|
二人っきりの夏休み
7 Sweet Nothings (夢の日々) 炎天の下、世界は静まり返っていた。風は凪ぎ、葉影の蝉は鳴かず、陽炎立つ道に車なく、あけぼの荘には誰もいない。抱き合う二人を除いては。 玄関先での抱擁を寛容に受け入れてくれた大介だったが、顔を覗き込むとやはり照れ臭そうだった。 「なに? ここでキスしていいのか?」 返事の代わりにキスをする。 三ヶ月ぶりの大介の唇は、文字通り甘かった。これはピーチ味か。 「悪い。ずっとガム噛んでた」 「キスに備えて?」 「ばーか」 何度も唇を合わせながら、二人して密やかに笑う。 ここで押し倒したらさすがに怒られるかな。 唇を離すと、大介は駿の首筋に鼻先を埋め、クンクンと鼻を鳴らした。 「お前こそいろんな食いもんの匂いがする。うまそう」 そして、「腹減った……」 と、あごを支点にだらりと駿に寄りかかった。 「昼、食べてないのか?」 「だって、ただでさえUターンして遅刻の上に、渋滞だし、サービスエリアは激混みだし」 時刻はすでに二時。本来なら二時間のところを、四時間は運転しっぱなしだったことになる。 「おまけにあのオンボロ車、この肝心な時にエアコンぶっ壊れて、もう灼熱地獄。オレなんかした?ってカンジ。バテたー」 確かにTシャツの背中は汗でぐっしょりと濡れている。大介は大介で大変だったのだ。 「昼食用に用意してた素麺と、夕飯用の焼き肉があるけど、どっちにする?」 途端、大介は預けていた体をしゃきりと立て直した。 「両方!」 そう、大介は腐ってもバテても、夏バテとは無縁の健康優良児。 それにしても、二人の逢瀬のなんと困難なことか。 「雰囲気のあるアパートだな」 過酷なドライブの汗を落としてシャワーから帰って来た大介は、濡れた髪をタオルでガシガシふきながら、部屋を見渡した。 部屋には和室には珍しい腰板がぐるりと張られ、廊下や階段と同じその黒々とした艶が、築八十年の歴史を誇示している。窓の位置の高さから見ても、かつては洋室だったのではないかと思われるが、今は畳敷きに和風の吊り電灯というどこかモダンにさえ感じられる和洋折衷の部屋である。 「人の気配がしないけど、他の住人は?」 「帰省中」 扇風機を向けてやりながら、しれっと答える。 普段はほとんど使わない音ばかりうるさい年代物のエアコンも、今日ばかりはフル稼働だ。 ちゃぶ台には、「まだるっこしいから焼けるだけ焼いといてくれ」 と言われた通り、大介がシャワーを浴びている間に焼いた肉やら野菜やらが大皿にてんこ盛りだ。 お疲れ様のかけ声と共にビールで乾杯をすると、大介は一息でグラスを空にした。 「かー! 最高っ!」 そして焼き肉と素麺を交互にガツガツと食らう。それがまたいかにも満足げで、見ていて気持ちがいい。 「食わねえの?」 「昼食べたから」 たまに野菜を突っつきながらビールの相手だけしてくれる駿に、大介は何かを思い出したように、旅行鞄と一緒に持って来た某老舗和菓子店の手提げ袋を差し出した。土産に饅頭でも買って来たのかと思ったら、 「先月、誕生日だったろ」 「え……」 駿の誕生日は七月。 「たまたまネットで見つけたんだけど」 覗き込んだ途端、目が釘付けになった。 それはドーム型のガラスケースに入った、体長3cmほどの翡翠色に輝くコガネムシの標本だった。いや、ただの標本ではない。両の前翅と後翅を大きく広げ、飛んでいるような姿をしているのだが、その翅と翅の間、胸腹部つまり胴体の部分に、腕時計の内部のような微小な歯車がぎっしり詰まっていたのだ。 思わず奇声を発して袋から取り出した。 