「私」と「境界」と「宗教」についての考察
注:『この私』を固定した存在のようには読まないでください。ほとんどの箇所で、『この私』への方向性という言葉を使っていますが、そういった概念です。
2004.09.11 23:00 一部加筆・訂正
2004.09.12 7:00 一部追加・削除・訂正
削除した内容:そして『この私』という方向性は、仮想的に外部に貼り付けることも可能である。(後述する一神教と多神教の関係を参照)
「この私のこの心」が、「今・ここにいる」私によって考えられるとき、「今・ここにいる」私を離れて「この私のこの心」は存在し得ない。「心」の定義がどうであれ、「今・ここにいる」私が思い・考えるということを離れては存在し得ない。
それがいつ始まり、いつ終わるのか、どこから来て、どこに行くのかということは「今・ここにいる」私を離れることができない故に、想像の域を出ることができない。
そして、「この私のこの心」が、生命活動を行っている実体としての私(特に脳)と密接な関連を持っていることと離れては存在し得ない。私とは、そのようなものである。
観念論的に「この私のこの私のこの...心」を自己言及という点にまで相対的に極限化することは比較的難しくはない。一方、「この私のこの」心に境界を設定することは不可能であることも事実である。すなわち、「全宇宙」に「この私」が広がっているという概念すら否定されえない。(量子力学的にシュレーディンガーの関数を一元論として採択するならば、多世界解釈のもとで、「この私」と「全宇宙」との切り離しが不可能なことは説明可能。)
「この私のこの」心は、周囲の環境と密接な関係を保っており、「切り離す」ことは不可能なのである。それでいて個々に存在している。
「ともし火に我もむかはず燈もわれにむかはず己がまにまに」(光厳院)
「この私を考える『この私』」という自己言及に伴う上位概念に向かうとき、自由意志・自己決定権という概念は『この私』の「この私」に対する絶対優位性と対になって存在しうる。すなわち、「この私」の行く末を最終的に決定するのは『この私』であると。
『この私』という方向性は、「この私のこの」心を持つもの全てに共通して存在しうる。なぜなら、「この私のこの」心と『この私』は共に自己言及の両面に張り付いていて反対方向を向くからである。どちらが外でどちらが内とはいえない。
1.『この私』という方向性において、その極に対象物を想定したときに、神・悪魔・イデアという概念が発生すると考える。それら概念を共有化できるという幻影を共有化するところに一神教的宗教が存在する。すなわち、極限と思われるところに対象物を想定するので、共通の境界線を共有するという行為に他ならない。このような境界線の設定に伴う神の制約を取っ払うため、「語りえぬもの」としてさらに無限後退(無限上昇)という自己言及(否定神学)を持ち込むことで問題解決に奔走する一神教的宗教も存在する。しかし、そうしたところで、発生源に境界線の存在を暗黙の了解としているため、「真の」境界線の外側から見ることは想定されえないし、そういった存在は、「敵」ないし「悪魔」として認識されうる。したがって「神の国」と認識されうる領域は、外側にあるというわけでなく、境界(教会)の内にしか存在しえない。そこにおいては、生も死も「内側」であり、天国も地獄も「内側」である。「外部」があってはならないのである。民族のための宗教から出発しているために、他民族・多民族を含有しようとする外方への汎化・拡大は、当初強靭であった「神」の人格神的要素を次第に薄れさせる結果につながったと考える。
2.アミニズム的ないし多神教的宗教は、『この私』という方向性を「この私」を離れて、並列的に、複数のものに想定するときに、(重なり合う)境界を設定することで、それぞれの中心方向の極に神・悪魔・イデアという概念を設定しているといえる。この意味において、一神教的な概念が複数というより、『この私』の向かう方向性が反転している概念になると考える。
2−1.もし「この私」という「境界」の内側に確たる『この私』という方向性を持ち得ないとき、「この私」は、多数の『この私』を有する神的存在の境界の外側に位置するため、輪廻転生や天国・地獄を「境界の外側」に設定することとなり、境界の向こう側(彼岸)を希求することとなる。
2−2.もし「この私」という「境界」の内側に確たる『この私』という方向性を持ち得るならば、一方の極として境界が無限小の独我論に対応するであろうし、他方の極として境界が無限大の独我論に対応することになるであろう。すなわち、「この私」に対する『この私』の絶対優位性が、どういった範疇を含んで影響を及ぼしているのかという境界である。
多くの人々は、極限をとらずに、これら中間に位置し、時と場合によってその境界の位置をずらしていると考える。
上記2−1,2−2という状況は、別にアミニズム的ないし多神教的宗教を信じていなくても、日常的に起こりうることである。上記アミニズム的ないし多神教的宗教にて、「神・悪魔・イデア」というものを、「他者」に置き換えても、全体の文章はそのまま、「この私」と「あなた方」という内容になりうる。
すなわち、一神教的な世界観では、「この私」と『この私』の中心が同じであるのに対し、多神教的な世界観では、「この私」の境界線の内側には、確固たる『この私』が存在しない場合があり、そのときには、「この私」と『この私』の中心がずれる場合(2−1)がありえる。この場合、「この私」は、外部に強く依存し、外部の流れに流されてしまいがちな状況と同じである。
(04.9.12追加)多神教的な世界観を有する人が、一神教的なものを信じるときには、2−1というパターンになりがちだと考える。真の一神教信者は、おそらく2−1ではない。1に記したように、もっと強い『この私』を持っているはずである。このことは、牧師の子供であるユングの「ヨブへの答え」に如実に現れていると考える。
神戸連続殺傷事件のケースでの「神」が、どのケースに当たるのか興味深いところでは有る。
3.仏教的宗教は、これら「境界」を「あるのでもなく・ないのでもなく」としたところに成り立ちうる。
すなわち、「この世をもかの世をも望まない」(ブッダ)になると考える。
「この私」を規定する境界は、自在に動きうるものなので、想定する「私」によって、『この私』自身の状態も変化しうる。こういった(個人内部での変化を含む)変化は、どうして世の中にこれだけの宗教が生まれてくるのかの説明を可能足らしめるものと考える。
(04.9.12追加)一般的に言われる「(狭義の)自然と人間という境界」は、「この私」の境界の総和による境界(「私たち人類」の境界)になるだろう。この場合、各人の「この私」の境界(ありよう)が無限小から無限大にまで及ぶこともあるため、「(狭義の)自然と人間という境界」は、まるで電子雲のように暈ける。さらに言えば、実際に人間と(狭義の)自然との境界においては、両者が癒合し、切り離すことは不可能である。このことは脳と身体という関係においても認められる。
昨今、共感という言葉が流行しているが、境界の内側であれば、それほど問題なく共感しあえるであろう。しかしながら、非常に超えるのが困難な境界の向こう側と共感しあえるならば、何らかの問題解決につながるのかもしれない。
「境界を消し去る」のではなく、「境界を存続させつつ共感する」ということが重要なのではないだろうか?
「ともし火に我もむかはず燈もわれにむかはず己がまにまに」(光厳院)再記
2004.9.11
あの日から3年目
そして、わが子が生まれてから3年目の記念に記す。
。。。いまだ、「論」の域を出ず、
「情」と合致するのはいつの日か。。。
来生自然