓地方には、到る処石器時代人民の住居の地となり、その足跡を印した土地があるに相違ありません。ただに武庫地方に限らず、それがほとんど全国一般の状態であったと存じます。
 しからばその石器時代の住民は何者であったか。関東から奥羽地方に多く発見せらるるその時代の遺物は、近時の(97)学説では、現に北海道に住するアイヌ族の祖先と同一系統の民族の遺したものだと認められております。古くはコロボックルと称する一種変った民族の存在を唱道した学者もありましたが、今日では、いわゆるコロポックルすなわちアイヌ族の祖先であるという説が信ぜられることとなりました。石器は原料の性質上、その製作品に自由の意匠を表わすことが出来にくいので、どの民族のもだいたい類似しているものが多いが、土器になりますと、民族によって特殊の意匠を自由自在に表わすことが出来る。もちろん石器にも、民族によって特殊のものがありますが、その相違は土器において著しい。そこで遺物から民族を研究する場合には、主として土器製作上の意匠から、これを見分けるのでありますが、この地方に発見せられる石器時代の土器は、右のアイヌ式のものとは異にして、いわゆる弥生《やよい》式に属するものが多いのであります。したがってその民族は、アイヌとは違ったものであったと論結せねばならぬのであります。これはひとりこの武庫地方のみに限らず、近畿・中国・四国・九州地方等、たいていこの式でありますが、今は特にこの武庫地方について、その説の大要を述べたいと思います。
 アイヌ式の土器には、今日北海道のアイヌが好んで用うるような、種々の唐草的曲線紋様が施されております。またその土器の形態も千差万別で、自由自在の意匠が遺憾なく発揮せられております。今もアイヌは手芸に秀でておりますが、これは太古以来、この民族の特性であったものと見えます。ところが弥生式土器の方は、形態上の変化も少く、意匠きわめて貧弱で、模様は全くないのが多く、あっても簡単な幾何学的模様とか、わずかに刷毛目を施したぐらいに過ぎぬのが多い。これを弥生式というのは、かつて東京本郷台なる弥生が岡のアイヌ式貝塚から、偶然一個の全く系統を異にする壷を発見したので、それから呼び慣らわした名です。その時代はまだ考古学の研究も進歩せず、したがってこの土器は全く疑問の品として、学者の架上に置かれたのでありましたが、その後学界の進歩は著しく、ことにこの三、四年来、弥生式の遺跡に関する調査が進んで、今やわが石器時代には、アイヌ系統のもの以外に、一種(98)の民族があったことが確かに承認せられることになりました。しかしてわが武庫地方を始め、西部地方の多数の遺蹟は、いわゆる弥生式系統に属するものであることが明かになりました。
 しからば西部にはアイヌ族はいなかったかと申すに、決してそうではありませぬ。九州南部、大分・熊本・宮崎・鹿児島等の地方には、この系統に属すると思われる遺跡が、弥生式遺跡とともに、少からず存在しております。また中国にも、四国にも、近畿にも、まれにこの系統の土器が発見されます。ことにわが武庫地方の東に続いた猪名の県《あがた》には、古代の佐伯部《さえきべ》がおったということが、前に述べた『日本紀』の記事にも見えております。佐伯部とはアイヌ族のことで、古代に久米部の兵士と相対し、左右の宮門を守った佐伯部の兵士は、実に蝦夷すなわちアイヌの族から組織されたのでありました。思うに太古は本邦各地にアイヌ族が住んでおったのが、おそらくはその次に渡来した、同じ石器時代の状態の弥生式土器使用の民族のために圧迫せられて、あるいはこれに服従し、あるいは他に駆逐せられたのでありましょう。東海・東山・北陸以東にこのアイヌ系統に属する遺蹟の多いのは、比較的弥生式民族の繁延しなかったこの東部地方において、彼らが自由の発達繁殖を遂げたもので、またその一部分は九州の南部において、弥生式民族と雑居しつつその種を止め、その中間の地方は主として弥生式民族によって占領せらるるに至ったのでありましょう。
 しからば弥生式土器を使用した民族は何者か。近時の学者の中には、これすなわち日本人の祖先である、原始日本人であるというように主張しているものが少くありません。なるほどいわゆる弥生式土器は、この後も引き続いて日本人使用の土器となり、普通に古墳から発見せられる朝鮮風の焼き方の、いわゆる斎※[分/瓦]《いわいべ》土器と並び行われて、今に水樋用の土管や、土鍋・焜炉等の日用品より、神社祭祀用の土器《かわらけ》として、その遺風が伝わっているのでありますから、この観察は実際無理ならぬところでありましよう。事実上この土器使用の石器時代民族が、そのまま引き続いて今日(99)の日本人になっていると申しても、民族学上からははなはだしく不都合でないかも知れませぬ。
 しかしながら私は、彼らをもってただちにこれ日本人の祖先であるという説には賛成致しかねます。だいたい日本の神々にほ、天神・地祇と申して、天津神すなわち高天原の神々と、国津神すなわち本来から大八州国におられた神々と、二た通りの系統があります。したがって人民にも、高天原から降ったものと、本来の土着人と、少くもこの二た通りの民族があるべきはずです。そのほかにも帰化の漢族などもありましょうし、また単に土着人と申しても、必ずしも一種の民族とのみは限りますまい。しかしながらこれらの諸民族ほ、久しくこの離れ島に共同生活を営んでいたがために、互いに同化融合して、言語・風俗も同じくなり、血液もお互いに入れ交り、いずれも祖先の由来を忘れて、今日ではもはや区別することも出来ない、同一の日本人というものになっております。しかしてわれらの歴史は、われらの祖先が高天原から降ったことを教えておりますから、たとい先住土着人の裔であっても、帰化漢族の胤であっても、すでに同一の日本人となってしまったものは、ひとしく高天原から降ったいわゆる天孫民族になってしまっているのであります。すなわち橙でも枳殻でも、皆温州蜜柑によって接木されて、温州蜜柑になってしまうのと同じことです。しかしてそれが皆いわゆる天津神の系統をもって自認しているのです。されば、弥生式土器を遺した石器時代の先住民族は、事実上今日の日本人を組織した一要素でほありましょうが、それがただちに天降の伝説を有する天孫民族であると言われない以上、これを日本人の祖先だと一と口には申されません。私どもの考えでは、天孫民族はある文化を有して、朝鮮半島を経由して来たもので、もと弥生式土器を使用したものは、国津神の系統に属するものだと信じております。
 古伝説によっても、天孫は決して無人の境に天降られたのではありません。そこには多くの人民が棲息して、多くの小国が存在していたのみならず、中にも出雲を根拠とした、はなはだ有力なる大国主神の国のようなものもありま(100)した。大国主神は兄弟八十神《やそがみ》を服《ことむ》け、多くの荒振神《あらぷるかみ》たちを平げて、大国の主となられたのであります。ここに八十神を服したとは、近傍の諸酋長を従わしめたとのことでありましょう。かくてその大国主神は、天神の命に従って己が国を潔く天孫に譲り奉った。かくて天孫派遣の武神は、他の多くの荒振神たちをも平定した。というのはすなわち、天孫が土着人の国を併合せられたことを述べたのでありましょう。大国主神が民族上果して先住の土着人であるか否かは、おのずから別問題であります。古伝説にはこの神明かに天照大神の御弟神たる素戔嗚尊の御子神だと伝えております。この伝説は、事実としてわれわれは承認すべきでありましょうが、しかしその治下の国の人民は、大多数先住土着の民であったに相違ありません。しかしてその多数は、近畿・中国・四国等に多くの石器時代遺蹟を止めた弥生式の民族であったでありましょう。けれども、この神はまたアイヌすなわち蝦夷族をも征服し、懐柔した伝説を有しておられます。蝦夷は古え北陸地方から関東・奥羽に多く蕃息しておりました。歴史が明かになった後の時代にまで、陸奥《みちのく》の蝦夷とか、越《こし》の蝦夷とかいう名称が用いられております。その越とは北陸地方の名称で、その住民を古語に越人《こしびと》といっております。しからばかの素戔嗚尊が退治されたという高志《こし》の八岐大蛇《やまたのおろち》の伝説のごときは、越の蝦夷の多くの酋長を平げられたことを伝えたのではありますまいか。かくて尊ほその遺業を大国主神に伝えられ、大国主神はさらにその承けた父尊の遺業を大いに拡張せられました。この神到る所に妃を持たれて子孫大いに繁昌したと伝えておりますが、中にも遠く高志《こし》の国に沼名河媛《ぬながわひめ》を尋ねて、これをも娶られたとあります。つまり越人を懐柔し、これを同化せしめたことを伝えたのでありましょう。果してしからば大国主神治下の人民は、弥生式の民族はもちろん、アイヌすなわち蝦夷なども、少からず交っていたものでありましょう。
 しからばその弥生式の民族とはいかなるものか。私は種々研究考案の結果、歴史上に隼人《はやと》とか海部《あまべ》とかいう名称で伝わっている民族と、同一系統のものであろうと存じます。今ここにその考説を委しく述べるの暇を有せぬを遺憾に(101)存じますが、続々雑誌『歴史地理』の誌上において、「倭人考」の題下に意見を発表しておりますから、詳細を御承知になりたい方は、それで御覧を願いたいと存じます。
 要するに私の考えでは、隼人族は石器時代においては広く本州の西半部から、四国・中国にも住んでおったものと存じます。されば近畿以西はもとよりですが、東に向っては、多少武蔵・下総・常陸の辺までも及んで、そこに、同種の遺蹟を遺しております。これらの地方では、彼らはアイヌ族と雑居していたものと見えます。本州西部以西の地方にては、彼らはアイヌ族に対して優勢の地位に立ち、おそらくはこれを服従し、もしくは駆逐して、ほぼその地を独占するほどの勢いでありましたが、ひとり九州南部では、なおアイヌ族がよくその勢力を維持し、ここでは雑居の形勢を久しく保っていたようです。隼人族の遺蹟とともに、そこにはアイヌ系統の遺蹟をも少からずとどめているのは、これがためかと察せられます。
 ところが、さらに優勢なる天降の天孫民族が渡来するに及んで、隼人族の系統に属する国は次第に併合せられ、その人民は次第に天孫族に同化融合して、いわゆる日本人をなすに至りました。かくて比較的後の世までも同化されずに、西隅地方に遺ったのが、歴史上にいわゆる隼人ではありますまいか。古史に倭人《わじん》といい、また肥人《くまびと》などと称するものは、やはりこの系統に属しております。また海部《あまべ》と呼ばるるものも、海岸に住して漁業に従事し、比較的後の世までも同化の少かったものでありましょう。ちょっと考えますと、薩隅のみに伝えられている隼人が、太古広く他の地方にもいたということは、不審のようではありますが、かつては広く各地に住んでいたアイヌ族が、今日北海道にのみ認められるのと、同一の状態をもって解釈することが出来ましょう。
 かくくだくだしくも、武庫地方の歴史としては比較的関係の薄かりそうな民族論を試みたのは、実はこの地方においてはなはだ有名なる、西宮の夷様《えぴすさま》のことをお話し致したいがためでありました。次にはこの神の由来性質について、(102)いささか御清聴を煩わしましょう。
 
      五 西宮《にしのみや》の夷神《えびすさま》
 
 武庫地方の中でも、上古のいわゆる武庫水門の場所であったかとまで思われる西宮《にしのみや》には、夷様という有名な神社があります。この神様は大黒様と並んで福の神として崇められ、また商業・航海・漁撈の神として、古来信仰の厚い神様であります。ところが、この有名なる神様の由来が、実ははなはだ不明です。旧説では、多くこれを蛭子《ひるこ》神だとし、天照大神の御兄弟神と生れながら、三歳足なお立たざる不具の御身であったから、天磐※[木+豫]樟船《あめのいわくすぶね》に入れて大海に押し流し、伊弉諾・伊弉冉の二神も、これを顧み給わなんだ神だと伝えております。しかし広く信ぜられた説では、大黒様が大国主神であるに対して、夷様はその御子神たる事代主神だといっております。このほかにも種々の説がありますが、くだくだしくは申し述べますまい。
 西宮の夷神については、私はかつていささか研究したことがありまして、委しい意見を雑誌『歴史地理』第二十九巻第一号に、「夷神考」として発表しておきました。したがって今日は、詳細のことは申しあげませぬ。しかしその後の研究により、多少訂正を要するところもあり、また何分にも武庫地方の一大名物のことでもありますから、多少の重複を顧みず、なるべく簡単に、一と通りのことを申し述べたいと思います。
 私がまずこの神の研究に関して興味を感じましたのは、それが蛭子神であれ、事代主神であれ、何がゆえにこれを「えびす」と申すかということでありました。わが国では「えびす」とは蝦夷のことで、「えみし」というと同じことです。しからずば一般に夷狄の意味であります。しかるにその蝦夷なり、もしくは夷狄なりを名に負い給う神は、そもいかなる由来を有し給うか。これが古代民族研究中の、私の興味をそそったのでありました。次に疑問となりまし(103)たのは、この神後世ではこれを「えびす」とも、あるいは「夷三郎」とも称えて、一柱の神のように信じておりますが、古書の伝うるところは一柱のみでなく、「夷」と「三郎」とは確かに別の神様でありました。西宮の信仰が盛んになるにつれて、所々の名神大社には、その分霊を勧請してありますが、たいていは夷と三郎とを並べてお祭りしてあるのが常であります。これまた私の好奇心をそそったゆえんであります。ことに不思議に堪えなかったのは、この各地に移し祭られた「夷」と「三郎」とが、後世では「大黒」と「夷」とに変っておられるのです。これがまた私の興味をそそって、研究を促した理由でありました。
 そこでだんだんと調べて行きますと、次第にその理由が明かになって来ました。今は広田・生田・長田の三社をお祭りしたことになっている石清水八幡宮の摂社は、室町時代の記録には明かに大黒天と夷殿を祭ったことになり、さらに遡って南北朝以前の記録を見ますと、それが夷神と三郎殿とを祭ったことになっております。それだけならば鶴岡八幡宮なり、その他の社なりにも例のあることですが、特にこの石清水では、その三郎殿の神像の形を注して、「普通夷の如し、魚持v之」と書いてあるのを、最も面白く感じました。今日では魚を持ったのが夷様であるいは夷三郎ともいいます。しかるにそれが昔は三郎殿でありました。しからばそれと似た形で、魚を持たなかった夷神とは、それはいかなる神でありましょうか。果して昔の三郎殿が後世の夷様であるとすれば、その三郎殿なる夷様と並んで、しかも魚を持たない方の神様は、当然大黒様であるとしか思われないではありませんか。そこでさらに大黒像の沿革を調べてみますと、後世の大黒様ほ普通俵の上に立ち、手に小槌を持っておられますが、昔の大黒様は、必ずしも俵の上に立ってはおりません。叡山の政所大黒や、神宮寺大黒は、岩上に踞すともあります。また、昔の大黒様は槌をも持たないのが多い。一方の手に袋の口を執り、一方の手は握ったままで腰に当てているのが多いのであります。その頭巾もまたいわゆる大黒頭巾ではなく、後世の夷様のような烏帽子を着ておられました。しからばかりに後世の大(104)黒様の像から俵と槌とを除き、大黒頭巾の代りに烏帽子を冠らしめ、それに魚を持たしめたならば、これすなわちただちに後世の夷様の像となるではありますまいか。しかも石清水では、その魚を持った方が三郎殿で、それに似た形で魚を持たぬ方が夷神だとあります。しかして後にはそれが大黒天と夷神とに変っております。ここにおいてか私は、昔の西宮の夷神は、その実後の大黒神で、これと並べ祭った三郎殿が、後の夷神であろうという見当を付けました。そこでさらに研究を重ねてみますと、西宮神社に当るものに、『延喜式』に菟原郡大国主西神社というのがあります。この「西宮」という名義は、従来疑問の種となっていましたが、私はこの西神社がすなわち西宮であろうと存じます。今では西宮は旧武庫郡で、菟原郡というには当りませんが、同社の祠官吉井良秀氏の研究によると、同地はもと菟原郡の中であったとあります。その郡に古え大国主西神社があって、後に西宮の夷神社がある。しかして同郡内他に延喜式内大国主西神社に当るべきものがないとすれば、まずもってこの両社が同一のものであると想像するが至当でありましょう。ことに西宮の境内には、古え本地阿弥陀堂と不動堂とがありました。『諸社禁忌』と称する神道書の記するところによると、夷神の本地仏は不動明王だとある。これはもと夷神が勇猛なる武神であった時代のことです。ところが後には、この神柔和の福神として崇敬せられるに及んで、本地阿弥陀如来と変っております。して見れば、西宮夷社境内の不動堂と阿弥陀堂とは、前後両時代において、ともに夷神の本地として祭ったのであったに相違ない。しかるにいかなるゆえにか、享和年中に至って不動堂を改めて大国主神すなわち大己貴神の社とした。これは当時においてなお不動堂の本尊たる不動明王の垂迹が、大国主神であるとの伝えがあって、それで本の神に返したものであったでありましょう。かくてさらに後に至って、阿弥陀堂を撤去してそこへ大己貴神社を遷した。今の西宮神社の境内に、大国主西神社として祭ってあるのがそれであります。しからば西宮においても、かつては夷神をもって大己貴神すなわち大国主神であると伝えていたことが知られましょう。夷神を大己貴神なりとする説は、『塵塚物語』の中(105)にもある。この筆者は神祇のことにはきわめて無学であったと見えて、大己貴と大国主とが同神たることを弁えず、夷は大己貴、大黒は大国主で、両者連族であるから、世に夷・大黒を並べて祭るのだと言っている。誠に馬鹿気切ったことではありましょうが、不用意の間にも、夷神を大己貴神なりと伝えた旧説のあったことは、これによっても察せられるのであります。
 要するに西宮の夷神は、もと延喜式内の大国主西神社で、もちろん大国主神を祭ったもので、その摂社に大国主神の御三男に当られる事代主神を祭って、これを三郎殿と称し、夷と三郎と相並んで、国津神の代表者たる本邦地主神を祭祀崇敬したのであります。
 ところが、一方にはわが国にインドの神たる大黒天の信仰が、またかなり盛んに行われた。それが例の本地垂迹説により、「大黒」の字音がたまたま大国主神の「大国」の字音と同じいのと、大黒天の嚢を持っていることが、大国主神の袋を背負うて兄弟八十神のお供をしたという伝鋭に似ていることとより、大黒天すなわち大国主神だとして信ぜられることになりました。そこで各地に祭られた大国主神たる夷神も、いつしかこの大黒天となり、それに代って魚を持った方の事代主神たる三郎殿が、夷神あるいは夷三郎殿として祭られることになったのでありましょう。しかるに、本家本元の西宮では、いつのころよりか摂社の三郎殿を本殿に合祀することになり、その社が古くより夷神の名をもって知られているだけに、世間の夷が大黒天となった後も、依然として夷神のままで残った。しかもその夷神は、世間の夷がもはや大国主神でなくなったに伴って、ここでもその大国主たることを忘れてしまった。否、世俗がその大国主神たることを忘れたのは、さらに古い時代からで、鎌倉時代ごろからして、すでにこれを蛭子神だとする説があるぐらいです。しかるに世間の夷神が、大黒の大国主神たるに対して、事代主神であるとして信ぜられるに伴って、ここでも事代主だという説を生ずるに至ったことと解せられます。しかもなおその本地堂を改めて、大己貴神(106)社としたことは、暗々裡に旧説の保存せられたことを示しております。西宮神社の本殿には、もと中央殿蛭子大神と天照大神、東殿蛭子大神像、西殿素戔嗚尊をお祭り申してあった。天照大神と素戔嗚尊とは、大国主神の父神なり、またその御姉なりとして、あるいは蛭子神の御兄弟神として、祭神を大国主神としても、また蛭子神としても、いずれからでもこれを合せ祀り奉るに至ったに不思議はないが、中央殿と東殿とに、同じ蛭子神を二柱までお祭りしてあるということは、これ普通の例ではありません。思うに中央殿の蛭子神というは、これ当社本来の夷神で、その実大国主神を祭り、東殿の蛭子神像というは、後に摂社三郎殿なる事代主神を合祀し奉ったものでありましょう。しかもその両者を、ともに「えびす」ということより、同一蛭子神として信ずるに至ったことと解せられます。しかるに維新後一時この社が式内大国主西神社と指定せられたるがために、爾来中央殿には大国主神と天照大神、東殿には蛭子大神、西殿には素戔嗚尊をお祭りすることとなった。これは偶然にも、美神本来の正しき古えに返ったものであろうと思われます。しかしてそのいわゆる東殿の蛭子大神は、その実三郎殿たる事代主神でなければなりません。
 西宮祭神の変遷ならびに夷神と大黒天との関係は、以上述べたところでほぼ明かになったことと思われますが、これを「えびす」と称することに至っては、まだ問題が遣っている。
 「えびす」とは普通蝦夷のことではありますが、「えびす」本来の語は夷狄の意味で、異種族を示す言葉であります。しからば大国主神、もしくはその御子神たる車代主神は、蝦夷もしくは異種族の神でありましょうか。しかも古伝説には、少しもそのようなことを伝えておりません。のみならず、他にも大国主神や事代主神をお祭りした社は多いが、古来これを夷神と称して崇敬した例を見ません。各地にある夷神は、皆その根原を尋ねてみますと、必ずこの西宮から分れたものと解せられます。して見れば、同一の祭神でも、この西宮のみに限って夷神といつたに相違ありません。しからば何がゆえにこの社に限って、これを夷神と申したか。これはすこぶる難問題であらねばならぬ。
(107) そもそも西宮の夷神や三郎殿は、それが大国主や事代主の神であるほどに、もと勇猛なる神として信ぜられた神でありました。平安朝以来の多くの古書には、夷の本地は毘沙門天、三郎殿の本地は不動明王として崇められております。また『諸社禁忌』には、それと反対に、夷神を不動明王、三郎殿を昆沙門天としてあります。いずれにしてもこれらはともに勇猛なる武神で、その垂迹たる夷神や三郎殿は、もと福徳円満なるニコニコ神ではありませんでした。されば鎌倉幕府においても、特にこの両神を信仰し、鶴岡八幡宮の境内にこれを勧請したのは有名な事実です。しかして鶴岡においても、後にそれが大黒天と夷神とに変っている。この武家が崇拝したということは、申すまでもなく武神としてでありましょうが、その武家そのものが、また実に「えびす」の名をもって呼ばれているのは面白い。鎌倉時代の記録には、よく鎌倉武士を東夷《あずまえぴす》といい、一般の武士を夷《えぴす》と言ってある。また『定家卿仮名づかひ』の一書には、海辺人をも「えびす」と書いてあるそうである。海辺人とはすなわち古えの海部《あまべ》で、もと先住の土着人、すなわち国津神の後であるから、鎌倉時代までもなお「えびす」と称することがあったと見えます。また大国主神なり事代主神なりは、その民族的の本来の系統がいかにもあれ、事実上先住土着人を従えて、その大国の主となり、国津神として崇敬せられているのでありますから、天孫民族から見れば、夷の神とも思ったでありましょう。しかして西宮に限って、特にこの神に夷の称を付したのは、もとその地方の「えびす」らの祭った神としてではありますまいか。今の尼が崎は古えの海部《あまべ》のいた所で、そのほかにも武庫の沿海には、石器時代以来引き続いた、弥生式系統の民族が、いわゆる海辺人として、「えびす」の称を得ていたかと思われる。その海辺人が、漁業・航海を守り給う神として、国津神の代表者たる大国主神をここにお祭り致したのでありましょう。この神が漁業の神として崇敬せられることは、今も変りはありませんが、古く航海の神として、遠方にまで移しまつられたことは、治承の変に俊寛僧都が硫黄島へ流された時、そこにすでに夷三郎の祠があったのでも察せられます。それがさらに商業を守り給う神となったのは、商(108)業がもと海辺人、特に航海者によって発達する場合が多かったためでもありましょうか。しかしてその神を、世俗では夷神といい、しかも神祇官では、祭神の名によって大国主西神社といったのでありましょう。ただしその「西」の名義は明かでありませぬ。あるいは東西に大国主の社があって、東の方は早く衰え、神祇官の奉幣にも与らず、いつしか絶滅したのかも知れませぬ。
 西宮の神が特に夷神として崇敬せられることについては、この神と傀儡子との関係を見遁がしてはなりませぬ。この神は一方において、漁業・航海・商業の神として崇敬せられたのみならず、一方においては、傀儡子と深い関係を持っておられます。傀儡子は後世には、単に人形遣いの名称となっておりますけれども、昔は一種遊牧の民族で、騎射に長じ、狩猟を事とし、便宜の場所を択んでテント住居をしておった。また彼らは、各種の遊芸をもって生計の資を求め、その婦女は遊女として媚を売り淫を鬻ぐ。彼らはその幸福を祈るがために、道祖神《さいのかみ》を祭る習慣を有し、各自これを奉じてその数百千に及ぶとある。よりてその神を百大夫といい、夜間喧嘩してこれを祭った。西宮の摂社に百大夫の祠のあるのはすなわちこれで、この地方の傀儡子が、道祖神を祭ったものと察せられる。傀儡子は後世種々のものに形をかえて、あるいは万歳・春駒の徒となり、あるいは越後獅子・猿曳・太神楽の群となり、あるいは遊女・娼婦の類となり、あるいは茶筅・ササラ等となって竹細工に従事しつつ、傍ら遊芸をもって活計とし、あるいは市子《いちご》・梓神子《あずさみこ》等、巫祝の業を伝え、その最も堕落したものは、いわゆる山窩《さんか》の列に入った。西宮ではこれを夷舁《えびすかき》という。これすなわち後の人形舞わしで、ここの百大夫を祖神として祭っておった。「夷かき」とは「夷の群」の義でありましょう。俗説には百大夫をもって一箇人の名とし、それが傀儡子の祖先であるがごとく伝えているけれども、これ本よりその由来沿革を忘れた後の付会説で、取るに足りませぬ。各地に西宮の夷と三郎とを移し祀つた社には、多くはこの百大夫をもともに移してある。北野の天満宮にもこれがあった。ところが、あそこでは文字を間違えて、これを白《しら》(109)大夫といい、菅公随身の白髪の老翁の名のごとく伝えているのはどんなものであろうか。
 とにかく傀儡子はもと一種の浮浪民で、おそらくは先住土着民のある者が、天孫族に同化融合し得ずして、落伍者となり、そのまま後に存したものであろう。したがって彼らの徒は、往々賎民として区別せられた。西宮にも算所《さんじよ》と称する賎民部落があって、それがもと傀儡子の出た所だと伝えられております。すなわち天孫族から見ればこれまた一の異民族で、いわゆる「えびす」でありますから、その「えびす」の崇敬する神が、おのずから夷神の称を得たのではありますまいか。夷舁は西宮が本元で、夷神の木偶を舞わして簡単な御祈祷をする。その御祈痔の点においては、万歳・春駒・越後獅子・太神楽なども同様で、一種巫祝の業を伝えたのでありましょう。
 右の観察にして誤らなければ、西宮に夷神の鎮座ましますことは、またこの地方の古代の状況を語れるものというべく、傀儡子の歴史の上から申しても、面白い事実といわねはなりませぬ。
 
      六 武庫地方の古墳墓(一) 菟原の処女塚
 
 武庫地方にはまた天孫族の文化も早く及んで、その系統に属する古墳墓も少くありませぬ。海岸に接した緩傾斜の平地から、それに続いた山の上まで、所々に古墳墓が存在している、その中でも最も有名なのは、菟原《うばら》の三つの処女塚(あるいは求女塚)であります。いずれも前方後円の大きな塚で、一つは御影町の東北郊外、阪神電鉄線路の北にあって西面し、一つは前者を西に距る約十五町、住吉村|東明《とうめ》民家の北方、電鉄線路の南に接して南面し、最後の三はさらにその西約二十町、西灘村|味泥《みどろ》民家の北、電鉄線路の南にあって東面している。三者形状ほぼ類似し、周廻各約八十間、三段に築き成してある。この三つのうち、東と西との二つは求女《もとめ》塚といい、中の一つを処女塚といっているが、これはいずれも処女塚と言うつもりが訛ったのでありましょう。実は左右の二つは壮夫塚《おとこづか》で、(110)中央のみが処女塚でなければなりません。この塚が、三つともほぼ同形同大で、距離また相近く、東西の二つが、ともに中央のに向っているので、『万葉集』や『大和物語』で名高い菟原処女《うばらおとめ》の塚だとして、憐れな優しい物語をとどめております。東の求女塚は、明治三十七年に阪神電鉄線路布設のさい、大半取り壊して、その土を運んだがために、前方部はなくなってしまいました。その以前にもすでに発掘せられて、車輪石や、鏡や、曲玉などが出たそうであります。後円部の頂上には、方形に切下げた穴の跡が、異った土で埋められて、歴然と残っていた。けだしこの場所に貴人を葬った棺槨があったのでありましょう。ともかく、この名高い塚を、工事の用土の必要ぐらいのことで壊し去ったのは、惜しんでもなお余りあることです。中の処女塚は電鉄線路の南に接し、後円部の一部を削られたままで、なお比較的に原形を存しています。その東には東明八幡宮の社があります。西の求女塚はつとに私人の有に帰して、上に洋風の別荘が建っております。『万葉集』以来有名なこの三塚も、文明の風に当っては、実にみじめなものと申さねばなりません。さて、この処女塚の由来については、『万葉集』高橋連虫麻呂の歌に、
  葦の屋の、菟名負処女《ぅなびをとめ》が、八年児《やとせご》の、片生《かたお》ひの時ゆ、小放《をはな》りに、髪たくまでに、並び居る、家にも見えず、虚木綿《うつゆふ》の、籠りて居れば、見てしがと、悒憤《いぶ》せん時の、垣ほなす、人の訪ふ時、珍努男《ちぬをとこ》、菟原男《うなぴをとこ》の、伏屋燎《ふせやた》き、すゝし競《きは》ひて、相よばひ、しける時は、焼太刀の、剣柄《たがみ》押しねり、白真弓、靭取り負ひて、水に入り、火にも入らんと、立ち向ひ、競へる時に、吾妹子《わぎもこ》し、母に語らく、倭文手纏《しづたまき》、賎しき我が故、丈夫《ますらを》の、争ふ見れば、生けりとも、逢ふべくあれや、しゝ釧《しころ》、黄泉《よみ》に待たんと、籠《こも》り沼《ぬ》の、下《した》ばへ置きて、打ち嘆き、妹が去《い》ぬれば、珍努男、其の夜夢に見、取りつゞき、追ひ行きければ、後れたる、菟原男《うなぴをとこ》も、い仰ぎて、叫びおらび、足ずりし、牙噛《きが》みたけびて、もころ男《を》に、負けてはあらじと、懸《か》き佩《は》きの、小《を》太刀取り佩き、ところづら、求《と》め往きければ、親族《やから》ども、い寄り集《つど》ひて、永き世に、標《しるし》にせんと、遠き世に、語り継がんと、処女塚、中に造り置き、壮士《をとこ》塚、此方彼方《こなたかなた》に、造り置(111)ける、故よし聞きて、知らねども、新裳《にひも》の如《ごと》も、音泣《ねな》きつるかも。
  葦の屋の、うなひ処女が奥槨《おくつき》を、往き来《く》と見れば音《ね》のみし泣かゆ。
  塚の上の、木《こ》の枝《え》なびけり聞くがごと、珍努男にし寄るべけらしも。
とある。もって奈良朝ごろに語り伝えていたところがわかりましょう。またこれによって、左右の二つを「おとこ塚」中央のみを「おとめ塚」というべきものであることも知れましょう。また同書、田辺福麻呂の歌には、
  古への、ますら壮夫《をのこ》の、相|競《きほ》ひ、妻問ひしけん、葦の屋の菟原《うなび》処女の、奥つきを、我が立ち見れば、永き世の、語りにしつゝ、後人の偲《しの》びにせんと、玉桙《たまほこ》の、道の辺近く、磐構へ、造れる塚を、天雲の、そきへの限り、此の道を、行く人毎に、行きよりて、い立ち嘆かひ、わび人は、音にも泣きつゝ、語りつぎ、偲びつぎ来《こ》し、処女等が、奥つきどころ、我さへに、見れば悲しも、昔思へば。
  古への、小竹田《しのだ》をのこの妻問ひし、菟なび処女の奥つきぞ此れ。
  語りつぐ、からにもこゝら恋しきを、たゞ目に見けん古への男のこ。
この歌によると、その塚は岩構えして築き上げた構造のものと見えます。さらに同書、大伴宿禰家持の歌には、
  古へに、ありける業の、奇《くす》はしき、事と言ひつぐ、珍努男、菟なび男の、空蝉《うつせみ》の名を争ふと、玉きはる、命も捨てゝ、争ひに、妻問ひしける、処女等が、聞けば悲しさ、春花の、匂へ栄えて、秋の実の、匂ひに照れる、あたら身の盛りをすらに、丈夫の、こといとほしみ、父母に、申し別れて、家|離《さか》り、海辺《うなび》に出で立ち、朝よひに、満ち来る潮の、八重波に、靡く玉藻の、節の間も、惜しき命を、露霜の、過ぎましにけれ、奥つきを、此処と定めて、後の代の、聞きつぐ人も、いや遠に、偲《しの》びにせよと、黄楊小櫛《つげをぐし》、しかさしけらし、生ひて靡けり。
  処女等が、後のしるしと黄楊小櫛、生ひかはり生ひて、靡きけらしも。
(112) かく幾多奈良朝歌人の感興を引いた情話は、さらに『大和物語』に委しく見えている。文長ければ省略しますが、話の筋の大要は、
  むかし津の国葦屋の里に住む女あり、うなび乙女といふ。それをよばふ男二人有り。一人ほ同国の人、姓は菟原。今一人は和泉の人、姓は珍努《ちぬ》。その男ども、年比、顔形、心ざままで同じ様なり。女いづれに従はん様なく思ひわづらひたる末に、生田の川にひらばりを打ち、そのよばふ二人の男をよびて、親の云やう、此の川に浮ける水鳥を射てあて給はんかたへ、娘を奉らんと。男ども、それを聞き、いとよき事とて射るに、一人は鳥の頭のかたを射、今一人は尾のかたを射たり。かくて勝り劣りもなかりければ、女つひにおもひきりて、
 住陀びぬ我身なげてん津の国の、生田の川は名のみなりけり
と読みて、此の川へ身をなげたり。二人の男もつゞきて同じ所へ身をなげ、一人は女の手に、一人は女の足に取りつきて、死にたり。親いみじく悲みて、取りあげ、葬りぬ。男の親共もこれを聞き伝へて来り、此の女の塚のかたはらに、塚を作りて葬れり。此のとき、津の国の男の親、同じ国をこそ、同じ所に塚をせよ、他の国の人は、争でか此の所の土を犯すべきやと、妨げたれば、和泉の親、やがて和泉より船にて土をはこび、終に塚を築きたりと、云々。
とある。
 今これらの歌や記事によって考えてみますと、今のいわゆる処女塚または求女塚なるものは、どうも右の情話の塚には当りません。第一にこれらの塚はよほど高貴な身分のものでなければならぬ。第二に互いの距離があまりに遠きに過ぎる。第三にこれらの塚の構造は、福麻呂の歌の「磐がまへ」と言うには当らぬ。岩構えの塚とは大石を積み重ねて石室を造り、それを盛り土で蔽うて、円い塚を作ったもので、横に羨道の入り口の穴がある形式のものと思われ(113)る。しかるに今の処女塚の形式は、塚の頂上に棺槨を置く方の式で、岩構えという方ではありません。それについて、例の西宮の祀官吉井良秀氏の面白い考証がある。同氏は今川了俊の『道ゆきぷり』に、
  程なく生田川につきぬ。此の川の鳥射しますらをの塚とて、道の辺近くむら立ちたる松原遥に音信して、何となく聞き過ぐし難かりき。
とあるのを見出され、了俊のころには生田川の畔に、それという塚のあったことを認められ、『大和物語』にも、旅人が塚のほとりに宿って、夢に男子二人の争うを見たとあるのも、塚近くなくてはかなわぬことだと言われています。三人が身を投げたという川が生田川であるも思い合せて、いかにももっともな御説と申さねばなりませぬ。けだし伝説の塚は、旧生田川の東畔、昔の街道筋に求めねばなりますまい。熊内《くもち》村に福井塚・旗塚があり、生田村にも荒墳が一つあったことが『摂津志』に見えております。このほかにもこのあたりには小さい塚がいくつもあったでありましょうが、神戸市の発展とともに、今は人家立ち並んで、つとになくなっておりましょう。雑誌『考古界』に、福原潜次郎氏や故中村士徳氏が、生田町の古墳について記事を出しておられます。問題の塚は、これらの中にあるかも知れませぬ。今の三大古墳にこの話が移ったのは、近く戦国時代以来のことでありましょう。
 
      七 武庫地方の古墳墓(二) 各地の荒墳 付 垂水五色塚
 
 今のいわゆる処女塚は、古墳の中でも比較的古い式に属するものであります。この式の塚は、通例平地に多く、いまだ土地の利用の盛んにならぬさいに築いたのです。その付近には通例多くの同時代の小墳があるもので、この武庫地方でも同様であったでありましょうが、いつの程にか次第に取除かれて、三つの大きいののみが残り、ついにそれに菟原処女の伝説を付会するに至ったのでありましょう。大和・河内あたりの帝室陵墓の例から申しますと、欽明天(114)皇ごろから以前の陵墓は多くこの式で、それには埴輪もあり、内部の構造の割合に盛り土が大きいのが常です。しかるに用明天皇ごろから以後の陵墓は、通例いわゆる岩構えの式で、大石をもって壙穴を作り、羨道をもって横から口を開く式になっている。武庫地方にはもちろんこの式のものも多く、それはたいてい山の手に引き上って作られている。平地が大切になったためもあるでありましょう。精道村打出の北方山中、岩平《いわひら》付近にはことに多い。俗にこれを八十塚《やそづか》と呼んでいたそうである。甲東村上原新田の北にも群集墳がある。そのほか、各地に散在した大小古墳は一々数え切れません。今なお発見されないで、隠れているものが多くありましょうが、近年になって破壊せられたものも、また少くありません。よって比較的古いころの様子を知ろうとするには、まず古い時代の調査に待たねばなりません。試みに享保の『摂津志』の記するところを見ると、荒墳として、
 武庫郡の部
  円冢五、鳴尾村に三、広田山中に二。大冢三、上瓦林村に一、下大市村に一、鹿塩村に一。武庫荘村に浅堀冢・井堀冢、越木岩村に平冢、津門村に権現冢、西大島村に天童冢、上原新田村に車冢、小林村に穴冢、鹿塩村に薦冢、西富松村に新林冢。
 菟原郡の部
  処女家三墳の外に、岡本村の扁保曾《へぼそ》冢、あるいは在原業平の墓というとある。付近に小冢二十。岡本村上(ノ)御前、野崎村下(ノ)御前は共に石窟の開口したもので、毎年正月三日野崎村の民が之を祭る。その故を考うる莫しとある。脇浜村に天王墓・和理墓・畔冢、住吉村に平冢・坊冢、熊内村に旗冢・福井冢、平野村に伊賀冢、葦屋村に鵺冢、篠原村に鬼冢、三条村に石窟冢、打出村の西、岩平山中の群集墳俗称|八十《やそ》冢。このほか御影村に二、生田村に一、東明村に一。打出村の阿保親王墓の付近に六。
(115) 八部《やたべ》郡の部
  宿村に船冢・女郎冢家・耳語《ささやき》冢、夢野村の御冢は上に小祠がある。野田村の盗人冢、東須磨村の名倉冢にも上に小祠がある。
などが数えられています。これらはもとより当時現存の塚の一部分を見て、録上したに過ぎませんが、それでも今見えなくなったのが少くありますまい。また今日現存しているものの中でも、このほかのものが少くありません。雑誌『考古界』に、故中村士徳氏ほ、神戸市内だけで十一個の古墳を列挙しておられます。これらの古墳の様子は、神戸史談会の福原清次郎氏や、西宮史談会の吉井・田沢両氏などの丹誠によって、大分学界に知られてまいりましたが、なお地方のお方々の御捜索を願い、さらに考古学上その年代を知ることが出来ましたなら、この地方文化普及の次第を明かにすることが出来ようと期待せられるのであります。
 武庫地方の古墳墓を申し述べますについて、ぜひ付け加えておきたいのは、この地方と因縁の深い神功皇后凱旋の伝説に関係して伝えられている、垂水の五色塚のことです。垂水は播州明石郡に属し、やや西に離れてはおりますが、満更ゆかりがないでもない。神功皇后凱旋の時、※[鹿/弭]坂《かごさか》・忍熊《おしくま》の二皇子が、これを途中に要撃せんとして、詐りて仲哀天皇の御為に御陵を明石に築くと声言し、船を編んで淡路との間に船橋を作り、淡路から石を運んで築造の大工事を起されたとある。しかしてその工夫には、人ごとに武器を持たしめて、皇后の御船来らばただちにこれを撃たん用意であった。この話は『日本紀』に出ていることでありまして、事実の有無は明かでありませんが、ともかくかくのごとき伝説のあるのは、古代の陵墓築造工事のいかに大袈裟であったかということを示しているのでありましょう。大和平野の東端、三輪の付近の箸(ノ)墓は、河内境の大坂山から石を運んで作ったともあります。大和平野を横切って人垣を作り、順次手から手へ渡してこれを運んだ。昼は人これを作り、夜は神これを作った(116)とあって、その大仕掛なことは、彼此好一対のお話であります。しかしてこの時二皇子が仲哀天皇陵として作ったのが、すなわち垂水の五色塚だというのであります。この塚は、垂水駅の西、鉄道線路の北に接してある大きな前方後円墳で、埴輪円筒が列をなして存しているので、俗に垂水の千壷などとも称しております。つまり今の処女塚などと同式のもので、もちろん立派に完成し、すでに何人かの遺骸をも葬った塚に相違なく、決して仲哀天皇の御陵にと作りかけて、中止したものではありません。あるいは明石国造などというような、有力者の墓ででもありましょうか。三つの処女塚なども、いずれも古代におけるその地方の領主などの墓で、その存在によって、昔時武庫地方に、勢力の盛んな豪族のいたことを証明しているものであります。
 
      八 武庫地方と銅鐸
 
 考古学めいたお話が大分続きましたが、今一つ武庫地方の古代について、見遁し難い銅鐸のお話を付け加えたい。精道村打出の親王寺の宝物に、一個の銅鐸があります。元禄年中阿保親王のお墓修理のさい、付近から発見したとのことである。また明治十三年に、今津村津門からも一個掘り出した。少し東北に離れてはいるが、川辺郡川西村からも明治四十四年に一個発見しました。かかる次第でありますから、古来この地方に埋没している銅鐸の数は、幾個あるかわかりません。また今日までに発掘された数が、果して幾個でありましたか。思うによほど多数に上ることであろうと解せられます。
 銅鐸とは口絵に出した津門発見の図を見ても知られる通り、青銅で作った薄手の釣鐘風のもので、やや平たく左右から押しつぶした形になっています。しかしてその押しつぶした長径の方の縁の両端から、釣手へかけて鰭様の緑《へり》がついている。だいたいの形はシナの古銅器の扁鐘に類したものですが、実はそれとも性質が違います。銅鐸の製(117)作は、釣鐘のように釣るして打つとしては、あまりに実体が薄過ぎるし、また紐なりその他の物質なりで、釣手に引っかけて釣るすにしては、あまりに釣手が薄く、その縁が鋭利に出来ております。模様は普通シナの古鐘に見るような、いわゆる袈裟襷模様のと、また流水紋の模様のと、二た通りありまして、その間には、しばしば動物その他の絵を配したのがあります。その形態なり、模様なりから見ますと、とうてい日本人の意匠から出来たものでありません。そこで昔の人も、これを天竺物と解し、天竺の阿育王の塔の風鐸じゃなどといっておりました。何分にも古いもので、すでに天智天皇の七年に発見された記録がありますし、聖徳太子の時に隋に留学した人が、かの地において話した言から考えますと、推古天皇以前からも、しばしば土中から発見されたようです。しかしてそれを阿育王の塔の関係遺物のように説いております。して見れば、これはおそらく、日本文化以前のもので、日本文明とはほとんど没交渉に存在しておった、一種の古代文明の遺品と解すべきものでありましょう。しかして私は、これをその製作の意匠から考えて、おそらく古代のシナ文明の関係遺物ではなかろうかと考えております。
 銅鐸が日本文明の遺品ではなかろうということは、早くすでに炯眼なる平田篤胤大人が唱道せられております。平田大人はその『弘仁暦運記考』において、この品は大己貴神・少彦名神時代のもので、天孫降臨以前の遺品だと言われております。銅鐸のことについてほ、昨年の豊橋の講演(『尾参遠郷土史論』)や、雑誌『郷土研究』(第一巻第二号)にも簡単に説明してありますし、いずれ『歴史地理』の誌上で、「秦人考」の題下に委しく発表するつもりでありますから、詳細のことはそれらについて御覧を願いたい。が、取りつまんで管見を申しますと、これは太古わが邦に渡来したシナ民族、もしくはシナ民族の文明を享得して来た民族の遺品で、古史に見えている秦人《はたぴと》というのが、この民族に当るのではなかろうかと思うのであります。新しく移住したシナ民族は、これを漢人《あやぴと》、あるいは新漢人《いまきのあやぴと》といっております。これに対して古く来たシナ民族は秦人に当るでありましょう。私は秦人が、必ずしも応神天皇の十四年に(118)来たという秦の始皇帝の後裔|弓月《ゆつき》君の党類だとのみは解しません。必ず遠い古えに移住したものの子孫だと信ずるのであります。
 秦人の分布はずいぶん広い。この付近では、豊島郡(豊能郡の中)に秦上《はたのかみ》・秦下《はたのしも》の二郷、有馬郡に同じく幡多《はた》上下の郷のあるのは、その名が地名に遣ったのであります。武庫にはたまたま秦の名は地名に存しておりませんが、近傍の例から推しましても、いずれこの地方にも秦人は少からずいたことでありましょう。しかるに、彼らが他の民族の圧迫に遇うて、宝物を取り上げられるのを恐れ、その銅鐸を岩窟や土中に隠したのが、偶然後世になって発見せられるのでありましょう。このような例はアイヌに多い。ともかくも武庫地方に銅鐸の往々出現することは、ここにも太古一種の文明を有する民族の住んでいたことを、実物から証明するのであります。
 
      九 雑事一束
 
 古代の武庫地方については、記録上この以外にはあまり多くの伝うべきものを有しません。最も興味ある研究は、奈良朝から平安朝に渉っての大輪田泊、すなわち兵庫港の沿革でありますが、それは三浦博士から委しく御説明のあることと存じて省略致し、ここには、他の雑事を取り纏めて、雑駁にお話致し、この講演を終ろうと思います。
 − 武庫の行宮
 孝徳天皇大化三年に、難波宮から有馬温泉に行幸があった。その御帰途に、武庫の行宮に御滞在になったことがあった。その宮の位置は明かでありませんが、おそらく今の武庫村武庫の辺で、古代武庫郡衙のあった場所でありましょうか。当時の有馬街道は、これからやはり生瀬《なまぜ》へ出て、有馬の温泉場に達したものでありましょう。
 2 郡界の変遷
(119) 古えの武庫郡ほ、武庫川をもって川辺郡と境をなしていたのでありましょう。その後武庫川の流路しばしば変じて、それがために郡界の変遷も起っています。今ほ川辺郡に属する稲野村|昆陽《こや》の辺は、古えの武庫郡児屋郷で、平安朝ごろまで確かに武庫郡の中でありました。当時は武庫川がこの東を流れていたと察せられます。その後流路やや西に退き、今の川辺との郡界を流れて、蓬川に注いだ時代があったでありましょう。今は川東なる武庫村・大庄村などが、やはり武庫郡に属しているのは、これらの地がかつて川西に存在し、ために現在の郡界が出来たのでありましょう。その後さらに河流西に退いて、今のごとくこの二村が川東に取り残されるようになったことと察せられます。
 武庫・菟原の郡界も、多少の変遷を経ました。西宮がもと菟原郡の中であったとのことについては、既記吉井良秀氏の考証があります。
 菟原・八部の郡界は旧生田川で、もとの神戸市は全部八部郡内の地でありましたが、今は神戸市拡張の結果、この郡界を越えて、菟原郡の西部をまで含むことになりました。神戸は生田神社神戸の地で、古えの神戸《かんべ》郷がそれであります。
 3 郡衙の位置
 武庫郡の郡衙は武庫郡武庫郷、すなわち今の武庫村武庫で、その名が郷名に遺ったものと見えます。菟原郡の郡衙は今も住吉村に郡家《ぐけ》の字を遺しているので、だいたいの位置はわかります。八部郡の郡衙の位置はよくはわかりません。故村岡良弼翁の説に、兵庫はすなわち兵器の庫で、天武天皇十四年に、兵器を私家に置かず、これを郡家に収めしめた。兵庫の名はこれから起ったので、兵庫のある所すなわち郡家の地だというのであります。これは兵庫の名の起原に関する一説ではありますが、私はなお兵庫は武庫の名の文字の変ったものとの説を捨てかねます。しかし、兵庫すなわち大輪田泊は、大化以後重要の地でありますから、ここに郡衙があったであろうとの想像ほ動きますまい。
(120) 4 武庫の軍団
 摂津もと十三郡、普通の例によれば三個の軍団があるべきで、少くもその一つは、西摂武庫地方に置かれたでありましょう。今甲東村に段上という地がある。これは思うに、もと段(ノ)上・段(ノ)下と二つに分れていた地で、段は団の名の仮字であろうと察せられます。軍団のあった地に「ダン」の名の遺った例は、長門の壇の浦を始めとして、他にも多い。段上の付近には大市という地もあって、古昔市場が設けられ、その地方殷賑の状が察せられます。
 5 法隆寺領
 天平十九年の『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』に、「摂津国菟原郡水田三十一町六反二百八十八歩、山林一地雄伴郡宇治郷宇奈五|岳《おか》、池一塘菟原郡宇治郷、庄一処武庫郡、二処雄伴郡」ということが見えております。この地方に該寺の所領の少くなかったことが察せられます。このうち菟原郡の水田の所在はわかりませんが、雄伴郡の宇奈五岳とは、東は弥奈刀川(湊川)、西は凡河内寺山、南は加須加多池、北は伊米野(夢野)とありますから、今の会下《えげ》山に当ります。武庫郡の庄倉は今の武庫庄でありましょうか。雄伴郡の二処は不明でありますが、宇治郷会下山がその所有で、この郷内に池塘一所を有していたことから察しますと、やはりこの付近かと思われます。
 右はただ法隆寺領だけで、たまたま同寺の古文書が伝わっているのでこれがわかりますが、思うに他の諸大寺の領地も、少くなかったことでありましょう。
 6 武庫の海の禁漁
 持統天皇の三年八月、武庫海一千歩(今の一千間)内で漁を禁ぜられた。仏法御信仰の結果殺生を忌まれたものであります。しかしこれがために武庫の海人は業を失って、すこぶる閉口したことがあったろうと思われます。
 7 武庫の富豪
(121) 天平神護二年九月、武庫郡大領従六位上日下部宿禰浄方、銭百万、椙榑《すぎのくれ》一千枚を献じて、外《げ》従五位下を授けられた。大領は郡の長官で、その地方世襲の豪族であります。このころの銭百万は、けだし非常なものであったでありましょう。ここに外位とは通例身分の低いものに賜わる位で、禄なども普通の位よりは少い。しかしそれでも五位となれば、赤い装束を着て昇殿するの資格を得た訳で、平安朝にはその五位を田舎五位と言っておりました。囲碁の田舎初段の格であります。
 右のほか、細事を尋ねたならば、まだ多少はありましょうが、あまりに煩わしいので、すべて省略に付しました。
 
(122) 鵯越と一の谷
 
      一 緒  言
 
 源平両軍一の谷の合戦のことは、わが史上古来幾多の戦闘の中についても、最も著名なる事件の一として、あるいはこれを記録に考え、あるいはこれを実地に徴し、あるいはさらに口碑伝説に求め、あるいは兵学戦術の上に探り、従来学者・好事家・軍人等の、これに関する研究の結果を発表したもの、自分の狭い見聞に触れただけでも、その数ただに三五のみではない。したがってもはやこの以上、別に新研究を加うるの余地なきがごとくではあるが、しかも自分の今日まで見聞した限りにおいては、いずれも一面に相当の理由を有するとともに、他の一面においてはなお説明上にかなり少からぬ無理があって、いまだ自分をして首肯せしむるに足らざるの憾みがないでもない。これ自分がここに屋上さらに屋を架するの嫌いあるを省みず、あえて本編を発表して読者各位の一粲を乞うゆえんである。
 今日まで発表せられた合戦の状況は、『平家物語』一類の興味を主とした誇大なる記述に囚われて、その真相を没却したものが少くない。また特にその鵯越と一の谷城との地理、およびこれに関する戦闘の経過については、諸説(123)区々として一定せざるのみならず、いずれも多少の欠陥を有するを免れないようである。自分の見聞したところ、これに関する所説は大要左の三に帰する。
 一、いわゆる一の谷城は今の摂播境上なる一の谷付近にあったもので、その上方なる台地には安徳天皇の内裏が設けられておった。しかしていわゆる鵯越は北方よりその背後に達する懸崖で、義経の軍は間道よりこれを逆落ししたというもの。
 二、いわゆる鵯越は今も現に同じ名称をもって呼ばれている夢野の背後の坂路で、義経は間道からこの路を駆け下って能登守教経・越中前司盛俊らの陣を乱し、ために一の谷の守りも内部から破れるに至ったのだというもの。
 三、いわゆる鵯越は今の夢野の背後に通ずる坂路ではあるが、その途中から分れて一の谷の上方に出る間道もやはり鵯越といい、義経はこの別路から懸崖を一の谷へ逆落ししたのだというもの。
 その他説明上多少の異同はあっても、大要は右の三説の外に出でない。
 第一説は古来最も普通に行われたものである。『吾妻鏡』に鵯越を一の谷の後山だといい、また『平家物語』一類の書に義経の手兵が鵯越を下りて一の谷に向ったことを説き、ことにその鵯越の懸崖の状態を記した文が、いかにも現在の一の谷背後の地理の実際に副うごとく見えることなどから考うれば、かく解釈せられるに無理はない。したがってこれを裏書きすべく見える地名や、口碑・伝説がこの方面に多く伝えられているのである。しかしながら平軍は生田・一の谷の大手・搦手の防禦のみならず、いわゆる山の手の防禦にもすこぶる苦心したもので、ために宗盛が驍勇随一の能登守教経らをこれに向わしめたことから論じても、また『玉葉』の記した戦局の報告に山の手が最前に破れたことをいえるに徴しても、あるいは山の手防備のこの越中前司盛俊の戦死の地が、現に長田の奥の方面に伝えられていることから考えても、なおさらに今の一の谷背後の坂路が、とうてい七千騎とか三千騎とかいうような大軍を下し(124)て、一兵をも損せず山麓に安着したというようなことを実現せしむべく、あまりに狭少にして、あまりに急峻なる懸崖であることなどから観察しても、事実上とうてい不可能であるという弱点を免れない。ここにおいて第二説がこれに対して唱えられるのである。これならば平家が山の手の防備を顧慮したことや、鵯越から逃げ出した鹿や、源軍が追い下した馬が、いずれもその直下なる盛俊の陣屋の前に落ちたということや、その他前説に不合理と思われる種々の事項が都合よく解決されるのである。しかしながら、それではいわゆる鵯越が一の谷の後山であるとか(『吾妻鏡』)、猪鹿兎狐のほか通わぬ険岨であるとか(同上)、屏風を立てたような絶壁であるとか(『平家物語』等)いう古書の記事に適合せしむべく、その距離があまりに遠きの感がないでもない。ここにおいてかさらに第三説が起るに無理はない。これは前両説の中を取ったようなもので、これならば今のいわゆる鵯越の地点にも悖らず、また一の谷後方の絶壁というにも当って、一見双方の所伝を包容し、種々の点においてやや都合のよい解釈が与えられるの感がある。したがってこの説は最も妥当なるものとして、近時の学界に現われたる諸説多くこれによっているのである。
 しかしながらさらに深くこれを考えてみると、これまたすこぶる弱点がないでもない。第一に夢野に通ずる今の鵯越の名が源平当時にすでに存在したものとしたならば、よしやそれから分れたにしても、事実は全く違った方角に通ずるその支通ともいうべき間道を、また同じ鵯越の名をもって呼んだと認定すべき根拠がない。鵯越とは山を越ゆる通路の名で、一あって二あるべからざる固有名詞である。しかるに一方に今の鵯越を認めながら、別に一の谷に通ずる間道をもこれに擬するは、単に『吾妻鏡』に鵯越をもって一の谷の後山だといい、『平家物語』等に義経この坂路を逆落しして一の谷城の背後に下りたとある記事によって、今のいわゆる一の谷の上方にこれを推定せんとするに過ぎないのである。これを裏書きすべきいわゆる口碑伝説なるものや、後世に称えられる地名のごときは、これらの記事からして作成せられたものとして、必ずしも証とするに足りない。一説に『吾妻鏡』に鵯越のことを一の谷の後山(125)といい、この山険岨なりなどといって、それを「道」といってないのをもつて、いわゆる鵯越とは単なる坂路の名ではなく、一の谷城後の山を広くそういったのであろうともあるが、それは少し穿ち過ぎた説明であると思う。鵯越といえば本来山を越ゆる通路の名でなければならぬ。しかしそれを一方に山といったからとてあえて不思議はないはずである。事実上当時の源軍は鵯越によって一の谷背後の山を跋渉したのであってみれば、当時の報告にこれを山ともいい、その嶮岨の状をも誇大に伝えたからとて、いっこう怪しむに足りないはずである。次に第二の疑問としては、当時義経の軍の駆せ下った山はどうしても夢野・長田の方面でなくては理屈が合わない。あらかじめこれに備えた教経・盛俊らはこの方面に陣したもので、しかして鵯越から落下した鹿や馬は実に盛俊の仮屋の前に下り立ったのであった。ことに盛俊は長田の奥で戦死したと言われ、教経も混乱に驚いて常にも似ず落ち延びたと言われているのである。さらに第三には、当時の平氏の大軍の籠ったという一の谷城が、果して今のいわゆる一の谷のごとき狭い場所であったのであろうか。これもまた疑問である。かく考えてみると、折衷説として最も妥当らしく見えるこの第三説にも、まだまだ落ち付かぬ点が多いのである。ここにおいてか自分がさらにこれらの一見相容れざるがごとく見ゆる数多の史料について、その採るべきものと採るべからざるものとを鑑別し、ここにこれが合理的解釈を求めんとするのも、必ずしも徒労とのみは言われない。よって左にまずいわゆる一の谷合戦の真相を観察し、その史料の価値を批判していわゆる鵯越・一の谷の位置を考定してみたいと思う。
 
