夕方から雨の匂い
なんだかうれしくて、なつかしくて僕はそこに行ったんだ
そしたら君と出会い
なんだかうれしくて、たのしくて僕はまだここにいるんだ
普段は行かない駅前。
夕闇のなか、歌をきいた。
ギターの音に合わせて流れる歌。歌詞のない歌。まるで異国の歌のよう。
それは今まで聞いたどんな曲とも違う気がした。
若宮大誠はふらりふらり歌のほうへ歩き出した。
歌に近寄るにつれて人は多くなっていく。
15歳にしては低い身長で、たくさんの人をかきわけて歌の中心にたどりつく。
そこにいたのは大誠と同い年くらいの男だった。
黒っぽい茶色の髪、唇のしたのホクロ、矢のように鋭くて低い歌声。
家に帰ってから大誠が思い出せた特徴
それから名前は「イチ」というらしい。となりの女の子が話していた。
そして彼は何か、独自の雰囲気を持っていた。
明るいとも暗いともそんな言葉では形容できない彼独自の雰囲気。
謎の雰囲気。
まもなく彼は歌い終えてひとごみをかきわけて消えていった。追いかけたが見失った。
「イチ」を追いかけて走ってる途中、泣き声が聞こえた気がした。
また彼の歌を聞きたいと思った矢先、その機会は訪れた。
翌日。
ひとり補習で残されて、とっぷりくれてしまった夕方の学校。
もう校内に人はいないようだった。
廊下を歩く音がやけに響く。
はやくかえろう、
そう思ったときだった。
また歌が聞こえた。昨日と同じ歌声。微かな歌声。
黒っぽい茶色の髪、唇のしたのホクロ、矢のように鋭くて低い歌声。
昨日の男、「イチ」が大誠の頭をよぎった。
耳を澄ます。
どうやら歌声は音楽室かららしい。
音楽室にいそぐ。
廊下を走る音がやけに響く。
心臓の鼓動も一緒になって響く。
二つの音がはやくはやくはやくなっていく。
歌声がちかくちかくちかくなっていく。
がらら。扉の音。
いつもより重く感じたのは気のせいだろうか。
そこにいたのは大誠と同い年くらいの男。
黒っぽい茶色の髪、唇のしたのホクロ、矢のように鋭くて低い歌声。
どんぴしゃだ。
その男、「イチ」がこちらを向いた。
顔はなかなか整っていて、格好いい。
マゲのようにくくった前髪がゆれてちょっと可笑しい。
無表情に近いけれど、邪魔するな、とでも言いたげな表情。
ひしひし感じる嫌悪感。
どんぴしゃだ。
「イチ」の雰囲気。
独自の雰囲気。
謎の雰囲気。
どんぴしゃだ。
また会えてよろこんでいたけれど、「イチ」の視線で我にかえる。
明らかな嫌悪感。不信感。
しまった、会ったときのこと考えてなかった。
大誠はあせった。
あわてても、本名、ここの学校の人間か、何年か、いろいろ聞きたいこと、定まらず。
ただ明確なのは、また歌が聞きたい、ということだけ。
ごく。つばをのみこんで。
すう。息を吸い込んで。
よしっ。心の中で自分に渇。
「なぁ、何してんの、」
女の子に話し掛けるときもこんなに緊張しない。
「見ればわかるやろ。」
ごもっとも。
ギターを弾いて、歌を歌っていらっしゃる。
もうちょっと言い方があるだろう、むっとした表情をおさえて、笑顔笑顔。
「昨日駅前で歌ってたやろ。俺聞いててん。お前歌うまいなぁ」
笑顔笑顔。しかし「イチ」は相変わらず無表情。
「いつも歌っとる。けど昨日で終わりや。」
「なんで、」
落胆と驚きと悲しみ。
駅前にもっと近い場所に住んでいれば。
どうしてやめてしまうんだろう。
昨日の涙の理由。
「関係ない。」
ずばっと両断。
ここで会話は終わってしまった。
「イチ」は背中を向けてまた歌いはじめる。
またマゲがゆらゆらゆれた。
やっぱりちょっと可笑しい。
しばらく「イチ」の歌を聞いていて、気付く。
昨日もだったが、「イチ」の歌にはすべて歌詞がない。
感情はメロディーにのって伝わってくる。
でも、
でも、
「でもやっぱり歌詞はあった方がいいと思うんやけどなぁ」
思わず口にしてしまった。
「イチ」がこちらを見る、というより睨んだ。
地雷だったのかもしれない。
「俺は曲で勝負してんねん。陳腐な歌詞はつけるよりないほうがええ。」
「陳腐やない歌詞はどうなん、」
「知らん」
「歌詞付きの歌もつくったらええやん。」
「俺の勝手。歌詞なんかなくてもええ」
「なんやねん、その言い方。歌詞を馬鹿にする前にちゃんとした歌詞を作れや。」
「あーもう、うっさいなぁ、お前。…俺は国語はからっきしなんや。詞なんかかけるか。ほっとけ。」
「イチ」がぷいと向こうを向くと、やっぱりマゲはちょっとゆれて。
謎の男前が、急に子供みたいに拗ねるから、可笑しくて仕方がない。
こらえきれず笑う。明らかに嫌悪感。けどさっきよりはマシな感じ。
「どっかいけ。今すぐ出てけ。」
言葉がとげとげささる。やわらかいとげ。くすぐったい感じ。
でもこれ以上言ったら矢みたいにささってきそうな予感。
あやまっとけ。
第六感が告げた。
「悪い、だってお前の髪の毛ぴろぴろゆれておもろいねん」
地雷をふんだかも。
第六感が告げてる。
どす。腹に衝撃。まずい。いたい。思いっきりだ。
その場にうづくまる。
がた、すくっ。すたすたすたすた。
「イチ」はたったと去っていく。
ちょっと待て、ちょっと待て。
「なぁ、名前教えてくれ、」
痛みをこらえて、必死に叫ぶ。
「イチ」には聞こえたのかわからない。
けれど、歌が聞こえた。
相変わらず歌詞はない。
名無しってことか。
なんとか衝撃がおさまり、音楽室をあとにする。
今日得た「イチ」の情報、顔はイケてる、無表情、でもキレやすい、前髪がおもしろい、国語が苦手、未だ「イチ」は定まらず。
ただ明確なのは、明日もここへ来よう、ということだけ。
帰りに職員室で今日音楽室を使っていたのは誰か聞いた。
反則みたいな気がしたが、どうも気になって仕方がない。
腹を殴った仕返しだ。
けれど担任の先生は知らなかった。
しょんぼり、けどこれでよかったような、そんな気持ちで職員室を出る。
出るときすれ違った独身音楽教師、三上奈々。35歳。若作り。
そっと耳打ち。
「みずしま こういち」
振り返ると、くちびるに人差し指。
内緒ね。
うなづいて廊下に出る。
もう5月なのに、ひんやりした空気、吸って気付く。
みずしまこういち。
大誠の記憶が正しければ、漢字は水島孝市。
そして同じ学年、同じクラス。席はどうだったろうか。
それから長い前髪、大きな黒縁のメガネ。声は覚えていない。ちゃんと話したことがない。
いつも本を読んでいる。勉強はできるらしいということは知っている。
ようするに目立たないヤツ。