最初は模型かと思った。そのフィギュアとしての精巧さに驚嘆したのだ。しかしケース越しにためつすがめつしていると、それが本物の標本に細かな機械部品を組み入れたものだということが分かった。 「すごい……」 機械仕掛けの昆虫とでも言えばいいか、本来なら生殖器がある尻の先に金色をした腕時計のリューズが取りつけられ、もしそれを巻けば、腹部に収められた渦巻きバネが引き絞られ、今にも連動した歯車や針が動き出しそうである。まさにclockwork。重ねて言うが、体調3cmしかないのだから、その部品一つ一つも恐ろしく小さい。 「動くの?」 「へ? さあ……動かないんじゃね?」 「でも、リューズがあってバネぜんまいがあるんだから──というか、これルリオオセンチコガネじゃないか! こんな大きいの初めて見た」 ケースに額をくっつけるようにして夢中になっていたら、大介がおかしそうに笑った。 「俺は今、誰よりもお前のことを理解してるって確信した」 それは販売もしている海外のアーティストの個人サイトだったらしい。 「トップの写真を見た瞬間に、お前ぜーったいに好きだって思ってさ」 そして翌日すぐに英語のできる同僚に頼んで申し込んでもらい、つい数日前に現物が到着したらしい。 「会社でもさ、そのサイトをみんなに見せたんだけど、『へー、面白いね』 っていうくらいで、お前みたいに目ぇキラキラ輝かせてるやつは一人もいなかった。気持ち悪いとか言い出すやつまでいたし」 「逆にこれを見て興奮しない方が信じられない」 「ほらな」 と大介がまた笑う。 「今朝、うっかり机の上に置き忘れて、おかげで難儀した」 忘れ物はこれだったのか…… 「高かったんじゃないのか?」 駿は心配になった。明らかに手作りの一点ものである。それもそうとう精緻で手がこんだアートである。そしてこれだ、木製の土台を持つずっしりと重量感のあるこの標本ケース。これがこの作品の価値を雄弁に述べている。 「ボーナス出たし」 そう言うと、大介は照れ臭そうに再び肉をがっつき始めた。 人生初のボーナスで? 「しっかしまあ、それだけ喜んでもらえたら価値あるよなあ」 そして素麺をつゆに浸したまま、眉を寄せて駿に訴える。 「初任給の時なんかな、親父とおふくろに、初任給の日には親にプレゼントするもんだ、それが立派な社会人になれるまでに育ててくれた親に対する礼儀だって、給料貰う前からうるさく言われ続けたから、義務感ばっかで感激も何もなかったんだよ」 坂本家らしい。 「ところで、これがセンチコガネって知ってて選んだのか? 俺が集めてたの、覚えてくれてたのか?」 糞ころがしよりもスカラベと言えば通りがいいだろうか。その特異な食性を持つコガネムシの仲間であるセンチコガネの一種、ルリオオセンチコガネを、かつて駿は蒐集していた。小四で引っ越して間もない頃、偶然見つけた美しい瑠璃色をしたそのメタル感いっぱいの甲虫に夢中になったのだ。その頃作った標本は、今でも実家の押し入れにあるはずだ。 「そういやお前、なんかそんなもん集めてたな」 「知らないで選んだのか?」 「サイトに載ってた写真の中で、たぶんお前はこれが一番好きだろうなって」 駿は深い感動を覚えた。駿と同じように、大介の記憶の奥底にも、数えきれないほどの二人の思い出がある。その思い出は表面に現れない時も、記憶の背景として、今現在の行動に影響を与えているのだ。 「なんかいろいろと思い出して来たぞ。そうだ、街から来たくせに、クソ虫なんか喜んでるから、変なやつだと思ったんだよ」 「トラップ作り、手伝ってくれたじゃないか」 それは明らかに思い出したくない思い出だったようで、大介はうへえといった風に口を歪めた。 