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二人っきりの夏休み
6 崇高なる犠牲 (当日) 部屋に戻るなり、駿は畳に倒れ込んだ。 この世には神も仏もないのだ。たとえ居たとしてもかなりのあまのじゃく、いや、超のつくサディストだ。可愛い後輩を人質に取るような、こんな卑怯なやり方で人の夢を潰すなんて……今まで納めた賽銭、みんな返せ! 怒りは今回の直接のきっかけを作ったものにも向く。 だいたい、長く崇められている神でさえこんな性格破綻者なのに、自分で 「私が神です」 なんて言い出すやつがまともであるはずがない。恥知らず以外の何ものでもない。それこそ神格を冒涜する蛮行だ。それをまた、「はいそうですか」 なんてほいほい信じるやつがいるなんて、理解不能にもほどがある。知性をどこに置いて来た。だいたい、日本の教育は科学教育をなおざりにし過ぎなんだ。 ぼんやりと畳のへりを見ながら、ささやかな夢を奪い去ったあらゆる者どもにぶつぶつと呪いの言葉を吐き続ける。 井の頭の部屋はトイレとシャワー室の目の前だ。そして今回、セミナーに参加する予定で、お盆の間まるまるバイトを休んでいる。つまりそのセミナーをキャンセルした今、明日大介がやって来て、その二日後に一緒に帰省するまでの間、ずっとずっとずーーーっとトイレとシャワーの前に陣取っているのだ。 改めてその現実を思い、無力感が全身を支配する。 正月に初詣に行かなかったのが悪かったか。それで神様が気を悪くしたに違いない。 駿は絶望の溜息。 いや、最末端と言えどサイエンティスト。神の存在など本気で信じるものではない。強いて存在するとするならば、それは人間のような人格や意思を持つものではなく、自然界を司る普遍の法則そのものであると駿は考えている。物理学、化学、数学、それらが一部現し、そして未だ現し切れていないもののことである。 火の摂理は火の神様として、水の摂理は水の神様として認識され、おのおのの特性から現出する人間にとっての危険性と利便性の両面を、人は己には制御できない神の御業として畏れ敬っているだけなのだ。 なのについつい人間に対するようにムキになってしまうのは、過去の苦い経験のせいかも知れない。 昔からあの八幡宮とは相性良くないんだよなあ…… 苦々しい思いで、正月に参り損ねた地元の神社を思い出す。 宮司は二階堂という恰幅のいい五十絡みの男で、高校の時の社会科教師だった。駿も日本史の授業を一年間受けたのだが、秋祭りの青年団に入っていないことでよく嫌味を言われた。秋祭りは八幡宮に豊穣を祈願する大事な神事なのだ。 習ってもいないことを質問されるのはしょっちゅうで、答えられないと、「さぞかし勉強してるのかと思いきや」 などと、クラスメイトが困惑して顔を見合わせるくらい露骨に皮肉られた。 悔しくてテストで満点を取って見返してやろうとしたが、どんなに頑張っても細かなマイナスが付き、結局一度も取れなかった。まあ、その時がむしゃらに勉強した分、得意科目にはなったが。 駿はごろりと仰向けになった。蛍光灯の輪っかが思い出の中の満月に重なる。 祭りは中秋の名月、つまり旧暦の八月十五日の本宮と、その前日の宵宮の二日間で行われる。当然曜日は考慮されず、ゆえに大抵は九月の平日となる。 その間、地元の公立校は休みとなるが、私立に通う者や仕事を持つ者は大変である。近隣ならば学校や勤め先からも理解を得やすいが、遠方の者は毎年休みを取るのに苦労すると聞く。 ちなみに大介の場合は地元企業なので、その二日間は会社自体が休みなのだそうだ。こんな時代にけっこうなことである。 地元にいながら青年団に属しない駿は、いわば異端者で、高校の三年間、祭りに関しては完全な部外者として扱われた。祭りに関係のない他地区のクラスメイトよりも、夜店目あてに集まって来る参拝者よりも、なお部外者だったのだ。 その結果、祭りが近くなると自然、教室での話の輪から外れがちになり、当日ともなると、家から一歩も出なかった。 その疎外感たるや相当なもので、未だに思い出すたびきりきりと胸が締めつけられる思い出だ。 いや……と駿は思い出す。 