ため息は湯船に沈めて
前橋〜宮城県・松島 '11.04.29〜05.04

 むふふ、俺はなんて頭が良いんだ。
 世の中自粛と自粛と沈滞気味。しかし「うるせーバカヤロー」と沖縄などへ行っ
ても、思いっきり心解き放って遊べるほど俺の神経は太くない。
 それならいっそ東北へ行っちゃえば良いのだ。
 菅原の見舞いもできるし、再開した松島水族館をゴールに。荷物は極力減らして、
足りないものは買う。贅沢だが毎日宿にも泊まる。そうやって東北にお金を落とそ
う。
 まっ、といってもたいした金額にはならないが。そして行った先々で待ち受ける
光景に覚悟が必要なことも・・・。

 4月29日 まだ肌寒い早朝、いつものように棚用のエルボーを利用したお手製キャ リアーにザックを縛り付け、朝日に向かって走り出した。が、すぐにその結束バン ドがちぎれ、出発早々にトラブった。  ブロック塀に自転車を預けて修理していると、オナガが馬鹿にしたようにハンド ルに留まって酒灼けした声を上げた。  桃の木川サイクリング道路を走り、伊勢崎で県道2号前橋館林線に乗った。さらに 館林市のはずれで国道50号に乗り換えて、後はひたすら水戸を目指す。  走り出しておよそ50km、佐野インターを過ぎた「みかも道の駅」で最初の休憩。 ここまで3時間半。  まずまずのペースに気を良くし、佐野ラーメンで早めの昼食を取る。正確にはこ こは佐野市ではなく栃木市なので「しもつけラーメン」と呼んでいた。    まだ10時だが、早立ちで腹ぺこには一杯では足りないくらいだ。ちなみに味は佐 野ラーメンそのもので、あっさり醤油味、麺はモチモチとして美味かった。  小山市でビジネスホテル・ルートインが眼に入った。 今治の焼き鳥屋で相席した男が、午前0時以降にチェックインすると半額と言って いた。朝食が無料なのは俺も知っている。  この先役立ちそうなので「全国ここにあるぞマップ」をもらいに寄る。  カウンターのお姉さんはとても感じが良く、俺の旅の趣旨を聞くと快く情報をく れ、励ましと供に送り出してくれた。   今夜の宿はルートインにしよう。  筑西市で100km走ったことになる。スーパーに寄り、冷たいコーラを買ってベンチ で休む。  喫煙所を兼ねたそこはおやじたちが集まり、タバコを吸っていて臭い。  以前ならそんなことはこれぽっちも思わなかったのに、やめて6年も経つとこうも 変わるのか。昔ではあり得なかったが、最近ではアイスを買って食べたりもする。  居酒屋の帰り道、とんちゃんがタバコをやめたというのでご褒美のキスしようと 言ったが「ダメよ」と断られた。  「嫌よ」なのではない。「ダメよ」というのはしたくない訳でもないが、諸事情 により「ダメよ」なのだろう。ということは、そのうち「うん」という日が来るの だ。
 桜川市まで来ると屋根にブルーシートを被った家が突然増えた。 通りがかったばあちゃんに聞くとやはり地震のせいだった。水道も一週間止まっ たままだったらしい。  こんな情景を眼にすることは分かっていたが・・・。  気を引き締めて走り出した。  国道50号は水戸市で駅方向と県庁方向ふたつに分かれる。ルートイン水戸は遠回 りになる県庁方向にあった。  それでも初心貫徹というか、小山のお姉ちゃんに操立てというか、そっち方面に 自転車を走らせた。  前橋からおよそ140km、意外と簡単に水戸までたどり着けた。  震災で波打った道を車が大きく尻を弾ませて追い抜いて行った。  フロントに行くと部屋は空いていた。  「本日はGWですので・・・。」  ラッキー、何か良いことがあるんだと喜んだら、「6400円と割り増し料金になっ ています。」  ええっ、と思ったがもうこれ以上走りたくない。  通常より600円割り増しだが部屋にはキングサイズのベッドが置いてあり、他の ビジネスホテルよりも広くゆったりとしている。ロビーでコーヒーやパソコンが無 料。なんといっても大浴場があるのですべて許そう。  これから先いわきや福島、仙台にもあるので、言われるままに会員カードも作っ てしまった。    国道50号線は前橋が起点、水戸が終点になっている。今日はずっと前橋から○○ kmというポストを頼りに走った来たのだ。  それならこのあたりに何かそれを表すものがないかと県庁に行った。  