「お前が喜んでたからだ。もう二度とあんなことしないからな」 食糞性の昆虫を呼び寄せる罠となれば、当然…… 食事中だったので、その先の話は自重した。 「一生大事にするよ。このセンチコガネも、大介も」 「お、おう」 大介は一瞬虚を衝かれたように目を大きくし、そして真っ赤になると、かたまりになった素麺をズブリとすすった。 食器を洗い終えて振り向くと、大介はテレビを観ながらぼんやりしていた。 疲労感と満腹感、そして扇風機から送られる生ぬるい風で眠気を催しているようだ。 脚を投げ出して座っているその背後に、座椅子のようにぴたりと体をつけて座った。 「暑いって」 しかしさしたる抵抗もせず、駿の胸を背もたれにしたままテレビを観ている。若手芸人のやり取りに時折小さく笑うのが伝わって胸にくすぐったい。 口元にうるさくまとわりつく髪に唇を埋める。唇でかき分けるように耳に到達し、舌先で耳の裏をくすぐると、大介が身をよじって逃れる。 「感じる?」 「くすぐったい」 逃れたそうな体を後ろから抱き、ねっとりと耳朶をくわえる。 さらに逃げようとするので、ハーフパンツの裾からするりと手を入れると体が跳ねた。内腿をなでてやるとじっとしている。 「気持ちいい?」 「るせーよ。──っ」 爪でひっかくと息が乱れた。 そうやって内腿をなでさすりながら、もう片方の手をTシャツの中に潜り込ませる。 「駿……ダメだって……」 大介は胸をいじられるのが苦手だ。その言葉によると、「変な気分」 になるらしい。 「テレビ観てていいから」 「観てられる……かよ……」 胸の尖りを優しく苛めてやり、嫌というほど変な気分にさせてやる。 「……駿って……」 一方、腿から指を進めてたどり着いたそこは、すでに興奮のご様子。 いったんこうなると、極めて快楽に弱い大介は従順だ。 「ラクにしてあげるから」 そうささやいてハーフパンツとトランクスを脱がせ、両脚を開かせると、その中央でそそり立つものに手を添えた。 大介は素直に喘ぎ声をもらし、たまらないように背後の駿に体重をかけて来る。 「頼むから……やるならひと思いに……」 駿の焦らすようなゆっくりとした愛撫に、大介の泣きが入る。 「だーめ」 「しゅ〜〜ん〜〜」 大介の腰で刺激されたそこはもう暴発寸前だが、もうしばらくは大介のイイ声を聞いていたい。 「猫にでもなぶられてる気分なんですけど」 「さんざ待たされたお返し」 しかし当然大介は不満だ。恨めしそうに振り返る。 「プレゼント取りに帰ってたんだから仕方ないだろ」 駿は笑う。 「いいや。もっと前から待たされてたよ」 「は? おい、よく思い出せ。いつもお前の方が俺を待たせてるよな?」 しかし駿はきっぱりと言い切る。 「違う。それよりずっとずっと前から俺は待ってた」 「……なんかそれ、こえーよ」 それがいつだったか、もうよく覚えていない。おそらく中学の頃だ。大介が好きな女子の話をするたびに胸が苦しくなって、歯がゆくて……高校に入学した頃にはもう、はっきりと恋心を自覚していた。それで言うと、少なくとも六、七年は待たされていた計算になる。 「どんなに焦らしても焦らし足りない気分。だからあきらめて」 にっこり笑ってそう言うと、大介はうんざり顔。 「勘弁してくれ……」 しかし、こっそり用意していたローションを取り出した途端、その抗議も収まった。 「気持ちいい?」 「……ん」 駿の胸でおとなしく目を閉じ、熱っぽい溜息を吐く。 