自己と他との関係

(1と2は、中学・高校・教養時代の考察、3は現在:1998年ごろから2001年までの考察になります。)

存在について

1.自己の自己に対する存在

「われ思うゆえにわれあり」は、あまりにも有名です。
自己言及によって、自己が自己に対して存在しているのは、明白なようです。
小さいときに、自分というものの存在を、めまいを伴って感じるときに、以下のような思考ゲームをしていました。

きっかけは何でもいいのです。

たとえば、虫を見ています。
「虫を見ている自分」
と、思ったとたん、それは始まります。
「「虫を見ている自分」を考えている自分」
「「「虫を見ている自分」を考えている自分」を考えている自分」
...

同じようなことは、夢の世界でも体験します。

夢の世界で、怖い目にあっている自分を見ている自分。
そして、その怖い夢から覚めても、また、夢の中に居る自分。

2.自己の他に対する存在(一般論)

物理学的に「存在」を扱うとき、相互作用の有無が問題になります。
端的に言えば、時空の光円錐内部に存在するかどうかで、相互に存在するかどうかが、決定されるともいえます。
要するに、波動関数の重ねあわせを考えなければならない存在は、すべて、互いに存在しているのです。
人間の意志と、感覚と、思考とに関わらずです。
それらは、時空の流れの中で、どこかで多少なりとも影響を及ぼしあうのです。遠い過去かもしれませんし、遠い未来かもしれません。

中学生時代、「神の存在」について、考えたことがあります。

「ご利益主義的な神・仏の思想」が巷に氾濫していたことに嫌気がさして、考えたといってもいいでしょう。

「神が存在する」と、仮定する。
その神は、「唯一絶対神」だと、仮定する。
そして、万物にとっての「神」であると、仮定する。
その「神」が、何らかの作用を、ある集団に行ったと、仮定する。
すなわち、「願いをかなえた」と、仮定する。
そのとたん、その「神」は、他の集団にとって「神」では、なくなるかもしれない。

「神」が、もし、存在するならば、「じっと世の中を見据えて、何も行わない存在でなければならない」
と、その当時、上記仮定のもとで、結論付けていました。

3.意思の存在と、確率論と、量子力学

量子力学であまりにも有名な実験があります。
電子を一つ一つ飛ばしてターゲットに当てる実験です。
スリットがひとつのときは、なんら問題がないのですが、
スリットを二つにしたとたん、粒子と波の性質が現れるという実験です。
テレビでも以前、実験の様子が放送されていたので、見た方も多いはずです。

要約すると、Aという事象が次の瞬間にBかCかの状態を取りうるとします。その後、Dという状態に以降し、途中で、Bであろうが、Cであろうが、Dになったとたんに、その途中経過は、Dの状態に全く影響を及ぼさない現象があったとします。ただし、Dの状態とは、振ったさいころが停止するとか、私が50歳になるとかいった状態であって、1の目が出るとか、5の目が出るとか、白髪になるとか禿げるといったサブセットの状態ではありません。
それが、先の二重スリットの実験系なのですが、その場合、Dの状態のうち、サブセットの「ある状態」になる確率は、Bの経路を通った確率とCの経路を通った確率の相互作用によって決まるというのが、上記実験の結果です。

これは、動かしがたい事実です。

(Dの状態は、量子レベルで区別できない状態を言う為、上記喩えには無理がありますが、概念的な説明ですので、お許しください)
これを説明するのに、現在有力視されているのが、エヴェレット解釈(多世界解釈、パラレルワールド)の考え方です。(修正版などが考え出されているようですが、私の理解する範囲では、大筋では大差ないようです)

Bの経路を通るという宇宙(ワールド)とCの経路を通るという宇宙(ワールド)が波動関数の確率で分離し、Dの状態になったとたん、宇宙同士(ワールド同士)の重ね合わせが起きると言う説です。

もし、Bを通った後で、Dになり、Cを通った後で、Eになったなら、重ね合わせは生じないということです。
宇宙が分裂し、相互作用しない(すなわち、互いに存在しない状態に移行する)ということになります。

これをそのまま、人間の意志や、確率論にまで拡張すると、「こうしよう」とか、「やるぞ」といった意思力の力によって、未来は本当に変わるといえるでしょう。
でも、それによって影響される未来は、量子力学的な大きさ(というより質量エネルギー)と、時間の単位で決定される、わずかな量です。(不確定性原理:僞凾煤h:プランク定数)

(量子力学や、現在流行の脳の科学者の方々、誰か証明してくれー)
  ← ぷよさんが訪れてくれて、ぷよさんの掲示板で、議論になってしまいました。(2972番以降)

しかし、厄介なのは、このパラレルワールドを人間が認識することは、不可能だということです。

卑近な例をあげると、サイコロを振る行為で説明できます。
サイコロを振るまで、目の出る確率は、おのおの1/6ですが、目が出たあとの確率(事後確率)は1になります。

しかし、上記理論をそのまま解釈すると、サイコロを振って、たとえば、4の目が出たとたん、4の目を出した自分とサイコロのいる世界が選択されたというように考えることと、等価です。そして、後の5/6の確率を持つ、他の目の出る世界が存在しても、決して相互作用しないし、認知することは「不可能」ということです。