      二 一の谷合戦の経過
 
 養和元年平相国入道清盛病んで京都に薨じてより後、源氏の勢い日にますます強く、ことに木曾義仲北国から破竹の勢いをもって京都に逼るに及んでは、平氏はもはやこれに対抗するの気力なく、寿永二年七月宗盛は安徳天皇を擁(126)し奉り、神器を奉じて西海に没落するに至った。しかし間もなく頼朝・義仲不和となって、源氏同士で相鬩ぐ間に平氏はようやく勢いを恢復し、この年十月九州を発して讃岐の屋島を根拠地とし、閏十月朔日には義仲の兵を備中水島に破り、次第に播磨以西の地を徇えて、義仲敗死の後六日、すなわち元暦元年正月二十六日には、いよいよ屋島を発して(『吾妻鏡』)いったん旧縁の摂州福原に落ちつき、ここを根拠としてようやく京都に逼らんとするの勢いを示した。多数の軍船が揃うて福原へ着いたのは、おそらく二十八、九日のころでもあろうか。翌二月の四日ごろになつては、京都では来る十三日に平軍入京するとの噂さえ伝えられた。
 京都では義仲敗死後、範頼・義経の両将は依然ここに滞留していて、さらに平家追討の命を受け、二十六日に京都を出門した(『玉葉』)。偶然にも、平家の屋島出立と同日である。しからばこの時の両将の目的地は、いまだ福原とは決定していなかったものに相違ない。そのうちに平軍出動の牒報を得たことと見えて、付近に遅疑していまだ進まず、二十九日に至って始めて両将とも出発したとある(『玉葉』『吾妻鏡』『百錬抄』)。義経の軍は丹波路から迂回し、範頼の軍は山陽街道をただちに西に下り、ともに福原を夾撃すべく、ほぼ目的地の見当もついたものらしい。しかしいよいよ平軍福原着の報知が、『玉葉』の著者たる右大臣藤原兼実の耳に達したのが、やつと二月の四日であったほどであってみれば、この出発の二十九日では、向後の行動もまだ十分決定されていなかったに相違ない。されば丹波路へ向った義経の軍は、二月二日になっても大江山(丹波・山城の境、今の老の坂)の辺にまごついて進まない。京都の公卿衆の仲間では、平車が盛んなので下向の武士ことに合戦を好まずなどと取沙汰したほどであった。平家でも源軍の遊撃には十分用心している。福原に着いても安徳天皇は御上陸なく、依然船上にまして輪田の泊に碇泊しておられた(『吾妻鏡』)。おそらくその他の非戟闘員なども上陸せずして、万一の場合に海に浮ぶの便宜を図っていたことであろう。かくて二月四日の清盛忌日の法要さえ、船上で行われたことであった。されど源軍の包囲計画に対しては、もと(127)よりそれぞれ手配りを怠らなかった。東は生田を大手として範頼の軍に備え、西は一の谷を搦手として義経の軍に備え、別に平資盛・有盛・師盛らを播磨の三草山に遣わして、途中で義経を遊撃せしめた。なにぶん正月二十八、九日に軍船輪田泊に到着して、ことにこの年は正月は小の月であったから、その間何ほどの日数もない。防禦の設備のごときも、むろん応急の不完全なものであったに相違ない。
 五日成の刻(午後八時)に、義経の軍と資盛らの軍とは三草山を挟んで対陣した。おそらく平軍は先着で、源軍は到着したばかりであるから、平家方ではまさか夜襲はあるまいと気を許していたところを、機敏なる義経はその夜急に襲撃したので、平軍たちまち敗れて、資盛・有盛らは讃岐に走った。福原ではこの報を得て山の手の防備のゆるがせになし難きを慮り、驍勇の将能登守教経・越中前司盛俊らを夢野・長田の方面へ向わしめた(『平家物語』等)。かかる間にも京都からは修理権大夫が福原へ書状を送って、源平和平の儀あるべきにより、来る八日に京を出でて御使として下向すべく、勅答を奉じて帰参せざる以前には狼籍あるべからざる由関東武士に仰せられたれば、この旨を平家方の軍勢にも仰せ含めらるべしと申しつかわしたという事件があった。これはおそらく後白河法皇が平家方を油断せしめんがための御計策であったか、それとも法皇真に神器のことを懸念遊ばされて、平和に安徳天皇の還幸を謀らおうとなされたのであったか、今にしてこれを明かにすることは出来ぬが、事実は七日に福原が包囲攻撃を受けて、平軍たちまち没落したのであった。そこで平家方では、その後さらに後白河法皇から、安徳天皇ならびに三種の神器帰洛し奉るべき由屋島へ仰せつかわされたのに対して、右修理権大夫の書状のことを述べ、これは法皇が官軍(平家方)の心を緩めしめんがための奇謀であったか、あるいは事実狼籍を止むべきの由を関東武士へ仰せられなかったのか、それともこれを仰せられても武士がその命を用いなかったのであるか、仔細もっとも不審であると詰問的返状を奉っているのである(『吾妻鏡』。
(128) かく一方でほ綬和手段が講ぜられている間にも、源氏方の策戦計画は着々進行して、いよいよ二月七日卯の刻(午前六時)を期して、東西より一時に攻撃に着手した。この開戦の日取について『平家物語』一類の書には、源氏は二月四日をもって福原に寄せるはずであつたが、この日は故入道(清盛)の忌日なればとて、平和に仏事を遂げしめんがためにと、ことさらにこれを猶予し、翌五日は西塞がりなれば進軍を見合せ、六日は道虚日という悪日なればとこれをも避けて、いよいよ七日の卯の刻を源平箭合せと定めたのだなどと記してあるけれども、これはすこぶる疑わしい説である。この噺はいわゆる武士の情《なさけ》の発露として、史上の美談となっていることではあるが、事実不可能ならば惜しいことながらも抹殺せねばならぬ。つらつら当時の事情を案ずるに、前に述べたごとく平家の軍船が屋島を出発したのは正月の二十六日である。しかしていよいよ福原へ落ちついたことの報知が右大臣兼実の耳に入ったのは、これから七日目の二月四日であった。むろん範頼・義経らの方へは牒報それよりも早く達していたとしても、電話・電信のある世の中ではなし、雲行きを見ながら二月二日にまだ大江山辺にまごついていた義経の軍が、丹波路から播磨へ迂回してどうして四日に搦手なる一の谷の城戸口に達することが出来ようや。また『吾妻鏡』には五日の酉の刻(午後六時)に源氏の両将摂津国に至り、七日の卯の時をもって箭合せの期と定むとある。この方むしろ従うべきものであろう。もっともこの『吾妻鏡』の書き方もかなり杜撰で、五日に両将摂津に到着したように書いてあるが、その実義経は五日の夕刻にやっと播磨の三草山に到着したのであった。この三草は今では疑いもない播磨の中だが、その実当時にあっては漠然そのあたりの広い地方(『平家物語』一類の書には、平軍は山の西に、源軍は山の東に、東西三里を隔てて陣したとある)を指したものらしく、『平家物語』にはこれを摂津・丹波・播磨の堺といい、『吾妻鏡』には当国(摂津)三草山といい、『玉葉』には丹波城ともあるほどで、つまり三草山に着いたことを本書には摂津に到ると書いたものであろう。平家のいよいよ福原に落ちついたことが源氏の両将によって認められたのは、早くて二月の二日か、(129)もしくは三日四日のころなるべく、かくて両将いよいよ手を分って七日にこれを夾撃することに定め、二日なお大江山辺に逗留していた義経の軍が、これから急に丹波路を経て播磨に向ったとして理屈が合う。しかして平家方でもこれを偵知して、資盛らを途中に出して邀撃せしめようとしたのであったに相違ない。したがって四日が清盛の忌日だから遠慮するの、五日・六日は日が悪いから延ばすのと、そんな余裕があったはずはない。今このさいの経緯《いきさつ》を推測すると、両将は平家追討の命を受けて正月二十六日京都を出門したが、平家の所在が不明なので進発に躊躇し、そのうち平家が屋島を立ったという牒報を得たので、その落ち付く所を知るまで依然経廻して進まず、いよいよ福原へ着いたことがわかったので二十九日に出懸けることは出懸けたが、それでもなお平家方のその後の行動が予定し難いので、丹波路軍は二月二日まだ大江山辺に逗留し、いよいよ平家が福原に落ちつき、十三日に入洛するという噂までが聞こえて来たので、四日に出立して七日箭合せということに決定したものと解せられる。『平家物語』一類の書に、四日は吉日なればと両将辰の一点に京都を出立したとあるのは、いよいよこの時進行に着手したことを示したのであろう。かくて五日夜三草の夜襲は行われた。これを『平家物語』等に、義経四日辰の刻に京都を出て、二日路を一日にその夜の戌の刻に三草山に到着し、ただちに夜襲を行ったとあるのは信じ難い。辰から戌までわずかに今の十二時間、いかに訓練ある騎兵なればとて、五十騎百騎の少数の選抜兵ならばともあれ、かりにも二万騎(『吾妻鏡』)とか一万騎(『平家物語』等)とか言われる大軍を(その実はさらに少数なるべきも)、当時交通の不便な山間を通過して、この約二十五里にも及ぷ難路を駆け抜け、着後ただちに夜襲を決行するなどとはとうてい想像し得べき限りではない。これはやはり『吾妻鏡』に随って、五日の夜の出来事と解すべきものである。四日に京都を立って五日に三草につき、その夜の襲撃として勘定が合う。かくて翌六日を播磨路の途中に費し、七日早朝の箭合せとしてもかなり忙しい行軍で、それでやっと間に合うぐらいのものであったのであろう。
(130) かくて義経は、軍の大部を土肥実平らに授けて播磨から海岸を一の谷に逼らしめ、みずから一部の精兵を率いて間道を鵯越に向った。一の谷の城戸口では、熊谷二郎直実・平山武者所季量らが先陣の名乗を揚げたという逸話がある。『平家物語』等によれば、この時義経の手兵は七千騎とも三千騎ともあって、熊谷・平山らもこの手に属していたのが、途中から抜けがけして海岸を一の谷に向ったとあるが、これまた疑わしい。第一に七千もしくは三千という大部隊の騎兵が、碌に道らしい道もなき山間を駆け抜けて一の谷の背後に出られるはずがない。ことにその坂路たるや、屏風を立てたるがごとき数十丈の絶壁であったと言うにおいて、どうしてこの大軍が一兵をも損せず駆け下ったというような奇蹟が演ぜられ得られようや。かりにそれを前記第二説のごとく、今の夢野に通ずる鵯越のやや平易な道であるとしても、今の改修された鵯越ですらそう数騎相並んで突進することは出来ないのに、まして往時の不完全なる坂路においては、かかる大軍の進行は容易でない。狭い山間の坂路では、やっと一騎ずつの縦隊で通過し得るぐらいであったであろう。さればもしかりに『平家物語』等の言うがごとく、七千騎もしくは三千騎の兵が一騎ずつの縦隊で下ったとすれば、一騎が平均一丈ずつの場所を要するとして、先登から終尾まで七千騎で約五里十五町、三千騎で約二里十一町となる。かりに二騎ずつ並ぶとしても約二里三十二町ないし約一里十一町の間続連する訳で、なかなかもって急な突撃に間にあいそうにもない。さればこれまた『吾妻鏡』のごとく、義経は殊勇の士七十騎を引き分けて、間道を鵯越に逆落ししたものと解すべきものであろう。次に熊谷・平山らが義経の手から離れて、途中から一の谷の城戸口へ抜け駆けしたというのもいかがあろうか。『吾妻鏡』には単に熊谷・平山らがひそかに一の谷の前路に廻って、海道より館の際《きわ》に競い襲い、源氏の先陣たるの由高声に名のったとあるのみで、義経鵯越の手に属していたとはいっていない。あるいは彼らは義経の手から離れて、実平らとともに播磨を南下したものであったのかも知れぬ。
 この熊谷・平山の抜け駆けに引き続いて、播磨よりした源氏の軍は一の谷に殺到し、範頼の軍は生田の城戸口に攻(131)めかけた。『吾妻鏡』にこれを形容して、「源平の軍士互に混乱し、白旗・赤旗色を交へて開戦す、体たらく、山に響き谷を動かし、凡そかの樊※[口+會]嗜・張良と雖もたやすく敗績し難きの勢なり」とある。かく勝敗いまだ決せざる間に、義経の奇兵が鵯越の嶮岨を駆け下って敵の背後に出でたので、城中たちまち混乱して平軍度を失い、ついに全敗に帰したのであった。『玉葉』に見ゆる戦況の報告にも、山の手が最前に落ちたとある。斎藤実盛の言い草ではないが、かくなっては西国武士は坂東武士の敵ではない。彼らは多く闘志なく、身を逃れんとしてはかえって多く命を失う。通盛・忠度・経俊・知章・敦盛・業盛・盛俊・経盛・師盛らの一族を始めとして、戦死するもの一千余人の多きに及び、重衡ほ捕えられ、宗盛は天皇を奉じて海に浮んで屋島に逃れた。戦闘継続辰の刻より巳の刻まで、わずかに二時間にも充たなかった。世にこれを一の谷合戦という。
 
       三 一の谷合戦の真相
 
 右は合戟の経過の概要であるが、古書の記するところ想像に馳せ、誇大に失して真相を没却するところがはなはだ多い。まずもって当時の両軍の兵数のごとき、平氏方は二万とも、六万とも、あるいほ単に数万とも、また十余万などともいわれ、大手に向った範頼の軍は五万とも、あるいは五万六千余ともいい、搦手に向った義経の軍ほ、一万とも、あるいは二万とも伝えているが、これらもとよりいずれも誇大の数であって、とうてい信用すべき限りではない。これを少く言った方の材料を求めると、『玉葉』二月四日条には、「官軍等手を分つの間、一方僅に一二千騎に過ぎず」とある。五万といい、一、二万といわれる範頼・義経の軍を、一方わずかに一、二千騎に過ぎずではあまりに過少の嫌いがないではないが、これは当時の取沙汰をそのままに記したものとして、かえって真相に近いものかも知れぬ。生田口に向う範頼の軍は、あるいほ比較的多数に活動するの余地もあるが、一の谷口は懸崖海に逼った狭少の地域で(132)あるがうえに、これに向った義経の軍は丹波から播磨へ出て、難道を遠く迂回して来るのであってみれば、もちろんそう一万の二万のという多数であったとは思われない。ことに鵯越の間道に向った義経の選抜兵のごときは、その地形の事情から察しても、三千騎の七千騎のなどいうことはもってのほかで、『吾妻鏡』の七十騎というのが当っていると見ねばならぬ。同じ『玉葉』二月六日条に、平氏の勢二万騎、官軍わずかに二、三千騎云々、よって加勢せらるべきのよし申上ぐ云々とあるによれば、源氏の軍合して約三千で、義経が約一千、範頼が約二千と計算されていたものらしい。ともかく加勢を要求するほどであれば、平軍に比して遥かに劣ったものと計算されていたに相違ない。しからばこれに対して平氏軍はどうであったか。『玉葉』同月十九日条に、彼らが一の谷の敗後屋島に帰住した軍が僅々三千騎ばかりだとある。これも噂で、精確な数ではなかろうが、それにしてもその前福原においてそう数万というような多数の兵があったと思われぬ。一番少く伝えた『玉葉』の二万というのからしてすでにはなはだしく多きに失していると思われるぐらいである。正月二十六日に屋島を出発して、当時の不完全な小さい兵船で、二万の兵を輪田泊に送って陸揚げするとしたならば、それに要する水手や、兵糧や、また兵馬の乗降に要する時間だけでも容易なことではなかったに相違ない。
 このさい福原にあっては、内裏時代の建物は去年七月都落ちのさいにことごとく焼却して、もはや残っていないはずである。そこへ新たに防禦の設備をもなし、五日には遠く三草まで出かけて戦争を交え、七日にはいよいよ源平箭合せをなすまでに準備が出来たとすれば、その間かなり忙しいことであったと察せられる。それにもかかわらず、ともかく戦争の間に合ったことから考えても、もちろんそう六万の、十万のというような多数の兵を動かしたのではなかったことが明かで、『吾妻鏡』八日条に見ゆる関東両将より京都への飛脚の報告に、「昨日一の谷に於て合戦を遂げ、大将軍九人梟首、其の外誅戮千余輩に及ぶの由之を申す」とあり、十五日条の鎌倉への報告にも、大将分十人のほか(133)に梟首者一千余人とあるのによると、この報告またむろん精確でないとしても、この時の平軍の戦死者はまず一千余人と見るべく、しかしてその残りが屋島でわずかに三千だとあってみれば、よしやその間に他へ離散したものが多かったとしても、とうてい二万などはもってのほかで、その実五千か六千か、多分一万には足らない数であったと察せられるのである。
 本来『平家物語』は聴客の興味を主とする語り物であって、後世の講談師のごとく見て来たような嘘をつくのはなはだしいものではないとしても、史実を正確に伝えるを主とした実録でないことは言うまでもない。ことにそれがだんだんと語り伝えられる間に、新たに種々の潤飾が加わり、また語り言に変化を生じて、ついに今見るごとき数種のものともなり、はては『源平盛衰記』ともなって、今ではどれが果して原形であるかさえ明かならぬほどにもなったのであるから、そのいうところ信じ難いものの多いのは無論である。しかるに世の一の谷合戦を伝うるもの、この書以外には委曲を記したものがないがために、学者も往々これによって説をなし、ために種々の無理な説も生ずるのである。『吾妻鏡』の記事もまた兵数などについて誇大なるものが多いのは、戦陣の懸引上やむを得ないことであろう。そこでこれらの浮華の記事を除いて合戦の経過を概説すると、大要次のごときものとなろう。
  元暦元年正月二十六日平軍船に乗じて屋島を発す。その数約五、六千か、一万には過ぎざるべし。しかしてその輪田泊に到着し、福原の地に上陸を終えたるは晦日(二十九日)のころなるべし。かくていったん生田と一の谷とに防禦の設備をなし、これを根拠としてようやく京都に逼らんとするの勢いを示す。
 源氏の両将範頼・義経は同じ二十六日に平家追討使として京都を出門したるも、平軍の動静を偵察してあえて進まず。二十九日いよいよ出立せしも依然京都付近にとどまり、義経の丹波路の軍は二月二日なお大江山辺に逗留す。
 平軍福原に拠守したるを偵知して、二月四日両将いよいよ出発す。その軍数不明なれども、京都にての取沙汰に(134)ては官軍合計三千、手を分つの間一方わずかに一、二千に過ぎずとも言われたり。すなわち義経一千、範頼二千内外の兵を擁せしものか。かくて義経は丹波路より播磨を経て一の谷に向い、範頼は山陽街道によりてただちに生田に向い、七日午前六時をもって箭合せの期と定む。
 平氏方にてもまた源氏両将の行動を偵知し、生田・一の谷の防備を厳にするとともに、義経の軍を途中に遊撃せんとして、平資盛らを播磨三草山に遣わせしが、五日夜義経の夜襲に遇うて脆くも敗北し、資盛らは讃岐に逃れたり。
 福原にてはこの敗報を得て山の手の防備を厳にし、能登守教経・越中前司盛俊らを夢野・長田の方面に向わしめたり。
 いよいよ七日朝一の谷・生田両方面に戦闘開始され、勝敗いまだ決せざる際に、義経間道より鵯越に出で、敵の背後に突撃す。その勢わずかに七十騎に過ぎず。しかもこの奇襲のために平軍度を失って混乱し、一の谷・生田の守備も破れて大将分以下戦死者一千余に及び、宗盛安徳天皇を奉じて屋島に逃れたり。この時残存せる兵数わずかに三千騎ばかりなりきとあり。
 いわゆる一の谷合戦の真相は大要こんなものであったであろう。そこで残る疑問はいわゆる鵯越の位置と、一の谷城郭なるものとである。以下これを実地に徴し、当時の実情に考えて、卑見のあるところを披瀝してみたいと思う。
 
      四 いわゆる一の谷城
 
 いわゆる一の谷合戦の真相右のごとくであるとして、しからば当時平家の拠守した一の谷城とは果してどんなものであったか、いわゆる一の谷とは今の地理で果してどこに当るかを考えてみねばならぬ。言うまでもなく一の谷とは(135)今も現にその名をもって呼ばるるごとく、須磨の西方山崖の海に逼ったところで、平家は福原に拠守して生田を大手の城戸口となし、一の谷を搦手の城戸口としたというその一の谷である。『玉葉』に、大手なる生田に向った範頼のことを浜地より福原に寄すといい、搦手なる一の谷に向った義経のことをまず丹波城を落し、次に一の谷を落すとあるその一の谷である。しかるにもかかわらず、今さらその一の谷の所在を穿鑿するがごときは、全然無用の業のようではあるが、事実は必ずしもそうではない。すでに緒言にも述べたように、この合戦に関して種々の異った解釈の起るというのも、いわゆる一の谷城を今の一の谷の地としては、そのままにほ解し難い点がはなはだ多いがためである。当時平家の実際に拠守した場所は、旧縁の福原・輪田一帯の地方であって、むろんあの狭い一の谷の地域のみではなかった。それは天皇船に御して輪田の泊に仮泊し給い、生田を東門とし一の谷を西門としさらに山の手にも兵を出して極力これを防守した事実からでも察せられる。されば『玉葉』にも、その二月四日条には、「平氏主上を具し奉りて福原に着き畢んぬ」といい、『吾妻鏡』所収の平家の奏状にも、安徳天皇は船に御して輪田の海辺に経廻し、関東武士ら叡船の汀に襲来すといっているのである。降って『平家物語』(山田・高木両氏校訂本)には、「平家は去年の冬の比より、讃岐(の)国八島(の)磯《いそ》を出で、摂津(の)国難波潟へ押渡り、福原の旧都に居住して、西は一(の)谷を城郭に構へ、東は生田(の)森を大手の木戸口とぞ被v定る」といい、「長門本」には、「四日、源氏二手に分けて、福原へ寄せんとしけるに云々」ともあって、いずれも福原・輪田の地を平家の根拠と述べているのである。しかるに一方には、世にこの戦争を一の谷合戦といい、その戦争の行われた場所の名をも、その当時からすでに一の谷だといった事実があるのである。『吾妻鏡』二月八日条に、源氏両将の報告を記して、「昨日一の谷に於て合戦を遂ぐ」とあるごときはその著しいものである。義経の軍は事実一の谷で合戦を遂げたが、範頼の軍は明かに生田から攻め込んだのであったにかかわらず、それを引っくるめて一の谷の合戦といっているのである。また同書同月四日条には、「平家日来西海・山(136)陰両道の軍士数万騎を相従へ、城郭を摂津と播磨の境なる一の谷に構へ群集す」とあるのも、『玉葉』や『平家物語』に福原とあるのを一の谷といい、しかもそれを御丁寧にも摂播境上の一の谷だといっているのである。これはやや矛盾のようであるが、実はこの摂播境界の変遷をも考えねばならぬ。摂津と播磨との境は自然の地形のままに、昔から今の国境の地に置かれたことは無論で、大化改新の時に畿内の四至を定められたにも、西は明石の櫛淵だとある。櫛淵とは今の一の谷・二の谷・三の谷などという渓谷が、海岸に櫛の歯のように切り込まれているので、それで得た名であろう。しかるに平安朝の中期から鎌倉時代へかけては、一時摂津と播磨との境界を湊川だと認めていたらしい事実がある。『和名抄』の泊の条に、今の兵庫なる和田をもって播磨国輪田泊の類といい、また『百錬抄』に、平家の都遷しのことを書いた条に、摂津国福原、播磨国輪田と相対してこれを記述し、さらに『吾妻鏡』にも、摂津の須磨をもって播磨の中だといっているのである。しからば『吾妻鏡』に摂津と播磨の境の一の谷といっても、それは必ずしも今の一の谷の証拠とはならぬ。もちろん平軍は一の谷に臨時の防禦の設備をなしていたことであろう。義経が丹波路に向ったことを偵知して、すでに三草まで邀撃の軍を出したぐらいであってみれば、必ずその侵入を喰い止めるべく、この一の谷の天然の要害を利用して、これを堅固に防守しようと、試みたには相違ない。しかしながら、何分にも正月二十六日に屋島を出発して、おそらく二十八、九日のころに輪田の地に上陸を終えたとすれば、爾後わずかに六、七日を置いての二月七日の合戦までに、そう城郭らしいほどの設備の出来ようはずはない。長門本『平家物語』には、「木曾討れぬと聞えければ、讃岐の国八島を漕ぎ出でゝ、摂津国と播磨との境なる、難波潟一の谷といふ所にぞ籠りける。去正月よりこれは究竟の城なりとて、城郭を構へて、先陣は生田森・湊川・福原の都に陣を取る。後陣は室・高砂・明石の浦まで続き、海上にほ数千艘の船を浮かべ、浦々島々にみちみちたり」とあるのは、すこぶる誇張の嫌いがないでもないが、大体において要領を得た説である。義仲の殺されたのは正月の二十日で、その報が(137)八島へ聞こえてからそこを出かけたのでは、やはり『吾妻鏡』の正月二十六日八島出発という説を認めているので、そうゆっくりと城郭を築造するなどの暇のあるべきはずはない。「南都本」に正月十八日より城郭を構えたりとあるのは、よい加減のでたらめか、あるいは二十八日の誤りかであろう。山田・高木両氏校訂本に、「平家は去年の冬の比より讃岐(の)国八島(の)磯《いそ》を出で、摂津(の)国難波潟へ押渡り、福原の旧都に居住して、西は一(の)谷を城郭に構へ、東は生田(の)森を大手の木戸口とぞ被v定る」とあるがごときは、もとより事実に相違して従うべき限りでない。
 そもそも古代における城郭とは、わが後世に見る城のごとき、主将の居所のみを要害堅固に築いたのではなくて、朝鮮・シナ・台湾等に見るがごとく、都邑を取り囲み、住民を保護するの設備を呼んだものである。後世の城は古代の館、すなわちアイヌのチャシの類の発達したもので、古えにいわゆる城郭とは趣を異にしたものである。わが国には館すなわちチャシの類は昔からあった。これは単に主将たるものの住居であって、通例高地に作られ、その配下のものはその麓に粗末な家を作って住んでいたのであった。すなわち城下である。よってこれを東国では古く「根小屋」といい、薩隅では今に「麓」の称呼が遺っている。しかしこの類のものは館であって、古えにいわゆる城郭ではない。そこでシナの古書にはわが古代の俗を記して、国に城郭なしとある。実際わが国には城郭というべきほどのものはないのであった。ただ東辺(奥羽)・北辺(北越・出羽)・西辺(薩・隅)には、蝦夷・隼人らに対して保護すべく、住民を城壁の中に置くと「大宝令」に見えている。中央にあっては、平城《なら》・平安城の羅城のごとき、この城郭の真似事をしたものであった。秀吉が京都の周囲に堤と溝とを繞らすに及んで、始めてわが国に真の城郭というべきものが出来たのであるが、それは実用に供するに至らず、邪魔物となってしまった。この意味からいえば、平軍が拠守した輪田・福原一帯の地は、生田を東門とし一の谷を西門とし、北は嶮峻なる山により、南は澎湃たる海をもって限られた自然の城郭である。ただにその西門たる一の谷のみが城郭ではないのである。しかるにこれら一帯の地を籠めて狭(138)く一の谷の城としもいうのは、この一の谷方面の防備がことに厳重で、その戦闘が最も激烈であったから、自然それが人口に膾炙して、当然福原の城というべきものを、普通に一の谷の城といってしまったからであろう。この時の戦闘は実際に一の谷と生田と両方で行われ、後には内部一帯の混戦となったのであったことは言うまでもない。しかるに諸書あまり生田方面のことを言っておらぬ。『吾妻鏡』にも両将が一の谷において合戦を遂げたとあって、一言生田のことに及んでいないのである。したがってここに一の谷とは、その実今の一の谷の地のみのことではなくて、生田・一の谷両地の間の地を広く指示したものであることは疑いを容れないのである。『平家物語』の諸本にいわゆる一の谷の状を記して、「一の谷は北は山、南は海、口狭く奥は広し、岸高くして屏風を立てたるに異ならず」とあるのも、今の一の谷のことではない。今の一の谷は決して口狭く奥広しというべき地理ではない。これは必ず福原・輪田一帯の地を一の谷方面より見たもので、その口は断崖が海に逼って口狭きも、奥は須磨から輪田・福原へと広がっていることを述べたものだと解せねばならぬ。つまりその局部たる一の谷の名を、その城郭の全部に及ばしむるものであらねばならぬ。局部の名を全体に及ぼすことは、例えば大和より山城に通ずる坂路なる平坂《ならざか》(今の歌姫越)の名が、都城全体に及んで平城《ならのき》すなわち平城京《ならのみやこ》の名を生じたようなもので、他にもその例は珍しくない。平家が旧縁の福原へ来て、わずかに七、八日間籠ったからとて、それを一の谷城などと名付けたはずはないが、その西門なる一の谷の名が特に喧伝されたので、自然に全体の防備を一の谷城と呼ぶことになったのであろう。
 しからばそのいわゆる一の谷の城郭の体たらくはいかなるものであったであろうか。塹壕を穿ち、鹿柴を置き、楯を並べ、櫓を設け、特にその西門なる一の谷の陸路には、城戸を構えたぐらいのことはあったであろうが、何分にも僅々四、五日間に過ぎない工事に、そう大したものが出来たはずはない。『玉葉』には義経が三草で資盛らを夜襲して、これに勝ったことをまでも、「丹波城を落とす」と書いてあるのである。これは単に楯を並べた陣営に過ぎなかった(139)であろうが、それをも城と呼んでいるのである。当時の城の語の用法もって見るぺきではあるまいか。
 しかるにこれを一の谷城と称呼したがために、今の狭隘なる一の谷の地に堅固な城砦が築造せられたものであるかのごとく誤想し、はてはその上方の台地に、内裏までが設けられたもののごとく伝説するに至ったのは、滑稽千万といわねばならぬ。しかも後世の地誌には、それを真面目に信じて安徳天皇内裏蹟などと称する遺蹟をまでも伝えているのである。しかし事実上安徳天皇は、宗盛の奏状にも見ゆるごとく、叡船に御して輪田の海辺に経廻し給うたのであった。二月四日の清盛の法会をまでも海上で行って、上陸することすら出来なかったのであった。さればもちろんここに内裏などがあろうはずはなく、またそんなものを建築する暇もあったものではないのである。単にこの一事のみをもってしても、俗伝の価値いかんは知るべきものであろう。
 これを要するに、当時平家の拠守した地域は、東は生田、西は一の谷を限りとした、福原・輪田一帯の地方であって、これを福原城というべく、一の谷のみが城郭ではなかったのである。もちろん源平両軍の戦闘も主として生田・一の谷の両所に行われたので、勝負容易に決せざる折柄、義経が山の手を突破してその内部に出でたので、城内大いに混乱して東西の防禦たちまち破れ、ここに大虐殺が行われたのであった。さればこれを一の谷城といい、一の谷合戦というは、西門なる一の谷が特に要害の地であり、その戦闘が最も激烈であったがために、その名が特に喧伝せられた結果と解せられる。平家ほ戦闘の数日前にここに籠ったからとて、一の谷城などという名を命じたはずはなく、いずれ当時攻撃軍の方でなんとなく言い出したものであろう。さればなお穿ってこれを言わば、次節に述ぶるがごとく、一の谷攻撃軍の大将義経が、みずから手兵を率いて山の手より突喊し、城はたちまち陥ったのであるから、義経が一の谷を破ったということと混同して、ついに一の谷の名が一般に及ぶことになったのかも知れぬ。
 
(140)      五 鵯越の所在
 
 いわゆる一の谷城をもって今の一の谷の地のみに限ったと誤想することから、その一の谷の後山だという鵯越をもって、その背後の山を下るの間道だと解するに至るのは自然である。したがってここには種々の伝説が語られ、その伝説から種々の遺蹟が称えられ、鉄拐峯などいう山名まで呼ばれるようになっているが、いわゆる一の谷城がこの狭隘なる地点に限られたものではないという事実が明かになったならば、そのいわゆる鵯越なるものが誤謬であるということも、容易に了解せらるべきものであらねばならぬ。
 平家はもちろん範頼が山陽街道をただちに生田に向い、義経が丹波路から播磨に出ずることを偵知していたに相違ない。そこで生田・一の谷二ケ所の防備を厳重にしたのは無論であるが、さらに邀撃軍を三草まで出したのは、途中で義経の軍を妨げて、万一生田口の戦不利な場合に播磨路に退くの途を開き、兼ねて平軍の勢力範囲なる、山陽南海方面との連絡を中断されまじきためであった。しかるにそれが脆くも失敗したがために、東西両木戸口の防禦のみならず、別に山の手の敵の襲来を顧慮して、越中前司盛俊のほかに、特に驍勇無双の聞えある能登守教経をこの方面に向わしめた。義経の軍は主として騎兵で、山間の陸路や蓁莽叢生の急坂を多数通過すべきでない。したがってその大部分は播磨路から一の谷に向って平家の背後を絶つべきものたるは明かであるが、しかもなお山の手を突破する敵をも顧慮することを怠らなかったのである。かくてその盛俊・教経の陣した所は、実に鵯越の直下であった。そは『平家物語』諸本に、義経の軍に驚いて鵯越から遁げ下った鹿や、源軍が追い下した馬が、ともに盛俊の仮屋の前に落ち着いたとあるので明かである。かかる挿話的の事実が果してこのさいあったか否かの穿鑿はこの研究にとっては無用である。ただかくのごとく語られたということは、いわゆる鵯越が盛俊の陣地の真上であったという地理的関係を示(141)したものであることを知ればそれでたくさんである。すでに鵯越の直下へ盛俊らが陣して、いわゆる山の手の敵に備えたとすれば、しかしてその山の手を破った義経が、その鵯越を落したのであったとすれば、いわゆる一の谷の後山なる鵯越が、広い意味における一の谷城背後なるこの道に当ることは言うまでもなかろう。
 現今見る鵯越は『吾妻鏡』の言うごとく、猪鹿兎狐のほか通わぬというような、そんな嶮岨な坂ではない。もちろん合戦当時の坂路は現今よりも不便で、人馬の通行困難であったであろうが、それにしても『平家物語』の言うごとく、屏風を立てたというようなそんな懸崖があったとは思われぬ。これらはいうまでもなくはなはだしい誇大の報告説話に基づいた記録であるに相違ない。ことに『平家物語』はいわゆる語り物の常として、興味を主とし実地を閑却したものであるから、とうてい不可能のことでも平気で言っているのである。いかに馴らされた馬匹だとて、いかに練られた騎士だとて、『平家物語』の言うごとく何千という騎兵の集団が、そんな嶮岨を突破して一兵をも損せず下り着くことのあり得べきはずがない。もちろんこの何千という数ははなはだしい誇張であって、すでに述べたごとく『吾妻鏡』の七十騎というを正しとするも、なおかつ数十丈の懸崖を駆け下り得べきではない。結局は今の夢野に通ずる鵯越を、七十騎の騎兵が驀地《まつしぐら》に駆せ下って、不意に平軍の営を襲うたというのが事実であろう。ここには能登守教経や越中前司盛俊が陣していたが、驍勇無双と呼ばれて、従来一度も不覚を取らなんだという教経も、この不意打に遇って策の出ずるところを知らず、混乱せる味方の兵に誘われて、常にもなく西を指して潰走したといい、盛俊はとても免るべき身ならずとて、一歩も引かずついに戦死したと言われている。しかしてその盛俊の戦死の場所は、古く長田の奥だと伝えられているのである。この伝えは鵯越が今の一の谷の背後だという俗伝とは独立のもので、おそらく真を伝えたものであろう。一説に、『平家物語』等に義経の軍が教経・盛俊らの陣を襲うたことを言っておらぬから、この山の手には戦争がなかったので、義経は一の谷を内部から破って平軍混乱を来したがために、教経も支え(142)難きを知って逃げ出し、盛俊は乱軍の間に戦死したのであろうとあるが、それは『平家物語』の記事が詳細に及んでおらぬまでで、山の手がまず破れたことは両将の報告にも見え、『玉葉』にこれを明記してあるのである。生田・一の谷の南門は平軍よく防いで敵を入れしめず、勝敗容易に決し難かった折から、この山の手の突破によりて城中混乱を来し、怖気《おじけ》づいたる平家の軍兵は敵の多寡をもはかり兼ね、逃ぐる味方に逐われて将棋倒しの惨状を招き、ために東西両門の守備もたちまち内部から破れたのであったに相違ない。怖気づいては水鳥の羽音にでも潰走する。七十騎の不意の突喊がこの混乱を生ぜしめたに不思議はない。しかしてこの『玉葉』にいわゆる山の手は、『平家物語』に教経・盛俊らが向ったというその山の手であって、これを被ったものは実に義経が鵯越から逆落しに駆せ下った七十騎の精兵であったのである。
 義経がみずから三浦義連以下の勇士を具して鵯越より攻め入ったことは、『吾妻鏡』に見ゆる報告の記するところ疑いを容れぬ。『平家物語』の諸本にも皆これを義経の功に帰している。しかるにここにただひとり『玉葉』に、多田行綱が山の手を最前に落したとあるのは異聞である。言うまでもなく『玉葉』は藤原兼実の日記で、京都にあって戦争の報告を聞き、または風聞によって早速にこれを記したもので、時に誤聞がなかったとも言えぬが、この行綱の名のここにあらわされたことは、少くもその当時に京都において、かく取沙汰されたのであったに相違ない。行綱は源頼光の子頼国六世の孫で、かつて鹿が谷の密議にあずかり、後これを清盛に密告したというので反覆者として評判のよくない人である。しかも彼は後に頼朝に従ったから、このたびの役にもおそらく義経の手に属し、ことに摂津源氏として、この国の地理に詳しかったので、鵯越の間道に向った七十騎の中に選抜せられ、案内者の格で先登の功名をなしたのであったと察せられる。しかるに他書少しもそのことを言っておらぬのは、彼がその人格上軍功を没せられたものかも知れぬ。ともかく最初の報告に彼の名の出ていることは注意すべきことと思う。
(143) なお間道の案内者として、『平家物語』諸本にはいろいろの挿話が加えられている。「長門本」には、義経が三草の戦に捕虜とした播磨安田庄の下司賀古菅六久利というものに案内せしめたとある。これもあり得べきことで、賀古は名に負う播磨の住人であれば、おそらくこの辺の地理にも通じていたことであろう。また他の諸本には、武蔵坊弁慶が鷲尾三郎経春という猟師の若者を尋ね出して、それを案内者としたとある。これについても初めに老母を見付け出して、それが経春をすすめたのだとも、あるいほ老父が自分の代理として、その子をすすめたのだともいっている。かくて『源平盛衰記』に至っては、この両異説を併せ掲げてあるのである。かく諸説区々にして一定するところなきは、根本の『平家物語』にはかかる案内者の話などはないのであったのを、この人跡未到ともいうべきほどにも誇張したる間道を大軍が通過するに当って、地理に熟した案内者なくてはその成効があまりに奇蹟過ぎるので、語り物の常として演奏者の任意に適宜潤飾を加えたものであろう。事実は『玉葉』に見ゆる摂津の住人多田行綱が、案内者兼先登者であったのかも知れぬ。しかもこの手の大将が義経であることは言うまでもなく、したがってその功も義経の陰に隠れてしまったのであろう。しかしてその義経はもともと一の谷攻撃の大将であったから、自然その鵯越の逆落しも一の谷と混同して伝えられ、はては『吾妻鏡』のごとくこれを一の谷の後山といい、はては福原城とも言うべき生田・一の谷間一帯の地をも、広義に一の谷城と呼ぶに至ったのかも知れぬ。
 
      六 結  論
 
 世の伝うる一の谷合戦の説話は、誇張の言をもって充たされており、その地理上の推定にほ、誤謬の点がはなはだ多い。ことにその誇張されたる説話や、誤ったる地理上の推定から語り出だされた俗伝・遺蹟の類に至っては、ほとんど噴飯にも値せざるものが少くなく、ついにはかの『一谷嫩軍記』のごとき、全然架空の戯曲にまで連続している(144)のである。事実は平家がここに到着してから、二月七日の戦争までわずかに数日に過ぎず、とうてい十分の工事を営むの余裕もなければ、もちろん内裏などの設けられる暇もない。安徳天皇を始め奉り、非戦闘員らはいずれも船上にあったのである。これに対する源氏の策戦は、義経が丹波路から西に迂回して一の谷の横手に向い、ここに平軍後方の連絡を絶ち、その退路を扼し、範頼は生田の大手口からこれに圧迫を加え、別に義経統率の精兵は間道を山の手に向って城内を撹乱せんとしたのである。かくて戦闘は生田・一の谷の両所に始まり、ついにその守備を破って東西より乱入し、ここに大虐殺が行われたのであった。さればいわゆる一の谷合戦とは、生田・一の谷両地の間に行われた戦闘で、いわゆる一の谷城とは、生田・一の谷両地問一帯の地の称であらねばならぬ。かくて義経は今の夢野に通ずる鵯越の坂路を駆せ下り、目的通りに城内擾乱の効を奏したのであった。その兵数のごときは範頼の大手の軍約二千、義経の搦手の軍約一千で、鵯越に向った義経の手兵は僅々七十騎に過ぎなかった。しかしてこれに対する平家方の軍も、大約五、六千ぐらいに見てしかるべきことであったと解せられる。
  (附言) 自分のこの一編はただに鵯越と一の谷との研究というばかりでなく、古書の記事がいかに誇張の辞に富み、後世の人がいかにそれによって誤まられているかを示すの一例として提示したつもりである。俗に伝うる遺蹟や、それに関する伝説や、あるいはそれに起因した地名などは、後からいかようにも発生し得るものである。初めから偽作の悪意から言い出したものは論外だが、そんな故意に出でたものでなく、単に「かも知れん」と言い出されたものが、いつしか「そうだ」と決定的のものになる。はては碑でも樹つとか、神社でも出来て来ると、もはや容易に動かし難いものになる。しかしてそれが忠臣・義士などに関したものであれば、それに反対するものは時として不忠義の士として攻撃せられるのである。遺蹟の研究者はよく注意するところがなければならぬ。
 
 
(145) 三島地方の古代
 
      一
 
 今日はここへ出まする途中で、あいにく持病の胃カタルを起しまして、今もなお痛んでいる最中なのでございますが、せっかくの多人数お集りのことでもあり、このまま罷り下るのはいかにも申訳のない次第で、かつ残念なことでありますから、暫時の間苦痛を忍んで所見を申述べてみたいと存じます。定めてはなはだ御聞き苦しいこととは思いますが、どうか御辛棒を願っておきます。
 さて私のお話したいと存じますことは、三島地方の古代、昔の三島地方の有様は、どういう風であったかという、この地方に限られた問題で御座います。御承知の通りこの大阪平野は、もと難波江の入海になっておった所で、そこへだんだんと土砂が堆積して出来たのでありますから、ごく古い時代を考えてみますれば、三島地方の平野もやはりその数に漏れない時があったに相違ないと思います。三島郡という名称からして、すでにそのことを示しているのでありまして、「ミシマ」の「ミ」は文字では「三」の字を書くけれども、必ずしも「三」という限られた数の意味で(146)はありますまい。吉野のことを「ミヨシノ」、熊野のことを「ミクマノ」といい、あるいは「マ」とも転じて、木のことを「マキ」、金のことを「マガネ」などと申すのと同じような訳で、昔|三島県《みしまあがた》といったのほ、島県《しまのあがた》というのと同じことであったろうと思う。今も宮島村の大字に、島というのもあります。この三島の名は古く物に見えまして、神武天皇の皇后|姫蹈鞴五十鈴媛命《ひめたたらいすずひめのみこと》の御母は、三島の溝咋《みぞくい》媛だともあります。元来大阪平野は元、淀川なり、大和川なり、河内川なりなどから流して来る土砂の堆積作用と、および自然の土地の緩漫なる隆起作用とによって出来たもので、川が縦横に流れる間に、多くの島々すなわちいわゆる八十島《やそしま》が出来、その八十島という島々が結び合って、ついに平野が出来たのであります。しかして古い時代には、後世のように水利土木の工事もなかったことでありましょうから、川はよほど我侭をして、その平野の間を、右往左往に勝手な流れ方をしておったのであろうと思われます。今日でも地図を開いてこの三島地方の一番東の方を見ますると、水無瀬から野田・前島あたりの間、上牧《かんまき》・井尻などという地方には、今もって水溜りがたくさんありまするし、また低湿の地が非常に多い。その向側の北河内の樟葉の方もやはり同様で、この辺はかつて淀川が、あるいは東へ行ったり、あるいは西へ行ったりして、現在の河道をなすまでには、よほどの変遷を経たものであったでありましよう。今日井尻の北なり南なりにある大きな水溜りのごときは、確かにある古い時代の河道の址が残っている形だと思います。そういうような次第で、下流の方に来るに従ってますますその傾きが多かったのでありましょうが、それがだんだん年数を経て来まして、平野が出来して、そこにいわゆる野とか原とか、広漠たるものが起って来る。人の住む場所はもとはどうしても山地に近い方に求められる。つまり山の麓の、比較的高い処を択んで住んでおって、平地の方はその割合に人が住まないで、多くは野原として残されたであろうと思う。この高槻の東の方には、古い時代に大きな湖水があったかとも想像される一の事実があります。今も安満《あま》という村落がありますが、この「アマ」という名は他の諸国にもよくある例でありまして、海部《アマベ》すなわ(147)ち漁夫の部落にある名前でございます。こういう内地に「アマ」という名称のあるのは、誠に不思議のようにも思われますが、しかしよく他の地方を調べてみますると、大きな湖水のあった所には、内地でも海人《あま》の部落がいくらでもありました。山城の中には巨掠池というのがありまして、あの池は徳川時代に大変小さくなったのでありますが、太閤様以前には、非常に大きかった。なお遠い以前には、東は山科の方から宇治の山まで、また西は男山にまで迫るほどの大きな湖水で、山城を南北に両断しておったぐらいのものであったろうと思われます。しかしてこの湖水の付近には、やはり太古に海部の部落があった。今も久世郡に水主神社というものがありますが、これは海神である。海部が祭る神であります。淀の淀姫神社もやはりそうであろうと思います。それから、今日では全く漁《すなどり》の方とは縁故を断っておりますが、京都付近に行われているところの、女が頭に物を戴く風習も、海人に縁故のあることと思われます。今日ではもっぱら八瀬女《やせめ》、大原女《おはらめ》と言われていますけれども、この風俗は八瀬と大原とには限らない。白川でも、田中でも、賀茂でも、一乗寺でも、高野でも、すべて京都付近の田舎は、皆ああいう風習であります。頭に物を戴くという風習は日本では海人部落に限られておりますが、奇体にもあそこにだけその風習が偶然残っている。山城に海部がおったという一の証拠は、皇極天皇の時分に山背の安曇連比羅夫《あずみのむらじひらふ》という人がおったのによっても証明される。安曇は海人の長の家であります。また近江の琵琶湖は今日でもあれだけ大きな湖水で、漁をもって生活することが出来る場所でありますが、あそこには安曇郷《あずみのごう》というのがあり、安曇《あど》川というのもありまして、かつて海部のおった所であります。そういう風に、内地でも大きい湖水のある処には、海部の部落がありまして、京都付近にその風俗が特別に保存されているのは、これは都に近いという一の理由からでありましょう。大きな都会の付近には、往々にしてかえって古い風俗が保存される。これはよくある例でありまして、東京地方のごときも、江戸という大きな都会が出来ますと、その付近の百姓はいわゆるベーベー言葉を使って、一番素朴な風が保存されていますが、もう少し離れた処に(148)行きますと、かえってそういう風がなくなっている。そういうような訳で、これは特別の理由があるのであります。それで、この三島に「アマ」という部落のありますのは、やはりかつてこの地方に大きい湖水があったのであろうと想像する一の証拠になりはせぬかと思う。で、三島というのは、この安満から西南の方を主として申したものでありましょう。しかしその海部のおったような場所も、だんだん平地が出来まして、ついには東の山崎の方まで続いた。そこがいわゆる水無瀬野でありまして、桓武天皇以来代々の帝の遊猟に御出ましになった処で、古くは水生野、水成野などとも書いてありますが、これすなわち水無瀬であります。古く東大寺の寺領となって、今も正倉院所伝古図の中に、水無瀬庄の図があり、今は東大寺村とまで名に呼んでおります。
 またそれから西の方へ行きますと、三島の藍野原という地もよく古史に現われております。雄略天皇の御時に、凡河内香賜《おおしこうちのかたぷ》というものが、神を祭る采女と祭の場所で通じたので、その不謹慎を責めて、三島の藍野原で斬ったということがあります。さらに西南の方へ行きますと、これがすなわち鯵生野原《あじうののはら》で、あるいは味生とも書き、後に味経宮《あじうのみや》の出来た場所になっている。今日は、実はいろいろこの地方のことについて、申述べたいつもりで腹案を致してまいったのでありますが、あいにくの腹痛でございまして、とても長時間の講演に堪えませんから、せめてはこの昧生のことでもいささか申述べて、責任の一部を果したいと存じます。
 右申すような次第で、野原がだんだんと出来まして、それらが牧場などに使用され、種々の動物が飼養されたことが多かったでありましょう。東には鳥飼という地名も遺っております。この鳥飼の方は、中世には左馬寮の牧場になっており、味生の方は典薬寮の牧場になっておりました。追々野原が開墾されますと、そこに皇室御料の屯倉《みやけ》などが(149)だんだん出来てまいります。今も旧島下郡の方には三宅という村がありますが、この三島地方には、史上にミヤケの名の伝わっているのがたくさんあります。安閑天皇には皇子がおわさない。そこで御子がない皇妃は後に御名が忘れられるというので、いわゆる御名代の意で所々に屯倉を下さったことがある。その時に桜井の屯倉と毎国の田部とを香々有媛と申す皇妃に賜ったとある。この桜井は、大和の桜井であろうという説もありますが、私はやはりこちらの桜井であろうと思います。三島の桜井は、古く名の現われている所でありまして、桜井寺という寺も平安朝の時分からすでに物に見えております。これは『日本紀』に見えている、大和の飛鳥付近の桜井寺とは別の寺であります。その時にまた難波の屯倉と郡毎の钁丁《くわよぼろ》とを妃|宅媛《やかひめ》に賜わりました。それから三島県主|飯粒《いいぼ》という人が安閑天皇に上御野《かみつみの》、下御野《しもつみの》、上桑原《かみつくわばら》、下桑原《しもつくわばら》、竹村《たかふ》とこれだけの地で、四十町の土地を献じまして、これが屯倉になっている。その場所はどこでありますか、いろいろの疑問も、解説もあるのでありますが、だいたいそういう風にこの地方にはたくさんの屯倉が出来ました。屯倉というのは皇室御料の地で、徳川時代の例で申せば、大名、小名の所領地、采邑の間に、幕府の直轄の領地があったようなもので、国造県主等の私領の間に、皇室直轄の御領地があったのであります。かく屯倉も多く出来まして、次第に開けてまいり、種々古い地名が伝わっておりますが、その内にも、この味生というのが一番興味ある問題でありますから、これを少し詳しく申してみたいと思います。
 味生というのは今日現に味生村が出来ておりまして、その名が立派に保存されております。しかしこれは御承知の通りの新町村の名称で、その以前には実は味生という名称はなかった。味舌《ました》と呼んでいた所で、これが昔の味生であると『摂津志』には書いてある。ところが、後の学者は多くそれに賛成致しません。味生一に味原《あじう》ともありまして、その名称は『和名抄』には、摂津の東生《ひがしなり》郡の郷名中に出してあるから、これは大阪の東の方であるという説が、大分有力でありました。その内にまた難波の沿革を書きあらわしましたいろいろの地図が世の中に出て来ました。難(150)波上古図とか、何天皇御宇の難波古図とか、何天皇より何天皇に至る難波の図とか、その種類はいろいろあります。しかしてこれらの古図には、多く玉造の南へもって行って、味原郷というものを置きまして、そこへ味原池という池をも出してあります。それ以来多くの学者は、味生という地は大阪の東部だということになりました。味経宮というのは、孝徳天皇の大化年間に長柄豊埼宮をお造りになる時に見えている宮で、ずいぶん古い地名でありますが、その後奈良朝のころに、聖武天皇が難波宮を御再興になりました時に、その難波宮すなわち長柄宮を、『万葉集』にはやはり味経宮とも書いてあります。すなわち長柄宮すなわち難波宮すなわち味経宮という風に、奈良朝の記録には見えている。それで、長柄宮の位置もまた大阪の東になってしまって、吉田博士の『大日本地名辞書』でも、大阪市で出来た『大阪市史』でも、皆そういう風になっている。しかしこの浪速沿革図というものは、申すまでもなく皆後世の作でありまして、おそらく為にするところあるの偽作が多かろうと存じます。されば、この偽作の地図に欺かれて、これを盲信した人は別として、『地名辞書』なり、『大阪市史』の著者なりは、この地図が偽作地図であるということを十分承知しておりながら、やはりそれが先入主となって、旧説に捉われて、味生も、長柄も、皆大阪の東にもって行っている。これは確かに間違いだと私は考えます。しかしこれらの地図も、よく調査してみますと、一概に偽作だと言うのも、実は気の毒な点もあります。私はかつて難波の旧地を考えますために、だんだんこの地図の沿革を調べてみましたが、ほぼその製作の見当が付いて来ました。あたかも寛延のころに、京都人で森幸安という地図家がありまして、なかなか地理の好きな人でありました。皆さん御承知でもありましょうが、「古実叢書」の中に中昔の京都地図というのが入ってある。「古実叢書」を発行した人は、あるいはこの地図を誰が書いたか知らないで、そのころの地図だと思って出したかは知れませんが、あれはまさしく右の森幸安が書いた図で、近ごろ偶然にもその幸安の原稿が出て来ました。原図にいろいろ貼紙をしたり、胡粉で書き消したりしてある。現在京都大学に買入れて、保存(151)してあります。この森幸安という人は、何も悪気でやったのではない。中昔の京都の様を地図に示すために、全く『山城名勝誌』と『山城志』とに拠って、それを実地の場所に書き入れただけで、一の歴史地図であります。それを勝手に中昔当時の地図だと思うのが悪いのであります。さてこの幸安は、大阪へ来て玉造の付近におったのであります。しかしてその中昔の京都地図と、難波の沿革図とを比べてみると、ほとんど符節を合すがごとく、同じ意匠から出来ている。難波の地図は『摂津志』と『摂陽群談』とに拠って拵えているので、これが世の中に出ましたのはやはり寛延のころである。その地図を初めて学者が採用して、自分の著書の中に引用してありますのは、荒木田久老の『難波旧地考』と、本居宣長の『古事記伝』との二つでありますが、本居宣長の見られたのも、荒木田氏の見られたのも、ともに詳しく書いてありませぬから、確かに今伝わっているどの地図だかわかりませぬが、内容をよく調べてみますると、同じく難波の古代地図という内にも、幾分古い方になっている。つまりゴチャゴチャといろいろのものを書き加えることが割合に少くして、比較的正直に出来ている方であります。世に伝うる難波古代地図は、十数種もありましょうが、だいたい二通りの系統がありまして、一は仁徳天皇の掘った難波堀江を、今の天満川に当てているもの、これは正直な方である。もう一つは難波堀江以外に大阪の東の丘陵、すなわち上町の丘陵を、いくつもの堀江が横切っているもので、つまり河内の方から、上町の丘陵を通過して西の海へいくつもの川が注いでいるように描いたもので、これはよろしくない。さてこのよろしくない方にも、また二通りの別がありまして、上町の丘陵を穿って通っている堀江を三つ書いてあるのと、四つ書いてあるのとある。三つあるのほ、これはおそらく森幸安の製図でありましょう。もともと『摂陽群談』なり『摂津志』なりなどによったもので、これらの書には三つの川を掲げてありますから、それを図に示したものでありましょう。これほ比較的古い方でありまして、本居宣長の見たのも、荒木田久老の見たのも、この川の三つある方であったようです。ところが、さらに四つあるのが出来た。これは大阪城の南にある(152)空濠をば、仁徳天皇の難波堀江だという風に、後から付会したもので、これは最もよろしくない。これは確かに悪意があって、森幸安の描いた図を作り直したものであろうと考える。それにはいろいろのことが書き加えてあって、仁徳天皇の宮址のことも、比売許曾《ひめごそ》神社のことも書いてある。このことは私がかつて『歴史地理』という雑誌に詳しく論じておきました通りで、比売許曾神社の縁起を作った天明ごろの寂聞聖観という坊さんが拵えた物でありましょう。私がこの論文を書きました時には、私はまだ森幸安のことは考え及ばなかった。京都大学に幸安の書いた地図の原稿が手に入らぬ前でありましたから、それは知らなかったが、今日から見ますると、森幸安が物好《ものずき》にも、昔の有様はこうでもあったろうかと想像して作った物があったのを、聖観という坊さんが、為にするところがあって変造したのであろうと思われるのであります。しからばなんのために聖観がそういうことをやったか、これは今日詳しく申上げることは略しますが、とにかく採るに足らぬものであります。その時の聖観の考えほ、何も百何十年も経った今日の人を欺すつもりではなかったのでありましょうが、今日の学者は、こちらからわざわざそこへ出かけて行って、みずから欺される形になっている。その地図には味生郷を大阪の東に描きあらわしてあるので、この地図を偽作と知っている者までも、やはりそれに捉われて、説を立てておられますが、これははなはだ遺憾なことだと思います。
 味生という地が今の三島郡の西南部か、もしくは神崎川の南の西成郡地方かにあったという証拠は、古書にいくらもありまして、これは味経宮を大阪の東へもって行こうとする人も、十分に承知しておられるはずであります。桓武天皇延暦四年に鯵生野《あじうの》、神下、梓江の三つの地を掘って、三国川に通じたということが『続日本紀』に書いてある。ここに三国川に通ずとありますのは、新たに川を掘割って、淀川の水を三国川に落したことを言うのであります。三国川というのは今の神崎川でありますが、もとはおそらくは藍野原の方から来ている川とか、あるいは茨木川などの流末が、三国から神崎を通って海に注いでいるものの名で、延暦以前には淀川とは全く別の川であったことと想像さ(153)れる。しかるに桓武天皇は延暦三年に山城国乙訓郡長岡の地に都を遷されました。桓武天皇の御母君は百済王家の出で、この方の家が北河内の交野《かたの》にありました。桓武天皇は御母君の家が卑しいというのを非常に御心配になって、百済王家の人を非常にお取立になり、またたびたびこの交野の地へも行幸になっておられます。右のような次第で、延暦四年に三国川を疏通したというのも、つまりはたびたび御出でになる交野地方の水害を防ぐために、淀川の水の一部を西へ通したものであろうと考えられる。今日の神崎川は明治十一年に掘替えたのでありまして、その前には今のよりも大分北の方へ屈曲していたのです。今も三島郡の陸続きになって、神崎川の北に西成郡の一部がありますが、あの地はもと神崎川の南にあった場所であります。延暦四年に掘った三国川が、果してこの明治十一年前の流れであるか、あるいはその後にも流路の変遷があったか、それはよく分りませぬが、ともかく延暦四年に掘った場所は鯵生野などであって、その鯵生野が、今の三島郡と西成郡とに渉ってあったことは間違いない。その鯵生はすなわち味経宮の味経でありましょう。それからもう一つこういう証拠がある。平安朝中ごろの編纂でありますが、『朝野群載』という書物の中に、大江匡房の「遊女の記」という名文があって、江口・神崎などの遊女のことが書いてある。それを読んでみると、淀の津から船へ乗って西に行くと、江口という所がある。ここは大変繁昌な場所で、遊女がいる。またもっと西へ行くと神崎・蟹江があると書いてある。しかしてその江口のことを書いた所に、淀川が枝を分って南の方河内に向う、そこを江口というとある。これは大いに味わうべき文字で、南に向った河が分流であってみれば、そのころは淀川の本流が神崎川であったことが分る。延暦に三国川すなわち神崎川を掘って、それが淀川の本流となっておったのでありましょう。さてその江口の処に、典薬寮の味原厨《あじうのみくりや》、掃部寮の大庭荘《おおばのしよう》がある。大庭というのは川を隔てた北河内郡で、味原もやはり江口の辺りにあったということはこれでも分る。その江口の処にあった味原はすなわち典薬寮の味原の厨でありますから、試みに『延喜式』の典薬寮の部を見ると、まさに味原がある。この味原牧(154)は、牛乳を取るためでありましょうか、乳牛を飼っておった所だとあります。しかして中世乳牛牧庄というのがあって、これはまさに江口から大道・小松辺りに亘っている。この乳牛牧庄は、『延喜式』の典薬寮で乳牛を飼った味原厨の名を伝えたものなるは疑いを容れますまい。果してしからば奈良朝の末から平安朝に亘りまして、味生という場所はまさに江口付近にあったのであります。そうして聖武天皇が御再興になりました長柄宮のことを、『万葉集』には味経宮とも言うてあり、また長柄宮に大君がいまして、物部の兵《つわもの》どもが味生の原で集まったなどのこともありますから、つまり味生は長柄に近い所でなければならぬ。
 翻って大阪の東の味原だという所の由来を考えてみるに、これは少しも取るに足らぬ。寛延ごろまではそんな説は全くなかった。契沖阿闍梨は『万葉集』を非常に研究された学者で、この人は大阪の東部、俗にいわゆる味原郷あたりにおられたのですが、そこが味原であるということを一切知らなかった。『万葉集』に味経宮ということがあり、『和名抄』を見ると東生郡に味原郷とあるから、それが果してどの辺であるかと、いろいろ人に聞いてみたが、絶えて知る者がないと書いてある。契沖阿闇梨の時分には、味生の名は全く世に忘れられて、あれほどの学者でも分らなかった。それが偽作図には立派に書いてあるのみならず、味原池というものまでが出来ている。この味原池というのは、古い図にはありませぬ。『摂津名所図会』には、土人これを溜池というと書いてある。つまり田地用水の溜池であります。それを偽図には味原の池などと書いて、とうとう味生をそこへ持って行ってしまった。
 かくのごとき明かな付会の新説が、何故その後の多くの人に信ぜられたかというと、これにも理由がある。この味原厨といい、鯵生野というのは、明かに江口付近でありますが、その地東西成郡になっている。しかるに『和名抄』で見ると味原郷は東生郡である。郡が異う。江口は東生郡とはよほど離れているから、それで味原郷はこれではない。したがって味経宮も江口付近ではないと思うたのでありますが、これがもともと間違っているのであります。だいた(155)い東生・西成という郡は、元は難波の大郡《おおこおり》・小郡《おこおり》と言った。その大郡・小郡は昔はどこであったかと申しますと、大阪の上町の丘陵を境として、東が大郡、西が小郡であった。西は海に続きまして、小さかったから小郡、東は平地が広く続いて大きかったから大郡と呼んだのであります。しかして後にこれが東生・西成となりました。すなわち丘陵の東に生《な》り出でた土地、西に成り出でた土地という意味であります。さらに後世には、だんだん西成郡の方が大きくなりまして、東生郡の方が小さくなっておりますが、元は東生郡の方が大きかった。その東生郡は上町の丘陵の見通し線から東に出来たのですから、今の長柄から大道村あたりは皆東成郡でなければならぬはずである。それを西成郡といっているのほ、中世以後に間違ったのでありましょう。また一方には、味経宮は一に難波の宮というのでありまして、難波がこんな遠方まで来る気遣いはないと言うかも知れませぬが、摂津三島地方は、もと皆難波の中である。もとの難波江はだんだんと八十島の結合によって平野となったので、その場所は皆難波である。現に三島郡の吉志部《きしべ》のことを『日本紀』には立派に難波の吉志部と書いてある。吉志部がすでに難波であるから、それよりも大阪に近い江口あたりが難波であって、いっこう差支えない。なお『和名抄』の郷名をよく調べてみましたが、江口・大道・小松すなわち昔の味原厨あたりに当つべき西成郡の郷名がない。それで『日本地理志料』の著者たる村岡良弼先生は非常に苦心された形迹がある。この先生は、地理の沿革に詳しい方でありまして、古代の日本の沿革地理を非常によく調べておられますが、大阪の所だけはすべて偽作地図に欺されて、味原郷を大阪の東へ持って行き、味原厨の処へは飛んでもないほかの郷を当てはめておられます。吉田博士の『地名辞書』も同様でありまして、確かに他の地へ持って行かねばならぬ証拠のある郷名を、ここへ持って来ておられます。これらは詳しく考証を申し述べますとよろしいのでありますが、今日は腹痛で非常に苦しうございますから、ただ私の研究の結果だけ申上げます。
 
(156)      三
 
 要するに大阪の東生・西成地方の古代に関するこれまでの研究は、皆間違っていると申してもよい。『正倉院文書』によりますと、吉田東伍博士や村岡先生が小松・大道のあたりへ当てておられる美努郷は、確かに大阪の今の高麗橋付近でなければならぬ。そういう風にだんだん研究を重ねてみると、東生郡の味原郷というのはすなわち延暦にいわゆる鯵生野で、神崎川によって中断されている地方になければならぬということが、立派に証明される。これは比売許曾神社の研究からも証明されますが、今日はその説明は省略します。味原が神崎川の畔としますれば、長柄宮はその南で、すなわち今の長柄村から、その北の大道村・豊里村の方まで続いておったものであろうと思われます。三国川すなわち神崎川、長柄川すなわち中津川、堀江川すなわち天満川のこの三川は、北・中・南に相対しているが中にも、神崎川が本流で、これに続いては堀江川すなわち大阪市の中を流れている天満川が大きく、長柄川というのほ比較的小さな川であったろうと思う。その長柄川の南北に亘って難波長柄豊碕宮というものが造られた。豊碕宮は三島郡には関係がありませぬが、味生が三島の方であるということを申すには、勢いこの方から極めて行かなければならぬ。味経宮というのは孝徳天皇の大化元年に出来ましたので、その場所はどの辺でありましょうか、とにかく延暦四年に掘りましたのが鯵生野である。長柄宮に関する私の説についてはこういう批難がある。長柄宮がそんな所にあるはずはない。今から千三百年の昔は、あの辺りは一体に低湿の地であって、とても宮殿などは出来るものでないと言う。『大阪市史』も同説で、一度地図を繙いてみたならば、合点が行くであろうとまで言っておられるが、大隅島・媛島の二つの島は、むかし江口あたりにあった島で、これには安閑天皇の時分に牧場を造られた。また大隅島には遠く古代の応神天皇の時に、すでに離宮があったぐらいである。この媛島のことを後の稗島だという人もあり(157)ますけれども、これも間達っているのでありまして、媛島というのは今の小松あたりにあったものだろうと思います。比売許曾神社もやはりここにあった。それを大阪の玉造に持って行こうとしたために、いろいろな偽物を作ったのである。それらを考え合せると、味経宮がいわゆる鯵生野の地にあっていっこう差支えない。ただその宮の場所が、今の神崎川の南に限られていたか、北の方の味生村に及んでいたか、あるいはさらに味舌村にまでも及んでいたか、どうかは、問題であるが、これらは皆ともかく古えの鯵生野の一部分でありましたことは疑いありますまい。典薬寮の味原厨は江口の辺りで、すなわち元の神崎川の南の方にあったのでありましょうが、しかし河北なる三島の地に味生という名のあるのは差支えない。だいたい神崎川は、鯵生野を両断した訳でありますから、その地は河の南北にあったはずです。平安朝の初めに出来ました『日本霊異記』という書に、島下郡味木郷|舂米寺《つきよねでら》に非常に悪い坊主がありまして、その人がいろいろ悪事が積った結果、病気になって味木郷で死んでしまったということが書いてある。その味木はウマキと読むので、茨木のことであるという説もありますが、これは味生の写し違いで、そうしてそれがまた味舌になったのであろうかと思われます。
 この鯵生野原という原は、古くからありまして、つまり三島郡の広い原野の中の一つで、そこに宮が出来て大変様子が変ったことでありましょう。かく平地の処はまず多く原や野になっておりましたが、山地の方は早くから開けておったものとみえて、各種様式の古墳墓がたくさんにあります。この地方において面白いと感ずるのほ、まるで系統の変った古墳が一所にあることです。日本の古墳には、泉州堺の東にある仁徳陵のような前方後円式、あるいは円塚式で、埴輪がありまして、頂上に屍体を埋めておく風のと、塚山は割合に大きくなくして、中に大きな石室を設け、横から羨道によってその石室に入るものと、二通りありまして、これは系統が違うように思う。これは地方によって相違があり、今日ここで詳しく申上げることは出来ませぬが、少くも畿内地方大和や河内あたりの有様を見ると、多(158)くこれが系統によって群集している。河内の古市付近には仁徳陵風の埴輪のあるものばかり集っている。堺の東にもそういうのが集っている。ところが河内の東の山麓地方には、横に入口のあるものが集っている。同じ大和でも奈良の西の方には埴輪のあるものばかり集っているが、河内境の山の麓や、高市郡あたりには後の方のが多い。これは住んでおった時代と人とによって、墓の遣り方がかく異なったものであろうと思われます。皇室の御陵墓は古くは皆仁徳陵のような風であった。ところが用明天皇のころから、横に入口の明いた御陵墓が造られるようになりましたが、これは異った系統の方の式を御採用になったものであろうと思う。私はその埴輪のある方を日本旧式、横に入口のあるのを大陸輸入式と存じます。ところが三島地方には継体天皇の御陵や、その東にある今城塚などを始めとして、日本固有と思われる、古い時代のわが帝室の代々の御陵のような形式のものが、たくさんにある。上宮天神に入る道の少しく右にあります車塚というのを見ましたが、あれも立派なこの形式のものである。この形式の塚からは、普通に横に穴のある塚から出る石棺とは異った形の石棺が出る。今城塚の所に前塚という小さな塚があるが、あの塚のが仁徳天皇などの古い式の塚にある石棺の式です。そうしてその付近には、また継体天皇陵などもありまして、三島は古い時代には、ずいぶん有力者に関係のあった所であろうと想像される。古墳の調査は摂津においてはこの地方が一番面白いと思います。今城塚は今はほとんど取り崩されておりますが、実はこの塚が真の継体天皇の御陵であるかも知れない。『延喜式』に継体天皇三島藍野陵は、三島の島上郡にあるとありまして、今の郡界は今城塚と継体天皇陵と定まっている大きい塚との間にあります。すなわち今の継体陵は島下郡であって、『延喜式』とは合いません。あるいは郡界の移動があったのでありましょうか。しかし、この継体天皇陵の西にごく接近して太田神社がありますが、この神社は『延書式』に島下郡とありまして、もしこの陵を島上郡とすれば、元は太田神社と継体天皇陵との間にきわめて狭い処が、郡界であったといわねばなりません。そこで今城塚は立派に島上郡にある大陵として、継体天皇陵(159)の参考地としても決して恥かしくないもの、あるいはこの方がむしろ理屈に合ったものかとも思われますが、それが今日はあのように、無残にも崩されているのは、いかにも残念であります。よしやそれが継体天皇の御陵でないにしても、すでにそういう疑いがあり、また疑いがないにしても、昔のわれわれの立派な祖先、おそらくは継体天皇にも譲らざるべきほどの皇室のしかるべき御方の御陵墓と思われるものでありますから、ぜひなんとかして保存の途を講じたいと思うのであります。
 いろいろまだ申述べたいと思うことがありますけれども、今日はどうにも苦しうございますから、これで御免を蒙ります。
 