ローションをまとった大介のそれは、うっかりすると手の中から飛び出てしまうほど硬く弾力を持っていた。 大介の弱い所は知り尽くしている。微妙にそこを外して焦らした後、今度はそこばかり弱い刺激で責め立てる。 「……イヤ……駿……」 立てている膝が震え、片手でいじっていた袋が悶えるように蠢く。 「……ぁ……」 人けのないあけぼの荘に、あえかな鳴き声が満ちる。 「あ……も……」 ゆるゆるとした刺激でじっくり時間をかけてイかせてやると、大介は駿に体を預けたまま、いつの間にかとろとろと眠っていた。 その重みを幸せな気持ちで受け止めながら、駿は一人こっそり感慨に浸る。 そう、これなのだ。まさにこういうゆったりとした時間が欲しかったのだ。吾妻、お前の尊い犠牲は無駄じゃなかったぞ! 陽はすでに大きく傾き、東向きの部屋はうっすらと暗くなりかけていた。 雑に敷いた布団の上で、駿は大介を組み敷いていた。 「あ、あ、あ……」 濡れた音と共に後ろに指を埋めると、大介が首にしがみついて来る。体を折るようにして大きく広げたその両脚が、ひきつるように動く。 さんざん舌や指で弄し、たっぷりと熟れさせた蕾は、三ヶ月ぶりにもかかわらず、三本の指をすんなりと受け入れてくれていた。 「もしかして、自分で慰めたりしてた?」 「するか!」 その呼吸に合わせて一気に奥へ押し進めると、びくりと喉をのけぞらせた。 「やっ!」 同時に、粘りつくような内膜がぎゅっと指に吸いついて来る。 駿はめまいにも似た感覚を覚え、深く甘い息を吐いた。興奮で視界が潤む。 「駄目だ……たまらない……」 すると指を入れられている方の大介が、熱に浮かされた目で睨んだ。 「はあ? たまんないのはこっちだっての!」 その泣きそうな声に嗜虐心が煽られ、つい乱暴に指を動かすと、声が跳ねた。 「んぁ!」 同時に大介の中がぞわりとうねり、駿の中心もズクンと脈打つ。 「だって、大介の中、熱くてきつくて……今からここに入れるんだと思うと、期待値跳ね上がって、いっつもここでメーター振り切れる」 そう言いながら、ゆっくりと大きく指を出し入れしてやる。 空気を含んだ水音が、陽の陰り始めた六畳間に卑猥に響く。 「ぅんっ……んんん……」 大介は憎まれ口を叩くこともできず、苦しそうに眉根を寄せ、そのいたたまれない刺激をこらえている。 「大介のこの顔もゆっくり見られるしね」 「見んな!」 怒った顔もまたいい。 「大介ってさ」 「なに!」 余裕がないくせに、いちいち真面目に応じてくれるのがおかしい。 「色っぽくなったよね」 「!」 朱に染まった頬に、さらに赤みが増す。 「インサートしなくても、この顔だけでイける」 「!!!」 痛いほど指が引き絞られ、駿は本当に放ってしまいそうになった。 「あああっ……」 大介が大きく下半身を痙攣させた。 二人の間で大介が弾ける。 「く……」 切なく絞めつける内壁の収縮に、駿は腰の動きを止めてこらえようとしたが、我慢できずに、今日何度目かの精を大介の中に放った。 荒い息を整えていると、胸の下から規則的な呼吸音が聞こえてきた。達した大介は、その満足げな顔のまま、すでに駿の胸の下で眠っていたのだった。 深夜に近い時刻。その寝顔を見下ろしながら駿は思う。できるなら、今日一日を切り取り、一生リプレイしていたいと。 朝、目が覚めると、腕の中には愛しい恋人の寝顔が……駿にはそんなロマンチックな夢がある。 しかし現実は、目覚めた腕の中に居るはずの恋人は遠く体を離し、タオルケットも放り出して、その裸体の半分を畳の上に投げ出していた。 