目次

西山が繋ぐ父子の絆・・・昭和二年の縦走記録
西山の旧市道−7路線−を取り戻すことは
黄色いチラシ情報
新企画『西山展望塾』スタート
コラム:転機のとき

おことわり:Web版では広告を掲載していません。

平成17年6月1日号NO.295号 Web版
荻田印刷 TEL・FAX 046-241-8990
1981年創刊 毎月1日発行
編集発行人:荻田豊 上荻野車庫前
西山を守る会ホームページ
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郵便振替口座(名称・西山を守る会)
00260-1-41948

西山が繋ぐ父子の絆・・・昭和二年の縦走記録

 西山称賛展を報じた先月号が新聞折込みされた朝、愛川山岳会の佐々木力夫会長から展示品の78年前の西山縦走記録は「霧の旅」の第何号に掲載されているのか教えてくれと電話が入りました。氏は丹沢大山総合調査事業の一環として丹沢の資料を集めていたのです。

★神谷さんからの手紙
 前号と一部重複しますが、中荻野の戒善寺に建立された「自由民権の里」建碑記念誌から、川崎市在住で「京浜文学」発行人の神谷量平さんの投稿文を転載します。

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自由民権のランドマーク
「自由民権碑」が戒善寺に建立されましたことは、日本の民主主義史上に一つの画期的事件として記録されると思いますが、私には個人的な感慨があります。このお寺の裏に吃立する仏果山・経ケ岳は、私の若い頃、いつかは登ってやろうと考えていて、実はついに登る機会がなかった、大変残念な山だからです。そして、私が住んでいた横浜の丘のどこからも多分今でも丹沢山脈の前衛としてかなり大きく見える筈ですから、その山はいつでもその裾の戒善寺を思い出し、今後はいつでもそこに「自由民権の碑」が立っていることを示すランドマークになることになります。
 私の亡父は日本山岳会の名誉会員ですが、昭和二年五月この山に登っていて、その準備と経過の記録を残していますが、読むとこの戒善寺を訪ねています。それから無慮何十年の後、大畑先生に導かれて私も二度訪ねていることになります。−自由民権よ、そのランドマークと共に永遠なれ!

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 これを読んだ私は神谷さんに「西山を守る会」の活動にこの記録を活用させていただくお願いの手紙を出したのです。折り返し返事をいただきました。

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拝復 御書翰と資料有難うございました。何か不思議な山との因縁を感じ、亡父も意外なところでお役に立っている(?)かも知れないと思いました。私の短文にお目を止どめられましたことを厚く御礼申し上げます。昭和二年は私は中学生で山の一年生でしたが、その頃の世相は若干知っていますが、西山に目を向けた人々は少数でしたが、横浜の南郊からの遠望は私も父から教えられて朝夕特別な思いで見ていたことを思い出します。ただ寺の名前は松石寺で戒善寺ではありませんでした。訂正いたします。この頃父は日本山岳会の会員でしたが、別に「霧の旅」会にも入っていて、近郊の山の開発にカを竭していたようでした。そして同会の会報によせた紙面と松石寺の住職からの手紙の写しと行程の一端などを同封いたしましたので御受納下さい。「山は二度と生えない」という極めて強烈なアッピールに深く同感あり、何かのお役に立てば大変有難いことで、亡 父も草葉の陰で喜ぶことでしょう。有難うございました。西山を守る会の益々の御発展を祈り、西山の自然を守る運動が達成されますようお祈り申します。   敬具
  二〇〇五、四、四
          神谷 量平
 荻田 豊様