 
(160) 河内の古代
 
 大阪府の史蹟調査会の設立されまして、いろいろ史蹟の御調査が御進行のことでございます。デ、その催しとして今日講演会をお開きになって、私に出て一席何か史蹟に関するお話をするようにとのことでございました。しかし地方の史蹟のことは、私ども他から観察しておりまするものよりも、直接その土地におられて、現に親しくこれを調査されている方々が、お詳しいのでありまして、私はこういう席に出まして、むしろその方の智識を得たいという側のものでございます。したがって直接御当地の史蹟に関係したお話をするということは、出来難いのでございます。そこで実際にその衝に当っておられる方に対しては、いくらか御参考にもなり、また将来私どもの学問の上におきましては、その方面について有益なる材料の供給を願いたいというような意味から、御依頼かたがた、かねて河内地方について考えておりますることを、いささか申述べて、御批評を仰ぎたいと思います。
 だいたい私の学問はごく古い時代のところであります。しかるに史蹟と申しますと、必ずしも古代とは限りませぬ。ツイ近い時代まで――天誅組の事蹟のようなことまでも、皆史蹟として扱うものでありますが、私はそのうち特に古代に関した部分のみについて、大体の意見を申述べたいと思います。
 
(161)      一
 
 演題は「河内の古代」と申して、はなはだ漠然たるものでありますが、まず初めにこの河内の土地の成立、それから致して、その後その地方がどういう風に発展して来たか、どういう風にその遺蹟が残っているかということに渉って概略を申述べましょう。
 実は今朝の『大阪毎日新聞』を見ますと、この間の毎日の記者の方が何か大阪平野のことについて話をしてくれということで、ちょっとお話をしましたことが「難波堀江新大和川」という表題で掲げられてありました。御覧になった方もおありであろうと存じますが、あれがだいたいこの河内の古代の有様を説明するうえにおいて、一つの筋書になっております。御承知の通り河内の平野は、大阪からズッと続いて、低い平地であります。その地が昔は海であったろうということは、その土地の様子を見ただけでも想像が出来るところであります。河内と大和との間の境の山脈は、南北に延びて、大和の方からは勾配が比較的緩く出来ているが、河内の方は上の方が急になって、下の方で緩斜面になっています。つまり山が河内の方に傾いているので、古い時代にだんだんとそれが崩れて来て、下の方へ積まって、この緩斜面を作った。もちろんまだこのころは、人間の住んでおった時代でありますまいが、その古い時代には、この急な山の麓まで、海水が洗っている。そこでだんだん山が崩れて土が積る。山城・大和・河内の諸水が上流から土砂を流して来る。しかしてこの海が埋まって平野が出来たものであるということは、地形を見ただけでも想像が出来ましょう。もっとも土地の緩漫なる隆起が、これを手伝っていることは無論であります。しからばこの平野は、いつごろからだんだんとこういう風になったか。その有様を研究しますることは、その土地の上に遺された史蹟を調査するうえに、一の拠になるのでありますから、史蹟調査のうえにも、河内平野の成立を尋ぬることは、その出発点とし(162)て必要なことであろうと思います。しかし昔のことは書いたものがありませぬ、もちろん地図などもありませぬ、したがって詳しいことはとうてい知ることが出来ませぬ。神武天皇御東征に関する古伝説なども、どのぐらいの程度まで信じてよろしいか、これを伝える人が昔のことに想像を加えて、口うつしに語り来ったものでありましようから、時とともにいろいろと変化を来している。後の地形によって古代を想像して話をすることもありましょうから、古書に書いてある古伝説を、ただちにそのままに、太古の地理を説明するものとして、信ずる訳にいかぬ場合もあろうと思います。これは書物に書いてあることのみでなくして、いろいろと実地について、昔の遺物・遺蹟等を調査致しまして、そのものの年代から押固めて行かなければ、確かなことはとうてい判りませぬ。まず古伝説で申しますと、「神武天皇御東征の時分には、流れに遡って草香津まで来られて、胆駒山を越えて大和にお討入になろうということであった」。草香は今でも地名に残っている土地でありまして、あの地方まで――旧郡名で申すと河内郡の北部まで、「流れに遡って」とあるから、あれに大きな川があって、しかしてそこに一つの津がある、草香の蓼津というのであったと、こういうことに解釈する。流れに遡ってというのは、つまり難波津に注いだ川があったことでありますから、しばしば世人の解するように、この草香の辺りまで海であったという意味には解することが出来ませぬ。しかし難波江というのは、古い言葉であります。難波のあたりには大きな入海があった。その入海がどの辺りまで来ておったか、これはよほど興味ある歴史地理学上の研究問題であります。地形は年代によってだんだん変って来ます。今の西成郡の北の方に江口という所があります。今では海からよほど隔っておりますが、しかし江口という名がついているのは、ある時代には難波の江口であったと解釈が出来る。平安朝ごろまでもあそこは一の港として重要な場所でありました。ズッと古い時代に遡って考えると、この大阪平野の全体が、水をもって蔽われておった時代があったには違いない。それがどうして平野になったかということについて考えてみると、それは目のあたり、今日でも盛んに大阪市の西の(163)方の部分には、陸地がなお盛んに殖えつつあるのであります。徳川時代以来に殖えた土地はなかなか広い。それは地図を見てもわかるのでありますが、あの陸地が殖えると同じような作業が、ごく古い昔から、始終続いて、それが重なり重なりして、ついに今日の平野が出来ているのであります。古い語に難波の八十島ということがある八十島とは、必ずしも八十と限った訳ではない。八十というのはたくさんということを意味する。あるいは八百万神といい、物部の八十氏などというのもその通りで、「八《や》」はたくさんという言葉でありますが、この八十島は淀川なり、石川なり、大和川なり、これらの川々の川口に土砂が堆積して、そこに多くの島が出来たのである。川口に島が出来ると水はけが悪くなって、自然と水が島の左右に分れるようになる。すなわち川に枝が出来て真中に州が出来るから、近ごろの言葉では、このような島を三角州という文字で書いてありますが、普通は三角になって来る。しかしてまた、その左右に分れた流れにもそういう風に島が出来る。だんだん川口にはたくさんの島が出来る。大変に数が多くなるから八十島という。難波江の中にたくさん島が出来た。その島の付近の浅州には蘆が生える。難波の蘆といって古来有名であります。かくてますますそこに濁水が溜る。土砂が積もる。たくさんな島はだんだん大きくなる。難波江の歌には多く葭とか蘆とかいうのが景物になっているぐらいで、「難波潟短かき蘆の節の間も」とか、「難波江の蘆のかりねの一夜故」とか、百人一首にもいくらもあります。そういう風に土砂が溜り、蘆が出来るから、そこに船の航行すべき路を示すために、標木を立てる、すなわち澪標《みおつくし》というもので、今でも大阪市の徽章はこの澪標である。「難波江の蘆の仮寝の一夜故、身を尽してや恋わたるべき」とか、これも歌に詠んだのがいくらもある。難波の澪標あるいはあ蘆というものは歌の景物になっているぐらいであります。また参議|篁《たかむら》の歌の、「和田の原八十島かけて漕出でぬと、人には告げよ蜑の釣舟」という八十島は、この難波江の八十島を詠んだもので、島々の間を船で漕ぎ出で、かの人はついに隠岐島へ流された。その道のことを詠んだものであります。昔からそういう風に陸地がだんだん出来て来る。これ(164)は神様がお造りになるのであるというので、昔は八十島祭というのが、朝廷の一の重な祭になっていた。これは平安朝ごろにも行われたが、その八十島も、時代によって場所によって次へ次へと移って行く。河内の平野も、かつてはこの八十島の時代があったのでありましょう。
 そこで河内の平野が出来た後、それがどういう風に開けて行ったかということは、それはよく判りませぬ。河内の開墾につきまして、古いものに見えておりますのは、仁徳天皇十年に、「石川の水を引いて、上鈴鹿・下鈴鹿・上豊浦・下豊浦の四箇所の土地を開墾して、八万|頃《しろ》の田地を得」とあります。上鈴鹿・下鈴鹿は今よく知りませぬが、豊浦は今でも地名に残っている。この辺まで石川の水を引いたということは、少し地理が合わぬようでありますが、あるいは大和川が、もとほ河内川すなわち石川を本流と見て、大和川と合うて後の北の方までも、やほり石川といっておったのかも知れませぬ。今の中河内郡の東北の方すなわち元の河内郡に、豊浦という村があります。この場所であろうと思う。それから同じく仁徳天皇十四年になって、石川の水を引いて感玖《こんく》に溝を造って、灌漑の便を図られた。感玖は元石川郡にある地名であります。かく感玖なり豊浦なりの土地を開いたということについて考えてみますると、これらはいずれも山麓の高地で、まだそのころにはあまり低い平野の地方までは手がつかずして、山に近い、比較的高い処をだんだん手をつけて開いて行かれたようであります。それから北の方でほまた茨田の堤――今の太間辺りがたびたび切れる、――淀川の洪水でよく切れる。それで、天皇は茨田の堤をも築かれた。これは仁徳天皇大工事の一であります。堤を何度築いてもすぐ切れる。これは河の神が崇りをするのであろうから人柱を入れるとよろしいという訳で、衫子《ころもこ》・強頸《こわくび》の二人を連れて来て、人柱として入れることになった。ところで武蔵の人の強顎は、仕方(165)がなく泣きながら水中に沈んで死んでしまったが、河内の人の衫子という方はなかなか強い人で、いたずらに死ぬのは残念である、一つ河の神と談判してみようというので、河の神に向うて、今瓢箪を水に投込むから、お前が其の神ならば、この瓢箪を沈めてみよ、沈めたなればわれ衫子は神のために人柱に立つが、もしこれを沈めることが出来なければ、どうせ役に立たぬ偽の神であると、そういって、瓢箪を投込んだが、沈まなかった。それで衫子は人柱に這入らずして済んだ。それでも工事は立派に出来た。そういうことが『日本紀』に出ております。茨田の堤の工事も大きいものであったでありましょう。しかしこの時代に一番大きい工事は、今朝『毎日新聞』に出ておりました難波堀江であります。難波堀江を掘った時の事情を『日本紀』に書いてあるのを見ますると、だんだんと河内川の川口の水はけが悪くなって、少し長雨が降ると、たちまち平野に水が溜って、人は水中を歩かなければならぬ。まことに憐むべき状態であったから、難波の堀江を掘って河内川の水をただちに西海に引いて、上流の地方の田地をよくしょうというのが目的であった。難波の掘江の場所については、いろいろ異説がありますが、これは今日の天満川であることは、諸種の研究上間違いない。そうして見ると天満川の左右すなわち南北は、もと陸続きであって、その間に堀割を造った。それで、難波堀江に通じた川は河内川だとあるから、これは南河内から出ている石川が、下に下って、ここへ流れることになったのでありましょう、今その辺りの様子を考えてみると、東北からは淀川が来ている。東南からは大和川が来なければならぬ。しかして河内川は堀江に来ている。これは昔から今まで、はなはだしい川筋の相違がありますまいと思う。その大和川が河内の低い土地に出て来れば、必ず河内川と合併しなければならぬ。そしてその合併もやはり大和川といわずして河内川といった。前に豊浦の地を潤したところの石川も、やはり大和川と一緒であった川に違いない。昔はこれをやはり河内川とも石川とも呼んでおったのでなかろうかと思います。いずれにしても、仁徳天皇当時の様子を考えてみると、天皇難波高津の宮を今の大阪城の場所、すなわち上町《うえまち》の高台の北部(166)に営まれて、それから高台の北に広い陸地が出来ておって、その陸地の北の方を、大廻りして大和・河内の諸水が流れている。そこで北に迂曲するから、自然と水はけが悪い。ために河内の地方や、東成郡・住吉郡などの地方は、洪水の害が頻々とあって非常に困難したに相違ない、そこで天満川を掘割って、南水を直に西へ通す、こういう風に遣られたものと思われます。かくて東の方では下豊浦・上豊浦に疏水を設けて、何万|頃《しろ》という広い田地を得た。また北の方では、茨田堤をも築いて洪水の害を除いたという次第で、当時大分人口も殖えておったことらしい。しかしまだ平安朝ごろになっても、河内の郡なり郷なりの配置を見ますると、やはり東方の小高い地方に多くあって、低い平野の地方には、割合に人が多く住んでいなかったようであります。人があまり多く土地を利用するまでに至らなかった。そこの様子を、少し観察してみたいと思います。
 
       三
 
 いったいこの郡というものは、今日と昔とは大分様子が違っております。今日ではよほど物が大きくなっているのみならず、なるべく各郡の実力を同じくしよう、行政の便宜上たいがい似寄ったものにしようというので、いろいろ廃合を加えた結果、非常に大きな郡や、小さな郡があるというような、差別が少くなりましたが、昔は著しく大小不同なものであった。地理上の状況に基づき、また歴史的の発達に基づいて、この区別が出来たものである。ある土地には同一発達をなした部落がある。それを他のものと一緒にするのは具合が悪いというので、ある特別の郷土の歴史を保存するために、小さいままの郡もある。有力なる国造・県主などの領分であったところは大きい。また山や川に限られて、おのずから区分されたこともある。それがために、大小不同の場合が多いのではあるが、河内のような平野の多い、しかも国の小さいところにおいて、郡の数が非常に多かったということは、注目すべきことでありまして、(167)奈良朝すなわち今から千二百年前において、河内の郡は十四郡であった。平安朝の時代になると、この昔の丹比郡が丹南と丹北とに分れて、十五郡になった。後にさらに八上郡に分れて、最近まで十六郡であった。今では合併して三郡になっているが、それまでは十六郡になっている。かく多くの郡に分れていたのを見ると、古くから比較的によく開けて、田地や人口が多かったことと解せられる。それで河内は、国は狭いが、等級は大国であった。またその郡の廃合を見ると、他には変動なくして、丹比地方がもと一郡であったものが三郡になっている。これは中世以後に、その地方が著しく発展して、田地がズンと多くなり、人民がはなはだしく増加したことを示している。その他にはそう郡の分れた所はない。ひとり丹比郡が平安朝に二郡になり、その後さらに三郡になったのは明かにだんだんその地方が開けて来たことを示すものでありましょう。ところがこれと反対に、奈良朝以前には、今はわずかに竪上村・堅下村と二ケ村になっている大県郡が、元は二郡であった。これが養老四年に合併して大県郡となった。元は堅上郡・堅下郡となっておったものが、今はわずかに村名として残っておって、これが養老四年に合併している。昔から合併するのは類が少い。郡を殖すすなわち郡を二つなり三つなりに分割するのは多いのでありますが、堅上・堅下が養老四年に合併しているのは、奇体な現象であります。つまりその地方は二つの郡を立てる必要がなくなったのである。堅上・堅下も元は一つの大県であったのが一時二つに分れたのも、これを養老四年に合併した。これはその地方が衰えて来たことを示しているのであります。しかのみならず、ここにはなはだ奇体な現象があります。私はこれを養老五年ごろのものと考定しておりますが、奈良の東大寺の塔中の東南院と言う寺に伝わっている『律書』残篇中に、そのころの国郡の記事を収めたものがあります。これで見ると「河内の国は、郡の数が十四郡、郷の数が九十六郷」とあります。昔は郷の大きさは一定している。郡は大小、はなはだ不同でありますが、郷は大きさが一定している。五十戸をもって一郷としてある。中には少々ぐらい多くても少くても一郷にすることもある。だいたいに一郷は五十戸を(168)もって標準としてある。河内は十四郡九十六郷でありますから、戸数わずかに四千八百で、大変少いようでありますが、昔の一戸は今日と違って、戸内の人口がはなはだ多い。まず奈良朝前後の戸籍を見ると、少いのでも一戸に十二、三人いる。多いのになれば百五十幾人、というのがある。今日伝わっているのは、大宝・養老ごろのものでありますが、地方によってまた時代によってそれは違ったものもありましょう。平安朝になるとかえってその材料も少くなっているが、讃岐のことを書いたもの、菅公の讃岐守であったころに書かれたものに拠ると、当時の讃岐の人口は八十九郷二十万口とあります。仮に九十郷とすると、四千五百戸に二十万人いることになる。一戸の平均四十幾人となります。菅公ごろの讃岐は一戸に四十幾人である。讃岐は今では人口稠密であるから、そうなったと思うが、奈良朝ごろの九州なり美濃なり、あるいは東国なり、の戸籍を見ると、一戸の平均約二十人から二十四、五人になる。そうすると河内は九十六郷で、一郷五十戸として割出すと、四千八百戸で十幾万という人口があった訳である。ところが、これは奈良朝の初めごろのもので、平安朝になってはかえって減っている。平安朝ごろの郡郷のことを詳しく書いた――源順の著の『和名抄』に書いてあるのを見ると、河内国は丹比が丹南・丹北と分れておって、この方面には盛んになったが、全体において八十郷になっている。すなわち十六郷減っているのでだいたいに約二割減っている。奈良朝の方が二割多かった。これはまことに奇体な現象で、もっとも他にもこんな例はありますけれども、河内のような、こういう都近の所で平地の開けている地方において、奈良朝よりも平安朝になって二割減った、というのはいかがでありましょう。一郷五十戸は定った数でありますから、これは戸数が減じて郷を合併したと解すべきもので、私はその理由を一つ考えてみたいと思います。
 それについて思い合せますことば、奈良朝の終り、平安朝の初めの間になる、延暦七年という時に、摂津職の大夫――今日で言えば大阪府知事ですが、和気清麻呂という皆さんお馴染の有名な、その和気清麻呂が摂津職の大夫であ(169)った時分に、天王寺の南の所で、上町の丘陵を東から西へ掘割って、河内川の水を西に取ろうという大工事を起したことであります。すなわち天王寺の茶臼山の東に当って電車路の低い所がある。あれが和気清麻呂が掘った堀江の蹟で、古い地図には河堀口とある。今でも町の名に残っている。その西の方には茶臼山の池があって、公園の所に続いて低くなった所がある。あれが延暦七年に掘ったもので、丘陵の東から、茶臼山へかけて、東から西へ掘付ける考えであった。ところがその当時設計が悪かったか、費用が不足であったか、ついに出来上らなかった。二十三万人の工を役して、ついに出来なかったと書いてある。和気清麻呂ともある人がなぜそういう無鉄砲な工事を始めたか。二十三万人の工を役しても出来ないような非常な大工事を、なぜ始めたかということを考えてみると、こういうことに解釈が出来る。初め淀川・大和川・河内川等の川口にだんだん八十島が出来て、それが連続して平野が出来た。そうなると人も住みましょう、米も作りましょう、しかし次第に川口の水はけが悪くなる、上流に水が溜って来る。それで仁徳天皇の時に難波堀江を掘らせる必要が出来て来た。これで河内川の水が直に西へ通りましたから、いったんは上流の地もよほど善くなったが、長い間に堀江の下にも次へ次へと八十島が殖える。川床は浅くなる、再び水はけが悪くなった。この仁徳天皇の堀江は、初めは河内川を西へ取るためであったが、それが淀川の分れと一緒になって、堀江川と称することとなった。しかしてその川は山城に接続している。難波から山城へ行く時分には、この堀江川を通る。仁徳皇后磐之媛が山城へ行かれるに堀江川から行かれたことを伝えている。後には紀貫之が土佐守となって、年限果てて帰って来る時分にも、掘江川から船で上っている。貫之の時分には、川床が浅くなって、船底がひっ付いて動きにくい。これは『土佐日記』に書いてありますが、平安朝ごろには以前よりもなお川尻が浅くなったものと見えます。次第に水はけが悪くなって、いったんせっかく田地になったものも、いつしか再び水溜りになる。こういう形勢になったものと見える。和気清麻呂が非常な大工事を起そうということになったのも、仁徳天皇の難波堀江だけで(170)は間に合わなくなった、その形勢を見て、ぜひこれはどうかしなければならぬという必要から、この難工事を起すに至ったんでありましょう。ところが力及ばずしてついに出来なかった。それで平安朝時代になっては、ますます水害が多くなって、はては郷の数も、人口の数も二割余も減って来ることになったと思われます。平安朝においてすでにしかり。それからだんだん年代が経つに従って、この傾向はますますヒドクなったことであろうと思います。もっとも後世拓殖は次第に進んで、殖える所は大いに殖えたから、全体として田地や人口は大いに増したでありましょうが、ある所では前よりも減ったことと思われます。
 古代の河内という演題で新しい時代のことを申すのは、似つかわしからぬことでありましょうが、古代のことの説明上、一つ新大和川の開鑿のことを申してみたい。唯今展覧会場で拝見しました新古大和川の元禄十六年の図を見ても解る通り、元禄のころにはたびたび洪水があって、玉櫛川であるとか吉田川であるとかいう川々の堤が再々切れて、どの年にはどこそこが切れたとか、一々その切口を図上に表わしてあります。ほとんど毎年続いて切れる場所もある。昔からそうであったのでなく、だんだんとそうヒドクなったのでありましょう。神武天皇御東征時分には、草香の蓼津まで流れに遡って行かれたとあります。果して神武天皇当時の地理がこうであったか、後奈良朝ごろの人が、その当時の地理を見て、大昔のことをかく語り伝えたものか、そこはどうかよくほ判りませぬが、ともかくかつては草香まで川があったのが、徳川時代の初めごろには、ここに深野池という、東西二里、南北二里という大きな湖水が出来た。そこにはたくさん漁村があって、魚を捕って生計を営むものも出来ている。東西二里、南北二里というといかにも大き過きるようでありますが、元禄十六年の地図を見ても、ほぼその通りであったことの想像が出来る。貝原益軒の『諸州廻り』にも出ておりまして、今や中河内郡の東北部から、元の讃良郡茨田郡の一部に渉って、大きな池になっておった。これはつまり大和・河内の諸水の川口の水はけが悪くなったためである。もっともこれは、元からいく(171)らかあることはあったのでありましょう。流れを遡って、この深野の池まで神武天皇がお出でになったという伝説だったかも知れません。しかしそれが、後世大きくなったものと想像する。また昔の勿入淵《ないりそのふち》、歌などによく詠んでありますが、貝原益軒の『諸州廻り』にはこれを内助ケ淵とあります。それを先刻拝見しました展覧会場に拡げてある図を見ると、その図がよほど大きなものとなって、もはや淵ではなく、新開池と書いてあります。すなわち新たに開いたもので、元禄ごろには、もと勿入淵であったものが、水はけが悪いためにこれを開かなければならぬ、すなわち大きな池を新たに開かねばならぬほどの必要に迫られたのであります。何分にも和気清麻呂が延暦七年に失敗して以来、千年近くもなりますから、下流の水はけが悪くなって、小さい池であったものも大きくなりましょう、水の淀む淵であったものもついに新開池にしなければならぬようなことになりましょう。あの地図で見ると、新開池はなかなか大きかったものらしい。益軒の『諸州廻り』には、内助ケ淵は八町四方とあるが、あの図で見るとなかなか大きいのであります。かく大きな池が二つまでも出来てもまだ毎年毎年洪水が続いて、どうしてもなんとかこれを救う工事を行わなければならぬというのっぴきならぬことになって、ついに英断をもって真直ぐに水を西海に通すようにした。これすなわち宝永の新大和川であります。千年前に天王寺の南に堀割を造りかけて、大きい規模で遣りかけて失敗したのを、宝永元年に至って、さらにさらに大規模でもって、これを解決したものである。それがために元の大和川なり、玉櫛川・久宝寺川なり、勿入淵・深野池などというものは、みな立派な新田になって、河内は今日見るような、耕地に富んで結構な農業地となりました。これは新しい時代のことでありますが、これを昔に遡って考えてみますると、仁徳天皇当時の様子も想像出来ましょう。また和気清麻呂が天王寺に堀江を掘ろうとする必要に迫られた事情も察することが出来ましょう。つまり河内の古代は、だんだん入海の中に堆積した州から成立って、ついに平野が出来たが、河が下の方でだんだんはけ口が悪くなってしまったために、水溜りになる。しかしそれを疏通すると大変よくなる。(172)すなわち千五百年前に仁徳天皇一と度これを試みて成功し、千年前に和気清麻呂これを再びして失敗した、三度目に宝永の新大和川疏水によって面目を一新した、というのがだいたいの河内の形勢であります。それをさらに詳しく調査しまして、いつごろどの辺りが田地になったとか、どの辺の拓殖が古いとかいうことば、これは考古学上の遺蹟調査によって定めて行かなければならぬ。古代の墳墓とか、古い屋敷や寺などがありますならば、そういうものを尋ねて、これを便って行かなければならぬ。しかしてそういう遺蹟の古いものは大概丘陵の上とか、山の半腹とか、麓とかにあって、低い平地にはないといってよいぐらいであります。まだ私はこの辺の実地調査を詳しく致しておりませぬ。ただ物好きに二、三回歩いたぐらいでありますから、これはこの地方の史蹟調査委員のお方々の調査を俟って私どもの方の研究材料に致したいと思うのであります。が、さてその古代の遺蹟調査については、先刻長南君の述べられたように、河内の調査は大変に面白い。その調査は河内そのものの古代を明かにするために、すなわち地方のために研究が面白いばかりでなく、一般学界のために有益な材料を河内は少からず提供している。この方面の研究は、私どもの専門として研究している歴史地理学上に、よほど好材料を与えるものであります。これは地方の方においても、十分御研究をして戴きたいことであります。
 古代の遺蹟として調査しまするものは種々ありましょうが、まず日本でほ古墳が重なものである。これが一番重要な材料となる。あるいは寺跡であるとか、宮址であるとか、古代遺蹟は種々ありましようが、日本では古代の建築物は蹟が残らぬ場合が多い。中央アジアであるとか、アッシリアであるとかいう所では、石や煉瓦でもって家屋その他宮殿を建築するから、二千年、三千年前のものでも残っているが、日本では木材をもって家を建てる習慣がある。(173)古い言葉に、「底津磐根に宮柱大敷き、高天原に千木高知る」とある。いかにも荘厳の言葉であるが、実は礎石も置かない、掘立小屋式の建築である。普通の民屋は、「東路《あづまぢ》の埴生《はにふ》の小屋のいぷせきに古郷如何に恋しかるらん」の歌の通りで、柱も土から生えている、掘立小屋であります。ために昔の村落部邑という所は、何も蹟が残らない。初めてシナの文物が這入って、日本に寺が出来る。それから後ようやく、寺の礎石であるとか、廃瓦などが残るようになった。ためにここは寺址である、ということがわかる。またその瓦の模様が、時代によって多少の変遷があるから、この寺はいつごろの寺であるとか、あるいは礎石の配置を見て、これは塔であるとか、これは普通の金堂であるとか、講堂であるとか、ということを知ることが出来ます。一説に交野行宮遺址として伝えられておりまする禁野の百済王神社付近の遺蹟のごときも、瓦もあります、立派な礎石も多く残っておりますが、今最も完全に残っているのは、確かに塔の礎石であります。真中に大きな塔の心柱の礎が残っている。あれは実物の研究上からどうしても塔であったに相違ない。すると元は寺であることが判って来ます。書き伝えたり、語り伝えたものにはいろいろありましょうが、あの礎石の中央の所にある礎を見ますればこれは確かに塔である。近ごろの塔になると心柱が宙に浮いているから、心柱の礎石というものがない。だんだん建築が進んだものであるが、昔の塔は大きい礎石が真中にあって、柱を嵌めるように孔を穿ってある。あるいは柱形が上に出ているのもありますが、まずその孔の中に心柱を嵌める、その作り方が一見して解るのであります。あるいはもと交野の行宮址が、寺となったと説明しましょうか。それはさらに瓦の紋様などで、だんだん実地の研究上推定が出来るのであります。しかし世に伝うる寺跡など称する遺蹟は比較的新しいのが多い。仏法の這入ったのが欽明天皇の十三年、それから以後、聖徳太子・行基菩薩などの建立したというものは多いのでありますが、往々後の付会で必ずしもその時代の証拠とならぬのが少くない。ところが古代の日本人は墓をたいそう大きく造る習慣があった。墓を造るがためにほとんど財産を蕩尽するまでに骨を折った。ために孝徳天皇(174)の大化の時分に、墳墓制限令が出て、身分によって墓の大きさを定めている。民が貧乏するのは、競争して大きい墓を造るからだというので、これを制限された。それぐらい費用をかけなければ出来ないものであるから、とても微力のものでは造れない。財産を蕩尽するほどに骨を折って造るのでありますから、したがって大きなものが出来る。それが後世までも保存される。その墓の中には生前の遺愛の品が、惜し気もなく副葬されてある。今では曲玉一箇五万円だなどといわれるものまでも、惜し気なく投込んである。その時分において、すでに貴い宝物になっておったものでも、死者の所有品は惜し気もなく、その死者に従わしめたものと見えます。この曲玉に作った瑯※[王+干]などの硬玉は、日本にある石でなく、当時でも非常に貴重なものであったに相違ない。朱のごときも、日本にも出るには出まするけれども、多くは舶来品である。それをも惜し気もなく詰め込んである。また鏡のごときも大部分舶来品である。交通不便の世に命がけでシナから舶載したもので、大変に貴重なものであるが、それをも惜し気もなく中に埋める習慣があった。これは古代の事情を知るうえに好い材料を残してくれたものであります。また墓の造り方によって、ほぼ時代の前後の想像も出来まするし、またその分布を調査して、民族移転の関係を想像することが出来る希望もあるのであります。
 さて、古代墳墓の造り方から申すと、まずここに先年南河内の小山村から発見された大きい石棺のある塚がある。河内地方に最も多い前方後円の墓の一でありまして、応神天皇陵でも、仁徳天皇陵でも、あの前後の時代の墓は、多くこの形式になっております。その塚には通例埴輪が列をなして樹てられてある。形は必ずしも前方後円には限らず、円いのもありますが、埴輪がある方はやはりこの部類に属する。また屍体を蔵める穴すなわち墳も、上から縦に穴を作ってその中に棺を蔵める。こういうことになっている。それよりも後の代の墓になると、叡福寺の聖徳太子のお墓などのようにもはや前方後円でなく、塚全体を円い山に拵えて、横から隧道で通ずる壙を設けて屍体をその中に(175)葬むる。中河内の東の山麓なる服部川・千塚などいう地方の多くの古墳は、たいていこの形式に出来ております。これらは各地に多いもので、時代はだいたいにおいて小山のなどよりも新しくほぼ時代の想像が付け得らるるものでありまする。ただし実を申すとまだ今日では、古墳の年代をこまかく極めるまでは考古学が進んでおりませぬので、ただ大体において、小山の塚のような、また応神天皇陵のようなのは古い。横から穴の開いている聖徳太子のお墓のようなのは比較的新しい。だいたいこう申してよろしい。しかし、ただ古い新しいといっても、それが果していつごろかということはだんだんと研究しなければならぬ。しかして河内には年代の標準となるべき好い材料をいくらも提供している。実はあまり大きい声で言うことを憚るのでありますが、古墳の年代は容易にきめにくい。さらに進んでこれは誰の墓だというようなことほ、容易に判るものではない。ところがこれまでの人は往々にしてこれを軽々しく言う。誰の墓か知りたいという人情がこれを言わせるのでありまして、私どもでも常に出会うのは、この種の質問です。この墓は誰のでしょうかと聞かれる。今日も、小山の塚は誰のかと二度も聞かれましたが、なかなかそう判るものではない。それで今日世間でこれは何某の墓であるとか、これは何誰の御陵墓であるとか定めてあるものでも、確かにそれに間違いないという、積極的の証拠のあるものは割合に少い。しかるに河内なり、和泉なりには、幸いにも大変に古墳が多くて、しかもそれが確かな間違いのない、その年代の標準になるべきものが多いのであります。確かに間違いのないものは、ほとんどこの河内和泉地方に集っているといってよいぐらい。不思議にもそうなっている。応神天皇の誉田陵、仁徳天皇の百舌鳥耳原中陵、履中天皇の百舌鳥耳原南陵などは、古い形式の標準として年代も精確なものであります。また新しい形式の方になると、聖徳太子の磯長墓。これも昔から伝えているから、決して誤りはない。聖徳太子のは御承知の通り、横から壙穴に通ずる。仁徳応神ごろのは前方後円で、上から壙がある。だいたいこう見当がつきますれば、さらにこれを細かく研究して、副葬品の比較などをも十分にやって行くと、その間を繋ぐこ(176)とも出来ましょう。
 この横穴式の墓についても、河内には非常に珍しいのが多い。河内はこれだけ古来都に近い所でありながら、考古学上の調査が後れている。最近三、四年前までは、あまり学界から注目されなかった。不思議にも河内の研究は忽諸に付せられておったのであります。お隣の大和についてはつとにこれを取調べた人もありましたけれども、河内の方は後れていた。ところがこの三、四年来、私どももしばしばまいりますし、河内の軽墓の人で、梅原という特志の青年が、土地の遺蹟のことに注意し、だんだん学界に紹介されることになりまして、いろいろと調査をしてみますると、他において類例の少い、珍しい形式の墳墓が続々発見されました。まず北河内におきまして、打上というところの石の宝殿と称するものなどは類例のきわめて少い墓であります。これはこれまでただ一つ大和にあった、欽明天皇の御陵の傍にあって、『名所図会』に鬼の雪隠とか鬼の俎とかいって出ているのが、すなわちこの打上にある石の宝殿と同一のものであります。打上のは下に台があって上に大きい石を中を切り取ったもので蔽うた、横穴式の大きな石棺であります。かくのごときものも俗には石棺といいますが、実は学問上では石棺とは申されませぬ。しかし通俗に言えばまず石棺で、その石棺の蓋をひっくり返したのを大和では鬼の雪隠といい、その台が鬼の俎というのである。もとこれはどういう訳のものかと、いろいろ想像してみた説もありましたが、打上の石の宝殿が、スッカリ完全に残っているのでよくわかりました。また貴志の付近には俗にお亀石という、これも面白い一大石棺がある。また飛鳥・春日辺りへ行きますと、観音塚とかいうような、やはりこの系統に属する立派なものがあります。またかの羽曳山、徳楽山にも、横に穴の開いた石棺があります。近ごろ修築しました上の太子叡福寺の奥の山田にある、俗に山田麻呂の墓だなどといっているものと、同系統で、しかも多少変ったものであります。かくのごとき石棺は河内には多く類例がありますが、他にはほとんど見ない。まず似寄ったものでは、私どもの狭い見聞で、伊豆の国の長岡でタッた一(177)つ見たぐらい。これは面白い関係で、河内にある特別のものが伊豆国にもある。また昨年でありましたが、やはり山田で発見されました前方後円の塚から、一種違った造りの壙があらわれまして、その中に大きな石棺があった。これらも珍しいものであります。かく河内にはことに種々の形式の変った古墳が多いということは、注意すべきことであります。単に珍しいというばかりでなく、何故にかく変ったものが多くあるかということについて考えてみると、それはあるいほ古代の河内を明かにするうえに、好き材料を供給しているものかも知れぬと思います。
 いったい墳墓はどういうなのが古い式かと申すに、シナではやはり日本のと同じように、竪に穴を掘ったのと、横から隧道を造ったのと、この二通りある。この隧道をこのごろではもっぱら羨道といいますが、この墓に這入って行く道を昔は隧と申した。隧を穿って墳に這入って行く。この隧を設けることは、昔は王者の章といって、天子でなければ造ることは出来ぬ。以下公卿大夫ら、皆竪に穴を掘る。今日では、横壙を造るのは琉球ばかりで、あとは皆竪の壙ばかりでありますが、シナの昔においては王者のみ横壙を作った。ところが周の世が衰えて、いわゆる春秋となった時に、晋の文公が周の帝室に功績があるところから、どうか墓に隧を造らせて貰いたいと願った。ところがさすがに衰えても天子は天子で、隧は王者の章なりといって断られた。これは大変な美談としてシナに伝称するところであるが、日本にはこの王者の章が、到る処にある。服部川のみにでも今日三百や四百はある。シナでも、高句麗などでも、横穴の墓はたくさんあるが、それは一般に秦・漢以後のものであろうと思う。春秋時代にはまだ、王者の章なりというて天子が許さなかったが、戦国になるとそこにもここにも王が出来て来た。楚でも、趙でも、韓でも、斉でも、なんでもかんでも皆王を僭称して来た。『孟子』を読んでみても、梁の恵王とか斉の宣王とか、王が多い。それが皆王者の章として、隧を造る。これ以来墓制は乱れてしまったものと見えます。日本に横穴式の墓が出来たのは、やはり王者の章が乱れて、一般に行われるようになってからのことで、高句麗《こうくり》すなわち朝鮮の北部の国、あるいは新羅・(178)百済などと日本と頻繁に交通しておりますが、その高句麗辺りにはつとにそういう式の墓を造っている。それらの風がだんだん日本に輸入されて、これは便利であるというので、次第に多く真似するものが出来たものでありましょう。日本古式の竪穴のものには普通に埴輪がある。横穴式のものには普通に埴輪はない。埴輪のあるのほ古い方で、円塚であっても、前方後円であっても上から墳を掘り下げる。これが普通の形式であります。たまに除外例はありますが普通の形式はこれであります。後の横穴式の方になると、埴輪はなく、しかも円塚になっているのが普通である。これはシナの制度が乱れて日本に舶来したものであるが、日本では、豪い人でなければ、墓は造れない。第一莫大な費用が掛るから、貧民が墓を造られる訳ではない。孝徳天皇の時に墓を喧しく制限して、庶民は墓を造ることを得ずとある。ただ地を掘って平に埋めるだけで、墓というものは造られない。われわれは今日ではただ死骸の這入っている所を墓というが、昔の言葉ではそうでない。塚を作り墳を設けた、山ある形式を具備するものでなければ墓でない。だから庶民は墓でない所へ葬る。それから後になりまして、文武天皇の大宝年間に、「大宝令」が発布された。それにば墓を造ることの出来るものは、位では三位以上と定められた。近ごろは三位以上の人も大分出来ましたが、昔は大変少い。『公卿補任』を見ても、その顔振れはごくわずかしかない。その三位以上のものでないと墓は造れない。四位以下では造れない。これは先祖の墓に合葬をするのでありましょう。四位以下でも単独に墓を造ることの出来るものは氏の宗すなわち本家の主人と、モウ一つは別祖、すなわち新たに分家して一戸を創立したもの。すなわちその本家の主人なり、分れの祖先なりは墓を造ることが出来るから、その一族や、家族は、やむを得ずこれに合葬する。一つの壙にいくつもの屍体があるのが多く、また、一つの墓にいくつも壙のあるのもある。庶民で死んだものは葬ることが出来ぬ。単に埋めっぱなしか、普通には、山野に棄ててしまったこともあったでありましょう。あるいは屍体を焼いて、灰にして棄ててしまう。この場合にも、その遺骨を墓に納めんと欲するものは納めてもよろしいが、一般(179)のものは単独に墓を造れない。そこで横穴式の墓が大変に都合がよい。何人死んでも火葬さえすれば、その穴へ蔵められる。一軒に墓が一つさえあればよい。服部川あたりにある千塚はその多数は豪家が一軒に一つずつ持っておったものでありましょう。琉球では今でも一軒に墓が一つずつしかない。横穴式の墓である。しかし琉球では火葬をせぬから、棺に納めてかりに葬って置く。一年ばかり経つと腐ってしまうから、今度は出して椅麗に洗って――骨洗いをして、それを墓の中に納める。場所を取らぬから何人でも這入る。琉球の墓はこういう風で、その精神においてはわが横穴式古墳と一つである。そういう都合で、横穴が大変具合がよいから、この風が流行しまして、各地にその数が多い。河内にもことに多いようでありまする。これは昔あれだけの墓を造るほどの有力者がたくさん住んでいたことを示しているもので、古くから狭い地方に十四郡、十五郡という郡が出来ているのも、この墓の数を見て解釈できる。この中河内・南河内・北河内郡の中でも、服部川・千塚・道明寺山、それから旧安宿郡・古市郡地方の山の手には、到る処に墓があるといってよいぐらいたくさんある。かくたくさん墳墓のあることは、河内の古代は盛んなものであることを示すもので、その年代も将来古墳の研究が進んで行きましたならば、ほぼこれを定めることが出来ましょう。どの時代にどの地方が発展しおるかということも、次第に判って来るでありましょう。
 まず大体、今申したような具合で、応神天皇・仁徳天皇などの旧式、聖徳太子式の新式、双方あって、大化以後、やはり同じ新式の方が多く行われたのでありまして、これによってほぼ拓殖進歩の見当も付いてまいりますが、また中から出る品物によっても、どういう墓からはどういう品物が出る、ということに注意し、品物からだんだん比較研究が進みますれば、次第に物が判って来る見込みがあろうと思います。あるいは曲玉が出る、あるいは金鐶が出る、鏡が出る。あるいは土器・刀剣等が出る。これらはどの墓からでも、必ず同じものが出るという訳ではなく、これもだんだんと多く類例を求めて研究してみましたならば、ほぼ年代の前後を知ることが出来ましょう、と思います。同(180)じ鏡にしても、時代時代によって、多少形式の相違もありましょう。その方の研究が進んで来れば、これから年代を定めて行くことも出来ましょう。日本では昔から鏡を造ることの伝説があって、三種の神器の一になっている八咫御鏡は、石凝姥命が天照大神巌戸籠りの御時に、造ったということになっている。しかしあれは高天原でのことで、この日本の土地ではない。高天原から伝来した鏡である。その後の鏡も、シナ製のものを伝来したのが多い。日本で造ったと思われる古い鏡はまことに少い。玉は日本で造ったに違いないが、古い鏡の方は判りませぬ。日本から出た鏡で、今日われらの研究台上に陳ねられるものは、皆墓から出る。今日の展覧会場にも立派な鏡が出ているが、ああいう類の鏡は一般に漢式鏡といっている。鏡の形式は前後に著しい相違があって、隋から唐のころの鏡を一般に唐式鏡といい、漢魏六朝ごろまでのものを漢式鏡といっている。漢式鏡といっても、前漢・後漢のものばかりではありませぬ。それから西晋・東晋のものも南北朝ごろのものも、やはり漢式鏡といっておりますが、墓から出るのはこの漢式鏡に限る。日本がシナと盛んに交通した年代を取調べてみますと、伝来した年代もほぼ想像される。日本から使を遣ると、そのお土産に鏡を貰うて帰る。昔九州におりました豪族が、二千年も前のことですが、前漢・後漢から三国時分の魏などと交通する。九州の女王がシナに交通したことは、シナの歴史に書いてあるが、日本朝廷の方では南朝の方へ交通を開かれた。応神天皇が使を呉《くれ》に遣わされたことは日本の歴史にも、シナの歴史にも書いてあって、両方とも一致する。呉《くれ》はシナの南朝で、今で言うといわゆる南シナ、昔の言葉では呉《くれ》といった。揚子江以南の地方である。これは呉《ご》という字を書いて「クレ」と読みますが、昔三国の時代に、北に魏がある、南に呉があるから、その呉の地方を後までも呉といっている。これは日本ばかりでない、朝鮮がそう書いている。それは日本では真似をした。その呉の後に起ったのが東晋、それから宋・斉・梁・陳と引続いて国が起っている。これを日本ではクレといっているが、つまりクレは西の国ということで、日本は東方の朝《あした》の国である。これに対して西の方のシナは暮の国である。聖徳太(181)子の国書に、日本を日出処、シナは日没処とあるが、朝と暮との語を、体裁よく翻訳したのである。そのクレの国と交通をしたのは、日本の書物では応神天皇が初めで、それから仁徳天皇の時にも呉の使が来り、雄略天皇の時に呉へ使をお遣わしになっている。このことは『日本紀』に見えているばかりでなく、シナの書物にもやはりそう書いてある。これは間違いのないことである。そこで日本に来ている鏡は、シナにある漢式鏡のあらゆる形式のものが来ているかというに、そうではなく、日本に来ているのはシナ漢式鏡中の部分で後漢や魏のもありましょうが、おそらくクレすなわち南北朝ごろの、南シナの方から来たのが多いのであろうかと思われます。近ごろシナ鏡の研究も進んで来ておりますから、将来十分シナにある鏡と、日本から発見されるものとの比較研究が進んで来ましたならば、古墳の年代もそれからいくらか定めることも出来ましょうし、日本とシナとの交通した年代も、どういう風に交通したか、記録に書いてない、歴史に書いてない部分が判って来るに違いない。いずれ双方の間に貿易が行われたに違いないが、それらは実物のうえから定めることが出来るでありましょう。もちろんこれらの研究は考古学に俟たなければならない。その考古学上の研究には、先刻長南君がお話をされた通り、河内は最も面白い材料を供給している。
 それにつきまして私がかねて感じておりますのは、河内にはいろいろの帰化人がいた。シナ人・朝鮮人の有力なものが古来多く住んでおった所である。これは私は、河内にいろいろの形式の墳墓があることと関係があるのではなかろうかと思う。まず地名によっているのを見ると、『和名抄』に郷の名前に、錦部郡に百済郷があって、百済人が一郷をなしている。大県郡に高麗郷があって、高麗人が一郷をなしている。若江郡にも高麗郷というのがある。茨田郡には秦郷というのがある。今の羽田とか、太秦とかはその地で、秦の始皇帝の子孫が連れて来た人民の住居地だという。そういう風に地名にも百済郷とあり、高麗郷が二つもあり、秦郷などが残っている。百済の王仁の墓が北河内にありますが、王仁の子孫は河内の史部というものになっている。史部すなわち記録掛には、そのほかに、漢の霊帝の(182)子孫阿知使主が、大和の史部となり、モウ一つ王宸爾の子孫が、やはり史部で、記録掛の役をやっておった。この王宸爾の遺蹟が、今の交野の行宮だと称する百済王神社と関係がある、と称せられている。しかしその一族は大分南に移っていったようで、その子孫の船氏・藤井氏・津氏は多く南河内の古市郡・丹南郡地方におった。今の藤井寺は藤井氏の氏寺で、羽曳山はこの船氏・藤井氏・津氏の祖先の墳墓の地となっている。あの辺りは王宸爾の子孫の居地で、羽曳山に一種特別の墓のあることはこれと相関係して、面白い現象であろうと思います。また安宿郡の国分にある松岡山も、船氏の墓地で、あれから船史王後の墓誌が出ている。今も船氏の墳墓がいくつも遺っておりまして、その一番大きな分にはシナでもごく旧式の碑が立っております。高安郡にはまたいろいろ帰化人のおった所でありまして、『新撰姓氏録』を見ますると、平安朝初めごろに存している帰化人の系図が載っておりますが、それで見ると、河内に帰化人がたくさんあったことが知られます。そのほか錦部郡には、錦を織る部民がおった所で、若江郡にも錦郡郷がある。今は西郡と書いているが、帰化人が日本で錦を織っておった所である。デ、河内とこの帰化人との関係を調査してみますると、よほど面白い種々のことが判りましょうと思いますが、さらにこれを河内における考古学上の遺蹟と関係をして、ある特別の面白い研究が出来るであろうと私はかねて思うております。これらのことは史蹟調査会の方々の研究を俟って、一般史学・考古学および歴史地理学の上に、好箇の材料の供給を仰ぐことと思います。
 
       五
 
 河内において寺跡が多いというような、先刻長南君のお話もありました。これも研究したらよほど面白いことでありまして、古い時代の寺が記録上に名前が伝わっておって、実際に名が残っておらぬものが多い。それと同時に、また大きな礎石があったり、古い瓦が出て、それが何寺であるか判らぬ所もある。これらも互いによく研究されまして、(183)あれこれ突き合して見ると、よほどまたその当時の事情を明かにすることが出来ましょう。聖徳太子の関係の寺では、申すまでもなく叡福寺すなわち上太子、それに対して野中寺これを中(ノ)太子という。北にあるのが守屋の遺蹟のある所で、これを下太子といっているようでありますが、これは果して太子時代に出来たものであるか、どうか、私は確かに知りませぬ。高井田寺も太子関係の寺で、地名は河内に二ケ所ありますが、聖徳太子のは大県郡の方であろうと思う。これも古いものでありまして、聖徳太子の建てた法隆寺が焼けた時分に、衆人寺地を得ずとありまして、そこで坊さんらが太子に関係の深い、河内の高井田寺、太秦の広隆寺、法隆寺付近の三井寺、これらを造ったということになっている。この高井田寺の遺蹟は、大県郡の高井田から古瓦が出て、ほぼ解りそうであります。私の見た中にも寺跡がいくつもあります。名前の判らぬのもありますが、やや見当のつくのもある。それと同時に平安朝の初めごろの書などに現われて、所在の判らぬのがたくさんありますから、これは史蹟調査会の御調査を仰ぎたいと思います。大分考古学上のお話が長くなりましたが、つまりこういう方面の研究が積もり積もって、河内の古代の状態からよくわかろうと思うのであります。
 お話がだんだん長くなりますが、モウ一つ付加えて申しておきたいのは、称徳天皇時分の西京のことです。これは由義宮《ゆげのみや》というので、道鏡のために出来た。弓削氏はもと若江郡の弓削郷にいたもので、この八尾の地も弓削の内になっておりましょう。弓削は弓を削る、すなわち矢を作る矢矧に対するもので、それを職業としている部民の居地から、弓削という名前が出来たのでありましょう。この辺りから渋川郡にかけましては、物部守屋の遺蹟のある所で、守屋は当時の大臣として、大和の飛鳥原に根拠があり、また河内にも、摂津の難波にも、別業がありました。その守屋を弓削の大臣ともいいます。弓削氏から出ている人に、先刻長南君のお話のあった、元賓という名僧がありました。桓武天皇の非常に御信仰になった人であります。かような名僧も出ているが、また有名な弓削道鏡もやはり同じ弓削氏(184)から出ている。この道鏡が一時非常に勢力がありましたがために、道鏡の郷里であるというので、この弓削の土地に由義宮というのが出来た。これをもって帝都の一とする、奈良に対して西京ということでそれで河内は帝都の国であるというので、河内国を改めて河内職を置いた。左右京職に対するものである。しかしてその長官たる河内の太夫には誰がなったかというと、後に道鏡をつつき落した藤原百川その人であった。彼は道鏡には実に獅子身中の虫で油断のならぬ人であった。この人が法王宮職をも兼任して、種々と道鏡に仕えておった人で、それがとうとう蔭で策略をして、道鏡を追い落してしまった。この由義宮がどの辺であるか、御調査を願いたい。地誌などには八尾木の氏神の地がそれだとかいろいろ説がありますが、『続日本紀』を見ると、この西京となった場所は大分広く、今の龍華寺辺りまでも及んでおったようであります。また由義の宮殿は、大県・高安・若江の三郡に跨っておって、百姓の邸宅が由義宮の宮城内に這入ったものに報償を与えたことが書いてある。それで由義宮は大県・高安・若江の三郡に跨っておったということでほぼ見当が付こうと思います。
 
      六
 
 ついででありますから古蹟に関係ないことではありますが、ここの八尾の地が弓削氏の郷里であることにちなみまして、かねて弓削氏に関して有する疑問を申し述べたい。
 弓削氏で有名なのは、申すまでもなく弓削道鏡であります。元賓も有名な人ではありますが、これは坊さんで、政治上にあらわれた人ではない。古いところでは物部守屋が弓削氏の本家でありますが、守屋のことには問題はありませぬ。道鏡は歴史上で評判の悪い人で、歴史教育には一番に筆誅される人でありますが、その天位覬覦ということにつきまして私は重大なる疑問を有している。というのは、どういうことかと申しますると、日本で天子になられる方(185)は、必ず天祖の系統のものでなければならぬ。これは明かなことであって、奈良朝前後はことにその思想が盛んであったことが知られます。天武天皇の皇子草壁皇太子が亡くなられ、その後また高市皇子が亡くなられた時に、後継問題が起った。その時にいろいろ議論がありましたが、天子になるものは、おのずから順序が定っている、はたからあれこれ言うべきものでない、という葛野王の一言のもとに、問題が定って、草壁太子の子文武天皇が立たれた。これは実に葛野王の名言でありますが、その思想が昔からある。和気清麻呂が、天津日嗣は必ず皇緒を立てよということを復命したのもそれで、その思想は立派に上下に認められていたのであります。しかるにも関らず、道鏡が一の臣民の家から出て、しかも法王という王位に陞った天子と同じ総ての待遇を受けている。供御も天子に準じている。鎌足以来勢力のある藤原氏の公卿達さえも、皆その前に羅拝して、これを尊崇して怪しまなかったということは、いかにも不思議の現象である。称徳天皇がいかにこれを重くお用いになったからといって、これを天子相当に待遇するのは、奇態である。のみならず、ついには道鏡を天子にすれば、天下泰平であるなどと奏上するものがあるに至った。これが臣民であっては、もとよりそんな思想の起りようがない。日本で天子になられるお方は、必ず祖宗の皇統の嫡流でなければならぬ。一方で立派にその思想の認められたことが証明されるに関らず、道鏡を天子にすれば天下泰平であると奏上するなどは、いかにもおかしな話である。またそれによって、天皇がお迷いになったのもおかしな話である。これは千古の疑問である。道鏡は悪辣なようでありますが、また無邪気なところもある。というのは、称徳天皇の崩後の事実を見ると、実に滑稽なことがある。藤原百川が策略を廻らして、白壁皇子をもって皇太子と定め、すべてのことを計らってしまった。一方でそういうことを策略しているにかかわらず、道鏡はいっこうそれを御存知ない。平気で称徳天皇の御陵の傍に廬を結び毎日お経を読んでいる。今皇太子はないはずであるから、必ずこの次に天子になるのは俺だろう、とゆっくり待っておった。他に天子になる人はないはずだから、今に群臣が自分を迎えに来るであ(186)ろうと待っておった。ところが迎えが来たには来たけれども、それは道鏡を天子にするためではなくて、下野へ追遣るための迎えであった。かく道鏡は目先の見えぬ人である。称徳天皇崩御の後までも、必ず自分が天子になれる気で自惚れているのがおかしい。もし道鏡に悪意があって、称徳天皇を籠絡し奉って、天子になろうとしたものならば、天皇崩じて、唯一の頼みの綱の切れた時には大騒ぎをして、自己防禦をしなければならぬはずである。いかにもおかしな話である。それについて古い説では道鏡は皇胤だという説がある。その一番古いものでは、『七大寺年表』という名で知られている昔の坊さんの補任のことを書いたもの、それから『公卿補任』といって、昔からの公卿・大臣・参議等の名前を書いたものなどで、そういうものには、道鏡は、天智天皇の皇孫だとある。古い説は総てこれに一致しております。天智天皇の皇孫とあってみて始めて、これを法王とされた事情も解せられる。天子にしてよかろうという説も出で得るのでありましょう。また俺も天子になってみようかという野心も出で得たのでありましょう。法王として王者の待遇を受けることは、臣籍のものでは出来得ないはずで、それが皇孫となれば、ちょっと理屈が合う。ところで一方では、彼の俗姓は弓削氏で先祖の大臣の位名をつごうという、油断のならぬ男で、野心満々たる奴であるから、と淳仁天皇はこれを上皇に申上げておられる。先祖の大臣とは物部守屋のことでありましょう。ここで皇胤鋭と調和が難しいのであります。ところが、このころには人の皇族から出て、母方の家を継いで、母方の家督を継承する例がいくらもある。一番有名なのは、楠公の祖先の橘諸兄公である。もと葛城王という皇族であった。その立派な皇族が、母の橘姓を継いだ。母は有名な橘三千代夫人で、死後正一位を贈られ、遺産もたくさんあった。諸兄すなわち橘氏を継いで、その家の富と勢力とをソックリ継承して、ついに左大臣にまで上った。そういう例は他にもいくらもあります。さればもし弓削道鏡が、天智天皇の皇孫として、しかも俗姓弓削氏であるという両説を生かそうとならば、その母が河内の弓削氏で、彼はその母方の氏を継いで弓削姓を冒したとすれば、守屋のことを先祖の大臣とい(187)ったことも解釈が出来るでありましょう。よほど疑問の解決もしやすくなってまいります。清麻呂の復命も天津日嗣は必ず皇緒を立てよとあって、皇族胤であればよいというのとは違う。緒は糸口で、一番口に出ているもの、皇緒は皇胤と同一ではない。『皇室典範』にも、皇位継承の順序は必ず皇緒すなわち糸口のお方が天子になられることにお定めになって、他のものはいかに皇族でも、その資格はありませぬ。今日『皇室典範』にお定めになっているところは、すなわち天津日嗣は必ず皇緒を立てよの意で、皇族であればよいというのとは意味が違う。だから、道鏡がたとい皇胤であったにしたところが、彼すでにいったん臣下の籍を継いでいるから、もはや皇族でもない。むろん天子になる資格はない。平安朝に陽成天皇が乱暴な御行為があったので、藤原基経がこれを廃して後に天子になる方を探したことがある。その時に嵯峨天皇の皇子でありまする源融すなわち河原左大臣が、天子に近いものを尋ねたならば、この融もあるぞと申された。すると基経が、今まで姓を賜わって源氏に下ったものが、天子になった例はないと、一言の下に跳ね付けた。融もこれには大いに赤面したという話がある。基経はなかなか旨く言っている。かく基経は河原左大臣を立派に排斥しているが、次に光孝天皇がお崩れになった時に、いったん源氏であった方を親王に戻し、しかして、これを御位に即け奉った。これすなわち宇多天皇であります。これは前言と矛盾している。源氏からいったん親王という階段を経て、天子になられたのでありますから、いくらか行き方が違っていますが、ともかくこれは基経勢力の結果であります。道鏡はかりに天智天皇の皇孫であったにしても、いったん臣籍に下ったのであるから、むろん天位に即くことは出来ぬ。しかし皇胤であってみれば、これを法王としたことについていくらか説明が出来る。また自分は皇胤であるという考えでいるから、勢力の盛んなるあまり、いわゆるお調子にのって、やほり天子になるつもりになったでありましょう。また側からも、彼が皇胤だというところから、道鏡が天子になれば天下泰平になろうというようなことを申上げたのでありましょう。が、日の本では皇族でないものが天子になったためしはない。ま(188)たなろうとしたもののためしもなかるべきはずであるに、道鏡何者ぞ、身臣籍にありながら、天子になろうとした、と伝えられている。もしこれが事実になって見ると、実に万世一系のわが国体を穢すものである。実に相済まぬ次第であります。また一方において、道鏡を天子にしたなれば天下泰平になるだろうと申上げた習宜阿曾麻呂のごとき、族誅を加えてもなお足らぬほどのものでなければならぬ。しかるに、彼の末路はどうなっているかといえば、不思議にも何も処分は受けておらぬ。かえってだんだん立身している。初めは太宰の主神であったのが、多※[衣偏+陸の旁+丸]《たね》の島守になった。官位からいえば立身で、今日で言えば、沖縄県の知事である。さらに後には大隅守になって、立派な知事さんになってしまった。事後の栄進は、道鏡を排斥した和気清麻呂よりも早いぐらいであった。これまた一大疑問であらねばならぬ。あるいはこれには深い秘密が隠れているのではなかろうか。日本の国体に悖って、そういうことか言い出すものがともかくあったということだけでも忌わしいことであるが、道鏡が天智天皇の皇孫でなく全く臣籍のものであれば、もとより天子にしようとか、なろうとかの問題の起ろうはずはないのであるに、これを天子にしたらよかろうという議が起ったのほ、実に言語道断ではなはだ忌わしいことである。かくてついには八幡大神の神意を伺うということになったが、この時和気清麻呂の精忠でこれを排斥したけれども、もし清麻呂が不心得なものであって、神様がよいと仰有ったと復命したなら、あるいは道鏡を天子にするお思召であったと解すべきものであろうが、もしそうなれば万世一系もあったものでない。歴史上忌わしいことであるが、この道鏡の血統なり、阿曾麻呂非処分の疑問なりの研究は、ある解決をこれに与えることになりはせぬか、日本においては古来皇族でないものが天位に即こうとするような思想は毛頭ないが、ただひとり道鏡が傍から言われて自身もそう思い、天皇もそれにお迷いになったということは、もともと道鏡が天智天皇の皇孫であるから起って来たことで、その当時においても、それをはなはだしく不思議とも思わなかったのかも知れませぬ。それで、大臣以下皆道鏡を法王として崇敬して、少しも怪しまなかったの(189)かも知れませぬ。もしそうであればわが国体上の瑕瑾が幾分減ずることになる。私は常にこういう疑問を懐いておりましたから、由義宮を申上げるについて、全く古蹟に関係ありませぬが、いささか意見を述べましたような次第でございます、時間も長くなりましたからこれで。
 
 
(190)  山城北部の条里を調査して太秦広隆寺の旧地に及ぶ
 
      一 条里概説
 
 古代条里制のことは『拾芥抄』ほぼその概要を示し、本居内遠氏の『条里図帳考』(収めて本居全集中にあり)またほぼ要を得たれば、その何物なるかは、読者諸君のすでに知悉せらるるところなるべしと信ず。なかんずく、その最も整備せる大和平野の条里については、余さきに本誌上において、関野博士の「平城京及大内裏考」を評論するさいに委細論述(第一二巻第四、五号、第一三巻第二、三号)し、近江の条里については、会員中川泉三君、本誌臨時増刊近江号において、山城南部の条里については、会員中川修一君、本誌第二十三巻第六号において、山城山科の条里については、会員藤田明君、本誌第五巻第三号において、また一般条里制については、会員堀田璋左右君、『史学雑誌』第十二編第十一および十二号において、いずれも考証せられたれば、彼是を比較精読せられたる読者は、『拾芥抄』および『条里図帳考』言うところが、必ずしも一般の場合を説明せるものにあらず、各地方それぞれに条数・里数・坪数の数え方につきて、異なりたる方向を取るの場合多きを知了せられたるならんと信ず。今これを概言
 
(191) 第一図 山城山科地方の条里〔入力者注、図省略〕
 
すれば、条里とはその区域を六町ずつの幅をもって数区に分ち、これを条と名づけ、一条より数え始めて、その終端に及び、さらにその条の界線と直交せる六町ずつの間隔を有する線をもってこれを数多の方形に分ち、その各方形を里と名づけ、各条ごとに、一里より数え始めて、その終端に至る。すなわち左図のごとし。
 こは一例として、山城山科地方の条里を図示したるものにして、条は南北に通じ、東より数え始めて西に及び、里は各条につき、南より数え始めて、北に進むなり。しかれども、これもとよりあらゆる場合を示せるものにあらず。大和にありては、京東および京南路東条里は、条は東西に通じて北より数え、里は各条につきて西より数え、京南路西条里は、同じく条は東西に通じて北より数うるも、里は反対に東より数うるなり。しかしてその里の数え始めは、条里区の一端よりするにあらずして、各郡につき、その郡界の始まる所より始めて、これを一里と数うるなり。また同じ大和にありても、京北条里は条ほ南北に通じて東より数え、里は南より数うること一に山城山科地方の条里のごとし。この大和京北条里区と、山城山科条里区との中間にありて、南部山城の条里は、中川修一君調査の坪の数え方より推測すれば、条は大和京南条里と同じく東西に通じて、しかもその数え方は反対に南より始めて北に及ぼし、里は西より始めて東に進みしものなりき。
 里はさらに一町ずつの間隔を有する縦横の界線によりて三十六に分たれ、これを坪と名づく。その数え方は一隅一の坪より始めて他隅六の坪に及び、さらにこれに隣接せる次の行の坪を七の坪と数えて逆退して十二の坪に至り、以下一進一退して三十六の坪に至りて終る。その数え始めお
 
(192) 第二図 坪の数え方および進行の方向(四例)
(ハ)大和京北条里および山城山科条里の坪。――この場合には,条は南北に通じて東より数え,里は南より始む。
(イ)大和京東および京南路東条里の坪。――この場合には,条は東西に通じて北より数え,里は西より始む。
(ニ)山城南部条里の坪。――この場合には,条は東西に通じて南より数え,里は西より始む。
(ロ)大和京南路西条里の坪。――この場合には,条は東西に通じて北より数え,里は東より始む。
〔入力者注、図は全て省略〕
 
(193)よび進行の方向は、条と里との方向によりて各異なり、左図のごとし。
 以上はただ四種の場合を例示したるに過ぎざれども、もって他を類推すべし。ただし紀伊・備中・筑前等、また異なりたる数え方の場合もあり。同一地方にても、時代によりて数え方を異にせし場合もありしがごとし。大和斑鳩里の条里図を見るに、同じ京南路西条里なれども、おのずから異なりたる数え方を示し、同じ京南路東条里の大安寺旧地のごとき、鎌倉時代の図籍に基づける前記の数え方にては、二十七粂および二十八条の三、四里に跨れるものなるに、『類聚三代格』所収、神護景雲元年の文書には、「路東十一里橋本田、十二里岡本田、在高市郡高市里、専古寺地西辺云々」とありて明かにその数え方を異にするなり。こは必ずその後に改正ありしものなるべし。されば条里を言わんとするものは、よろしくこれらの点にも注意することを要す。
 なお条里につきては、その起原、割り方、実施の精況、異例、廃滅時期等に関し論ずべきところはなはだ多く、かつて本誌上にこれを詳説せんことを予約せしも、誌面これを容《ゆる》さず、余またその暇を得ずして荏苒今日に及ぷ。よりて今山城北部の条里を説くのついでに、その概要を述べて一時の責を塞ぎ、さらに他日の機会を待たんとす。
 
       二 山城葛野郡地方の条里の実際
 
 山城北部の条里を知るべき有力なる材料としては、元老院蔵版『田制篇』所収の嵯峨庄図二面あり。一はその場所明かならざるも、一は栖霞寺・檀林寺・有智子内親王の御墓等を含みて、今の嵯峨天龍寺・清涼寺等の辺に当る。栖霞寺はもと河原左大臣源融の別業にして、その地ほぼ今の清涼寺に当る。檀林寺は檀林皇后の嵯峨院を浄捨して禅刹とせしものにして、図を案ずるに、清涼寺南路より南三町、天龍寺の前より清涼寺南路に通ずる道路の西に接して、天龍寺境内の北に続くの位置にあり。その図の示すところ、某条某々の南北に連続せる二個の里にして、その坪の数
 
