Home きらめく明日のために甲賀
   
ヒマラヤには世界一高い山があります。この山が誕生したころ いまの琵琶湖になる前の古い琵琶湖が甲賀(注)1にありました。鈴鹿山脈ができたのは、その後のことです。琵琶湖がいまのところへ移っていくと、山・緑・水といった自然に恵まれた甲賀に人々が多く住むようになりました。(注)1 甲賀郡域をいう。以下同じ。甲賀は「こうか」と呼んでいます。古くは鹿深、甲可、甲香などの文字があてられていました。甲賀の名前が初めて見られるのは、『続日本紀』天平十四年(七四二)二月庚辰の条といわれております。甲賀の由来には、いくつかの説があります。例えば「古代の帰化人鹿深族が住みつき、一族の名前、鹿深から転訛した「山深く、鹿がたくさんいる自然の状況から、鹿深となり、さらに転訛した」「鵠のいた処から、鵠処が転訛した。」雄大な鈴鹿山脈の南部、そのふもとから、太い二本の線が二度ほど相交って西に向って走っている。県下最長の野洲川(注)2と東海道即ち国道一号線である。この二本の線を背骨として、その両側に石部・甲西・水口・土山・甲賀・甲南・信楽の七町があり、甲賀郡という。(注)注3注2 総延長65.25km注3 岡田重信(甲賀郡農業協同組合長)大阪と名古屋のほぼ中間に位置し、その面積は五四八・一一ku。琵琶湖の八〇%に相当する広さです。県内十二郡のなかでは、一番広い面積をもっています。こんなに広い甲賀を「甲賀は滋賀県の一〇%」といわれています。一〇%に甘んじていないものもあります。これらが、甲賀の特色であるといえます。私の考えます甲賀郡は・・・つまり、自然的に違う場所にあり、違う土質を持つ地域が寄り集まった郡であるという点で、一致した甲賀郡、一本化された甲賀郡というよりも、一本の縄のように何本かのわらによって支えられた甲賀郡というイメージがあるわけです。このような寄り集まり、力強さが昔からの甲賀郡にあるわけです。注4
(注)4 中西保太郎(信楽町文化協会長)
甲賀郡民の団結力と力強さは、歴史にはっきりと刻まれております。一つには、甲賀武士(甲賀五十三家・甲賀二十一家で代表される豪族)の働きです。甲賀武士は、いくたびかの戦乱の世に、互いに固く団結し合いながら「甲賀の民が安心して生活できるよう」外敵の侵入と闘ってきました。織田信長に「甲賀をせめるには焼き打ちしかない」と、いわせたのは、その証しであります。そして各豪族は、一族の繁栄を永続させるため、継続者を定めず、一族のなかから適格者をそのつど選ぶといった、まさに共和制を取り入れていたのです。次には、天保一揆による農民の団結と日のべ十万日(約二七四年間)の獲得です。天保十三年(一八四二)秋、野洲郡・栗太郡農民と一緒に、総勢二万人が公儀検地の不正に抗議し一揆をおこしました。甲西町三雲・伝芳山上に「天保義民之碑」を建て、毎年十月十五日を慰霊祭と定め、先祖の遺徳をしのんでおります。多くの犠牲を払った一揆は、甲賀郡民の団結をより強固なものとし、その精神はいまも受け継がれています。

甲賀郡内の代表的地場産業は、陶器・薬・茶・酒であり、これら産業に必要な素材は陶土・薬草・茶の葉・米です。よい製品をつくるためには、陶器は陶土をよくこねること、薬は葉草をまぜること、茶は葉をもむこと、そして酒はキラリと光る良質米をつかうことです。そこで、甲賀郡民の気質や団結の方向づけを「こねて、まぜて、もむことによりキラリと光る」と考えたいのです。

天保義民之碑
 
(注)5 注5 川嶋昭吾(甲賀郡行政事務組合事務局長)「甲賀は一つ」これが、甲賀の課題解決に取り組む姿勢です。また、心のなかにある共通意識であり、連帯感を表す合い言葉にもなっています。
甲賀の地域特色を生かした広域的取り組みは、多くの成果をあげつつあります。例えば、消防、ごみ、し尿処理、滞納整理、郡有林管理、病院経営、休日急患診療所、農業、林業、有線放送なのです。
野洲川の朝焼け
 
面積548.11(うち耕地面積64.05キロメートル)人口(昭和61年1月1日現在 /118.591 世帯数(昭和61年1月1日現在)/31.106世帯 産業別就業者数(昭和55年)/第一次5.0210人 第二次25.085人 第三次21.780人 製造品出荷額等(昭和58年)/51.042千万円 年間商品販売額(昭和57年)/13.217千万円
 
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