80年代、まだ日本中が熱かった頃、だれもが永遠の高度経済成長を信じて疑わなかった時代。海外からは美術品や文化がどんどん入ってきて一挙に日本の文化水準は上がり、自由経済を謳歌しておりました。そして、様々なブーム(今で言う萌え)が次から次に来たのでした。まだ日本人は右向け右の時代でそれがなんとも心地よいものでした。勿論、街にはコンピューターなどはなく、技術は機械という時代でした。若者はPOPEYEやJJを読み、流行のカフェやクラブに行くのでした。当時はやりの車は赤や青のファミリアXGでこの車は瀕死状態のマツダを救ったのでした。そして、チヨットおしゃれな人はゴルフに乗っていたものです。シルキー6のBMWはまだお金持ちだけのものでした。生活スタイルは、夏にはサーフィン、冬にはスキーそしてテニスと松任谷由美の歌どおりでした。下手でも良いのです、ただそれらしい格好をしていれば。そんな時代でした。今となっては?と思われるファッションも当時は輝いておりました。例えばIVYなんてファッションもまだばりばりでした。学生がルイヴイトン、ハンティングワールド、時計はセイコーのダイバーやお金持ちはロレックスを身に付けておりました。ギャルにはレノマのrバック、グッチの着せ替え時計等も流行りましたね。ファッションは縦じまのプルオーバーからBBやPOLOのボタンダウンシャツ、三つボタンのネイビーブレザー、ブラックウオッチのパンツ、ファラーのホップサック、リーバイス501、MA-1等々。シューズはトップサイダー、アディダスのカントリーORスタンスミス、その後LA GEAR、OFF THE WALL、コンバース、トレトン、リーボック、ケイパは着せ替え可能でしたね。なぜかクラブごとにスタジャンをそろえて群れをなして着ていました。個というものがまだあまりなかったように思います。しかし、流行には敏感でそれが先述のとおり快感であったのです。勿論、先端の人たちは違っておりました。おおよそ、今述べたブランドはダサイと言っておりました。例えばスニーカーはAVIA、ジーンズはピカデリー 等を渋くはいていたりしておりました。今の人との決定的な違いは心が熱いかという事につきると思います。確かにバブルかもしれませんでしたが何かに夢中になるあのパワーは今の日本人が忘れているものではないでしょうか!
今までの中であまりにも80年代の話が多かったものですから、この度80年代の熱い話を独立させここに記載してゆくことに致しましたのでよろしくお願いいたします。尚、古い文章はどんどん下に行くことになります。
今回はジーンズの話です。日本では70年代からEDWIN,ラングラーなどのジーンズ、型ではパンタロンというすそ広がりタイプが主流を占めておりましたがおしゃれな人はLEEやリーバイスのストレートを穿いておりました。どちらかといえばLEEのほうがメジャーでした。ベルトが通せるレザーパッチが独特で人気でした。コーディロィなども多くの人が穿いておりました。ところが80年代に入るとジェームズディーンと水野晴男が出てくるCMで一気にリーバイスが王様になりました。猫も杓子もリーバイス。基本は501ですが、ジップフライの502、伸び縮みしない505が人気でした。501の特徴は言うまでもなく洗うとワンサイズ縮むというもので新品のごわごわは洗えば洗うほどFITするというものでした。徹底的に洗いまくって渋くする人とあまり洗わなくてブルーのままが好みの人とで意見が別れました。後者のほうは海水に漬けると色が落ちにくくなるとかいう噂がながれてましたが、ガセネタでした。IVY好きの人たちは501のホワイトリーバイスを穿いておりました。値段は6-7千円だったと思いますが、学生は皆アメ横で5千円以下で買っておりました。それらはいまでは考えられませんが、全てMADE IN U.S.A.です。アメカジブームと相まって飛ぶように売れておりました。その後、DCなどが流行りだすとMFGが代表的なすそが細いペダルプッシャーと呼ばれるイタリアンジーンズが一世風靡しました。しばらくリーバイス対イタリアンの構図が続きましたが、いつのまにかイタリアンは世の中から消えてしまいました。またその時代、一部のマニアに穿かれていたのがインディアンマークのリベルトとピカデリー(共にフランス)でした。