一度だけ顔を出したか…… 高三の本宮だった。進学で地元を離れることを決めていた駿は、ふとこれが最後の祭りになるだろう事に気がついた。その瞬間に胸に去来したえも言われぬ郷愁が、彼の重い腰を上げさせた。 駿にとっては三年ぶりとなったその年の祭りは、土日と重なったため例年よりかなり多い人出だった。夕闇迫る中、その人波に押されるように駿は一人黙々と歩いた。 神社へ向かう街道の両側には提灯が灯され、秋祭りらしい情趣を誘う。しかし気後れと後ろめたさを背負った駿には、その延々と連なる黄色い光の道は、どこか禍々しく感じられた。 道すがら憂えていた通り、境内に足を踏み入れた駿を迎えたのは、よそよそしい顔をした社殿と、友人達の冷ややかな目だった。 神輿が境内を練り歩くメインイベントの時間が迫っていたせいもあるのだろうが、友人達はそれぞれがそれぞれの仕事に忙しく走り回っており、駿を見ても誰も声をかけては来なかった。 彼らは皆、揃いのはっぴにねじり鉢巻きをし、見たこともないほどりりしく見えた。外見だけではない。上の者の指示には機敏に応じ、下の者にてきぱきと指図し、その合間に多くの参詣客をさばく姿は、駿の萎えがちな気持ちをさらに萎縮させた。 そこにある男の姿を見つけた駿は、人混みをかき分けて呼び止めた。 「ヨコ!」 このヨコこと横山は、駿が青年団に入らないことを非難した同級生の中で、比較的冷静に受け止めてくれた友人だ。 駿を認めた横山は一瞬驚いた顔をし、そして周囲を気にしながら歩み寄る。 「今忙しいんだ。何か用か」 思わぬそっけない言葉に折れそうになる心を奮い立たせる。 「大介どこかな。駐車場係だって聞いてたんだけど、さっき覗いたら居なくて」 すると横山は、軽蔑したような目でわざとらしく溜息をつく。 「俺は神輿をサポートする係だから、そっちがどうなってるかまで把握してねえよ。現場はその場その場の状況判断で指示が出るガチンコなんだ」 そこに背後から殺気立った声が飛んで来た。 「おら横山! なに悠長にしゃべってんだ!」 「すんません! 今行きます!」 横山が声のした方に頭をめぐらせ、険しい顔で駿を振り返る。 「みろ! 今はお前の相手してる暇ないんだよ!」 「……ごめん」 これだから部外者は……とでも言いたそうな顔で横山は背を向け、そしてその背中で言った。 「さっき西尾の太一さんが第二駐車場が満杯だって大騒ぎしてたから、城山建設の方に行ってるかもな」 そうして駿が礼を言う前に、雑踏の中に走って消えた。 八幡宮近くの城山建設は地元一の土建屋だ。その社長は心から祭りを愛する生粋の地元民で、いざという時は臨時駐車場としてその広い敷地を解放してくれるのだ。 露店でごった返す表参道を避け、裏道から神社の敷地を出た。車道に車が列をなしているのを遠目に、秋の虫がうるさく鳴く畦道を伝って近道する。田畑に街灯はないが、一面を照らす満月の月明かりで、用水路や雑草の尖った葉までがくっきりと見分けられた。 捜すまでもなく、城山建設の開け放された門の前で大介が車を誘導しているのが見えた。 防犯灯の下、車が入ってくるたび、背中に大きな紋の入った真っ白なはっぴが翻る。黒繻子の腹掛けに黒の股引きと地下足袋という足回りが軽快だ。 横手から敷地に入り込んだものの、こちらからでも額に浮き出た汗が見えるほど一心に働いている姿に声をかけることができず、ただ見ていると、それに気づいた他のメンバーが大介に教えてくれた。 「駿?!」 振り返ったその顔が満面の笑みだったことに、駿は自分でもおかしくなるほど安堵する。 「やっと俺様の雄姿を拝みに来たか」 仕事を下の者に交代して意気揚々とやって来た大介は、汗で濡れそぼったはっぴを腕から引き抜きながらそう言った。髪からも汗が滴っている。 「あっちー」 はっぴを脱ぐと両肩がむき出しになる。見慣れたはずのそれが、意外にきっちりと筋肉がついているのに駿は初めて気がついた。体をぴっちりと覆う黒装束が表情まで引き締め、大人っぽく見せている。 二人して夜店から夜店へと走り回った心躍る時間は、もう二度と取り戻すことはできないのだと、駿は悟った。 「似合うね」 「だろー」 しかし、大介はやはり大介で、駿の言葉に素直にニヤける。 