庄之助の心は動かんじゃった。
それを恨んだ楓は、殿様の刀を盗み出して庄之助の小姓部屋の天井裏に、隠したそうな。
殿様は大事な刀がのうなったので、大変激怒され、殿中は大騒ぎになってしもうた。
やがて天井裏から刀が発見され、盗んだのは庄之助に違いないと、取り調べを受け、庄之助は無実を訴えながらも
その疑いははれなんだ。
その夜、庄之助は無念の涙をのみながら、切腹したんじゃと。
それを悲しんで、お菊も初七日の夜、堀之内の井戸に身を投げて死んでしもうたそうじゃ。
そんなことがあってからというものは、夜な夜なこの井戸の底から、女のすすり泣く声が聴こえるようになったそうじゃ。
それはお菊の亡霊が泣きよるのじゃと、うわさが広まった。それからというものその井戸には誰も近づかんように
なってしもうた。
明治になってから、堀之内には松山二十二連帯が置かれ、兵舎が建てられた。
ある夜、歩哨に立っておった兵隊が、そのお菊井戸の近くで女の幽霊を見たそうな。
兵隊は、銃剣を持って、幽霊に突進し突いたのじゃが、突いたのは弾薬庫の壁を突いとったそうな。
その兵だけじゃなく,それからのちたくさんの歩哨の兵たちも幽霊を見たんじゃと。
恋を引き裂かれ挙句の果てには、無念の死を遂げないかんかったお菊の怨念が残っておったんじゃろうな。
今では美術館やら市民会館やら競輪場などがあるが、競輪場はそのうち移転されなくなってしまうそうじゃな。
今からおよそ1200年ほど昔、恵原の里(今の松山市恵原町)に悪鬼長者と呼ばれる庄屋がいた。伊予の国(今の愛媛県)の国守である河野家の
一族で、河野衛門三郎といい、生まれつきよくの深いひどい男であった。
道のそばで飢え死にしそうになっている人がいても、一粒の麦さえも与え
ようとせず、ひとりぼっちの病人がいれば、竹のムチで追い払った。
弘法大師はその衛門三郎の家の門に立って托鉢をした。すると三郎は、
「この汚い乞食坊主め、あっちにいけ」と追い払った。次の日も、また次
の日も、三郎は口汚くののしって追い返した。そのつぎの日は二度も托鉢
されたが、三郎は家来に命じてまたも追い払った。三度目に托鉢に立たれ
た時、三郎はついに腹を立て、弘法大師を押し倒してしまった。
「このくそ坊主め、それだけほしいのなら施してやろう、これが欲しいの
か」三郎は家来が持ってきたたけぼうきを取り上げ弘法大師の顔に降りお
ろした。大師が鉄鉢で防ぐと、それは八つに割れ地上に落ちた。そして、
みるみるうちにその八つの破片は、光輝きながら空中に舞い上がり、しば
らくすると、かなたの山の中に落ちた。
衛門三郎には八人の子供があった。よく深く冷酷な三郎ではあったが、
わが子たちへの愛情は人一倍強かった。
大師をたけぼうきでたたいたあくる日のことである。三郎はそんなことは
もうすっかり忘れて、かわいい子供たちが楽しそうに遊んでいるのを、目
をほそめながら眺めていた。その時突然太郎が倒れてしまった。「頭が痛
い、頭が痛いよう。」太郎はひどい熱を出していた。苦しい、苦しいとも
がきながら、とうとう太郎は息を引き取ってしまった。悲しみにくれなが
ら三郎は、わが子太郎の葬式をすませた。
ところがどうしたことか、あくる日には次郎が、次の日には三郎が、次
々にわけのわからぬ高熱を出して死んでしまった。 こうして8日の間に
5人の男の子と3人の女の子がとうとうみんな死んでしまった。 三郎は
あまりのことに魂がぬけてしまった。8人の子供たちの墓の前に立たずん
で、来る日も来る日も涙にくれていた。
衛門三郎はある夜夢を見た。「お前は嘆き悲しむばかりではいけない、