今回はバイクの話です。といってもゼロハンと呼ばれる50ccの原付自転車の話をしましょう。80年代はたくさんの名車が発売されました。ロードパル対パッソルから始まった本田とヤマハのミニバイク戦争。上級車ではカレンとパッソ−ラ。その後、鈴木がべスパタイプのジェンマで参戦。なぜか川崎の50cc参入はこのときありませんでした。KH50なんてだせば売れたと思うのですが。そのスポーツタイプで人気はホンダのフォーストロークのCB50,対するヤマハはRD50やRX50で対抗。ホンダ2ストではONロードタイプのMB50やオフロードのMT50、これはマフラーから油が飛び背中につくという欠陥を持つバイクでしたが、そのクラスからかけ離れた車体の大きさがRX50と共に原付ライダーに人気を誇っておりました。ヤマハからは水冷のRZ50が鮮烈デビュー、鈴木はマメタンやハスラーTSがベストセラーとなりました。根強いファンを持つダックスホンダやゴリラ兄弟も忘れられません。本田は車も出していたので車に積めるモトコンポなんてのもシティと販売してましたね。その他、今では考えられないほどたくさんのバイクが当時発売されました。
今回はサーファーの話です。70年代後半くらいからサーフィンが若者の間で大ブームになりました。猫も杓子もサーフィンに夢中でした。初心者はお決まりの鵠沼海岸、ここは 足がつくほど浅く、コンスタントに波がくるので大人気でした。ちなみにギャルのギャラリーも日本一でしたのでナンパ目的の丘サーファー達も御用達でした。さてサーファーはどんなファッションだったのでしょう。まず髪型はおかっぱ頭。これはサーフィンのフィンが顔に当たらないようと言われてましたが...。それから口ひげ、今みたいに口の周り全体でなく、あくまでも鼻の下だけでした。服装はTシャツ、プルオーバー柄は縞々か花柄。パンツはファラーのホップサックやMFGのイタリアンジーンズ。またはカラーのすそがすぼんでいる薄手の綿パンツ。これはかなり流行りましたね。これらのアイテムは、今では見つけることが不可能です。シューズはアディダスのスニーカーやトップサイダーのデッキシューズ、エスパードリュ冬はワラビーやデザートブーツ。ビーチでの定番はやはりシンプルなビーサンです。サングラスはオークレーが大人気でした。時計はダイバーズウオッチで決まりです。それからウエットスーツは必需品でした。夏はシーガル、冬はフルと本格派は最低二着は持っていなければなりませんでした。 海に行かない日は映画を見たり音楽を聴いたり過ごします。映画はビックウエンズディ-やビックウエーブが定番、音楽はカラパナ、パブロクルースから流行りのポップスまで何でも聞きます。筋トレやスケボーもしてましたね。タバコはインドネシア産のガラムが定番でした。ファミレスなどでそのにおいがするとサーファーがいると店に入った瞬間に感知できたものです。あのパリパリという香ばしい音が何とも言えませんでした。薪ストーブや暖炉にいるみたいな感覚です。サーフボードはさまざまなブランドがありました。そして初心者は長め(2m以上)のシングルフィン、なれるとツインかトライフィン、フィンの数が多いほど、板の長さが短いほど小回りがききます。つまりベテランは短いトライフィンを使うことがほとんどでした。それはあくまで日本の小さな波の話でハワイなどではとても2m以下のボードでは波に乗れません。 海に行く日は朝5時には家を出ますので起きるのはまだ暗い中です。前の日から行くときがありますが、暗いうちから波もないのに海に入っていく輩もたくさんいました。何と言っても朝8時くらいまでがオフショアの良い波です。まあサイズが大きければいったん休んで再度海に入りますが、普通夏は波がなくなるとビーチでごろごろしておりました。 朝一で海に入りそのまま会社に通勤という強者もいました。初めてテイクオフできたときの感動は今でも忘れられません。海と一体になるあの感覚!すべていやなことを忘れることができました。とてもポジティブです。これはダイビングやスカイダイビングでも共通ですがやったことのあるものしかわからない感覚です。さて、しばらくはまっすぐ沖から砂浜に向かって乗るだけですが、次第に横に動けるようになります。そしてサーフィンの先を右左と操れるようになればもうベテランサーファーです。しかしスキーと違ってそれらは波次第という面があり、それがこのスポーツの難しさでもあり、楽しさなのです。街に帰り、日焼けした顔とちょっと大人になった気分で街を歩くのはとても心地よいものでした。