「風邪ひくぞ」 敷布団の上に引っ張り上げると、目を閉じたまま不機嫌そうに眉間にしわを寄せ、何やら口の中でもぐもぐと抗議する。 「……暑い」 見ると、額や首筋にひどく汗をかいているではないか。 東向きの部屋には、すでにカーテンの隙間から強烈な朝日が差し込んでいる。 駿は反省する。昨夜は熱帯夜の予報であったのに、冷房をおやすみタイマーにしてしまった。自分が平気だからといって大介も平気だとは限らないというのに。 急いでエアコンのスイッチを入れ、扇風機の風を当ててやる。さらにタオルを濡らして汗をぬぐってやると、ようやく眉間のしわも取れた。 涼しい風に満足げな様子の大介の背後に、ぴたりと体をつける。 「大介」 耳元でささやきながら、朝一の行為に及ぼうとすると、ひじで脇腹に一発くらわされた。大介は寝起きが悪い。 あきらめて一人起き上がると、布団の周りに散らばる昨夜の情交の名残を始末し、とりあえずシャワーでも浴びようと部屋を出る。 シャワー室の隣は共同の洗濯室だ。今日ばかりはどれだけ独占しても苦情の出ない洗濯機に後を任せ、シャワーを浴びて部屋に戻ると、大介はタオルケットを抱き枕にして、軽やかな寝息を立てていた。 昨日は酷暑の中、エアコンの効かない車で四時間もの強行軍の上、夜は夜で遅くまで寝かせてもらえなかったのだ。起こすのはためらわれる。 仕方なくわずかな隙間を開けて背後に寄り添い、その寝息を聞いているうちに、自然、駿も眠気に誘われる。 そうして次に目を開けた時、目の前に大介の顔があった。 吐息がかかるほどの間近で、大介は微笑む。 「おはよ、駿」 耳に心地いいそのささやきは、二人の密やかな時間にふさわしい。 「大介……」 そう、これ、これである。 「駿」 「うん」 「腹減った」 「──」 駿はガバと体を起こした。時計を見ると十時を過ぎている。 ああ、そうだ。あれだけセックスすりゃあ、そりゃあ腹も減っているだろう。考えてみれば、昨日の遅い昼食からこちら、まともに固形物を口にしていないのだ! 「ちょっと待ってろ!」 トランクス一丁でチャーハンを貪る大介はワイルドだ。 廊下の向こうからは、二度目の洗濯機の回る音が聞こえて来ている。シーツの汚れはその日のうちに。 「で、今日はどうすんだ?」 添えた野菜スープをすすりながら大介が訊く。 「そうだな、まずシャワーを浴びる」 「おう。身を清めて寺社巡りか。せっかくの名所旧跡だからな」 麦茶を注いでいた駿の手が止まる。 「俺、ちょっと行きたいとこあんだよ。おふくろから土産頼まれてて──」 「大介」 「なんとかっていう漬け物屋と、あと甘味の──」 「大介」 「確かメモが──」 「……大介は、俺のことなんにも分かってない」 ようやく駿の異常に気付いた大介が、へ?と目を丸くする。 駿はスプーンを放り出し、鼻息荒く大介に迫った。 「観光なんていつでもできるから! なんなら次の土日にでも来いよ! 足が棒になって折れるってほど案内してやるから! だから今日は、今日だけは──」 にじり寄るその勢いに、大介はたじたじだ。 「ど、どうしたんだよ」 「今日だけは──」 その場で押し倒す。 「わ、わかった! わかったって!」 激しく唇を奪う。 「んんん! ちょ、ペース、ペース! 駿って〜〜〜!!」 朝からいいようにされてしまった大介が、気だるげな目で振り返った。 「で? なんでシャワー浴びろって?」 汗だくで背中に覆いかぶさり荒い息を整えている駿を睨む。 朝一番の精を吐き出して冷静さを取り戻した駿は、さすがに少々後ろめたい。 「んー、きれいになったら、また一から汚してあげようかと……」 「おま……」 軽蔑の視線がものすごく痛い。 