人が出入りしているので俺も問題なく担当部署へ案内されるかと思ったが、今日 は祭日なので業務はなく、当然中には入れてもらえない。  え、じゃこの人たちは? 「震災の対策業務です。」と守衛さんが言った。  自分の無知さ加減に恥ずかしくなってすぐに退散した。  そういえば、県庁の周囲にもコンクリが盛り上がったりひび割れたりして、赤い コーンで制限された場所がいくつもあった。  隣の警察署に改めて国道50号について聞きに行く。  ちょうど退庁する女性がいたので聞いてみると、こちらは50号のバイパスなので 終点は水戸駅にあるということが分かった。  それにしてもこの女性はモデルのように長身美形で、こんな婦警さんになら逮捕 されたいと思った。いやいっそのこと、取り調べや拷問だって良い。
 4月30日 ウクレレビルダー・マコレレさんの工房は大工町にあった。きっと職人 さんの集まる街なのだろうと思ったが、その名とは真逆の歓楽街だった。  雑居ビルの階段を上がった元スナックという工房は大きな工作機械など無く、寂 しすぎるほどスッカラカンとしていた。  雑誌の記事がきっかけでウクレレを作り、それが面白くて会社を辞めてしまった という。今はアルバイトとの二股だというが何だかとても楽しそうである。  もっとゆっくりと話していたかったが、今日はいわき市まで100km走る予定だ。も ちろんダメなら途中の日立でも北茨城でも良いのだが、何となく気も急いて小1時間 ほどで辞去した。  今夜の宿を問われたので、決まっていないと答えた。  宿が決まっているとそれだけ行動の自由度が無くなってしまう。泊まりたいとこ ろで泊まる。それができなければ一晩中走れば良いだけだ。  国道6号を一気に北茨城まで走った。  道は段差や割れが増えてさらに走りづらくなった。うっかりよそ見をしていると タイヤを取られて転びそうになる。  東海村を少々緊張して通過。うかつにもこの原発はもう廃炉になったと思ってい たが、それは第1の話であって、第2は震災まで稼働していた。現在は冷温停止して いる。  北茨城市だ。先日、天皇皇后が崩れた港で祈りを捧げるのをテレビで見た。もう ここは紛れもない被災地どまん中にいるのだ。  緊張が走った。  川にさしかかると、屋根はあるが窓や戸からそっくりと抜けがらのような家が現 れた。  これが津波の仕業か。  しかし川から少し離れるとそんな家は見られない。わずかな地形によってずいぶ ん違いがあるのだ。  スーパーのバンチで腹ごしらえ、行動食としても食べやすく腹持ちの良い大福が 定番になってきた。  買い物のばあちゃんと話すと、復旧はまだまだ先だとあきらめ顔で言った。  小さな峠を越えるとあっけなくいわき市に入った。  橋の下、ヘドロで埋もれた川岸の一角で畑を耕してネギを植えているのが見えた。  復旧も確実に始まっているのだ。
 小名浜港に寄る。ここへは何度か来たことがある。  道は埃っぽく、いつもなら忙しそうに走っているはずの海産物を運ぶトラックも いない。閑散とした中、汽笛の代わりにがれきを撤去する作業車の音だけが響いて いた。  閉鎖中のアクアマリンで守衛さんが、群馬からボランティアバスが5台来ている と教えてくれた。  思わずそのバスに走り寄り、その中の一人にありがとうございますと言ったが、 言われた当人は何のことか分からずきょとんとしていた。  メヒカリを食べたことのある港の食堂は2階まで窓が抜けていた。船が陸にもち 上げられたり、傾いて船首から半分沈んでいる。  カメラを構えるのがはばかれる。  テレビで見たようながれきに挟まれた道を行くと、今日から再開と小さな商店の 窓いっぱいに「がんばっぺ」とあった。  シャッターを押すと、残照の向こうで笑顔が見えた。  いわき市は日本一広いので繁華街や行政施設の集まる平地区まで果てしなく遠く、 山を越え、トンネルを抜け、やっとのことでいわき駅前に着いた。  タクシーの運ちゃんに安い宿を紹介してもらったがそこは満員だった。頼みのル ートインや東横インもダメで、ルートインでは駐車場係のおじさんが心配してくれ た。  明日は雨の予報なので、できたら今夜はどこかに泊まりたい。  しかし、しばらくして、そのおじさんを見下ろす部屋が取れた。名前はチト恥ず かしいホテルパシフィコ。