(194) 第三図 元老院蔵版『田制篇』所収の嵯峨庄図一種の坪割略図。〔入力者注、図は省略〕
 
え方を案ずるに、この地方においては、条は南北に通じて西より東に数え、里は各条につき北より南に数うるものなるを知る。今この図を見やすく書き改むれば上図のごとし。
 すなわち栖霞寺は某条某里の卅二坪・卅三坪と、同条中その次に位する里の四坪・五坪の四ケ坪を占め、檀林寺はその里の廿七・廿八・卅三・卅四の四ケ坪を占むるなり。しかして、その栖霞寺の東北には大覚寺あり。その位置『三代実録』元慶五年八月条によるに、
  廿三日勅、山城国葛野郡二条大山田地卅六町を以て大覚寺の地となす、其の四履、
   東は、朝原山に至り、
   西は、観空寺并に栖霞観の東路に至り、
   北は、山嶺に至る。
とありて、まさに葛野郡二条某里字大山田の地三十六町すなわち一里全部を占むるなり。ここに観空寺とは、同書貞観十二年八月条に、嵯峨太上天皇創建にして定額に預り、その後親王源氏をもって檀越となすとあるものにて、今も(195)大覚寺の西、清涼寺(楢霞館)の北東に存す。しかしてその大覚寺の地が二条某里の全部を占むるとせば、これに西接せる清涼寺・天龍寺・観空寺等の地は、当然一条の中ならざるべからず。すなわち前掲嵯峨庄図は葛野郡一条某々二箇の里を示せるものたるを知るを得べきなり。
 按、『扶桑略記』には大覚寺の地を三条とす。しかるに、前図の西端にある有智子内親王御墓以西はすべて山地にして、もって田圃となすべからず、条里を画すべきにあらず。しからば前図示すところが一条にして、大覚寺の地が二条なるべきは実地に徴するも明かなり。なおさらに以下説くところの確証動かすべからざるものあり。
 また按、大覚寺の地を大山田というは、その里の字なるべし。『田制篇』所収、嵯峨庄別図には、小山田里とあり、関係ある名にや。
 右の史料以外、葛野地方の条里を知るべき究竟のものに、『広隆寺縁起』所載の敷地坪付および『三代格』所収「官符」所載、平野神社社地坪付あり。
 広隆寺は葛野郡五条荒蒔里八・九・十・十五・十六・十七の六ケ坪なり。この敷地は寛平年間の『広隆寺資財交替実録帳』にも五条荒蒔里十五町二反百五十二歩の寺地中、明かに八・九・十・十五・十六・十七の六ケ坪全六町を寺地に注せるにて、当時なお明かにこれを継続維持せしを見るべく、今これを実地について見るに、その西南部は著しく削られたれども、なお大体において東西三町、南北二町の形勢はこれを保存し、もって図上に条里を復原するの好資料を提供す。左のごとし。
 今その西南部には、道路斜に通じて嵐山電車を敷設し、またその一部は太秦小学校および民家となれるも、南門は依然として十七(ノ)坪の南辺にあり。正面に講堂あり、西門は十(ノ)坪の西辺にありて、内に桂宮院を存するなり。
 次に平野神社の社地は、貞観十四年十二月十五日の「官符」に見るに、
 
(196) 第四図(上図)葛野郡五条某里字荒蒔里太秦広隆寺旧敷地図
  第五図(左図)葛野郡九条某里字荒見河西里およびその南接の里の坪割図
 
 在2山城国葛野郡上林郷九条荒見西河里廿四(ノ)坪1。四至【東限荒見河 南限典藥寮園 西限社前東道 北限禁野地】
とありて、明かに条里に対する位置を知るを得べし。いわゆる荒見河は今北野神社と平野神社との間を流るる紙屋川にして、『御禊行幸記』に、
  荒見川の祓とて、紙屋川といふ所にて御禊あり。是は大嘗会前斎の始なり。
とあり。斎場は北野にありて、まず荒見河について解除すること、『北山抄』等に見ゆ。されば前文荒見西河里とあるは、あるいは荒見河西里の誤写か。今は紙屋川やや流路を変じて東に遷り、平野社の東限をなさざれども、社は依然として約方一町の地を占め、はなはだしく旧態を改めざるに似たり。今条里によりて平野・北野両社の位置を図示すれば大要上のごとし。
 以上、栖霞寺(清涼寺)付近の坪別図、大覚寺および広隆寺、平野神社の敷地を基礎とし、これを道路村界等に存する遺影に徴して、実測図上に条里の縦(197)横線を描出するに、ほぼ当時の状態を見るを得るを覚ゆ。ただしその界線たる、大和平野地方において見るがごとく正直なる能わず、丈尺またある場合において幾分の伸びあるを見る。こは当時の測量技師の手腕と、土地の状況とに基づける結果なるべく、大和京南条里にても、郡山町南方なる額安寺の辺なる丘陵地においては、一町の齟齬を来せるがごとき実例もあれば、実際には避け難かりしところなるべし。ことに嵯峨の西部の地たる、小倉山の裾斜に北北西より、南南東に延び、平地の形勢おのずから南北なる能わず、したがって条里の起線たる一条の西界は、南北線と約二十度の角をなす。こは清涼寺の境内、その南門前の大道および東西路等、嵯峨庄条里図に見ゆるところと、実地とを対比して明かにこれを知るを得るなり。しかるに、二条大覚寺の辺にては、その傾斜やや減じて約十五度を示し、五条広隆寺の辺にては、ほぼ正しく南北に通ずるを見る。されば、かかる不規則なる界線によりて区画せられたる条里の坪割は、必ずしも常に方一町なる能わず。現に『田制篇』所収の他の嵯峨庄図には、一坪の面積一町以上に及べるものの存在を示せるなり。しかもかかる不規則は、ただにこの嵯峨庄のみに限らず、『大日本古文書』所収神護二年越前坂井郡の田籍および同年越前国司の解中にもまたこの例あるを見る。条里の復原は、必ずしも図上に定木とコンパスとのみをもってなすべきにあらざるなり。
 葛野条里の記事の古書に見ゆるもの、前記のほか貞観十三年閏八月、百姓の葬送および放牧の地として定められたるものの中に、五条荒木西里、六条久受原里あり。地形を案ずるに、五条および六条は桂川の縁地を含み、紀伊郡佐比里、すなわち俗にいわゆる賽河原とともに、葬送放牧の地として適当なるを見る。ただ『延喜式』「典薬寮」に、
 凡山城国地二町在2葛野郡十三条水谷下里1。
  四至、東限2岑山1、南限2堀越山谷口1、西限v岑、北限2辛河合1。氷為d殖2供御地黄1地u。
とある十三条の地は、これを図上に求めて、前記四至示すごとき地を発見し得ず、不審。
 
(198)       三 紀伊郡の条里
 
 葛野郡の東はすなわち愛宕郡にして、その条里を知るべき資料はいまだこれを知らずといえども、思うに西方葛野郡より連絡して、区画したりしものならん。
 紀伊郡に至りては、不完全ながらもややその材料なきにあらず。前記百姓葬送および放牧の地として定めたる中に、
 紀伊郡十条下石原西外里
 同   十一条下佐比里
 間   十二条上佐比里
あり。石原は『和名抄』石原郷の名の地にして、今も桂川に瀕し石島村字石原あり。佐比は右京佐比大路の末の桂川を越ゆる所に、古え佐比大橋あり、佐比寺あり。いわゆる佐比河原にして、実に平安京の葬地たりしことは、弘野河継の解文(『三代実録』貞観十一年十二月)に佐比大橋の脆弱なることを述べて、「九原送終之輩、更留2柩於橋頭1。」の句あるよりしても明かなり。しかしてその佐比里に上下あるをいう。土地に上下を分つ場合、上は必ず川上にして、下は川下なり。しからば、西北より東南流なる桂川畔の上佐比は、必ず下佐比よりも西ならざるべからず。すなわち十一条は十二条よりも東なるべきの事実を示すこととなり、葬地の順序は、桂川に沿うて斜に西北より、葛野郡五条荒木西里、同六条久受原里、紀伊郡十二条上佐比里、同十一条下佐比里、同十条石原西外里となり、この一帯の河原を庶民葬地とせしものたるを知るなり。十条より十二条に渉れる石原、下佐比、上佐比の名は、『山城名勝志』所引『三鈷寺文書』にも見え、条の順序誤りあるべからず。
 紀伊郡の条が東より始めて西に数え進むものとすれば、これ明らかに宇治郡山科条里と同一の数え方なり。しかし(199)て石原・佐比を十・十一・十二条の辺に置かんか、その一条は山科条里の六条もしくは七条と重複す。しかしてここに宇治・紀伊二郡の郡界あり。すなわち知る。紀伊郡の条里は宇治郡と同一方法により、しかもその後を承けて西に進み、条はその郡界の最東の地を始めとして、これより西に数え進みしものなることを。
 右徴証はなはだ少く、ただ試みに推測を下せるのみ。他日さらに実地につきて小字を調査し、坪の名を拾いてかつて北浦定政氏のなせしごとく、近く中川修一君の試みられたるがごとくせば、あるいはこれを明かにするを得べけんなり。
 
      四 乙訓郡の条里
 
 乙訓郡の条里につきては、いまだこれを確かむべきほどの文献的資料を知らず。しかもこれを実地について見るに、その遺影は、所々において村界・道路・畦畔・溝渠等に存し、幾分かこれを図上に復原し得べき希望あり。しかして長岡宮址に当る鶏冠井《かいで》村の東北、森本村の地に小字「一坪」あり、方一町の地を占め、その東一町を隔てて「十|相《そ》」あり。十相は十曾等とも書きて十三(ノ)坪に当ること、大和平野および山城南部にその例多し。また向日町の西南今里村に「三(ノ)坪」あり、「七(ノ)坪」「八(ノ)坪」あり、七(ノ)坪は八(ノ)坪の北に連る。この両者を綜合して考察するに、その坪割は南山城地方の条里と同じく、西南隅より始めて北行し、さらに南に戻りて最後は東南隅に終れるもののごとく、もとよりこれのみにては正確にこれを定むべきようもなく、ただここにすでに得たる材料を提供して後の研究を待つのみ。以下次号において広隆寺の移転とその旧地の研究を縷陳すべし。
 
(200)      五 広隆寺の建立
 
 『日本紀』に曰く、「推古天皇十一年十一月朔、皇太子(聖徳)諸大夫に謂て曰く、我尊き仏像を有す。誰か是の像を得て、以て恭しく拝せん。時に秦造河勝進んで曰く、臣之を拝せん。便ち仏像を受けて以て蜂岡寺を造る」と。これ広隆寺の濫觴なり。同書またいう、同天皇「三十一年秋七月、新羅大使|奈末智洗爾《なまちせんに》を遣はし、任那|達率奈末智《だちそちなまち》を遣はして、并に来朝す。仍て仏像一具及び金塔并に舎利、且つ大濯頂幡一具、小幡十二条を貢す。即ち仏像を葛野の秦の寺に居き、余の舎利・金塔・濯頂幡等を以て皆四天王寺に納む」と。ここに葛野の秦の寺とは、前記蜂岡寺のことにして、すなわち広隆寺なり。当時この寺すでに存せしを知る。
 広隆寺弘仁九年に非常の災にかかり、堂塔・歩廊、雑記・公文等ことごとく焼亡し、したがって古縁起また失わる。今世に存するところは、『朝野群載』所収承和三年の「縁起」を最古とす。この「縁起」はきわめて簡単なるものにして、その目的は寺領の地を明かにするにあるもののごとし。曰く、「此の寺の縁起資財帳等共に焼亡し、或は散失す。然りと雖、或地は治開して図帳に付し、或地は常荒にして未だ開発せず、或地は京に入りて未だ其の替りを入れず。今後代の為に粗々其の由を注し、寺家に留め置き、以て累劫の亀鏡となす」と。さればその記するところ、旧寺家の地、および現在の水陸田地の坪数反別を主とし、その他にありては、わずかに『日本紀』を引きて、推古天皇十一年に秦河勝仏像を受けたることを記し、および同天皇三十年に河勝が太子のために広隆寺を建てたることを言えるに過ぎざるなり。しかもその記事中、最も珍とすべきものあり。この寺が初め、
 九条河原里一坪・二坪・十坪・十一坪・十三坪・十四坪・廿三坪・廿四坪・廿六坪・卅四坪、同条荒見社里十坪・十一坪・十四坪・十五坪(『玉杯抄』所引の縁起には河原里を池原里とし、同里廿六坪を廿坪とす。ともに誤りなるべし)
(201)合せて十四町の寺地を有せしに、その地すこぶる狭隘なりしかば、五条荒蒔里八坪・九坪・十坪・十五坪・十六坪・十七坪合せて六ケ坪の中に遷し、すなわち水陸の地四十四町四反百九十二歩を施入せりとのことを記するなり。この広隆寺移転のことは他書の毫も言わざるところ。これによりてその沿革と、旧地の所在とを知るを得ることは、これを広隆寺にとりては、むしろ些事に属すれども、これによりて余輩は、秦氏特に河勝占拠の地域の及ぷ所を知るを得て、歴史地理学上はなはだ有益なる資料を提供せられたるの感あるのみならず、特にその旧地が他の資料と相啓発して、河勝の邸址に近きを知り、引いては平安遷都と秦氏との関係を窺知せしむるの料たるべきを思い、特殊の興味をもってこれを研究せんとするなり。
 広隆寺開基に関する記事は前引『日本紀』を措きては、『上宮聖徳太子伝補闕記』をもって最古とすべし。この書は、おそらくは平安朝初めの編纂にして、その所拠の古記のごときは、『日本紀』編纂者の材料となりしもの、あるいは、その見るに及ばざりきと思わるるものあり、普通に『日本紀』を抄録して、他の伝説をこれに付記するの類にあらず。全く『日本紀』とは独立に編せられたるものにして、すこぶる尊重すべき古書なりとす。しかして同書曰く、
  推古天皇丙子年(二十四年)五月三日、天皇不余なり。太子願を立てて天皇の命を延べ諸の寺家を立つ。即ち以て平復す。(中略)是より先、太子国を巡りて山代の楓野《かどの》村に至り、群臣に謂て曰く、此の地の体たる、南弊(弊字不審、『伝暦』に開に作る)北塞、河其の前に注ぎ、龍常に守護す。後世必ず帝王の都を建つるあらん。吾故に時に遊賞すと。即ち蜂岳《はちおか》の南下に於て宮を立つ。秦河勝己が親族を率ゐて祠奉怠らず。太子大いに喜び、即ち小徳に叙し、遂に宮を以て之に預く。又新羅国所献の仏像を賜ふ。故に宮を以て寺となし、宮南の水田数十町並に山野の地等を施入す。
(202)と。ここに蜂岳とはいずれの岡を指すにか、つまびらかならず。普通に解して蜂岡を今の広隆寺の地の旧名とす。しかれどもその地には岡と称すべき形勢のものなく、ことに宮をその南下(南麓の義か)に立つというべき地形にあらざるなり。しかして『聖徳太子伝暦』はさらにこれをつまびらかにして、
  太子(云々)其の日|楓野《かどの》の大堰に疎みて宿し、仮宮を蜂岡の下に造る。日ならずして了る。太子之に御して侍従に語りて曰く、吾此の地を相するに国の秀なり。南開北塞、南を陽とし、北を陰とし、河其の前を径、東流順を成す。高岳の上、龍窟宅を為し、常に臨みて擁護す。云々。楓野の別宮と称す。後に宮を以て寺となし、河勝造に賜ひ、并に寺前の水田三十町、寺後の山野六十町を賜ふ。又新羅王献ずる所の仏像、旛蓋等の物を賜ふ。
とあり。ここに楓野の大堰とは、秦氏が葛野の地を開きて墾田となすに当り、濯漑のために桂川の水を引くべく造れるものにして、いわゆる大井川の名の起るところ。今の嵐山渡月橋東詰の付近なるべし。しかして川その前を東流すといわんには、形勢ほぼ今の嵯峨の地に当るべし。けだし、太子桂川の付近に別宮を営み給いしものか。
 この別宮のこと、ならびに別宮を賜いて寺となすということ、『日本紀』および承和の「縁起」の言わざるところ、すこぶる疑うべし。由来太子の宮と称するもの、大和斑鳩にあり、法隆寺東院これなり。またその付近岡本にもありて、池後寺すなわち法起寺これなりと称す。しかして今またここに楓野の宮が広隆寺なることを言う。これらを併せ考うるに、あるいは後の僧徒が縁起を重くせんがために、称え出せしものなるかも図り難し。しかも葛野の宮のことはすでに『上宮聖徳法王帝説』にあり。曰く、
  太子七寺を起す。四天皇寺・法隆寺・中宮寺・橘寺・蜂丘寺【并彼宮賜河勝秦公】・池後寺・葛木寺【賜葛木臣】
と。しかれども、『帝説』は寺と宮とを併せ賜わりたることを言いて、宮を改めて寺となしたりとは言わず。しかして、『補闕記』の一節また実にこれを認むるなり。よりて思うに、宮と寺とはもと別物にして、寺は河勝が太子の命(203)により、太子の仏像を得てこれを奉安すべく造れるもの。しかも後の太子崇拝者はこれをも太子建立七寺の中に数うるがゆえに、これを太子より賜わりたりとは言えるならん。その宮に至りては、とうてい疑いを脱する能わざるものあり。今も広隆寺境内に桂宮院と称する小建築物ありて、寺伝、太子の楓野宮の遺物と称す。その形八角にして、すこぶる法隆寺の夢殿に類似したれども、結構狭小にして、太子の仮宮として駕を駐め給うべくもあらず。よりて思うに、あるいは後より法隆寺の夢殿を摸擬して、新たに作れるにはあらざるか。芸術史家あるいはこれを鑑定して、鎌倉時代の作物なりという。傾聴すべし。ことに『補闕記』『伝暦』等の言える宮は、大堰に近き地にして、今の広隆寺の地にあらず。今の広隆寺は後に某時代に移転せるものなれば、かりに楓野の別宮の存在を信ずとするも、もとよりその地にあらざるなり。由来葛野の地は、つとに秦氏の族の蕃殖せる所、すでに記したるごとく、いわゆる葛野の大堰も、彼らが墾田濯漑のために造りたるほどにて、一族ここにはなはだしく富を積み、しかしてその河勝は、常に太子に随従せるものなれば、その郷里に景勝の地を卜して、太子のために別宮を営み、これを招待し奉りしことまたこれなかりきとはいうべからず。しかも広隆寺はこれとは別地に営まれ、その維持のために秦氏数多の水陸田を施入す。しかして『伝暦』には、これらの寺田をも太子の賜わるところとするほどなれば、宮と寺との関係につきて、その言うところの信じ難きは勿論なりとす。
 
      六 広隆寺の旧地
 
 すでに河勝が当初経営せる広隆寺の地が、今の地ならずとせば、承和の「縁起」によりて、その指示せる条里の地を求めざるべからず。今京都七条の西方に川勝寺村あり。人あるいはその名義よりして、これをその旧地に擬せんとす。しかれども、川勝寺はもと専勝寺、また泉乗寺などと書きて、全然別寺に属す。これを川勝寺と書するは、後世
 
(204) 第六図 上図に坪数字を網地の上に示せるものは「縁起」にいわゆる広隆寺旧地なり。〔省略〕
 
秦河勝の名に付会せるのみ。いわんや河勝の名は、普通「河」にして「川」にあらざるをや。葛野の条里は前節所述のごとく、今の清涼寺・天龍寺等の地を一条とし、大覚寺敷地の南北の通りを二条とし、順次条は東進して、今の広隆寺の地は五条に当るなり。しからば川勝寺村は七条に相当し、「縁起」の九条河原里・荒見社里というと相容れざるなり。九条は『三代格』所収「官符」の示すごとく、平野神社の敷地を九条荒見河西里(原文に荒見西河とあり)の廿四坪として、これより、東方六町の幅をもって、南北に通ずるものなるや論なし。しかして、広隆寺の旧地はその河原里と荒見社里とにありきというなり。河原里は荒見川すなわち今の紙屋川の河原の義なるべく、荒見社里またその名義よりするも荒見川と縁ある言を俟たず。この荒見社、あるいは平野神社所在の荒見河西里と同一にはあらざるか。少くも近接せる地なりきと察せらる。今しばらく右河原里と荒見社里とを南北に連接せるものとし、試みに「縁起」いうところの十四ケ坪を図示すれば右のごとくなるべし。
 右の図によるに、荒見社里にては四町の方形に纏まれども、河原里にては、その地すこぶる錯綜するものありて、(205)この十四町をもって、もとより寺の旧境内地なりきとは見るべからず。なお言わば推古天皇の朝に条里の制あるぺからず。条里は早くも和銅六年を上らざる時代の制定なれば、当時の寺地が、条里によりて、某々の十四ケ坪併せて十四町なりきとの、「縁起」の言は信ずべからず。けだしこれは後より旧寺領の地を尋ねて、その所在の坪を全部ただちに旧寺地なりきとなし、寺にとりて有益なる方面に解釈せるものなるべし。
 さてこの荒見社里を、かりに平野神社の所在なる荒見河西里と同一なりとせんには、河原里はその北にありて、今の金閣寺と、蓮台野村との中間に当るべし。河勝の邸址はその東南方にありき。『天暦御記』に曰く、
  大内裏は秦河勝の宅、橘は本の大夫の宅、南殿の前庭の橘樹は旧跡に依りて之を殖う。
と。すなわち知る平安宮城の地は、もと秦河勝の邸址にして、特にその紫宸殿前の橘樹は、その当時より存せしものなりしことを。しかして広隆寺の旧地はその西北にあり、河勝その山麓の好地を卜して寺院を営む。事情においてあり得べきのことなりとす。これについて思い合すべきはかの平安京経営の事情なり。当時のこと『後紀』欠けて詳細を知るを得ず、ことにその経営は、すでに八、九分まで成就せる長岡の京の経営を、費用給せずとの理由の下に中止して、新たにその付近に企てられたるものなれば、これを普通の経済上の見解よりしては、とうてい了解すべからざるなり。しかるに今『天暦御記』によりてその地が富豪秦氏の邸地なりしことを知り、また広隆寺の旧地がその西北郊外にありて、秦氏の私有地がこの地方一帯を掩有せしことを知るによりて、始めて了解せらるべきを感ず。なおこのことは他日発表すべき予定の「平安遷都考」中に詳述すべければ、今委曲に及ばざるべきも、山城北部地方条里調査の結果として知るを得たる広隆寺の旧地が、間接に秦氏と平安京経営との関係を証明するの材料なるべきことを一言して、読者の注意を請わんとするなり。
 
(206)      七 広隆寺移転の年代
 
 広隆寺移転の年代、承和の「縁起」これを言わず。いわんや移転のことをすら言わざる他書においてをや。人あるいは、楓野の宮を賜いて寺となすとの説あるによりて、当初河勝は九条荒見河の辺にこれを創建せしも、後に太子の宮を賜わるに及びて今の地に移れるならんと解し、したがってその年代を、太子御存生中か、少くとも河勝存生中のこととなさんとす。しかれども前すでに言えるごとく、寺と宮とはもと別物にして、宮をもって寺となしたるにあらずとせば、この説は全然憑拠を失うべし。しかるに、ここに偶然にも、天智天皇九年後において同寺造営の事実の、『太子伝補闕記』によりて伝えらるるあり。曰く、
  斑鳩寺《いかるがでら》災を被るの後、衆人寺地を定むるを得ず、故に百済の入師衆人を率ゐて葛野の蜂岡寺を造らしめ、川内の高井寺を造らしめ、百済の聞師・円明師・下氷君雑物等三人、合《とも》に三井寺を造る。
と。この記事は『聖徳太子伝暦』にもあり。ただし『伝暦』には、高井寺を高井田寺とし、聞師を開法師とし、下氷君雑物を新物とす。『聖徳太子伝私記』またこれによる。高井寺はけだし高井田寺とあるを是とすべきか。今も大和川の北、高井田村に寺址あり。聞師と開師その是非を知らず。下氷君の名は雑物とあるを可とす。雑物あるいは佐比物《さひもつ》と仮名書きし、古えに類例多き名なり。さてこの記事は、斑鳩寺すなわち法隆寺が火災に罹るの後、衆人寺地を定むるを得ず、分散して太子もしくは法隆寺所縁の寺を造れりというにあり。蜂岡寺のことは言うまでもなし。高井田寺と太子との関係はこれを知らず。三井寺はすなわち法輪寺にして、太子の遺命により山背大兄王の創建するところ。しかも大兄王非命に薨じて事いまだ成らず、聞師・円明師・雑物等を煩わすに至りしものならんか。蜂岡寺は河勝これを建てて、推古天皇の三十一年には、三韓伝来の仏像を賜わり、これを安置するまでに寺は成就せしものなるべき(207)に、今百済の入師、衆人を率いてこれを造るということは、けだし、この時移転の事行われて、その工に要せしものなりと想像すべきに似たり。しからずば、秦氏のすでに造れる蜂岡寺を、法隆寺の焼き出されの衆人が、ことさらに造営すべき理由を発見し得ざるなり。されば、この入師らの造営が、広隆寺移転当時のことなりとせんには、その移転は、法隆寺が衆人寺地を定むるを得ざるほどの大災に罹りたる後なりと解すべく、しかして、法隆寺のかくのごとき火災は、『日本紀』に、「天智天皇九年四月壬申(三十日)夜半の後、法隆寺災し一屋余すなし」とあるもの以外に決してこれあるべからず。人あるいは法隆寺非焼失論を説き、『日本紀』のこの記事を信ぜざらんとすれども、ある庚午の年の四月三十日夜半に法隆寺の罹災せることは『日本紀』とは独立に、他の旧記によりて編纂せる『補闕記』の同じく認むるところなり。しかして『補闕記』はこの庚午を推歩して、推古天皇十八年のこととなせども、この時は太子年尚壮、おそらくは法隆寺創建造営中なりしなるべく、ことに、三井寺は太子の遺命によりて薨後に始めて発願されたるものなれば、推古十八年に法隆寺の焼き出されの衆人が、このいまだ発願だもされざる三井寺を造るのことあるべくもあらず。『補闕記』の推歩の誤り知るべきなり。しかるに『曰本紀』はこの庚午を天智天皇九年と推歩し、ことに一屋無余の大災とす。衆人寺地を定むるを得ずして分散せし旧記の所伝と相啓発して、最も信を措くべし。特にこの天智九年ということは、太子以後、『曰本紀』編纂以前に、庚午の年ただこの一度あるのみなれば、最も信ずべきものなりとす。かくて、これらの記事により、法隆寺の罹災が完全に立証せらるると同時に、百済の入師が衆人を率いて蜂岡寺を造りしことが、この天智九年の大災の後なることまた毫末の疑いを容るべからざるものたるを知るなり。されば弘仁「縁起」の伝うる広隆寺移転のことは、他に証明なき限り、しばらくこの天智天皇九年法隆寺火災後のことなるべしとの推測説を識者の前に提出してその高判を請わんとす。
 
 
(211) 中国考
 
 近時流行の地理の俗書には、多くは、わが国の区画を成すに当って、「山陰山陽の両道を併せ称して中国という」というように書いてある。もとより著者の見識で、この両道を自今便宜上中国と名付けるという次第ならば、その無鉄砲さに驚くのみで、どうで俗書のこと、あえてこれを相手にしてやかましゅういうにも当らぬ道理なれど、普通教育の教科書などに、麗々しく書き立てられて、小学校の児童や、中学校や師範学校などの生徒のあたまへ、そんな粗漏きわまる名称を注入せられては、ただに事実の真を誤るばかりでなく、歴史上の事柄を解釈するにも不都合少からぬ道理である。
 かかる俗書の著者に向って、余はしばしば、山陰、山陽を中国と称することはいかなる理由によるか、いかなるオーソリチーがあるかを尋問した。しかも、いまだ一度として満足なる答弁を得たことがない。否、不幸にして不満足なる答弁をも得ない。あるものは、何某先生の教科書にかくあるゆえにこれに従うたのだという。これはきわめて罪のない次第で、可否の鑑別をするの才能がなく、ただ先輩の説に盲従したに過ぎない。もとより論ずるの価値がない。あるものは地学上中国山脈の通過している地方だから中国というと答えた。これ等に至っては、全く常識を欠いてい(212)る答弁である。中国山脈という名は近ごろわが国の地学者の唱えはじめた称呼で、さらに準拠にならない。のみならず、この名称はあるいは山陰、山陽両道を中国というという俗説から起ったのであるかも知れない。果してしからばこれは本末顛倒の論で、もとより理由にも何にもならない。
 しかるにここに右のごとき俗書とは選を異にして、歴史地理的の考証の余になれる、吉田東伍氏の『大日本地名辞書』にも中国のことが出ている。その解釈に、
  中国、山陰山陽二道の総名なり、畿内の西にして、長門に至りて尽く。
とある。しかしてここに中国というは、吉田氏が辞書編纂の便宜上、かりに山陰、山陽を合して一区画としたものに名付けられたので、決して考証上この十六国は古来いわゆる中国であると論結せられた訳ではあるまい。ゆえに同氏はいう。
 中国の名義始見等明晰を欠く、和訓栞には、「山陽道を中国といへるは、延喜民部式に見えたり、源直冬備後に居しを、世に呼て中国武衛と称する如き是なり」と述ぶ、村岡氏(良弼)云、「延喜式に山陽道の一名を中国と載せし所なし」。○按に、南都本平家物語の、行家室山合戦の条に、
 平家は水島の軍より始て、所々の軍に打ち勝て色を直し、中国勢共悉随付、
とあり。然れども余本に中国の字句なく、盛衰記にも見えず、蓋鎌倉武家以降の名目なるべし。足利直冬を中国武衛といえることは太平記の中に見え、其以後のものには愈多く見えて、山陽山陰を総称したり。
 或は云ふ、古語に葦原中国と云ふは、出雲を本拠とし、其四傍に及べるならんと。此論説甚しき妄誕なり。
 今その中国の始見未だ事証を得ず、名義も亦臆断に難しと雖、蓋鎌倉武家の比に起り、京都と筑紫の中間をば区画して、中国と云へるによる(鎌倉の制、六波羅を以て京都以西を鎮め、外寇の警ありしより筑紫に九州探題を置き、長門に(213)も探題あり、この長門探題の所管を中国と名づけしにや、尚考ふべし)。
 峰相記にも已に播州を中国と呼ぶ。(摘要)
 すなわち同氏はいまだこれを断定して言われたのではない、なお後考を俟ちたるものと見受けられる。しかしながらここに「太平記以後のものには、愈多く見えて、山陰山陽を総称したり」とあるはいかがのものかや。いかにも中国という名は多く見えてはあるが、これをもって山陰、山陽両道(十六国)の総称と成したのは、確かなものには、いまだ見及ばぬようである。もちろん同氏の説とても、十六国の称呼と正確にいうではなく、漠然山陽にも山陰にも及んだ名称であるとのことを述べられたに過ぎないのであろう。
 「峰相記に播州を中国と呼ぶ」とはいかん。『峰相記』に果してこのことあらば、中国という名称は播磨の辺までをも含んで、南北朝ごろにすでにこの広き意味に用いられていたことの確証ともなる訳である。しかるに、今『続史籍集覧』本の『峰相記』を取って見るに、播磨はかえって西国の中であって、中国の中であるとのことは見えぬようである(精読したるにあらねば、見落しがあるかもしらねど)。その一、二の例をいわば、
  法花山、云々、正中元年十一月二十七日上棟。建武二年十月十四日文観上人を以て供養し畢ぬ。西国第一の大堂也。正応四年春比書写山護法所の遷宮、云々、言語道断の結構、自2他国1上下男女貴賎馳集、西国第一の見物たる由普く披露候也。
 これらによれば、『峰相記』には播磨を西国という中へこめてあることは明かである。もっとも『峰相記』中にも、中国という文字はないではない。播磨の一宮伊和大明神は、神功皇后征韓の時、副将軍としてかの戦場に向い、静謐の後も、なお異賊勝に乗ることあらば、中国の諸神を催して責め戦うべき約束をしたとの記事がある。ただしここに中国というは、外国に対した称で、わが日本のことをいうたと解するが至当であろう。(214)また『太平記』を見ても、播磨三備などの地方は、常に西国という中へこめてある。一、二の例をいわば、
 (西国蜂起官軍進発の事)将軍筑紫へ没落し給ひし刻、もし義貞早速に下向せられたらましかば、一人も降参せぬものはあるまじかりしを、其比天下第一の美人と聞えし、勾当の内侍を内裏より給はりけるに、暫しが程も別を悲んで、三月の末迄西国下向の事延引、是に由て、丹波の国には久下・長沢……、播磨の国には、赤松入道円心……、美作には菅家・江見……、備前には田井・飽浦……、備中には庄・真壁……、鳥も翔《かけ》らぬ様に構へたり、是より西、備後・安芸・周防・長門は申すに及ばず、四国・九州も悉くつかでは叶ふまじかりければ、将軍方に志なきもの迄も、皆順ひ靡かずと云ふ事なし……。
 ここには播磨、丹波より山陽道の各国、皆西国の中へ数えてある。また、
 (新田左中将赤松を責めらるる事)左中将義貞、五万余騎の勢を率して、西国へ下り給ふ、摂津国・播磨・丹波・丹後の勢共、思々に馳せ参じける間、程なく六万余騎に成にけり。
 (児島三郎熊山に旗を挙ぐる事)高徳国中(備前)に旗を挙げ、船坂(播磨備前の国境)を先づ破り候はゞ西国の軍勢御方に参らずと云ふもの候べからず……とぞ申送りける、其比播磨より西、長門の国に至る迄、悉く敵陣にて、案内を通ずるものなきに、高徳が使者来て、企の様を申しければ、新田殿悦び給ふ事斜ならず。
 (新田殿兵庫へ引かるる事)備前・美作の勢馳せ進《まい》りければ、馬筏を組で、六万余騎同時に川をぞ渡されける、是迄は西国勢ども馳参って、十万騎に余りたりしが、将軍兄弟上洛し給ふ由を聞きて、いつの間にか落ち失せけん、五月十三日左中将兵庫につき給ひける時は、其勢僅に二万騎にも足らざりけり。
 これらは皆、その指すところ山陰、山陽の諸国に亘って、南北朝のころには、このあたりを、西国という中へ算入していたことの証拠で、このような例は実に枚挙にいとまないほどである。またかの主として毛利家興起のことを述(215)べた『安西軍策』のごときも、その書名の安西は、西国を安んずるという意味かと思わる。
 しからば中国という語は、果していかなる場合に使用してあるかと尋ぬるに、すでに『太平記』にも所々に見えていて、その指している地方は、おもに山陽道筋という中にも、備前の辺より西の方の様に思われる。例を『太平記』に求むるに、
 (直冬西国下向の事)直冬備後の鞘に座し給ひて、中国の成敗を掌るに……。
 (新田左中将赤松を責めらるる事)尊氏已に筑紫九箇国を平げて、上洛する由聞え候へば、彼が近付かぬ前《さき》に、備前備中を退治して、安芸周防長門の勢を付けられ候はでは、勇々敷大事に及び候てこそ覚え候へ、……先づ山陽道の路を開いて、中国の勢をつけ、推て筑紫へ御下り候へかし。 (将軍筑紫より御上洛の事)筑紫九国の勢一人として将軍に従ひ靡かずと云ふもの無かりけり、然れども、中国に敵陣充満……。
 これらの文で見れば、もちろん中国とは漠然たる称呼には相違なきも、ほぼその指し示す所も知られ、広く山陰道の方までも及んではいぬことも想像せられ、また西国というのは広き名称で、中国とか、筑紫とかまたは九国とかいう名称は、西国の一部分を指したものであることも知られる。果してしからば、中国という語は、いかなる意味を有するか。京都と筑紫の中間の国との意に解すのも一説ではあるが、それならば、京都と坂東との中間の国にも中国という名称が起り得る道理であり、四国のごときが、かえって中国の名に相当であるかも知れない。よしやこれが詭弁であるとしても、その解釈も確説とは言われない。
 しからばいかに解すべきか。余はこの中国の中の字を、上中下の「中」と解するが至当と思う。上《かみ》とは上方《かみがた》、すなわち帝都のある地方で、畿内五国はもちろん、その付近の諸国もこの中に含まれるのである。また下《しも》とは九州地方の(216)名称で、今も大阪より九州地方へ通う船を「下通《しもかよ》い」というとか聞いている。よしや今のことは証拠にならぬとしても、二百十余年前にフランスで出来た『日本西教史』にも、
  シナより此国に渡航する人の最初に来着すべき地をサイコクといふ、此地に九王国あるを以て斯く名づく(按に、これは西国と九州との名称を混同す)。又シモとも称す、低下の義なり、最南に位せるを以て斯く云ふなり。
 これは外人が、実際に唱うるところを聞きて記せしもので、最も確かな証拠である。しからば上方より下国へ通ずる道中の国が、中国の名称を得るは、きわめて自然であると言わねばならぬ。
 中国の名称が、かくのごとくにして起つたとすれば、上方より九州すなわちシモの国へ通ずる、街道の沿国、すなわち山陽道諸国を、漠然|然《し》か呼んだということも容易に察しられる。
 かく言えばとて、摂津までは上方《かみがた》で、播磨からが中国であると判然とは言い難い。要は歴史的興亡の関係と、風俗の異同と、行政区画の有様となどにて定めねはならぬ。摂津と播磨との間には、早い昔から、須磨の関があり、播磨と備前との間には、舟坂峠の天然の嶮がある。これを実際について見るに、上方風の影響は須磨の関を越えて播磨に入り、ようやく舟坂峠で喰いとめられているかのごとき観がある。歴史的興亡の関係からいっても、風俗の点から見ても、播州はどちらかといえば、上方に近い関係を持っているという方が至当である。ことに今日にては、播州は摂州の大部とともに兵庫県に属し、神戸にある県庁の支配を受け、いっそう親密の関係を生じ、風俗の類似を致したことを思えば、今日は、たとえ歴史的の沿革は措いて問わずとするも、便宜上播磨を上方へ編入し、備前以西を中国とするの至当であることは、容易に認められる。いわんや歴史的発達上、また風俗上、右に述べるようなことがあるにおいては、なおさら誤りのないことであろう。
 すでに山陽地方における、中国の区画が極まつたとすれば、次には山陰地方に対しては、いかなる関係があるかを(217)観察するの要がある。
 山陰道の東部、すなわち丹波、丹後のごとき東部地方が、中国の中であるなどとは、山陽、山陰両道を中国というというような、無鉄砲な区画をする先生達でも、少し考えてみれば、その実らしからぬことを発見するであろうから、これはまず論外として、さていかなる地方まで、これを中国の方へ編入してよいか、これが攻究はすこぶる困難である。
 前にも述べたごとく、中国とはもと山陽道筋に呼びはじめた名称であるが、いつしかその名称が、山陰道の方へも波及することとなった。その次第をいかにというに、鎌倉時代に例の元寇の騒ぎのあった後、外寇に備えんがために、北条氏は筑前博多に九州探題を置き、長門の長府に長門探題を置いた。この長門探題は、六波羅探題の下に付近の諸国の事をも統べたので、中国探題という称を得ることとなり、その権力の及ぶところ、山陽諸国のみならず、山陰道へも及んだに相違ないが、その範囲は明かでない。元弘に当って、長門探題北条時直出で降ったので、いったん廃せられたが、南北朝のころ、足利直冬中国探題となって下り、備後の鞘にいて、その勢力は、周防・長門・石見までも及んでいた様子に見える。その後室町時代には、中国探題というような名称は見えぬが、大内義弘、周防・長門・石見等を領するに当っては、隠然中国探題たるの勢がある。義興、義隆に至っては、ますます盛んで、ついに安芸をもその領国内に入れ、東北山陰道に向つては、尼子氏と連年兵を交えた。この大内家のことを主として書いたものに『中国治乱記』の名があるのを見ても、大内家が中国の中心であったことが知られる。
 尼子氏はもと出雲から起り、近隣を服従せしめた大族で、経久に至っては、出雲・因幡・伯耆・隠岐の四国を略し、中国の大内氏と拮抗して、容易に服従しない。大内氏亡びて、毛利氏がその事業をつぎ、事実上中国探題となった後、元就は連年尼子晴久、その子義久に兵を交え、ついにこれを滅ぼして、かねて中国ともっとも関係の深かつた、因・(218)伯・雲・隠の四州は、ことごとく毛利氏の掌中に帰し、事実上中国とともに、打って一団となってしまった。ここにおいてこれらの地方に、中国の名称が及ぶのは、きわめて自然と言わねばならぬ。
 果してしからば、中国なる名称のもとには、山陽道にては備前以西、山陰道においては、因幡以西を算すべきものである。しかもついにその名称を、但馬以東に及ぼすべき一の理由をも発見せぬ。
 これを今日の行政区画について見るに、山陰道の中にて、丹波の大部と丹後とは、山城とともに京都府に属し、但馬と丹波の一部とは、山陽道の播磨、畿内の摂津の一部、南海道の淡路とともに兵庫の管下である。京都府、兵庫県の管下の地、これはむろん上方《かみがた》的であるといわねばならぬ。それより以西、すなわち山陰道には鳥取・島根の二県、山陽道には岡山・広島・山口の三県、これを合して中国となすは、たとえ歴史的発達を措いて問わずとするも、今日において最も便宜なる、最も自然的なる区画である。いわんやこれを歴史上に徴するに、また必ず然《し》かなければならぬにおいてをや。これを要するに、余がこの篇において述べたところは、次のごときものである。
 一、現今多く世に出ずる日本地理の俗書(特に初等・中等の教科書)に、山陰、山陽の両道を中国となし、一区画となすは、きわめて理由のない、また不都合極まるものであること。
 二、中国とはもと「上方《かみがた》」すなわち畿内地方と、「シモ」すなわち九州地方との中間の、街道筋の国の称呼で、主として山陽道の備前以西に適当であること。
 三、長門探題すなわち中国探題あるに至って、長門地方が中国の中心となり、足利直冬を経て、大内氏これを襲うに及んで石見までもその中に入れ、次第に山陰地方と関係を開き、毛利氏の代に及んで、ついに雲・隠・伯・因の四国は、中国と合同するに至ったこと。
 四、今日の行政区画からいうも、右に述べた範囲、すなわち鳥取・島根・岡山・広島・山口の五県の管下を「中(219)国」なる区画の下に置き、京都府、兵庫県の管下を「上方」の中に入れることが、きわめて自然的で、かつ便利なること。
  読者諸君、幸いにこの説を首肯し給わば、自今「中国」なる語に、きわめて自然的なる、右に述べるごとき、一定の意義を有せしめ、授業のさい、特に教科書などを編纂せらるるさいには、この区画によって貰いたいものである。
 
 
(220) 五泊考――五泊の制定は行基の事業にあらず――
 
 難波の川尻より播磨の室生津まで沿海航路五日ほど、その間大輪田・韓泊・魚住を指定して各一日ほどの碇泊場とし、ここに五泊の制定まる。三善清行の『意見封事』に曰く、
  山陽・西海・南海三道舟船航行之程、自2※[木+聖]生《ムロフ》泊1至2韓《カラ》泊1一日行、自2韓泊1至2魚住泊1一日行、自2魚住泊1至2大輪田泊1一日行、自2大輪田泊1至2河尻1一日行。此皆行基菩薩計v程所2建置1也。
と。ここに※[木+聖]生とは揖保郡室津にして、『播磨国風土記』に「此泊防v風如v室、故因為v名」とありて、古くよりーの要津たりしなり。次に韓泊は、同じく『風土記』に飾磨郡韓室里というに当るべく、けだし加古川の河口高砂の辺か。ここに泊村の名あり。魚住は明石郡にあり。『播磨名所巡覧図会』に、「魚住泊、今東島・西島・中尾・浜谷・西岡などを魚住庄といふ。昔行基の築く泊の湊なり」とあるこれなり。大輪田泊は後の兵庫港なるはいうまでもなし。最後の河尻とは神崎川すなわち古えの三国川の川尻にして、ここを瀬戸内海航路の出発点と定めしものなりき。
 これら五泊の地理は本誌第一巻に関千氏の考証ありてつまびらかなれば今贅せず。
 ただここに余輩の論ぜんとするところは、果してこれらの五泊の制が、そのいうごとく天平年間僧行基によりて設(221)定せられたるものなりや否やの点にあり。
 行基が布教のかたわら種々の土木工事を興し、世人の便益を謀りたることの少からざるは疑いなかるべし。したがってこれらの諸碇泊場が、行基によりて修築せられたりとのことは必ずしも否定するの要なかるべし。しかれどもここに川尻をもって出発点とする平安朝時代の五泊の制が、行基の時に成れりや否やについては疑いなきにあらざるなり。
 川尻は平安朝末期より鎌倉時代の古書に多くその名見ゆ。五条大納言邦綱川尻の寺江に別業を設け、高倉院厳島の御幸、安徳天皇の福原よりの還幸、その他福原下向に公卿らの往復の途次、往々この別業に泊したり。けだし京都より淀川によりて下るもの、江口より三国川に船を浮べてこの川尻に至り、これより大阪湾に乗り出すを例としたるなり。ここにおいてか川尻は内海航路の出発点として、最も重要なる地位を占め、川尻の一州《いちのす》は大輪田の経ケ島に相比すべき防波の障壁として知られたり。建久七年東大寺重源奏請して魚住・大輪田泊の石椋《いしくら》ならびに一州《いちのす》の小島を造築する料材の助成を求むるの文に、
  大和田泊者古今之間或雖2修復1、二十年来石椋頽壊風波相突、舳臚易v迷。河尻一州者洪濤漫々万里無v岸、広潟浩浩四面受v風、既来而欲v入2川尻1、不v待而空没2海底1。二所之煩蓋又如v此。
とあり。もって当時の状を見るべし。徳治二年正月七日付「八阪法観寺文書」に、同寺の釈運上人が摂津国三ケ所商船津のことを申請する文にも、いわゆる三ケ所をもって一州・兵庫・渡辺と注したり。ここに一州とはすなわち川尻にして、兵庫が武庫泊なるはいうまでもなく、渡辺とは今の大阪城北八軒屋の渡場なり。
 かく川尻が要津として重んぜられしゆえんのものは、当時神崎川すなわち三国川が淀川の本流と認められ、京都より内海に出ずるの船がこれを過ぐるを例としたりしがためなりき。三国川の淀川の本流として認められたりしことは(222)大江匡房の『遊女記』に、淀より出ずる船がこの流れによりて常に神崎・蟹島に至れることを叙するによりても知らるるのみならず、江口より南流するもとの淀川の本流をもって、特に南に分れて河内に向うと記し、これを支流と認めたるによりて明かなりとす。
 しからばすなわち川尻が特に重要の津泊となりしものは、三国川が淀川の本流となり、舟行常にこれによるに至りし後のことならざるべからず。しかるに淀川が三国川に通ずるに至りしは、延暦四年の工事以後のことなり。延暦三年桓武天皇都を長岡に遷し給う。かくて翌年摂津の神下・梓江・鯵生野《あじうの》の地を掘りて淀川を三国川に通ぜしむ。けだし新都より難波の海に出ずる交通の便を図り給いしと、一は淀川の氾濫を防がんとし給いしためなりしならん。天皇の御生母高野夫人は百済王家の出にして、その郷里は北河内にあり。天皇ためにこの地を遊猟地と定め給い、しばしば行幸ありしことは史の明記するところなり。天皇特にその御生母に厚く、その一族を優遇し給うことはなはだ多し。この工事また外戚家たる百済王氏の郷里の水害を除去し給わんとの御思召に出でしかも図りがたし。そはともかくも、この工事によりて淀川始めて三国川に通じ、淀よりただちに川尻に舟行するを得るに至りしなり。その以前は三国川は単に三島地方の水を集めたる小川にして、したがってその川尻が内海航行の出発点たる地位を占むべくもあらざりしなり。
 淀川と川尻との沿革右のごとしとすれば、その川尻をもって五泊の起点とし、内海航行の要津となすことは少くとも延暦四年以後のことならざるべからず。余輩が五泊をもって天平年間行基制定の津泊なりとする清行『意見封事』の説を疑うの理由ここにあり。
 行基は菩薩とも尊まれたるほどの高僧にして、布教以外社会事業に貢献するところ多かりしかば、後人その徳を慕うのあまり、しからざるものまでもこれに帰するに至るは自然の数なり。世に存する行基の日本図と称するものあり。(223)『拾芥抄』所収のものを始めとして、賀茂社・仁和寺等にもこれを伝う。多少の相違なきにあらざるもだいたい出所を一にせるものにして、その道筋を記するいずれも山城をもって出発点とし、明かに延暦遷都以後のものなり。否、加賀国の存在するを見れば、少くも天長のこの国分置の後のものなるは明かなりとす。しかも世これを行基の古図と称して疑わざりしなり。後人の行基の事業をいうものもって察すべし。
 ここにおいてか再言す、行基が内海の要津のあるものに修築を加えしことありしはあるいは信ずべし。しかれども川尻より室生までの問を五日程とし、五泊の制を定めたるは決して行基の所為にあらず、必ず平安朝初期のころのことなりと。
 
 
(224) 穴門考
 
      一 古史に見えたるアナドの名
 
 突然思い立つて吉備の穴の国に来て、旅窓に寸暇を求めて穴門の考証を書いてみる気になった。
 『日本紀』『古事記』を繙くと、アナドという名がしばしば見える。誰も知る有名なのは穴戸国である。大化六年二月、穴戸国司草壁連|醜経《しこふ》が白い雉を献じたので、その年号を白雉と改めたという条のそれである。ここに穴戸の国とは言うまでもなく後の長門国で、その名はすでに同書欽明天皇二十二年条にも見え、新羅の国使|奴※[氏/一]大舎《ぬてださ》が、難波大郡の館合において百済の下に列せられたのを怒り、館舎に入らずして船に乗って穴門に帰るとある。この時にはすでに長門すなわち穴門にも、蕃客接待の館舎があったので、工匠がこれを修治していたことも見えている。穴門と書いても、穴戸と書いても、つまりは同じことで、ともに後の長門の国である。これを長門と改めた理由は、穴門本来はアナガトといったもので、それが口で呼ぶ場合に省略せられてナガトとなり、後に長門の好字を宛てたものに相違ない。接続語の「が」を名の一部に読んでしまった例は、筑前の娜大津《なのおおつ》すなわち那津《なのつ》をナガツと読んで、斉明天(225)皇の御時にその発音のままに好字を宛てて、長津と改めたとあるのと同じ例である。しからばいつこれを長門と改めたかと考えるに、同じ『日本紀』でも、天武天皇五年条には明かに長門とある。すなわち孝徳天皇白雉元年以後、天武天皇五年以前で、思うに儺津《なのつ》すなわち娜大津を長津と改めたような時代において、穴門または穴戸も当時の発音のままに、「長」というよい意味の文字に書きかえたことであろう。しかして『日本紀』は、当時の史料の記するままにその文字を用いていたものであろう。
 これらの記事よりもさらに古く、同じ『日本紀』の垂仁天皇元年の条には、意富加羅《おおから》国の皇子都怒我阿羅斯等が穴門国に到着した記事がある。阿羅斯等はわが国に聖皇ありと聞き、帰化して穴門の国に来たところが、その国の伊都都比古《いとつひこ》という人が、われはすなわちこれ国王なり、われを除《お》いてまた二王なし、ゆえに他処に往くなかれといって、これを抑留せんとしたとある。この穴門をも従来普通に長門国のことだと解し、長門の地誌などにはこれを後の長門国府、すなわち長府の地に擬定してあるのが多いが、自分はその王と僧称したものの名が伊都都比古《いとつひこ》であり、またその地が大加羅すなわち任那からの着船地で、ことに阿羅斯等はその地から島浦に流連しつつ北海より廻って出雲国を経、越前|角鹿《つぬが》(敦賀)に来たという地理上の事実から考えて、この伝説を語った人の指示した穴門は、後の長門ではなくてかの『魏志』に見ゆる伊都《いと》の国、すなわち筑前恰土郡(今の糸島郡の一部)の地方であろうと思うのである。
 このほかにも『古事記』景行天皇の条には、倭建命《やまとたけるのみこと》が竺紫の熊曾を平げての御帰途に、難波まで来らるる途中で穴戸神を平げられたとのことがある。これも長門と解し得られぬことはないが、このことは『日本紀』の同じ条に、吉備に至って穴海を渡り、この所の悪神|穴済神《あなのわたりのかみ》を平げられたと書いてあるのに比較対照して、吉備地方のことだと伝えられていたのであったと解せられる。吉備の穴はすなわち後の備後の安那《やすな》郡で、今は深津郡と合併して深安郡といっている所にその名が伝わっている。その安那郡は、『日本紀』安閑天皇条に、備後国の諸屯倉を列(226)挙した次に、婀娜国《あなのくに》の屯倉と列挙してあるその婀娜《あな》で、『曰本紀』にこれをアダと傍訓してあるのはもちろんアナの転訛である。学者あるいはこれをもって阿多すなわち薩摩国に擬せんとするのは、言うまでもなく間違いである。その婀娜国が後に安那《あな》郡となり、文字によってヤスナと読むに至ったのであることは言うまでもない。
 さらに『延喜式』を見ると備中に穴門山神社というのがある。今吉備郡
呉妹《くれせ》村の上方なる高山《こうやま》の山頂に、穴門山神社として鎮座しているのがすなわちそれだと言われているが、果して昔からここにあったか否かは明かでない。この以外においてアナドの古名は、今一の参考書をも持ち合さぬこの旅行中においては、ちょっと心に思い当らぬ。
 
      二 アナドの名義
 
 アナドは普通に解して穴ある処、または穴をなす門という意味に説いているようである。したがって穴門の国すなわち後の長門のごときも、もとは地峡をもって豊前国と続いておったので、その下が穴すなわち洞門となって船が通っておったのが、後に陥落して現形となったのだとの俗説もある。たしか門司の和布刈《めかり》神社の「縁起」にもこれがあったと記憶するが、旅中正確にこれを引用するを得ぬを遺憾とする。故黒川真頼先生のごときも堅くこれを信じておられて、神功皇后征韓のさいにはまだこの穴を通られたのであったが、その後に陥没したのだと『古事記』の講義の時に説明せられた。当時無遠慮盛りの自分は、そんなことのありようがない地理上変動の事情を述べて、これを質問したところが、古書に記《か》いてあるのが証拠だといわれたことを記憶している。しかしその後いまだその古書なるものがなんであったかを知らぬ。あるいは右の「縁起」などによられたのではなかろうかと思うが確かでない。
 実際関門海峡が陸続きであったということは、遠い地質時代においては想像し得べき現象であるが、しかもその時代にはただに関門海峡ばかりでなく、だいたい中国と四国とも陸続きであって、それが陥落して瀬戸内海をなしたの(227)だと言われている。しからばそれはもちろんわが歴史地理学上の問題ではない。人類がこの大八州国に棲息するようになった時代には、関門海峡もすでに今のような海峡であったであろうと察せられる。しかもそれをアナドとしもいわれたのは、必ずしも隧道の意味ではなくて、単に海峡の義であらねばならぬ。両地相逼ってその間に狭い水道を通じ、遠く望めばその状あたかも穴のごとき形をなしたもの、これをアナドと呼ぶに不思議はなかろう。「ト」は「門《と》」で、水門《みなと》・遠吸名門《はやすいなど》の門と同一である。その速吸名門すなわち速吸の門で、潮流急にして速く吸い込む門というほどの義であろう。神武天皇御東征の時に珍彦を従えられた速吸名門をもって、『古事記』には佐賀関海峡に擬し、『曰本紀』には明石海峡に擬しているが、その擬定の当否はしばらく別問題として、この両処がいずれも潮流の急なる海峡であるので、土地の人は珍彦の故事をここに擬して語り伝え、それが別々に『古事記』『曰本紀』に採用されたことかと思われるが、いずれにしてもこの潮流の急なる海峡を、かく呼んだ証拠である。また伊弉諾尊が禊祓《みそぎはらい》を試みられたという速吸名門は、淡門《あわと》と並べ記してあって、由良の瀬戸か鳴門海峡かを指したつもりであるかも知れぬ。
 要するにアナドは海峡である。筑前糸島郡の地ももとは恰土郡と志摩郡との合併したもので、その志摩郡は名のごとくかつては離れ島をなし、恰土との間に海峡を夾んでおった。今も細い流れがほとんど東西の海を連接しているくらいである。これまた一の穴門の国である。任那王子都怒我阿羅斯等の伝説に見ゆる穴門国は、実にこの恰土と志摩との海峡の国であらねばならぬ。その恰土はわが古えに伊都国《いとのくに》または伊覩県《いとのあがた》として知られ、『魏志』にもここに有力な国王があったごとく記されているのを見れば、都怒我阿羅斯等の渡来に際して、その伊都《いと》ツ彦《ひこ》がみずから国王と称して蕃国の使者を抑留したぐらいのお話は、出て来そうなことである。伊都ツ彦とは言うまでもなく伊都国の領主で、なお阿蘇の領主を阿蘇津彦、熊(肥後)の領主を熊津彦、宇佐の領主を菟狭津彦といった類である。
 
(228)      三 吉備の穴戸
 
 さてこれから今現に自分の旅行しているこの吉備の穴戸の実地について、古今の地理上の変化を考えてみたい。
 日本武尊が退治されたという穴戸神すなわち穴済神《あなのわたり》は、『日本紀』に明かに吉備地方だとあってみれば、いずれ三備地方のこととしてこのお話が伝えられていたので、むろん後の長門なる穴戸ではない。吉備の海岸は実際穴門と称すべき狭い海峡が今も多い。備後尾道と向島・岩子島との間の海峡のごときは、東西二里にも近いほどの細長い水道で、今も瀬戸内海航行の汽船の航路に当っている。自分も現に巡航船でここを通過しつつ、左右の岸を望んで見たが、その幅狭い所はわずかに二町弱で、まるで河を進んでいる気分がするのである。すなわち立派な穴門の標本であるとの感が禁じ得ない。また同国田島と地方《じかた》との間を二挺櫓の小船で過ぎてみたが、ここも西に敷名の海峡、東に阿伏兎《あぶと》の瀬戸があって、その後者のごときは幅四町ばかりに過ぎず、また実に立派な穴門の気分がする。その他備前の藤戸の渡のごとき、今では東の児島湾の海岸からは一里半、西の海岸から二里半を隔つるような内地にあるが、七百年前までは東西から水路を通じて、これまた立派な穴門であったことが証明されている。さらに地図を繙いてみると、その南方なる水尻・広江・福江・犬淵・狐崎・彦崎等、水に縁故ある名の村落を連結して、今の倉敷川の下流より、東の方児島湾に通ずる一帯の低地のごときも、またかつて海水を通じたことが認められて、これが水道であったころには、その幅狭き所二町ばかり、今の尾道水道にも比すべき狭長の穴門であったに相違ない。また藤戸の北方、今の山陽鉄道線路の庭瀬駅から倉敷駅を経て、玉島駅に至る一帯の低地もまたかつては水道であった。この地方を都窪《つくぼ》郡というのは都宇・窪屋二郡合併の名で、その都宇郡は今は内地になっているが、当時には津すなわち要津の名を示しいるのである。その庭瀬駅と玉島駅とのほぼ中央に当る船穂村の宝満寺は、今は海岸から二里の内地にあるが、(229)本誌第二巻第一号に掲げた宝満寺古絵図によれば、かつてはこの付近まで海であったのである。また玉島駅から金光駅・鴨方駅を経て、笠岡駅に至る一帯の低地も地形上またかつては水路であったと解せられるのである。その笠岡の南方、備中浅口郡の西岸で、近ごろ多数の人骨を出して有名な津雲貝塚のある地方と神島《こうのしま》の間は、今も現に穴門をなしている。すなわち備前・備中の南部地方は、多くの島々が相連結して出来た土地であって、かつてはその島々の間に、多くの穴門が存在し、今も付近の島々の間に、少からぬ穴門が存しているのである。
 かくのごとき形勢は、今現に自分の旅行している備後南部においても同様で、今も数多の穴門があるばかりでなく、今は地続きになっている沼隈郡の大部も、昔は松永駅から東北に向つて鉄道線路に沿い、古えの都宇《つう》郷すなわち今の津之郷村に至るまで一帯の狭長なる水道を通じ、芦田川に続いて一の大きな離れ島をなしていたのである。その都宇郷は前述の都宇郡の名と同じく津之郷で、実に当時の要津であったことを示している。しかしてこの水道は、さらに東北に延びて神辺《かんなべ》・御領・高屋・出部・新町・祝部《ほうり》・矢掛を経、吉備公墳墓の地と称せられて有名な東三成から、遠く高梁《たかはし》川に達するまで、だいたい山陽街道を通ずる一帯の低地は、地形上またかつて水道を通じたものではなかったかと思われる。しかしてその備後|神辺《かんなべ》付近の広い低地は、実に古えの穴の海の遺址だと称せられて、今の深安郡の一部、古えの婀娜《あな》国すなわち安那《やすな》郡に当り、その水路の東して備中|呉妹《くれせ》村に至る猿掛の狭い関門に、南から弥高《やたか》山、北から妹《せ》山が相逼って、中に小田川を通じ、両山麓の距離わずかに二町余、東の平地からまた西の平地から、これを望めば立派に穴門の形勢をなしている。今はその北方|高山《こうやま》の頂に鎮座する穴門山神社は、かつてこの猿掛の穴門付近の山上にあったのではなかろうかと疑われる。
 要するに穴門は穴のごとき関門をなしている土地の普通に有すべき名称で、海の場合にそれが海峡を意味するのである。しかして三備地方には今もこの穴門が多く、昔はことに多かつたのである。
 
(230)      四 穴門神すなわち穴済神
 
 『古事記』に穴戸神といい、『曰本紀』に穴済神とあるのは、実に吉備地方においてこれらの穴門を指し、海上権を掌握して、航行の舟楫を脅かしたものであったと察せられる。後年因島《いんのしま》・来島《くるしま》等、その他の多くの島々を根拠として勢力を振つたかの海賊大将軍のごときは、実に古えの穴戸神に相当するもので、吉備と四国との間の島々は、実に中古における倭寇の根拠地であった。しかしてその形勢は、太古においてもすでにしかりであったと察せられる。この海賊すなわち穴戸神で、『古事記』はこれを抽象的名辞で記してあるのである。しかるに『日本紀』において、これを穴済神ともあるがゆえに、ただちに備後の安那郡の地に擬定し、ここにのみその遺蹟を求めんとするけれども、安那郡すなわち古えの婀娜国は、実にその穴門の名を有する地方の一で、たまたまその名が土地に遺つたのに過ぎない。なお要津のある所に津国(摂津)、都宇郡(備前)、都宇郷(備中)、などの名があり、今も伊勢に津市とて存するような類で、備後の安邪郡必ずしも吉備の穴門の全部ではない。少くも穴戸神占拠の伝説を有した地の全部ではあるまい。日本式尊が穴戸神すなわち穴済神を退治せられたという伝説は、大和朝廷の威力が吉備地方の海上の豪族、すなわち後の海賊大将軍らの上に及び、ついに航路の安全を保つに至った事情を反映している伝説であろうと解せられる。なお桃太郎のお伽噺が、いまだ馴服せざる異俗の島嶼を征服した事蹟を示しているように。
 備中津雲の貝塚を見て、備後鞘津から小船に乗って阿伏戸《あぷと》の瀬戸を過ぎ、島人によって神武天皇駐駅の高島だと言われる田島に渡り、中古の海賊大将軍に関する材料をでも求めたいと思ったが、因島村上氏の一族占拠のことを知ったほかなんら得るところがなかった。その代りに太古の海賊たる穴戸神の伝説から考え付いて、旅中この「穴(231)門考」一編を得た。すなわち草案のままこれを本誌編者の手に送致する。座右なんらの参考書なく、先輩の穴門に関する考説を参考することの出来なかったのは遺憾であるが、編輯期迫って今これをいかんともし難い。
                    (大正八・一〇・六、汽車の中より)
  ちなみにいう。津雲の貝塚からは最近清野博士が石器時代の人骨四十四体を得られて、いよいよ学界の注目を引いたが、田島の内の浦からも、かつてはなはだ多くの枯骨を発見して、随所の墓地に埋めた事実を見て来た。人類学者の研究が、他日この島の秘密を闡明ならしむる期あらんことを希望する。
 