今回はラジオの話です。80年代はまさにまだ深夜番組花盛りの時代でした。オールナイトニッポン、セイヤング等々、皆勉強そっちのけで聞いてましたね。ながら族なんて言われてました。さて、その中でも特筆したいのがJOQR文化放送のMISS DJ リクエストパレードです。毎日、現役の女子大生が出てきて当時のヒット曲をかけまくってました。曜日によってパーソナリティが違っていました。僕は成城大学の千倉真理のファンでした。あのひとなつっこいしゃべり、そうやるっきゃないの流行り言葉は彼女の造語です。非常にポジティブでした。オープニングはドリードッツのあこがれミスDJでした。 イントロは小林克也だったと思います。久しぶりにあの番組、聞いてみたいです。千倉さんはかの千倉書房のご令嬢です。受験勉強しながら成城もいいかも何て考えた人がたくさんいたのでは!当時の成城はパワーがありましたね。ウオーターフロントの前は世田谷の暮らしがおしゃれの最先端だったのです。というわけでMISS DJ他に斎藤慶子や向井亜紀、川島なおみなんかもやってました。ノベルティでたしかダイバーズウオッチが当たるようでしたが、もらえませんでした。
今回はロックンローラーの話です。70年代にディスコフィーバーがあったことは有名でしたが、それと同時にロックンロールブームもあったのです。典型的なのが原宿の竹の子族とロックンロール族の対立です。同じ表参道歩行者天国で毎週日曜午後双方が仲良く?踊っておりました。ロックンロール族の音楽は60年代のオールディーズです。ファッションはへインズにリーバイスといった簡単なものから黒の革ジャン、革パンツまたまたジージャンにジーンズなどで髪型はリーゼントでした。女の子はポニーテールが定番です。ジーンズには鍵をたくさんつけてジャラジャラさせておりました。お店はペパーミントやアットザホップ、そして大御所クリームソーダです。どくろマークのこの店はTOO FASTTO LIVE、TOO YOUNG TO DIEとのキャッチフレーズで売り出しておりました。何かVANのFOR THE...みたいにね。彼等に好まれた映画はグローイングアップやアメリカングラフィティでした。なんと32年型フォードデュースクーペに乗っているツワモノもいました。アメグラのLPは今でも新鮮です。勿論、グローイングアップも良かったですが、今ではDVDとかになっていないため見れません。久しぶりに観てみたいのですが!確かシリーズで5,6作続いた気がします。ちなみにアメグラも2がありましたが、いまいちでしたね。日本の歌謡界でもザヴィーナスやアラジンなどがロックンロールを歌ってヒットを飛ばしておりました。その後、横浜銀蝿が出てきたのです。 古くなりますが、矢沢率いるCAROLは忘れられません。今でもその曲はシンプルで感動的です。もう一度だけ再結成してほしいのですけど、永ちゃん、ジョニ−大倉とけんかしてるみたいで無理そうです。
今回はトレーナーの話です。80年くらいにトレーナーブームが巻き起こりました。60年代にはVANの例のトレーナーが流行りましたが、その流れを受け継いでボートハウスというところが出したヨットマンを想定したトレーナーが爆発的人気となりました。店頭販売のみなので行列ができました。町をあるけば皆、ボートハウスのトレーナーを着ていました。あの小太りの社長、あれで一生分の利益を得たことでしょう。その他にもボートハウスクラブやCANOEなどなどトレーナーが売れに売れました。勿論。VANのトレーナーも、そうですVANはそのころラフォーレの裏あたりに路面店で復活していたのです。今も丸井など一部店舗では売られているようですが。またIVYリーグを中心としたアメリカの大学のトレーナーを着るのも流行りました。アメリカの人が日本にきてこんなに日本はハーバードの学生がいるのかと驚いたそうです。そのようなムーブメントが第二次IVY BOOMを巻き起こしたのです。ただ60年代と違いプレッピースタイルと言って、アメリカの大学入学前のやんちゃな予備校生がするちょっと崩れたIVY LOOKやFRENCH IVYという分野が特にはやったのでした。代表的なのがたとえばパッチワークの生地やIZODのポロシャツなどです。当時、婦人画報社の名著、TAKE IVYが復刊されベストセラーとなりました。当時の頭髪の特徴は短髪でもみ上げをすぱっと切り落とす、そうあのぼんちの髪型が典型的でした。さてトレーナーブームはその後、サーファーブームに合わせサーフブランドのトレーナーブームに引き継がれました。ゴッデス、タウカン、デュックブリューワー、オフショア等等です。先述のブランドも含めてニセモノも横行したこの時代でした。