もう汚すなよと釘を刺してシャワーを浴びて来た大介を、豚肉たっぷりのコッテコテの焼きそばで迎え、機嫌を取る。 「食ってるかヤってるかのどっちかだな。まったく、高校ん時にお前に憧れてた女子に、このエロオヤジぶりを見せてやりたいよ」 弁明の余地もない駿は、黙って缶ビールを開け、大介のグラスについでやる。 蝉も鳴きやむ炎天の正午、どこかの軒先で風鈴がチリンと鳴る。通りにはわらびもち売りののんびりとした売り声。 わらびぃ〜もちぃ〜〜。大介がそのフレーズを反芻する。 「うちの方だと 『わぁ〜らびぃ〜〜もちぃ〜〜』 だよな」 「そうだっけ」 「もう忘れたのかよ」 「こっち来て五年目だし」 「……」 大介が箸を止め、上目遣いで探るように駿を見る。 不自然な沈黙が流れた。徐々に小さくなっていく振り売りの声だけが二人をつなぐ。 「……言い忘れてた。コバがよろしくって」 コバ……小林…… 「そう」 小林が気にかけてくれているとは思えない。 それが顔に出たか、 「あいつも、あの頃のこと、後悔してると思うよ」 そう言って、大介は残りの焼きそばを一気にかき込んだ。 駿は眉を寄せ、そして窓に視線を向ける。 突き抜けるような夏の空は、あの頃と何も変わらない。 「あいつ、寂しかったんだよ。ああ見えて、お前のこと頼りにしてたから」 「……」 確かに、少なからず対抗心は見せていたが、青年団に入らない宣言をするまで、小林は駿のことを決して軽んじることはなかった。ライバルとでも思っていてくれたのかも知れない。 そう、時間も空間も遠く隔たれた今なら、あの頃の彼らの気持ちを理解できる。もし逆の立場だったらと考えればまた…… 「俺だってそうだ。お前が急に遠い存在になった気がして……」 寂しかった……とうつむいた大介の言葉は素直に胸に響いた。しょっちゅうまとわりついていたのはそれでか。 「ごめん大介……俺、自分のことばっかで……」 もう恨むのはやめだ。ただし、二階堂を除いては。 「二階堂!」 その思い出したくもない社会科教師の名前に、大介が脊髄反射的に反応する。 「俺あいつ、大大大大大っ嫌いだった!」 青のりのついた箸を駿の顔に突きつける。 「お前よく当てられてたじゃん。そんで習ってないことでも平然と答えて。あれは本当に胸がスカッとしたな。そん時のあいつの顔ったら! クラス中が密かに拍手喝采で──」 駿の記憶とずいぶん違っている。 「特に三学期の期末! 重箱の隅から楊枝でほじくり出したようなあんなマニアックな問題出しやがって……」 大介は憤怒の表情でビールグラスを握りしめる。 「全クラスで90点台はお前だけだったってよ。次は畠山の70点台。畠山のやつ、生まれて初めてそんな点取って、ショックで学校休んだって知ってた?」 畠山は、当時駿と学年トップを争っていた隣のクラスの秀才だ。 「おふくろのPTA情報によると、学年平均は40点そこそこ。親からの突き上げで、校長教頭そろって散々だったらしい」 「へえ……」 「後輩の話によると、"大原vs二階堂の攻防" って、未だに伝説として言い伝えられてるらしいぞ。二階堂はその話になると、途端に機嫌悪くなるらしいけどな」 そんな大ごとになっていたとは…… 鼻息荒く話す大介を見ているうち、駿はなんだか無性に愉快な気分になった。 「で? 大介は何点だったんだ?」 途端、膨らみきっていた小鼻がシュンとしぼむ。 「聞くなって……おふくろにどやしつけられて泣きそうだったんだからよ。駿くんとこで一から勉強し直して来なさい!って。とんだとばっちりだよホント」 その情けない顔に、駿は声をあげて笑った。