「ここよく分かったな」 「うん。境内でヨコに聞いた。忙しそうだったけど」 「ああ、あいつか。そういや朝から目ぇ三角にして走り回ってたな」 あっちは大変だよなー。大介は人ごとのように呑気だ。 しかしそんな大介にも鋭い声が飛ぶ。 「大介! なに一人だけサボってんだよ!」 やって来たのはやはりクラスメイトのコバこと小林。大介と同じ係らしい。 「ちょっと休んでるだけじゃん」 「下のもんに示しがつかないだろ」 「えー、だってせっかく駿が──」 ぐずる大介の言葉をぴしゃりと抑え込むように、小林は駿に向かって言った。 「お前も暇だからって邪魔しに来るなよ。俺らは忙しいんだ」 天真爛漫でいじりやすい大介は誰からも愛される。教師や先輩、駿の母や学食のおばちゃん、後輩や親類の小学生、そしてもちろんクラスメイトからも。 この小林は大介と気が合い、常に行動を共にしている。そして大介の親友が駿だという事実に、普段からどこか歯痒さを感じている節がある。 「……ごめん」 「駿が謝らなくていいよ」 大介は不機嫌な顔で小林を睨んだ。 しかし小林の言うことももっともである。上の者に尻を叩かれながら飛び回っていた横山の姿を思い出す。 「ごめん、俺もう行くよ」 「え! もう?」 残念そうなその顔は、しかし次の瞬間、背後から掛けられた声の方に取られてしまった。 「大介せんぱーい! コバせんぱーい! カノジョさん来てますよー!」 その声の先には、はっぴを着た後輩に囲まれた、派手な浴衣姿の女子が二人。一人は小林の彼女で、もう一人は大介が先日からつきあい始めた子だ。二人はこちらに向かって、手に持ったうちわを振っている。 「おー」 大介が屈託なく手を振り返す傍らで、小林はばつが悪そうな顔をする。 数週間のつきあいの女子ならよくて、十年もつきあいのある友達はダメ、か…… 駿は苦々しい思いを噛み殺し、じゃあと背中を向けた。 「あ、駿──」 しかし、大介は追っては来なかった。 田んぼの畦道に出たところで振り向くと、四人は駐車場の隅の防犯灯の下で談笑していた。大介と小林はこちらに背を向けていたが、女の子二人の陽気な笑顔がいやにはっきりと見えた。 秋の虫を蹴散らすように足早で畦を突っ切る駿に、十五夜の月だけがいつまでもついて来た。 闇の中、溜息と共に寝返りを打つ。薄い布団の上でいつまでも眠れずにいると、思い出さなくていいことまで思い出してしまう。 そういえば大介は毎年、祭りの直前につきあい始めて、祭りのすぐ後に別れてたなあ。ああいうのはフェスティバル・ハイとでも言うのだろうか…… もう一度寝返りを打ち、駿は固く目を閉じた。 翌朝早く、ドアが小さくノックされる音で駿は目を覚ました。 「あの……先輩?」 ハッと布団の上で体を起こすと、鍵をかけ忘れたドアの隙間から、見慣れた丸い顔が覗いている。井の頭である。 「早くにすみません。あの……これ……」 遠慮がちに差し出されたのは、野菜でぱんぱんのレジ袋。 デジャブではない。駿が昨夜、アパートにいるなら食料が必要だろうと、一度貰ったものを返したのだ。 それをまたなんで…… 寝ぼけた頭は混乱する。 怪訝な顔の駿に、井の頭は困ったように言った。 「今から帰省するんで、やっぱり貰ってもらえませんか」 「え……」 情報が感情に転化するまでに数秒かかった。 「き、帰省するのか?!」 思わずタオルケットを跳ねのけて立ち上がってしまっていた。 井の頭は 「はあ」 と頭をかく。 「一週間もバイト休めるって滅多にないし、せっかくだから帰ろうかなって。両親も、電話したら帰って来いって」 「チケットは? 取れたのか?」 帰省ラッシュまっただ中の、お盆初日である。 「金はないけど時間なら腐るほどあるんで、在来線でぼちぼち帰ります」 そう笑った井の頭の目は少し赤かった。 やはりゆうべの事がショックだったのかと案じる。 その視線に、井の頭は恥ずかしそうに目を伏せた。 「ゆうべ、先輩があいつらが加害者かも知れないって言った時、俺はそんなはずないって思いました。でもよくよく考えてみたら、いろいろと思い当たる節があって……」 「……そうか」 受け取った野菜がずしりと指に食い込む。 