今回はディスコの話。実はあまりディスコは詳しくありません。踊りが下手なのとあのうるさい中で話すのが苦手なのでした。それでも山の手の人たちが赤坂のビブロスやムゲンに行っていた頃、池袋のロサ会館にあったいくつかのディスコ、アダムスアップルやジャックアンドベティ、新宿のカンタベリーハウス、シンデレラ館、アップルハウス、ミルキーウエイ、クレージーホースなどに行ったりしました。はじめていくとプラスチックのメンバーズカードがもらえるのです。紙じゃないところが良いのでした。車の免許を取ると六本木のディスコ(そうマハラジャ全盛期の頃)にマジック、ナバーナ、ホテルアイビスの四階にあったラジャコートなどにもいったりしました。社会人になると日比谷の社会人ディスコ、ラジオシティに行ったりしましたが、やはりなじめませんでした。一方、ディスコとは違う感覚のクラブのはしりが出没し始めました。初めてダンスバーに通ったのが霞町のトウールズバーです。手に夜光スタンプが入場券でした。そこではじめて型にはまらない踊りを覚えました。そしてダンスフロアの流儀も。とても自分に合ってました。その後、有明にエムザができ、芝浦のゴールド、霞町にイエロー等々が出没。それ以降ディスコも完全にクラブに変わっていきました。
今回はカジュアル飲食関係。中学まではマックやロッテリア、ドーナツ屋などいわゆるファーストフード。普通の人にとっての外食はファミレスから始まったのではと思います。デニーズやすかいらーくそしてロイホが三大ファミレスでした。高校生になるとコーヒーで何時間も居座ってあれこれ夢話などをしたものです。おわかり自由がうれしかったですね。彼女と行くのはすかいらーくの兄貴分のYESTERDAYでした。湘南の茅ヶ崎の先の店は夜景がきれいでした。他にラマレやドルフィン、ヴィラベルデも定番でした。お土産の使い捨てライターがなつかしい。アンナミラーズはミニスカートで客寄せです!?広尾、青山、目黒(日の丸自動車の待ち場所)、渋谷のスペイン坂にも行きました。イタトマ、ジャックアンドベティというのも一時期ありました。渋谷にあったEATというCASH ON DELIVERYのカフェが好きでした。番外編は座間キャンプ内のレストラン、キャンプに知り合いがいたのでたまに行きました。通貨はドルなので事前に銀行で両替していきました。座間バーガーは大きさが圧巻です。また当時バーガーキングはここだけありました。 キャンプのクリスマスパーティは本当に楽しかったです。そこは本当にアメリカでした。さて、飲食の話に戻ると、西麻布のホブソンズができたときは冬でも行列ができました。生意気な店員にCUP OR CORN?と巻き舌で問い掛けられました!海外旅行したとき機内でPORK OR CHICKEN?と聞かれたのを思い出しました。サーティワンは日本の呼び方で、アメリカではちゃんとバスキンロビンスといいます。極めつけは仙川のベルエアガーデン、ストロベリーファーム!本当におしゃれでした。
今回はカセットテープの話です。70年代に入るとどの家庭にもカセットレコーダーが備わるようになりました。そしてラジカセとウオ-クマンが爆発的に売れるとカセット時代が到来しました。さてそのテープは基本は両面で60分、90分でした。120分は伸びやすいとの評判で会議録音や語学学習などの特殊な用途以外はあまり使われませんでした。さてグレードはどのようなものがあったでしょうか?一番安いものは通称ローノイズと呼んでました。まあ、メーカー品であれば特に問題はないのですがクロムテープよりは伸びやすいと言われてました。そのクロムテープは普通のカセットプレーヤーで聞けるものと専用プレーヤーでないと聞けないものがありました。勿論、聞こうと思えば音は出るのですが、プレーヤーのセンサーが削れるとの評判でした。そしてその上はメタルテープでした。イメージはクロムが銀、メタルが金といった感じです。音的には高音がメタルテープは良かった思い出があります。メーカー的にはTDK,SONY,MAXWELLが三大メーカーと言えるでしょう。後発でAXIAなんかもありました。さてライフスタイルはと言うと、ディスカウントストアで大量にブランクテープを買い込み、帰りにレンタルレコード屋に寄り何枚もレコードを借りてきます。その夜は徹夜でテープに落とし込みました。次の日からはラジカセで寝ながら聞いたり、車のカーステで音楽を楽しむことができたのです。だれでも自分の好きな曲を集めたマイベストアルバムを作ったものです。ガールフレンドにベストテープをプレゼントするのも粋でした。そうして聖心やフェリス、白百合の人も彼氏がヒップホップなどを聞いていると最初は難色を示すもののやがてラップファンになってしまうのでした。