こんな爽快な気分は久しぶりだった。 「やっぱり出かけようか」 「へ?」 大介が驚く。 「いいのか?」 「ああ」 夢はもう十二分にかなった。それに、苦しかった時代を支えてくれた恩人の一人である大介の母親への土産とあらば、行かねばなるまい。 「ただし、自転車でね」 あけぼの荘には歴代の住人が置いて行った(捨てて行った?)住人共有の自転車が何台かある。それを拝借し、お盆で混雑する繁華街を二人してぶらぶらと散策した。 店を冷やかして回るのに疲れると、アイスを買って川辺に下りる。久しぶりのガリガリ君は懐かしい味がした。 しかし多少なりとも冷房の効いた部屋にいた二人に、外の暑さは思いのほか厳しい。目当ての物を買い込んでアパートに戻る頃にはすっかり汗だくになっており、「風呂入りてー」 という大介のひと言で、銭湯に行くことになった。 「やっぱ観光客多いな」 「そりゃあね」 ようやく陽の傾きかけたその帰り道、涼しげな植木鉢の並んだ家々の前では、そこここで家人が打ち水をしていた。裏路地にその観光客の姿はない。 「そういや、おふくろに、日本で一番有名な送り火見て来ないでどうするんだって笑われた」 大介はあけぼの荘と書かれた下駄でカラコロと歩いている。打ち水が起こした空気の対流が、汗を落とした肌を心地よくなぶる。 「送り火ならうちの花火が一番、だろ」 「そうか?」 「地元至上主義の大介が、珍しい」 「……だな」 駿の抱えた洗面器の中の石鹸がカタコトと鳴る。 少しの間黙り込んでいた大介が、思い切ったように口を開いた。 「俺、やっぱお前とは住めないわ」 「え!」 突然のことに、駿は立ち止まってしまった。 駿は以前からよく一緒に住みたいと話していた。その話が出るたび、確かに大介はのらりくらりとかわしていた。しかし、いきなりなぜ今そんな宣言を? 「な、なんでだ?」 「だってなあ……」 「い、いや、この街に住もうって言ってるわけじゃないぞ。大介の会社との中間地点くらいに、ちゃんとした部屋借りて──」 確かに通勤時間は長くなるだろう。それは最大のネックだ。卒業後も大学の研究室に残るつもりでいたが、なんならもっと大介の会社に近い民間の研究機関に……いやしかし、今の研究はどうなる……いやいや、大介と天秤にかけられるものなどこの世には……だけどせっかく教授も残れと…… 胸の内で悶絶する駿の横で、大介はポッと頬を染めた。 「……毎日あんな風にされたら……次の日、仕事になんねーし……」 え?! そっちか?! 「控えるから!」 通行人が振り向くほど大声で言ってしまった。 大介が苦笑する。 「違うんだよ。あんな風に、その……甘やかされたら俺……なんかいろいろと駄目になると思うんだ」 「駄目に?」 「うん」 大介は再びカラコロと歩き出し、駿も後を追う。 「俺さ、ずっと長いことお前に置いてかれてる気がしてたんだ。お前は三年間誰よりも努力して、目標の大学に合格して、そこで自分の好きな勉強して、自分の決めた未来に一直線に突き進んでて……その上一人暮らしして、俺の知らない世界で人脈広げて、知らない間に英語までしゃべれるようになってて……」 いや、某テストで多少いいスコアを取っただけで、それほどしゃべることができるわけではないのだが…… しかし大介は自嘲の笑みを浮かべ、未だ明るく照り映える夕空を仰ぐ。 「なのに俺ときたら、小学校の頃から一ミリも成長してなくてさ。就職も地元ってだけで決めて……気づいてたよな? 俺がお前の大学生活の話、聞いたことないこと。あえてそうしてるってこと」 もちろん、ずっと前から気づいていた。 