現時点での、私の思考の主題、ならびに私の考えの基本を掲げています。
(常時更新予定)
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2002.1.7
神聖な存在について

2001.12.30
感情について。part 2

2001.12.12
現在の私の悩み
感情について
真理と矛盾について


2002.1.7

神聖な存在について

この概念については、過去(中学生時代)から思考してきていたが、インターネット上で会話をしていくうちに、「私にとって」さらに明確になってきた概念である。
特に、ここ数日の間に「のりどん」さんとの対話(哲学ごっこ、379-388)から、以下のようにまとめることが出来ました。
また、断固相殺会の落合さんから、超越論、超越論的という概念を教えていただいたゆえに、以下の思考を続けることが出来たと思っています。
落合さん、のりどんさんに、感謝の意を表します。

1.「存在」の定義を明確にすること
 「物理学的存在
 「認識論的存在」(現在、この存在について、主に思考している)
  <--- 「唯脳論的存在」ともいえる。
  当初は、「考えることによって」その人にとって「思考上」存在する対象物と、考えていた。
  (哲学的に正しい用語であるかどうかは不明)
2.<神>とは、「○○の神」と考えていくと、「物理学的存在」足りえない。
 何故なら、「人」に何がしかの行為・言動を為したとたん、「その人」に取っての「神」となり、「他のもの」に取っての「神」ではありえなくなってしまう場合があるから。
(←「民族紛争」「宗教戦争」が、何故生じるのか?という疑問から、思考した結論でもある)
3.上記思考を突き詰めていくと、(一神教的)<神>は、「何も為さない」「何も話さない」「現世利益」や「死後の保証」も何もかも一切為さない
4.論理的・無矛盾に上記思考を為していくと、一神教の<神>は存在不可能、ないし、上記1から3の思考を超えて存在する。すなわち、「認識論的存在」である。この時点で、「共通の神」は姿を消し、個々の人々の思考に、<神>の存在が依存することになってしまう。しかし、「価値観の多様性」の下に、問題をゆだねてしまうだけでいいのだろうか?
5.人々は、共通の思考パターンを有している。人種を超えて「神」の概念があるのはなぜか? それは、2の「○○の神」から「○○の」を取ったときに、どうしても残る概念を核としているのではないか?
6.「物理学的存在」ではない、「認識論的存在」である<神>は、純粋な「形而上学的存在」であり、「人智を超えた概念」として切り離してしまうことは、いとも簡単では在るが、種々の人々における、そのものに対する「思考ベクトル」は、まったく同一とはいえないまでも、ほぼ、同じ方向性を向いているようである。

ここでいう「思考ベクトル」は、「超越的」存在が、実際に(物理学的に)存在しようとしまいとに関わらず、「認識論的存在」として投影された(すなわち、人の脳の思考回路に投影された)段階で、対象物への「志向性をもつ思考」という意味です。
これは、「超越論的」な思考だと思われます。

対象物の有無に関わらず、この「思考ベクトル」の方向性を明らかにし、それが、人類共通の、ある幅をもった方向性であることを、皆が認識し、共有できれば、

すなわち、「神」が存在しようとしまいと、人はそういった思考を有しあう存在であることを、認識し、共有できれば、

現在および未来に、引き起こされ、あるいは引き起こされるであろう悲惨な事件に対して、ささやかな解決方法の一翼を担うのではないだろうか、という、ほんとうにささやかな願いを抱いています。

数年来にわたる私の思考の中断を解いたものは、奇しくも「9月11日」に生まれてきた我が子へに対する親の感情でした。


2001.12.30
「感情について。part 2」(一部改変、2001.12.31)

感情

爆発させぬまま
成長すれば
コントロールが効かないもの

虐待は
虐待されることが原因だと
認識されているように思われる
でも、これは間接的な原因でしかないと思われる
直接的には、虐待されることによって
自らの感情の爆発の
コントロールの仕方を知らぬまま
成長するが故の結果であると思われる

平和裏に成長する者たちは、
集団生活の中での
表立った争いを禁じられるゆえ、
感情のコントロールを失ってゆくのでは、ないのだろうか?
多量の「物質」に支えられた裕福な家庭環境と
「知性・理性」のみの教育は
「感情」の爆発に関する実地教育・訓練を失った状況下で
悲惨な事件を産み落とすように思われる。

その一方で
過去の壮大な歴史の上に立ち
自国がなければ他国がなく、
他国がなければ自国がないという、
当然の理論の途上にて、
生存のための争いは、
いつしか
欲望のための争いに変化していくようだ。

殺戮の中で成長する者の感情のコントロールは、
all or nothing(二者択一)となり、
歴史・民族・思想・宗教・等々の相違ゆえに
共存不可能なものであると見なし
目的のために手段を選ばないテロを産み落とすように思われる。

感情の抑圧によって発生する悲惨な事件と
方向が異なるにも関わらず
同じく悲惨な結末をもたらすのは何故だろうか?

大脳皮質が包み込む、旧皮質に存在すると言われる感情
「科学」が置き忘れた存在。
「理性」が「感情」をコントロールする
などと、うそぶいたのは誰であろうか?

人が生きている限り、
「感情と切り離された思考」が存在しうるのだろうか?
「感情が極端に抑制された思考」を「理性的な思考」
と、感じるだけではないのだろうか?

「和をもって尊しとなす」の思想が、
「平和ボケ」の日本としての自らの評価や
「旧態依然とした構造」としての負の評価の
根本を形成しているようにも思われる
しかしながら、
感情の抑圧と爆発が引き起こす悲劇を乗り越えて
人が目的とすべき社会は
結局は、
「和をもって尊しとなす」世界
ではないのだろうか?

この感情を軸とする矛盾を克服できるのは、
いつの世代の子孫たちであろうか?

未来に可能性を託すばかりではいられない。
「今」、我々に出来うることは、何なんだろうか?


2001.12.12

現在の私の悩み

人が争うのは、必然であり、避けがたい現象なのだろうか?

感情について

蓄積は徐々に起こり、
放出は急激に、凹凸不正に生じる。
ブレーキを踏みながら放出することは、
ストレスを発生させるが故、
更なる感情の高まりを生み出す。
感情の蓄積と放出は、幼少時からの経験によって異なる。
経験しない感情の蓄積は、放出の仕方を学ばないため、
困惑の元、多大な犠牲を払いつつ、行われる危険性を秘めている。
ある幼稚園(保育園?)では、感情の放出に関する、有意義な訓練を行っている。(←テレビ)
このような訓練は、人間社会で生きていくうえでの、必要不可欠な要素になっていくことと考える。

真理と矛盾について

真理を探究しているつもりで、自己矛盾を注意深く避け続けていたとしても、
互いに異なる見解を持つが故、平行線をたどり続ける人々が存在する。
このことは、個々の人の見解が、それぞれ正しく、それぞれが真理であろうことを示唆している。
一元論、二元論
唯心論、唯物論、唯脳論
同じ現象を見ている(論じている)にもかかわらず、解釈だけが異なっている。
自己が正しく、他は間違っていると論じることも可能であるが、
果たしてそうなのであろうか?
全ての見解を、その人々にとっての「個々の真理」であると見なすとき、
全てを統括しようとする野心にとっての真理は「矛盾を含む真理」となる。
しかし、そうすることで、議論が終わってしまったと錯覚する人々は、
「色即是空・空即是色」に虚無を見出すのと同じ論法に従っているに過ぎない。
注意深く観察したならば、ある共通の事項に気づくであろう。
それこそ、誤ることなく追求していくべき、人類共通の基盤となりうるはずである。(←確信犯)