しかし一泊5000円で階上には人工だが温泉まであるのは うれしい誤算だった。  早速駐車場係のおじさんに報告に行った。  部屋にはファブリーズが置いてあり、うれしささらにアップ。着たきりのジャー ジやTシャツにこれでもかと吹き付けた。    風呂で楢葉町から避難しているおじさんと一緒になった。 「地震の時は最初は横に揺れて、次に立てに揺れて、最後は真下から大砲で撃たれ ているようだった。」  宿泊者にはこんな被災者と東電関係者とボランティアばかりのようで、エレベー ターで胸に線量計を着けた作業員に出くわしたりするとドキッとしてしまう。  自宅のがれきを片づけて来たというおじさんがため息をついて湯船に深く沈んだ。 それは俺まで息の詰まる重いため息だった。  がんばって下さいなんて言えない。  たいして力になりませんが応援してます。  テレビでは大勢のボランティアにあまり気味と伝えているが、そんなことはない らしい。  マスコミの報道と現地の実情にギャップがある。  
   5月1日 頭にタオルを巻き、マスクをかけて長靴をはいてというのがボランティ アの戦闘服だ。背中のザックにスコップを2個も縛り付けている猛者もいる。  各自がニックネームを書いたと思われるガムテープを腕に貼り付けているのは、 個人参加者が多いので、お互いが早くうち解けるように考えたアイディアなんだろう。  俺はただの旅人だが、家に帰って他人から尋ねられた時のために話を聞かせて欲し いと言うと、ボランティアセンターのタケダさんが登録やオリエンテーリング、保険 等詳しく教えてくれた。  「ここに来てだけがボランティアではありません。そちらへ避難された方もいるは ずなので、その人たちの助けになって下さい。」  彼女は話しているうちに何故か次第に涙声になった。  俺はこの手の状況が非常に苦手なので後ろ髪を引かれながらも立ち去ることにした。   今日は朝から3回も大きな揺れがあった。  このまま国道6号線を北上したいが原発のために通れない。楢葉のおじさんはサン ロクなら通れると教えてくれた。これは県道36号線のことかと思ったが、35号線はあ るが36号線はない。ホテルのフロントでもサンロクを行けという。  しかし警察に聞いても分からない。  後にこれは四ツ倉浪江線を、地元の人は海沿いの国道6号に対して山麓(サンロク) と呼んでいると知ったが、警察の勧めもあり山を越えて郡山で国道4号に乗ることに した。  5月2日 午前5時、ロビーのサービスコーヒーを飲み干して走り出した。  そうそう、このホテルもパソコンとコーヒーは無料がうれしかった。  寒い。  テレビでは6℃と言っていた。  今日は阿武隈山地を横断しなければならない。救いは最高地点でも標高600mとい うことだ。普段1500とか2000という数字を相手にしている俺から見れば朝飯前だ、と 思うことにしよう。  
 街外れから長い登りが始まった。しかし自転車を降りて押すというほどの急傾斜 ではないので助かる。たまに現れる地名のあたまには必ず「いわき市」とあり、こ れがあるうちは登りは終わらないのだ。  ときどき小さな集落抜け、散り始めた桜吹雪の中をゆっくりだが確実に標高を稼 いで3時間、とうとう長沢峠のドライブインに着いた。  これからは登りらしき所はほとんどないと分かりほっとして、HOT缶コーヒーを飲 んで人心地が着いた。  体力が回復すると、カッパのボタンを一番上までしっかりと留め、ペダルを勢い 込めて踏んだ。  郡山市もいわき市に負けずに広い。さらに3時間ほど走って、昼前にやっと郡山駅 前に着いた。  駅周辺は駐輪禁止でパトロールが目を光らせて見回っている。しかし俺のことは 見なかったことにしてくれ、おかげで爆発しそうだったボウコウの治安が回復した。  パトロールのおじさん、おばさんにはノーベル平和賞をあげたい。  国道4号線を走り、幸楽苑でラーメンギョーザの昼食。僅か2円のおつりの義援金 に礼を言われて恐縮する。  福島市まではほとんど平らな道だと励まされた。