「ほら、俺もちょっと人見知りなとこあるでしょう? この際、それが少しでも改善されればラッキーかなとか気楽に考えてたんですけど。それ以前に、この人を見る目の無さをなんとかしなきゃいけませんでしたね」 そうしてぺこりと頭を下げた。 「俺が不用意でした。ちゃんと調べもせずにすみません。心配かけちゃって」 駿は目頭が熱くなった。 「帰って思いっきり甘えて来い。それで戻ったら、とりあえず何でもいいからサークルに入れ」 お前なら、本当の仲間はいくらでも作れる。 「サークルですか?」 「何か得意なものはないのか」 井の頭は首をかしげる。 「将棋なら……」 あー…… 「もうちょっと女の子が興味を持つようなのは」 「じゃあ……ホルン、とか?」 ホルン? 金管楽器の? 「中高と吹奏楽部だったもんで」 意外なような、ぴったりなような。 「吹いてるとこ見たことないぞ」 「持って来てませんもん。うちの辺りならあれですけど、こっちだとご近所迷惑になるだろうし」 大空の下、広々とした畑の真ん中で、悠々とホルンを響かせる男の姿を想像する。なんと牧歌的な。 しかしホルン……ホルンかあ……ホルンを活かせるサークルって何かあるだろうか。トランペットとかトロンボーンならまだどうにかなりそうなんだが…… 後輩の前途にひとり勝手に頭を悩ませる駿。それを井の頭は愉快そうに笑った。 無慈悲な神の仕打ちから、気のいい後輩が救ってくれた。 早朝、井の頭が出立し、とうとうアパートに残るのは駿だけとなった。 ついに今日、大介がやって来る。 静まり返ったあけぼの荘の、その静けさに耳を澄まし、一人しみじみと喜びを噛みしめる。険しかった道のりを思うと感慨もまたひとしおである。 窓の外は本日も輝くばかりの晴天。朝っぱらから暑苦しく鳴き狂う蝉の声も、今日ばかりは心地よく感じる。それどころか、地中深く幾星霜耐え偲んだ恋を、一心不乱に成就させようとするその情熱に、共感すらしてしまう。 鼻歌まじりに窓から布団を干していると、階段を上がって来る足音が聞こえた。大家が掃除でもしに来たのかと思っていたら、部屋のドアがノックされた。 「大原ぁ〜、いるか〜?」 それは吾妻。 思わず 「居留守」 という選択肢が頭をよぎるが、吾妻も返事を待って入室するタイプではない。選択の余地もなく、ドアは無情に開いた。 「大原、お盆、帰んないの?」 その質問の先を想像して、駿は身構えた。 「実はまた姫野に追い出されてさ」 来た…… 「よかったら、二晩ほどここに置いてくれないか」 やっぱり…… 今にもその辺りに座ってくつろぎそうな吾妻を制し、その肩に手を置いた。 「吾妻」 「あ?」 「悪いが断る」 真っ直ぐ目を見、きっぱりとそう言った。 「ダメか? 姫野に鍵取り上げられて部屋に入れないんだよ。あいつってば、うっかり鍵持ったまま帰省しちまって、あさってにしか帰って来なくて。な、今日と明日の二晩でいいから」 そう言って、手土産に持って来たらしい焼酎の瓶を、誘うように目の前で振った。 アホか! その二日間が、俺が死ぬ思いで勝ち取った時間なんだ! 駿はくるりと吾妻に背を向けた。 棚に隠した紙袋から小さな箱を取り出すと、ドアの前で突っ立ったままの吾妻と対峙するように正座をする。そして目の前の畳にその箱を置くと、背筋をすっと伸ばし、両手をきっちりとひざに置いた。 残された道は一つ。 「……お、大原?」 それは新品のコンドームの箱。 「吾妻」 「え? あ、はい」 親友の尋常でない雰囲気に、吾妻は激しく戸惑っている。 「俺に彼女がいないことは知ってるな」 「あ? あ、ああ……」 「正直に言う。本当は地元に恋人がいる。滅多に会えない恋人だ。数ヶ月に一度、へたすりゃ半年も会えない時期もあった。その恋人が今日来るんだ。 俺はずっとあいつと抱き合って過ごしたかった。時間も周りも気にせず、一日中、好きなだけ抱き合いたかった。 それをかなえるために、夏休み前からみんなの予定を聞き回って、準備をして、熱を出したやつには寝ずの看病、帰りたくないってグズるやつは励まして、なだめてすかして尻を叩いて、己の心をごまかしてまで、悪魔に心を売り払ってまで、神を呪ってまで、アパートを空にしたんだ! そうしてやっと今日、誰もいなくなった。