このブログは、最初から続いています。最初から読まれてない方は、内容が続かない事が有りますので、是非、最初から読んで見て下さい。

[再び、上石津から那須へ]

8月1日に、仕事上のお客様で、上石津で見つけた「易」の名前を継いでいる小学校

からの友人の戸籍上の名前と同じ
名前の方がいたので、「実家は何処ですか」と

尋ねました。


この名前は平凡だけど、私のお客様の中には、2人しかいません。この名前の方に

尋ねたのは、この方が初めてでした。返ってきた返答は、「上石津」でした。上石津が、

住民の
多い地域なら分かりますが、山間の過疎地です。少し。期待していたけど、

まず「上石津」は無いだろうと思っていたの
で、返ってきた答えにビックリしました。

これだけなら、普通
の偶然です。私のは、ここから更に、直につながります。

のお客様から100mほどしか離れていないお客様で、あまり、この地域では見かけ

ない名前の方がいました。そして、
その日、2人目の、同じ質問です。「あまり、この

地域では無
い名前ですが、何処の出ですか?」と尋ねた所、「私は、嫁なので詳しく

は知らないけど、岡山県だと聞いています。」と、
言われました。横浜にも多くいるとも

言われました。そして、
「那須与一」の流れを汲み、昔は「那須」を名乗っていたそうです。

小豆島の墓に行った事が有ると話されました。
少し、寒気がしました。上石津と那須の

つながりは大神
(おおみわ)神社でもつながっています(「神道とサ神信仰」8/4と「関が原は、大いなる

幣懸」5/9と日光に隠された・・・」7/13と「龍宮神社にまつわ
る・・」1/2の記事参照)。

大神神社には「室の八島」と言うものが有ります。「那須」と言う名前にも驚きですが、

「那須与一」は、あまり良く知りま
せんが、屋島の戦いで名を馳せた弓の名手ぐらいは、

理解
していました。

「日光」「弓」、そして、「八島」「屋島」とのつながりはなんなのでしょう。

この「那須与一」を調べて見ることにしました。

[那須与一]

源義経に仕え、屋島での功績で、荘園を幾つか賜りました。

兄弟は、11人と多く、末っ子でした。宗隆(むねたか)と言い与一と言うのは、

11番目の子と言う意味で、十余り一と言う
意味から来ています。墓は、栃木県

の大田原市に有ります
が、分骨して島根県太田市と、頓原町に有ります。

学問的に、存在を証明するものが無いともされ、異説が多い人物です。誕生は、

栃木県の那須と推測されています。


那須の家督を継ぎ、上石津に近い、京都南部「山城国」で那須家の繁栄の基盤

を築いたとされます。


お客様の「小豆島へ墓参り」と言われたのは、どうも、与一の娘「那須カナ」の墓が

有る場所なので、勘違いされている
ようです。このお客様の話が聞かなかったら、

「与一」は、架
空の人物と決め付けていたでしょう。それほど、私には、出来過ぎる

話です。兄弟には全て、「隆」の文字が入って二文
字で構成されています。上石津で

繋がった、「易」の名を持
つ友人の名前にも「隆」の文字が入って二文字です。

この字
は、「リュウ」とも読みます。「竜」を意味している臭いがプンプンします。

イザナギ、イザナミの「国生み神話」は、「国の始まりは淡路島」から始まり、八の島

を造って日本を誕生させました。


小豆島の位置関係と、戦いの場であった「屋島」の位置は、淡路島の直近く。

那須の最も活動したであろう、山城国と、
上石津も、とても近い。

国生みの「八島」も、大神神社の「八島」も、「屋島」も、私の仕事場の所在の「八百島」

も、あまりにもハマリ過ぎです。


弓と言えば、大神神社に大黒様を祀り入れた祭主「太田田根子」。そして、那須(日光)

に繋がる弓の名手、藤原秀郷に
も繋がります。

墓の所在も、2箇所に「太田」か「大田」が入
っていて、これを、どう捉えれば良いの

か分かりません。
そして、その所在は、日光の近くと、出雲の近くに有る事も、私の中

では、とても怪しい。