中通りになる4号線沿いには震災の後遺症はほとんど感じられない。本宮市、二本 松市とゆるいアップダウンを繰り返し、最後に大きく下って福島市に着いた。  駅前では女子高生たちが義援金を呼びかけていた。 放射能対策だと、宿の窓は開閉できないように開閉レバーが取り外されていた。  今夜の夕食もスーパーの総菜や弁当。メニューもだいたい同じで寿司に唐揚げに ビール。難所越えもあったことだし、半額の文字を見つけるといつもより多く買っ てしまった。  今日もテレビから復興応援ソング「I love you baby and I need you baby ふく しま」が聞こえてきて、これがペダルを踏む後押しをする。  ふくしま〜が好〜き〜!  5月3日 う〜ん、また午前4時には起きてしまった。宿について夕飯までひと眠り し、食べたらまたすぐに寝てしまうのでしょうがない。  福島市は盆地の底にある。ということは昨日下って来たのだからやはり今日は登 るのだろう。しかし道は阿武隈川に沿って、どちらかといえばやや下り気味に北上 して走りやすい。  ギターを背負った自転車の女子校生を追い越す。しっかり練習するんだよと声を かけると、ハイと返事が返ってきた。  追いつかれたらカッコ悪いので思いっきり飛ばした。
 国見。このSAで車中泊したのは何年前だろう。  東北道に平行すると大きな弧を描いて道は登り、まもなく宮城県に入った。  長い下りで白石市街。温麺(うーめん)の看板にそそられるがまだ8時、店はまだ 開いない。  高速が渋滞しているらしい。それでここで降りる車が多いらしく、コンビニに入 ると、そこでもトイレ渋滞していた。  こんな時こそウンコは自粛して欲しい。 「地震の時すぐそこにいたんだけど、道が1mくらい波打って盛り上がったよ。」  甲斐犬を連れたおやじさんが言った。  道は確実に低い方へ、海へと向かっていると思うと次第に緊張してきた。  やがて標識に仙台空港という文字。車がおもちゃのように流された場所だ。しか しその方向を見ても高速道路が衝立のように立ちはだかっていて、おかげでそれほ ど悲惨な光景を見ずとも良いので、ある意味安堵しながら走っていた。  館腰駅前で地元のサイクリストに会った。彼は震災直後から写真に記録している と言いながらiPadでそれを何枚も見せてくれた。  周辺は夜になると流された車からガソリンを盗んだり、被災した家に忍び込んだ り、バイクの爆音が一晩中響く無法地帯となり、怖くて近寄れないとも言った。 「せっかくだから高速の向こうを見て行って下さい。」  やっぱりきたか。  そう言われたら断れず、意を決してハンドルを空港の方へ向けた。  高速をくぐるとドブ臭いにおいがした。あたりは一面の田園地帯だが、田も畦道 も河原の土手もみんな泥パックしたように黒く塗られて、埋もれた車が半分だけ覗 いていた。  グラウンドだった場所は廃車置き場になって窓のない車やつぶれた車が何台も並 び、今も一台が運ばれて来た。  中には何とも無さそうな車もあるが、これも潮を被ってダメなんだろな。  さらに海の近くまで行こうとも思ったが、やはり戻る方を選択した。
 大きなケースを牽いた観光客やスコップを担いでいるのはボランティアだろうか。 東北の一大拠点、仙台駅は多くの人々でごった返していた。  案内所に行くと観光客と避難して来た被災者で宿はどこも一杯と言っていた。幸 い俺は駅近くの一番安いビジネスが取れた。といっても一泊7350円は普段の俺なら 絶対泊まらない。  交番で南光台への行き方を教わる。気さくな婦警さんが身振り手振りを交えて教 えてくれるがイマイチ要領が得ない。 「自転車で行ったことがないから・・・。」  当然といえば当然だ。まあ、何とかなるだろう。  で、少し時間はかかったが1時間後に菅原の家に着いた。  晴子が驚いた顔で迎えた。 「なんでいるの?」  太ったな。 「永渕さんよりマシでしょ。」  目くそ鼻くそだ。  菅原家には浪江に住む晴子の両親や104歳のばあちゃんまで避難して来ていた。  被災時は散乱した家財に家の中でも靴を履いて暮らし、給水所まで水を汲みに 行ったりとそれなりの苦労があったそうだが、晴子が言うとあまりたいへんそう には聞こえない。 「あの時は毎晩飲んでたの。飲まなきゃやってられないってね。お父さんが遠く のてる酒屋まで自転車で行って。近所にも配って。」  しばらくして30km圏内に置いて来た車を回収に行った菅原や晴子のおやじさん や弟、それに誰だっけ・・・、とにかくみんな帰って来た。  菅原は表に変な自転車が止めてあったのできっと俺だと思い、顔を見てもさほ ど驚かなかった。  苦労して自力でたどり着いたというのに・・・。