 
(232) 出雲宍道湖付近の変遷と渟田門の所在
 
     一 渟田門に関する旧説
 
 仲哀天皇二年筑紫の熊襲反して朝貢せず。時に天皇南狩して紀伊|徳勤津宮《ところのつのみや》にあり。親征の議を決して海路|穴門《あなど》(今の長門)の豊浦津(今の長府)に幸し給い、皇后にここに会せんことを勅し給う。時に神功皇后は越前|角鹿《つぬが》(今の敦賀)の笥飯宮《けいのみや》にあり。六月海路西行し渟田門《ぬたのと》に到りて船上に食《みけし》し給いしに、海※[魚+即]魚《たい》多く船の傍に集まる。皇后すなわち酒をもってこれに灑ぎ給えば、※[魚+即]魚《たい》酔いて水に浮ぶ。海人《あま》これを穫て喜んで曰く、聖王の賜うところの魚なりと。その処の魚六月に至れば傾浮《あぎと》うこと酔えるがごとし。これその縁なり云々。以上『日本紀』記するところの古伝説なり。
 右の渟田門の位置、正しく世に伝うる所なし。「仁徳天皇紀」に渟田佐伯部《ぬたのさえきべ》あり。安芸|沼田《ぬた・ぬまた》郡なり(明治二十九年沼田、高宮二郡を併して安佐郡となす。ただし古えの沼田郡は実はその地にはあらず、後の豊田、加茂二郡に跨りたる地方なりき)。同じ『日本紀』中にありて、ことにその記事の年代相近きがゆえに、後の学者多くはただちにこれに想到し、ためにその遺蹟をここに求めんとするもの多し。『日本書紀通証』には安芸人の説を引きて、今豊田郡の味潟、※[魚+即]魚(233)傾浮すること酔えるがごときのこと、初夏浮魚海を蔽う数日、称して浮鯛というとあり。『書紀集解』にも『和名抄』を引きて、ただちに安芸沼田郡沼田郷と註せり。また『芸藩通志』には豊田郡能地村(今佐江崎村の大字)なる青木迫門をもってこれにあつ。しかれども、皇后の行啓は海路日本海沿岸による。敦賀より長府に到り給わんに、如何ぞ遠くこれを通過して安芸に航し給うことあらんや。安芸の沼田《ぬた》は要するに同名異地のみ。
 これに対して伴信友大人は、その郷里若狭の地にこれを求め、三方郡の海中とす。曰く、「角鹿(ノ)津より海上船路十里|許《ばかり》に、三方の海中にさし出たる常神《ツネカミノ》浦の海岸を常神(ノ)崎といふがあり。それに向ひて丹生《ニフノ》浦【若狭国内】のさし出たる岬を琴引が崎といふが、その海門の門《と》七里ばかりあり。これ気比旧記に、三方郡海岸謂2神楽崎1処是也といへる処にて、其海門の海面を管絃の渡といひて、今角鹿(ノ)津より船発《ふなで》して、長門の方へ乗出せる海路にて、若狭国志に、【丹生浦条】常神(ノ)村与2琴引(ノ)崎1相距海口七里。海湾南(ニ)向。潮汐穏静。又無2巨巌1。甚宜v泊2舟船1。故他邦商船来息2于此1。といへる処なり。今もこの常神と丹生浦との、さし出たる岬の問を、ノタノトといひ伝へたり。ノタノトとはヌタノトを訛りたるものにて、紀に云る渟田《ヌタノ》門此処なること疑なし」(已上『日本書紀通釈』引くところによる)と。しかれども、これを「ノタノト」と称すということ、疑いなき能わず。かりに大人の時代にさる称ありたりとて、他書かつてこれを言わず、また、その地方に渟田《ぬた》の古名の所伝なく、神后浮魚の伝説も存せず、ことにかくのごとき港湾の口を「と」と呼ぶの例普通にあらざるを思うに、これをもって「仲哀紀」の渟田門に擬せんは、他に確証なき限り、これが是認に躊躇せざるべからず。「ト」は門口の義なり。水についてこれを言わんには、左右の陸地相寄りて、中に水路を有する場合に多くこれを用う。由良門《ゆらのと》・明石門《あかしのと》・速吸名門《はやすいなど》・阿波の鳴門《なると》のごとし。その水路狭く迫りて、穴のごとき状をなせるを穴門《あなど》という。関門海峡の穴門は最も著名にして、その称ついに国名となる。筑前糸島郡の平野またもと一の穴門たりき。「垂仁紀」に穴門の人|伊都都比古《いとつひこ》ある、これなり。河水の海に注ぐの所、これを水門《みなと》と称す。『古事記』神代巻に水戸《みなとの》(234)神速秋津日子《かみはやあきつひこ》・速秋津比売《はやあきつひめ》あり。河と海とにより、持ち別けて、沫那芸《あゎなぎ》神・沫那美《あわなみ》神以下諸神を生む。『延喜式』「大祓詞」にも、「速川《はやかわ》の瀬にます瀬織津比※[口+羊]《せおりつひめ》と云ふ神、大海原に持出でなん。かく持出で往《い》なば、荒塩の塩の八百道《やおじ》の八塩道の、塩の八百|会《あい》にます速開都比※[口+羊]《はやあきつひめ》と云ふ神持ちか呑みてん」とありて、速開都比※[口+羊]が河口に座《ま》す神たることを説けり。河口は水運の仲継地として、船舶の碇繋場たること多く、これより河口ならざる泊舟の地をも「ミナト」と称することとなりたれども、こはもとこの語の本義にあらず。されば三方郡東部の海湾のごときは、その湾口七里に渉り、左右に岬の斗出するものありたりとて、これをもって「門《と》」と呼ばんは妥当にあらざるなり。
 浮魚の故事を伝うる渟田門が若狭にありとの説はとうてい成立せざるべし。しからばその故地は果してこれを何地に求むべきか。余輩はこれを地名と地形変遷との研究より、出雲沼田郷に擬せんとはするなり。
 
     二 上代における出雲北部の地変
 
 出雲の北部一大半島あり。その西南部簸川《ひのかわ》郡の平野をもって陸続きとなり、西々南より斜に東々北に延びて、内に宍道湖と中海《なかうみ》とを擁す。湖と海と馬潟瀬戸によりて彼此相通じ、中海の東には、夜見半島の美保湾と境するあり、中江の瀬戸によりてその水わずかに外海に通ず。『出雲風土記』に曰く、
  国引きませる八束水臣津野命《やつかみずおみつぬのみこと》詔《の》りたまはく、八雲立つ出雲の国は、狭布《さぬ》の稚国《わかくに》なるかも、初国《はつくに》小さく作らせり。故《か》れ、作り縫はんとす、と詔りたまひて、栲衾《たくぶすま》新羅《しらぎ》の岬を、国の余《あまり》ありやと見れば、国の余あり、と詔りたまひて、童女《おとめ》の胸※[金+且]《むなすき》取らして、大魚《おおいお》の腮《きだ》衝き別けて、幡荻《はたすすき》ほふり別けて、三縒《みつより》の綱打ちかけて、霜黒葛《しもつづら》くるやくるやに、河船のもそろもそろに、国来《くにこ》々々と引き来縫へる国は、許豆《こつ》の打ち絶えより、八百土《やおに》杵築の岬なり。かくて固め立てし※[木+戈]《かし》は、石見国と出雲の国との境なる佐比売《さひめ》山(今の三瓶山)是なり。亦持ち引ける綱は、薗の長浜是なり。
(235) 亦、北門佐伎《きたどさき》の国を国の余ありやと見れば、国の余あり、と詔りたまひて、童女の胸※[金+且]取らして、大魚の腮衝き別けて、幡荻はふりわけて、三縒の綱打ちかけて、霜黒葛くるやくるやに、河船の、もそろもそろに、国来《くにこ》々々と引き来縫へる国は、多久《たく》の打絶よりして、狭田《さだ》の国、是なり。
 亦北門|良《?》波の国を、国の余ありやと見れば、国の余あり、と詔りたまひて、童女の胸※[金+且]取らして、大魚の腮衝き別けて、幡荻はふりわけて、三縒の綱打ちかけて、霜黒葛くるやくるやに、河船のもそろもそろに、国来《くにこ》々々と引き来縫へる国は、手《?》波縫の打絶よりして、闇見《くらみ》の国是なり。
 亦、高志の都々つつ》の三崎を、国の余ありやと見れば、国の余あり、と詔りたまひて、童女の胸※[金+且]取らして、大魚の腮衝き別けて、幡荻ほふりわけて、三縒の綱打ちかけて、霜黒葛くるやくるやに、河船のもそろもそろに、国来々々と引き来縫へる国は、三穂の崎なり。持ち引く綱は夜見島是なり。固め立てし※[木+戈]《かし》は、伯耆の大神の岳(今の大山)是なり。
と。これすなわち有名なる国引の古伝説として、出雲にては古くこの半島をもって新羅・高志その他の地方より引き来りしものなりと語り伝えたりしを知るべく、その裏面には、この地方がもと離れ島たりしことを語れるものというべきなり。
 出雲北部の半島地方が地勢上離れ島なりしことは、単に地形図を見るのみにてもこれを明かにするを得べく、必ずしも国引の古伝説を要せざるなり。しかれども、それがいつの時代に地方《じかた》と接続するに至りしかは、単に地質上の観察のみにては明かならず。『出雲風土記』の記するところによれば、今より約千二百年前、すなわち奈良朝の初めごろには、現在陸地となれる斐伊川下流の平原の大部は内海にして、今の宍道湖は、少くも現在の状態よりも一里以上西方に延びたりしがごとし。そは楯縫郡(今簸川郡の内)が、現在の地図上にては、その東南隅の一部がわずかに宍道(236)湖に接するのみにて、その南境の大部は平原をもって出雲郡(今簸川郡の内)に連れるに反し、『風土記』の上にては、「南は入海、北は大海」と記せるによりても知らるべし。もっとも後の楯縫郡の西部なる、旧字賀郷・美談郷・伊努郷等の地は、もと出雲郡の中なりしかば、『風土記』当時の楯縫郡は今の平田町の西方までにして、該書に「南は入海」といえる範囲もこの地方限りと見るべきなり。
 なおさらに『風土記』には、楯縫郡の諸川を記して、
 佐香川。源出2郡家東北所謂神名樋山1東南流入2干海1。
 多久川。源出2郡家東北神名樋山1東南流入2干海1。
 都字川。源二、【東水源出2阿豆麻夜山1。西水源出2見椋山1】二水合、南流入2干海1。
 宇賀川。源出2同|見椋《みくら》山1南流入2干海1。
となす。これを現在の実際について見るに、最東にありて東南流せる佐香川のみは宍道湖に注ぎ、他の三川はいずれも船川と称する小渠に会し、ただちに海に入るの態にあらず。すなわち知る、少くも『風土記』時代には、その最西の川たる宇賀川の船川に会する辺までは、宍道湖すなわち入海なりしことを。次に旧出雲・神門(共に今は簸川郡の内)二郡の西部地方を見るに、海岸に近く神門水海《かんどのみずうみ》あり。斐伊川すなわち『風土記』にいわゆる出雲の大川これに注ぐ。周三十五里七十四歩すなわち今の約五里三十一町十四間。その水は江によりて外海に通ず、江長さ三里一百二十歩(今の約二十町)。江の南北各沙丘ありて水海を外海と隔つ。北なるものは出雲郡に属し(この地方後世神門郡に入る)これを薗と称す、長さ三里一百歩(今の約十九町四十間)広さ一里二百歩(今の約九町二十間)。南なるものは薗(ノ)長浜と称し、神門郡に属す。長さ二十二里二百三十四歩(今の約三里二十七町五十四間)広さ三里(今の約十八町)。この両沙丘は国引の古伝説にいわゆる、佐比売《さひめ》山(三瓶山)を※[木+戈]とし、栲衾新羅の岬の国の余を八百土《やおに》杵築の岬と引き来れる三《みつ》
 
(237) 第七図 現今の出雲北部の形勢図
 第八図 風土記時代の出雲北部の形勢図
 第九図 神功皇后時代の出雲北部の形勢推測図 〔三図とも省略〕
 
(238)縒《より》の綱なるものなり。さらに『風土記』時代より遡りて、その前数百年の時代の状態を想像せんに、神門水海はいっそう広大にして、薗の長浜なる砂丘は、西南より杵築方面に向って斗出せる一の砂嘴たりしなるべく、その状あたかも夜見半島の砂嘴が、束南より島根半島に向って斗出せるに似たりしなるべし。国引の古伝説が、西端なる杵築御崎《きづきのみさき》・蘭長浜・佐比売山の関係をもって、東端なる三穂崎《みほのみさき》・夜見島(今の夜見浜)・大神岳(大山)の関係と対照記述せるもの、またもって参照すべし。しかして宍道湖さらに大にして、いわゆる入海たらんには、神門水海はもって今のいわゆる中海に比すべく、さらに上代に遡らんには、水海と宍道湖と相連続して一の内海をなし、東の方|朝酌促戸《あさくみのせと》によりて中海と東西水路を通じたりしものなるべきは、疑いを容れず。かくて日本海沿岸航行の船は、今の美保湾より中江瀬戸(『風土記』に栗江崎より夜見島に相向う促戸の渡)を経て中海(『風土記』に入海)に入り、さらに馬潟瀬戸(『風土記』に朝酌促戸の渡)より宍道湖(『風土記』に入海)を過ぎ、水路によりて神門水海に入り、もって西の方外海に出でしものとすべし。
 
       三 渟田門の所在
 
 出雲北部の半島がもと一の離れ島にして、斐伊川下流に生じたる沖積層の平野が、ここにこれを地方《じかた》に接続せしめたること前述のごとしとすれば、ある時代には、宍道湖と神門水海との間に「海門《と》」と称すべき水路の存在せしことはこれを認めざるべからず。しかして『風土記』にいわゆる楯縫郡|沼田《ぬた》郷は、実にこの水路に当る地方の北岸に瀕して存するなり。さればこの海門に渟田門《ぬたのと》の名あるべきは、これ自然の数ならんのみ。かくて神功皇后の御船ここを過ぎ、酒を魚に灑ぎて魚浮び出でたりとの伝説は、この渟田門に存せしものと解すべきなり。
 しかるに物換り星移り、地形ようやく変じて往年の渟田門は斐伊川(『風土記』に出雲大川)より運ばるる土砂に埋め(239)られ、ついに地方《じかた》と島と陸続きとなるに及んで、この渟田門通過の伝説も天平の『風土記』に採録せられず、全くその地において失わるるに至れり。幸いにして『日本紀』は、皇后征韓伝説を記述せる古史料によりてこれを採録し、もってこれを後世に保存するを得たるなり。
 余輩は『日本紀』の採録せるこの伝説によりて、必ずしも神功皇后の御船がここを通過し、皇后みずから酒をもって魚に灑ぎ給いし史実の存在を信ぜざるべからざるの義務を有せずといえども、少くもある時代においてこの地の漁夫らが、右の伝説を語りし事実を信ぜざるを得ざるなり。しかして、その時代においては、この地がいわゆる渟田の海門をなして、舟楫相通ずるの水路たりしを信ぜざるを得ざるなり。敦賀より長府に至るの海上、この地を措きて他にこれに擬すべき地名を伝えず、これに擬すべき地形を存せず、しかしてただここにひとり、位置において、名称において、最も適当せる出雲楯縫郡沼田郷の水門あり。神后通過の伝説を有する渟田門はまさにこの地に擬定せざるを得ざるなり。古往今来、幾百千回読み古されたる古書にも、なお研究の余地少からず。記しおわりて一種不可言の感なき能わず。
 
(240) 讃岐壇の浦考
 
 讃岐屋島のそばに、土地の人が壇の浦だという所がある。歴史をよくも知らぬ土地の人々は、これが有名なる屋島壇の浦で、平家全滅の場所だという。歴史を少し知ったほどの人はそれを嘲笑してそんな馬鹿なことがあるものか、平家全滅の壇の浦は長門下の関附近で、屋島のそばに壇の浦があるなどとは、飛んでもない間違いだという。
 両説ともによろしくない。
 なるほど平家全滅の壇の浦は長門下の関附近に相違はないが、屋島のそばにも同名の壇の浦という地があって源平の古戦場であったには相違ない。その証拠をまず提出して、次に壇の浦の名の説明に及ぼう。
 『玉葉和歌集』に、
  元暦元年世の中騒がしく侍りける頃、平行盛備前の道を囲むとて、増の浦と申す所に侍りけるに、八月十五夜月くまなきに、過ぎにし年は経正、忠度朝臣など諸共に侍りけるを、いかばかり哀なるらむと思ひやられて、そのよし申しつかはすとて       全性法師
  ひとりのみ浪問にやどる月を見て むかしの友やおもかげに立つ
(241)とある。備前の道を固めんがために平行盛がいたという壇の浦は、いずれ備前に近い所であったに相違ない。それが長門の下の関付近の壇の浦でないことは明々白々だ。しからばこの時、行盛はどこにいたか。その場所調べが出来たならば、いわゆる壇の浦の所在もおのずから明かになるべきである。
 ところが元暦元年八月十五夜の月見の宴は、まさに平家の人々によって、かりの内裏ながら万乗の君のましますこの讃岐の屋島で行われている。しかして問題の行盛は、その列座の中の一人で、
  君すめばこれも雲井の月なれど、なほ恋しきはみやこなりけり
とさも物哀れな歌までも詠んでいるのである。これは『源平盛衰記』に立派に出ていることで、全性法師が遥かに歌を寄せて思いを申しつかわしたのは、まさにこの夜のことであった。しからば、この宛て所の壇の浦がこの時行盛所在の讃岐屋島の地なることは一点の疑いを容れないこととなるではないか。なおさらに、行盛が讃岐屋島の壇の浦にいて、備前の道を固めたということは、同じ『源平盛衰記』の佐々木高綱が藤戸の瀬戸を渡って、児島で合戦をした事の条に、
  同き月(九月)十八日に平家讃岐の屋島にありながら山陽道を打ち靡かし、左馬頭行盛を大将軍として、飛騨守景家以下の侍を相具して、二千余艘にて備前国児島に着云々。
とあるのでも知られる。この文「長門本」には、「飛騨守景家を大将にて、一万余艘にて備前国云々」とあって、文章に少異はあるけれども、とにかく元暦元年八、九月のころ、平家が讃岐の屋島にいて備前の児島を固めたことは明かで、その八月十五夜に行盛のいた場所が、讃岐屋島の壇の浦であったことは間違いない。なおこのことは『源平盛衰記』ばかりでなく、『吾妻鏡』にもちゃんと出ている。
 『吾妻鏡』元暦元年十二月七日の条に、
(242) 平氏左馬頭行盛朝臣、五百余騎の軍兵を引率して、城郭を備前の児島に構ふるの間、佐々木三郎盛綱、武衛の御使として之を責め落さんが為に行き向ふと雖、云々。
とある。
 讃岐の屋島にも壇の浦という所があって、それがまた源平の古戦場であったことはもはや明かだ。歴史を知らぬ土地の人が、平家全滅の壇の浦をここだというのはむろん間違いだが、歴史を少しばかり知ったほどの生意気な人が壇の浦の地名を屋島付近に認めざらんとする説も、撤回して貰わねばならぬ。
 さすがに謡曲の作者は讃岐屋島の壇の浦の存在を知っておった。謡曲「八島」に、
  何、能登守教経とや。あら物々しや、手並は知りぬ。思ひぞ出ずる壇の浦のその船軍、今ははや閻浮に帰る生死の、海山一同に震動して、船よりは鬨の声、陸には波の楯、月に白むは剣の光、潮にうつるは冑の星の影、水や空、空行くも亦雲の波のうちあひ、さしちがふる船軍のかけひき、浮き沈むとせし程に、春の夜の浪よりあけて、かたきと見えしは群れ居る鴎、鬨の声と聞えしは、浦風なりけり、高松の浦風なりけり、高松の、朝風とぞなりにける。
 壇の浦はもと団の浦とも書くべきものであろう。昔は諸国に軍団というものがあって、兵士を収容し、これを調練するの仕組となっていた。あるいはこれを略して単に団という。その所在は、たいてい国府付近にあったであろうが、またその他にも枢要の場所に置いたもので、国の大小により、一団ないし六、七団の多きに及んだ場合もある。讃岐にあっては、むろん綾の国府の付近にあったに相違ない。菅公が雨を祈って有名な城山《きやま》の頂上には、今も旧式の城門があり、土塁があり、石弩の台石と思われるものもあって、古代軍事上の設備のあったことを示している。しかもこの綾の団のほかに、他国の例に徴するに、讃岐には今一個もしくは二個の団があったに相違ない。しかしてその場所を求めたならば、少くもこの屋島はその一として選定されなければならぬ。天智天皇が外寇に対して瀬戸内海の防備(243)を厳重にされたさいに、要塞の地として選定されたのが長門の豊浦とこの讃岐の屋島とであった。しかして豊浦には今の四王寺山に城塞が設けられ、今日砲台となっている火の山には烽燧が置かれ、後までも豊浦軍団すなわち豊浦の団は存在しておった。しかしてその豊浦の団のあったところの海浜が、すなわち平家全滅の壇の浦である。平松家本の『玉葉』には「壇」の字を「団」と書いてある。すなわち豊浦団の浦だ。後世音通によって壇の字を用いついにはその壇が団であることを忘れて、今川了俊の紀行には、長門の海を壇の浦というは、神功皇后が此の浜に壇を立てて、御祈りありしなり、などと説明してあるが、もとより取るに足らぬ。長門の壇の浦が軍団所在の浦の義なることは、地理から言うても、伝説から言うても毛頭間違いはない。しからば同じ条件の下にある讃岐の屋島の地に、同じ壇の浦があったなら、これまた同じく軍団の所在地であったことが名の原因になったと解してよろしかろう。ただ屋島軍団の名が古書に残っていないのを遺憾とする。
 右一編讃岐会の嘱により同会機関誌『讃岐』に掲載せしものなり。さらに一般史家の清覧を仰ぐべく本誌に掲ぐ。
 
(247) 江戸の町割
 
 天正十八年徳川家康封を関東に移されて江戸城に入るや、まず城下の地を整理して諸将に邸地を給わり、また商賈のために町屋を割り与えたり。今「寛永江戸図」によりてこれを見るに、今の芝区汐留町・浜崎町、京橋区木挽町以東はたいてい海にして、麹町区丸の内・番町・飯田町、神田・芝の各大部は、多く諸侯諸士の邸宅となり、今の日本橋区・京橋区の大部のみ町屋として割り当てられたるものなりき。もとよりこの以外品川・新宿・板橋・千住等の各街道筋に添いて、町屋建ち続けるは言うまでもなし。その寛永当時のこの形勢は、もって天正当初の実際を示すものにあらざること勿論なれども、その町屋の町割のだいたいが、すでに天正当時において施されたりしはこれを知るを得べく、その後あるいは割り改められ、あるいは拡張せられたるも、なおその古町のごときは、大体において今にその旧態を伝うるなり。
 江戸の町割は家康入国の翌月初めよりすでに着手せられたり。『天正日記』に曰く、
  九月一日。はれ、くもる。本町通り絵図仰付けらる。四十丈づゝにわり可v申旨。道はゞ六丈にわり、よこ町の分四丈より三丈、二丈まで、所によりいろ/\。
(248) ここに本町通りとは、常磐橋詰を承けて起れる今の日本橋区本町の通りにて、江戸城大手門正面に通ずる道路なるがゆえにこの称あるなり。常磐橋すでに「慶長古図」にありて、浅草口と記し、『慶長見聞集』にはこれを大橋という。本町これより浅草橋に達し、千住口より奥州街道に通ずるなり。この本町の町割を手始めとして、漸次他に及ぼす。さてここに「四十丈づゝにわり可v申」とあるは、平城・平安両京以来の町割の制を踏襲せるものなり。平城・平安両京にありては、各町の広袤四十丈四方ずつにして、その間に大路八丈、小路四丈の道路を通ず(平安京にありては、特別の道路には特別の道幅を有せしめたり)。天正年間豊臣秀吉平安京荒廃の後を承け、市区の復旧工事を興してほぼ現今の京都市の町割をなし、さらにこれを伏見の市街に及ぼす。皆一町四十丈の制によれり。しかして家康の江戸町割、また実にこの制に従いしものなりき。ただその道路の幅を改めて大路六丈とし、小路四丈・三丈・二丈等となせるものは、時の宜しきに従いて斟酌を加えしものなるべし。
 この一町四十丈の割り出しを京間《きようま》と称す。京都の間取の寸法の義なり。その一間《ひとま》の長さ、今はこれを六尺五寸となす。けだし享保改定以後の曲尺によれるものにして、もとは六尺六寸三分の二なりき。これ各町の四十丈を六十分せるものの一に当れるなり。これに対して田園条里の制に基づき、六尺を一歩すなわち一間とするもの、これを田舎間という。京間・田舎間のことはかつて本誌第二十一巻第六号より第二十二巻第二、四、五、六の諸号に渉り、「京間・田舎間を論じて令尺と曲尺との関係に及ぶ」と題し、詳細論究するところありたれば、今はすべてこれに譲りて、これに関する説明を省略すべきも、その京間と田舎間との関係が、往々この江戸町割の研究によりて証明せらるるところあるは、最も愉快を感ずるところなりとす。
 さらにその各町四十丈四方の地を住民に割り当つるに当りては、江戸と平城京とすこぶる趣を異にするものあり。平安京にはこれを四行に分ち、各行さらに八戸に分ち、通じて三十二|戸主《へぬし》となす。一|戸主《へぬし》間口五丈奥行十丈、面積五(249)十平方丈なり(これは単に町割の原則にして、実際には多少の異同ありしは勿論なり)。しかるに江戸にては、各町を奥行京間二十間ずつに分ち、その四方道路に面する地区はこれを町屋として割り与え、中央なる方二十間の一区は、これを空地として火除等の目的に保留し、あるいは倉庫その他特殊の目的に使用し、また拝領地として、ある由緒あるものに班給せしものなりき。この形勢は「寛永図」につき、日本橋以北の町割においてなおこれを見るを得るなり。かくてその割り与えられたる町屋は、奥行各京間二十間にして、間口は通例四十丈すなわち京間六十間の一面を十分したるもの、すなわち間口京間六間を法とし、その端数を生ずる場合には、便宜五間もしくは六間内外の間口に分ちしもののごとし。すなわちその面積は、六間に二十間の場合には、五十三平方丈三分の一にして、すなわち京間百二十坪となり、他はこれに準じて伸縮あり、これを平安京の一戸主に比するに、百二十坪において、三平方丈三分の一を広くするの結果となる。けだし江戸にありては、その間口を狭くしてこれを奥行にて補い、面積においてはだいたい平安朝の一戸主に近からしめたるもののごとし。その他の場合もほぼこれに近き面積を得べし。各町繞らすに三尺の犬走りをもってし、さらにその外に下水溝を通ず。こは日本橋区役所所蔵「寛保沽券図」によりて知ることを得べし。これを平安京の都制に比するに、平安京にありては、大路の両側に幅四尺の溝を通じ、溝の外に各五尺の犬行あり、さらに厚さ六尺の築地を設け、小路の場合には溝および犬行各三尺、築地五尺とするの制なりしが、江戸にては道路の幅平安京よりも狭きがために随って溝および犬行、ともにこれを縮小し、かつその町屋はただちに道路に面するを便とするにより、特に築地を除きしもののごとし。
 右は大体において天正町割の原則と見るべきものなれども、実際においては必ずしもかくのごとくならず。こは平安京においてもまた同様なりき。平安京の戸主の割り方は、後図においてただその一つの場合をのみ示したれども、事実上市町には多少これと異なりたる割り方ありしと同じく、江戸の町割のごときも後図掲げたる甲乙の二
 
(250) 第一〇図 平安京と江戸の町別の比較 〔省略〕
 
つの場合のほか、実際には町屋の方向にも、またその割り方にも、種々の相違ありしこと、「寛永図」によりてこれを推測するを得べし。またその平安京における民戸が、あるいは隣地を併合し、あるいはこれを分割して、事実上各戸それぞれに一戸主の面積を有するにあらざりしがごとく、江戸においても各町屋の間には、必ずしも一様ならず。あるいは五間に満たざるあり、あるいは十間に余れるもあり。これらは皆、「寛保沽券図」によりて知るを得べきなり。
 天正の町割工事の進行は督促すこぶる急にして、思いのほかに迅速に行われたりしもののごとし。『天正日記』九月二十六日の条に、
  本町のはし大かた出来る。町わり大かたきまる。小間大間といふこと、くわんとうの風也。
とあり。ここに本町の橋とは、今の常磐橋をいうか。これは従来ありし土橋を板橋に架け直せしなり。しかるに、右(251)の町割につきて異論ありしと見え、同書十月十四日の条には、
  本町まちわり、平八郎・平右衝門出る。小田原のもの三人、かれ是いひぶんに付、やしきわりかへる。土蔵二けんと定る。
とあり。また十一月四日の条にも、
  本町の地わり少々なほる。
など見えたり。その督促の状は、十月条に、
  廿三日、くもる。一きのことにて大坂より下る人あるべし。はやく町わり仕廻《しまい》候へと申事、むりきはまりなし。
  廿四日、はれる。をうしうへ御使たつ。町屋のふしんいそぎ候へと申。市右衝門よび出し、きびしく申付候。
などあるなり。
 かくのごとくにして、ともかくも天正の町割は京間によりて出来上りしが、実際には田舎間をもって割り出したる町もあり。このことにつきて故小杉博士の随筆『かきあつめ』と題する書の中に、
  浅草御門外に本郷六丁目代地田舎間とあり、さて本町辺の沽券多く京間とあり、其のわけを聞くに、最初より町地ときまる時に京間を用ひ、初め田舎地なりしを後に町地に直す時は田舎間を用ふと云へり。これによれば今の京間を用ふる町地こそ誠に御入国の時よりの町地なるべし。右正月十五日正賢。
とあり。余さきに本誌上に京間・田舎間を論じたりし時には、主としてこの記事に依頼し、天正の古町は京間により、徳川時代に起れる新町は田舎間によりて営まれたりしもののごとくに解したりしが、今にして考うるに、なお思い及ばざるところありき。徳川時代に起れる町にも、事実上京間にて割り出せるものあり。もと京間を用いて町割せし古町においても、後に田舎間によりて割り改められたるものもあるなり。日本橋区長谷川町のごときは、明かに天正当(252)時の古町なれども、「寛保沽券図」によるに、この町の各町屋は、たいてい田舎間によりて測量せられ、ただ家持伊兵衛署名の一屋敷のみに、
 【表 京間五間口同田舎間五間口】 裏幅同断
  都合田舎間拾間三尺
   裏行弐拾壱間三尺
    此坪数弐百弐拾五坪七合五勺
とありて、京間・田舎間両者を混用せるを見るなり。ここにその一屋敷の間口の半ばを京間にて数え、半ばを田舎間にて数うる理由は明かならず。あるいはかつて田舎間に割り改めたる屋敷と、京間のままにて異動なかりし屋敷とを併合せしものにてもあらんか。しかしてその京間五間を田舎間五間三尺と換算せるものは注意に値す。もし現今言うごとく京間六尺五寸ならんには、その五間は田舎間の五問二尺五寸なるべきはずなるに、ここにこれを五間三尺と記するものは、けだし享保以前の尺によりて京間を六尺六寸三分の二と割り出せる結果なるべし。六尺六寸三分の二の五倍は、精密に言わば大間三尺余となるべけれども、便宜その端数を切り捨てたるものと解せらるるなり。その裏行(奥行)二十一間三尺というも、もと京間二十間のうちより犬走り三尺を除き、その残りを田舎間に換算したるものならんか。
 長谷川町の隣町なる田所町にては、表通りはすべて京間によりて測り、その新道に面したる四屋敷のみ、田舎間によりて測れり。これ新道を開く時に田舎間の法を用いし結果なるべし。
 新道の開通は市街の繁栄とともに起れる必然の要求なるべく、これによりて町の中央に設けられたる袋地面の空閑地も、道路に面することとなりて、新たに町屋として割り当てらるるなり。前記田所町の新道のごときはすなわちこ(253)れにして、その田舎間をもって割り出されたる四屋敷は、実にもと町の中央なる空閑地たりしものなるべきなり。この新道開通は明暦大火後に行われたる市区改正のさいに実施せられたるもの多かるべく、寛文にもまたこのことありし趣は、『玉露叢』にも所見あり。かくて寛永地図に見ゆるがごとき空閑地は、もはや延宝以後の江戸図において見るべからずなり、町割の様子もまたすこぶるその形態を改めたり。(この編、著者に校正を請うはずなりしが印刷の都合上編者の手にて校正を了せり。)
 
(254) 石城・石背両国建置沿革考
 
     一 両国建置沿革に関する旧説
 
 陸奥《みちのく》の南部、今の福島県の地方に、古え石城《いわき》・石背《いわせ》の両国ありき。『続日本紀』に曰く、
  養老二年五月乙末、越前の国の羽咋・能登・鳳至・珠州の四郡を割いて、始めて能登の国を置き、上総の国の平群・安房・朝夷・長狭の四郡を割いて、安房の国を置き、常陸の国の石城・標葉・行方・宇太・亘理・菊多の六郡を割いて、石城の国を置き、白河・石背・会津・安積・信夫の五郡を割いて、石背の国を置く。常陸の国の多珂の郡の郷二百一十烟を割いて、名づけて菊多の郡と曰ひ、石背の国に属す。
と。右の文やや誤謬あり。「常陸の国の石城・標葉」云々の常陸は異本陸奥に作る。これ当然改むべきもの。最後の「菊多郡を石背の国に併す」の石背また当然石城と改むべきものなり。しかしてこの二点をだに改めなば、その記事いちおう明瞭にして、もって両国建置の次第を観るべく、その間また強いて疑いを挟むを要せざるに似たり。しかるに『続日本紀』には、他の諸国については、右の能・房・両石四州の建置を記するがごとく、同一筆法をもって常に(255)諸国の廃止を記し、一もこれを漏らすことなきにかかわらず、ひとりこの両国につきては、其の時代において廃せられて、陸奥の国に合併せられたるの事実に関し、その記事を逸して伝うるところなし。ここにおいて故人先輩つとにその他の史実より考究して、神亀五年前両国すでに廃せられたるものとし、存続わずかに十一年未満なりと論ず。その説に曰く、神亀五年三月丁丑、陸奥国新たに白河軍団を置き、また丹取《にとり》軍団を改めて玉作《たまつくり》団となさんことを請う。これ神亀五年において、もと石背の域なる白河の地が、丹取(後の名取郡)および玉作(後の玉造郡)等とともに陸奥国司所管のもとにある証なり。白河はもと石背国の域中その南端の地に当る。しかしてその地すでに陸奥国司の管下にありとせば、その他の地のことまたもって類推すべく、当時すでに石城・石背の二国が廃せられて、陸奥国に併されたりしことを証すべしと。理義すこぶる明晰にして、従来の学者ことごとくこれに一致するに似たり。
 しかれども、余輩つらつら古書の記するところを精査し、これを当時の情勢に徴するに、城・背二州の建置必ずしも右のごとくならざるを思わずんばあらず。余輩の研究の結果によれば、右の両国の建置は大化以後にありて、遅くも大宝を下ることなく、しかしてその廃止はおそらくは『続日本紀』に建置の事実を伝うる養老二年にあるべく、もししからずとすれば、少くも養老三年を上らず、養老五年もしくは神亀元年を下らざるさいにありとなすなり。けだし建置において前説と十八年以上七、八十年未満を異にし、廃止において前説と十年以内、四年以上の差を認むるなり。さればその廃止の時代につきては、わずかに十年未満の差あるに過ぎずして、これを喋々論弁するの価値なきに似たれども、その建置に関しては、その差すこぶる多く、国民発展史上、奥地拓殖史上、軽々に看過し難き問題ならずとせず。いわんや古史古文の解釈上、種々重大なる影響を有するものあるをや。これ余輩が煩を厭わず本文を草し、もって大方識者の批判を請わんとするゆえんなり。
 
(256)       二 両国に関する古史の記事
 
 養老二年にもあれ、養老五年以前にもあれ、あるいは神亀元年もしくは五年以前にもあれ、両国の存廃は比較的史料の伝わること少き古代のことに属し、ことにその所在が東方僻遠の地にあるがゆえに、中央の史籍においてその名の現わるる場合はなはだ少く、したがって、直接に両国に関する記事より、その廃置を論定することはすこぶる難事に属す。これ多数先輩の認識するところが、なお余輩後進の異議を挿む余地を存するゆえんなりとす。
 余輩の知れる限りにおいては、両国の名の国史に現わるるもの、前記『続日本紀』養老二年条の記事と、翌養老三年閏七月に、石城国に始めて駅家一十処を置くとあるものとのみなり。後者はしばらく置く。前者についてはすこぶる疑いを容るるの余地あり。すでに記したるごとく、右養老二年の記事は多少の修正を加えて始めて解すべきものにして、原文すこぶる誤りあり。原文には陸奥を常陸に誤り、石城を石背に誤る。今これを旧説のごとく訂正すれば、
  割(キ)2陸奥(流布本に常陸とあり)国之石城・標葉・行方・宇太・亘理(流布本白理と誤れどもこは亘理なること論なし)・菊多(ノ)六郡(ヲ)1、置(ク)2石城(ノ)国(ヲ)1。割(キ)2白河・石背・会津・安積・信夫(ノ)五郡(ヲ)1、置(ク)2石背国(ヲ)1。割(キ)2常陸(ノ)国多珂(ノ)郡之郷二百一十烟(ヲ)1、名(テ)曰(ヒ)2菊多郡(ト)1、属(ス)2石城(ノ)国(ニ)1(流布本に石背とあり)焉。
となる。常陸が陸奥の誤り、石背が石城の誤りなることは、旧説言うところ疑いなく、その訂正によりて事理いちおうは明白なるを得るなり。しかもなお精しくその全文を通読するに及びて、さらに疑問を生ぜざるを得ず。何ぞや。すでに陸奥の石城・菊多等の六郡を割いて石城国を置くと言える以上は、菊多郡が当時陸奥の域内たりしや論なし。しかるに、さらに後文において、常陸の一部を割いて菊多郡を置き、これを石城国に属せしむというがごときは、この間すでに多少の錯簡あるを示せるに似たるにあらずや。さらにこれを『日本紀略』に徴するに、該書この間の記事(257)は『続日本紀』の抄録にして、その上文安房・能登両州の設置に関しては、『続日本紀』の本文と一字の相違なきにかかわらず、城・背二州設置のことに関して一言のこれに及ぶものなきは、これあに『続日本紀』本文の該二州設置の記事が、当初能・房二州設置の記事と同一筆法をもって、相連続して記述せられたるにあらざりしことを示せるものにあらずや。
 
        三 右の批判
 
 由来現行の『続日本紀』には、錯簡・誤字・脱漏等すこぶる多し。一例を問題に上れる養老二年の記事のみに見るも、なお少からざる誤謬と脱漏とを見る。試みにこれを列記せんか。
 一、四月筑後守道君首名卒す。この日を現行本には丙辰とす。四月は乙丑の朔にして丙辰あるなく、丙辰は五月三日に当る。誤りなること明かなり。しかるに、『日本紀略』にはこの文を抄記して乙亥とす。乙亥は三月十一日にして事理に合う。よろしく訂正すべきなり。
 二、現行本には九月の目《もく》を脱し、八月の条下にただちに九月庚戌以下の史実を連記す。これを『日本紀略』および『類聚国史』の記事に対照するに、いずれも九月の目《もく》を掲ぐるなり。しからば、少くも『続日本紀』より『日本紀略』を抄録し、『類聚国史』を編纂せし時代の『続日本紀』には、明かに庚戌以前の九月に関する記事ありしを知る。庚戌は九月十九日なり。現行の『続日本紀』は八月十四日以後、九月十八日以前の記事を脱せるなり。
 三、『類聚国史』には実に八月十四日乙亥、および同月二十三日甲申の条の蝦夷に関する記事ありしことを録す。しかも現行『類聚国史』は、その『日本後紀』に関する分を除きては多くは日付のみを標出し、その本文を略せるがゆえに、右の十四日および、二十三日の条下に果していかなる記事ありしや、今これをつまびらかにする能(258)わざれども、ともかくも右両日の条下に、もと蝦夷に関する記事ありて、現行の『続日本紀』にこれを脱せることは疑いを容れざるなり(十四日条下の記事は『扶桑略記』によりてこれを補うを得、後文記するところを見よ)。
 右はただわずかに養老二年の一年間に関する分のみ。しかしてその脱漏といえるものも、また単に『類聚国史』蝦夷に関する事蹟の記事によりて接せしのみ。さらに他の条下において、他の事蹟に関し、同様の誤謬・誤脱少からざるべきは弁を俟たずして類推すべきなり。
 かくのごときの誤写・誤脱は、必ずしも全巻に通じてこれあるべしとは言わず。おそらくは養老前後において最も多きものなるべし。これを同じ『顆聚国史』蝦夷の記事に対照するに、霊亀二年九月、および養老元年某月日においても、また脱漏あるべし。また、現行本には和銅五年九月始めて出羽の国を置き、その翌十月陸奥国最上・置賜二郡を割いて出羽国に隷すと明記しながら、その後霊亀二年九月に至りて、出羽国建置以来すでに数年を経れども吏民稀少なりとのゆえをもって、陸奥の置賜・最上二郡の民各百戸を、信濃・上野・越前・越後四国の民各百戸とともに、出羽国に隷すとあるがごとき、これまた明かにそのいずれかにおいて誤謬ありと言わざるべからず。思うに、右の和銅五年十月条下に、置賜・最上二郡を割きて出羽に隷すとの記事は、同年出羽国設置の記事のちなみに、後人参考のために後の事実を傍記せしものが、誤りて本文に混ぜしものなるべし。
 かくのごとき、錯簡・誤写・脱漏の多き養老前後の記事中において、明かに二箇の誤字と、辻褄の合わぬ記事とを伴える城・背二州建置の文が、これを信ずるに当りて十分なる警戒を要すべきものなるは言うまでもなし。いわんやその上文なる房・能二州建置の記事をそのままに抄録せる『曰本紀略』において、毫もこれに関する文字なきにおいてをや。けだし当初の『続日本紀』においては、該日の条下にこの記事あるなく、錯簡あるいは後人傍書の混入によりて現在の記事をなせるものなりと仮定するもはなはだしき差支えなきに似たり。よしやしからざるまでも、薄弱な(259)る史料なることは、十分に認識すべきなり。
 
      四 両州廃止の年代
 
 『続日本紀』所載両州建置の記事の疑うべきこと前述のごとし。ここにさらにこれと参照して、事情を啓発するに足るべき一記事あり。『扶桑略記』同年同月同日の条に曰く、  別(キテ)2越前(ノ)国四郡(ヲ)1置(キ)2能登国(ヲ)1、分(チテ)2上総国四郡(ヲ)1為(ス)2安房国(ト)1。停(メテ)石背・盤城等国(ヲ)1安(ズ)2陸奥国(ニ)1。
と。能・房二州については『続日本紀』の記事と同一なれども、城・背二州につきては全然反対の事実を伝うるなり。『扶桑略記』は阿闍梨皇円の著にして、寺院僧界の事情に精しく、その編述好んで異説を採用するの癖あれども、しかも決して杜撰なる後世の編纂書の類にあらず。事の「六国史」時代に係るものは主として材料をこれに採り、傍ら博く諸寺の縁起その他の雑書を渉猟してこれを補えるものにして、往々流布の「六国史」を訂すに足るものあり。ただに寺院僧界の事蹟を知ることのほか、一般古史研究上においてもはなはだ有益なるものなりとす。これを問題に上れる養老二年の条下について見るも、現行『続日本紀』に逸し、わずかに『類聚国史』によりて、もと八月十四日乙亥の日に某の事ありたりとの事実のみ知るを得るに過ぎざる蝦夷に関する事蹟は(上文すでに言えるところを参照せよ)『扶桑略記』によりてこれを補うを得るなり。曰く、
  八月乙亥日、出羽并渡島蝦夷八十七人来(リ)、貢(ス)2馬千疋(ヲ)1、則給(ス)2位禄(ヲ)1。
と。思うに『扶桑略記』の著者皇円の見たる『続日本紀』は、『類聚国史』の編者菅公の見たるものと同じく、明かにこの乙亥蝦夷入貢の項を存し、両者ともにこれを抄記してその著書中に収めたりしなり。しかして、その同じ『扶桑略記』において、同じ『続日本紀』より抄録したる、また前顕の記事と同一年内の出来事たる、能・房・城・背四(260)州に関する記事が、『続日本紀』において記載の事理明白に、また『日本紀略』においてもそのままに抄録されたる、能登・安房両州の建置のことのみ両者全然同様にして、『続日本紀』において記載誤謬多く、また『日本紀略』にも抄録されざる、はなはだ辻褄の合わぬ石城・石背二州建置の事蹟が、『扶桑略記』において全然『続日本紀』とは反対に記載されたる場合において、余輩がそのいずれに適従すべきかは、ほとんど問題のほかなりといわざるべからず。
 一、養老二年石城・石背二州建置説は『続日本紀』の唱うるところ。しかして養老前後の現行『続日本紀』の記事は錯簡・誤謬・誤脱ことに多し。
 一、『続日本紀』の養老二年石城・石背建置の記事は誤字多く、かつ文章前後辻褄合わず。
 一、『曰本紀略』には安房・能登建置の記事を『続日本紀』のままに抄録しながら、一言この城・背二州のことに及ばず。
 一、養老二年石城・石背二州廃止説は『扶桑略記』の伝うるところ。『扶桑略記』のこの間の記事は『類聚国史』と同じく善良なる『続日本紀』より採りたるものにして、明かに現行本の脱漏を補うに足るものあり。
 一、その『扶桑略記』において安房・能登建置の記事は『日本紀略』とともに『続日本紀』に一致し、石城・石背二州のことは全く反対なり。
 一、『続日本紀』には石城・石背建置の記事のみありて、間もなく近く現存せざるの事蹟あるにかかわらず、その靡止の記事なし。
 余輩は右のごとき理由により、城・背二州建置されたりと信ぜらるる養老のころはおそらくはかえってその実該二州廃止の年なるべしと言わんとするなり。
 かくのごとく仮定してさらに『続日本紀』該条の記事を見るに、余輩が前述の仮定のさらに立証さるるものあるを(261)思う。けだし『続日本紀』には、もと某日の条下に両国廃止の記事ありて、後人その参考のために両州の建置と、菊多郡設置転属との、全然異なりたる二個の事実を傍書したりしに、後に転写のさい当初の本文失われ、性質を異にせる二個の傍書は相連続して本文中に混入し、しかしてその間往々誤字を生ずるに至りたるものなるべし。
 果してしからば両州の廃止は、能・房二州建置の養老二年五月二日と同日のことなるべきか。余輩は他に支障なき限り、『扶桑略記』によりてこれを然《し》か信ぜんと欲するなり。しかれども、前すでに言えるごとく、『続日本紀』養老三年の閏七月の条に、丁丑(二十一日)石城国に始めて駅家一十処を置くの文あり。この文にして誤謬もしくは錯簡なりとの事実が証明せられざる限り、余輩は少くも養老三年閏七月において、石城国の現存したりしことを認めざるべからず。もしこれを信ぜんには、両国廃止の事実は養老三年閏七月以降にありとせざるべからず。『続日本紀』養老二年能・房二州建置の記事に連続して、城・背二州廃止の記事ありたりとは、『曰本紀略』が上半をのみ抄録して、同一性質の下半の記事を省略すべき理由なきによりても、信じ難きことなり。けだし現行『続日本紀』は、国郡建置の類によりて錯簡して、養老二年能・房二州建置の下に城・背二州に関する記事を編入し、『扶桑略記』またこれによりて、しかして他記事よりその廃止を録したるものなりと解すべきに似たり。しかも、養老三年石城国駅家設置の事実が、養老二年以前にあるべきものの錯簡なりや、またにわかに知り難きものあり。ここにおいてか余輩はいう。城・背両州の廃止は、おそらくは『続日本紀』に建置の事実を伝うる養老二年にあるべく、よししからずとするも、養老三年を上らず、養老五年もしくは神亀元年を下らざるさいにありきと。
 右の私説において、その養老二年にありとのこと、またしからずば養老三年を上らざる時にありとのことはすでに解してこれを悉せり。その養老五年もしくは神亀元年を下らざるさいにありとの説はいかん。
 二州の廃止が神亀五年以前にありとの旧説はすでにこれを言えり。しかして余輩は、さらに『続日本紀』神亀元年(262)の記事によりて、これを同年以前にありと断言し得るの理由あるを信ずるなり。曰く、
  神亀元年四月丙申(七日)式部卿正四位上藤原朝臣宇合を以て持節大将軍となし、宮内大輔従五位上高橋朝臣安麻呂を副将軍となす。判官八人、主典八人。海道の蝦夷を征せんが為なり。
 癸卯(十四日)坂東九国の軍三万人に騎射を教習し、軍陣を試練せしめ、綵帛二百疋、※[糸+施の旁]一千疋、綿六千屯、布一万端を陸奥鎮所に運ぶ。
と。この時海道の蝦夷叛して陸奥大掾佐伯児屋麻呂を殺す。朝廷すなわち式部卿藤原宇合・宮内大輔高橋安麻呂らをして大挙これを征せしむ。坂東九国兵士の教習、試練実にこれがためなり。ここに海道とは、奥羽のうち東海道の末を受けたる地方の謂にして、阿武隈山脈以東、すなわち主として当時の石城の域に当る。石城の蝦夷叛して陸奥の国司を殺し、陸奥これを朝廷に訴う。このことすでにこの時石城が陸奥に併されたることを示せるに似たり。しかれども、当時海道と称せし域果して何地まで及びしか、今これを確定する能わざるがゆえに、その叛乱が全然いわゆる石城の域内に限られたりとは断言する能わず。したがって石城廃止の確証とせんにこれのみにてはやや薄弱の感あり。しかもこれに連続して坂東九国の語あり。もってこれを証してなお余りあるを思う。
 坂東とは言うまでもなく足柄坂以東の地にして、『令義解』に、
  凡そ朝集使は、東海道は坂東【駿河と相模との界の坂を謂ふ】、束山道は山東【信濃と上野との界の山を謂ふ】(中略)は皆駅の馬に乗れ。
とある坂東すなわちこれなり。すなわちもと坂東とは東海道についていい、東山道につきてはこれを山東といいしものなれども、この両者は坂東大平野(今普通に関東平野という)によりて連続し、ほとんどその間区別なく、古来通じて坂東と称す。あるいはこれを吾妻《あづま》という。『常陸風土記』に、孝徳天皇の朝高向臣・中臣幡織田連らをして坂より以東の国を総領せしむ。時に我姫《あづま》の国分れて八国となり、常陸その一におれりとある八国は、相模・上総(この時いま(263)だ安房なし)・下総・常陸・上野・武蔵(この時武蔵は東山道の中なり)・下野・陸奥《みちのく》なるべし。後、和銅五年に至り出羽国越後より分立せるも、当時は従来の関係上北陸道に属したるべく、坂東の国数に与らず、養老二年に至りて安房分立するに及び、坂東さらに一国を加う。この時もし石城・石背の二国あらんには坂東は十一国なるべし。しかるに、『続日本紀』神亀元年の条にはすなわち曰く、海道の蝦夷を征せんがために坂東九国の兵を調練すと。しからば、少くも神亀元年には城・背二国はすでに存せず、廃して陸奥に併されたるを知るなり。これ余輩が神亀五年白河軍団設置の時を待たずして、神亀元年以前、両国すでに廃せられたりとなすゆえんなり。その後天平宝字三年十一月の条に坂東八国の語あり。神護景雲三年二月、宝亀五年八月の条に見ゆるものまたしかり。ここにいわゆる八国とは陸奥を除きたるものにて、今のいわゆる関東八州に当る。その陸奥を除きたるゆえは、右の各条下に坂東八国というもの、いずれもこれらの諸国をして陸奥の事に従わしめんがために発せし格文中にあるものなればなり。後に出羽を東山道に属するに及びて、坂東十国の語あり。嘉祥元年十一月、下野国司が薬師寺の事を言上せる文中に見ゆ。奥羽が坂東の中に数えられたることこれによりて明かなり。なお『万葉集』の歌に、大伴家持が陸奥より黄金を献じたることを頌して、
  鶏《とり》が鳴く東《あづま》の国の陸奥《みちのく》の、小田《をだ》なる山に金《こがね》ありと、云々。
  天皇《すめらぎ》の御代栄えんと東《あづま》なる陸奥《みちのく》山に黄金花さく。
とある「あづま」はすなわち前述のごとく坂東と同意義にして、奈良朝ごろ奥州をこの中に込めしを知るなり。しかして神亀元年にはすなわち坂東九国という。今の関東八州のほかに石城・石背・陸奥の三国、もしくは出羽をも加えて四国あらんに、如何ぞその中のある一のみを採りて関東八州に加え、九国と称し、その兵士をのみ限りて調練せしむることあらんや。当時城・背二州のすでに靡せられたること知るべきなり。
(264) これを当時の情勢に徴するも、養老・神亀のころにありては、実地に対するわが努力は出羽の方面にもっぱらにして、陸奥の方面はむしろ閑却されたるかの観あり。由来陸奥の蝦夷は、帰服年久しく、日本武尊の東征に引き続きて、『日本紀』には、応神天皇三年すでに東蝦夷ことごとく朝貢すの文あり。『国造本紀』には安積・信夫・伊具・標葉・白河・石背・石城等、いわゆる城・背二州の域内の諸国造が、成務天皇朝に任命せられたることを伝う。この書もとより、ただちに取りて確証となすに憚りあれども、『古事記』にもすでに神武天皇の皇子神八井耳命が石城国造の祖なることをいい、この地方拓殖の由来のはなはだ古きを示せるなり。しかるに日本海方面の蝦夷は、政府のこれに対する経営すこぶる遅く、皇極天皇元年に至りて始めて越辺の蝦夷数千内付の文あるを見る。しかれども、これより後政府の施設着々として進み、孝徳天皇大化三年|渟足《ぬたり》の柵(越後沼垂)を築き、四年にはさらに岩船の柵(越後岩船郡)を置き、斉明天皇四年より六年に亘りては阿倍比羅夫の遠征あり。秋田・渟代より遠く北海道の方にまで及べり。かくて和銅元年には越後に出羽郡を建て、五年にはこれを独立せしめて国となし、この前後において諸国の民をこれに移し、兵器を備え、糧食を運び、船舶を送る等、政府のこれが経営のために尽力せる跡歴々見るべきものあり。しかるに、これに反して陸奥の方面は、この間事蹟の見るべきもの比較的少く、ことに養老四年には、陸奥の蝦夷叛して按察使上毛野広人を殺せるあり。神亀元年には、前記のごとく海道の蝦夷叛して陸奥掾佐伯児屋麻呂を殺せるあり。これを概観するに、政府の経営出羽方面においては着々成功せるも、古えより王化に浴せる陸奥の方面においては、かえってやや萎縮退嬰の形勢ありしがごとし。ここにおいて政府は将軍を任命し、陸奥に鎮所を置きてもっぱら蝦夷鎮撫の任に当らしむ。このさいにおいて、陸奥の一部を分ちて始めて新たに石城・石背の両国を設置すべきや、あるいは古来王化に浴せしこの地方に、もとより存在せし両国を廃して陸奥に合併し、新設鎮所の都督の下に置くべきやは、智者を俟たずして知るべきに似たり。
(265) 以上述ぶるところによりて、城・背両州の廃止が神亀元年以前にあるべきは明かなるべしと信ず。しかも余輩はなお、南都東南院所伝『律書残篇』に引用せる国郡記事によりて、養老五年以前において、すでに該二州は廃せられたりしならんと信ずべき理由を有す。該『律書』は延暦十七年後の編纂なれども、その引用せる国郡の記事が霊亀二年以後養老五年前のものなるべきことは、余輩がかつて『歴史地理』第八巻第十一号(明治三十九年十一月発行)の誌上において、「南都東南院所伝律疏断簡所収の国郡に関する記事の年代を論じて帝都条坊の数に及び以て平城京四至の論を補ふ」と題して論じたるところ。しかして、該記事中吉野監、和泉監(本書に和泉国とあるは『律書』編者の当時の実際により故意にもしくは無意識に改めたるものか)を加えて国数六十七とあり。天長元年多※[衣+陸の旁+丸]廃止によりて六十六国二島と定まりし時より逆推して、わが国数を調査するに、天平三年諏訪国を廃したる後六十四国二監三島あり。諏訪国を加えてその以前には六十五国二監三島なり。二監を国に合さば六十七国となり、右国郡記事記するところに合う。しかしていわゆる六十七国中には石城・石背を数えざるなり。しからば両国の廃止はすでに養老五年以前にありというを得べきに似たり。されば、余輩はこれらの諸点よりして、城・背両国が養老二年に設置されたるにあらずして、かえって養老・神亀のころに廃せられたるものなることを断言せんとするなり。
 
      五 両国設置の年代
 
 城・背両国が養老二年設置にあらずして、すでにその以前に存せりとせば、その設置の年代果していかん。『続日本紀』には大宝以来の国の分合廃置必ずこれを記載するの例なることより推すれば、しかして養老設置の記事がその廃止の記事の誤謬なりとすれば、両国の設置は少くも大宝以前にありと言わざるべからず。しかも上述のごとく『常陸風土記』に孝徳天皇の代、坂東に八国ありきとの記事あるによれば、当時いまだこの両国なかりしものにして、両(266)国の設置けだし大化以後大宝以前の某の時代にありというを至当とすべし。
 しかれども、すでに論ずるごとく、『続日本紀』にはすこぶる脱漏多し。しからば、よしや養老二年建置の記事が反対の事実を示せるものなりとするも、その以前某の年の条下において、もと両国設置の記事ありて、しかも現行本にこれを脱漏せるにあらずやとの説も立ち得べし。ここにおいて余輩は、これらの両国が大宝当時においてすでに存在せしことを立証せざるべからざるなり。しかして「大宝令」中の両国に関する記事は、明かに余輩にその材料を提供するものなりとす。
 「戸令」に曰く、
  凡そ新に戸に付かば保証を取れ。元由を本問し、逃亡詐冒に非ざること知りて然る後に聴《ゆる》せ。其の先より両貫あらば本国に従ひて定とせよ。唯太宰部内及び三越・陸奥・石城・石背等の国は見住に従ひて定とせよ。若し両貫あらば先貫に従つて定とせよ。
と。しかしてその「義解」に、両貫あるものは本国に従いて定とせよとは、父国を謂って本国となし、父母各国を別にし、しかしてその両処に付貫するものはすなわち父の国に従いて定とせよとなり。しかるに九州ならびに三越・陸奥・石城・石背は前の規定にかかわらずその現に住する所によりて定となし、もしその子母に従いてこれらの国にあらば、たとい父他国に貫するとも、子は母に従い現住のこれらの国に付貫せよとなり。しかしてもし父母おのおのこれらの国にありてその子各別に付貫さるる時は、父国母国を論ぜず、先貫に従いて定とせよとなり。
 次に「宰防令」に曰く、
  凡そ帳内には六位以下の子及び庶人を取りてせよ。其の資人は内八位以上の子を取ることを得ざれ。唯職分に充つるは聴《ゆる》せ。並に三関及び大宰部内・陸奥・石城・石背・越中・越後国の人を取るを得ざれ。
(267)と。この「軍防令」において資人徴発に除外したる諸国を、前項「戸令」の除外せる諸国に比するに、後者は三関国(越前・美濃・伊勢)を加えたれども、その越前は前者においていわゆる三越中に含まるるものなれば、事実上美濃・伊勢二国を加えたるものなり。
 右「戸令」および「軍防令」において、何故にこれらの諸国を除外せるやの理由ははなはだ明白なりとす。太宰府部内すなわち九州二島はその地外蕃に近く、南には隼人の異族あり、その状態あたかも今日にして台湾を見るがごときものなり。また三越・陸奥・石城・石背等の国は、あるいは蝦夷雑居の地として、あるいはこれに隣接せる地として、常に警戒を加え、拓殖を図るを要とするものなり。さればこれらの諸国にては、つとめて住民の充実を図り、もって警備の法を講じ、拓殖の道を開かざるべからず。ここにおいてか政府は、その地に貫属の民の多からんことを希望し、またその壮丁を資人として徴発するを禁じたるなり。しかして「軍防令」に特に三関国を加えたるは、これら諸関の警備のために壮丁を要するがためなりとす。
 ここにおいて一考すべきは、いわゆる「大宝令」の本文が、果して大宝当時編纂のままなりや、あるいは後の改刪を経しものなりやの問題なり。なんとなればもし右の石城・石背等の文字ある箇条が大宝当時のままならんには、大宝の時すでに両国の存在せしことはもはや議論を要せざれども、これに反してもしその文が後の改刪なりとの疑いありとすれば、もってその証となすに足らざるものなればなり。
 『弘仁格』の序に曰く、
  文武天皇大宝元年に逮びて贈太政大臣正一位藤原朝臣不比等、勅を奉じて律六巻令十一巻を撰す。養老二年|復《また》同大臣不比等勅を奉じて更に律令を撰し各十巻となす。今世に行はるる律令是なり。
と。この文によれば、弘仁当時世に行われし律令は、大宝当時のものにあらずして、養老二年改修のものなりき。し(268)かして今日世に存する「令」の本文は、弘仁を去る遠からざる天長十年において、右大臣清原夏野らが勅を奉じて撰せしところの『令義解』によりて伝われるものにして、分ちて十巻となす。しからば、これ「大宝令」にあらずして「養老令」なり。ここにおいて人あるいはいう。養老二年改修の令文中に同年建置を伝うる石城・石背の名あること、むしろ当然ならずやと。
 しかれども従来律令研究者の多くの信ずるところによれば、現在の「令」の規定は大宝当時のままにして、後の修正を経たるの跡を見ず。その養老修正というもの、『続日本紀』にもこれを記せざるほどなれば、決して重大なるものにあらず、おそらくは従来の「律」六巻、「令」十一巻なるものを改めて各十巻となし、条章を改め、字句を修正し、きわめて僅少の補正を加えLに過ぎざらんと。しかしてその石城・石背二州の名の令文中に存することにつきては、余輩の寡聞なる、いまだその説を聞くを得ざれども、もし強いてこれを促がさんには、おそらくはいわゆる字句の修正、僅少の補正の中において、これを解せんとするものならん。
 「大宝令」と「養老令」との関係につきては、余輩また多少の見解あり。しかれども、こはおのずから別問題に属するがゆえに、これが論弁を他日に譲り、今はただ、単に問題に上れる石城・石背両国のことにつきて研究せんとす。
 余輩の考察するところによれば、現存の「令」の本文がよしや大宝制定のままなるにもせよ、はた養老の修正を経たるものなるにもせよ、その規定する事実がすべて大宝のままなることは疑いを容れざるなり。なんとなれば、現存の本には大宝元年三月に廃して慶雲二年四月に復したる中納言を加えず、和銅元年八月兵部省に史生六員を加えて十六人とし(また左右京職に各六員(このこと疑いあり別に論ずべし))、主計寮に四員を加えて十人となすの事実あるにかかわらず、すべて旧のままに兵部省史生十人、主計寮史生六人(左右京職欠員)、となせるがごとく、かかる類すこぶる多くして、大宝以後格によりて改正されたる官制その他の事項の、現存の令文に改められざるによりて知らるるなり。(269)しかるに、ひとりこの間にありて、「石城・石背」の文字のみ、後の改正によりて加えられたりとは信じ難きにあらずや。されば余輩はこの点においては旧説に反し、石城・石背の文字、また大宝当時より存在せしものなりと信ずるなり。しかしてこの両国が、大化以後大宝以前において設置せられたるものなることを信ずるなり。しかして余輩をして、さらに然《し》か信ぜしむる他の理由あり。
 つらつら右の令文を案ずるに、その除外として列挙せる諸国は、あるいは外蕃に近く、あるいは異族に接触し、あるいは関門の設あるがごとき、いずれも特殊の状態の下にあるものにして、住民の充実を図り、拓殖を進むるの必要より、これを除外したるものなるを知る。しかるに、その「戸令」および「軍防令」の両条とも、一も同一条件の下にあるべき出羽を列挙せざるなり。出羽は和銅元年始めて越後の一部として建てられ、五年独立の一国となりしものにして、当時人口少く、蝦夷の勢い強く、政府がしばしば民をその地に移して夷俗を改め、土地を拓かしむるに汲々たりしことは、その時代の国史を繙きて容易に認むるを得べきなり。されば、もし石城・石背の両国名にして、養老修正のさいに加筆されたるものなりとせんか、当時最も熱心に人口の充実を希望せし出羽をその除外例より漏らすの理由万々あるべからざるなり。しかるに、両条ともに出羽を加えざるは、その条文がいまだ出羽国を設置せざる以前に撰まれたることを明示せるものにして、すなわち大宝編碁のままたることを証するものというべきにあらずや。
 「大宝令」編纂の当時すでに石城・石背の二国あり。しかして『常陸風土記』には大化改新のさい陸奥を併せて坂東に八国ありきと称す。ゆえに曰く、城・背二州は大化以後大宝以前に設置され、しかしておそらくは養老二年、もしくは三年以後五年以前、または神亀元年以前に廃止せられたるものなりと。
 