お前の八人の子供が死んでしまったのは、私の鉄鉢を割ってしまったから
である。この地にお寺をたて地蔵尊と大師像をまつり、四国八十八かカ所
を巡拝しなさい。その時私はお前にあって、その罪を許そう。」
夢の中のお坊さんはこのように語った。目が覚めた三郎は、妻に向かっ
て夢の中に現れた坊さんのことと、これからの自分の決心について語った。
「先ほど我が家の前に立たれたお坊さんは、うわさに聞く弘法大師という
偉いお坊さんに違いない。私はそのお坊さんをののしり、押し倒したけぼ
うきでたたいた。その上鉄鉢まで割ってしまった。何と恐ろしい罪を犯し
てしまったのであろう。八人の子供が死んだのは、私を戒めるためだった
のである。私はこれからあのお坊さんの後を追って、許しを乞いたいと思
う。」 三郎の話を聞いた妻は、喜んで賛成をした。三郎は白衣を着て、
手おおいときゃはんをつけ、肩から三夜袋をかけ傘をかぶり、わらじをは
き、杖をついてお坊さんに会うために恵原の里を旅立つことにした。
これが四国遍路の始まりである。
何年も何年も四国遍路を続けた。用意していたお金はすっかり使い果
たし、家々の門に立って食べ物を恵んでもらっていた。
そんな時のこと腹をすかせた三郎は、大勢の人がより集まって鍋を囲んで
ごちそうを食べている場所に、すい寄せられるように近づいた。ところが
その人たちは、恵原の里で三郎に追い出された人たちであった。
大勢の人たちにさんざん打ちのめされながらも、三郎はじっと我慢をし
なければなかなかった。
それからも三郎は歩きに歩いた。8年の歳月がすぎたが、大師にはお会い
することができない。恵原の里に戻った三郎は農家の軒先に腰をかけ休ん
でいた。農家の老婆が、休んでいる三郎に渋茶を持ってきてくれた。とて
もやさしい心配りである。三郎の目には涙があふれてきた。
その老婆に自分の妻のことを尋ねてみると、三郎が旅立った後、尼さん
となって念仏にあけくれていたが、重い患いで今朝の明け方命を引きとっ
たとのことであった。 妻の墓にしみじみと話しかけ、自分の哀れさを嘆
いた。
焼山寺にたどりついた三郎は、長い旅の疲れで倒れてしまった。すると
命絶えようとする三郎の耳に、自分を呼ぶ声が聞こえた。それはまさしく
弘法大師の声であった。「お前は心を改めて、四国遍路を二十一回も回っ
て、今こうして私に出会っている。お前はもう仏の道を辛さのなかで体得
している。今お前は息絶えようとしているが、なにか望みがあれば、遠慮
なくいうがよい。」弘法大師は三郎の手を握っていった。三郎は「どうか
昔の罪を許してもらいたい。それに今は私の家は絶えてしまったので、で
きれば本家の国主河野家の後継ぎに生まれ変わらせてください。」とお願
いした。弘法大師は小さな石を拾って、衛門三郎再生と書いて三郎の左手
に握らせた。それから三郎は、安らかに息を引き取った。弘法大師は三郎
の体のそばに、三郎とともに長い旅を続けてきた杖を逆さまに立ててやっ
た。 杖はやがって芽を出し大きな杉となった。
その後河野伊予守左衛門介越智息利の妻に初めて男の子が生まれた。息
方と名付けられた。ところが何日たっても左の手を固く握ったままであっ
た。 そのうちに息方が3歳になったとき、今まで固く握りしめていた手
を開いた。その手の中から小石が転がり落ちた。小石には「衛門三郎再生
」と書かれていた。
その後息方は伊予守となり伊予の国の大守となった。そしてそれまであ
った安養寺という寺をりっぱに建て直し、「衛門三郎再生」の小石を収め
て寺の宝にした。この寺が今の石手寺と呼ばれるようになったのである。