 5月4日 国道45号線で松島を目指す。  まず仙台駅に行き、帰りの列車のチケットを押さえることにした。  カウンターのサワダさんは荷物が多いからと車両の端、荷物の置きやすい席を 取ってくれた。しかし手ぶらで行ったのに、なんでそんなことを知っていたのだ ろう。  昨日の婦警さんにも無事に南光台まで行けたことを報告すると喜んでくれた。  仙台市内を警視庁のパトカーが走っていた。  多賀城で突然被災した家が増えた。ある地域に固まっているのはこれも地盤の 関係なのだろう。  マンホールや歩道、橋は盛り上がって段差を埋める工事をしている。  被害を受けたスーパーの駐車場に出張販売のテントが並んでいたので、これは もう何か買わねばと道を渡った。  もう6日目になったジャージを履き替えたいが、店員さんはジャージが真っ先に 売り切れると言った。  言われてみると納得だ。  塩竃港の観光施設マリンゲートで復興祭りをしていた。物産店やパン屋、イタ リアンレストランが再開し、観光船も運行を開始した。  建物の所々にはまだ亀裂や段差もあるが、がれきの街の中でここだけ原色のの ぼり旗がはためいていた。  ヤケクソ的な感じがしないでもなかったが、ヤケクソだろうが何だろうが走ら ねばという決意が人々の表情に表れていた。  対岸にはテレビで見た屋根だけのかまぼこ工場があった。  海岸から見る風景はいかにも風光明媚という感があるが、入り江の奥深くはま だがれきとヘドロに埋め尽くされていた。  それでも松島は観光客が溢れ、震災などどこ吹く風というふうだった。  観光船の呼び込みや車のクラクション、子供の声など様々な音の飛び交う中を 縫って、とうとうゴールのマリンピア松島水族館に着いた。前橋からおよそ500km を走ったことになる。  ラーメン屋のおやじは店の中に1m以上も水が来て、昨日やっと開店できたと言っ た。
水族館に入ったがあまりにも込んでいて、落ち着いて見ることなんて不可能に 等しい。 水槽の解説は照明が当たらず暗くて読めない。じっと観察していると後から来た クソガキが前に割り込んだり、親父と間違えて手を掴んだり。  まあ、これも復興に役立っているなら今日は俺が我慢しよう。  ビールを持って少し離れた漁港へ行った。  防波堤の上に寝ころんで空を見上げるとカモメが急がしそうに飛び交っている が、すぐそこは海というのに船のエンジン音や汽笛が全く聞こえない。  潮風を肴にビールを飲むといつの間にか眠り込んでいた。  キャタピラーと船のエンジン音で目が覚めた。  漁船が沈みそうなほど竹竿を運んで来て、それを黄色い作業車が大量にくわえ て港の隅に積んでいる。  養殖筏の残骸の片付け作業だ。  復興の音が青空高く響いていた。
 サカキーの結婚祝いパーティーに参加しないので、会費をふたりの名前で義援 金にして、「受け取り」を記念に渡すことにした。  これは我ながら名案だと思った。  まず銀行に行くと、無税なのはこれらの義援金とずらずらっと名前の並んだ名 簿が渡された。ざっと5~60種の○○義援金があった。この中から選んで名前を書 き込めと言われたが、俺はすでに必要事項の書かれた用紙があると聞いて来たの だ。  トウホクカントウタイヘイヨウオキシンサイフッコウギエンキンとカタカナで 書いたり、その口座番号やらを書き込めと何だかメンドーくさいことになった。 「ごめん、郵便局に行く。」  そう言って銀行での寄付はあきらめた。  郵便局には数種だがすでに必要事項の書き込まれた所定用紙があった。その一 つを選んで名前と住所を書くだけだが・・・住所?  住所なんて知るか!  それではダメだと局員が言う。  寄付をするのに何故住所が必要なのだ。  匿名でもできると言う。  じゃ、それで。  匿名だと名前も書けない。  バカヤロー!それじゃ意味ないだろ。名前は書かせろ。住所って、何かを調査 でもするのか。テキトーな住所でも良いだろ。  局員がうしろの席のエラソーな男とひそひそ。  しばらくして、俺の住所を書くことで解決?した。
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