(270)      六 明治の復旧
 
 養老・神亀のさいにおける両州の廃止は、必ずしも蝦夷に対する方針の退嬰とのみは見るべからず。陸奥鎮所設置せられ、後に鎮守府となり、ここに有力なる対夷機関の設けらるるに及びて、いたずらに統治に困難なるこの二州を永く存置せんよりは、むしろこれを廃してこの特別政庁の下に委するの勝れること、当時の識者のひとしく認むるところなりしなるべし。その後王綱弛寛し、地方の政治紊れ、地方庁有名無実となるに及びては、国という行政機関はその必要の度を減じ、ために天長以後一も分合廃置のこと行われず、尨大なる陸奥の国は、徳川幕府の代を終うるまで、なお一大陸奥国として存続したりき。
 明治維新後奥羽の乱平ぐに及び、政府はこの尨大なる国を分割して磐城・岩代・陸前・陸中・陸奥の五国となす。その陸前以下は今論ぜず、磐城《いわき》・岩代《いわしろ》は実に往昔の石城《いわき》・石背《いわせ》二州を復旧し、その名を襲えるものなり。しかれども、その文字において、唱え方において、境域において、すこぶる旧時のものと異なるところあり。
 まずその文字より観察せんか。今の磐城《いわき》は古えの石城《いわき》に当る。石を磐と改めたるは、後世の習慣において石を「イワ」と訓み難きためなるべく、しかもそのこれを「岩」とせずして「磐」とせし理由は、『延喜式』以来郡名を「磐城」と書きし例に従いしものならん。
 岩代《いわしろ》は古えの石背《いわせ》を復旧せしものなり。しかしてこれを石背とせずして岩代とせしは、「背《せ》」を「山背《やましろ》」(山城の旧名)の例によりて「シロ」と誤読し、しかして後世の例「背」字を用いて「シロ」と読ましむるの困難なるを思い、「石《いわ》」を「岩《いわ》」と改めしと同一の理由より、世人をして誤読の虞れなからしめんがために、最も読みやすき「代《しろ》」字に代えたるものならん。しかしてその根本において自己の誤読に心付かざりしなり。石背《いわせ》の国名は郡名の石背《いわせ》より来(271)る。この郡『続日本紀』に石背とあれども、『延喜式』には磐瀬の字を用い、『和名抄』『拾芥抄』等またこれに傚いしが、いかなるゆえにや徳川時代には岩瀬の字を用い、もって今日に及ぶ。その訓の「イワセ」なる疑いを容れず。しかるに、明治初年の当局者ここに心付かずして、誤りをあえてす。惜しむべきなり。
 現時の磐城は、これを往時の石城に比するに、境域すこぶる拡大せり。往時の石城はいわゆる海道の地にして、建置当時石城・標葉・行方・宇多・亘理・菊多の六郡を占め、その地東海道、常陸の後を承けて、ことごとく阿武隈山脈以東に限られたり。平安朝のころ、亘理郡の一部を分ちて伊具郡を置き、『延喜式』すでにこの名あり。鎌倉幕府のころ、磐城郡の西南部、鎌田川以内の地を割きて磐前《いわさき》郡を置く、磐城前郡の意なり。その後、さらに磐城郡の北部|楢《なら》葉郷等の地を割きて楢葉郡を置き、もと六郡の地分れて九郡となる。明治元年十二月、このうち伊具を除きたる八郡の地に、加うるに、白河・白川(高野)・石川・田村・伊達の五郡をもってし、計十三郡をもって磐城国を建つ。その白河・白川・石川の三郡は旧白河郡の地なり。平安朝のころすでに陸奥国司限りにおいて高野郡をその東南部に置き、後さらにその東北部を分ちて石川郡とす。高野郡は『和名抄』に、白河郡の条下に註して「国分ちて高野郡と為す」とあるものにして、『拾芥抄』にはこれを一郡に数えたり。徳川時代旧名に復せんとせしも、なおこれを白川と書して西北の白河と分つ。明治十一年郡区編制のさいその混雑を避け、白河を西白河とし、高野すなわち白川を東白川とし、もって現今に及ぶ。また田村郡はもと安積郡の一部、その分置の年代つまびらかならず。伊達郡はもと信夫郡の一部、『和名抄』に「国分ちて伊達郡と為す」とあれば、その国司限りにおいて分置せしは、すでに平安朝にありしを知る。かくて明治元年設置の磐城国は、往昔の石城国(旧亘理の一部、伊具を欠く)に加うるに、もと石背国の中の白河および安積・信夫の各一部をもってしたるものなりき。しかるに、その境域すこぶる錯雑し、地理の自然に違うことはなはだしきをもって、明治二年改めて伊達郡を岩代国に付し、岩代国の刈田・伊具二郡を磐城国に属せし(272)め、もって現時の境域をなせるなり。しかもなおその域海道・仙道《せんどう》両部に亘り、地理の自然に合わず。けだし、明治の分国に際し、各国石高のほぼ相等しからんことを期せし結果なるべし。
 岩代は往昔の石背を復旧せしもの。石背はその域仙道・会津の両部を占め、建置当時白河・石背・会津・安積・信夫の五郡ありき。後に白河の地を白河・白川・石川の三郡とし、安積の一部に田村郡を置き、信夫を分ちて伊達郡となしたること、前すでに述べたり。このほか、会津郡の東北部を分ちて耶麻郡を置けること、平安朝の初期にあるべく、『延喜式』すでにその名を載す。さらに『和名抄』には、会津郡の註に、今分ちて大沼・河沼二郡となすとありて、旧会津郡は、平安朝においてすでに四郡となれり。明治十一年の郡区編成に際し、さらに会津郡を南北に分ち、今五郡あり。延喜六年安積郡の北部を分ちて安達郡を置く。ここにおいて旧石背五郡の地は、分れて十四郡となる。明治元年に至り、このうち、白河・白川・石川・田村・伊達の五郡を除き、残余の九郡に旧石城の一部なる伊具および、もと陸奥柴田郡の一部を割いて養老五年に設置せし刈田郡を合せ、総計十一郡をもって岩代国を建つ。しかれども、その域たる、ほとんど机上に石高《こくだか》を数え、不完全なる地図を案じて匆卒に定めたるものと見え、区画全く地理の実際と合わず。その伊具・刈田二郡のごときは、磐城の伊達郡を夾みて全く飛び地をなせるなり。ここにおいて明治二年十二月、所管を変更し、伊達を磐城より収め、伊具・刈田を磐城に譲り、計十郡。その域仙道の大部と会津地方とを占めもって現時に至る。
 
      七 約  説
 
 上来説くところ、石城・石背二州の建置沿革に関して、ほぼ余輩の言わんと欲するところをおわれり。しかもその所説多岐に渉り、叙述また散漫、みずから省みてその要領を捕捉し難きの感あり。よりて左にその要を約説して、本(273)章を終らんとす。
 石城・石背の二州は、現行本『続日本紀』に養老二年能登・安房二州とともにこれを建置せるのことを伝えてより、世またこれを疑うことなく、しかも該書にその廃止の記事を逸せるにより、従来の学者は神亀五年陸奥に白河軍団を置けるの事蹟より考定して、その以前にすでに陸奥に合併されたりとなすに一致せり。しかれども、現行の『続日本紀』には錯簡・誤写・脱漏すこぶる多くして、ことに養老二年前後にはなはだしく、右両国設置の文中にも、明かに二箇の誤字と一節の錯簡とあり。その間すこぶる疑いを挿むの余地を存す。しかして『続日本紀』を抄録して成れる『日本紀略』の文中には、同日中に起れる他の同種の記事は全文『続日本紀』のままを採りながら、ひとりそれと連続せる城・背二州建置のことに関して一言の及ぶなく、また、同じく『続日本紀』の抄録と認むべき『扶桑略記』の同日の条下には、他の同種の事項については本書と同一の記事あるにかかわらず、城・背二州のことについては、かえって反対の事実を伝え、両州この時をもって廃止せられたりとなすなり。よりて思うに、養老二年は該二州設置の年にあらずして、かえって廃止の年なるに似たり。けだし当初の『続日本紀』には該州廃止の記事ありけんも、後、本書に逸し、後人他書の記事によりて参考のために二州の設置と、菊多郡設置転属との、全く異なりたる二個の事実を傍記したりしもの、後誤りて本文に混じ、ついに現行の『続日本紀』の示すがごときものとなりたるならん。
 しかれども、『続日本紀』には翌養老三年において石城国に駅家一十処を置くの記事あり。この記事またあるいは他の条下にあるべきものの錯簡または誤謬なりやも図り難けれども、余輩はいまだ誤謬もしくは錯簡なりとして、これを斥くべき理由を知らず。また、『曰本紀略』が養老二年能・房二州建置の記事の続きに、一言の城・背二州に及ぶなきを見れば、よしや当初の『続日本紀』に該二州廃止の記事ありたりとするも、必ずしもそのことが『扶桑略記』のごとく養老二年の条下にありたりとのみ断ずべからず。しかして、『続日本紀』神亀元年の条には、坂東九国(274)の文あり。九国とは今のいわゆる関東八州に陸奥を加えたるものにて、石城・石背二州はすでにこの時に存せざりしことを示せるなり。また、養老五年前の国郡数を伝うる『律書残篇』引用文には、日本国六十七とありて、これまた後の国数より分合廃置を逆推して、当時城・背二州なかりしことを示す。よりて余輩は、該二州廃止の年代を、養老二年か、しからずば養老三年後、養老五年前、もしくは神亀元年前にありきと断ぜんとするなり。
 次に両州設置の年代につきては、『常陸風土記』に大化改新の時坂東八国の称ありて、城・背二州を容るるの余地なければ、二州の設置は大化以後にありというべく、また大宝「戸令」および「軍防令」には明かに二州の名ありて、しかもこれと同一事情のもとにあるべき出羽の名なければ、「令」中のこの二州の名は少くも出羽設置の和銅五年前より存せしものにて、大宝制定当時すでにしかりしものなるべく、すなわち二州は大化後大宝前において建置されたるものなりと言うを得べし。
 これを当時の情勢について考うるに、陸奥すなわち太平洋方面の拓殖は由来古く、城・背二州の建置が大宝以前にありきとのことは十分に信ずべき事情あり。これに反して出羽すなわち日本海方面の経営は比較的後の世に始まり、しかして奈良朝の初世には、主としてこの方面の拓殖に尽力し、陸奥方面は比較的閑却されたりしかの観あり。このさいにおいて、この両国を廃して陸奥鎮所を設置し、その保護のもとに置きたりとのことは、また信ずべき理由あるを思う。
 以上の理由により、余輩は石城・石背二州の建置をもって大化後大宝前にありとし、その廃止を、養老二年か、しからずば養老三年後、養老五年もしくは神亀元年前にありとなすなり。
 明治に至りて両国の号は復旧せられたりしも、その石背はイワシロと誤読し、かつ世人をして読みやすからしめんがために岩代の文字に改めたるがゆえに、全く別名の国となれり。その境域また彼此国勢の相等しからんことを欲せ(275)しより、もと石背の一部を磐城に加え、すこぶる地理自然の区画と相容れざるものとなり、もって現時に及べり。
 右あえて管見を披陳し、識者の高判を仰ぐ。(大正元年十月五日記)
 
      付 現存『続日本紀』の誤謬について
 
 現存『続日本紀』に錯簡・誤写・脱漏の多きことにつきては、前号所載石城・石背両国建置記事の批判の文中において、ほぼこれを述べたり。これによりて読者は、該書記載の両国建置に関する記事のまた誤謬なるべきゆえんを了解せられたるべしと信ず。しかるに、前号記載の余の文中、
  これを同じ『類聚国史』蝦夷の記事に対照するに、霊亀二年九月、および養老元年某月日においても、また脱漏あるべし。
とあるは衍文にして、当然削除すべきものに属す。けだし、当時余旅窓においてこれを執筆し、そのさい手許に『続日本紀』を有せず、単に雑抄の手控に基づきて文をなしたれば、ためにその間かかるの誤謬を致したるなり。されば今本章の終りに臨みてこれを訂正し、かねて『続日本紀』中の誤謬を指摘してその由来を明かにし、もって本章述ぶるところの城・背二州建置の記事の、これと同一の誤謬なるべき次第を明かにせんとす。
 由来現存の『続日本紀』は、その伝写者もしくは研究者が、自己の心覚えのためにとて傍書したりと思わるる記事の、後の伝写者によりて誤りて本文中に収められたるもの少からず。右の霊亀二年・養老元年の記事のごとき、まさにその一例なり。霊亀二年九月条に曰く、
  乙未従三位中納言巨勢朝巨万呂言(ス)。建(テテ)2出羽国(ヲ)1已(ニ)経(レドモ)2数年(ヲ)1吏民少稀(ニシテ)、狄徒未(ダ)v馴(レ)v。其(ノ)地膏腴、田野広寛。請(フ)令《シテ・メント》d2随近国(ノ)民(ヲ)1遷(シ)2於出羽国(ニ)1、教2喩(シテ)狂狄(ヲ)1、兼(テ)保(タ)c地利(ヲ)u。許(ス)v之(ヲ)。因(テ)以(テ)2陸奥(ノ)置賜・最上二郡、及信濃・上野・越前・越後四(276)国(ノ)百姓各百戸(ヲ)1隷(ス)2出羽国(ニ)1。
と。この文中誤謬あるべきことは前号においてすでにこれを指摘せしところなれども、さらにその誤謬の由来を研究するにおいて、すこぶる興味ある径路を有するを見る。まず試みに右の文を熟読するに、短文それ自身においてすでに幾多の矛盾あり。公卿上奏して随近の国民を出羽に遷さんと請い、その許可を得たるは当時の事情に徴してまさにしかるべきことなり。しかるにその許可を得たるによりて陸奥の二郡と随近の四国との民各百戸を出羽国に隷すとはいかん。当時移民のこと、国司の所管なるべく、したがって信濃以下四国の民を遷すというは可なれども、これと並べて陸奥の最上・置賜二郡の民を遷すとは言うべからず。かりに二郡の民を遷したるの事実ありとも、これを史に記するにおいては、必ず陸奥・信濃等五国の民を遷すとあるべきなり。また、これを当時の事情に徴するに、最上・置賜の地は同じく夷地にして、むしろ他より移民を要求すべき情態にあり、決してその地の民各百戸を他に移すべきにあらず。百戸は当時の制における二郷にして、まさに小郡の全域に当る。当時の最上・置賜の二郡、あにこの多数の民の割取を容るさんや。あるいは曰く、上文言える二郡のことは、二郡の民を移すの謂にあらずして、二郡その物を出羽に属せしむるなりと。しかり、事実はまさにしかるべし。しかれども、もしかくのごとく解せんには、「及」の接続詞をもって連ねられたるその下文の「信濃等四国の百姓各百戸を出羽国に隷す」との記事はこれをいかに解すべきか。あるいはこれら四国より百戸すなわち各二郷ずつの地を割いて出羽に隷すとも解し得べし。しかも事実はこれを許さざるなり。要するに右の文は、陸奥の最上・置賜の二郡を割いて出羽国に隷し、信濃以下四国の民各百戸を移して出羽国に隷すとの二様の、おのおの別の事実を一文中に収めたるものならざるべからず。しかるに同じ『続日本紀』中には、
  和銅五年十月丁酉朔、割(テ)2陸奥国(ノ)最上・置賜二郡(ヲ)1隷(ス)2出羽国(ニ)1焉。
(277)  養老元年二月丁酉、以(テ)2信濃・上野・越前・越後四国百姓各一百戸(ヲ)1、配(ス)2出羽(ノ)柵戸(ニ)1焉。
の両記事あるを見る。すなわち前記霊亀二年九月乙未粂下の記事の事実は、その半ばは和銅五年十月にあり、半ばは養老元年二月にあるなり。思うに、霊亀二年九月乙未は、単に中納言巨勢朝臣万呂が出羽の移民を奏請し、その許可を得たるの日にして、しかしてその実行は、翌養老元年二月丁酉にありしを、『続日本紀』の研究者が、自己の参考までに、後に起れる移民実行の事実を奏請許可の記事の条に傍書し、また、類似の性質なるをもって、前の最上・置賜二郡分属の事実をも加え置きしものが、後の伝写者によりて、本文中に※[手偏+纔の旁]入せしに相違なし。余輩が前号において霊亀二年九月および養老元年某月日の記事について云々せしは、実にこのことにてありき。その『類聚国史』対照云々の文は全く筆録の誤りなり。ここに事情を明かにして訂正を加うること爾《しか》り。 次に、和銅元年八月条に、前文引くところの、
  庚辰、兵部省(ニ)更(ニ)加(フ)2史生六員(ヲ)1。通(ジテ)v前(ニ)十六人。左右京職(ニ)各六員。主計寮(ニ)四員。通v前十人。
の文あり。これを「大宝令」に参照するに、兵部省もと史生十員あり、主計寮もと史生六員あり。よりてさらに六員を加えて前に通じて十六員とし、四員を加えて前に通じて十員とすというは当れり。しかるに、左右京職にはもと史生なし。されば、この時もし新たに六員を置きしならんには、その記述の筆法決して上文のごとくなるべからず。もし上文のごとくならんには、左右京職もと史生四員あり、さらに六員を加えて前に通じて十人となれりとも解すべく、もししからずんば、兵部省と主計寮との史生増員の記事を連記し、「又左右京職に新たに史生各六員を置く」という風に記すべきものなるべし。しかるに、同じ『続日本紀』の後の条を見るに、
  和銅五年十二月己酉、東西二京(ニ)始(テ)置(ク)2史生各二員(ヲ)1。
とあり。和銅五年に始めて史生を置く、その以前に史生六員を置くの事実あるべきにあらず。次に、
(278)  養老元年秋七月己未、加(フ)2左右京職史生各四員(ヲ)1。
の文あり。さきに始めて史生二員を置き、ここにさらに史生四員を加え、通じて六員ずつとなる。前記和銅元年八月条の史生六員を置くの事実は、ここに至りて始めて実現せられたるなり。思うに右六員を置くの記事は、この時兵部省および主計寮に史生増員の記事あるによりて、そのちなみに後人左右京職史生増員の事実を単に自己の心覚えのためまでに傍書したりしものが、いつしか本文中に※[手偏+纔の旁]入して、写し伝えらるるに至りしものなるを疑わざるなり。
 およそかくのごときの誤謬は、伝写によりて保存せられたる古書には免れ難きところなれども、ことに現存『続日本紀』においてはなはだしきを見る。しかして、右の二条のごときは、前後の記事によりて明かにその誤謬の由来と事実とを証明し得べきものなれども、本書また脱漏すこぶる多くして、一々立証し難きもの多し。本章石城・石背二国建置の記事のごとき、その不合理の点においては右二条の記事と同じく、この傍例によりて、かの記事がまた類により参考のために傍書したりしものの、いつしか本文中に※[手偏+纔の旁]入せしものなることを知るを得べきなり。
 このほか、現行『続日本紀』を通じて、※[手偏+纔の旁]入・錯簡・脱漏・誤字等に至りては、とうてい枚挙すべからず。※[手偏+纔の旁]入の著しきものには、和銅元年七月乙巳の条に、前後完全に連絡せる一文中に、全然これとなんらの関係なき、
  紀伊国名草郡|旦来《あさこ》郷壬戌歳戸籍
の十四字を雑ゆるがごときはなはだしきあり。伴信友は本書もと右旦来郷戸籍の廃紙背に書写し、後人伝写のさいその戸籍の文[手偏+纔の旁]入したるならんと言われたり。実に然らん。戸籍の紙背継目に記したる文字が本文の問に存在し、伝写者は器械的にこれを謄写して本文中に挿入せしものなるべし。
 また信友の『比古婆衣』には、『続日本紀』の中なる古き錯乱の文と題して、神亀元年三月庚申条の記事は、この年六月三日庚寅の事実(国史大系本頭註に六月三日庚申に当るとあるは庚寅の誤りなるべし)が錯簡してここに※[手偏+纔の旁]入せるも(279)のなることを論ぜられたり。この類の錯簡他にも少からず。
 脱漏には本章記述の蝦夷に関する記事二条のほかにも、なおはなはだ多かるべきを疑わず。右の蝦夷の記事を脱せる養老二年の条は、その実八月十四日以後、九月十八日以前の記事を脱せるものなること、前すでに言えるがごとく、したがって右両条の蝦夷以外の記事もまた脱落せるものなきを保せず。しかしてこれと同様なる脱漏は本書を通じてはなはだ多し。慶雲四年二月、和銅元年八月、和銅元年十一月、和銅七年三月、神亀元年八月、同年十二月(その他なお多し、以下略す)等の条皆しかり。ただしこれらのはなはだ多き脱漏は、あるいは編纂当初より存するものもあるべく、ことごとく伝写のさいに生じたりとのみは言い難かるべきか。右の和銅七年三月条のごとき、『類聚国史』の記するところすでに現行『続日本紀』に一致す。しからば、少くもこの条のごときは、伝写のさいの脱漏なりとするも、そはすでに延喜以前において起れるものなるを知るなり。さらにこれを記事の上より見るに、某年月日芳野監の設置廃止の記事のごとき、当然本書に脱すべからざるもの。しかもこれを載せざるは、おそらくはまた伝写のさいにおける脱漏と見るべきか。
 誤字の著しきものには、文武天皇元年八月突未、紀朝臣竃門娘、石川朝臣刀子娘を妃となすとあり。ここに妃とあるは当然嬪の誤りにして、和銅六年十一月条には明かに嬪とあり。これを官制の上より見るも、右の二人決して妃たる能わざるなり。その他の流布板本中の誤謬中には、他の異本によりて訂正し得べきものもあれど、なお各本を通じて誤れるものまたはなはだ多し。思うに『続日本紀』は、古くより類本少く、流布本はもとより、他の現存の異本ども、いずれもその原を一にし、しかもその原本たる、無識の写字生によりて器械的に謄写せられたる悪本にして、他の善本亡失し世に伝わらざるに至りしものならん。その誤字・誤謬につきては、古人先輩の所説あるものは、多く国史大系本に頭注したれども、なお漏れたるもの多かるべし。今や宮内省によりて「六国史」校訂の挙ありと聞く。学(280)界のため最も慶すべし。吾人は速かにその功を畢えて、発表せられんことを望む。
 城・背二州建置の記事の誤謬を言わんとして、ちなみに『続日本紀』全般の誤謬に関し、いささか所見を述ぶとしかいう。   (大正元年十一月十日追記)
 
(281) 石城・石背両国建置沿革追考
 
      一 緒  言
 
 石城・石背両国の廃置につきては、昨年末本誌第二十巻第五、六両号において管見を発表し、その後高橋万次郎君の弁駁によりてさらに攻究を重ねたるうえ、本年上半季間の『史学雑誌』上にて意見を交換し、および本誌第二十一巻第三、五両号の誌上にて別に説明するところありしが、今やさらに新資料の発見と、『令集解』の『古記』引古民部省式ならびに『常陸風土記』の年代に関する新研究とによりて、いっそうその廃置年代を精緻の域にまで推考するを得たるをもって、ここに追考を草して本論を完からしめんとす。
 石城・石背の両国は、「大宝令」の遺文と推定せらるる現存の「戸令」および「軍防令」の条文中にその名の載録せらるることによりて、大宝当時すでに存在せしこと、もはや説明を要せざるべし。しかして、その神亀元年のころにすでに廃して存せざりしこと、またすでにこれが証明を経たり。しかれども、その大宝以前果していつのころに設置せられ、神亀以前果していつのころに廃せられたりやにつきては、はなはだ漠然たる推定を下すに満足せざるを得(282)ざりしが、今やさらに進んでその不備を補い、比較的短時期間にこれを限定するを得べきを思う。
 新資料の発見とは何ぞや。現存『続日本紀』に逸して、幸いに『類聚国史』により保存せらるる、養老四年当時両国存在の記事これなり、曰く、
  養老四年十一月甲戌勅、陸奥・石背・石城三国調庸并租、減□之。唯遠江・常陸・美濃・武蔵・越前・出羽六国者、免2征卒及厮馬従等調庸并房戸租1。(『類聚国史』八十三、政理部免租税条)
と。これはこの年蝦夷反して按察使上毛野広人を殺せしをもって、多治比県守を持節征夷将軍とし、下毛野石代を副将軍として、これを征伐せしめしがための恩典にして、事理明白、疑いを容るるの余地なきものなりとす。この文現存の『続日本紀』に脱漏するがゆえに、従来の両国廃置に関する研究者の注意に上らず、余輩またこれに心づかざりしが、たまたま『続紀』の文と『類聚国史』の文とを対校するさいこれを見出し、ここに前章の不備を補うを得るに至れるなり。
 
      二 両国廃止の年代
 
 すでに養老四年十一月になおこの両国の存するを知り、しかして神亀元年四月すでにその存せざるを知らば、この両国がその中間なる、おそらくは養老五・六・七年の問に廃せられたるべしと想像するは至当なるべし。しかして養老五年八月陸奥按察使をして出羽を管せしめ、十月陸奥柴田郡を割いて苅田郡を置く。両国の廃止あるいはこの際にあるべきか、按察使は養老三年始めてこれを置き、近傍三、四国を管せしむるを例とす。しかもこの時奥羽・筑紫・長門その他辺要の諸島国等には及ばざりき。養老五年さらに奥羽・長門等にこれを置き、また他の諸地方の管轄区域をも改めしが、このさいの東国分管の状を見るに、相模・武蔵・上野・下野の四国は武蔵按察使これを管し、安房・(283)上総・下総・常陸の四国は常陸の按察使これを管し、陸奥・出羽の二国は、陸奥の按察使これを管す。しかしてその間にありて、石城・石背二国の所属を見ず。けだしこの両国すでにこの時廃せられたるものにて、余輩はこの事実によりてその廃止時期を養老四年十一月より、五年八月に至る九ケ月間に短縮するを得るなり。ただ現存『続日本紀』これを逸するがゆえに、これを確定するを得ざるを恨むるのみ。
 養老四年以前、『続日本紀』には三年七月石城国に始めて駅家一十処を置くの文あり。この事実すでに論じたるごとくすこぶる疑いあり。常陸より石城海岸を経て陸奥国府に通ずる海道は、これより先すでに開通せること明かなれば、この文またなんらかの誤謬あるべく、もってこの年石城存在の確証とはなし難き由すでに述べたりしが、今にして思うに、ここに駅家一十処を置くとは、始めて駅路を設けたるの義にはあらずして、駅家新築と解すべきものなるべし。同じ『続日本紀』天平元年四月条に、山陽道諸国の駅家を造らんがために、駅起稲五万束を宛つとあるもの、もって例とすべきに似たり。したがってこれまた養老に石城国存在せる一証となすべく、その「始めて」の語やや弊あれども、こは伝写のさいに誤って加わりしものとも解すべし。余輩が本誌前巻第五号に掲げし「陸奥海道駅家廃置考証は、この新解釈によりてなんら妨げらるるところなけれども、右「駅家新置」の語につきては、この解釈をもって前説を改むべきものなりとす。
 城・背両国廃止の時期すでにほぼ定まる。次にはその始置の年代を論ずべし。
 余輩の前説には、従来の学者によりて和銅五年前のものなりと認定されたる『令集解』の『古記』引民部省式国名表中に、城・背二国の名なきと、同じく和銅六、七年のころの著と認められたる『常陸風土記』に「陸奥国石城郡」の語あるとによりて、この両国が大宝のころにすでに存し、和銅五年前にすでに廃せられたることを言いしが、こは右の新説によりて当然訂正せらるべきものとす。しからば、民部省式および『風土記』のことはいかにこれを解すべ(284)きか。請う、これについていささか管見を吐露せん。
 
      三 古民部省式の年代と両国設置の時代
 
 ここに古民部省式とは何ぞや。さきに高橋君によりて提供せられたる『令集解』所引の『古記』中に引用せられたる民部省式なり。その引用せられたるは諸国の遠中近を示さんがためにして、文は「賦役令」諸国調庸物の条下にあり。曰く、
  古記云、問、遠近程|若為《イカン》。答、依2民部省式1、近国十七、伊我〔二字右○〕・伊勢・(志摩【今以意補】・尾張・参河・丹波・因幡・備前・阿波・紀伊・讃岐・近江・三野〔二字右○〕・若狭・但馬・播磨・淡路国也。中国十四、遠江・伊豆・相撲・信野〔二字右○〕・越中・駿河・甲斐・飛騨・越前・伯耆・出雲・備中・伊予・備後国也。遠国十六、上総・常陸・武蔵・下総・上野・下野・陸奥・佐渡・周房〔二字右○〕・石見・土左〔二字右○〕・越後・安芸・長門・隠岐・筑紫国也。
と。すなわち畿内以外の一切の諸国を含めるなり。しかしてこの文中、加圏の国名は中世以後慣用の文字にあらず。また、和銅五年設置の出羽、和銅六年設置の丹後・美作、養老二年設置の能登・安房等の国名なきをもって、その和銅五年前の遺文なるべきことは、先輩のすでに考定するところ。さきに高橋君またこれを言い、余輩またこれを承認したり。しかしてその城・背両国名を収録せざるのゆえをもって、和銅五年前該両国すでに廃止されたりとの一証となせしなり。しかるに、今にしてこれを思うに、右の民部省式は、ただに和銅五年前の遺文なるのみならず、実に大宝以前の旧文なるを知るを得たり。
 今右の諸国名を精査するに、本州・四国の二大島およびその属島における諸国は、奥羽の辺境に至るまで各その国名を列挙したるにかかわらず、ひとり九州島内の諸国に至りては、単にこれを筑紫国として、その中の国名を掲げざ(285)るなり。これあるいはその筑紫全体がことごとく遠国なるがゆえに、特にこれを別記するに及ばざりしものなりとも解すべきに似たれども、しからず。当時もし西海道に分国ありきとすれば、公文においてこれを総括して一国とし、遠国十六力国中の一に数うべきにあらざるなり。しかるに、ここに筑紫をもって一国とし、他の土佐・越後・陸奥・長門などと伍せしめたるは、当時の制筑紫をもって他地方と行政の趣を異にし、その中に他の諸国と同一なる区画なかりしものと見ざるべからず。これを史に徴するに、大宝以後西海道諸国は太宰府の管するところにして、ここに依然一種の特別行政は行われたりといえども、その部内の諸国はいずれも他地方における諸国と同等にして、これを総括せる太宰府管内全部をもって他地方の一国に伍せしむべきにあらず。また、これを呼ぶにも、太宰部内諸国もしくは太宰所部諸国の語をもってし、決して筑紫国の称を用いざるなり。されば、稀にこれを筑紫と称することなきにあらずといえども、こは俗用に従いたるものにて、これを一ケ国と数えたるものとは見るべからず。『続紀』大宝二年四月条に、「筑紫七国云々」、神亀四年七月条に、「筑紫諸国庚午籍云々」、同五年三月条に、「三関・筑紫・飛騨・陸奥・出羽云々」の類これなり。しかるに大宝以前にありては、太宰ある必ずしも西海道のみに限らず。『曰本紀』天武天皇八年条に吉備太宰あり。持統天皇四年条に太宰・国司皆任に還るの語あり。宰はミコトモチと訓ず、国司に同じ。太宰はけだし国司の大なるもの、総領というもまた同じきか。『日本紀』天武天皇十四年条に周芳総令あり。持統天皇三年条に伊予総領あり。『続紀』文武天皇四年条に筑紫総領・吉備総領・周防総領あり。『常陸風土記』には坂東諸国の総領あり。『播磨風土記』には播磨総領あり。もっともこの総領・太宰というもの、必ずしも常に同一の職制のものにはあらざりしならん。『常陸風土記』によれば、坂東の総領は坂東八国を管し、『曰本紀』によれば持統天皇朝の伊予総領は讃岐の事に与かる。けだし後の按察使の類か。ただ筑紫にありてはややその趣を異にするものあり。筑紫総領はすなわち筑紫太宰にして、あるいは筑紫率・筑紫帥・筑紫太宰率などと称し、その庁を筑紫都督府(天智(286)六年十一月条)筑紫太宰府(天智十年十一月条)などと称す。後、他地方の太宰・総領ことごとく廃せられ、筑紫太宰府のみ永く存することとなりしかば、単にこれを太宰府と称し、ついに筑紫の語を除くに至りしものなれども、その以前にありては九州全体を称して筑紫と呼ぶを常としたりしなり。しかして右の古民部省式これを筑紫国という。けだし当時の筑紫総領府は、なお現時の北海道庁が一種特別なる地方官庁として、他の府県と伍するがごとく、また他の諸国と伍したりしものなるべく、したがってその式が少くも「大宝令」制定以後のものならざるは明かなりとす。すでにその大宝以前のものたるを知らば、次に決すべきはその果して大宝以前いつのころのものなりやの問題なり。しかして余輩は、少くもこれをもって持統天皇三年、「近江令」二十二巻頒布の後と擬定せんとす。すでに「令」を頒布する以上、その中に規定せる諸国の遠近を指定すべき式の必要なるは言を侯たず。しかして、大宝の「律令」は大略浄御原朝廷をもって准正となすとあれば、その式のあるものが、依然大宝以後に有効なりしことは想像し得べきなり。人あるいは民部省式なるものの大宝前に存在せしことを信ずるに躊躇す。しかれどもすでに「令」によりて政治を実施する以上、その施行細則なる式の必要は言うまでもなし。いわんや民部省の語は『日本紀』朱鳥元年の条に見え、民部卿の名、また同書天武天皇六年においてすでに現存するをや。人またあるいはその列挙の国名がいずれも二字より成り、ことに『古記』に水海とあるを近江とし、現存の令文に斐陀とあるを飛騨とし、『令釈』に桑花《さがみ》・須流河《するが》・上毛野・高志道中(越中)・高同志道後(越後)などとあるを相摸・駿河・上野・越中・越後などとする等、その用字のやや後世めきたるを疑うものあれども、国名の二字に定まれる、必ずしもある説のごとく和銅六年とは限るべからず。大化二年八月の「詔」に、国県の名は来時に定めんとすとありて、その定まりたるは大化改新後久しからざる時にありたるべく、その国名二字ということも、ほぼこの際にありしならん。ただ後に至りてこれを郡郷にも及ぼせしならんのみ。近江・飛騨・相摸・駿河等の名は『日本紀』にあり、下野・越前の名また所見あれば、もって上野・(287)越中・越後を類推すべく、越中・越後の文字は「大宝令」文中にもあり。これら必ずしも後の追記とのみ定むべからず。けだし、当時ほぼ国名には一定の用字ありながら、一般には行われざりしものか。なおまた古民部省式の用字、後人が故意にもしくは無意識に、その当時の用字と書き改めしこともあるべく、誤写もまたこれあるべし。現に信野・周房のごとき、和銅五年以前のものとしても普通にあらず、また、飛騨を金沢文庫本に明かに斐太に作り、筑紫を竺紫に作れるをもって見れば、板本の用字のみをもって、その年代を論ずべきにもあらざるなり。
 すでに古民部省式が持統天皇三年以後のものなるを知らば、「大宝令」制定当時存在の石城・石背両国が、持統三年より大宝元年に至る十二年の間に設置せられたるは明かなりとす。このころ蝦夷地に対する懐柔の事しばしば史に見ゆ。このさい両国の分立ある、時勢に合うものなりというべし。
 城・背両国にして果して大宝前に設置せられ、養老五年ごろまで存続したりとせんには、さらにここに解決せざるべからざる一問題あり。『常陸風土記』の年代これなり。該書は従来普通に和銅年間の著作と認められたるもの。しかして該書中には陸奥国石城郡の語ありて、当時石城が陸奥の中なりしことを示す。されば該書にして、果して従来認めらるるごとく和銅の著作ならんには、そのころは両国がすでに廃せられたる後なるか、もしくはいまだ設置せられざる前なるか、二者その一におることを認めざるべからざるなり。余輩の前章また実にこれによりて説を立つ。しかして今やこれを訂正せざるべからざるの機に遭遇せるなり。
 
      四 『常陸風土記』の年代
 
 言うまでもなく諸国風土記は和銅六年の「勅」に基きて編纂せられたるもの、しかも必ずしもその時ただちにことごとく勘進せられたるにはあらず。しかるにもかかわらず世に『常陸風土記』を特に和銅の著という理由は、他書に(288)郷といえるものを本書には里といえるにあるなり。里は『日本紀』大化二年条に、五十戸を里となすといい、「大宝令」またこれに従う。すなわち郡の小区分にして後の郷に当る。その里を郷と改めたるは、『出雲風土記』によるに、霊亀元年の「格」によるという。この「格」現存『続日本紀』に逸したれば、その詳細を知るべからざれども、大宝の戸籍に里とあり、養老の戸籍に郷となれるを思うに、その当らずとも遠からざるを知るに足る。しかして『播磨風土記』のごときは、現にことごとくこれを里となして、いわゆる霊亀元年の「格」以前の物なるを示すに似たり。しかれども霊亀元年の「格」なるもの、果していかなる意味によりて里を郷と改めたるものにや。和銅六年の「勅」に諸国郡郷の名は好字を著けよとありて、この時すでに郡の下位なる行政区画を郷と称せしもののごとし。これより先和銅二年十月、備後品遅郡の三里を割いて新設の甲努郡に隷し、五年五月詔して国郡司および里長を戒め給いしことありて、このころはなお里といいしこと明かなれば、和銅六年の詔のさいに里を郷と改めたるものとも解すべし。果してしからば『播磨風土記』のごときは、しばらく前用に従いて旧称のままに編纂されたるものにてもあるべきか。もっとも里を改めて郷となしたるがために、里なる名称は絶滅せしにはあらず、その名称がさらに郷の小区分として用いられしことは、『出雲風土記』各郡の下に、さらに郷里の数を挙げたるにて知るべく、一郷の下たいてい二、三里ありしがごとし。こは豊後・肥前の両風土記においても見るべく、南都、東南院所伝『律書残篇』所収国郡記事に、日本全国四千十二郷、一万二千三十六里というもの、これに相当するなり(按、ここに一万二千三十六里というは、正しく四千十二郷の三倍に当る。こは当時一郷三里という制によりて机上に割り出せしものにて、実際にはあらじ。実際に必ずしも三里ずつならざりしことは、出雲・肥前・豊後風土記の等しく証するところなり)。またこれを養老五年の下総の戸籍について見るに、葛飾郡大島郷内に甲和里・仲村里・島俣里の三里ありて、各里それぞれに里正を置き、これを最下級の行政区画となししもののごとし。このほか実例枚挙にいとまあらず。霊亀の「格」というもの、あるいはこの郷(289)里の名称変更の次第を規定せしものなりしか。果してしからば、この一事のみをもって風土記の時代を定むるは精密ならず。
 風土記の現存してその休を見るべきもの、常陸・出雲・播磨・豊後・肥前の五国あり。このうち出雲以下の四国風土記は、その体ほぼ相同じく、国を郡に分ち、郡をさらに里もしくは郷に分ち、いずれもその行政区画に基きて、その地の風土、物産、来歴等を記述せり。しかるに『常陸風土記』のみはしからず。郡をもって地理記述上の区画の単位となし、郡衙を本として郡内の山川・郷里・村邑その他の地物を記述するなり。例えば、
 自郡(新治)以東五十里在笠間村。
 従郡(茨城)西南近有河間謂信筑之川。
 郡(同右)東十里桑原岳。
 郡(行方)西津済所謂行方之海。
 自郡(同右)西北提賀里。
 自郡(同右)東北十五里当麻之郷。
 郡(香島)東二三里高松浜。
 自郡(久慈)西北六里河内里、本名古々之邑。
のごとし。その人家聚落の地を指すに里の名をもってするもの最多におれども、必ずしも里のみに限らざるは上記のごとく、その郷名を称するもの、
 霞郷(行方郡) 伊多久之郷(同郡) 当麻郷(同郡) 白鳥郷(香島郡) 太田郷(久慈郡)
などあり。あるいは「郡郷境界」(総国郡)といい、あるいは「郷体」(行方郡)といい、あるいは「遠里近郷」(久慈(290)郡)といい、あるいは「遠邇郷里」(同上)というなど、この書が郷なる名称起りて後の書なることを示すの材料少からず。したがってその里というもの、必ずしも五十戸一里なる行政区画上の里にはあらずして、その地の称呼に従い、村落を指せし地名的の名辞なりと解すべきに似たり。ことにその行方郡の条に建借問命が国栖《くす》を誅せることを記して、
 痛殺所言《いたくころすといえるところを》今謂|伊多久《いたく》之郷、
 段斬所言《ふつにきるといえるところを》今謂|布都奈《ふつな》之村、
 安殺《やすくころす》所言今謂|安伐《あば》之里、
 吉殺《よくころす》所言今謂|吉前《えさき》之邑、
とあるがごとく巧みに郷村里邑の語を塩梅し、その文字の間に行政的区画の意味を有せざるあり。また郷と里とを同じ意味に用いて、
 香澄里云々……謂之霞郷云々……、此里以西云々(行方郡条)
 白鳥里云々……、由是其所号白鳥郷(香島郡条)
といい、里と村とを同じ意味に用いて、
 静織里云々……于時此村初織云々(久慈郡条)
 東北二里密筑里、村中浄泉俗謂大井(同上)
 多乾海苔、由是名能理波麻之村、乗浜里東有浮島村、云々、里七八町余(信太郡条)
といえるなど、その例多く、しかもまた一方には、
 割下総国海上国造部内軽野以南一里、那賀国造部内寒田以北五里、別置神郡(香島郡条)
といいて、その一行政区画なることを示せるあり、
(291) 山田里云々、其里大伴村云々(久慈郡条)
 道前里飽田村(多珂郡条)
とありて、里をもって村の上位にある地域を称するの名辞に用いたるもありて、用法一定せず。要するに、本書中里の字多きのゆえをもって、郷なる名辞の起れる以前、すなわち霊亀元年前の著なる確証なりとする説は成立し難きに似たり。本書もと抄本にして、全体の結構をつまびらかにせねど、その郷もしくは里なる行政区画をもって記述上の単位とせざるは明かなれば、その里といえるものも、単に俗用に従いたるまでにて、郷と混用せられ、これのみによりてその時代を確定し難きものなりと言わざるべからず。一説に郷里の名を二字に定めたるをもって和銅六年の「詔」に基くとなす。里名二字のこと『播磨風土記』の註にあり。この書果して和銅年間のものとすれば、この説信ずべきに似たれども、これ確かなる出所あるにあらず。仙覚が『万葉集紗』に、和銅六年風土記を注進せしむる時、太政官下の旨に任せ、二字に定めて好字を用うるなりとあれども、二字のことは『続日本紀』所載の「詔」に言わざるところ、仙覚の説必ずしも信ずべからず。もし果して厳密にこの説を信ぜば、伊多久郷(行方郡条)、田里(行方郡条)、浜里(香島郡条)のごとき三字または一字の郷里名を有する『常陸風土記』は、和銅六年以前のものと解せざるべからず。如何ぞかくのごとき解釈を容るさんや。しかるに『出雲風土記』によるに、郷名を二字に改めたるは神亀三年民部省の口宣によると明記し、従来、樋・社・林・鴨・志司沼・三刀屋・伊鼻志・種・支自真等の文字を使用せしものを、この時、斐伊・屋代・拝志・賀茂・漆沼・三屋・飯石・多禰・来島等に改めたりといえるなり。この説に従わば『常陸風土記』は霊亀元年以後神亀三年以前の著と解すべきに似たり。しかしてその書に陸奥国石城郡の語あるは、石城国が陸奥に合されたるおそらくは養老五年後のものにして、養老五年より神亀三年の間に撰ばれたるものなりと考定すべきに似たり。付記して「石城・石背両国建置沿革考」の終りを全うす。もしそれ石城・石背の名を有する現存(292)「令」の文が大宝の遺文なりとのことについては、今なお反対説なきにあらず。これに対しては『史学雑誌』上に消極的論弁を交換したりしも、いっそうこれを明かにせんがために、本誌に続載中の「京間・田舎間考」の完了を俟ち、さらに本誌上において積板的論説を発表すべし。
 
(293) 『常陸風土記』年代追考――郷と里との名称について――
 
 『常陸風土記』が郷名を記するに「里」の字をもってするもの多きのゆえをもって、該書はいまだ里を改めて郷となさざる前、すなわち『出雲風土記』にいわゆる霊亀元年の「格」以前に編纂せられたるものなりとなすの旧説に対し、余輩は前章において二個の疑問を提出し、その説の必ずしも深く憑るに足らざることを述べしが、これに対する反対意見なお少からざるをもって、さらにここに追考一編を草し、もってその惑を解くところあらんとす。
 郷と里との名称について余輩が『常陸風土記』に対し投出せし二個の疑問とは、
 一、和銅六年の「詔」にすでに「郡郷の名」の語ありて、里を改めて郷とせしこと必ずしも霊亀元年とのみ認め難きものあること。
 二、『常陸風土記』中には郡郷といい、郷里といい、また明かに郷名を記するありて、その書が郷の名称の起りたる後のものなりと認むべきものあること。
 右二個の疑問あるにより、余輩は『常陸風土記』を和銅年間の著なりとするの説を信ぜざるなり。しかるにこれに対する反対説に曰く、郡郷といい、郷里というは、漢文の潤飾に囚われたるものにて、必ずしも当時の行政区画の名(294)称とのみ解せざるべからざるにはあらじ。また、『常陸風土記』中に郷を称する名辞の存在を認むるも、こは里を称するもの二十四の多きに対して、僅々五個に過ぎざれば、けだし後人伝写のさい、その当時の慣用に随い、無意識に誤れるものなるべし。『常陸風土記』はその巻首にも明記せるごとく、国解《こくげ》の公文なり。公文あに当時公定の行政区画の名辞を誤ることあらんや。よろしくその多数に従いて、もとは全部「里」とありしものと解すべく、したがって該書はいまだ里を改めて郷とせざる前の著なりとの旧説に従うべきなりと。
 この説もとより一理あり。これ久しく旧説の世に信ぜられしゆえんなり。しかれども、和銅六年の「詔」にいわゆる「諸国郡郷の名は好字を著けよ」の郡郷は、決して漢文の潤飾と見るべからず。明かに諸国の郡と郷との行政区画の名には好字を用いよと掟て給えるなり。『常陸風土記』に「郡郷の境界」などいえる郷の字また明かに行政区画を示せるなり。これを「郡里」の誤写なりとはあるいは言うを得べけん。すでに当初より「郡郷」の文字なりしことを認むる以上、当時郡の下位なる行政区画を郷と称せしことは是認せざるべからざるなり。
 次に、『常陸風土記』中の郷名をもって、ことごとく「里」の誤写なりとのことはとうてい同意すべからざるなり。論者は公文書において俗用に従い、郷と里とを混用することあるべからずと称すといえども、必ずしもしからず。その「郷」字を記するもの一、二個に止まらばあるいは誤写と見るを得べけんも、前章すでに掲記せるごとく、地名に付するもの五の多きに達し、その他にもなお「郷」字を記すもの少からざるにおいて、これらをことごとく誤写と見んは穏かならず。またもしかりに公文書決して「郷」と「里」とを混用することなしと言うならば、あるいは曲げてもこれに従うを要すべけれど、奈良朝の公文書往々にして郷を称して里とし、あるいは郷と里とを混用する場合少からざるにおいて、ひとり『常陸風土記』をのみ責むるに酷なるは、余輩の与せざるところなりとす。
 天平勝宝元年十一月三日散位大宅朝臣可是麻呂の解に曰く、
(295) 山背国綴熹郡甲作里(『和名抄』甲作郷)
 同  同  山本里(同  山本郷)
 同  久西郡那紀里(同  那紀郷)
 同  紀伊郡邑薩里(同  大里郷)
 同  乙訓郡山埼里(同  山埼郷)
 同     羽束里(同  羽束郷)
 摂津国島上郡野身里(同  濃味郷)
 山背国紀伊郡大里郷
 右は明かに郷と称する時代にありてなお大部分旧称により里の称を用うるの例にして、しかもまたその間郷名をも混用せるなり。ただし、こは主として天平十三年六月二十六日の山背国司より大養徳《やまと》国司に致せる移の文に基づきたるものにして、同書には、前記の、
 甲作里 山本里 那紀里 邑薩里 山埼里のほかに、
 添上郡師毛里
をも録するなり。この師毛里は同年閏三月七日の右京職移の文に志茂郷とあるものにして、同一年中なる地方庁の公文書において、一に郷とし、一に里とせるの好例となすべし。また、天平十五年九月一日摂津職より大養徳国司への移に、
 島上郡野身郷
とせるを、同日をもって同職より部下島上郡司に致せる符に、
(296) 島上郡野身里
となせるがごときに至りては、同一官庁が同一日中の公文書に、両者を混用せる極端の例なりとすべきなり。
 かくのごときはいずれも公文書において郷に代うるに里をもってし、もしくは両者を混用すること少からざりしことを示せるものにして、けだし当時一般にこれを「サト」と称し、これを文字に現わす場合にも、通俗には多く「里」の字を用いしによれるものなるべし。その著しき例は『日本霊異記』にして、同書には稀に「郷」の称を用うるも、その大多数は「里」を称すること、なお天平勝宝元年の大宅可是麻呂の解のごとく、また『常陸風土記』のごときを見るなり。『常陸風土記』は他の諸風土記と体を異にし、郷をもって地理記述の単位とせざるものなれば、おのずからこの俗用に従いて「郷」「里」の文字を混用せるなるべく、これについて毫も怪しむを要せざるなり。
 「郷」「里」の文字の使用が、必ずしもその時代を明示するものにあらざる以上、『常陸風土記』をもって和銅年間の著なりとなすの旧説は全然消滅すべきなり。しかして同書に陸奥国石城郡の語ある以上、その年代を論ずるもの、必ずまず石城国の廃置と関聯してこれを研究せざるべからず。これ余輩がさきに石城・石背の両国が「大宝令」制定当時すでに存し、養老四年十一月より、五年八月に至るの間に廃せられたりとなすの見地よりして、『常陸風土記』を養老五年以後の著なりと考定せしゆえんなりとす。記して前説記述の足らざりしところを補う。
 
(297) 陸奥海道駅家の廃置を論じて多賀城碑に及ぶ(石城・石背両国建置沿革考余論)
 
 石城・石背の両国が大宝当時に存在したるべきことは、重ねて本誌上にこれを説きたれば、賢明なる読者諸君はすでに余輩の意のあるところを了承せられたるべしと信ず。しかるにその後令制に精通せらるる高橋万次郎君は、余輩のもって確証となすところの「大宝令」の条文は、その実養老のさいの改修を経たるものなれば、もって養老当時両国存在の証とはなすべきも、大宝当時に存在したりとの証とはならずとの意味を、重ねて『史学雑誌』三月号に発表せられ、かつ余輩が、かりにこれを養老修正の文とせんには、必ず該両国と同一条件の下にある、否、むしろこれよりも必要の地位にある出羽国の名の必ずこれに伴わざるべからざるはずなるに、「戸令」「軍防令」の両所ともにそのしからざるは、養老修正の文にあらざるを証すと言えるに対して、そは編纂者の技能巧拙いかんの問題にして、後の研究者の責任を負うべきものにあらずとの意を付加せられたり。しかれども、出羽が養老に次げる神亀のさいに、現にこれらの地方とともに資人貢進の地より除外せられおるは事実なり。『続日本紀』の記事これを証す。また、和銅分国以前にありては出羽の地は越後の中にして同じく除外の範囲にありしこと勿論なり。しからばその中間なる養老のさいにいかでこの国のみ、除外例より削らるるの理あらんや。されば、かりに養老修正のさいに、石城・石背・(298)越後等比較的必要少き国を加えながら、出羽の名が加わらざりしとせば、そは粗漏誤脱というべく、編纂者の技能巧拙いかんの問題にあらず。しかも余輩は、当時右大臣藤原不比等を総裁とし、勅命のもとに国家の法典を修正するに当り、斯道に精通したるべき人々が事に従い、「刀筆を執持し、科条を刪定し、成功多し」として称揚せられ、功田をさえ賜わりたるに対しても、決してかくのごとき眼前の事実に違反せる、かつ最も明白なる粗漏誤脱を、しかも二ケ所までも重ぬべしとは信ずる能わざるなり。いわんや現存の「令」の本文が、大体において大宝当時のままなるべきことにつきては、他に十分の証明あるをや。これに関しては『史学雑誌』四月号において縷陳したるところあれば、ここに繰り返さず、切に読者の該誌往見を望む。しかして余輩は、かりに高橋君に百歩を譲りてその言うところをことごとく異なりとし、現存の令文は養老のさい高橋君の信ぜらるる程度の修正を経たるものなりと認むるとも、なおかつ高橋君の論結せんとする点に到達せざるを信ずるなり。なんとなれば、高橋君は現存の令文をもって養老の修正を経たるものとなすも、しかもその中には当然訂正さるべくして、なお旧文のままに存するものも交れるを認めらるればなり。すでに訂正さるべくして、しかもなお訂正されずに存するものあるを認むる以上、養老の修正としてはその同一条件のもとにある出羽を伴わざるの不都合なる本条の文のごときは、当然その訂正さるべくして、しかも訂正せられざる方の好適例たるべきにあらずや。
 いずれにしても余輩は、石城・石背の二国が大宝当時に存在したるべきことにつきては、すでに十分の証明を経たるものなりと信ずるなり。しかれども、ここになお解決を加えて、余輩の所論をいっそう完全たらしむべき一事の存するあり、『続日本紀』養老三年条における石城国駅家一十処新置の文これなり。石城・石背両国が、大宝当時すでに存し、和銅五年以前に廃せられたりとせば、むろん『続紀』のこの文は誤謬なりとせざるべからず。もとより現存の『続紀』は誤謬・錯簡・後人加筆※[手偏+纔の旁]入等はなはだ多き悪本なれば、本条の記事またその類の一として放任せん(299)も可なるに似たれど、しかもなお、積極的にそのしかるべからざるゆえんを立証せんは、古代駅路研究上より見るもはなはだ有益なる事項なりと信ずるがゆえに、ここにいささか歴史地理学的研究を加え、かねて前論の首尾を完うせんとす。
 現存『続日本紀』に曰く、
  養老三年閏七月丁丑、石城国に始めて駅家一十処を置く。
と。同書この前年五月に石城・石背二国を置けるの記事あり。前後の対照最も当を得たるがごとし。さらに『日本後紀』を見るに曰く、
  弘仁二年四月乙酉、陸奥国の海道十駅を廃し、更に常陸に通ずる道に於て長有・高野の二駅を置く。機急を告げんが為なり。
と。ここに陸奥国海道とはすなわち旧石城国の域内に当り、その十駅を廃すというものすなわち養老三年設置の駅家一十処に当る。常陸・陸奥間の交通は養老より弘仁まで引続きこの海道を通ぜしが、ここに至りてその駅路を廃し、しかも機急を常陸に告ぐるの必要上より、山道中の一駅と常陸との間に新たに二駅を設けたりと解すべく、事理最も明白、彼此相啓発して一見毫末の疑いを容るる余地なきに似たり。しかれどもこれ畢竟皮相の見解なり。歴史地理学上の研究は、その誤謬を証明して余りあるをいかんせん。
 つらつら右の駅家始置の記事を翫味せよ。養老三年始めて石城に駅家一十処を置くという以上、この以前には陸奥海道に公設の駅家なく、官道は白河より厚樫山を経て名取に通ずる山道のみなりきと認めざるべからず。しかるに『古事記』『国造本紀』『常陸風土記』等の記事に徴し、これを古代拓殖進歩の情勢に考うるに、海道まず開けて山道これにつづき、少くも允恭天皇の御代のころ以後は両道並び通ぜし事実の認めらるること不審の一なり。かりに養老(300)三年始めて石城に駅路を通じたりとせんか。従来の海道ほ南より来りて常陸国府に終れるか、しからずんばこれよりさらに山道の某駅に通じ、もって陸奥に至りしものと認めざるべからず。果してしからば、石城国に新たに十駅を設置すという以上、さらにその最南駅より常陸国府に通ずるの駅路を設けずしては、もって海道全通したりというべからず。新設の十駅また用をなさざるべきなり。しかるに史に石城駅家のことのみありて、これと連絡すべき常陸駅家のことの見えざるは不審の二なり。請う、さらにつまびらかにこれを述べん。
 太古天孫種族が東国の拓殖に着手したる最初の地点は房総半島にして、次に東山道両毛地方に及ぶ。これ古伝説の余輩に語るところにして、これをその地理に考うるに、またまさにそのしかるべきを思う。斎部氏の家伝なる『古語拾遺』によるに、神武天皇の御宇その祖天富命阿波の忌部を率いて安房国に至り、総《ふさ》すなわち上総・下総地方に麻を植え、結城《ゆうき》地方は木綿《ゆう》の栽培に適したる地なりきという。余輩はあえてことごとくこれらの地名伝説を信ぜんとするものにあらず、その神武天皇御宇というもの、また必ずしも重きを措かざれども、安房の南端に古くその祖神(官幣大社安房神社)が鎮座せるに徴しても、斎部氏と房総地方との古き関係はこれを認めざるべからず。また香取に経津主《ふつぬし》神を祀れる香取神宮あり、鹿島に武甕槌《たけみかづち》神を祀れる鹿島神宮もあり。社伝によるにまた神武天皇御宇の鎮座といい、中臣氏実に代々これに奉仕す。これまた古く天孫種族のこれら地方に殖民せしことを証するなり。次に崇神天皇朝四道将軍派遣の伝説あり。上毛野・下毛野両氏の祖豊城入彦命来りて東国に鎮すと伝うるあり。古伝説すでに両毛の拓殖の房総に比して一時代を後にするを示し、地理またそのことの少くとも不合理ならざるを吾人に語るなり。また『古事記』には、天忍穂耳尊の御弟天津日子根命は道尻岐閇《みちのしりのきへ》国造の祖なりといい、神武天皇の皇子神八井耳命は道奥石城《みちのくのいわき》国造・常道仲《ひたちのなか》(後の那珂郡)国造の祖なりという。余輩あえて読者諸君に向ってこの系図をことごとく信ぜよとは強いず。しかれども、これを『国造本紀』の道口岐閇《みちのくちきへ》国造・染羽(標葉)国造等と合せ考えて、常陸より石城に至る海道(301)方面が早く開けて、ここに皇胤・神裔を唱うる旧家豪族のつとに存在せし事実を認めざるを得ず。特にその道口・道尻の語については、『常陸風土記』の伝うるところ大いに参照とすべきものあり。曰く、
  多珂郡 古老曰、斯我高穴穂《しがたかあなほ》宮大八州照臨天皇(成務)の世、建御狭日《たけみさひ》命を以て多珂国造に任ず。茲《この》人初て至り地体を歴験して以為《おもへら》く、峯嶮しく岳|崇《たか》しと。因て多珂国と名づく。建御狭日命遣はさるゝ時に当りて、久慈の堺の助河を以て道前《みちのくち》とし(郡を去る西北六十里、今猶道前里と称す)陸奥国石城郡苦麻の村を道後《みちのしり》と為す。
と。古く道前《みちのくち》・道後《みちのしり》の称のこの地方にありしを知るべく、常陸より石城に通ずる東海浜道の著名なりしことまた察すべし。道口|岐閇《きへ》・道尻|岐閇《きへ》というもの、必ずしもこの道前・道後なりとは定め難きも、その岐閇というは柵戸《きへ》もしくは城戸《きへ》にして、早くこの街道筋に蝦夷に対する城塞を設け、その守備を置きし地なるべく、彼此相啓発してこの地方の拓殖がつとに進捗し、その街道の重要なりしを知るなり。道前・道後の中間に当りて菊多関あり、後に勿来関という。セキほ狭城《せき》の義か。通路狭隘守るに便なる地に設けたる城《き》なり。しかしてこの菊多関は、実に承和二年を去る四百余年前、山道白河関と同時に、この東海浜道要衝の地に設置せられたるものなりと、当時の「太政官符」に見ゆ。けだし信憑すべき古記の伝えしところなるべく、当時この以北を車夷雑居の地とし、以南を警戒区以外に置きしものならん。しかしてそのこれを設くるは、この価値道が依然重要のものなりしことを示せるものなり。承和二年を去る四百歳は、『日本紀』の年立によるに允恭天皇の二十四年に当る。菊多関の設置はこの以前にして、この東海浜道は道口・道尻の柵戸設置の太古より引き続き、夷地に通ずる孔道なりしを知るなり。
 ある人余がこの説を聞きて難じて曰く、卿の言うところ一理なきにあらず。ことに『常陸風土記』道前・道後の記事によりて古く海道存在のことを論ぜしは、二十年前に田中博士の「多賀城碑考」あり、なんぞ卿の弁説を須いん。しかれども、『風土記』の道前・道後は遠く古代のことに係り、必ずしも奈良朝の証となすべからず。その後山(302)道開けて海道いったん廃したりしものが、養老に至りて再置せりと解するもまた可ならずやと。なんぞそれしからん。余輩もとより山道がまたつとに開けて下野より白河関を過ぎ、阿武隈川に沿いて北行せるを知る。白河関の設置は実に菊多関と同時なりきとさえ伝えらるるなり。しかれども、これあるがために海道は決して廃せられざるなり。海道の地方は山道の地方よりも早く開け、奈良朝においても後者はなお一歩を前者に輸せざるを得ざりき。平安朝に及び、山道ようやく開くるに至りてその距離の短きより海道ようやく不用に帰し、延暦年間下総駅路の変更と同時にまずその諸郡の伝馬を廃し、後ついに海道を廃して山道のみとなる。ことは弘仁二年にあり。その以前は明かに山海両道並び通ぜしなり。請う、そのしかるゆえんを述べん。
 海道地方拓殖の進歩が山道地方のそれよりも遥かに早く、かつ著しかりしことは、現今なお八郡を有するに過ぎざる海道すなわち旧石城国の地が、建国当時すでに六郡を有したりしに反し、現今十四郡の多きを有する山道すなわち旧石背国の域が、建国当時わずかに五郡を有するに過ぎざりし一事を見ても、ほぼ察するを得べし。もとより郡には大小あり、必ずしもその多少のみをもって進歩の程度を判すべきにあらねば、さらに『和名抄』所載の郷数と徳川時代における石高とを比較して、いっそう精確にこれを証せん。
 国 名 (建国当時郡名) (『延喜式』郡名)  (『和名抄』郷数)  (近世の郡名) (元禄の石高)  (明治の石高)
      菊多……………菊多………四郷、余戸一……菊多………三八、二四五《石》………四〇、〇〇〇《石》
                          磐前………四九、六五四…………五四、八一六
      石城……………磐城………二郷………………磐城………三〇、二四五………三五、○四一
石 城                       楢葉………二九、四二五……三一、一一九
      標葉……………標葉………三郷、余戸一……標葉………二〇、二二四………二二、七二五
(303)    行方…………行方………六郷………………行方…………四七、八〇七………五一、一四一
      宇多…………宇多…………四郷……………宇多…………二二、三七三…………二四、八九八
      亘理…………亘理…………四郷……………亘理………一五、八六七…………二三、五八一
         合計三十三郷、余戸二    合計二五一、四四〇  合計二八〇、三一〇
 