★貴重な西山縦走記録
 昭和二年六月発行の「霧の旅」二十三号に掲載された神谷恭さんの西山縦走記録を次に転載します。

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 当日参加の予定であった神谷恭氏が列車に乗遅れたので次の日曜日に行かれた通信がありますが、丁度よい折ですから次に掲げます。  二九日は如何でしたか、当日東神奈川発五時十七分に間に合ふ様駆付けたのでしたが、ほんの僅かの差で出て了った跡で次の七時十二分では迚ても皆さんと一緒になれぬと思って実に残念な思いを抱いて帰宅しました。その時川崎迄行って南武鉄道を利用することに気がつかなかったのでした。今度こそ御供が出来ると楽しんで居ましたのに本当に失礼して了ひました。夫れで昨日一人皆さんの辿られた跡を慕ふて出懸る事にしまして川崎発六時、登戸着仝三十分、稲田多摩川発六時五十五分、厚木看七時四十八分、中荻野迄乗合を走らせ、八時十五分仝村小学校側で下車、真弓の松石寺といふ立派な寺の傍から高取山へ取付いたのでした。此山を荻野附近では西山といひ経ケ岳を荻野富士と呼んで居ます。お寺からの登り坂は仲々急で八合目辺にある一本松(土地では唐傘松といふ)へ九時半、五二三米三等△点へ十時でした。此処からの眺望は実に良く相模平野は一眸の下に集り遠く江の島が浮いて見えました。丹沢の山々は流石に近い丈何れも夫とはっきり指摘出来ます。△点から四十分許り費やして華厳山に着きました。此処も眺望に於て前と変りは有ません。山頂から西へ法論堂へ小径が下って居ましたが私は道のない深い薮を経ケ岳への鞍部目がけて駈降りたのですが、猛烈な薮の中で泳ぐ中何処かで、カメラと水筒を落して了ひ驚いて元へ戻って探したのですが、やっとカメラ丈発見出来ほっと一息つきました。水筒は遂に思切り鞍部に腰を下ろして水なしで飯をのみ込みましたが、経ケ岳への登りに懸った時は流石に苦しいと思ひました。△点へ着いたのは十一時半、二等だけに立派な△でよい展望を得られましたが、意地の悪いもので目に入るものは第一番に相模川の清流です。羽でもあったら飛んで行って一思いに飲み干して了ひたいやうでした。半原越の峠に十二時頃、それから又猛烈な薮泳を続けて幾度か休息し、朝来一滴の水も口にすることが出来なかった故か、常になく疲れ、佛果山三角点へ漸く二時半に着きました。それから直ちに△点から北に派出してゐる尾根を一散に駈降り半原小学校の前から原へ出て県道をぶらぶら馬渡、田代、平山を過ぎ沓掛まで来ると、後から自動車が来たのでそれに乗り、厚木駅へ着いたのは四時五十五分、仝五時十分発で六時登戸着、帰宅しましたのは七時半でした。何れ皆さんから詳しいお話埴承はり度いと楽しみにして居ます。左様なら。(五月二日 神谷恭)

★嬉しいことの連鎖
 小中学生の頃、冬季の休みの日は痩せ馬を背負って薪拾いに行くことが日課になっていた私にとって山は労働の場でした。自分が生れる二十年も前に登山を楽しんでいた人たちがいたことに、今更ながら、人はその境遇によって違いがあることを思い知りました。
 さて、私はこの記録を称賛展の目玉に位置付けました。以心伝心、市民かわら版も記事のタイトルにしてくれました。
 そんな思いが通じたのでしょうか、称賛展初日に川崎から神谷さんが来てくださいました。そして、女性会員二人が、お父さんが西山縦走の起点にされた思い出の地・松石寺に車で案内し、境内で記念写真まで撮ってくれたのです。
 この女性会員の気働きは新たな喜びを生みました。一週間後の第一回公判の日、花上代表らと原告席にいた私は、傍聴席に神谷さんの姿を見つけました。
 開港記念会館の報告集会で、松石寺での写真を我妻さん(横浜在住)から渡された神谷さんはこの席に心る理由を自ら話してくださいました。大正三年生れ、九十一歳の紳士の話に参加者からは期せずして拍手が涌き上がりました。




西山の旧市道−7路線−を取り戻すことは……

 テレビ・ラジオの道路交通情報に、常連の頻度で登場する厚木市。その渋滞や事故は市民を苦しめ、企業が逃げ出す一因ともなっている。新たに西山の採石が始まれば、一日1000台のダンプが増え、交通事情は劣悪化の一途を辿る。
 岩石は山の中心に近いほどに、また深く掘るはどに固くなり、砕石粉塵は益々微粒の度を加え、普通の呼吸で肺の深部に吸着する。健康被害は、洗濯物が汚れて困るどころの話ではないのである。
 西山の麓の四つの福祉施設、近傍の小中学校、保育園、幼稚園等、私は、子供達や福祉施設の人達の声なき声に代って叫びたい。
「西山を守ること即人道である」と。

 『西山を守る会』代表 花上義晴

▽朝夕の通勤の際、西山を眺めています。黄色いチラシを応援します。 半原・47歳

▽広報では知り得ない情報をありがとう。 市内・82歳



黄色いチラシ情報

●『黄色いチラシコレクション』へ
 神奈川県立歴史博物館から「分類神奈川県方言辞典」、バーバーまるやまさんから斉藤馨著「丹沢とその山麓」、島崎秀 雄さんから小山まほろば会発行「玉利軒日記」、大根田雄康さんから厚木市役所発行「先人に学ぶ」と厚木市教育員会発行 「厚木の自然一身近な動植物−」、佐藤高子さんから「神奈川ふだん記60号」をそれぞれいただきました。ありがとうござ いました。

●宮木兼画一西山や松石寺石仏一展示
 西山称賛展のために宮木薫画伯に措いていただきました作品を荻田印刷にて展示販売しております。




新企画『西山展望塾』スタート
第1回は古民家岸邸で19日開催

●西山称賛展開催
 五月三日、四日の二日間、生協鳶尾店コミュニティルームで西山関連の資料を展示し、郷土の先人達が西山とどのように関わってきたのかを紹介し、西山が如何に大事な山であるかを改めて考えていただく機会を設けました。
 展示資料を提供してくださいました方々、ご来場いただきましたみなさん、カンパをお寄せくださいました方々、会場を貸してくださいました生協鳶尾店さんとパティオとびお商店会さん、本当にありがとうございました。