もし、これら6つの目の出る世界を全て認知することのできる「神」が存在したならば、その「神」からは、4の目が出た世界は、事後確率が1ではなく、1/6のまま、存在することになります。---(1)

そして、その「神」は、決して、これら世界に相互作用することができないのです

一つの世界と相互作用したとたん、他の世界は、その「神」には、認知不可能となる。
物理学的に相互作用する「神」は存在できない。

でも、認識するということ自体、物理学的に相互作用してしまっているので、(1)の段階で、このページで論じている「神」は、存在不可能となります。

上記思考実験は、「神」を否定しているのではありません。
『ここで生じる矛盾は、あくまで、「神」を人間が「認識しよう」とするために生じる矛盾である。』と仮定すれば、
『何ら問題なく、「神」は存在する』と思うことも可能です。(注)

----------
注:話が、中途半端でした。

「神」を汎存在的であると仮定し、かつ物理学的存在と相互作用し(ご利益など、何らかの影響を与えるということ)、人の考え出した「多次元解釈」の理論に従うという場合のみ、「存在し得ないと結論付けられる」のであって、上記3条件の何れかが該当しなければ、「存在可能」と結論付けられると思われます。

ちなみに私の場合、「もし存在するなら、いや存在すると考えようとするなら、『汎存在的でない』か、『物理学的存在物と相互作用しない』か、のどちらかである」という立場をとります。

※汎存在的 = 多数の人々にとっての「共通認識可能な」存在。
(←ごめんなさい、私の造語です m(_ _)m )
 ← 哲学のご専門の方、専門用語では、何というのでしょうか?

(2001.10.31)

-----------



また、興味深いことに、ゲーデルは、彼の完全性定理、不完全性定理の延長線上に、「神の存在」に関する、証明を行おうとしていたということです。
  高橋昌一郎: ゲーデルの哲学 「不完全性定理と神の存在論」 講談社現代新書
(2001.10.31更新)

存在の二元論的(二方向的)考察(2002.4.30)


2002.5.3

さて、ひっくり返したバケツの水をこぼさないようにするには、バケツではなく、閉じた容器にしてしまえばいいように思われる。
しかし、そうやって規定された「わたし」という存在は、結果的に「思考」(脳)によって規定されてしまい、「底が知れた」存在になってしまうような気がする。

「物質的」な意味での存在は、「わたし」を素通りして、究極の原子・クウォーク・質量エネルギーにまで分解可能であるゆえ、「底が知れている」様にも思われるが、
突き詰めようとすると、「不確定性原理」が出現してくる。
すなわち、「存在と時間」の相補的な関係*が頭をもたげてくる。

この場合、「意識」というものを「自然」から独立させて(二元論)とらえようとすれば、「コペンハーゲン解釈」に向かい、「意識」を「自然の中の一部」(一元論)としてとらえようとすれば、「エヴェレット解釈」(多世界理論)に向かう。
すなわち、物質的に突き詰めて考えようとすれば、「わたし」という存在を、避けて通れないということである。

以上、物質的な側面(こちら側は、得意分野^^;)からの私の考えであるが、「精神・こころ」の側面から突き詰めようとしたばあい、「わたし」による「わたし」の参照(自己参照)と、突き詰めようとするときに発生する「ことば」の記号的・論理的側面から、ゲーデルの不完全性定理は、避けて通れない問題となることは明らかであると考える。
すなわち、「自己参照するわたし」という突き詰められない問題が発生するように思われる。

さて。。。

物質レベルでの、「存在と時間」には、不確定性原理が関与していたが、それ以外のレベルでも、
たとえば、分子生物学レベルでは、構成する物質の入れ替わりが、
そして、細胞レベルでは、(主に上皮系にて)常に新しい細胞の分裂と死が行われており、「生命活動」そのものが「存在と時間」という概念と切り離すことができないといえる。

「物質的」には、それぞれの要素レベルでの、固有の大きさと、固有の時間で、「静かに」かつ「動的に」移り変わり、かつ、恒常性を保っていることによって、「わたし」という存在を成り立たせている。

一方、「精神・こころ」といった側面からの「時間」の概念であるが、これは、ハイデガーやキエルケゴールといった方々が持ち出された「死」という概念にたいする「時間」が、最も重要な概念になろうかと思われる。

(2002.5.3)

「存在と時間」の相補的な関係

不確定性原理は
僞冲≧h/2π
という式で表される。
これは、存在を突き詰めようとすると(僞→0)、無限の時間が必要になる(冲→∞)、という、「存在と時間」の関係を表す。
そして、非常に短い時間(冲→0)では、素粒子が生成しうる(僞≒h/2π/冲)ことをあらわし、「真空のエネルギー」の論理的根拠の一部を形成する。
ただし、その大きさは、湯川博士の中間子理論にても明らかなように、
中間子レベルの素粒子の質量が存在可能な時間は、核子の大きさの範囲を光が移動する時間であり、ほんとうに「僅か」な「質量と時間」でしかない。