                       白河《・西白河》………四一、二四七………六四、一七〇
   白河……白河……十六郷、駅一      白河《・東白河》……四一、九五九…四三、六七七
                       石川………三六、二五四………四八、九九八
   石瀬………磐瀬……五郷、余戸一、駅一……岩瀬………六〇、四三〇…………六九、一五九
                       田村…………九四、一三〇……一〇六、七五二
        安積…………四郷………………
   安 穏…                安積………三七、七五二………五四、七〇四
石背
        安達…………一郷、駅一……安達…………七一、二〇六…………九〇、七九五
                     伊達……一一一、五四〇………一一四、四五七
   信夫………信夫…………七郷……………信夫………八八、三二七…………八九、三六八
                     会津《・南、北会津》…………七三、三八九…………八七、二九四
   会津………      八郷、余戸一…大沼………四五、六五八………五二、六九一
        会津           河沼…………五五、三〇四………七四、三八四
        耶麻…………四郷………………耶麻…………九七、六五九………一二二、八四八
     合計四十五郷、駅三、余戸二     合計八四四、八五八 合計一〇一九、二九七
(304) すなわち平安朝の郷数においては、会津地方を除かば山道・海道ほとんど同数にして、すなわち同数の戸口を有せしが、その後山道地方の拓殖は著しく進歩し、明治の石高実に海道に比して三倍六分強に達したり。しかして余輩は、これを逆推して古代においては可耕地面積において狭少なる海道方面の拓殖は比覇的早く進み、かつ著しかりしことを推察し、したがって、東海浜道が古代において最も重要なるものなりしことを信ずるなり。
 さらにこれを『常陸風土記』について見るに、その当時の駅家を記するもの、榎浦あり、板来《いたこ》あり、曾根あり、平津あり、助川あり、藻島あり。該書もと完本ならざれば、以上掲ぐるところもとよりその全部ならざれども、これを点綴して和銅当時の駅路を考うるに、『延喜式』所載のものと全然異なるを発見すべし。すなわち『延喜式』の駅路は下総西北郡より常陸国府(石岡)を経て内地を北行し、東白川郡に入りて山道に会するものなれども、旧駅路は下総印旛沼の東方を過ぎ、荒海駅(下総印旛郡久住村)より毛野川(今の利根川)を渡りて霞浦西南隅の榎浦に至り、さらに霞浦を渡りて板来《いたこ》(今の潮来)に至り、これより北行して太平洋岸を菊多関に通ずるなり。この新旧駅路改廃のことは『日本後紀』延暦二十四年、弘仁二年および三年の条に見ゆ。曰く、
  延暦二十四年十月庚申、下総国印旛郡鳥取駅、埴生郡山方駅、香取郡真敷・荒海等の駅を廃す。要せざるを以てなり。
と。これは下総より常陸に通ずる街道の変更を来せる結果にして、従来下総印旛沼以東を通ぜしものが、西北の新道を開きし結果として不要に帰し、廃止せしものなるべし。新道のことの見えざるは、『後紀』残欠のためなるべし。次に、
  同年十一月戊寅、陸奥国都内海道諸郡の伝馬を停む。要せざるを以てなり。
とあり。これは旧石城国諸郡の伝馬にして、当時すでに官使が海道通行の場合少く、いまだ駅路を廃するに至らざる(305)も、その補助機関ともいうべき伝馬まず廃せられたるなり。かくて、弘仁二年に至り、前記の陸奥海道の十駅を廃し、常陸に通ずる道に二駅を置くのことあり。さらに翌三年に至り、
  十月癸丑、常陸国安侯・河内・石橋・助川・藻島・棚島の六駅を廃し、更に小田・雄薩・田後等の三駅を建つ。
と見ゆ。常陸国府より菊多関に至る諸駅を廃し、さらに前記高野・長有二駅に通ずる新駅路を開き、もって首尾を完からしめたるなり。
 古来すでに常陸より石城に通ずる街道あり。しかして奈良朝のさい現に『常陸風土記』によりて菊多関に至るこの浜海道の駅路を点綴し得べく、さらに延暦・弘仁のさいまで浜街道が官道として存在せしことを知らば、この海道は明かに太古以来引続き存せりと認むべきなり。しかるに現存『続日本紀』は曰く、「養老三年、始めて石城に駅家一十処を置く」と。石城の域南北四十里に充たず、令制により駅を置かんにもとより十駅以上を容るべからず。しからばここに駅家一十処を置くというものは、陸奥海道駅家の全部にして、弘仁二年陸奥海道の十駅を廃すというものに当る。すなわち始めて石城海岸に駅路を開くと言うなり。養老三年始めてこの駅路を開くとせば、その以前に常陸の海岸を北行し、菊多関に至れる『常陸風土記』所載の駅路は果していずれに通ぜんとするか。言うまでもなく駅路は国府と国府との間を連接し、もって中央政府所在地に通ずるものなり。如何ぞ国境菊多関に至りて終《は》つるの駅路を想像することを得ん。現存『続紀』の石城駅家の記事の誤謬知るべきなり。
 ある人さらに難じて曰く、養老前海道の存在はこれを認む。しかれどもその山道との関係は現今の国道と県道とのごときものにして、石城経過の沿海道路はその国限りの道路たりしなるべく、国家が駅家を経営するがごときものにあらざりしに、養老二年石城国設置の結果、その国府を連接するの必要上、新たにこれを官道に編入せしものと解すべからずやと。しかもこれ強弁なり。『常陸風土記』の記事明かにこれを証す。曰く、
(306) 榎浦の津、便ち駅家を置く。東海の大道、常陸路《ひたちじ》の頭、所以《ゆえ》に伝駅使等初めて国に臨まんとするや、先づ口手を洗ひ、東面して香島の大神を拝して、然して後に入るを得るなり。
と。東海大道の語、あにその官道にあらざるを知らんや。しかして榎浦より順次北に進み、久慈郡の助川(もと多珂・久慈二郡の境にして、今多賀郡に入る)多珂郡の藻島に至るもの、あにこれを石城に通ぜずといわんや。養老以前に石城の駅路の存在知るべきなり。 ある人さらに再び難じて曰く、『常陸風土記』は常陸国司の撰なり。されば所載駅家の中にも、その国府以北のものは官道にあらず、常陸限りの駅家なりきと解せんはいかにと。しかれどもこれまた不通の論たるを免れず。なんとなれば、かりにその説に従わば、養老三年石城十駅の設置に伴いて菊多関以南これらの藻島・助川・平津等の諸駅をも官道の駅家と改め、もって常陸国府に通ぜしめずしては、首尾完からず。せっかく新設の石城駅路もその用をなさざるぺければなり。弘仁二年石城の十駅を廃するや、新たに陸奥に高野・長有の二駅を置き、さらに常陸沿海の諸駅をも廃して陸奥新道に連接すべき新駅路を開き、駅家数処を新設せり。かくてこそ始めて首尾全く、駅路改廃の目的を達すべきなれ。しかるに石城駅家新置を伝うるの文、この常陸の諸駅および山道に関する巓末を説かず、とうてい弁護すべからざるの破綻を有するを免れざるなり。
 かつや『続日本紀』の例、駅路の改廃多くその駅名を記す。「新置駅家一十処」の語普通にあらず。これを現存の同書中に求むるに、養老七年八月、「因幡国に駅四処を加置す」の文あり。しかもこの文また石城駅家新置の文に同じく事実にあらず。因幡は東西わずかに十六、七里に過ぎず。これを令制に照らすにその間四駅あるべく、その以上を容るべからず。しかして『延喜式』には山崎・佐尉・敷見・柏尾のただ四駅をのみ録上す。もし現存の『続日本紀』を信じて、この四駅養老の加置なりと解せんには、養老前因幡は一駅なかりしものと解せざるべからず。一駅な(307)き所に新設さる、あにこれを加置と言わんや。いわんや山陰道は早くより東西に貫通し、因幡に一駅なきの理あらざるをや。すでに駅路あり、駅家あり。この狭小なる因幡国内に、如何ぞ四駅を加置するの余地あらんや。現存『続紀』のこの記事の誤謬また知るべきなり。
 ある人また難じて曰く、養老加置の四駅は東西に山陰諸国を連絡せるいわゆる山陰街道にあるにはあらずして、播磨国野磨駅(今の上郡駅付近)などより分岐して、陰陽両道を連接せる新道を設けしものなりとも解し得べきにあらずやと。しかれどもこれまた不通の論なり。もしかりにしかりとせんには、これ駅家加置にあらずして新路開通なり。加置の語かく解すべからず。いわんや因幡において陰陽両道を連絡するの官道あるを伝えず、またその要もあらざるをや。されど百歩を譲りてかりにその存在を許すとならば、因幡の四駅新置のみにては用を成さず、必ずこれに接続する播磨の駅家の新設なかるべからず。現存『続紀』のこの文、またとうてい弁護を容るるの余地なきなり。
 ここにおいてか余輩は疑う。同じ養老年間において、同じ異例なる駅路の記事が二つながら事実にあらずとせば、何がゆえに現存『続紀』は、この同一の誤謬を二ケ所までも繰り返せると。よりてつらつらその前後の文を見るに、石城駅家新置の記事の前年には石城国建置の記事あり、因幡駅家加置の記事の前年には、因幡以東の諸国司が、奉使入京のさい、駅馬に乗るを許さるるの記事あり。されば後人その記事にちなみて、参考にまで前者は弘仁廃止の文により、後者は当時の実際により、両国駅家のことを記入しおきしものが、伝写のさいいつしか本文中に※[手偏+纔の旁]入せしにあらざるかと。これただ想像なり。しかして想像の当否いかんにかかわらず、現存『続紀』のこの両記事の事実に背けるは疑うべからざるなり。
 元来現存の『続日本紀』に誤写・誤脱・※[手偏+纔の旁]入・錯簡の多きことは余輩すでにこれを詳説せり(本誌第二〇巻第六号)。しかしてその後さらにこれを精読することによりて、ますますその多きに驚かざるを得ず。余輩さきに養老二年石(308)城・石背両国建置の記事がこれを令文に照らし、これを他の傍証に考えて、とうてい二個の異りたる記事の相連絡して※[手偏+纔]入せるものなるべき由を論じ、これが傍例として、京職史生新置の記事、養老出羽移民の記事をもってせしが(その後者につきては高橋君異論ありと称せられながら、いまだその説を聞くを得ず)、今余輩はさらにここに令文に関係せる最も適切なる一傍例を提出せんとす。
 現存『続日本紀』慶雲二年十一月の条に曰く、
  詔ありて諸王諸臣に食封を加ふ、各差あり。是より先、五位に食封あり。是に至りて代ふるに位禄を以てす。
と。この前半はよし。後半は明かに後人加筆の※[手偏+纔]入なり。なんとなれば、「大宝令」の文(現存の令文による)に曰く、
  凡そ食封は二品に八百戸、二品に六百戸、三品に四百戸、四品に三百戸、太政大臣に三千戸、左右大臣に二千戸、大納言に八百戸、正一位に三百戸、従一位に二百六十戸、正二位に二百戸、従二位に一百七十戸、正三位に一百三十戸、従三位に一百戸。其の五位以上は食封の例に在らず。正四位に※[糸+施の旁]十匹・綿十屯・布五十端・庸布三百六十常。(下略)
と。「大宝令」すでに四位・五位を食封の列に置かずして位禄給与の例とす。なんぞ慶雲二年に至りて始めて「是より先、五位に食封あり、是に至りて代ふるに位禄を以てす」の語あるべけんや。かく言わば人あるいはいわん。汝の「大宝令文」というものはその実養老の修正にして、「大宝令」には五位までも食封の列に置きたるならんと。なんぞそれしからん。同じ『続日本紀』の翌慶雲三年二月の条を見よ。
  令に准ずるに三位以上は已に食封の例にあり、四位以下寔に位禄の物あり、云々。
  令を案ずるに諸王諸臣の位封は正一位三百戸より差降し従三位一百戸に止る、云々。とあるにあらずや。もって当時の令制が、現存の令文のままなるを知るべし。かくてこの時令制を改めて四位を食封(309)の列に上し、正一位六百戸より差降して、従四位八十戸に至らしめたるなり。このことは『令集解』にも見え、『扶桑略記』またこれを収めて、最も信ずるに足る。しかるに現存の令はこの新制によらずして依然として四位を位禄の列に置き、正一位三百戸より差降して従三位一百戸に止む。なんぞ養老に修正したりと言わん。しかも現存『続日本紀』はすなわちいう。慶雲二年に至りて始めて五位を食封の列より除き、位禄給与の例となすと。誤謬知るべきなり。けだし、五位以上食封を給するは、大宝以前の制なり。大化改新に大夫以上に食封を賜う。大夫は五位に当る。天武天皇五年親王および小錦以上の大夫に食封を賜うの文あり。小錦はほぼ後の五位に当る。しかして『続日本紀』文武天皇元年に至り、明かに親王および五位以上に食封を賜うの文あり。しかるに大宝に至りていったんこれを三位以上と制限せしが、慶雲三年二月折衷して四位以上食封の列にあらしめたるなり。けだし、後人四位以上食封の列にあるの現制を目睹せる者、かつて五位食封給与の制ありしを知り、慶雲二年食封給与の記事のちなみに、自己の参考にまでその事実を傍書せしものが、いつしか本文に※[手偏+纔]入せしものなるべし。されば『続日本紀』より抄録せる『曰本紀略』には、慶雲二年の条において右の文の前半のみを録し、その後半に及ばざるなり。これ実に同書が石城・石背建置の記事ある現存『続紀』記事の前半のみを録して、後半に及ばざると、彼此符節を合すがごとき好一対の例にして、ともにその※[手偏+纔]入の証著しく、かつともに「大宝令文」によりてこれを訂正するを得べく、しかして、『日本紀略』が抄録せし当時の『続紀』には、右の※[手偏+纔]入なかりしものなりしを知るなり。
 かくいえばとて、余輩はあえて『続紀』の誤謬を指摘してその不信を鳴らさんとするにはあらず。『続紀』は実に良好の史籍なり。その前半はいったん奈良朝において脱稿せしものを、さらに石川名足・淡海三船ら光仁天皇の「勅」によりて修正し、再び菅野真道・秋篠安人ら桓武天皇の「勅」によりて改訂したるもの、後半は真道・安人ら同じく桓武天皇の「勅」によりて編纂したるものにして、特に撰国史所を置き、前後七年を費し、豊富なる官府の史料によ(310)りて成れるもの、これを後の『日本後紀』以下の国史に比するに、編纂者の苦心と技能と確かにその上に秀でたるを観るべく、余輩深くこれを敬しこれを重んず。しかれども、現存の『続紀』は誤写・誤脱・※[手偏+纔]入・錯簡のきわめて多き悪本なり。けだし無識なる後人によりて傍書、加筆せられたりしものが、さらに無識なる筆生によりて謄写せられ、転々してついに現在見るがごときものとなれりしならん。されば学者のこれに対するに当りて十分なる警戒を要すべきは勿論なりとす。しかして余輩はさきにこの警戒によりて石城・石背両国建置の誤謬を正し、今やさらにこれに関聯して石城駅家設置の誤謬を正すを得たり。すでに養老三年石城駅家の記事の※[手偏+纔]入なるを知らば、「大宝令」の文によりて石城・石背の両国が大宝のころすでに存在したりしを知り、『令集解』の『古記』引民部省式および『常陸風土記』の記事等によりて、その和銅ごろすでに廃せられたるを断ずるうえにおいて、もはやなんらの支障なきに至れるなり。
 以上余輩は常陸・石城地方における海道駅路の沿革を論じて、現存『続日本紀』の誤謬を正し、余輩の「石城・石背両国建置沿革考」に関し、唯一の遺されたる支障を除くことを得たり。しかしてこれと関聯してさらに一考すべき問題の遺れるあり。多賀城碑の常陸に達する里程これなり。
 多賀城碑は陸前宮城郡多賀城址にあり。城より四方の諸国に通ずる距離を記す。文に曰く、
 去京一千五百里
 去蝦夷国界一百廿四里
 去常陸国界四百十二里
 去下野国界二百七十四里
 去靺鞨国界三千里
(311)と。この蝦夷国界というものにつきては、余輩奥地拓殖の歴史地理学研究の結果より甚大の疑問を有す。しかれどもこは目下の問題にあらざればしばらく措く。常陸国界を去る四百十二里ということにつきては、事本論に関す。一言なかるべからず。
 多賀城碑の真偽につきては先輩すでに議論あり。明治二十六年中田中博士「多賀城碑考」一編を『史学雑誌』に載せてつまびらかにその偽物たるゆえんを弁ぜらる。当時その考証文中、水戸義公の消息の真偽に関して議論ありたるも、事や枝葉に属し、その主眼たる碑の真偽につきては、なんら及ぶところなかりき。爾来星霜二十年、あるいはこれを真なりとし、あるいはこれを偽なりとし、人おのおのその見るところによりて言をなすも、いまだ積極的にその真偽を論弁したるものあるを聞かず。ただ学界の趨勢が、その偽物なることを黙認するに一致せんとするの傾向あるを見るのみ。もとより積極的にこれが最後の決となさんには、あるいは記載の内容より、あるいは文字の性質より、専門学者おのおのその説あるべし。余輩今あえてここにこれが断をなさんとするにあらざれども、その常陸国界を去る四百十二里というものに対しては、本論述ぶるところとはなはだしく相容れざるものあるがゆえに、あえてここに管見を披瀝し、もって識者の高論を仰がんとす。
 余輩の本論述ぶるごとくんば、陸奥に通ずるには古来山・海両道あり。常陸よりするものは海道によりて菊多関を過ぎ、下野よりするものは山道によりて白河関を過ぐ。この両関東西相対して陸奥の入口を扼するなり。
 弘仁二年に至りて始めて海道廃せられ、別に常陸より焼山関を過ぎて白河郡に山道と会するの新路を開く。焼山関のことは『今昔物語』にあり。かくて『延喜式』および『和名抄』所載の駅家は、一にこの弘仁二年改廃後の駅路の実際を示せるなり。しからば、多賀城碑記載の天平宝字ごろの駅路の里程は、その常陸に達するものは必ず海道によりて菊多関までを数え、下野に到るものは必ず山道によりて白河関までを数えざるべからず。かくては双方大差なく、(312)あるいはむしろ常陸国界に到るものを近しとすべし。しかるに碑はすなわちいう、常陸国界を去る四百十二里、下野国界を去る二百七十四里と。その差実に百三十八里にして、多賀城より白河関に到る里程の約半に達するなり。解するものは曰く、後世常陸に属する依上《よりかみ》郷は『和名抄』によるに、もと陸奥白河郡の中にして、その南端までを数うれば四百十二里というもの必ずしも過当にあらずと。しかれども、弘仁以前この道路なし。如何ぞ公文の里程を録するに、官道を避けてこの道なき深山幽谷の際にこれを求むることあらんや。
 多賀城碑の常陸国界に至る里程につきては、田中博士すでに精しくこれを説く。また余輩の蛇足を要せざるなり。しかれども人あるいは弁じていう。多賀城碑果して偽作ならんには、これを偽作せんほどの者が如何ぞ採りやすき菊多関を捨てて、さる破綻多き焼山関を取り、容易に馬脚を露わすがごとき愚をなさんや。これ当時駅路が山間を通ぜし証にして、碑の文もって史の闕を補うべきなりと。これに対していささかその碑文の由来を忖度する、必ずしも無用の業にあらざるべし。
 碑文を重んずる側に立ちてこれを言わば、天平宝字のころには駅路焼山関を通ぜしが、その後某の時代に廃していったん海道によりしに、弘仁に至りてさらに旧路に復せるもの、古史これを逸し、碑文によりて補うべしとも解するを得べけん。しかれどもこは碑文に対して疑問なき時のことなり。碑文すでに問題に上れるうえは、これを解決せんとするにさいし、その問題に上れる碑文をもって証とせんこと、これ議論の法にあらず。いわんや『常陸風土記』駅家の記事によりて、少くも和銅年間駅路の海岸を通じたる確証あるをや。和銅より天平宝字に至る約五十年。駅路の改廃ありたりとすれば必ずこの間なるべきも、しかもこれを当時の情勢に察するに、決してこの必要あるを認めず。神亀元年海道の蝦夷反して大掾佐伯宿禰児屋麻呂を殺し、その乱引いて常陸に及ぶ。これらの地、なおすこぶる警戒を要するの域たりしなり。しかしてその前年には、常陸那賀郡の大領治部直荒山が私穀三千斛を陸奥鎮所に献じて、(313)外従五位下を授けられたるあり。このほか、常陸・陸奥間の交通の頻繁たりしことを察すべき記事前後に乏しからず。このさいにおいて、すでに存するかつ平易にして近き海道を廃し、嶮峻にしてかつ遠き別路を新たに開くべしと想像し得べきか。余輩決してこれを信ずる能わざるなり。されば余輩は、天平宝字のころにおいても常陸・陸奥間の駅路はもちろん海道によりたるものにして、もし多賀城碑に常陸国界に至るの里程を録するの必要あらんには、必ず菊多関までの距離を記すべかりしなりと信ずるなり。
 碑文を偽作なりとなす例の論者は往々その偽作者として佐久間洞巌を擬せんとす。余輩いまだその果して然るや否やを知らず。しかれども、これを元禄以前の学者に求むるに、奥州地理の沿革に通ずるもの、洞巌の上に出ずるものあるべからず。洞巌に『奥羽観蹟聞老志』の著あり。もしこの以前に精しく地理の沿革を調査したるものありたりとするも、その研究の結果は必ず洞巌の『聞老志』中に収められたりと推測するを得べし。果してしからば、『聞老志』は洞巌以前の奥州地理沿革に関する知識をことごとく収めたるものというべく、この以上の研究あるべからざるなり。しかるに『聞老志』中駅路に関する記事を観るに、毫も『延喜式』『和名抄』の以外に出ずることなく、その古史を抄録するに当りても、『後紀』の弘仁二年廃置の記事なきは勿論、余輩がもって※[手偏+纔の旁]入なりとなす『続紀』養老三年石城駅家新置の記事にだも及ばざるなり。すなわち知る、洞巌もしくは洞巌以前の学者の知識に上れる常陸に通ずる古駅路は、弘仁二年以後の焼山越の路以外に出でざりしことを。しかしてこの知識をもって碑文が作為せられたりとせば、常陸国界を去る四百十二里の数、必ずしも怪しむを要せざるなり。
 さらに余輩は奥地拓殖史の研究上、碑文記載の多賀城が神亀元年に設置せられたりとの事実を疑う。陸奥鎮所は早く養老年間にあり、しかして養老より神亀元年に渉りてこの鎮所に私穀を運び、賞に預りたるもの多く、かくて神亀元年には鎮守の軍卒らに家族を伴いて屯田するを許せしが、引続き海道蝦夷の叛乱あり、諸国をして軍器・綵帛・綿(314)布等を鎮所に運ばしめ、叛夷を征せんがために大将軍以下の任命あり。このさい鎮所の移転あるべしとは想像するを得ず。しからば、養老の鎮所仮りに多賀城なりきとせんに、その神亀元年設置という説の妄知るべく、またもし多賀城以外なりきとせんには、神亀元年の鎮守府また多賀城なるべからざるなり。しかして余輩は、種々の理由より当時の鎮所は多賀城にあらずして、いわゆる名取鎮所なりきと推測す。すでにこれを名取にありきとせんか、この騒擾のさいに、なお海道の警戒上最も必要なるべき名取の地を去りて、北の方多賀の地に鎮所を移すべしと想像するを得べきか。多賀柵の名は天平九年に初見す。建設この以前にあるべきも年代つまびらかならず。あるいは丹取軍団(丹取は名取と同一なるべし)を改めて玉作に遷せし神亀五年のころにありしか。『聞老志』は鎮守府の設置を記する一に『職原抄』による。『職原抄』は曰く、
  陸奥は上古以来辺要と為す。其の国境広きが為に、元明天皇和銅五年九月分ちて出羽国を置く。元正天皇養老二年按察使を置き両国の事を監察せしむ。聖武天皇元年陸奥国内に鎮守府を置き、府国相並びて国事を分ち行ふ。
と。この書は言うまでもなく北畠准后親房卿の著にして、著者の学識の深きと、その人格の高きとより、大いに後人に尊信せらるれども、元来本書はその巻末に記するがごとく、兵馬の間にありて一巻の参考書もなく、ただ初心に示さんがために抄出せるものにして、「頗る旧記に乖き、定めて後難を招かんか」と自称するほどなれば、記するところ往々にして記憶の誤りより生ずる過失なきにあらず。現に陸奥を割きて出羽を置くというも事実にあらず、按察使を置けるは養老二年にあらずして三年なり。出羽を陸奥の按察伎の下に隷せしめしは養老五年なり。しかして鎮守府を置けりという聖武天皇元年の文字も、必ずその間年号の誤脱あるを認めざるべからず。あるいは親房自身の誤解もあらん、後人伝写の誤謬もあらん。ともかくも流布の『職原抄』はかかる誤謬を有するなり。他はしばらく措き、鎮守府設置の聖武天皇元年というものについて考うるに、天皇の御宇の元年ある、神亀かしからずば天平なり。『続日(315)本紀』を按ずるに、神亀元年鎮守軍卒の字初見し、天平元年鎮守将軍の名初見す。親房そのいずれかによりて起原を記し、後にその年号を脱せるか。『続日本紀』鎮守府設置の年代を伝えず、『建武年間記』に弘仁三年鎮守府を建立すの文あるにより、多賀城の鎮守府たりしことを否定するの説もあれど、天平九年の役多賀城がその策原地なりしがごとき観あるによるに、当時鎮守将軍駐紮の地たりしことはこれを察すべし。さればかりに『職原抄』の記するところを重んぜんには、『続日本紀』その委曲を伝えざるも、親房なお他に憑るところありてこれを記し、後にその年号を脱せしものとすべきか。さるにてもその神亀元年というは信ずべからず。しかるに多賀城碑は神亀元年大野東人の置くところなりという。けだし『職原抄』の聖武天皇元年とあるをその即位の神亀元年と速断し、当時の事情を窮むることなく、軽々に筆を下せしものにはあらざるか。
 余輩は必ずしも多賀城碑をもって佐久間洞巌の偽作と断定せんとするにはあらねど、その鎮守府設置の年といい、その常陸国界を距るの里程といい、事実疑うべきものがいずれも洞巌の『聞老志』が有する知識と一致するは奇というべく、この碑を何人かの偽作とせんには、少くもこの碑文の作者は『聞老志』以上の知識を有せざりしものなりと断定すべく、いずれにしても多賀城碑文の常陸国界に至るの里程は、余輩の本論になんらの故障を与えざるなり。
 陸奥海道駅路の改廃を論じて余が「石城・石背両国建置沿革考」に関する障礙を除去せんとし、飛沫偶然多賀城碑に及ぶと爾《し》かいう。
 
(36) 勿来の関の新検討
 
      一 序  言
 
 勿来の関のことに関しては、従来史家の研究俎上に上されたる場合多く、本誌上においてもすでに桜台子石橋五郎君の「勿来関」(第四巻第一号)を始めとして、吉田東伍君の「勿来の岐閇の考」(第七巻第一二号)丸山二郎君の「白河菊多両※[錢の旁+立刀]に就て」(第五一巻第二号)などの研究発表があり、ほぼその委曲が悉くされているのである。しかしながら、これらはすべていわゆる勿来の関をもって、常陸と陸奥(今の磐城)との境なる菊多の※[錢の旁+立刀]と同一視して、毫も疑うところがなかった。この点について私は、ここにこの関に関して新検討の必要を認めるのである。後世の歌人の詠はいざ知らず、古歌にいわゆる「なこその関」の名をもって詠まれたところのものが、果してこの菊多の※[錢の旁+立刀]を意味したと認むべき証歌は一としてあることがなく、しかもかえって反対に、それが菊多の※[錢の旁+立刀]のことではなかろうと考えしむる場合すら少からぬのである。ここにおいてか私は、すでに論じつくされたるべきこの黴の生えた問題に対して、私の疑問とするところを披瀝して識者の高判を仰がんとする。
 
(317)       二 源義家と勿来の関
 
 後世の常識では、古えの菊多の※[錢の旁+立刀]すなわち勿来の関であるということにはなんら疑いなきものとなっている。しかしてそこには源義家の「吹くかぜを」の歌碑も立てられているのである。しかしながら義家が果してこの菊多の※[錢の旁+立刀]を過ぎて、この歌を詠じたと何人がこれを証明し得るであろうか。ここに私の第一の疑問がある。元来この歌は『千載集』に、
 みちの国にまかりける時、なこその関にて花の散りければよめる
  吹く風をなこそのせきと思へども みちもせに散るやまざくらかな
とあるのみで、いつのこととも、またいわゆるなこその関がどこであったとも見えておらぬのである。史を案ずるに、義家の奥羽下向は少くとも前後三回で、第一回は永承六年父頼義の陸奥守としての赴任に随行したもの、第二回は康平六年自身出羽守として赴任した時、第三回は永保三年、さらに自身陸奥守として赴任した時で、帰任の途中を併すと前後六回(関東奥州間の)関を越えたはずである。しかしこれらはいずれも国司としての公の往来で、特別の事情なき限り、もちろん当時の駅路により、白河の関を経たものであったといちおうは解せねばならぬ。水戸市袴塚に市守長者屋敷というものあり、源頼義奥州下向のさいその豪勢なるを見て、他日の禍根を除かんがためにこれを滅ぼしたと伝えられてはいるが、かくのごときの伝説は坂上田村麻呂の遺蹟が青森県下所々にあるのと同様で、俗説もとより採るに足らぬ。果してしからば義家の詠に見ゆる勿来の関は、あるいは白河の関のことではないかとの疑いもいちおうは挟んでみたくなるのである。
 
(318)       三 西行法師と勿来の関
 
 東大寺大仏殿再建の挙あるや、西行法師は勧進のために奥州に下向した。西行俗名藤原憲清、平泉藤原秀衡の一族である。当時秀衡は大仏殿再建の大檀越で、『東大寺造立供養記』には、「東勧2進毛人域1、而夷類等有2随分奉加1。是一不思議也。爰奥州猛者藤原秀平真人、殊抽2慇勤之志1、専廻2知識之方便1也。依2真人忠節1、尽奥州結v縁。従v爾以降、一天四海、次第結v緑也」とまで述べてある。この勧進についてかくのごとき好成績を挙げ得たのは、一に西行法師自身奥州下向の勧誘によるものであった。しかしてその西行の勿来の関を詠み込んだ歌が『新勅撰集』に収められているが、それには、
  東路の信夫の里にやすらひて なこその関を越えぞわづらふ
とあるのである。もちろんこの歌は一の恋歌として、必ずしも勿来の関に臨んでの実感を詠じたものではなく、信夫の里の名を忍ぶ恋路の意に取り込んで、越ゆるなかれとの関を越えかねたことを詠んだにほかならぬが、しかし奥州の地理の実際を熟知せる西行として、阿武隈川流域にある信夫の里と並べて詠み込まれたこの勿来の関の名は、海岸通りなる菊多の※[錢の旁+立刀]と見んよりも、かえって信夫と同じ阿武隈川流域における白河の関のことではなかろうかとまたいちおうは思われぬでもない。
 これ以外古人の勿来を詠んだものは少くないが、いずれも単に越ゆる勿《なか》れとの意をのみ歌に取込んだもののみで、関そのものの地理的所在を窺知するに足るべきものは一つもない。
 
      四 白河の※[錢の旁+立刀]と菊多の※[錢の旁+立刀]
 
(319) 白河・菊多の二つの※[錢の旁+立刀]は、関束地方から奥羽地方に通ずる山道・海道の両路を扼するもので、承和二年の「太政官符」によるに、その設置はその時よりも四百余歳の昔とある。山道・海道双方よりして夷地の拓植が進展するとともに、そこにこの両※[錢の旁+立刀]を置いて夷人の内地進出を警戒したものであろう。『唐書』日本伝に、日本は東北大山を限りその外はすなわち毛人とあるのは、けだしこの形勢をいったものであるに相違ない。奥州におけるこの山道と海道とはともに北進して、阿武隈川の下流において合して一となる。したがってその江南なる今の磐城地方が平定し、その地の夷人が十分皇化に服するに及んでは、奥州はもっばら東山道所属の国として、もはや国道としての海道存置の必要はなくなるべきはずである。ここにおいてか、弘仁二年にこの道筋の駅路は撤廃せられた。『日本後紀』その年四月二十二日条に、「陸奥国海道の十駅を廃し、更に常陸に通ずる道に於て長有・高野の二駅を置く、機急を告げんが為なり」といい、また翌弘仁三年十月二十八日条に、「常陸国安保・河内・石橋・助川・藻島・棚島の六駅を廃し、更に小田・雄薩・田後等の三駅を建つ」とあるものこれである。従来常陸国府の地石岡より東北に進み、海岸通りを経て阿武隈川を渡り、今の岩沼の辺において山道と合したはずの駅路なる常陸・陸奥両国の十六駅を廃して、しかも奥州の急を常陸国府に告ぐる必要ある場合の準備として、石岡より西北山間を経て、白河の北方で山道に通ずる新駅路を開いたのである。しかして後の『延喜式』所載の駅路一にこれによる。しかるにこの改廃の史実を記載する『日本後紀』が久しく散逸して、その存在が世間に知られなかったがために、『奥羽観蹟聞老志』の著者は奈良朝の駅路また『延喜式』所載のもののごとくであったと誤解し、さらに『和名抄』によりて常陸・陸奥両国国堺の変遷を調査して古道を考定している。しかして多賀城碑文の偽作者に至りては、御苦労にもこの山間の新道による国境までの里程を計算し、常陸国界を去る四百十二里、下野国界を去る二百十七里などと、飛んでもない数字を掲げて、ために馬脚をあらわしているのである。山道・海道の双方に相対して設置せられたはずのこの白河・菊多の二つの※[錢の旁+立刀]において、(320)白河の方のみが盛んに平安朝から鎌倉時代へかけての歌人の詠に上ぼされて、菊多の方がいっこう顧みられておらぬことのごときも、当時奥州下向の人々が常に山道によりて白河の※[錢の旁+立刀]を越え、海岸路たる菊多を通過するもののほとんどなかったためであると解せねばならぬ。弘仁二年に海道の駅路廃せられて後は、当然菊多の※[錢の旁+立刀]もまた廃止の運命に遭遇すべきはずである。しかし駅路を廃してそれが国家の公道ではなくなったとしても、夷人の出入はなお引き続きあるべきはずで、陸奥国司としてはこれが取締の必要がある。一方白河の関の方は、駅路の険隘に設けられたものとはいえ、これも格律にその名がなく、これが取締に標準とすべき明文がない。ここにおいてこの二※[錢の旁+立刀]を長門の関に准じて、勘過を行いたいと願って許されたのが承和二年の「官符」なるものである。これより先延暦十八年の「太政官符」にも、白河・菊多の※[錢の旁+立刀]守《せきもり》二十人の目が見えていて、かつては東西相対したこの両※[錢の旁+立刀]ともに相当の守備があったのであるが、弘仁の駅路改廃によって菊多の方は当然廃せられ、白河の方もいつしか廃れていたのであろう。
 
      五 勿来の関の意義
 
 勿来の関とはその文字のごとく、「蝦夷来る勿《なか》れ」の義であるに相違ない。一説にこれを「浪越《なみこし》」の意に解しているが、それはこの関が海岸路にあったことの予定の下に試みられたものであるが、しかし今の関址にしても、山上であって浪越というべき地理ではない。また往時駅路が浪打際を通過したとも思われぬ。
 蝦夷来る勿れとは、今の台湾の生蕃地に対する隘勇線の義である。一時は『唐書』にいうごとく、わが国は束北大山を限って、その外を毛人すなわち蝦夷の国とし、ここに隘勇線が設けられたものであったであろう。古えフナドあるいはクナドの説がある。「莫経処《ふなど》」「莫来処《くなど》」の義で、邪神ここを経るなかれ、これより内に来るなかれと限定したものとして解せられている。勿来の関の名また同様で、それは必ずしも一ケ処とは限らぬはずである。少くも白河・(321)菊多・念珠《ねず》のごときは、いずれも勿来の関でなければならぬ。奥羽二州が蝦夷の国として認められたことの伝統は、鎌倉初世までもなお存して、源頼朝奥羽地方平定の後にまで、「出羽・陸奥に於ては夷《えぞ》の国なるによりて」との理由のもとに、特別の行政が認められたのであった。また東大寺大仏供養のさいの勧進沙門重源の敬白文に、「東鄙奥州の愚民、勧誘に赴いて善心に住す」などと、平気で書いているほどであった。したがってその蝦夷の国を限るところの関で、いずれも勿来の関であるべきは言うまでもなく、必ずしもこれを菊多とのみ限るべきではない。しかもその名称がいかにも歌詞として適当なるがために、実地を知らぬ都の歌人が、しきりにそれを歌に取り入れたものであろう。しかしてそれはもちろん地理の実地に即する必要はないので、白河であろうと、菊多であろうと、そんなことは彼らの問題ではなかったのである。しかるにこの東西相並んだはずの二つの関において、白河の方はしきりに歌枕として繰返されているにかかわらず、菊多の方がいっこう古歌に詠まれておらぬがために、いつしかそのいわゆる勿来がすなわち菊多のことであると解せられるに至ったものであろう。
 
       六 クキタの関とキンタの関
 
 キクタの関のことは、延暦・承和二度の「太政官符」のほかには、奇態なほどにもほとんど物に見えておらぬ。しかして『源氏物語』にクキタの関という名がある。『源氏』藤裏葉の巻に、
  あさき名を、いひ流しける河口は いかゞもらしゝ関のあらがき(雲井鴈)
 あさましとのたまふさま、いとこめきたり。少し打ち笑ひて、
  もりにけるくきたの関を河口の あさきにのみはおふせざらなん(夕霧)
とあるのがこれで、この歌は、おそらくこの関の名を詠み込んだ唯一のものであろう。このクキタの関をもって、(322)『八雲御抄』や『藻汐草』には伊勢国にありとなし、後の『松葉集』や『歌枕秋の寐覚』などの名所歌集にも、それによってこれを伊勢の部に収めてあるが、さすがに『河海抄』はこれを菊多の※[錢の旁+立刀]のこととなし、延暦の「太政官符」までをも引用しているのである。なるほど「菊」字古くククと読み、菊多の※[錢の旁+立刀]はもとククタの関と読まれたはずである。したがってそれがキクタと転じても、クキタと転じても、もちろんそこに不思議はなく、平安朝の人々の間には、相変らずクキタの関として伝えられていたのであろう。『枕草紙』には、「関は」と題して、
  あふさかの関、須磨の閑、鈴鹿の関、くきたの関、白川の関、衣の関
と序でて、ここにもクキタの名が見えている。しかもそれと白川の関と並べてあるだけでも、それが菊多を示したものであることには疑いなかろう。しかも本書には、さらにいわゆるクキタの関とは別に、勿来の関の名を列挙してあるのである。右の文の続きに、
  たゞこえの関は、はゞかりの関とたとしへなくこそおぼゆれ。横走の関、清見が関、見るめの関。よしなよしなの関こそ、如何に思ひ返したるならんと、いと知らまほしけれ。それをなこその関とはいふにやあらん。
とあるのがそれで、「よしなよしな」という名によって、勿来ということを思い合せたもので、その筆者の清少納言の頭には、ただ「なこそ」という語のみあって、それが菊多と同一だとは思っていなかったことだけは明白である。
 後には訛ってキンタの関といった。これは口にククタまたはクキタといいならわしたことが、いつしか耳遠くなり、「菊」字をキクと発音するようになったので、その当時の読み方から、文字のままにキクタと読み、それを訛ってキンタといい出したことであろう。『義経記』に金売吉次の物語の中に、
  みちの国と、常陸の国との境、キンタの関。
とある。これは明かに地理の実際を示したもので、古えの菊多の※[錢の旁+立刀]のことであるに相違ない。
(323) 以上の史料からこれを観るに、一方でナコソの関の名が歌人の口に上っていた平安朝時代において、菊多の※[錢の旁+立刀]はクキタの関の名をもって呼ばれ、ことにそれがナコソの関と同一だと思われていなかったうえに、その訛りなるキンタの関の名は、後世までも保存せられたのであった。果してしからば源義家の詠める勿来の関は、当時の駅路による白河の関のことと解する方が妥当で、これを海岸通なる菊多関なりと速断することは考慮を要するものであると思う。もちろん他の勿来に関する多くの和歌をもって、ただちに菊多のこととすることは穏かでないということになる。要するに勿来の関の名にはもとそれを指定する場所はなく、ただ理想の上のみの歌名所であったといわねばならぬことになる。あえて識者の高判を乞う。
 
(327)  地名の話
 
      一 緒  言
 
 私は先々月に八尾で開かれました史蹟調査会の展覧会のさいに、「河内古代」というの演題で一席のお話を致しました。それは史蹟調査会の会報にすでに載っております。いったい私は古代史を専門として研究しておりますもので、その以外のことはいっこう存じませぬ。しかも河内の古代ということは大体すでにお話を致しまして、印刷物にもなっていることでありますから、同じ河内のこの北部において、別にお話を致すべきほどの材料はよほど乏しくなっております。もし前回において、このたびさらに御当地に出ましてかくのごとく諸君の御静聴を煩わすことを予期しておりましたならば、多少節減しておくべき材料もあったのでありますが、それらも簡単に一括して、前回に終ったようなことになっておりまして、実は材料に苦しむ次第なのであります。
 元来この北河内におきましては、只今委員の方がすでにお述べになったように、遺蹟上種々の好材料がありますが、その中にも土地の拓殖のことにつきましては、大和川の改修の結果として、深野池《ふこうのいけ》という大きい池がなくなり、千数(328)百年来苦しみぬいた洪水の害がほとんどその跡を絶ち、良好なる新田がたくさんに出来たというよほど著しき事蹟がある。その深野池の跡は、展覧の場所に出ている、蔀屋村の共有の地図に詳しく出ております。これらは私の専門として研究しております古代のこととは違いますけれども、土地の沿革上よほど面白いことで、これについてはかねて難波堀江などと関聯して、多少調べたこともありますから、ここで詳しくお話を致したいとは思いますが、実はこれもだいたいすでに八尾の講演の時分に終っております。したがって今日は、少し方面を変えてお話致したいと思います。それは特にこの北河内のみに関らず、一般に史蹟を調査するうえにおいて、また歴史なり地理なりを学びまするうえにおいて、御参考にもなりましょうかというつもりで、一般に地名のことについて、概説してみたいと思うのであります。もっともその中には特にこの北河内地方にあります地名を、なるべく例に取って、説明を致したいつもりに致しております。
 
      二 地名の起る原因
 
 いったい地名というものは、土地に付いている名前でありまして、人類がすでに地上に住んでおって、なんらか人事に関係の出来た場所には、それぞれに名前というものの必要が出来て来る。この名前というものは、土地のみには限りませぬ、人には人の名があり、獣には獣の名がある。およそ人事に関係のあるものは、すべてそれぞれに名前がある。と申すのは、同じようなものがたくさんある場合、あるものと他のものと区別する必要が起る。その区別をなすゆえんのものがすなわち名である。そうであるから、物がタッタ一つのみなれば特別の名はいらない。他のものと区別する必要がなければ名はいらないのであります。人顆はどの人を見ても同じような風をしているから、これを言いあらわすために、一々その形容を言って、あの人はこういう風な人だ、頭が円くて、眉毛が濃くて、手が長くて、(329)などといったり、あるいはどういう所に住んでどういうことをしている人の兄の長男だなどといっておっては、なかなか面倒で、しかもなお要領を得にくいから、それぞれの人に簡単に名前をつけておく方が解りやすい。でありますから、人にはたいてい名が付けてある。しかし鳥とか鳶とか雀とかいうものには、同じ鳥の中では、これは烏である、鳶である、雀であると、それぞれに区別するための種類の名があるが、一つ一つの烏や鳶や雀については、特に名前は付いていない。これは人事に関係が少いからでありまして、その中にも特に人事と関係を生じて説明する必要あるものには、やはり名がある。たとえば、神武天皇御東征の時に頭八咫烏《やたのからす》という烏の名が出て来る。普通の烏に権兵衛の太郎兵衛のという名のあるのはないが、頭八咫烏《やたがらす》には名がある。その他の、特に他の鳥と区別する必要のないものには、決して名がない。人間で言いますと、それぞれの人に名があるばかりでなく、その中の家族団体には、またその団体の名がある。今日では普通にこれを苗字とか氏という。すなわち甲の家と乙の家とを区別するために名があるのであります。ところが、わが日本の元首の御家、すなわち皇室――天皇陛下の御家族におかせられては、万世一系で、ただ一つしかない訳でありますから、その家に対する御名前がない。シナや、朝鮮や、その他諸外国になりますと、帝室王家は時によって交替し、その家がいくつもありますから、これを区別するために名の必要がある。漢の帝室が劉氏である。唐の帝室が李氏であるとかいいますが、日本においては、万世一系で、区別すべき他の皇室がありませんから、古来かつて皇室の御苗字というのはない。これわが皇室の万国に勝れて最も尊い訳であります。これで名というものの意味が解りましょう。しかして、その名の中で、特に今日お話を致したいのは、土地に付いた名であります。土地の名は誰が付けたか。これはもちろんその土地とある関係を生じた人間が付けるのであります。あるいは他の動物にあっても、その住んでいる土地に名を付けているかは判らぬが、人間に彼らの言葉が判らぬから、猿がなんといっているか、狼がなんといっているか、それは知らない。また人事に関係がないから、われわれはこれ(330)を知る必要がない。が、人間が名を付けるには、それぞれに必要があって付けるので、したがって必ずなんらか意味のあるもので、全く無意味のものはない訳である。しかして、その意味を調べるのが、その土地の沿革や、状態を知るうえに、必要なのであります。
 地名の起る原因中で、一番多いのは、土地の状態、すなわちその地の自然地理または人事地理上の形状から付けたものであります。たとえば、山の一番端のところは山崎、橋の傍であると橋本、川の凹んだ所が川窪で、渡場の傍が渡辺、というような、そういう類のものが一番多い。ことに歴史をあまり持っておりませぬような開けぬ民族の住んでおった所の地名は、たいていそれであります。かの北海道の地名のごときは、多くアイヌ語で、その土地の状態から呼んでいるのが普通であります。しかしその土地の事蹟すなわちなんらかの人事がその土地で演ぜられた場合、その事柄からして付けた名もずいぶんあるにはあります。あるいはその土地に住んでいる民族の名前とか、あるいはその住民の職業とか、あるいは神社とか、仏寺とか、そういうものの名から起った地名もずいぶん多いのであります。それらをよく研究しますると、よほどその地方の史蹟を調査するうえにも、沿革を知るうえにも、有益であります。しかるに、これが世人からよほど蔑ろにされている場合が多い。私は史蹟調査の一の方法として、地名の研究が必要だと存ずるのであります。
 
       三 地名の解釈に要する用意
 
 しかるにここにまず今日われわれが口に称えている地名は、ことごとく日本語をもって説明することが出来るものか否かという問題がある。少くも今日の日本語をもって説明することが出来るか、どうか。言葉というものは一定不変でない。時により、所により種々変って行くものである。今日の言葉は千年前とはよほど変っている。九州の言葉(331)は奥州のとはよほど変っている。したがってズッと古い時代の地名は、必ずしも今日の日本語をもって解釈することが出来ず、九州の地名は、奥州の言葉をもって解釈することの出来ないのがたくさんあるべきはずです。これは勿論のことでありますが、まだほかに一つ地名の解釈を困難ならしむる原因があります。いったい日本の土地に住んでいたものは、極《ごく》の大昔から日本語を使っている民族ばかりであったかどうかが、根本問題である。皇室の御先祖すなわち天孫瓊々杵尊が、高天原から天降られたということは、普通の歴史にことごとく記してありまして、これは古代史上著しき事実でありますが、その天孫降臨は、必ずしも人類の住んでおらぬ土地に対して行われた訳ではない。その前においてすでにわが大八州国には、たくさんの人類が住んでおった。しかしてこれらの先住の人民は、果してわれわれと同じい日本語を使っておったかどうか。おそらく日本語ではなく、違った言葉を使っておったものが多かったでありましょう。これはいわゆる国ツ神として神代の歴史に記されているもので、各地に石器時代の遺蹟を遺しているものは多くこれです。したがって、日本の国民は、実に天ツ神の子孫と国ツ神の子孫と、両方から成立しているのであります。ゆえに昔から皇室において神を祭らせらるる場合にも、天神地祇をともに祭られる。近く大正の御大典においても、大嘗祭に天ツ神・国ツ神をお祭り遊ばされたようなことで、これは諸君もお聞き及びの通りでありますが、そういう風にわが国には、天孫降臨以前から国ツ神として伝えられている人類が住んでおったのであります。しかしてこれらの住民は、ことごとく同一種族であったか、いくつも違うものがおったか、それをここに明かに論ずることは出来ませぬが、ともかくも今日のいわゆる日本語とは違う言葉を使うものが、少からず住んでおったことは、必ずこれを認めなければならぬ。するとそれらのものが付けた地名が必ずやいくらかでも残っているに相違ない。しからばその民族はどういうものであったか。これには種々の研究もありますが、私においても確かにこれを断定し得るほどまでには研究が出来ておりませぬ。しかし北海道にいるアイヌのようなものが、一時は広く各地方に住んでお(332)ったことは、疑いを容れない。またそれとも変って、西の方から、畿内、東海道の辺りまで蔓っておった民族のあったことは、だんだんと考古学上の研究の結果、知られてまいりました。そこで、いろいろの変った種族のものがあったとして、彼らが付けた名前がたくさんあるべきはずでありますから、今日においても日本語をもって説明することの出来ない地名のあるべきは、これを覚悟しなければならぬ。
 それならば、かりに古代のアイヌ民族が付けた地名であるならば、それを今日のアイヌ語でもって説明することが出来るかどうか、これも実はそう簡単にはまいらないものが多い。前申す通り、言葉はだんだんと変化するものであるから、二千年も三千年も前のアイヌ語は、今日のアイヌ語と同一であるかどうかが疑問である。また、アイヌ語の地名を日本人が口にする場合には、必ずやよほどの訛りを生ずべきはずである。それは北海道のアイヌ語の地名を今日日本人が饒舌っているのを見ると容易に解る。実に好い加減な間違ったことを言っている。元の言葉通りではなくて、日本人の口に言いやすいように変っている。そのはなはだしく訛るった地名を、はなはだしく変化したるべき今日のアイヌ語でもって、果して完全に説明し得られましょうか。地名はとうていこれをことごとく解釈することの出来ないぐらいは、まずもって覚悟しなければならぬ。
 
      四 牽強付会の多い史的説明
 
 ところが、日本人には一種妙な癖があって、解らぬ地名をも無理に捏付《こじつ》けて説明をつけることを始終|遣《や》っている。それがために時には非常なる牽強付会な歴史事実が、それから起って来る。まるで嘘な解釈をして、それを本当らしく歴史事実に付会して説明する。これは近ごろの人のみが遣るのでない。千年も二千年も前の人がすでに遣っている。地名を研究せんとするものは、まずもってそれについて十分注意をしなければならぬ。
(333) 古いところで例を求めると、まず神武天皇が御東征のさいにお通りになった所々に、だんだんと地名が付いている。『日本紀』『古事記』などという、千二百年も前の書物にそれがすでに出ている。しかしそれが本当か嘘かということは疑問でありまして、たいていは歴史事実をもって地名を説明したものには、嘘が多いといってよいぐらいにも当てにならぬのである。その著しい一、二の例を申すとこういうことがある。神功皇后が三韓を御征伐になった時に、果してその目的を達し得るかどうか、その御試みのために肥前の松浦川で鉤《はり》を垂れられた。ところが珍しい魚が釣れたというので、そこを梅豆羅国《めずらのくに》と名を付けた。それを訛って松浦というのである。こういう風に『古事記』に書いてある。またすぐ傍の筑前の怡土《いと》郡。この怡土は同じく神功皇后三韓御征伐の時に、そこの県主が逸早く忠勤を抽んでた。古語に忠勤のことを「イソシム」という、ここの県主はイソシイ者であるというので、その本国を伊蘇国《いそのくに》といった。怡土というのはこれを訛ったのである。こういうように説明してある。ところが実は神功皇后の御時よりも、モッと古い時代のシナの書物に、チャンと末羅国《まつらのくに》・伊都国《いとのくに》の名は出ている。これらの国の領主は、古くからシナと交通しているのである。だからその地名は梅豆羅でも伊蘇でもない。神功皇后に関する故事は、明かに嘘であることの証拠が挙っているのである。
 また地名の説明にこういう伝説がある。御近所の大和で例を求めるならば、こういう面白いことがある。神武天皇御東征の時に、宇陀郡の山間をお通りになり、道臣命が木を伐り山を穿ちて進んだから、その地を穿邑《うがちのむら》といった。これが後に宇賀志と訛ったという。今も宇陀郡に宇貿志という所がある。また長髄彦を御誅伐になった時分に、金色の鵄《とび》が現われて天皇|御執《みと》らしの弓の弭に留った。そこでその地を鵄邑《とびむら》といった。後にそれを訛って鳥見邑《とみのむら》というとある。果して生駒郡に鳥見郷《とみのごう》というのがある。そこを流れる川に富の小川というのもある。これは鳥見の小さい川ということです。かく宇賀志といい、鳥見という名があるのですから、その説明としてこれらは誠に面白い故事のようではあ(334)るが、惜しいことにはその同じ書物に、反証が出ている。昔はその土地の酋長の名を呼ぶに、大概地名を付けている、すなわち磯城の酋長に兄磯城・弟磯城、熊の酋長に兄熊・弟熊、宇佐の酋長に菟狭津彦・菟狭津媛がある類で、宇賀志には兄猾《えうかし》・弟猾《おとうかし》という人が立派におった。また鳥見《とみ》にいた長髄彦を登美彦といい、その妹を鳥見屋媛といった。これは『古事記』『日本紀』にチャンと書いてある。果してしからば、宇賀志や鳥見は古い名で、穿邑だの鵄邑などといわなくとも、その前に立派に後の通りの名があったのである。ことに相済まぬ訳である。かく一方にはその名の存在を裏切りしながら、一方にはそこに起った故事をもって説明を試みる。はなはだ矛盾したことではあるが、昔の人はそんなことに頓着なくしきりに歴史的に説明する。
 この北河内郡においては樟葉という所がある。昔は「クソハカマ」といったのを後に「クズハ」と訛ったのだといっている。その説明が面白い。尾籠なことではありますが、『日本紀』に、崇神天皇の御時に武埴安彦が謀反して、官軍がこれを追撃した。武埴安彦の軍は木津川に沿うてだんだん遁げて来て、樟葉まで追い詰められて、もはや遁げることが出来なかった。そこで苦し紛れに、――はなはだ説明するのは恐縮でありますが――糞を垂れた。それが褌《はかま》にかかったからその地を屎褌《くそはかま》といったのだという。これは私が言うのでない、千二百年前の著書に、真面目に書いてある。屎褌というたのを今訛って樟葉というのだと、こう書いてある。これらももちろんいわゆる地名伝説で、当てになったものでありませぬが、こういうことを昔の人は説明する。嘘に違いはないがよほど面白い。その説明は当てにならぬが、よく考えてみると、それからして種々のことが判って来る。牽強付会だといって、あながちに唾棄してしまってはならぬ。いわゆる地名の研究の有難いところで、これから有益な事実を知ることが出来る。
 まず古代に大和から平坂《ならざか》すなわち今の歌姫越を過ぎて、木津川の西岸に沿うて道路が開けていた。その道を遁げて来た賊軍が樟葉で追い詰められたということは、ここが淀川を渡って河西に行く渡場であったことを示している。山(335)崎の橋がおそらく奈良朝の少し前に出来て、それから後は山崎が淀川の渡になった。今の橋本はこの山崎の橋本であったのである。しかしその前には樟葉から向岸へ渡ったのであった。後に億計・弘計の二王子が、雄略天皇のために逐われて、播磨に遁げて行かれた時に、いったん樟葉に出て、それから播磨に行かれた。継体天皇も山城の乙訓からこの樟葉に遷って都を定められた。すなわちここが昔の渡場であったことは、右の牽強付会な地名伝説からも解るのである。モウ一つは褌《はかま》のことです。これも妙なことではありますが、研究してみると面白い。ここに褌とは、今日われわれが穿いている袴とは違う。今のは上褌《うわばかま》であって、褌は下に穿いているものである。今日の言葉で言えばまず腰巻ぐらいに当る。「ハカマ」は「ハキモ」である。衣《ころも》は「キルモ」で上に着る裳《も》である。これに対して、下にはく裳《も》は「ハキモ」すなわち「ハカマ」である。賊軍が苦し紛れにそこに遁げて来て、糞を垂れて褌にかかったというのは、一番下にある褌であったからです。変なところへ話が外《そ》れましたが、昔の日本人は通例犢鼻褌をしめなかった。このことも右の伝説から説明が出来る。犢鼻褌はこれをフンドシといっていますが、シナの犢鼻褌はわが六尺褌とは違う。同じ文字を書いてあるが、実は犢鼻褌は昔シナでは賤しい民が用いた短い股引のようなものです。司馬相如が賤民の群に入って犢鼻褌を着けたということがある。猿又のようなものでありましょう。日本では六尺褌に犢鼻褌の文字を使っている。これは日本でもと土人などの労働者の用いたものですから、シナの賤民の用うる褌の文字を借り用いたのでありましょう。昔のわが天孫族は通例そういうものをしなかった。そして下袴すなわち褌を用いた。その証拠はいくらもあるが、その証拠の一に北河内の樟葉の地名の説明が用いられるのは面白い。話があまりに脇道に入るから、詳しくは申しませぬが、シナの帰化人秦氏など、この北河内にも多くおったようであるが、その秦氏の人も昔は犢鼻褌をしなかった。犢鼻褌は隼人の風である。東国人もこれを締めておったが、もと天孫族の風ではない。近ごろ緊褌一番などという言葉があるが、昔の人はその緊褌一番が出来なかった。これはシナ人でも朝鮮人でも西洋人でも同一(336)で、六尺褌なる犢鼻褌をしない民族は世界至る所にあるのである。
 
      五 地名に当てた漢字
 
 地名の読み方や、地名の解釈は、だいたい困りものである。その困ることがなぜ起るかというに、これには種々の原因があるが、主としてこれに当てた漢字から来るのが多い。われわれが平常なんとも思うておらぬ地名で、これを口にし、これを耳にするに馴れている地名でも、その読み方の訳を聞かれたなら、何人も即答の出来ぬものが大変に多い。また平常見慣れて容易に読み下しているものでも、どういう意味があるか解らない地名がはなはだ多い。また文字の通りに解しては全く変った意味になり、本来の意義を没却しているものも少くはない。これは本来、シナの文字をもって日本の地名を表したから起る困難が多いのです。いったいシナの言葉と日本の言葉とは根本的に性質が違う。そのシナの言葉を表わすための文字をもって日本語を表わすのは無理であって、初めから目的が違っている。その目的の違ったものをもって強いて日本語を表わすことにしたのであるから、そこに非常な無理が出来て、捏付けがはなはだ多い。シナの言葉は一音ずつに意味があるが、日本の言葉はそうでない。またシナの言葉は子音に終った音が多いが、日本の言葉は各音必ず母韻で終っている。日本人も近ごろはだんだん漢語に慣れて来まして、シナ風の音を出すことも大分楽になってはいるが、昔の人にはシナ風の音は出なかった。シナの言葉を日本人が口にする場合には、皆日本風に直している。たとえばシナ人は銭(Sen)という。今の人はシナ風にこれをセンと言うことが出来るが、昔の人にはこれは言えなかった。その語尾に母韻をつけてゼニ(Zeni)といった。今の人は文(Bum)といいますが、昔の人は下に母韻を附けてフミ(Fumi)といった。かく日本人の口にする場合には、一音ごとに母韻が付いている。シナの言葉にはそれがないから、皆これを日本風に直して、ブンというのをフミ、センというならゼニとい(337)う風に直して言わなければならなかったのである。というような次第でありましたから、そういうシナの文字をもって、日本語の地名を表わすには、無理の多いのは申すまでもない。
 モウ一つ困ったことは、奈良朝以来、日本の国郡・郷里の名を書くのに、必ず漢字二字に限るという規定があった。いかに長い地名でも一音しかない短い地名でも、必ず二字に定まっている。昔はどうしても二字にしなければならぬことになっていた。無理に捏付けても二字にしているから、なおさら解らないことになってしまった。これはモウ奈良朝の初め、すなわち千二百年前に、チャンと勅令で定まつてから、明治の初年まで続いて、北海道のごときアイヌ語の地名を善くにも、皆漢字二字にしてしまった。なぜこれを二字と定めたかというと、奈良朝の初めごろは、シナと交通をして大いにハイカラになっていた。あまり長たらしい地名を用いていては、いかにも野蛮臭い。シナの地名は通例二字になっている。洛陽とか、長安とかいう風に出来ているから、シナ人に見せても恥かしくないようにというので、これを二字にしたのである。この不適当な漢字を当てたことと、これを強いて二字にしたこととの、二つの原因から、わが地名は常に解り難くなっている。これをよく心得て、地名は研究して見なければならぬ。われわれが平常見慣れ聞き慣れて、いっこう不思議に思っておらぬ地名でも、もしその読み方の理窟を聞かれると、諸君はたちまち行詰まることがありましょう。
 まず国で申すと第一番に山城です。「城」という字を何故にシロと読むか。昔の文字に「城」と書いてシロという読み方はない。城郭のことは日本語ではキという。古くシロといった例はない。磯城《しき》・稲城《いなぎ》・葛城《かつらぎ》・茨城《いばらき》など皆キという。シロと読むのは山城の場合に限る。古代の城郭のあった山は通例キ山と読む。中世のはジョウ山というがシロ山と読むのは昔には決してない。しからば山城と書いて山シロというのは、どういうところから来たかというと、あれは昔「山背《やましろ》」と書いたので文字通り山の後《うしろ》の国の義である。もと大和に都があった時に、山を隔てて後にある国だ(338)からこの名が出来た。天子は南面する。南が正面である。その山の後にある国が、すなわち山背である。ところが桓武天皇が都をこの国に遷させられてからは、もはや山背では相済まぬ。国の名を変えなければならぬ。そこで、この国の地勢は、山河襟帯自然に城《き》をなすで、自然に城郭になっているからよろしく新号を制して山背《やましろ》を改めて山城《やまき》となすべしというのであった。かく国名が改まってその文字も変ったけれども、昔から山シロといい慣れていたから、文字が変ってもやはり山シロということになった。これから「キ」に当てた「城」の字をシロと読み出して、ついには城郭のことをもシロというに至ったのである。なかなか手数のかかった地名である。
 次に大和。これも決して文字にすがつては読める地名でない。「大」が何故にヤマで、「和」が何故に「ト」であるか。次に河内だけは文字通りに読めるが、実は河の内では意味が漠然である。本来は凡河内《おおしかわち》で、大川すなわち淀川の内の国というので始めてこの地を表わす名となるのである。次に和泉。これは下の「泉」の一字だけで結構であるが、上に余計な「和」の字を付けてイズミと読む。
 こういう風に国々の名を数えたなら、文字の通りでは読めない、読んでも意味のわからないのが過半でありましょう。駿河、――「駿」の字をスルと読むのもはなはだ困る。相摸も読み難い。「相」の字をサガと読ませる。武蔵、――これも読めない。上総・下総、皆読み難い。常陸も読めない。「近江」と書いて、「オウミ」、「遠江」と書いて「トオトウミ」、決して読めない。上野・下野、――「上」はカミ、「下」はシモまではよろしいが、「ツケ」が解らぬ。こういうことは国の名についてのことでありますが、小さい地名にもそれぞれに同一の困難がある。北河内において「高野」をタカノ、「讃艮」をサララ、「茨田」をマムダ、始めてこの文字を見た人は、何人がよくこれを読み得るでしょう。デ、余計なことながら御参考として、その重なものを、御愛嬌に説明して見ましょう。
(339)      六 漢字の無理な当て方から起った難読の国郡名
 
 両々相対して面白いのは近江と遠江、上野と下野である。近江には中に琵琶湖という大きな淡海《あわうみ》がある。淡海は淡水の海で、すなわちその国がアワウミの国。これを略してオウミという。意味はよく解るが「近江」の文字がわからぬ。遠江の国では今は海に通じて塩海《しおうみ》になっているが、もとはやはり淡海《あわうみ》の浜名湖があった。それでこれも淡海の国。同じ淡海の国が二つあるから、これを区別するために一方は都に近い近淡海《ちかつおうみ》、一方は都に遠い遠淡海《とおつおうみ》といった。したがって文字に書くと近淡海・遠淡海と書き、チカツオウミ・トオツオウミと読むべき訳である。しかるに地名は二字でなければならぬ約束であるから、右の通りの三字では困る。そこで「淡海」ということの代りに、「江」という一字を用いた。ずいぶん無理ではあるが、「江」という字を「淡海」の字に代えた。ところで同じ淡海の国でも、近江は都に近く、湖水も大きく特に著名で人の口に上ることも多いものだから、文字に近江と書いてもこれを口にする場合には「チカツ」を略して単に「オウミ」という。こういう風に多く用いられる名前はだんだんと略される。これは他にも例がたくさんあることで、大師号を得た高僧は前後十九人もあるが、弘法大師が中でも最も名高いから、単に「大師」といえば弘法大師のことになってしまう。ほかのは伝教大師とか慧燈大師とか必ず上の限定した文字を要する。弘法大師だけはただ大師だけでよく解る。太閤というのは関白の親で、隠居して子が関白となれば誰でも称えるようで、贋司太閤、一条太閤などもあるが、単に太閤といえば豊臣秀吉に限るというようなもので、単にオウミといえば近淡海のこととなる。文字には近江と書くが読みはオウミである。こういうように説明して、始めて地名の読み方の意味も解って来る。
 次に上野・下野に至っては、最もはなはだしい無理なことでありまして、文字のままでは読むことも出来ねば、本(340)来の意義もわからぬ。元来あの国はもと「毛野《けの》」といった。意味はどういうことであるかこれは解りませぬ。古い説明には、あそこは大変によく肥えた野であって、草や木がたくさん土地に生えている地だから、毛野といったというが、これは当てにならぬ。ともかくも、もと毛野という国があって、その国が大きいから上下の二ケ国に分けて、上毛野《かみつけの》・下毛野《しもつけの》といった。しかしそれでは地名二字の約束に合わないから、どれか一字抜かなければならぬ。何の字を抜いたらよいか、よほど昔の人も考えたもんと見えます。もし下の「野」の字を抜きましたならば、上の毛、下の毛になって、いささか穏かならぬ嫌いがある。さればとて「上」「下」の字を除いては区別がなくなる。そこで中の「毛」を抜いてしまって、それで上野・下野と書いて、カミツケノ、シモツケノと読ませたのである。ところがその下にクニをつけて呼ぶ場合に、カミツケノノ国、シモツケノノ国では、大分語呂が悪くて言い難い。よってノの一つを略して、カミツケノ国、シモツケノ国、ということになり、国を付けぬ時にも、カミツケ、シモツケと呼ぶようになった。これを音便によりコウヅケ、シモヅケと読むのである。文字で「毛」を抜いて、言葉で「ノ」を取る。双方相待って非常に妙なものになっているが、事の起りを尋ねてみると、それである。その他の例でも、多くはこんな具合で、この河内などももとは淀川すなわち大河の内の国で凡河内といつたのを、二字にする必要上から、「凡」の字を除き、カワチとなったのである。かく地名の文字を削った場合は、これで説明が出来るが、ここにまた一字の地名、一音の地名でも、やはり御規則で二字に書かなければならぬという、困った場合がある。
 お隣の摂津国。あれはもと津の国といった。津の国というのは実は普通名詞で、本当は浪華津の国であります。けれども今申したチカツオウミがオウミになったように、また豊臣太閤が単に太閤で通るように、単に津といえば直ちに浪華津のこととなる。一番有名な津でありますから、上につける固有名詞は不必要で、それで津の国といった。東海道五十三次で言うと「宮」といえば熱田の宮のある所となっている。今では伊勢の県庁のある市を津市というが、(341)あれも実は阿濃津が本当である。しかしかの地では「阿濃」を取ってしまって単に「津」にした。浪華津の国もそうである。ここには、もとこの津を摂する職、すなわち摂津職という役所があったので、その管下の津の国を、地名二字の必要からただちに「摂津」の二字にしたのである。
 その南になる和泉も同様で、もとは「泉」の一字で結構であるが、それでは二字の約束に背くから、あってもあまり邪魔にならぬ、和ぐという「和」の字を用いて、それでやはりイズミである。
 またその南の紀伊の国、昔は木の国といった。今でも「紀の国屋文左衝門」という。「沖の暗いのに白帆が見える、あれは紀の国蜜柑船」という。決してキイの国とはいわぬ。キイと長く引くのは「紀伊の国は音無瀬川の水上に……」という近代式の俗謡ばかりである。けれども、国名は二字にしなければならぬ。しなければならぬが「キ」の一音では二字にして見ようがない。そこで無理に下へ引張って、比較的邪魔にならぬ「イ」の音をつけて紀伊とした。そういうような無理をもする。このような例を列挙しますれば、際限なくありますが、それは略しまして、ともかくも地名を二字に定めたことが、非常に累いをして、きわめて解り難いものになった。
 モウ一つは漢字の字音が日本語を現わすに適しないのに、強いて使つたということからきわめて読み難くなっている地名が、到る処に例がある。先刻申した相摸の相の字は字音で読むとわれわれ「サウ」と発音する。「サウ」が「サガ」となりそうなことはない。しかるにこれは昔の人がよく研究して用いたものである。「相」の字はシナ人はサウとはいわぬ。サ【グ】(Sag)という。こういう音は日本人に出ない。「サ」の下に「グ」の音がこもる。その籠つた「グ」の音を転じて、ア韻をつけて「サガ」としたのである。山城の相楽郡はサガラカ郡というのも同様で、強いて二字となさんがための無理な当て方ではあるが、実は正しい読み方をして、文字を適用している。おそらくよほど字音に達した音博士が付けたものでありましょう。近江の信楽郡の「信」の字を「シガ」という。「信」の字はわれわれは「シ(342)ン」というがシナ人はやはり下に「グ」の音を籠らせていう。その籠つた「グ」の音を生かして、「ガ」に転じて「シガ」になる。御一新の時分に有名な土佐の藩主山内容堂侯、あの人の名を「豊信」と書いて「トヨシゲ」という。「信」の字を「シゲ」というのはどういうことかとよく質問に会う。小学校の教科書にも「トヨシゲ」と読ましてあるが、なぜシゲと読むかというに、やはり下に籠った「グ」の音を「ゲ」に転じたのである。かく地名・人名には、本当の字音から、正しい読み様をして、かえって後の日本人に解らぬのが多い。徳川十四代将軍の家茂《いえもち》公はわれわれの読み方では「イエモ」だけで結構であるが、これを「イエモチ」と読ませる。「茂」の字を日本人は「モ」と発音しているが、本当の字音は下に「ツ」の音が籠るので、これを日本風に読ませると「モチ」とか「モテ」とかいうことになる。下野に「茂木」と書いて「モテキ」という地名のあるのも同様の読み方である。そういう風に、日本の言葉に当てるには、自然無理な使いようをしなければならぬことになる。本来言葉の性質が違うから、せっかく音博士が正しく用いても読み方が後世に解らぬようになるのである。
 