とうとう待ちに待った日が来たんだ! 俺の夢がかなう時が来たんだ!」 興奮しすぎて咳き込む。 だが、これだけははっきりと伝えておかなければならない。 息を切らし、声をかすらせ、目に涙を溜め、しかしどんな障害でも突き崩す気持ちであった。 「だから吾妻、悪いが、一晩、いや、一時間たりとも、お前にここに泊まられちゃ困る。すまん! 今回は勘弁してくれ!」 叫ぶようにして、勢いよく畳に額をこすりつけた。 温厚堅物で知られる駿の、見せたことのない剣幕と、赤裸々な告白、そして土下座の三段攻撃である。 しばらくして頭を上げると、吾妻は呆然としていた。 畳に手をついた親友の紅潮しきった頬と、目の前のコンドームを見比べる。困ったように視線を外した先には、部屋の隅に積み上げられた、いかにも糊のきいたシーツに、窓から干された布団。 吾妻はぎこちなく目を伏せ、ポツリと一言つぶやいた。 「……頑張れよ」 研究室で泊まるから大丈夫と、どこか焦点の定まらない目をして吾妻は去って行った。 た、耐えた…… 大介は春に買った車で来ることになっていた。中古のRV車で、ゴールデンウィークに乗せてもらった時は、釣りの道具が積まれっぱなしになっていた。 昨日来たメールでは正午には着く予定だったのに、昼を大幅に回っても、大介は一向に現れなかった。お盆で高速が渋滞だと朝からニュースでやっていたが、それに巻き込まれたに違いない。 そわそわが苛々に変わる頃、ようやくメールが来た。 <忘れ物したから取りに戻ってた。あと一時間。> 思わず脱力する。 だったらなんで、取りに戻ると決めた時に連絡しないかなあ。 そう考えた時、それと似たようなことを過去何度も言われたことを思い出した。 そういえば、俺は大介を待たせてばかりだったよなあ。 「お前は、いっつもいっつも待たせやがって」 大介はいつもそう言って怒っていた。時には涙ぐんで。今ならその気持ちがよく分かる。 ごめんな、大介…… 仕方なく一人で昼食の素麺をすすった駿は、夕食の下ごしらえを始めた。苛立ったまま大事な恋人を迎えたくはない。一心に米を洗い、野菜を切り、肉を漬け込む。今夜は焼き肉だ。 そうやって時間を忘れて作業に没頭していると、案の定、待ち人は待っていることを忘れた頃にあっさりと現れた。 アパートの呼び鈴を鳴らすのは、初めてここに来た者だけ。チリンチリンというレトロな鈴の音に、駿は手を拭くのもそこそこに、飛んで部屋を出た。 大介は玄関のたたきで物珍しそうに辺りを見回していた。そして階段上に現れた駿の姿に気づくと、少し日焼けをした顔でまぶしそうに見上げた。 「悪い。待たせたな」 前回会った時より髪は短くなり、また一段と社会人らしくなったようだ。 「ああ……」 一段一段、ゆっくりと階段を下りながら、駿は大介から視線が外せなかった。 汗で額に貼りついた前髪、見上げた首筋から伝う汗、旅行鞄を斜め掛けしたその立ち姿、そして服のしわ一つ一つまでもが、まるで一枚のピンナップのようにそこだけくっきりと見えた。 「ここって客用駐車場なんて気の利いたもんないよな? 車、とりあえずこの先のコインパーキングに入れて来た。一日最大でも千円らしいか……ら……」 抱きしめていた。 「お、おい、駿──」 アパートの玄関先で抱きすくめられ、腕の中の恋人は面食らった声を出すが、かまわない。二人の他は誰もいないのだ。 「会いたかった……」 耳元でささやく。 「駿……」 大介も駿の腰に腕を回す。 「俺も会いたかったよ」 落ち着いた声。 そこに恋人の成長を感じ、駿は微笑んだ。「俺もだぜ、ブラザー」 なんていう照れ隠しの言葉を予想していたのに。 大介と共に刻んできた夏の記憶は、途切れることなくこの瞬間につながっていた。夢中でトンボを追った田園も、風の止まった午後の波止も、人いきれでごった返す花火の夜も、花火のなかったあの夕べも。 郷愁を打ち砕かれ、遠く眺めるしかなかった祭りの夜や、嘲笑うかのようについて来た十五夜も、今はただ懐かしい。 それらすべてが、この瞬間のためのプロローグでしかなかったと、今では思える。 泣きたいほどの愛おしさで恋人を抱きしめられる、この幸福な瞬間の。 |