●二件とも厚木市長が被告
 五月十一日(水)横浜地方裁判所で東丹沢西山尾根道裁判の第一回公判が開かれました。
 裁判所の一階ロビーの掲示板にはこの日の事件案内表が貼られていました。それを見ると、西山が三時から、三時半からは市長の兼職は自治法違反として訴えている金井猛さんの事件が列記されていました。厚木市民としては何とも複雑な心境でした。
 余談ですが、その日の朝見た神奈川新聞の市長の「動向」欄に二つの事件に関係する宮台道路部長と厚木ガーデンシティビル社長の名前がありました。前日に打合せでもしたのでしょうか。
 裁判は、花上代表による十五分間の口頭陳述の後、次回第二回公判の日程を七月二十日午前十一時と決め閉廷となりました。

●傍聴者三十名開港記念会館に
 私たちの会はゆるやかな市民運動ですから、強制的な動員はかけませんでしたが、予想以上に多くの方々が横浜に駆けつけてくださいました。閉廷後、裁判所のはす向かいの横浜市開港記念会館一階四号会議室で報告集会を開きました。まず、原告代理人の梶山正三弁護士に今日の裁判の意味とこれからの展開を説明していただき、継いで、花上代表の挨拶、質疑応答など小一時間行いました。
 閉会後、会一員で日本のステンドグラス史研究家の田辺千代さんに会館内にあるステンドグラスの解説をしていただきました。その折彼女が、この歴史ある建物を取り壊そうという動きがあった時に、神奈川新聞が大々的に存続のキャンペーンを張り、それに市民が呼応し、この建物を守ったことを話してくれました。西山も同様です。
市民の声を結集しましょう。

●第一回公判報告会
・六月四日(土)
・開場午後三時、終了午後五時
・生協鳶尾店コミュニティルーム

●高取山と華厳山を歩く
 上分館を起点終点とする、里を長く、山道は短く歩くコースです。
・六月十二日(日)雨天十九日
・上分館午前九時集合(本厚木駅北口午前八時二十分発半原行き乗車、上荻野バス停下車)
・弁当・飲み物・登山靴・杖必要
・上分館→峯→真弓→大平→ゴルフ場→付け替え道→新四国八十八箇所石仏群→松石寺分岐(相模興業採石場を見下ろす)→高取山→大たるみ→華厳山→大沢→ゴルフ場→用野→上分館(上荻野バス停)
・参加自由(事故は自己責任。但し、厚木市民は、ふれあい保険が適用されます)

●新企画『西山展望塾』スタート
 市内外の西山が見える所に出向き、その場所やその周辺に関係する話を聞く会を始めます。
 第一回は上荻野の古民家岸邸に半原宮大工矢内匠家十四代目曾孫弟子で、矢内匠家研究家の大光工務店代表の鈴木光雄さんを講師にお迎えして、岸邸の造作のポイントや見どころを解説していただく見学会を開催します。
・六月十九日(日)午後二時〜四時
・古民家岸邸(久保バス停下車)
・定員三十名


●入会は随時承ります
 当会の年会費は三千円です。郵便振替の場合は、郵便局にある払込取扱票に口座番号00260・1・41948と加入者名の「西 山を守る会」を、さらに通信欄に「年会費・カンパ」等記入してください。
 各種イベントのお申込みお問い合せは事務局の荻田豊までお願いします。TEL 046-241-8990




コラム:転機のとき

◆当店でも販売しています『厚木・愛甲今昔写真帖』(郷土出版社)は飯田孝さんが監修しています。十二年前に発行された『写真集・厚木市の昭和史』(千秋社)もまた氏が中心になって編集されました。西山称賛展ではこの本の中から「相模川の砂利採取」の箇所を使わせていただきました。
◆昭和三十年頃、道路建設などの需要増大で砂利採取のピークを迎えた相模川は、一方で、川底を1メートルも下げ、地下水が下がって沿岸住民の井戸水に影響し、名物のアユも減少し、「砂利穴をいくつか孕み蛇行する苦しきさまに川流れたり」(花家宏作歌集)となり、やっと三十九年相模川の砂利採取は禁止になりました。四十年代、砂利採取は今度は沿岸の水田に場所を移したのです。そしてその田んぼの穴を埋め戻すために山の土を削って、さらにその下から出てきた岩盤に目を付けたのです。上荻野田尻出身の歌人は詠んでいます。
 地殻よりあばき出されし砕石に あわれ浮き世の汚染はじまる
◆建築・土木業界関係者が率先して組織した「美しい景観を創る会」はその宣言に「日本の国土は、世界で最も醜いものかもしれない…」と盛り込み、「みにくい景観百選」の選定を進めているそうです。
◆以前、相模湖は上流から流れ込む土砂のために年々浅くなり、将来はダムとしての機能を無くしてしまうという新聞記事を読んだことを覚えています。採石業者もそろそろ破壊の繰り返しから脱皮し、ダムのしゅんせつなどの意義ある採石方法に方向転換しませんか。