      七 地名の転訛より起った付会と難読
 
 大和の多武峰《とうのみね》、あれは古く「談」という字を書いてある。今では談山《だんざん》神社があって、藤原鎌足公を祭ってある。本名はタムノミネで、「談」はタム(Tam)と発音する。その下に「ム」の音の籠つたのを、日本人がいえばタム(Tamu)となる。ところが、これでは一字であるから、二字にするために「多武」と書いて「タム」と読んだが、中世以後言葉の方が訛って来て、「タム」を和げて「タフ」と読み、ついに「トー」と発音することになった。マ行音がハ行音に転ずるのは、煙のケブリ、ケムリ、睡のネムリ、ネブリの類、でダムがタフになったのである。ところが、そう文字が変る、とこれに伴っていわゆる地名伝説の歴史的説明が出て来る。本来の名のタムの義はどういう訳か、それは(343)解りかねるが、とにかく古くこの山をタムといった。それを表わすべく「談」の字を書いたから、鎌足が天智天皇とともに入鹿を誅伐する御相談をなさつた所であると付会する。「談」の字から談所の森という名所がチャンと出来上がる。それから今度「多武」と書くに至って、これは鎌足の武功が多かつたからだとそういう。前の説明と矛盾するが、ともかくそういう伝説もある。さらにまたはなはだしいのがある。この山に有名な十三重の塔がある。もと鎌足の子安慧が父の菩提のために建てたのだというので、あたかもタムの峰がタフの峰となり、さらにトーの峰と変って来たために、この十三重の塔を建てて、塔の峰というのだと捏付けているのもある。本来無理な漢字を当てたために、音だけを取るの本義を忘れて、文字の意味を説明に加えていろいろ捏付けることになった。
 「ムサシ」の国は「武蔵」と書く。もとより字音を借りたに過ぎぬが、これも文字の意味からして、昔日本武尊が蝦夷征伐を終って武器を埋められたから、それで武蔵だという。兵庫の武庫にも似た説明がある。もともと漢字をもって日本の地名を表わす場合には、その文字の意味から当てた場合と、単に仮名の代りに使った場合との両方ある。しかるに、その仮名に用いた場合にも漢字に意味があるように説明して、混雑することになっているのである。
 次に文字の当て方も正しく、意味もよく解っていたものが、後にその地名が訛って来たことから、その文字が読みにくく、地名の意味の解らぬようになったものが出て来る。これなどは到る処に例があるが、試みに御当地にあるものを取ってみると、前に申した茨田《まんだ》郡というのがそれである。茨《いばら》の田《た》と書いて「マムダ」と読ましてある。しかも茨をマムという言葉はない。そこで本居宣長翁の説には、これは「ウバラタ」というので、ウを略して「ハ」を「マ」に転じ、さらに「ラ」が「ム」になった、それでマムダというと説明しておられる。なるほど「ウ」を略して「バ」が「マ」になったのはよろしゅうございましょう。しかし「ラ」が「ム」になったというのはどうでありましょう。これはおそらく「ウバラノ田」というのが古い名前ではないかと思われます。地名の意義は、その辺りに茨が多かっ(344)たからでありましょう。かくてその名の中間の「ノ」は、しばしば転じて「ム」となる例が多い。日向の「都の城」を土地の人は「ミヤコンジョー」という。茨田が略されてウバラノという名が付いたんであり、転じて「ウバランタ」となる。その「ウバ」が約まって「マ」になり、「ラ」が省かれると「マムダ」となる。地名に「ラ」行の一昔を略する例はいくらもあります。この南の方に、参謀本部の地図で見ると「栗尾」と書いて「クノヲ」と読ましてある。これは「クリノヲ」というのを「リ」を略して「クノヲ」というので、これらの例でウバラタがマムダになったとして、説明が付こうと思う。その訛ってマムダとなつたのも古いことで、桓武天皇の皇子茨田親王を、万多親王と改名せられた確かな証拠があります。さらに地名の訛りからして、読めなくなり、文字まで変って、全く別のものになった例として、この茨田郡の南の若江郡に古え勿入淵《ないりそのふち》というのがあった。これが後に「ナイジョノフチ」になった。文字まで内助淵と変っている。これらも訛った一の例に引くことが出来ましょう。
 同じ北河内の讃良《さら》郡。もとは「サララ」で、それが「ササラ」と訛り、「サラ」と約まった。サララは何か朝鮮の言葉ででもありましょう。朝鮮の南部や九州の北部には、こういう類の名前が多い。サハラ・タタラ・アラ・カラ・タラ・マダラ・カカラという類の地名が多い。この讃良郡には、もと新羅人の子孫のおった所で、沙羅羅馬飼造《さららのうまかいのみやつこ》というのもあるほどだから考えても、この想像がつく。文字は讃良良で、これを二字にする必要上より、讃良となり、「更荒」とも書いた。かくてついにサラになったのである。
 訛りで最も奇抜なのは「ムツ」という国名でこれは念の入った訛りである。今は青森県に属する陸奥国《むつのくに》。もとは磐城・岩代以北皆陸奥で、あれは東海道・東山道の道の一番奥にあるから、正しくは「ミチノオク」で文字に書くと「陸奥」となる。「陸」という字は字書を引くと「陸は道なり」とあって、陸奥すなわち道奥である。ゆえに古書には往々道奥国と書いてある。それでもとは「ミチノオク」といったのが、後に約まって「ミチノク」になった。百人一首に(345)も「ミチノクの忍ぶ文字摺誰故に、乱れそめにし我ならなくに」などと言っている。しかるに、その下に国をつけて、「ミチノクノクニ」といってはいかにも長たらしい。かかる場合にその一、二の音を略するのが日本の例で、平安朝のころの日記その他の記録を見るとミチノクの国を常にミチの国と書いてある。「ミチ」がついに国名となった。有名な平兼盛の歌に、「みちのくの安達が原の黒塚に鬼こもれりと聞くはまことか」の詞書に、チャンとミチの国名取の郡黒塚という所に云々、と書いてある。現今「ムツ」というのはその「ミチ」の訛りです。「ミチ」は奥州訛りで「ムツ」になる。奥州の人はなんでも鼻にかけて、いわゆるズウズウ弁が多いのであります。われわれは「オウシウ」「センダイ」などというが、奥州人は「オウスウ」「スンダイ」という。それで「ミチ」というのが「ムツ」になった。しかるにこれを説明する人は、陸奥の「陸」は音がロクであるから、六の義に通じてムツというのだなどという。笑うべきことである。そういう奥州訛りから出来た地名の例は東北地方に大変多い。この北河内郡にも、四ノ宮という所があるがどこの国にも一ノ宮・二ノ宮・三ノ宮・四ノ宮などといって、国司崇敬の神社があって、その名が地名になっているのが少くない。かの下野国の一ノ宮は、今の宇都宮市で、一ノ宮の二荒《ふたら》神社のあった所である。それがやはり東北のズウズウ弁で訛って「ウツノミヤ」となった。訛って宇都宮となってみると、これは現《うつつ》の宮の義だとか、移《うつ》しの宮の義だとかいう、付会説も起っている。
 先刻申した毛野ノ国から出た川が毛野川。古い書物には立派に毛野川と書いてあるが、それがやはり訛って鬼怒《きぬ》川となった。常陸・下総の間を流れて、鬼怒川となってもとは銚子の口に注いでいた。今は利根川の支流である。ところが、いったんそういう具合に訛って、一つの別な地名になると、例によって本義を忘れてこれに別の説明が付いて来る。この地方は養蚕が盛んなので絹川であるという。かつて毛野川の川筋が変りまして、旧河道を小貝《こがい》川といったが、これも蚕飼《こかい》川と書くようになった。これは絹川から作り出したものでしょう。しかしてその両河の間を連絡して(346)いる川を糸緑《いとくり》川などといっている。そういう風にだんだん間違って新しい地名が出て来るから、地名は本当に研究すると面白いこともあるが、馬鹿馬鹿しいこともある。
 
       八 言語の変遷から起った難読の地名
 
  古い言葉をもって書いた地名が文字はそのままで、言葉の方が変ったがために読みにくくなったものもずいぶん多い。この北河内郡の交野《かたの》。これはもと交野郡といって「交」という字を書いて「カタ」と読ましてある。これも今ではなかなか難しい。これはどういうことかというと、「交」という字にもとは「カタ」の訓があったのである。「交」は「交互」の「交」で今は「タガヒニ」と副詞に用うるが、昔は「カタミに」といった。「契りきなカタミに袖をぬらしつゝ、末の松山波越さじとは」の「カタミ」です。その本語は「カタ」で、そこで「交」を「カタ」と読んだ。後に「タガヒ」というは「カタ」が「タガ」と転倒し、「ミ」が「ヒ」に転じたのでありましょう。語の転倒はよくあることで、「新《あらた》しい」を「アタラシイ」というなど著しいものです。
 文字の古い訓み方のままを使っているのは、名乗の字に多いので、それが地名にもずいぶんあります。われらが平常なんの不思議もなく読んでいる古人の人名でも、その理由を聞かれてみると、トント解らぬことがたくさんある。近い例を挙げると、徳川十五代間の将軍の名前のごとき、何人も熟知のものでありますが、その読み方の理由をことごとく説明し得るものはおそらくあるまい。読むことは読めるが、理窟が解らぬ。家康、――これは間違いないが、秀忠に至ってはたちまち困る。「忠」の字はこれは「タダ」と読む。「忠」がなんで「タダ」だ。これは君に忠を尽すことは正しい行だから「タダ」である。次に三代将軍の家光、――「光」がなんで「ミツ」だ。これもちょっと説明が難かしい。これは光は四海に満ち満ちているから「ミツ」という。こういう風に、名乗にも古い使い方がずいぶん(147)あるが、それが地名にも少からずある。よって地名を説明する場合にも、そういう方面を観察しなければならぬ。
 
      九 北河内の郷名
 
 古えは郡の下に郷があった。その古い郷の名前を見ると、大部分は地形から来ているが、またその他種々の史上の関係から出来たもの、史上の関係を有するものが少くない。
 まず讃良郡の中に郷が五つあった。その中の山家《やまか》郷、――山地に民家が多くあった場所ゆえでありましょう。石井《いしい》郷、――石を築き上げた井戸がでもあったのでありましょう。高宮《たかみや》郷、――土地の高い所にお宮があったためでしょう。『延喜式』に高宮神社がある。枚岡《ひらおか》郷、――平坦な岡から得た名でありましょう。甲可《こうか》の郷はわからぬ。近江に甲賀郡があって、古く鹿深《かふか》と書いた。何か関係がありましょう。次に茨田郡には郷数が八つある。池田《いけだ》郷、――茨田の池が乾上って、田になったからでありましょう。茨田郷は茨田郡名と同じで、茨田郡役所のあった所。意味は文字の通り茨の多い田のあった所。大窪《おおくぼ》郷、――大きな窪んだ低い土地ということ。高瀬《たかせ》郷は淀川の瀬が高くなっていた土地の名。幡多《はた》ノ郷は秦人《はたびと》のいた所で、これは後に説明します。佐太《さだ》ノ郷、――佐太天神から起った名でありましょう。三井ノ郷、――何か井戸に関係ある名と見えます。伊香《いかが》ノ郷、――意味はわかりませぬが、近江に伊香郡がありますから、前の甲可郷と同じく、何か関係があるのでありましょう。
 最後に交野郡には郷が六つ。岡本ノ郷というのは、文字の通り禁野の丘陵の下の名で、山田ノ郷は山間に田地の開けたところ。園田《そのだ》ノ郷、田宮ノ郷もやはり田地に関係を持っておりましょう。三宅《みやけ》ノ郷は御家《みやけ》の義で朝廷の御領であった所。樟葉《くすは》ノ郷は古伝説に糞褌だという、前申した汚ない説明のついている所ですが、実はその名義はわかりかねます。ともかくも、これらの郷名なり、その他の地名なりの研究によって、その土地の状態が解り、沿革がわかるこ(348)とが多いのであります。
 
      一〇 官衙・住民等から起った地名
 
 さらに土地の沿革をよく示している地名を北河内で求めると、京阪電車の停留場の、ことに有名な香里《こうり》という所がある。香里園といって、立派な遊園地も設けられたのでありましたが、本名は「郡」で、すなわち元の郡役所のあった所。地は旧茨田郡の茨田郷に属し、まさに茨田郡の郡役所がここにあつたから、それで地名を郡というのであります。また交野郡の郡役所は今「郡出」と書いてコウズという所でありましょう。交野郡は桓武天皇の離宮もあったほどの所で、しばしば天皇皇族方の御遊猟などもあった所。交野の春の桜狩に南北朝ごろまで有名で、郡出はおそらく本郡の中心地であったでありましょう。こういう風に地名からして、その地の沿革が解ります。
 また古代に住んでおった人民の種族から起りました地名が所々にある。北河内にもそれがある。こういうことを研究すると、歴史上よほど面白い事蹟が出て来ることがある。後世には讃艮郡に入っていますが、元は茨田郡の一部であった幡多《はた》ノ郷という所。今は豊野村大字|秦《ハタ》とその上の太秦《うずまさ》とが残っている。これは秦始皇帝の子孫の秦氏またこれに属した秦人らがおった場所だから、名付けたのであります。日本には古くシナ人がたくさん這入っている。その中でごく古く来たのは秦人《はたびと》で、日本ではこれらの人民がシナの文化を伝え、シナ風の織物を作る。機を織ったからハタといい、秦と書いてハタと読む。これが地名となってあちこちに遺っております。この幡多ノ郷なる秦や太秦の名のあるのは、やはり秦人の一の根拠地をなしていた場所であろうと思われます。北河内には百済人や新羅人も多くいましたが、それは直接地名に遺っておらぬようです。
 
(349)      一一 条里から起った地名
 
 同じく人事関係から付いた名前で、歴史地理学上の調査によほど趣味のあるのは、四条畷のある四条、その北に続いた北条。その南には南条という地名があった。この北条という、四条・南条などという地名、あるいは東条――訛って「ヒガンジョウ」などともいっている、そのほか五条だの六条だのというのも所々にある。こういう地名は、その土地の古代の開発の事情を知り、その当時の有様を取調ぶる上に有益なものでありまして、土地制度の上では条里ということの遺ったのであります。大分話が込み入って来ますが、ちょっと条里のことを簡単に申述べます。
 実は私はまだ河内の条里は詳しく取調べておりませぬが、昔は田地のある場所を示すために、今日で言えば大|字《あざ》、小|字《あざ》番地を示すという風で、番地付をする代りに、条里という方法があったのです。これはある一定の区域を六町ずつの間隔を有する並行線で分ちまして、その各区画を条という。その条の区画を、縦に、前の並行線と碁盤に切れ合うように、また六町ずつの間隔を有する並行線で分ける。その各区画を里という。(黒板上に図を描き)ちょうど碁盤の目のようである。よく新聞に将基や碁の図が出ているが、紙上に碁盤目を書いて、縦横の区画に番号をつけ、三の六とか、五の八とかいって、盤面上のある場所を示してある、のと同じで、右の碁盤目にすがって何条何里といえば、すぐにその場所が解る。いわゆる条里井然たるもので、位置を示すこと掌を指すがごとしである。その各里を、さらに縦横六町ずつに分けて、三十六個の坪となり、各坪の面積一町ずつで、これを一から三十六まで数えて、五ノ坪、八ノ坪などという。昔の一里は六町で、近ごろはそれが間違っているが、古い時代の一里は、この条里の示すがごとく、六町ずつでありました。今も鎌倉と江の島との間を七里が浜という。下総の東海岸を九十九里の浜という。九十九里とは、六町一里の法によって大方百里もあろうか、やや少いから九十九里ぐらいだろうということです。また江(350)の島鎌倉の間の七里が浜は実際は四十余町である。かくてその条里の一里すなわち六町四方の地を縦横各六町ずつに分ちますと、一里すなわち面積三十六町の地ですから、一町四方の土地、すなわち面積一町の地が三十六個出来る。後世距離を示す場合にも、一里は三十六町だなどいうのは、これから起ったので、元は面積の名前です。昔は距離では六町が一里、それを平方にして、一里四方すなわち三十六町の地を一里というのは、面積の名前ですが、後世は距離の名前に間違ったのです。それから、今日の面積の一町というものも昔とは少し変りました。昔は長さ一町四方の地、すなわち六十間四方で三千六百歩の地が一町であった。一歩とは一間四方の地で、これも今は間違って一坪などといっていますが、昔は一坪とは普通一町四方の地を言っていました。その一坪すなわち三千六百歩を、今は倹約して六百歩だけ取ってしまって、三千歩をもって面積一町にしている。これは太閤秀吉以来測量法が変った結果です。こうなれば、一町という名の意義は失われた訳です。
 以上は大体について条里の法を述べたので、条は一条二条などと順に数えて、これをさらに縦に一里二里などと数える。その里を一ノ坪、二ノ坪などと数える。何条何里何坪という。何村大字何小字何の何番地というようなものです。条里の数え方は場所によって一定しませぬ。私は大和辺は詳しく調べてみましたが、大和平野を東西に両分する形勢の今の中街道によって、だいたい東と西との二つの条里区に分け、ともに南に四十条ばかりも数えている。里の数え方は各郡で別々になって一定しておらぬが、条は北から順次に数字で示している。この河内の条里はまだ調べて見ぬから詳しいことは言えませぬが、ここでは郡ごとに条里を数えたらしい。旧讃良郡の四条・五条の地名を見るに、五条の北に四条があって、その間が約六町である。しかして四条の南を四六・二十四町ばかりにして、取ると河内郡の境になる。また、北二十四町で交野郡の境になる。すなわち讃艮郡は南北八条すなわち約四十八町の郡で、北から南へ、一条から八条まで、数えたのです。かくて交野郡と讃良郡との境から六町ずつ四つ数えて、ここが四条となる。(351)その条を数える時に通例数字で数えますが、後にこれを面倒がって、あるいは北の条、南の条、東の条、西の条などといって、またこれを北条、南条あるいは東条、西条、中条などと勝手な名前を付けて呼んでいる所がある。これらはいずれも条里から起った名称で、なおよく小字を調べてみますと、往々数字をもって呼んだ地名が見つかります。大和辺の小字には一ノ坪、三ノ坪、八ノ坪などいうのが多く、また「十三」と書いて「ジュウソ」、「二十」と書いて「ハタチ」とかいう地名が方々にある。こういう地名が見付かれば、その小字の地名の数字を標準として、地図上に割出してその地の条里が解るはずです。これらは史蹟調査に従事なさつているお方に御依頼したい。坪の数字を示した小字を知れば、それを書抜いて、実地にあてて、図上に条里を描出し、昔の条里を明かにしたい。
 条里の法の始まりは奈良朝の初期、――今から約千二百年前で、鎌倉・足利時代まで続いた。けれども新しき時代に割り出したものはありませぬ。
 
      一二 土地の新旧地名
 
 この北河内郡には、先刻申したように深野池という大きな池がありました。この池はかつて八尾の講演の時にも述べておきましたが、元は非常に大きいもので、貝原益軒の『諸州廻り』に、南北二里、東西一里と記しております。先刻拝見しました陳列の図で見ると、二里では少し大き過ぎるようでありますが、ともかく大きい。この池が田地になったのは、宝永以後であります。そのほかにも、これに伴って新田が出来ましたが、これらの地を果して条里の遺影がどういう風になっているか。条里の出来ていない所は土地が新しい。各条すなわち六町ずつに畦道を造り、用水路を聞く、その中をさらに分けて一町ずつに畦道を造っているのが条里の法ですから、小さい畦道でも、あるいは用水路でも、その間隔が一町とか二町とかずつに出来ていれば、元の条里の遺影だといってよい。地図を見ても、その(352)遺影は所々に大分あるようでありますが、低い平地の所、すなわち茨田郡の大部分、深野池の跡などにはそういう所はいっこう見えませぬ。『和名抄』に見える郷名など、古い地名を取調べましても、茨田郡の大部分なり讃良郡の西部なりには、いっこう見付かりませぬ。讃良郡では東の山際の土地に伝えられている。茨田郡でもやはり同じように、東の山の麓から、一部分は淀川縁の高瀬あるいは茨田池付近などに残っておりますが、その中問の平坦な場所には、いっこう古い地名はない。交野郡の六ケ郷、無論のことであります。こういう古い地名を研究すると、その土地の新しい旧い、いつごろ開拓されて田地となったか、というようなことも、変遷が解るので、史蹟調査の上にはなはだ重要なことであろうと思います。
 はなはだ雑駁なことばかり申上げるようでありますが、モウ少し時間を頂戴して、地名の間違ったことなどについて、少し面白い例を申上げて見ようと思います。
 
      一三 地名の間違い
 
 地名を書き表わすに、漢字を当て嵌めたことは、前に申した通りでありますが、その漢字には、なるべく縁起の善い文字を使いたがる。元来日本人は昔から御幣担ぎの癖がある。日本は言霊のさきわう国といって、言葉に魂がある。善く言えばその事善くなり、悪く言えばその事も悪くなる。それが地名にいくらも現れている。近ごろはだんだん担ぐことが減って来ましたけれども、東京などにはまだまだいわゆる徹幣担ぎが多い。生粋の江戸ッ児などにことに多い。東京では非常に「去る」ということを嫌う。それで動物の猿のことを言うにもエテという。猿楽《さるがく》町をエテ楽《がく》町という。またスル――商売して損することをスルという。スルということを嫌って、摺鉢のことを当り鉢、硯箱のことを当り箱、墨を磨ることを当るという。これが江戸ッ児で保存されているが、昔からそういうことが多い。そこで地(353)名でも好んでめでたい文字を使う、文字ばかりでない、名前までも取りかえる。それからして間違いの起ることがたくさんある。まず悪い言葉を善い言葉に取替えた例は、言葉の上で言うと、梨という果物がある。ナシは無しで、悪いからこれを反対に有りの実という。そういう例がたくさんありまして、地名では、讃岐に刈田《かつた》郡というのがあった。田を刈って稲を取ってしまうという名を嫌って、刈田郡を中世以後豊田郡と変えている。刈って取るのでない、豊富になるようにというのでそう変えた。飛騨国に荒城《あらき》郡というのがあった。荒れることは悪いことであるから、中世以後反対に吉《よ》いという字と取りかえて吉城郡となった。駿河に焼津《やきつ》という所がある。日本式尊が東夷御征伐の時に、賊が周囲から火をつけたという故事の地で、これを焼津という。これは地名伝説の一でありましょうが、焼くということはめでたくないので、それでこれも中世文字を改めて、益頭《やきづ》と変えている。人間の頭の数が殖えるのは、大変結構なことである。ところが後世の人がこれを忘れてしまって、文字のままにマシヅ郡と読むことになってしまう。
 また新しい名を付ける場合に好んで古い文字を使うことがずいぶんたくさんありますが、その調査が悪いためにかえって地名の間違いを生ずることが多い。大いに研究者を悩ましている。常陸国、安芸国の郡名のごときは、大いに間違っている。中世以後に新しい名前に変えていたのを、徳川時代の寛文四年に、昔の郡名に直させた。ところがその場所が解らない。それを好い加減に古い名を付けたから、元の郡と今の郡と、名は同じでもいっこうに場所が違う。特に安芸、常陸にはそれが多い。明治二十年代新町村が出来まして、古い名前を尋ね出して付けたのが多いが、それにも間違いがたくさんあります。これらは研究者が大いに注意しなければならぬ。似寄った文字を使うた一の例としては、今は中河内郡に這入っているようでありますが、元讃艮郡の一部に、「住道《じゆうどう・すみのどう》」というのがある。いつからこういう字を付けたか知りませぬが、「住道」と書いて、元は「スムヂ」というのが古い地名であって、『日本紀』などにも出ている。これは今の摂津の東生郡、――元は住吉郡の中の郷名で、文字は一所だが、場所が違う。その 「住道」(354)の古い文字を今の住道に持って行った。そこにはかつて天主教の会堂があって、これを角の堂といった。それに古い住道《すむぢ》の字をあてて、住《すみ》の道《どう》と読ませたということであるが、それでは元の住道が消えてしまうことになる。こういう例が各地にあります。よって地名を研究する場合は、よほど注意せぬと間違いが起る。似寄ったことで間違いやすいものには、ワタナベ・ヤマベとか、タナベなどいう名がある。渡辺は先刻も申した通り、渡船場の辺《ほとり》にあるから渡辺《わたりのへ》という。山の辺にあるのが山辺《やまのへ》、田の辺にあるのが田辺《たのへ》とこうなる。ところが、一方にはまた渡船を職業にしている渡守の部民を、渡部《わたりべ》といった。田地を扱っている部民を田部《たべ》という。山を掌っているものを山部《やまべ》という。これらは昔は皆「ベ」といっている。交野郡の「私部」、――これはキサイベで、キサイはキサキである。皇妃のために置いた一の部落の民である。機を織る部民を服部《はつとり》という。ハットリは機織りで、すなわち「服」と書いてこれを「ハタ」というようですが、実は機を織る部民すなわちハタオリベが約つてハットリになったのです。そういう「ベ」がたくさんある。その田部《たべ》が後に田辺《たのへ》と混同して、どちらでもタナベといい、渡部《わたりべ》をもワタナベといい、その代り山辺《やまのへ》を山部と混同してヤマベという。本来は別でありますが、後には混同になった。今渡辺の紋といって、丸三つに棒一本引いたのを付けますが、渡部姓の人もやはりこれを用いている。これらも地名の研究上注意すべき重要な一の例でありましょう。
 知らず知らず自然に間違った例も多いが、山キの国が山シロになったようなもので、出雲国の出雲郡、これを「シュツトウ」と読む。とうてい読める訳でないが、これはどういうことかというと、元出雲郡を二つに分けて、出雲東郡、出雲西郡とした。ところが三字になっては郡名二字の約束に背くから、「雲」という字を略して、出東・出西とした。後に寛文四年になって、これを元の出雲郡に直した、直したけれども読み方はやはりシュツトウ(出東)で、ちょうど山城《やまき》と書いてヤマシロというのと同じである。
(355) 北海道の彼方の「樺太」は、カバフトと書いてカラフトと読む。これはなかなか難かしいことのようであるが、所由を聞けばなんでもない。故意に間違えたものである。もとは「唐太」などと書いた。こう書けば間違いない。これはもとかの土地でアイヌらが外国人と物品の交換をした。蝦夷錦とかいうものは、シナから満州を経て樺太に送って来る。それをアイヌが交換して日本に持って来る。外国人ということを唐人《からひと》という。ヒトは奥州訛でフトになる。カラヒトがカラフトになる。
 それを訛音のままに唐太と書いた。ところが徳川幕末以来、ロシアと日本との間にこの島の所属問題が喧しくなった。明治初年の政府のお役人が考えた。これを唐太《からふと》といったとなれば、唐《から》は外国ということであるから、これを証拠として突込まれる。というので、これを古くから日本領であることにしなければならぬ必要上、幸いにこの島には樺の木がたくさんあるので、「樺太《かばふと》」だと言い出した。「樺太」なれば日本語に出来ているから、日本人の国の証拠になる。そこで黙ってコッソリと変えた。慶応ごろまでの文書には「唐太」と書いてあるが、明治政府の文書は、「樺太」と書いた。当路者は読みまでもカバフトと変えるつもりであったかどうか知らぬが、コッソリ遣ったものですから、それが人民に徹底しない。やはり世人は「カラフト」といっている。これは新しい例ですが、新しきを温《たず》ねて古きを知るで、また御参考になろうと思います。
 このほか牧野は牧場のあった所、河内の飼部《かいべ》の名は古代に見えています。禁野は皇室の禁猟場、交野の行宮もあれば藤原継縄の別荘もあつたという風に、地名の研究と史蹟の調査と相俟つて、その地方の古代の様子が解って来るのであります。私の今日述べたのは、きわめて大体のことで、一々の事実には当っておりませぬ。ただ特に北河内に関したことをなるべく例に引いたというだけで、はなはだ雑駁な話になりましたが、だいたい史蹟を調査する上には、地名を忽せにしてはならぬ。地名の研究にはこういう意味のあるものであるということが御了解になりましたならば、(356)その結果として、北河内に引当ててますます御調査を進められたい。かくて次第に種々の歴史事実も解って来ましょうし、昔の文化の跡も明かになって来るだろうと存じます。これは調査会の方に御依頼致しておきたいと思います。はなはだ語らぬことを申上げてたいそう長くなりました。これにて……。   〔大正五年四月、四条畷会場にて〕
 
 
(357) 地理学に関する余輩の見解
 
       一
 歴史地理学とは何ぞや。これ余輩がしばしば諸方より説明を促さるる問題なり。しかして、本誌上においても、また、しばしば繰り返されたる問題なり。余輩は、早晩これに関する余輩の見解を発表して、大方諸賢の高教を乞わんことを期す。しかれども、余輩は、今、これに先だって、一般の地理学に関する余輩の見解を発表して、これに対する余輩の態度を明かにするの要ありと信ず。何となれば、歴史地理学はとうてい、地理学中の一分科として、その地位を占むべきものなればなり。しかして余輩は、なおこの以外にも、余輩をして、これに関する見解を発表せしむる理由を有す。つらつら世の地理学に関して定義を下せるものを見るに、いずれの学科においてもしばしば見るがごとく、古今によりてすこぶる相違あるを免れず。こは、学問の進歩に伴いて、その要求する知識高尚となれるの結果にして、けだし自然の数なるべく、もとよりあえて怪しむべきにあらざれども、その意義の変遷のあまりに急激に、あまりに放任にして、門外漢をして時に傾首せしむるがごときものなきにあらず。はなはだしきに至りては、当(358)初の意義とは異なりたる意義に地理学の名称を用い、しかして、他の、地理学の名をその正当なる意義通りに使用する者に向って、汝のなすところは地理学にはあらずと誣いんとするものすら、これなきにあらず。余輩が、まず、地理学について多弁を費さんとするもの、またやむを得ざるに出ずるなり。
 地理学とは何ぞや。余輩をして、まずその字義よりしてこれを説明せしめよ。地理学とはこれを一言にしていわば、地理を明かにせんとする学問なりというに帰すべし。こは、生物学が生物を明かにせんとし、物理学が物理を明かにせんとすると異なるところなきなり。しからば、地理とはなんぞや。天の文に対する地の理なり。天に日月星辰等の文あるがごとく、地に山川都邑等の理あるをいうなり。しかして、日月星辰等に関する諸現象を明かにせんがために、天文学あるがごとく、山川都邑等に関する諸現象を明かにせんがために地理学は起れるなり。
 地理学は洋語にこれをゼオ=グラフィーという。ゼオは土地なり、ゲラフィーは記載なり。地理志の義なり。地理上の諸現象を記述するものなり。ゼオ=ロジーすなわち土地の科学《サイエンス》とは、当初よりその間に区別あるなり。地理に関する学は、シナにおいても早くより開け、いわゆる地理志は、史籍の一部として、常に存在せり。その記するところは、すなわちゼオ=ゲラフィーにして、各時代の人士の知識に上れる地理上の現象を記述せるなり。わが国が韓土より諸種の学問技芸を輸入したるうちに、推古天皇朝渡来の百済の僧観勒の将来せるもののうち、天文地理書等の名目あり。当時のいわゆる地理なるもの、その内容を知るを得ざれども、奈良朝の初め、元明天皇が勅して諸国の地理志すなわち風土記を奉らしめたる時の「勅語」には、「其郡内に生ずる所の銀銅彩色草木禽獣魚虫等の物は、具さに色目を録し、及び土地の沃※[土+脊]、山川原野の名号の所由、又、古老の相伝する旧聞異事は、史籍に載せて言上せよ」とあり。もって当時の地理志の要求せる知識を知るを得べし。しかして、これらの地理志(あるいは地理誌とも、略して地誌とも書く)の記するところは、おおむね地理上の諸現象を、系統的秩序もなく、単に羅列せるにとどまるも(359)のにして、この点において、東西その揆を一にせるものなり。しかもかくのごときものは、近時の発達したる意味における地理学の要求するところと、すこぶるその趣を異にす。
 近時の発達したる意味における地理学の要求するところは、単に地理上の諸現象を個々別々に知得せんとするのみならずして、これらの由って来るところを究め、彼此相関する次第を明かにして、もって、これが系統的知識を得んとするにあるなり。しかれども、諸現象の由来を究め、相互の関係を明かにするは、すなわちその諸現象を明かに理会せんがためにして、究寛の目的は諸現象そのものにあり。諸現象の由来および相互の関係等、地理上の理法を明かにせんとするものは、むしろ地理哲学とも称すべきものにして、普通にいわゆる地理学の範囲以上に超脱するものなりといわざるべからず。地理学はとうてい地理を明かにせんとする学にほかならず。山川都邑等の諸現象の地上に羅列せる状態を明かにせんとする学にほかなるべからず。ただ、これに関する明瞭なる知識を得んがためには、字引的暗誦的の知識のみに満足せずして、必ず系統的のものたるを要求するのみ。
 しかるに、世に極端なる論者ありて、余輩のいわゆる地理哲学なるもののみをもって真正の意味における地理学なりとなし、地理上の諸現象を記述するがごときは地誌にして地理にあらずと言わんとす。その説に曰く、地理学とは土地に関する理学なり。各地方の地理上の諸現象を記述するは、すなわち、地理学を各地方に応用したるに過ぎざるものにして、これを地誌というべく、地理というべからず。地理学は抽象的の学問なれば、地方を限るべからず、地方を限るものは、これを日本地誌、外国地誌、または某々の地誌等と称すべく、決して日本地理、外国地理、または某々の地理等と称すべからざるなりと。しかれども、こは、文字の解釈を誤れるの結果にして、地理学の真目的を明かにし得たるものにあらざるなり。地理の理は木理の理、連理の理なり、模様なり、筋目《すじめ》なり、物理学の理にあらざるなり。地理学は地理の学にして、決して地の理学にあらず。地理を明かにせんとする学問にして、地理に関する理(360)法を明かにせんとするのみの学問にあらざるなり。また地理上の諸現象を記述するものをもって地誌と名づくるは可なれども、これをもって地誌にして地理にあらずというに至りては断じて不可なり。何となれば、地誌とは畢竟地理誌の略にして、地理を書き誌《しる》したるものにほかならざればなり。しかも、世には、往々、地理と地誌との名称を区別し、学校の学科課程を定むるに当りて、地理科の中に、日本地誌、外国地誌、地文学の三科を置けるものあり。東京高等師範学校、女子高等師範学校等のごときこれなり。余輩は、これらの諸学校がいかなる理由によりてかかる名称を選定せしかを知らず。しかれども、もし、この選定が、前論者の所説のごとき理由に出でたるものならんには、余輩は、これをもって、あまりに案じ過ごしたるものなりといわざるを得ず。ただし付属の中学校、高等女学校等に関しては、文部省令に従いて、明かに、日本地理、外国地理、等とあるにもかかわらず、これらの諸学校が、その本科のみにわざわざこれを地誌と改め記せるについては、必ずや、右論者のごとき浅薄なる、しかも誤解せる理由以外に、深き理由の存するものあらん。余輩はこれをつまびらかにせざるがゆえに、ここに論及せず。ただ地誌なる名目は、もと地理書の意義なれば、学科名としてはやや穏かならざるものなることを述べて止まんのみ。
 地理学は実に地理に関する理法を明かにせんとするのみを目的とする学問にあらざるなり。これを明かにするは、畢竟地理上の諸現象を明瞭に理会するの方便のみ。地理に関する理法を明かにするのみをもって地理学の本領を悉《つく》せりと思惟するは、地理上の諸現象に関する個々別々の知識をもって、地理学の能事おわれりと思惟するものと同じく、ともにその中庸を得ざるものなり。要は地理に関する理法をもって、地理上の諸現象を説明するにあり。ここにおいてか、始めて、進歩したる意味における地理学の目的を達するを得べきなり。具体的にこれを説明せんに、例えば関東平野の地理を説くにあたりて、もし単に、
 一、関東地方は東と南とに太平洋を控え、西と北とに大なる山脈を帯ぶ。
(361) 二、関東地方には利根川、荒川、那珂川、多摩川などの大河あり。
 三、関東地方には関東平野という広き平野あり。
 四、関東平野の気候は比較的温和なり。
 五、関東平野には住民はなはだ多し。
 六、関東平野には農産物多く、また、生糸、織物等の産物多し。(以下省略)
と記せりとせよ。こは、単に関東平野に関する諸現象をありのままに、記述したるに過ぎざるものなり。その与うる知識は、全く無系統にして、ただ、個々別々の知識を羅列せるに過ぎざるなり。しかるに、右の個々別々なる知識を連絡するに、地理上の理法をもってせんには、よく、論理的説明を得て、明瞭なる知識を与うるを得べし。例えば、
 一、関東地方は東と南とに太平洋を控え、西と北とに大なる山脈を帯ぶ。(事実)
 二、大なる山脈よりは通例大なる河流出ず。(理法)
 三、関東地方には果して利根川、荒川、那珂川、多摩川等の大河あるなり。(事実)
 四、大なる河流の海に注ぐや、通例、その両岸および河口に広き平野あり。(理法)
 五、果して、これらの諸川の流域には、広き関東平野あるなり。(事実)
 六、緯度、海流、地勢等につきて、某々の条件を具備する地方は、気候温和なるを常とす。(理法)
 七、関東平野は右の条件を具備す。しかしてその気候は比較的温和なり。(事実)
 八、人類は好んでその生活上の便利多き地に集まる。(理法)
 九、関東平野は気候温和にして、かつ、某々等数多の、生活上便利多き条件を具備す。しかしてその住民はなはだ多し。(事実)
(362) 一〇、住民多き地方には、生活の必要上、産業発達す。しかしてその産業たるや、住民現時の知識の範囲において、地理上の自然事項を最も有効に利用するもの、その当代にありて、最もよく発達するを得。(理法)
 一一、関東平野は、その地味、気候、その他某々の条件において、農業に適す。かつその住民は古来農をもって主なる生業とし、農業に関する知識一般に普及す。ゆえに、その土地を農事に利用するもの多く、農産物に富めり。また、関東平野の中にも、山地に近き某々の地方には、穀類を栽培するよりも、むしろ桑樹の繁殖に適して、養蚕業を起すを利とするところあり。かつその住民は、古来養蚕上の知識をも有し、また、手工の才能を有す。ゆえにこれらの地方にありては、養蚕、紡織の業発達し、生糸、織物等の産物多し。(事実)
 右の記述は、前に記述したる個々の事実を連絡するに、他の特別なる研究の結果として得たる地理上の理法をもってしたるものにして、ある事実とある理法とを前提として得たる断案を、ある他の事実と比較し、その現象に系統的説明を与えたるなり。これを三段論法の形式に作為すれば、
 一、およそ大山脈よりは大河の出ずるを常とす。…………………………(大前提)
 二、関東地方は西と北とに大なる山脈を帯ぶ。……………………………(小前提)
 三、ゆえに関東地方には大河あるべし。……………………………………(断 案)
 四、果してここに利根川等の大河のこの山脈より出ずるあり。…………(比 較)
のごとき形となる。他は類推して知るべし。
 ここに大前提といえるは、地理上の現象を説明すべき原理法則なり。ただし地理上の現象を構成する原因は、はなはだ錯雑したるものにして、したがって、これを説明すべき理法は決して単純なる能わず。右の大前提の示せるもののごときも、実は降雨の状態と密接の関係を有するなり。無雨の地方にありては、いかなる大山脈ありとも、決して(363)大河あることなし。雨量多き地方といえども、一年中を通じて、平均に降雨ある場合と、ある一時を限りて暴雨ある場合とにおいて、おのずから河流の状態に差別あるべし。しかして降雨の状態はその地の風位、地形、海洋との拒離等数多の原因によりて支配せらる。されば、関東地方に利根川等の大河あることを説明せんに、単に三国山脈、関東山脈等の存在のみをもってせんは、いまだ尽さざるなり。必ずや、これらの山脈あるがうえに、降雨その他某々の点において、某々の条件を具備するものなることを考慮の中に置かざるべからざるなり。大河のある所に平野ありというにおいても、必ず山脈を構成する岩石の性質、河口付近の海深、その他海流、潮流、風位等数多の事項を考察せざるべからざるなり。ことに、人事に関する現象を説明せんとする場合のごときは、最も複雑したる原因を究むることを覚悟せざるべからず。単に人類は好んでその生活上の便利多き地に集まるという。その言や簡なりといえども、その包含するところは、はなはだ広く、ただに自然地理上生活に便利なるべき一切の条件のほかに、政治、経済、交通等に関する種々の事情、ならびに、住民の心理上等の状態をも考慮の中に置かざるべからざるなり。しかも、なお、それのみにては不十分なり。例えば東京市の繁栄を説明せんがためにその地の生活上便利多きことをいう。その説明やよし。しかれども、生活上便利多き地はなお他にもあるべし。されば単に、現在の東京市の繁栄する理由の説明は、右の説明にて満足するも得べしとするも、東京市の存在の説明としては、はなはだしく不十分なり。東京市は何故に現在の東京市の地を選びて起らざるべかちぎりしか。これを説明せんには、遠く過去の歴史に遡らざるべからざるにあらずや。
 けだし、地理上の諸現象は、広く自然と人事とに亘り、かつ、しばしば彼此互いに相関係するものなり。されば、完全に地理上の諸現象を説明せんがためには、あらゆる自然上、人事上の事項に亘りて攻究し、一切の科学上の知識を網羅して、断案をその上に求むるの覚悟なかるべからず。地理学者の任務や重しというべし。されど人間の精力に(364)は限りあり。非常の才能を有するもののほかは、とうてい一箇の学者に対してその攻究を期待すべきにあらざるなり。ここにおいてかその間に数多の分科を生ず。
 地理学の分科は、学者の見るところによりてその種別もとより一様ならざるべし。しかれども普通には、これを、自然地理学、人文地理学に二大別するを常とす。自然地理学とは、地球上の自然現象を攻究するものにして、人文地理学とは、地球の人類に利用せらるる状態を攻究するものなり。換言すれば、自然地理学は、地球を自然物体として観察し、人文地理学は、地球を人類の住所として観察するものなり。もとよりこの両者は、その間に判然たる区別を画して単独に研究する能わざる場合あり。なんとなれば、人事ははなはだ多く地理上の自然現象によりて支配せらるるを常とするがゆえに、自然現象を離れて人事を説明せんことはほとんど難し。また人類の智能は、しばしば自然現象に打ち勝ちて、これを左右することあるがゆえに、人事を離れて自然現象を説明せんことは、またしばしば危嶮に陥るの虞れあればなり。いわんや人類そのものも、あるいは自然に存在する生物の一として観察することを得べく、あるいは地球を利用してその上に活動する霊妙なる特別のものとして観察することを得べきをや。
 さらに自然地理学といい人文地理学というものの中にも、おのずから数多の区別なかるべからず。自然地理学についていわんに、あるいは地球を天体の一として攻究する地理学(また数理地理学とも)、あるいは水界、陸界、気界等の攻究を主とする地理学、あるいは生物を主として攻究する地理学等の分派あるべく、将来攻究いよいよ精密となるに従って、学者の分担いよいよ細かに、分科いよいよ多きを加うるに至るべし。人文地理学についていわんにもまたしかり。あるいは政治状態を主として研究する地理学、あるいは商業、工業その他生産の方面より主として研究する地理学、あるいは歴史的沿革を主として研究する地理学等、その分派は、学問の進歩とともにいよいよ精細に赴くべきなり。
(365) しかるに、右に述ぶるごとき数多の地理学の分科は、皆、地理上の現象を説明せんとするものには相違なきも、必ずある他の独立の科学と相交渉するものあるを見る。例えば、地球を天体の一として攻究するは天文学者すなわち星学者の任務に属し、水界、陸界、気界の攻究は、物理学、化学、地質学、鉱物学、気象学等と相関するものはなはだ多く、生物を主として攻究するものは、生物学者のまさになすべきものなるの類なり。人文地理学についていうもまた同一のものあり。その研究する範囲は常に、政治学者、歴史学者、その他商業、工業の発達沿革を研究する学者の当然なすべきものに属するもの多きにおるなり。
 されば、普通に地理学と称するものは、諸種の学科中、地理に関する部分を集めたるものにして、もと単一の学問にあらず。したがって、地理学は、単一の科学として存在すべきものにあらず。坪井博士がかつて本会の講演において、「地理学は地理に関する諸科学の総名なり」といわれたるもの実に至言なりというべし。
 しからば、普通の意味における地理学者は、果して存在すべからざるものなるか。否、必ずしもしからず。世の地理学者をもって任ずる人々の研究するところ、往々、一方に偏するところあるは、実は、地理学中の某々分科を主として攻究する結果なれども、すでに地理学者をもって任ずる以上は、その希望として、一般地理上の現象を説明せんとつとむる点においては、皆同一ならざるべからず。ただその主とするところに従って、彼此長短の差あるのみ。さらに、ここに、みずから根本的研究をなすにあらずして、他の数多の専門学者の研究の結果をよく理会し、これを綜合して地理上諸般の現象を説明すべき真の意義における地理学者の出現を期待することも、また、決して空想にあらざるべきを信ず。かかる地理学者は、なお、統計学者のごときものなり。統計学者は、必ずしもみずから手を下してなんらの根本的調査をなすを要せず。他の信用すべき調査報告を基礎として、巧みにこれを綜合し、これを整理し、もって社会万般の事情を明かにするを任務とす。地理学者もまたかくのごとし。必ずしもみずから根本的研究をなす(366)を要せず。ただ、他の専門学者の研究の結果をよく理会し、その是非を鑑別するの素養あれば足れり。しかして、その信ずべきところを採りて地理上の諸現象に応用し、これが系統的説明をなすをもって任務とすべきものなり。もとより、他の専門学者の研究の結果をよく理会して、その是非を鑑別せんには、広く自然および人事上の諸学科に通じ、かつ、常識の十分発達したるものなることを要す。ことに、現今の学問進歩の程度について見るに、地理に関する諸科学は、他の諸科学に比して、すこぶる進歩遅々たるを免れざるものあり。そのうち自然地理学に属する部分の諸学科の研究は、比較的やや進歩したるものありといえども、人文地理学に属する部分の語学科中には、特に幼稚なるもの少からざるがゆえに、一般地理学者をもって任ぜんとするものも、他の専門学者の研究の結果にのみ依頼するに満足せずして、進んでみずから根本的研究を積まざるべからざる場合のはなはだ少からざるを見る。されば余輩の理想とするごとき地理学者の出現は、将来に向って期待すべく、現時に求めんは難かるべし。
 
       二
 
 余輩は、ここに、自然地理学の比較的進歩したるに反して、人文地理学中にはことに幼稚なる部分のなお少からざることをいえり。この点につきて少しく説明するところあらしめよ。余輩のすでにいえるごとく進歩せざる古代の地理学は、単に、地理上の現象を個々別々に記述するに過ぎざりき。しかるに近世の趨勢は、系統なき羅列に満足せずして、さらに系統的説明を試みんとするに至れり。これ著しき進歩なり。しかれども、その現時までにおける進歩は、主として、自然科学の方面に向って促されたるなり。地球の表面を踏査し、物理学、化学、地質学、鉱物学、気象学等の知識を応用して、地理上の自然現象を説明することは、旧来の面目を改むるまでに進歩せり。ただに地理上の個々の自然現象に比較的満足なる説明を与うることを得るに至れるのみならず、さらに進んで、自然地理上の現象を(367)支配する理法を発見し、ある点においては、自然地理哲学とも称すべきものを組織し得べき程度にまで進歩せるなり。しかり。自然地理学上の研究は、近時比較的長足の進歩をなせるなり。しかれども、人文地理学上の研究に至りては、いまだこれに伴う能わざるものあり。普通に学者の成すところを見るに、その人文地理というもの多くは、自然地理の人事に影響するところを説くには精なれども、人事の原因をさらに人事上に求むるにおいて粗なるの傾きあるなり。これ大なる欠点なりといわざるべからず。例えば、前に述べたるごとく、東京市を説くにあたりても、その現状を叙述し、その繁栄なるゆえんを説明するにありてはすなわち精なれども、何故に江戸の町が、現在の地に起らざるべからざりしか、何故に江戸が東京とならざるべからざりしかを説くにおいてはすなわち粗なるを免れざるがごとし。論者あるいは言わん。かくのごときはこれ歴史家の任務なりと。しかり、歴史家またこれを攻究すべし。しかれども、地理学者は、必ず、またこれが攻究を忽せにすべからざるなり。もし論者の説のごとくんば、気象に関することは気象学者にゆずるべし。生物に関するものは生物学者にゆずるべし。その他某々の事柄は、また、某々の専門学者にゆずるべし。しかして、地理学として余すところ果してなんぞや。人事を説明するに自然地理の影響をもってせんとするはすなわち可なり。しかれども、進んで他の人事の影響するところを攻究することのさらに重大なるを忘るべからざるなり。人は霊智霊能を有す。したがって、人事ははなはだしく複雑し、自然地理上の現象の比較的単純なるに似ず。この複雑なる関係を明かにして、始めて地理上完全なる説明を下すを得べきなり。しかるに、世の地理学者は、往々この方面の攻究を等閑に付するがゆえに、論じてしばしば正鵠を誤つことなき能わざるなり。論者はしばしばわが国の主要部の地形が文明に適するをいう。すなわち可なり。しかして大和民族がこの地に住して著しき進歩を成したるをいう。これまた可なり。しかれども、大和民族以前にこの土に住したりしアイヌは、何故に吾人の祖先と同じく文明に進む能わざりしか。わが国の地形が大和民族の文明の進歩に影響せしは明かに一面の真理を示す。しかれど(368)も、大和民族の文明は、地形のみによりて説明し得ざるははなはだ明かならずや。
 論者はあるいはシナ本部の地理が文明の発達に適するをいう。これまた可なり。しかれども、シナにおいては、土地薄瘠にして漕運も不便に、ことにしばしば洪水の害を被るがごとき黄河の流域において、文明はまず起り、地味、気候、交通その他数多の点において、黄河の流域よりも数等の天恵を得たる揚子江流域が比較的久しく蛮夷の住所として残されたる事実の説明については、普通に等閑に付せられたるなり。けだし、かくのごときは決して、自然地理上よりのみ説明し得べきにあらず。必ず、深く他に求むるところなかるべからず。しかも普通の場合において、これらは多く世の人文地理学を研究せんとする学者の観察に漏るるなり。多くの地理学者はいう。行政区画のごときは多くは地理自然の状態によりて定まると。しかるに、位置においても、風土、住民、産物においても、琉球とはなはだ相類似せる奄美群島が、鹿児島県に入れるは何故ぞ。地勢上出羽の一部なるべき津軽が古来陸奥に編入せられ、また、今は羽後の大部とともに秋田県に属する鹿角郡が、近く明治の初年において陸中に編入せられたるは果して何がためぞ。論者はあるいはいわん。かくのごときはこれ例外なりと。あるいはしからん。しからば論者のいわゆる例外なるものは、事実上はなはだ多きものなることを覚悟せざるべからざるなり。多くの地理学者はまたいう。平安京の起れるは、その地が奈良に比して、水陸交通の便多かりしためなりと。これ一面の真理を表わす。しかれども、水陸交通の便をいわば、山崎津を控ゆる長岡京といずれぞや。しかも、長岡京は、経営に十年を費しながら費用給せずして中止し、しかしてその国庫窮乏の政府がさらに多額の経費を投じて新たに平安京を経営せしは何がためぞ。ことにその平安京が、千載不変の帝都となりしは果して何がためぞ。かくのごときはいずれもとうてい自然地理上より説明し得べからざる問題ならずや。
 以上列挙せるところのごときは、僅々四、五の例に過ぎざれども、人文地理上の現象は、厳密にこれを観察すれば、(369)多くはこの例に漏れざるなり。しかも世の地理学者のなすところ、往々にして単に自然地理の人事に影響するところをのみ説いて、さらに重大なる過去の人事の影響を顧みざるなり。余輩が人文地理学の発達比較的幼稚なりというは主としてこの点にあるなり。事実上近時世に公にせらるる地理書についてこれを見るに、その人事に関するものは、往々にして、その現状を羅列せるにとどまる。しかして、その現状の、まさにしからざるべからざるものなることを説くにおいてはなはだしく欠くるところあるなり。稀にこれを説かんと試みる者は、自然地理上より単純なる解釈を下したるに過ぎず。しかも口を開けばすなわちいう、個々の現象を羅列するがごときはこれ地理学未開の時代の所為なり。今日の進歩したる地理学にありては、必ず、系統的説明を施したるものならざるべからずと。しかれども、現今の地理学界の状態にありては、こは自然地理についてのみ言うべくして、人文地理についてはいまだこれをいうべきの地位に到達せざるなり。もし、地理学はすなわち自然地理学の義なりといわばすなわちやむ。人文地理学をもまた、地理学の一部なりとするものならんには、すべからく、さらに進んで攻究を重ね、これが系統的説明を施し得るまでに到達せざるべからざるなり。人文地理学は実に地理学中の一大分科なり。しかもその分科たるや、自然地理学に比して、さらに重きものならざるべからず。もし、学者の研究が単に宇宙の原理を明かにせんがためにするものならんには、自然地理学、人文地理学、あえてその間に軽重を置くべからざるべしといえども、われらはとうてい人間なり。その研究や、また、主として人間のためにするものなることを忘るべからず。いわんや人事の複雑なる、自然現象の比較的単純なるに似ざるをや。複雑なるものは単純なるものよりしても大なる興味あるべきは自然の数なり。人文地理学はこの比較的大なる興味をもって、比較的複雑なる人事を研究するものなり。ことにいわんやこれを国家社会の方面に応用しては、政治、産業その他一切の人事の指針たるべきものあるをや。人文地理学のことに重んずべきははなはだ明かなりとす。
(370) 人文地理学は実に地理学の分科中にもことに重んずべきものなり。しかも、この点においてその進歩はなはだ後る。されば、目下の急務は、力をこの方面に尽して、跛足ならざる地理学の進歩を図らざるべからざるなり。人文地理学の研究進まばさらに進んで人文地理哲学とも称すべきものを組織するを得るに至るべし。すでに自然地理哲学あり、さらに人文地理哲学あり、さらに常識に富める博学の人士ありてこの両者を応用して、地理上各般の現象を説明せんか、庶幾《こいねがわ》くは完全なる系統的知識を得るに至らんか。
 地理学に関する余輩の見解大略右のごとし。要は、地理上の諸現象を、自然・人事に亘りて、偏頗なく攻究し、これが明晰なる説明を与うべしというにあり。地理学の学はなお史学の学のごとし。その研究の目的物は事実にして理論を主とするものにあらざるなり。余輩のいわゆる地理哲学にあらざるなり。終りに臨んで、余輩をして現今の普通教育上における地理科につきて一言するところあらしめよ。普通教育の諸学校の教科目を見るに、通例地理科を分ちて、日本地理(もしくは地誌)、外国地理(もしくは地誌)、地文(もしくは地文学)となさざるはなし。日本地理、外国地理につきては、しばらくこれを措く。地文学に関しては、多少の疑惑なき能わず。普通に学者の唱導するところを見るに、地理学を分ちて自然地理学および人文地理学となすといい、しかして自然地理学のことを、あるいは地文学ともいうと説けり。しかるに、現今普通教育上に使用せらるる地文学教科書と称するものを見るに、その目的たる、地理上の某々の現象を説明するにあらずして、その現象を支配する法則を説明せるものならざるはなし。彼らは、火山を説明せんがために富士・箱根等を例証として引用す。しかれども、その目的たる、富士・箱根を説明せんがために火山を説くにはあらざるなり。されば余輩の見解に従えば、かくのごときものは、いわゆる自然地理学すなわち地文学にあらずして、地理学以上に超脱する自然地理哲学ともいうべきものならざるべからざるなり。
 元来地文とはもちろん天文に対するの名目なり。されば地文学という名称を使用し始めたる学者は、必ず、天文学(371)が天上の日月星辰等を研究するごとく、地文学は地上の山川等の自然現象を研究するものなりと解せしや明かなり。しかれども、文学上よりいわば、「文」といい「理」という、もと類似の義にして、この場合において古く、同義に使用せられたり。シナの古書には、「日月星辰は天の文なり、五嶽四涜は地の文なり」とも、「天を祀れば天文従ひ、地を祭れば地文従ふ」とも、あるいは、「仰いで天の文を観、俯して地の理を察す」とも、「三光は天の文なり、山川は地の理なり」などともありて、地文と地理とは全く同義に用いられたり。しかるに、今、地理学中より、人文に関するものを除きて、自然地理上の現象のみを地文というは、文字の使用上はなはだ穏かならざるの感あり。ただし、宇宙を大別して天地の二となす時は、天文・地理、もしくは天文・地文となれども、さらに人類をもって特別のものとなし、これを天地人の三才に分つ時は、天文に対して地文・人文あり。すなわち、地理上にさらに地文・人文の別ありとも解するを得べし。されば、余輩は、その文字の使用の不穏当なるを認むといえども、しばらく慣用に従って、地理上より人文を除きたるものを地文と称するをもって一の便法なりと信ず。しからば自然地理学のことを地文地理学あるいは略して地文学というは可なり。しかれども、余輩のいわゆる自然地理学は、自然地理学上の理法を応用して、地理上の自然現象を説明せんとするものにして、理法そのものを研究するを目的とするにあらず。この点において、今の普通に教科書等においていわゆる地文学すなわち、余輩の自然地理哲学といわんとするものとおのずから区別あるなり。けだし、地文学とは、泰西のフィシカル=ゼオゲラフィーを訳したるもの。この語、彼にありては、余輩のいわゆる自然地理学を意味す。そのわが国に入るに及んで、幾分か意義の変化を来せしものなるべし。かくいえばとて、余輩は決して、かくのごとき研究を軽視せんとするにはあらず。ただ地文のみを特に反復して、さらに人文に及ばざるものに対し不同意を表せんとするのみ。
 余輩の案によれば、地理上の諸現象を説明する順序に二様の方法あり。一は分類的記述にして、一は地方的記述な(372)り。前者は地理総説とも称すべく後者は地理各説とも称すべし。分類的記述とは、その説くところ、地球全体に亘るも可なり、一国に限るも可なり、ないし郡市町村に限るも可なり。ただその記述する順序が、まず、地勢を説き、次に住民、交通、産業等に及ぼす等順次その顆に従って諸現象を説明するものをいう。地方的記述とは、これ、また、その説く範囲には制限なし。その記述する順序が、必ずしも諸現象の性質によらず、主としてその地上に排列せられたる位置に従って説明するものをいう。両者ともに一長一短ありといえども、ともに、自然地理哲学、人文地理哲学上の知識を応用して、論理的記述を施し、説明せんとする諸現象に対して明晰なる観念を与えんとする点においては一なり。しかして、これを教育上に施さんとするがごとき場合には、初めに地方的記述の法によりて、まず個々の現象に関する知識を与え、次に分類的記述の法によりて、既得の知識を綜合せしむるを可とす。諸学校の学科目にいわゆる日本地理、外国地理は、余輩のいわゆる地方的記述に当る。余輩は、さらに、その上に、自然地理、人文地理の概括したる説明を施して、もって跛足ならざる地理上の知識を与えんとするものなり。否、ただに跛足ならざるのみならず、普通教育上の見地よりいえば、いっそう重きを人文地理上の知識に置かざるべからざるものあるを思う。なんとなれば、普通教育における地理科は、単に地理上の諸現象を明瞭に理会せしむるをもって終局の目的となすにあらずして、さらに善良なる日本国民たるに資せしめんとするものなればなり。現に、中学校令施行規則ならびに高等女学校令施行規則には、「地理は地球の形状運動並に地球表面及び人類生活の状態を理会せしめ、我国及び諸外国の国勢を知らしむるを以て要旨とす」と規定し、さらに小学校令施行規則には、「兼て愛国心の養成に資するを以て要旨とす」とさえ規定せるなり。善良なる国民をしてわが国および諸外国の国勢を知らしめ、さらに、愛国心の養成に資すべきの目的を有する地理科にありて、別して人文地理学を重んずべきは、もとより多言を要せざるなり。しかもその特殊の目的を有する普通教育にありて、ひとり地文学のみを特別に授け、しかして人文地理学に及ばざるはいか(373)ん。思うにこれを規定したる当時にありては、人文地理は各地方の地理を説明する条下においてこれを授けたれば、さらに最後においてこれを概括するを要せず、ただ地文学に至りては、一般の原則として物理学、化学等の知識を得たる後さらに概括してこれを授くるの要ありと認めたる結果なるべけれども、また、当時、人文地理学の発達幼稚なりし結果にほかならざるべし。もし各地方の地理を説くさいにおいて、人文地理はすでにこれを説明したりといわんには、地文学上の知識も、また各地方の地理を説くさいにおいて、随処説明したるべきものならずや。関東平野を説かんに、如何ぞ平野の成立を説かざらんや。富士山を説かんに、如何ぞ火山の現象を説かざらんや。ただ、その説明たる断片的にして、しかも簡易なるがゆえに、さらに、高尚なる知識を得たる後において、これを概括して授くるの要を認めたるものならずや。しかして人文地理において、また、これと同一の関係あり。もとより各地方の人文地理は、各地方の地理を説くの条下において、これを説明したるには相連なからん。しかれども、その説明や、簡易にしてしかも断片的なるを免れざりしは必せり。ここにおいて、さらに、外国地理の知識を得たる後において、人文地理上の概括したる知識を与え、世界における日本の地理を知らしむの必要は、地文学のそれ以上にありといわざるべからず。しかも、計ここに出でずして、口にわが国および諸外国の国勢を知らしめ、兼ねて愛国心に資すべきをいう。優秀なる教師のこれを担当するにあらざるよりは、その目的を達する、難しといわざるべからざるなり。
 
 付言。本編は、さきに「地理学の性質を論じて、普通教育上に於ける地理科の地位に及ぶ」と題して『教育学術界』の誌上に掲載したるものと、すこぶる重複するところあり。今、さらに論旨を拡めて本誌に掲ぐるは、広く学者の高見を叩き、もって示教を乞わんとの微意にほかならず。読者諸君幸いに、陳腐なる意見を繰り返すものなりとしてこれを咎むることなかれ。