今回は時計の話です。70年代にはカシオ等のデジタル時計が全盛時代でした。80年代に入るとサーファー人気で猫も杓子もダイバーズウオッチをすることとなりました。安いところではALBAが10000円くらいでロレックスもどきのものを作っていました。ただしベゼルは回転するもののほとんどかざりで直ぐ動いてしまいました。リュ−ズもねじ込みではありません。それでも50-100m防水を確保しておりましたから海水浴やプールでは問題ありませんでした。その上になると2-3万円のシチズンやオリエントそして永遠の定番セイコーのダイバーです。70年代にはセイコーの自動巻きダイバーがありましたが、こちらはクオーツでした。ベルトが黒のゴムでプロテクションなどもオプションでつけてましたね。これは200m防水で黒のタイプとベゼルが赤青のタイプがありました。ほとんどのサーファーやスキューバの人たちはこれをしておりました。そしてその上のクラスは舶来でタグホイヤーです。当初、この自動巻きや手巻きというものがありました。これは渋かったです。そしてその後クオーツでベルトがステンレスのものが発売されました。さて、次は最上のクラスです。なんと言ってもロレックスが一番です。GMTマスター、サブマリーナ、シードウエラーがありました。機能的にはシードウエラーが1000m防水でトップですがサブマリーナでも全く問題ありません。サブマリーナには廉価版の日付がついてないタイプがあります。どちらかというとGMTマスターはファッション性が優れています。ダイビング機能はだめです。後にセイコーでチタン製ダイバーウオッチ1000m対応というのが出ましたが、そのごつさゆえあまり売れなかったようです。
今回は車の話です。80年代の入門外車と言えばフォルクスワーゲンゴルフになるでしょう。何とか庶民にも手がだせる車でした。BMW320はまだ高嶺の花でしたからね。発売は76年ですが79年にバンパーがウレタンになったりとマイナーチェンジを続け83年にはGOLF IIにバトンが手渡されました。しかし本稿でこだわりたいのはやはり初代GOLFでしょう。ジウジアーロデザインのコンパクトカーは軽い車体と小気味良いエンジン、やや固めのシート、やや重めのアクセル及びブレーキペダルでヨーロッパを感じたのでした。そうですヨーロッパの匂いがするのです。思いのほか車内は広く、荷物もハッチバックでたくさん積めました。なんと言っても特筆すべきはその走行性能でしょう。スピードではなく高速での安定性。それはアウトバーンで鍛えられた成果の賜物です。 ヨーロッパでは勿論、アメリカでもラビットという名でベストセラーになりました。北米では大学の教授が好んで乗っていたそうです。 ハッチバックのスタイルは日本車に影響を与えました。ファミリア、ワンダーシビック、ミラージュ、カローラII等です。色はシルバー、ブルー、イエロー、レッド、グリーン、ホワイト、ブラックなどがありました。カブリオレもありましたが色は白か黒が多かったように記憶しております。最高のエンジンバージョンはGTIでした。グリルに赤ラインが入っておりました。ライトも四灯です。そんなゴルフに乗っている人は、例え日本車の高級車に乗っている人がいても、け、所詮日本車なんて言って自己満足に浸ることのできる車でした。それほどシンプルで味のある車でした。今ではほとんどその姿を見ることはなくなりました。
80年代の男性人の代表的ファッションは何といってもアメカジですね。 シンプルファッションの代表はへインズのTシャツとリーバイス501、もともとアメリカングラフティという映画の登場人物ジョンミルナーや理由なき反抗のジェームスディーンのファッション、つまり50’sや60’sからの伝統的アメリカンスタイルが流行ったのです。それでも時代に合わせダイバーウオッチをしてみたり、レノマのバッグを持ったりと 一点豪華主義なんて言葉もありましたっけ。冬はその上にMA-1が正しかったような気がします。そのようなファッションはPOPEYEやHOTDOG PRESSなどにお手本として記載されておりました。実際、そんなファッションはアメリカではあまりいなかった様な気がします。他にもTシャツはアメリカのキャンパスものやベースボールアンダーシャツ、ラガーシャツなどもみな着ていました。襟付きシャツのCHAMPはボタンダウンでした。またポロシャツも多かったですね。ラコステ、IZOD(アメリカ製ラコステ)、フレッドペリーとポロが三大メーカーでした。70年代のマンシングやハンテンはたまたアーノルドパーマーなどを着ているとださーと言われました。渋めな線ではゴルフのブラックアンドホワイトやフクゾーのポロを着ている輩もいましたね。偽物は論外です。
これからも80年代を熱く語り、情熱をささげていきますのでよろしくお願いいたします。