「俺、知りたくなかったんだと思う。お前が、俺の知らない所で俺の知らない友達作って、俺の知らない間に一人成長してることを。自分が取り残されてることを……滑稽だよな」 「大介……」 「でもな、今は俺もちょっと変わった。お前がどんな生活してるのか、どんなことがつらくて、どんなことが楽しいのか、今は知りたいと思う。お前の友達と、お前について話してみたいと思うんだ」 「だったら!」 駿の反論を手で制し、 「そう思えるようになったのは、今の仕事のおかげなんだ」 大介は晴れ晴れとした顔でそう続けた。 「今の仕事、けっこうやりがいあるんだよ。別にこれがしたいって決めて入ったわけじゃないんだけど、先輩とか上司がさ、なんてーか、いいんだよ。みんな一生懸命で、一つの目標にみんなで向かってってるって感じ。キツイことも多いよ。自分が情けなくて泣きたくなることも。でもそれを見ててくれてる人が必ずいて、大丈夫だって言ってくれる。そうしたら、今は役立たずな俺だけど、これから役に立てるように頑張ろうって、そう思えるんだ」 だから俺、今は自分のことは脇に置いて、とにかくがむしゃらに突っ走ってみようと思ってる。とことん自分を苛めてみようと思ってるんだ。だからお前とは住めない。 大介は見たこともないようなキラキラした目をして、そう言った。 「それに……」 大介は早足で二、三歩先に進み、振り返って後ろ向きに歩きながら笑った。 「そうすればさ、少しでもお前に近づけるかも知れない。少なくとも今は、劣等感でお前の大学の友達に嫉妬したりはしない」 大介の背後には雄々しく立ち上がった積乱雲。その地上一万メートルにも及ぶ巨大な雲の塊は、夏の夕陽に縁どられて照り映え、分厚い雲間からは、オレンジ色の光の筋が幾本も地上に降り注いでいる。 立ち止まり黙り込んだ駿に、大介が不思議そうに歩み寄る。 「どした?」 「……寂しい」 「へ?」 「大介が俺の知らない大介になってる」 大介が笑う。 「あんだけ人の体好きに扱ったやつの言うことかね」 駿は拗ねたようにつぶやく。 「体だけじゃなく、心もみんな欲しい」 大介が呆れたように目を丸くする。 「手当たりしだい持ってってるくせに」 そこはもうあけぼの荘だ。 窓の外は未だ残照で明るいが、部屋はもう薄闇に沈んでいる。 風呂から帰るなり、大介は駿の首筋に鼻を埋めた。 「石鹸のいい匂いがする」 そのまま畳に横たわり、互いの体を強く抱きしめる。 自然に唇が合わさり、長いキスをする。 唇が離れ、最後まで絡んでいた舌も名残惜しそうに離れると、二人はもう一度強く抱きしめ合った。 「大介……」 「ん?」 「このままずっと抱いてたい」 大介は天井に向かって深い溜息をつく。 「あんまヤリ過ぎるとさ……」 「なに?」 「あっちでお前といる時、思い出して困ったことになりそうな気が……」 何を心配しているのやら。 「大丈夫。花火の夜は、うちは誰もいないから」 神様は意地悪だけど、うちの親はどんな時でも俺の味方だ。 「だから、二人っきりでいられるよ」 「花火はどうすんだよ」 「花火は音を聞くもんだ」 「お前、そればっか」 そうして二人してクスクスと笑った。まるで合言葉だ。 それは二人で積み重ねて来た、二人だけが知っている、二人だけの思い出。この先、どれほど駿が世界を広げようと、どれほど大介が地元や会社で濃密な関係を築こうと、それだけは誰にも侵されない。 「ということで、していい?」 「もうこの先一週間は勃たねえよ」 「俺は勃つよ」 大介は心底うんざり顔。 「秀才で絶倫って、なんかヤだ」 |